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本編
十七歳②
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帝国西部のイクシュル領で起こった緊張状態は、しばらく続いた。
国境近くの盆地に展開された隣国アイワーンの軍隊は帝国に見せつけるように軍事訓練を行い、威嚇とも挑発とも取れる行動を繰り返した。
イクシュル領主のハワード辺境伯はアイワーン側に真意を質す書簡を送り、国境付近からの軍隊の即時撤退を要求したが、アイワーン側は自国内での軍事訓練に他国からの指図を受ける謂れはないと突っぱね、国境を挟んだ両軍のにらみ合いは続いた。
皇帝より派遣された皇太子と第二皇子率いる軍隊の逗留が長引く中、イクシュル領内ではちょっとした問題が起こった。待機が続く派遣軍内で次第に風紀の乱れが目立ち始め、厳格な人柄で知られるハワード辺境伯の不興を買ったのだ。
「こっちはハワードの要請に従い、わざわざ宮廷から辺鄙な地まで出向いてきてやっているのだぞ。こう幾日も動きがないのでは兵の士気も下がり続けるというものだ。少々の酒と天幕に女を連れ込むくらい何だというのだ、このくらい目を瞑ってやらねば、兵の意欲そのものが削がれて気勢を保てぬわ」
皇太子ゴットフリートはハワード辺境伯の諫言を取り合わず、自らも夜な夜な目を付けた娘達を閨へ呼ぶ始末だった。仲裁に立つべき第二皇子ベネディクトは、二人を上手く取り成せなかった。規律を遵守するイクシュル駐屯軍と規範意識の低い派遣軍内にはひずみが生まれ、不協和音が生じていった。
厳格な辺境伯と唯我独尊的な皇太子は元々あまり折り合いが良くなかったのだが、この件で二人の間には更なる亀裂が生じ、ひと月が経った頃、皇太子ゴットフリートはイクシュルからの撤退を宣言した。
「アイワーンはこちらを挑発してこの私を辺鄙な地に縛り付け、諸国に帝国の皇太子を意のままにしていると己の力を誇示したいだけだ。私は見世物になるつもりはない」
「お待ち下さい。ひと月もの間、挑発行動を取り続ける理由が解せません。アイワーン側には何らかの意図があると推し量るべきです。新国王バイゼンは血気盛んな人物との噂ですが、まだ得体が知れません。イクシュルは帝国の重要な拠点のひとつです、万が一のことがあってはなりません。共に手を携え合い、ぬかりなく防衛に心血を注ぐべきです」
そう進言するハワード辺境伯に皇太子ゴットフリートは不満を爆発させた。
「ひと月だぞ!? もうひと月もの間、何の動きもないこの辺境に私は押しとどめられているのだ! 帝国の皇太子たるこの私がだ!」
「お腹立ちはごもっともですが、防衛とはそういうものです! 貴方様は皇帝陛下の勅命を受け、その名代としてこの地にいらしているのではありませんか!」
「そうだ、父上の命でなければこんな所へ赴いたりなぞしない! こちらは私が出向いているというのに、アイワーン側は国王どころか名のある将の一人も出て来ておらぬではないか! 貴様の説教臭い妄言にもうんざりだ、アイワーンの軍事訓練を見守るだけのくだらん防衛なぞ、この私でなくとも務まる!」
「ゴットフリート様……! 皇太子である貴方様をこの地へ送られた陛下のお考えが、お分かりになりませぬか!?」
「私とて馬鹿ではない、父上にはきちんと理解を求めた上で行動に移す! 後任には小うるさい貴様の言うことを何でも聞く、操り人形にふさわしい者を送ってくれるわ!」
「ゴットフリート様……!」
こうして皇太子と辺境伯の話し合いは物別れに終わり、皇太子の横暴から後任に担ぎ出されることになったのが、第四皇子のフラムアークだった。
「阿呆だな」
事の次第を聞いたスレンツェの第一声はそれだった。
「阿呆だ阿呆だとは思っていたが、皇太子は想像以上の阿呆だということがよく分かった。皇帝が何の為に皇太子と第二皇子という二枚看板を早々にイクシュルへ送ったのか……辺境伯は気の毒だったな」
「領地視察の折に初めて会ったけど、ハワード伯は手厳しいが道理の分かる人物だったよね」
フラムアークの言葉に頷いて、スレンツェは複雑な語調を滲ませる。
「ああ。武功もある老練な人物だ。敵に回すと厄介な存在だった……」
「スレンツェ。昔、ハワード伯と見えたことがあるの……?」
ためらいがちに尋ねると、彼はフラムアークと視線を交えながら言った。
「苦い思い出だがな。フラムアークには少し話したな」
「うん」
かつて帝国と刃を交えたアズール国の王子であるスレンツェにとって、あの領地視察は旧敵を巡る旅でもあったのだ……そして今第四皇子の側用人として仕える彼は、その旧敵達と、今度は手を取り合わなければならない立場にいる。
スレンツェの立場の複雑さを改めて感じ、私は胸が詰まる思いがした。
「そんな顔をするな」
溜め息混じりのスレンツェにこつんと額を小突かれて、思わず言葉を濁す。
「だって……」
「領地視察の時に、オレの中では全部消化した。過去は過去だ。ハワード伯はフラムアークだけでなくオレにも礼節をもって接したよ」
私は会ったことがないけれど、スレンツェとフラムアークの話から見えてくるハワード辺境伯像は、厳格で礼儀を重んじる人物のようだ。
「領地の重要性においても人柄においても、ハワード伯は味方につけておくべき人物だ。突然の話で驚いたけど、この任務、やって損はないね」
「そうだな。だがこうなると十中八九、アイワーンは仕掛けてくるぞ。新国王バイゼンは狡猾な面を持ち合わせていると考えた方がいい」
「そうだね。狙いはやっぱりイクシュルの奪還かな? 問題はどこからどんな形で仕掛けてくるつもりなのか……皇太子達からの情報は正直当てにならないし、詳しい状況はハワード伯に直接尋ねるのが一番だろうな。オレ達はオレ達でイクシュル城と国境の門にある砦の図面、それと周辺の地図からあちらの動きを推察してその辺りの考察を練ろう」
置かれた状況を淡々と整理していくフラムアークは私が見たことのない顔をしていて、何だか別の人みたいだった。
フラムアークは、怖くないのかしら?
領地視察やこれまでの任務とは違って、これは出征―――しかも彼はそれを率いる立場になるのだ。実質的な補佐はスレンツェがするだろうけど、もしかしたら赴いた先で戦争になってしまうかもしれないのに。
「それと一番の問題は、オレと出軍することになっちゃう面々だね。どうやって連携を取っていこうかな……特に第五皇子のエドゥアルト」
フラムアークと共にイクシュル行きを命じられた弟のエドゥアルトは、現在十六歳。六人の皇子の中では一番飄々としていて、捉えどころのない人物だ。
皇太子と第二皇子の尻拭いをするような今回の任務に彼は不満たらたらで、「直下の第三、第四皇子で任務に当たるのが順当だろうが」と憤っていたらしい。
第三皇子は別件に当たっている為この組み合わせになったというのが表向きの理由だったが、本当の理由はそうでないようだ。
皇太子がハワード伯へ当てつけるように自分の後任をフラムアークにとごり押しし、それを何故か皇帝が了承した為、皇位継承順位がフラムアークより上の第三皇子をその下に据えるわけにもいかず、まだ十四歳に達していない第六皇子は領地視察が済んでおらず資格がない為、必然的に第五皇子エドゥアルトへお鉢が回ってきたという格好だ。
「皇帝は本当に何を考えているのかしら……どうして皇太子の横暴な要望を聞き入れるの? 叱りつけて、イクシュルにこのまま留まるように申し付ければいいじゃない! 重要な領地なんでしょう!?」
フラムアークと別れた後、調剤室でそう憤る私にスレンツェは言った。
「ハワード伯と皇太子の確執はそのまま常駐軍と派遣軍の間に深い溝を作っているんだろう。この状態では連合軍として充分に機能しないと皇帝は考え、刷新に踏み切った。人の親としては不適格者だが、オレ自身の経験と帝国内の領地を見て回った限りでは、君主としての手腕はある人物だと思う」
「でも、フラムアーク様は今まで軍を率いた経験がないのに。病弱を理由に、正規の剣術だって軍学だって学ぶ機会を与えられなかったのに! それをいきなり……!」
理不尽で、腹が立って、でもどうしてやりようもない自分の無力さに、目の奥がずんと熱くなってくる。
「そうだな。何も与えず、千尋の谷に突き落とすもいいところだ。重要なはずの領地をそんなフラムアークに任せる決断をした皇帝の腹の内はオレにも分からないが、だがユーファ、フラムアークは決して悲観していなかっただろう?」
確かに……確かにフラムアークはただ現実を受け入れて、それにどう対処すべきか、自分がどう立ち向かうべきか、この先のことだけを考えているように見えた。
「それは……そう、だけどっ……」
「阿呆の我が儘で降りかかった試練だが、フラムアーク自身はこれを前向きに捉えている。それはオレも同じだ。帝国の皇子として生きていく以上、自分が生きやすい環境を作る為には、あいつは戦って周りに己を認めさせていくしかない。どんな理不尽な状況にもぶつかっていくしかないんだ」
「そんな……」
フラムアークもスレンツェも、どうしてそんなに強いの? こんな状況で、どうして前を向いていられるの?
「怖く……ないの……?」
フラムアークの前ではとても尋ねられなかったことを、私はスレンツェに尋ねた。
「私は……私は怖い。あなた達が戦場へ赴くのかと思うと……もしかしたらあなた達が傷付くことになるのかもしれない、まかり間違えばここへ帰って来れないような事態にもなりかねない、そう思うと、その可能性を考えただけで身体が震える……!」
私は青ざめながらぎゅっと自分の長衣を握りしめた。
「それを考えると、怖くて怖くてたまらない……!」
「ユーファ」
「一緒に行けたなら、まだいい。同じ場所に立って、同じ感覚を味わって、あなた達が傷付いた時に私が手を尽くすことが出来るなら……! でも現実の私はここでただ待っているだけで、何も出来ないから! あなた達と行動を共にすることが許されないから! あなた達が苦しい時に、力になってあげられないから……!」
こんなことを言ってもスレンツェを困らせるだけだって、分かっている。けれど、一度口火を切ってしまった不安は止まらなかった。
胸に迫るのは、故郷を失った時の恐怖。大規模な自然災害で自分だけが生き残り、大切な人を失った―――これまでの日常から突然放り出されて、独り現実に置き去りにされる、例えようもない恐ろしさ。
何年経っても拭えない、私の心的外傷。
「どうして私は、一緒に行けないの―――……」
引き攣れるような声と共に、両眼から涙が溢れ出した。
「独りは、嫌。私も、行きたい。あなた達と一緒に、生きていきたいのに―――……」
子どもみたいにしゃくりを上げて泣き出してしまった私の背を、スレンツェが抱き寄せた。
額に触れる彼の硬い胸の感触。温かな体温。生きている、彼の鼓動が聞こえてくる。
「―――オレだって、怖い」
スレンツェの低い静かな声が、泣きじゃくる私の耳に流れ込む。
「軍を率いるのは十年以上ぶりだ。帝国軍は勝手も違うし、オレは異分子だ。フラムアークを上手くサポートしてやれるのか―――あいつの展望どおりに動いて、可能性を広げてやれるのか。あいつを守り通して、無事にお前の元へ連れて帰れるのか。自問ばかりだ」
私を抱きしめる彼の腕に、力がこもる。
「オレだって、もう、失いたくない」
私は濡れたサファイアブルーの瞳を見開いた。
そうだ―――スレンツェも私と一緒だった。ううん―――きっと失うものを見てきた光景は、失ってしまったものの数は、私より彼の方が、ずっとずっと多い。
「だから、頑張ろうと思う。せめてフラムアークの前では強くあり続けようと思う。虚勢を張り続けてでも、今度こそ―――失って後悔しないよう、この腕で守り抜きたい」
スレンツェも、失う怖さと戦っているんだ。フラムアークの前ではそれを包み隠して、いつもどおりに振る舞って見せているだけで―――……それに比べて、私は何て幼いんだろう。
年下のこの人の前で、私よりも多くのものを失ってきただろう彼の前で、不安を制御出来なくなって、荒ぶる感情をぶつけてしまった。
宮廷でただ待ち続ける私より、フラムアークの隣で矢面に立ち続ける彼の方が、ずっとずっと大変な立場だというのに―――。
「……ごめんなさい、取り乱して」
手の甲で涙を拭って、私はスレンツェから距離を取った。
「落ち着いたか?」
「ええ」
頷いて、けじめをつけるように正面からスレンツェの精悍な顔を見やる。
「嘆くばかりじゃ立ち行かないのよね……私は私に出来る方法で、あなた達をサポートする。二日後の出立よね。治癒力の高い薬をたくさん持たせるわ」
「その意気だ。初陣に臨むフラムアークを、オレ達で支えてやろう。ここからもっと多くの支える手が、あいつに伸びることを信じて」
そうだ―――私達はもとより、これはフラムアーク自身の戦いの幕開けなのだ。
「スレンツェ。必ず無事で帰ってきて。フラムアーク様と一緒に」
「約束する。……その時はまた、泣くんだろうな。腫れぼったい目になって」
からかうように長い指先で熱を持った瞼に触れられて、私はきまり悪く返した。
「嬉し涙はいいじゃない」
「ふ。そうだな」
スレンツェの微笑に、何故だか頬が熱くなる。
恥ずかしいところを見せてしまった自覚はあるけれど、私達の間に流れる空気は温かくて、決して気まずいものではなかった。
国境近くの盆地に展開された隣国アイワーンの軍隊は帝国に見せつけるように軍事訓練を行い、威嚇とも挑発とも取れる行動を繰り返した。
イクシュル領主のハワード辺境伯はアイワーン側に真意を質す書簡を送り、国境付近からの軍隊の即時撤退を要求したが、アイワーン側は自国内での軍事訓練に他国からの指図を受ける謂れはないと突っぱね、国境を挟んだ両軍のにらみ合いは続いた。
皇帝より派遣された皇太子と第二皇子率いる軍隊の逗留が長引く中、イクシュル領内ではちょっとした問題が起こった。待機が続く派遣軍内で次第に風紀の乱れが目立ち始め、厳格な人柄で知られるハワード辺境伯の不興を買ったのだ。
「こっちはハワードの要請に従い、わざわざ宮廷から辺鄙な地まで出向いてきてやっているのだぞ。こう幾日も動きがないのでは兵の士気も下がり続けるというものだ。少々の酒と天幕に女を連れ込むくらい何だというのだ、このくらい目を瞑ってやらねば、兵の意欲そのものが削がれて気勢を保てぬわ」
皇太子ゴットフリートはハワード辺境伯の諫言を取り合わず、自らも夜な夜な目を付けた娘達を閨へ呼ぶ始末だった。仲裁に立つべき第二皇子ベネディクトは、二人を上手く取り成せなかった。規律を遵守するイクシュル駐屯軍と規範意識の低い派遣軍内にはひずみが生まれ、不協和音が生じていった。
厳格な辺境伯と唯我独尊的な皇太子は元々あまり折り合いが良くなかったのだが、この件で二人の間には更なる亀裂が生じ、ひと月が経った頃、皇太子ゴットフリートはイクシュルからの撤退を宣言した。
「アイワーンはこちらを挑発してこの私を辺鄙な地に縛り付け、諸国に帝国の皇太子を意のままにしていると己の力を誇示したいだけだ。私は見世物になるつもりはない」
「お待ち下さい。ひと月もの間、挑発行動を取り続ける理由が解せません。アイワーン側には何らかの意図があると推し量るべきです。新国王バイゼンは血気盛んな人物との噂ですが、まだ得体が知れません。イクシュルは帝国の重要な拠点のひとつです、万が一のことがあってはなりません。共に手を携え合い、ぬかりなく防衛に心血を注ぐべきです」
そう進言するハワード辺境伯に皇太子ゴットフリートは不満を爆発させた。
「ひと月だぞ!? もうひと月もの間、何の動きもないこの辺境に私は押しとどめられているのだ! 帝国の皇太子たるこの私がだ!」
「お腹立ちはごもっともですが、防衛とはそういうものです! 貴方様は皇帝陛下の勅命を受け、その名代としてこの地にいらしているのではありませんか!」
「そうだ、父上の命でなければこんな所へ赴いたりなぞしない! こちらは私が出向いているというのに、アイワーン側は国王どころか名のある将の一人も出て来ておらぬではないか! 貴様の説教臭い妄言にもうんざりだ、アイワーンの軍事訓練を見守るだけのくだらん防衛なぞ、この私でなくとも務まる!」
「ゴットフリート様……! 皇太子である貴方様をこの地へ送られた陛下のお考えが、お分かりになりませぬか!?」
「私とて馬鹿ではない、父上にはきちんと理解を求めた上で行動に移す! 後任には小うるさい貴様の言うことを何でも聞く、操り人形にふさわしい者を送ってくれるわ!」
「ゴットフリート様……!」
こうして皇太子と辺境伯の話し合いは物別れに終わり、皇太子の横暴から後任に担ぎ出されることになったのが、第四皇子のフラムアークだった。
「阿呆だな」
事の次第を聞いたスレンツェの第一声はそれだった。
「阿呆だ阿呆だとは思っていたが、皇太子は想像以上の阿呆だということがよく分かった。皇帝が何の為に皇太子と第二皇子という二枚看板を早々にイクシュルへ送ったのか……辺境伯は気の毒だったな」
「領地視察の折に初めて会ったけど、ハワード伯は手厳しいが道理の分かる人物だったよね」
フラムアークの言葉に頷いて、スレンツェは複雑な語調を滲ませる。
「ああ。武功もある老練な人物だ。敵に回すと厄介な存在だった……」
「スレンツェ。昔、ハワード伯と見えたことがあるの……?」
ためらいがちに尋ねると、彼はフラムアークと視線を交えながら言った。
「苦い思い出だがな。フラムアークには少し話したな」
「うん」
かつて帝国と刃を交えたアズール国の王子であるスレンツェにとって、あの領地視察は旧敵を巡る旅でもあったのだ……そして今第四皇子の側用人として仕える彼は、その旧敵達と、今度は手を取り合わなければならない立場にいる。
スレンツェの立場の複雑さを改めて感じ、私は胸が詰まる思いがした。
「そんな顔をするな」
溜め息混じりのスレンツェにこつんと額を小突かれて、思わず言葉を濁す。
「だって……」
「領地視察の時に、オレの中では全部消化した。過去は過去だ。ハワード伯はフラムアークだけでなくオレにも礼節をもって接したよ」
私は会ったことがないけれど、スレンツェとフラムアークの話から見えてくるハワード辺境伯像は、厳格で礼儀を重んじる人物のようだ。
「領地の重要性においても人柄においても、ハワード伯は味方につけておくべき人物だ。突然の話で驚いたけど、この任務、やって損はないね」
「そうだな。だがこうなると十中八九、アイワーンは仕掛けてくるぞ。新国王バイゼンは狡猾な面を持ち合わせていると考えた方がいい」
「そうだね。狙いはやっぱりイクシュルの奪還かな? 問題はどこからどんな形で仕掛けてくるつもりなのか……皇太子達からの情報は正直当てにならないし、詳しい状況はハワード伯に直接尋ねるのが一番だろうな。オレ達はオレ達でイクシュル城と国境の門にある砦の図面、それと周辺の地図からあちらの動きを推察してその辺りの考察を練ろう」
置かれた状況を淡々と整理していくフラムアークは私が見たことのない顔をしていて、何だか別の人みたいだった。
フラムアークは、怖くないのかしら?
領地視察やこれまでの任務とは違って、これは出征―――しかも彼はそれを率いる立場になるのだ。実質的な補佐はスレンツェがするだろうけど、もしかしたら赴いた先で戦争になってしまうかもしれないのに。
「それと一番の問題は、オレと出軍することになっちゃう面々だね。どうやって連携を取っていこうかな……特に第五皇子のエドゥアルト」
フラムアークと共にイクシュル行きを命じられた弟のエドゥアルトは、現在十六歳。六人の皇子の中では一番飄々としていて、捉えどころのない人物だ。
皇太子と第二皇子の尻拭いをするような今回の任務に彼は不満たらたらで、「直下の第三、第四皇子で任務に当たるのが順当だろうが」と憤っていたらしい。
第三皇子は別件に当たっている為この組み合わせになったというのが表向きの理由だったが、本当の理由はそうでないようだ。
皇太子がハワード伯へ当てつけるように自分の後任をフラムアークにとごり押しし、それを何故か皇帝が了承した為、皇位継承順位がフラムアークより上の第三皇子をその下に据えるわけにもいかず、まだ十四歳に達していない第六皇子は領地視察が済んでおらず資格がない為、必然的に第五皇子エドゥアルトへお鉢が回ってきたという格好だ。
「皇帝は本当に何を考えているのかしら……どうして皇太子の横暴な要望を聞き入れるの? 叱りつけて、イクシュルにこのまま留まるように申し付ければいいじゃない! 重要な領地なんでしょう!?」
フラムアークと別れた後、調剤室でそう憤る私にスレンツェは言った。
「ハワード伯と皇太子の確執はそのまま常駐軍と派遣軍の間に深い溝を作っているんだろう。この状態では連合軍として充分に機能しないと皇帝は考え、刷新に踏み切った。人の親としては不適格者だが、オレ自身の経験と帝国内の領地を見て回った限りでは、君主としての手腕はある人物だと思う」
「でも、フラムアーク様は今まで軍を率いた経験がないのに。病弱を理由に、正規の剣術だって軍学だって学ぶ機会を与えられなかったのに! それをいきなり……!」
理不尽で、腹が立って、でもどうしてやりようもない自分の無力さに、目の奥がずんと熱くなってくる。
「そうだな。何も与えず、千尋の谷に突き落とすもいいところだ。重要なはずの領地をそんなフラムアークに任せる決断をした皇帝の腹の内はオレにも分からないが、だがユーファ、フラムアークは決して悲観していなかっただろう?」
確かに……確かにフラムアークはただ現実を受け入れて、それにどう対処すべきか、自分がどう立ち向かうべきか、この先のことだけを考えているように見えた。
「それは……そう、だけどっ……」
「阿呆の我が儘で降りかかった試練だが、フラムアーク自身はこれを前向きに捉えている。それはオレも同じだ。帝国の皇子として生きていく以上、自分が生きやすい環境を作る為には、あいつは戦って周りに己を認めさせていくしかない。どんな理不尽な状況にもぶつかっていくしかないんだ」
「そんな……」
フラムアークもスレンツェも、どうしてそんなに強いの? こんな状況で、どうして前を向いていられるの?
「怖く……ないの……?」
フラムアークの前ではとても尋ねられなかったことを、私はスレンツェに尋ねた。
「私は……私は怖い。あなた達が戦場へ赴くのかと思うと……もしかしたらあなた達が傷付くことになるのかもしれない、まかり間違えばここへ帰って来れないような事態にもなりかねない、そう思うと、その可能性を考えただけで身体が震える……!」
私は青ざめながらぎゅっと自分の長衣を握りしめた。
「それを考えると、怖くて怖くてたまらない……!」
「ユーファ」
「一緒に行けたなら、まだいい。同じ場所に立って、同じ感覚を味わって、あなた達が傷付いた時に私が手を尽くすことが出来るなら……! でも現実の私はここでただ待っているだけで、何も出来ないから! あなた達と行動を共にすることが許されないから! あなた達が苦しい時に、力になってあげられないから……!」
こんなことを言ってもスレンツェを困らせるだけだって、分かっている。けれど、一度口火を切ってしまった不安は止まらなかった。
胸に迫るのは、故郷を失った時の恐怖。大規模な自然災害で自分だけが生き残り、大切な人を失った―――これまでの日常から突然放り出されて、独り現実に置き去りにされる、例えようもない恐ろしさ。
何年経っても拭えない、私の心的外傷。
「どうして私は、一緒に行けないの―――……」
引き攣れるような声と共に、両眼から涙が溢れ出した。
「独りは、嫌。私も、行きたい。あなた達と一緒に、生きていきたいのに―――……」
子どもみたいにしゃくりを上げて泣き出してしまった私の背を、スレンツェが抱き寄せた。
額に触れる彼の硬い胸の感触。温かな体温。生きている、彼の鼓動が聞こえてくる。
「―――オレだって、怖い」
スレンツェの低い静かな声が、泣きじゃくる私の耳に流れ込む。
「軍を率いるのは十年以上ぶりだ。帝国軍は勝手も違うし、オレは異分子だ。フラムアークを上手くサポートしてやれるのか―――あいつの展望どおりに動いて、可能性を広げてやれるのか。あいつを守り通して、無事にお前の元へ連れて帰れるのか。自問ばかりだ」
私を抱きしめる彼の腕に、力がこもる。
「オレだって、もう、失いたくない」
私は濡れたサファイアブルーの瞳を見開いた。
そうだ―――スレンツェも私と一緒だった。ううん―――きっと失うものを見てきた光景は、失ってしまったものの数は、私より彼の方が、ずっとずっと多い。
「だから、頑張ろうと思う。せめてフラムアークの前では強くあり続けようと思う。虚勢を張り続けてでも、今度こそ―――失って後悔しないよう、この腕で守り抜きたい」
スレンツェも、失う怖さと戦っているんだ。フラムアークの前ではそれを包み隠して、いつもどおりに振る舞って見せているだけで―――……それに比べて、私は何て幼いんだろう。
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「……ごめんなさい、取り乱して」
手の甲で涙を拭って、私はスレンツェから距離を取った。
「落ち着いたか?」
「ええ」
頷いて、けじめをつけるように正面からスレンツェの精悍な顔を見やる。
「嘆くばかりじゃ立ち行かないのよね……私は私に出来る方法で、あなた達をサポートする。二日後の出立よね。治癒力の高い薬をたくさん持たせるわ」
「その意気だ。初陣に臨むフラムアークを、オレ達で支えてやろう。ここからもっと多くの支える手が、あいつに伸びることを信じて」
そうだ―――私達はもとより、これはフラムアーク自身の戦いの幕開けなのだ。
「スレンツェ。必ず無事で帰ってきて。フラムアーク様と一緒に」
「約束する。……その時はまた、泣くんだろうな。腫れぼったい目になって」
からかうように長い指先で熱を持った瞼に触れられて、私はきまり悪く返した。
「嬉し涙はいいじゃない」
「ふ。そうだな」
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