病弱な第四皇子は屈強な皇帝となって、兎耳宮廷薬師に求愛する

藤原 秋

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本編

十八歳③

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 自分の行動の是非を省みず、恥を恥とも思わない。そんな者が寄り集まった集団心理は、非常にタチが悪い。権力が絡むと、尚更だ。

 ―――ここ数日、私は小さな嫌がらせに遭っている。

 回廊ですれ違いざまわざとぶつかられる、出会い頭を狙って衝突される、外を歩いているとどこからか小石を投げつけられる。おかげで小さなあざだらけだ。

 これを仕掛けてきているだろう相手に大いに心当たりはあったけれど、腹立たしいのはこれを行っているのが当人達でなく、裏で手を回した人間を使ってやらせているということだ。

 私からすれば面識のない相手に突然ぶつかってこられたりしているわけで、警戒しようも防ぎようもなく、一方的にやられてしまう状況が続いている。

 小さな嫌がらせも積み重なると応えてくるし、こういうことは放置して収まるものではない。往々にしてエスカレートしていくものだから、早々に手を打つのが定石だ。

 これはそろそろフラムアークに相談しないといけないかしら……嫌だなぁ。余計な手間と心配を掛けさせたくないのが本音なのだけれど。

 そんなことを思っていた矢先だった。

 用事があって建物の外へ出た途端、上からバケツをひっくり返したような水が凄い勢いで私の上に降ってきて、避ける間もなく頭から盛大に引っ被ってしまった。周囲の人間を振り返らせるほど派手な音を立てて飛び散った水は、ひどく臭う。掃除に使われた後の汚水だ。

 ずぶ濡れになった私を、居合わせた人達がざわついて遠巻きに見やる。上を振り仰いでみたけれど、既にそこに人の姿はなく、歯噛みするしかなかった。

 かなり高いところから水を撒いたらしく、衝撃で首が痛いのと冷たいのと濡れて気持ち悪いのとはらわたが煮えくり返るのとで気持が忙しくなっていると、そんな私に卑しい調子の聞き覚えのある声がかけられた。

「あらあらお可哀想に、大丈夫かしら? とんだ災難だったわねぇ」

 言葉だけは気遣わしげに、レースのハンカチを差し出したそばかす令嬢の口元には、黒い笑みが湛えられている。

「お気の毒ね。こんな濡れ鼠になって」
「公衆の面前でこんな辱め、私だったら耐えられないわ」
「本当ね。ひどい臭い。私なら自殺ものよ」
「でもあなたは大丈夫よね、何と言っても目上の者に噛みつくくらいたくましいもの」
「己をわきまえないって、罪よねぇ」

 例のご令嬢達が勢ぞろいで、私を貶めに来たらしい。

 くすくす、くすくす。

 装いきらびやかに悪意を撒き散らしながら、臆面もなく偽りの親切を張り付けて、手を差し伸べる。遠巻きに見ている人からしたら、この場にいない第三者から嫌がらせを受けた哀れな亜人の薬師に、通りがかった貴族の令嬢達が優しく言葉をかけながら拭く物を差し出しているように見えるだろう。

 泣いても怒っても負けだ。毅然とした面持ちで、冷静に対処を―――。

 きつく唇を結んだ時、視界を覆うように頭から白い外衣が掛けられた。

 ふわりと鼻先をかすめたフラムアークの匂いが、優しく私を包み込む。同時に目の前に現れた広い背中が、私の姿を彼女達から覆い隠した。

「あれで大人しく引き下がれば、ユーファに免じて不問にしようと思ったが―――」

 ざめわく場に響いたのは、聞いたことのない、不穏な響きを孕んだフラムアークの声音だ。

 次の刹那、迅雷の如き叱責が彼の口から飛び、ビリッ、と空気を震撼させた!

「―――これが身分ある者のすべき行いか!? 恥を知れ!」
「ひッ」

 地に轟くような憤怒の響きに令嬢達同様、私も思わずビクッと肩を跳ね上げた。場が静まり返り、令嬢達が居竦む気配が伝わってくる。いつも穏やかで物腰の柔らかいフラムアークが、こんなふうに激しい怒りを露わにしたのは初めてだった。

「良家の令嬢が聞いて呆れる。とんだ暴挙に出たものだ」
「お、お待ち下さい、フラムアーク様。何か誤解を」

 青ざめた声を振り絞るようにして、そばかす令嬢が釈明する。

「私達はずぶ濡れになったこの者に拭く物を差し上げようとしただけですわ。そのようなお言葉をかけられる理由が―――」
「厚顔無恥も甚だしい。見苦しい言い訳が通用すると思うのか」

 にべなく切り捨てるフラムアークにそばかす令嬢は食い下がる。

「で、ですが……この者がずぶ濡れになった時、私達はこの場にいたのですよ。上から水をかけることなど、出来るわけがありません」
「そ、そうです。私達にそのような行為は不可能です」
「見ていた者も大勢いるはずです。その者達に聞いていただければ、私達の仕業ではないと分かるは」
「―――くどい! スレンツェ!」

 令嬢達の言い訳を遮ったフラムアークの求めに応じて、いつの間にか背後に控えていたスレンツェが後ろ手に拘束した男を一人連れてきた。それを目にした令嬢達の顔色が変わる。

「自分達の置かれた状況が分かったか? 実行犯と教唆きょうさした者が別であれば成り立つ単純な話だ。この場にいたことが潔白の証明になど成り得ない。他の案件についても証拠は挙がっている。言い逃れ出来ると思うなよ」
「……ッ!」
「宮廷薬師ユーファはこの私、第四皇子フラムアークが絶対の信を置く比類なき存在だ! 彼女を悪戯に貶めるような行為は私への不敬行為と受け取る! 貴女達の家長には私名義で正式に抗議の文面を送っておく、猛省するがいい!」
「……! そ、そんなっ……!」
「ウソッ……どうしたらいいの……!?」
「おっ、お父様に、叱られてしまう……!」

 軽い気持ちで始めた嫌がらせの思いがけない結末に、令嬢達は膝から地面に崩れ落ちるようにして、一様に泣き始めた。

 それを冷ややかに眺めやり、フラムアークは短くスレンツェに告げる。

「スレンツェ、悪いが後を頼む」
「分かった」
「―――ユーファ、行こう」

 振り返って私の肩を抱いたフラムアークの顔は、もういつもの彼の顔に戻っていた。

「フラムアーク様、お召し物が汚れてしまいます。それに臭いが……」
「構わない。ユーファが優先だ、早く身を清めて着替えよう」

 フラムアークはそのまま私を浴室へと連れて行くと、浴室係を呼びつけて湯船の用意をさせ、着替えや洗濯の手配を済ませてくれた。

「ゆっくり温まって落ち着いたら、オレの部屋まで来て。話をしよう」
「……はい。ありがとうございます」

 頷いて、ありがたく彼の厚意にあずかることにした私だったけれど、いざ湯船の用意が整って案内されると、今更ながらそこが皇宮内の浴室であることに気が付いて、恐れ多さに慄いた。

 フラムアークに連れてこられたのだから当然と言えば当然だけど、普段利用している宮廷勤めの者達用の浴場とは違い、絢爛豪華で、私のような者が足を踏み入れることが憚られる造りだ。

 これ、私が利用して大丈夫なの? 後でフラムアークが怒られたりしないかしら?

 そんな心配が胸をかすめたけれど、先程の堂々とした彼の姿を思い出して、出過ぎた杞憂だと思い直した。

 長衣ローヴは無残な状態だし、私はもう裸になってしまっていて、既に張られてしまったお湯ももったいない。何よりフラムアークの心遣いを無下にしたくない。

 洗い場で丁寧に身体を清めてから大理石の広い浴槽に張られた湯船に浸かると、冷え切った身体を包み込む湯の温かさにほっと息がこぼれた。

 ここは皇宮内にいくつかある浴室のうち、来賓用のものになるのかしら? 比較的こじんまりとした造りで、少人数で利用する為のものみたいだ。

 フラムアークが幼い頃から入浴に関する業務はスレンツェに一任しているので、私はあまりこの辺りに詳しくなかった。

 温かい……。

 目を閉じてお湯の心地好さに癒されながら、瞼の裏に再生される先程の出来事を反芻はんすうする。

 フラムアークの匂いを感じて、視界一面が彼の背中に覆われた時―――胸に込み上げてくるような、途方もない安堵を感じた。その背に縋りついて泣きたくなるくらい、嬉しかった。

 あれほど深い怒りを露わにしたフラムアークの姿は初めて見たけれど、彼の言葉は胸に来た。私を「絶対の信を置く比類なき存在」と言ってくれた。毅然とした対応を取ってくれた。

 ―――ずっと守ってきたつもりだったあの子に、いつの間にか逆に、私は守られるようにもなったのね……。心の中でももう「あの子」とは呼べないな……「あの方」と呼ぶべき存在へとフラムアークは成長したんだわ……。

 そんなふうに思いながら、あまりにもタイミングの良かった彼らの登場に、私に内緒であの令嬢達の動向を探っていたのだなと確信した。実際フラムアークもそれっぽいことを口にしていたし、二人が私に隠していたのはこのことだったのね。

 おそらく、ラウルに助けられた時のあの一連のやり取りをフラムアークは見ていたに違いない。そしてそれを気取ったラウルは「気配の消し方がイマイチ」と彼を評した。

 あの時はまるで気が付かなかったなぁ……。

 充分に温まってから浴室を出ると、着替えとして真新しい下着と清楚なミモレ丈のドレスが用意されていた。

 浴室係の仕事は完璧で、洗いに出したものから推し量ったであろう(そう考えるとちょっと恥ずかしい)下着のサイズもドレスのサイズもピッタリだった。

 軽やかな素材で作られた五分袖のミモレ丈のドレスは腰から下がふんわりと広がって動きやすく、白に近い優しい薄紫の色合いが素敵だ。鎖骨が少し見える程度の露出が控えられたデザインで、胸元にはふんだんにレースがあしらわれており、袖部分はシースルーのレース作りになっている。

 貴族の令嬢達が身に着けているような派手なものではなく落ち着いた印象なので、これなら宮廷内を歩いても悪目立ちはしなそうだ。

 脱衣場の外に控えていた浴室係の女性に深々と頭を下げてお礼を言うと、笑顔で礼を返された。

「いえいえ、いつもフラムアーク様には良くしていただいていますから。私達にも気さくに声をかけて下さって、感謝の意を伝えて下さるのはあの方だけです。こんなふうにお願いをされるのは初めてでしたから、腕が鳴りました。
そのドレス、よくお似合いですよ。では、お洗濯物は後ほど調剤室の方へお届けさせていただきますね」
「ありがとうございます、宜しくお願いします」

 こんなふうに気持ちの良い対応をしてもらえるのはフラムアークのおかげね。

 彼に仕えていることがまたひとつ、誇らしく思えた。

 先程までの陰鬱な気分が、嘘のよう。

 とても晴れやかな気持ちに生まれ変わって、私は初めてのドレスを身に纏い、足取りも軽くフラムアークの部屋へと向かったのだった。
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