病弱な第四皇子は屈強な皇帝となって、兎耳宮廷薬師に求愛する

藤原 秋

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本編

二十歳⑩

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 盆に乗せた水差しとコップのセットを寝台のサイドテーブルの上に置いた私は、眠るフラムアークの体温と呼吸とを確かめた。

 うん、問題ないわね。

 続いて脈を計っていると、ベッドの中のフラムアークがわずかに身じろぎして、ぼんやりと薄目を開けた。

「ん……ユーファ……?」
「あ、すみません。起こしてしまいましたか?」

 寝ぼけまなこをこする彼にそう詫びると、相手が私だと認識した彼はふにゃりと笑った。

「ああ、ユーファだ……ユーファ、一緒に寝よう」

 言いながら私の腕を掴んで、有無を言わせず寝台へと引っ張り込む。

「きゃ! ちょ、ちょっとフラムアーク様……」

 彼の上に倒れ込むような形になってあせる私を、ころんと自分の横へ転がしたフラムアークは、とろんとした眼差しでこうねだった。

「今日くらい……夢の中でくらい、一緒に寝てよ。いいでしょ……?」

 これは……完全に酔っているわね。夢と現実が曖昧になっているんだわ。

 甘えるようにこちらを見つめる彼を見やって、私は小さく息をついた。

 常識で考えれば即座に辞退、ただちにベッドから下りるべきところだったけれど、夢現ゆめうつつのフラムアークは今もしていて、放っておけばすぐに寝入ってしまいそうだった。

 ここは取り立てて騒がず、フラムアークが寝てからそっと抜け出すのが正解かしら……? 下手に拒否して彼を傷付けたくはないし。

 そう考えてじっと微動だにしない私を見て、自分の要望が受け入れられたと思ったらしいフラムアークは、整った相好を嬉しそうに崩した。

「へへ」

 そんな彼につられるようにして、私も自然と自分の表情が緩むのを覚えた。

 こんなことで、何て無邪気に喜ぶのかしら。

「オレ、今日頑張ったんだ」
「……そうですね。本当によく、頑張って下さいました」

 お酒が入っていない時に、改めてお礼を言いたいな。

 そう思った。

 さっきは感情が荒ぶっていて、気持ち良くフラムアークにお礼を言うことが出来ていなかったから。

 彼が私の為に―――兎耳族わたしたちの為に尽力してくれたことは、本当に言葉に出来ないくらい嬉しかったし、心の底から感謝しているのだ。

 それをきちんと、伝えておきたい。

 そんな私の心情を知る由もないフラムアークは、どこかあどけない表情で私に微笑みかける。

「だから、ご褒美かな? こんな夢……」
「ふふ。大袈裟ですね」

 そういえば、昔は度々一緒に寝てほしいってせがまれたっけ……。

 そんなことを懐かしく思い起こしていた私は、不意にすん、と首の辺りをフラムアークに嗅がれて、大いに面食らった。

「ユーファはやっぱりいい匂いだな……落ち着く……」

 きゃー! 今ちょっと、それはやめて! 一日の終わりで、一番不衛生な状態なのに!!

 酔いが回って頭がお花畑になっている彼とは違い、こちらは素面シラフに近い状態なのだ。当人には全く悪気のない辱めと紙一重の行為に、非常にいたたまれない気持ちになってしまった。

 お願いだからすんすんしないで……! 

 と叫ぶわけにもいかず、逃げ出したい衝動をぐっと堪えていると、フラムアークに背を引き寄せられて、彼の胸に抱き込まれるような格好になった。

「それに、あったかくて……柔らか……」

 私を抱き込んだままのフラムアークの呟きが、心地好さげな寝息の中に吸い込まれていく。

 ―――ね、寝た……?

 私はしばらく動きを止めて彼の様子を窺った。

 フラムアークが呼吸をする度、私の目の前をすっぽりと覆う広い胸がゆっくり上下している。彼の規則的な心音と温かな体温が思いのほか心地好くて、思わずまどろみそうになってしまい、私は困った。

 お腹いっぱいで程良くお酒も入り、今日一日の終わりを迎えようとしているこの時間帯に、この誘惑はきつい。ともすれば眠りにいざなわれそうになる身体を意志の力でどうにか制し、重い瞼を叱咤しながら頃合いを見計らって、なるべく静かに彼の腕の中から抜け出そうと試みる。

「ん……」

 腕を持ち上げたところでフラムアークの口から漏れた響きにぎくりとして、私は動きを止めた。

 まだ、早かった!?

 この行程をもう一度繰り返すのは正直辛い。どうにかこのまま起きずにすんでくれないだろうかと、息を凝らして彼の様子を見守っていると、うっすら開いたインペリアルトパーズの瞳とバッチリ目が合ってしまい、私は内心で天を仰いだ。

 これはちょっと、このままやり過ごすのは無理っぽいかしら……。

 自分の腕を抱えたまま固まっている私を見て、彼が何を思ったのかは分からない。

 物憂げにひとつ瞬きをしたフラムアークは、私に取られた腕をおもむろに伸ばすと、私の雪色の髪に触れ、ゆったりと梳くようにして撫でてきた。それから静かに顔を近付けて、私のおでこに自分のおでこをくっつけるようにする。

 すり、と一度合わせて離れ、今度は私の側頭部に自分の頬を寄せると、控え目にそっと押し付けた。

 こんな状態になっても冷静に状況を観察出来ていたのは、ひとえにアルコールの影響だと言える。お酒が入って、私自身の気の持ちようも大きくなっていたのだ。

 親愛の情を示すように何度か側頭部に頬をすり寄せられて、動物の愛情表現を連想していると、真正面にフラムアークの顔が戻ってきた。互いの鼻が触れ合ってしまいそうな距離でこちらを見つめるインペリアルトパーズの瞳に捉えられて、その引力に吸い込まれそうになる。

 間近で輝く、至高の宝玉のような橙黄玉の双眸。その煌めきの中に私がいた。

「やはり、夢……だな」

 誰に問うわけでもないフラムアークの独白が、夜の寝室にポツリと響く。

 どこか寂し気なその口調とは裏腹に、彼はとても幸福そうな顔をして、こうも言った。

「でも、それでもいい。幸せな夢だ」

 狂おしいほどの情熱がその瞳に灯り、ゆっくりと近付いてくる彼の端整な顔を、私はまるでスローモーションのように見ていた。我に返ったのは、近付いてきた彼の唇がそっと私の唇に重なった瞬間だった。

 一瞬だけ触れ合った柔らかな質感と熱に、私はサファイアブルーの瞳を見開いた。

 何もかも、全部が飛んで、思考が静止する。現実とは思えない出来事にただただ目を瞠る私に、フラムアークは柔らかく微笑んで、これまでに見せたことのない、男のつやを感じさせる表情でこう告げた。

「……好きだよ、ユーファ」

 それに呼応して、ドク、と、左の鼓動が大きく打ち震えた。

 これまでに何度も耳にしてきた言葉が、まるで別の意味を伴って鼓膜の中で反響し、心の奥の深いところまで揺らして、それまで自分の中にあった既存概念を崩壊させていく音を、私は呆然と聞いていた。

 人形のように動きを止めてしまった私に、フラムアークが再び口づけてくる。

 触れ合わせただけのさっきと違って、今度はしっとりと唇を重ねられ、リアルな質感にキスされている、とハッキリと感じて、止まっていた思考が動き出した。

「ん、待っ―――」

 押しとどめようとする私の言葉を遮るように、フラムアークは角度を変えて、強さを変えて、何度も何度も私にキスしてきた。

 それにされるようにして後頭部が柔らかなシーツに沈み、見上げた先には初めて目にする男の顔があった。

 ―――これは、誰?

 心臓を鷲掴むような艶を放つ、私の知らないフラムアークの顔。たぎるような熱情をその双眸に宿し、匂い立つような男の色香を纏って私を惑乱させる青年は、私の頬を両手でそっと包み込むようにしておとがいを上げさせ、止むことのない口づけを注いでくる。

 注ぎ込まれるそれが熱くて、これまで知らずにいた彼の深淵へと引きずり込まれていくようで、私はまるで縋るようにして彼の夜着を掴んだ。その滑らかで上質な絹の手触りが、私を更なる深い闇夜へとさらっていくようだった。

 待って。熱い。唇を塞ぐ貴方の熱も、身体を巡る私自身の熱も。

 控え目な香水の入り混じった男の匂いと互いから香るアルコールの残滓ざんしが私の鼻腔を妖しくくすぐり、嗅覚からも熱を煽って、私の意識を混濁させていく。

「んっ……ん、ふ……」

 自分のものでないような切ない吐息が耳をかすめる。大切そうに、愛しそうにキスを繰り返されて、心臓の鼓動で胸が破れてしまいそうだった。

 ―――何がどうして、こんなことに。

 絶えることのない口づけの合間に、私はそんなことを考えた。

 アデリーネ様は? あんなに、いい雰囲気だったのに。可愛い人だと、そう言っていたのに―――。

 ぐるぐると渦巻く思考を溶かすように、フラムアークの唇が私の唇を押し包む。静かな夜の闇に響く衣擦れの音とリップ音に、理性が突き崩されていくような気がした。

 私はどうして、されるがままになっているの? どうして抵抗する気が起きないの。

 逃がさないよう抱きすくめられているわけでも、きつく押さえつけられているわけでもない。

 ただ、顔を仰向かされて、情熱的なキスを受け続けているだけ―――……。

 きつく閉じた瞼の裏に、先程のもの言いたげなスレンツェの姿が浮かんだ。

 スレンツェ―――……あの時、何を考えていたの? 私に何か、伝えたいことがあったの―――……?



 どのくらいの時間が経ったのだろう。

 溢れ出るような熱情をひとしきり私に注いだ後、糸が切れたように深い眠りへと落ちていったフラムアークの傍らでまんじりともせずにいた私は、白々と明け始める夜をカーテンの向こうに感じて、彼の腕の下からのろのろと抜け出した。

 静かに眠るフラムアークの寝顔は見慣れた彼のそれで、今は可愛いとすら感じられる。蕩けるような男の色香を身に纏い、その熱で私を飲み込んだ男性と同一人物だとは、とても思えなかった。

 にわかには信じ難くて、今となっては夢だったのではないか、とさえ思う。

 でもあれは確かにフラムアークで、あの顔は今まで彼が見せてこなかった、男としての顔だった。

 私は震える指で自身の唇にそっと触れた。

 思い出すだけで、胸がぎゅっとしなるような感覚に陥ってしまう。

 あんな一面があったなんて、知らなかった。

 優しくて穏やかな人柄のその奥に、あんな―――あんな熱情を秘めていたなんて―――。

 その事実に、戸惑わずにはいられない。

 私はこれまでの彼に対する自分の認識を改めざるを得なかった。

 ―――男の人、なのよね……。

 身をもって、それを知った。知らされた。

 色々と考えなければいけないことはあるのに寝不足の頭ではとりとめのないことしか考えられず、私は混乱の残る胸の内を抑え込み、とりあえずわずかでも睡眠時間を確保する為、明け方のフラムアークの寝室をそっと後にしたのだった。
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