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Beside You 2 ~君の居る場所~
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マウロからレウラの丘へは、成人女性の足で半日程度の距離だという。
老齢のシュリのことを思えば、その倍はかかると考えた方が無難だろう。
そう踏んだガラルドは、レウラの丘へ繋がる森の手前で一泊し、翌朝その問題の森へ入り、障害があればそれを排除した後、目的地にて約束の時刻を待つという計画を立てた。
行く手を阻む『霧』については、何の手掛かりも得られないままだ。
地元では『霧の神が憑いた』などと噂されているが、そんなものはいるわけがない。自然現象ではないようだから、何者かが何らかの目的を持ってこの状況を引き起こしているのだろうが、その目的が分からなかった。
レウラの丘は貴重な薬草の宝庫としてマウロの薬師達に重宝されていたようだが、それ以外に特筆すべきものはないようだったし、それを何者かが独占して売りさばいているような形跡もない。
レウラの丘へ行けなくなったことを地元の者達は残念に思っている様子だったが、元々薬草の栽培が盛んな町だったから、それで生活に大きな影響が出たということはないようだった。
森の中へ入らない限りは特に危害を被ることもない為、住民達の間では既に、『触らぬ神に祟りなし』という概念が出来上がっているようだ。
この状況を引き起こしている存在の目的が、いったい何なのか―――。
不気味ではあるが、めぼしい情報が何もないのだから、対策の立てようがない。現地へ行って、直接自分達の目で確認するしかなかった。
「森を、通っていくんだ……」
昨夜ガラルドからその話を聞いたフユラは、そう言って見るからに浮かない顔になった。
「小さい森だし、通るのは昼間だ。いつまでもガキみてぇなコト言ってんじゃねーぞ」
「ま、まだ何にも言ってないじゃない。何よ、普段はガキガキって言うクセに」
母親の呪術が解けるまではそうではなかったのだが、いつの頃からか、フユラは極端に暗い森を怖がるようになってしまっていた。十三歳になった今でこそ泣きはしないものの、夜の森ではガラルドの側を離れられない。彼女的にはずっと彼の手を握っていたいところなのだが、拒否されてしまうので、森の中で野宿する時などは、彼の外套の端っこを握りしめて眠りにつくこともしばしばだった。
「シュリさん、張り切っているね」
レウラの丘へと続く平坦な道を歩きながら、フユラがシュリに声をかけた。木製の杖をつきながら歩く老婆の足取りは、いつにも増して軽やかだった。
「目的の場所まで、もうすぐだからね。ようやくたどり着けるんだ、張り切りもするさ」
「……水を差すようだけどな、絶対にたどり着けるとは限らないぜ」
ガラルドのその言葉に、前を行く女二人がぐりんと振り返った。
「えっ? 何で!?」
「何故だい?」
「やるだけのことはやるって言ったがな、それが達成できるかどうかはまた別の話だろ。オレ達の力量を上回る件だった場合は、ババアにはわりぃが、引き返させてもらう。命あっての物種だからな」
「ガ、ガラルド」
戸惑いの声を上げるフユラの胸元は、下着で少しだけ強調されて、その存在を控えめに主張している。そこを意識的に見ないようにしながら、ガラルドは連れの少女にこう告げた。
「オレ達には目的がある。ここで死ぬワケにはいかねーだろ」
「それは、そうだけど……」
昨夜目にしたアヴェリアへの地図を思い出して、フユラは言葉を飲み込んだ。
彼女の中では無敵に近いイメージになっているガラルドだったが、その彼を凌駕する者は、確かにこの世に存在する。それを、彼女は身をもって知っていた。
口にこそ出さないものの、その最悪の場合を彼が想定に入れていることを知って、フユラは少しだけ緊張感を覚えた。
「まぁ、それは本当に最悪の最悪の場合だ。多分そういうコトにはならねーだろーがな……」
「―――あぁ、それで構わないよ」
意外にも穏やかな声で、シュリはガラルドにそう答えた。
「先の短い年寄りの願望に、そこまでお前さん達を付き合わせようとは思っちゃいないさ……。でも多分、大丈夫。このブレスレットが導いてくれる……そんな気がするんだ」
「シュリさん……」
「だと、いいがな」
そっけないガラルドの反応に、フユラが溜め息混じりの声を上げる。
「もぉガラルド、まーたそういう言い方―――」
「練習相手が来たぞ、フユラ」
「え? あ!」
ガラルドの視線の先を追って上空を見上げたフユラは、こちらを目がけて飛んでくる巨大な飛行物体に気が付いて、慌てて腰のロッドを構えた。
薄曇りの空に浮かぶ、家ほどの大きさもある凶悪な影―――逆巻いた栗色の羽毛が特徴的な肉食の巨鳥、ラーガだ。
辺りに背の高い樹木などが一切ない、平坦な道の続くこの平原は、どうやらこの巨鳥にとって絶好の狩場だったらしい。
「任せたぞ」
大振りの剣を抜き、背後にシュリをかばいながら、ガラルドが言う。射程距離の遠い敵に関しては、実戦経験の意味も兼ねて、フユラに任せるようになっていた。無論、状況によってはガラルドが助けに入る。
「……うん!」
フユラが頷いた直後、ゴウッ、と唸りを上げて、ラーガの鋭い鉤爪が襲いかかった。
「わっぷ……!」
横に飛んでその一撃をかわしたものの、風圧になぶられ、フユラがよろめく。ガラルドに抱えられるようにして安全圏に逃れたシュリが、心配そうにその様子を見守った。
「フユラは、大丈夫なのかい?」
「まぁ見てろ」
獲物を捕えることに失敗したラーガは、一度上空に舞い戻った後、フユラめがけて再び急降下してきた。肉が硬そうな青年と老人の組み合わせよりは、柔らかそうな少女の獲物に狙いを絞ることにしたらしい。
「簡単に、食べられると思わないでよっ……」
そう呟きながら、フユラはラーガの第二撃をかわした。今度はよろけなかった。
先端に小さな宝玉の付いたロッドを手に、精神を集中させる。背の中程まである、緩やかに波打つ銀色の髪が、風ではない力でふわりと揺れた瞬間、ロッドで素早く宙に呪紋を描き出すと、その紋様が緑色に輝き、弾けた。
解き放たれた風の刃が、急降下してきていたラーガの両翼を直撃する!
ズババッ!
「!」
空気を切り裂くような音と共に、栗色の羽が辺りに舞い散る。しかし、飛ぶ力を奪うまでには至らなかった。
思わぬ攻撃を受けたラーガは、よろめきながら空中で体勢を立て直すと、怒りの咆哮を上げ、鋭いクチバシを大きく開いた。
「フユラ、気を付けろよ!」
ガラルドの声が響き渡ると同時に、怪鳥の口から白い粘着質の糸のようなものが、凄まじい勢いで吐き出された。
「きゃ……!」
避けきれず、それに左足を取られたフユラがその場に倒れこむ。
「フユラッ……!」
「!」
シュリが悲鳴のような声を上げ、ガラルドが駆け出そうとしたその瞬間―――。
「よくもやったねっ……!」
倒れこんだその状態のまま、フユラがロッドで宙空に呪紋を描き出すと、次の刹那、黄緑色に輝いたそれが弾け、迸る雷光となって、降下体勢に入っていたラーガを直撃したのだ!
「キュオォッ……!」
苦痛の声を上げたラーガはついに獲物を狩ることをあきらめ、痛々しい姿のまま、彼方へと飛び去っていった。
「あー……何とかやり過ごせたぁ……」
ぐったりと大地に横たわるフユラの元へ、シュリが駆け寄る。
「フユラ、大丈夫かい!?」
「あ、シュリさん……うん、平気……」
「呪術師の卵って話だったけど……驚いたよ、凄いじゃないか」
賛辞の言葉を述べるシュリの後ろで、ガラルドが口を開いた。
「まだまだだな」
開口一番そう言い放った彼の頭を、老婆の杖がボカッと打ち据える。
「ってぇな、何しやがるこのババアッ!」
「始めに言う言葉がそれかい!? あんなに大きな恐ろしい鳥を、こんなに細くて可愛らしい子がたった一人で撃退したんだよ! 少しはねぎらってやったらどうなんだ!」
「あぁ!? てめぇ、他人の教育方針に口出しすんじゃねぇ!」
「それが人生の先輩にきく口かい!?」
「い、いいのシュリさんっ! ホントのコトだからっ!」
ケンカに突入しかける二人の間に、慌ててフユラが割って入った。
「結局相手を倒せなかったしさ……それに、あんまりあっさりガラルドに認められたら、気持ち悪いし」
「気持ち悪いは余計だろ」
ガラルドは仏頂面でそう言うと、フユラの隣に片膝をつき、怪鳥の粘糸に捕えられた少女の足を、そこから引っ張り出した。
「粘糸だから良かったけどな、これがもし酸だったら今頃大火傷だぞ」
「うん……」
「固まる前に拭いとけ。けっこうベタつくぞ」
「ありがとう……」
水筒の水を含ませた濡れタオルをガラルドから受け取りながら、フユラは少しだけ顔をほころばせた。
言葉とは裏腹にガラルドが自分を心配してくれていることは、彼の表情や行動から何となく伝わっていた。
そんなフユラの耳元に口を寄せ、こっそりとシュリが囁(ささや)く。
「憎まれ口ばかり叩いているけどね、お前さんがピンチになった時、顔色を変えて飛び出そうとしていたんだよ」
含み笑いをもらした老婆の背後で、ワントーン低いガラルドの声が響き渡った。
「聞こえてんぞ、ババア。てめぇ、目的地に着く前に埋めてやろうか」
「盗み聞きとは、男らしくないね。年寄りの冷や水を笑って聞き流せるくらいの度量がないのかいっ」
「ンだと!?」
「あーもう、やめなよー。何かあたしが一番大人みたいじゃん……」
「ガキが何言ってやがる!」
「子供は黙ってな!」
大人二人の同時口撃を受けて、フユラは珍しく、深々と溜め息をもらした。
精神的に大人なのはもしかしたら、単純に年を重ねたこの二人より、自分の方なのかもしれないと、本気で思った。
陽もとっぷりと暮れた頃―――一行は樹木がまばらに乱立する小さな空き地で焚き火を起こし、マウロで調達してきた食材で簡単な食事を取っていた。
「いよいよ、明日だねぇ……」
万感の想いを胸に、シュリがまばらな木々の間から彼方を見やる。
太陽が姿を消し、今は肉眼でその姿を捉えることは出来なかったが、先程まで、その方角に霧を纏った小さな森の姿を確認することが出来ていたのだ。
「ねぇシュリさん、もし……もしも、お孫さんの想い人に会えなかったらどうするの?」
デザートのレイシーという丸い小振りな果実の皮を指で剥きながら、フユラが尋ねる。
「その時は……このブレスレットを、その場所に置いてくるよ。彼がいつか訪れた時に、気付いてもらえることを祈ってね……」
形見のブレスレットにそっと手を重ね、静かな眼差しで呟く老婆に、ガラルドが現実を突きつける。
「レウラの丘にたどり着けなかった場合は、どうすんだよ」
「ふふ、わたしはそれはないと思っているんだけどね。もしもの場合は……そうだねぇ。風となってこの森を越えて、何としても約束の場所にたどり着こうか」
「ちっ……何だそりゃ」
「ふふ……」
赤い炎を頬に映したシュリは小さく微笑んで、ガラルドとフユラを見つめた。
「頼りにしているよ、二人共」
「うん、頑張るよ。 一緒にレウラの丘まで行こうね!」
「やれるだけのことは、やるって言ってんだろ」
「宜しく頼むよ」
シュリはそう言って水を一杯飲み干すと、ゆっくりとした動作で外套をかけ、横になった。
「今日はだいぶ歩いたねぇ……わたしはもう休ませてもらうよ。お休み」
「お休みなさい」
就寝の挨拶をしてさほど経たないうちに、シュリの口からは安らかな寝息が聞こえ始めた。
「早ぇーな……」
「疲れたんだよ、けっこうなペースで歩いていたし」
「まぁ、ババアにしちゃ頑張った方か」
「素直な言い方じゃないなー……」
「あ?」
「何でもない」
果汁で汚れた指を拭きながら、フユラはガラルドに話しかけた。
「ねぇ、前に聞いた、ガラルドの育ての親……呪術師の、おじいちゃん。もしかして、シュリさんに似ていた?」
「あ? 何だ急に……性格的には似てねーよ。世話焼きって部類では一緒かもしれねーけどな。アイツは口出すだけ出しといて、放任主義っつーか……」
焚き火の中を木の棒でかきまぜながら、ガラルドはそう答えた。
パチッ、と音を立てて焚き木が爆ぜる。
「放任主義?」
「何だかんだ言って、結局はオレの自主性に任せんだよ。どういう結果になろうが、てめぇの導いたコトだ……自分のケツは自分で拭け、ってな。助言はしても、一切手は貸さねー……飄々としたジジイだったぜ」
口ではそう言いながらも、育ての親のことを語るガラルドの暗い緋色の瞳は穏やかな光を帯びていて、その表情は少しだけ優しかった。
そのイメージをぼんやりと脳裏に描きながら、フユラも知らず、優しい表情になった。
「覚えてないけど、あたしも一度、会ったことがあるんだよね」
「ずっと昔の話だ。もっとも、お前はその時寝てたからな。会ったって言えんのは向こうだけじゃねーか?」
「そっか……」
フユラはうつむいてひとつ吐息をつくと、パッと顔を上げて、ガラルドの顔を見た。
「あたし、一度は会って話してみたいな」
「はぁ? 会って何話すんだよ」
「色々。小さい頃のガラルドの話とか、あたし達の旅のコトとか」
「っだらねー……必要ねーよ。つーか、会うことは多分、ねーだろ」
フユラが口を開きかけたその時、シュリが大きなくしゃみをした。
ビクリとするフユラ、チラリと視線を投げるガラルドを背に、老婆はフガフガと鼻を鳴らし、二、三度身じろぎすると、また静かな寝息を立て始めた。
「……お前もそろそろ寝とけ。明日は早ぇーぞ」
「あ―――うん……そうする。お休み、ガラルド」
「あぁ」
魔人と人との混血であるガラルドは、数日なら眠らなくても平気だ。そして、わずかな時間でも睡眠を取れば体力を回復することが出来る。シュリの手前、表向きはフユラと交代ということにしていたが、野営時の寝ずの番は彼の務めだった。
横になったフユラの身体が規則正しい呼吸を刻むようになった頃、ガラルドは暗い緋色の瞳を、小さく背中を丸めて眠る依頼主の老婆へと向けた。その目が左腕のブレスレットに吸い寄せられるようにして、ふと留まる。
そんな自分に、ガラルドは軽い違和感を覚えた。
老婆には不釣合いなデザインの、美しい珊瑚(さんご)色の石を組み合わせた、繊細な細工のブレスレット―――老婆らしからぬデザインのものだから、これが今回の依頼の発端となるものだから―――今まではそんなふうに思いあまり気に留めていなかったのだが、それだけにしては―――ふとした瞬間に、あまりにもそこに視線が行きすぎる気がする。
―――何だ?
切れ長の瞳を細め、ガラルドはそれを凝視した。
この第六感的な感覚を無視してはいけない―――そう思った。
ここから見た限りでは普通のブレスレットだ。特に悪い影響を及ぼすような気配は、感じられない。
身に着けているシュリがピンピンしているのだからおそらくそういう類のものではないのだろうが、何かが引っかかった。
それを確かめるべく音もなく立ち上がると、ガラルドは安らかな寝息を立てるシュリの元に歩み寄った。その背後にかがみ、ブレスレットに触れようとしたその瞬間―――。
「夜這いかい?」
それまで安らかな寝息を立てていたシュリの浅葱色の瞳が静かに開かれた。
「……やっぱり起きてやがったか。誰がてめぇみてーなババアを襲うか」
ガラルドが皮肉げにそう返すと、シュリは瞳を大きく瞬かせた。
「おや、気付いていたのかい?」
「さっきの下手なくしゃみ……息を飲んだのをごまかす為だろ?」
「おやおや、バレていたんだ……さすがだね」
「オレ達のあの会話を聞いて、何にあんたが反応したのかは分かんねーけどな。何で寝たフリをする必要があった?」
シュリは静かに半身を起こすと、鋭さを帯びたガラルドの視線を臆することなく受け止めた。
「深い意味はないよ。神経が高ぶっているのか、途中で目が覚めちゃってね……。寝たフリを続けたのは、若い者達に気を遣ったのさ」
「気を遣う意味が分かんねーな……」
「ふふ……そういうお前さんは、何をしようとしていたんだい」
「それを、見せてもらおうと思ってな」
顎でしゃくるようにしてブレスレットを示すと、シュリはゆっくりと頷いて、ガラルドに左腕を差し出した。
「わたしはひとつ、願掛けをしていてね。このブレスレットを外すことは出来ないけど、このまま見たり触ったりしてもらう分には構わないよ」
「そう言われて、オレが大人しく従うとでも?」
「わたしは人を見る目はあるつもりだよ。そういうヤツなら、言う前にやっているさ」
ガラルドの暗い緋色の瞳と、シュリの浅葱色の瞳が正面から向かい合う。しばらく見つめ合った後、ガラルドは短く息を吐き出した。
手を伸ばして、老婆のブレスレットに触れる。間近で見ると、石の輝きとはまた別の、微弱な……不思議な輝きが、うっすらとそれを取り巻いているのが分かった。普通の人間の目では、確認することは出来ないだろう。
これが、違和感の正体か……。
嫌な感じはしない。どちらかというと、何かの加護に近いような感じだ。昔は大きな力を持っていたものが、長い年月の間に少しずつ失われていったような……。
しばらく瞳を細めてそれを観察した後、ガラルドはそこから手を離した。
「このブレスレットが、どうかしたのかい?」
「コイツは孫の形見なんだったな。孫がコイツをどういう経路で手に入れたのか分かるか?」
「……恋人からもらったと、言っていたけれど―――どうしてだい?」
「……大したことじゃない。少し、気になっただけだ」
それだけ言って、ガラルドは自分の場所に戻った。シュリはブレスレットに触れながら少しの間ガラルドの方を見つめていたが、やがて何も言わずに横になった。
深い闇の向こうにある霧に覆われた森を見据えながら、ガラルドは一人、もの思いに沈み込んだ。
依頼主の老婆には、どうやら何か思うところがあるようだ。
どういう理由があるのかは分からなかったが、シュリは何かを隠している―――そう、確信した。
老齢のシュリのことを思えば、その倍はかかると考えた方が無難だろう。
そう踏んだガラルドは、レウラの丘へ繋がる森の手前で一泊し、翌朝その問題の森へ入り、障害があればそれを排除した後、目的地にて約束の時刻を待つという計画を立てた。
行く手を阻む『霧』については、何の手掛かりも得られないままだ。
地元では『霧の神が憑いた』などと噂されているが、そんなものはいるわけがない。自然現象ではないようだから、何者かが何らかの目的を持ってこの状況を引き起こしているのだろうが、その目的が分からなかった。
レウラの丘は貴重な薬草の宝庫としてマウロの薬師達に重宝されていたようだが、それ以外に特筆すべきものはないようだったし、それを何者かが独占して売りさばいているような形跡もない。
レウラの丘へ行けなくなったことを地元の者達は残念に思っている様子だったが、元々薬草の栽培が盛んな町だったから、それで生活に大きな影響が出たということはないようだった。
森の中へ入らない限りは特に危害を被ることもない為、住民達の間では既に、『触らぬ神に祟りなし』という概念が出来上がっているようだ。
この状況を引き起こしている存在の目的が、いったい何なのか―――。
不気味ではあるが、めぼしい情報が何もないのだから、対策の立てようがない。現地へ行って、直接自分達の目で確認するしかなかった。
「森を、通っていくんだ……」
昨夜ガラルドからその話を聞いたフユラは、そう言って見るからに浮かない顔になった。
「小さい森だし、通るのは昼間だ。いつまでもガキみてぇなコト言ってんじゃねーぞ」
「ま、まだ何にも言ってないじゃない。何よ、普段はガキガキって言うクセに」
母親の呪術が解けるまではそうではなかったのだが、いつの頃からか、フユラは極端に暗い森を怖がるようになってしまっていた。十三歳になった今でこそ泣きはしないものの、夜の森ではガラルドの側を離れられない。彼女的にはずっと彼の手を握っていたいところなのだが、拒否されてしまうので、森の中で野宿する時などは、彼の外套の端っこを握りしめて眠りにつくこともしばしばだった。
「シュリさん、張り切っているね」
レウラの丘へと続く平坦な道を歩きながら、フユラがシュリに声をかけた。木製の杖をつきながら歩く老婆の足取りは、いつにも増して軽やかだった。
「目的の場所まで、もうすぐだからね。ようやくたどり着けるんだ、張り切りもするさ」
「……水を差すようだけどな、絶対にたどり着けるとは限らないぜ」
ガラルドのその言葉に、前を行く女二人がぐりんと振り返った。
「えっ? 何で!?」
「何故だい?」
「やるだけのことはやるって言ったがな、それが達成できるかどうかはまた別の話だろ。オレ達の力量を上回る件だった場合は、ババアにはわりぃが、引き返させてもらう。命あっての物種だからな」
「ガ、ガラルド」
戸惑いの声を上げるフユラの胸元は、下着で少しだけ強調されて、その存在を控えめに主張している。そこを意識的に見ないようにしながら、ガラルドは連れの少女にこう告げた。
「オレ達には目的がある。ここで死ぬワケにはいかねーだろ」
「それは、そうだけど……」
昨夜目にしたアヴェリアへの地図を思い出して、フユラは言葉を飲み込んだ。
彼女の中では無敵に近いイメージになっているガラルドだったが、その彼を凌駕する者は、確かにこの世に存在する。それを、彼女は身をもって知っていた。
口にこそ出さないものの、その最悪の場合を彼が想定に入れていることを知って、フユラは少しだけ緊張感を覚えた。
「まぁ、それは本当に最悪の最悪の場合だ。多分そういうコトにはならねーだろーがな……」
「―――あぁ、それで構わないよ」
意外にも穏やかな声で、シュリはガラルドにそう答えた。
「先の短い年寄りの願望に、そこまでお前さん達を付き合わせようとは思っちゃいないさ……。でも多分、大丈夫。このブレスレットが導いてくれる……そんな気がするんだ」
「シュリさん……」
「だと、いいがな」
そっけないガラルドの反応に、フユラが溜め息混じりの声を上げる。
「もぉガラルド、まーたそういう言い方―――」
「練習相手が来たぞ、フユラ」
「え? あ!」
ガラルドの視線の先を追って上空を見上げたフユラは、こちらを目がけて飛んでくる巨大な飛行物体に気が付いて、慌てて腰のロッドを構えた。
薄曇りの空に浮かぶ、家ほどの大きさもある凶悪な影―――逆巻いた栗色の羽毛が特徴的な肉食の巨鳥、ラーガだ。
辺りに背の高い樹木などが一切ない、平坦な道の続くこの平原は、どうやらこの巨鳥にとって絶好の狩場だったらしい。
「任せたぞ」
大振りの剣を抜き、背後にシュリをかばいながら、ガラルドが言う。射程距離の遠い敵に関しては、実戦経験の意味も兼ねて、フユラに任せるようになっていた。無論、状況によってはガラルドが助けに入る。
「……うん!」
フユラが頷いた直後、ゴウッ、と唸りを上げて、ラーガの鋭い鉤爪が襲いかかった。
「わっぷ……!」
横に飛んでその一撃をかわしたものの、風圧になぶられ、フユラがよろめく。ガラルドに抱えられるようにして安全圏に逃れたシュリが、心配そうにその様子を見守った。
「フユラは、大丈夫なのかい?」
「まぁ見てろ」
獲物を捕えることに失敗したラーガは、一度上空に舞い戻った後、フユラめがけて再び急降下してきた。肉が硬そうな青年と老人の組み合わせよりは、柔らかそうな少女の獲物に狙いを絞ることにしたらしい。
「簡単に、食べられると思わないでよっ……」
そう呟きながら、フユラはラーガの第二撃をかわした。今度はよろけなかった。
先端に小さな宝玉の付いたロッドを手に、精神を集中させる。背の中程まである、緩やかに波打つ銀色の髪が、風ではない力でふわりと揺れた瞬間、ロッドで素早く宙に呪紋を描き出すと、その紋様が緑色に輝き、弾けた。
解き放たれた風の刃が、急降下してきていたラーガの両翼を直撃する!
ズババッ!
「!」
空気を切り裂くような音と共に、栗色の羽が辺りに舞い散る。しかし、飛ぶ力を奪うまでには至らなかった。
思わぬ攻撃を受けたラーガは、よろめきながら空中で体勢を立て直すと、怒りの咆哮を上げ、鋭いクチバシを大きく開いた。
「フユラ、気を付けろよ!」
ガラルドの声が響き渡ると同時に、怪鳥の口から白い粘着質の糸のようなものが、凄まじい勢いで吐き出された。
「きゃ……!」
避けきれず、それに左足を取られたフユラがその場に倒れこむ。
「フユラッ……!」
「!」
シュリが悲鳴のような声を上げ、ガラルドが駆け出そうとしたその瞬間―――。
「よくもやったねっ……!」
倒れこんだその状態のまま、フユラがロッドで宙空に呪紋を描き出すと、次の刹那、黄緑色に輝いたそれが弾け、迸る雷光となって、降下体勢に入っていたラーガを直撃したのだ!
「キュオォッ……!」
苦痛の声を上げたラーガはついに獲物を狩ることをあきらめ、痛々しい姿のまま、彼方へと飛び去っていった。
「あー……何とかやり過ごせたぁ……」
ぐったりと大地に横たわるフユラの元へ、シュリが駆け寄る。
「フユラ、大丈夫かい!?」
「あ、シュリさん……うん、平気……」
「呪術師の卵って話だったけど……驚いたよ、凄いじゃないか」
賛辞の言葉を述べるシュリの後ろで、ガラルドが口を開いた。
「まだまだだな」
開口一番そう言い放った彼の頭を、老婆の杖がボカッと打ち据える。
「ってぇな、何しやがるこのババアッ!」
「始めに言う言葉がそれかい!? あんなに大きな恐ろしい鳥を、こんなに細くて可愛らしい子がたった一人で撃退したんだよ! 少しはねぎらってやったらどうなんだ!」
「あぁ!? てめぇ、他人の教育方針に口出しすんじゃねぇ!」
「それが人生の先輩にきく口かい!?」
「い、いいのシュリさんっ! ホントのコトだからっ!」
ケンカに突入しかける二人の間に、慌ててフユラが割って入った。
「結局相手を倒せなかったしさ……それに、あんまりあっさりガラルドに認められたら、気持ち悪いし」
「気持ち悪いは余計だろ」
ガラルドは仏頂面でそう言うと、フユラの隣に片膝をつき、怪鳥の粘糸に捕えられた少女の足を、そこから引っ張り出した。
「粘糸だから良かったけどな、これがもし酸だったら今頃大火傷だぞ」
「うん……」
「固まる前に拭いとけ。けっこうベタつくぞ」
「ありがとう……」
水筒の水を含ませた濡れタオルをガラルドから受け取りながら、フユラは少しだけ顔をほころばせた。
言葉とは裏腹にガラルドが自分を心配してくれていることは、彼の表情や行動から何となく伝わっていた。
そんなフユラの耳元に口を寄せ、こっそりとシュリが囁(ささや)く。
「憎まれ口ばかり叩いているけどね、お前さんがピンチになった時、顔色を変えて飛び出そうとしていたんだよ」
含み笑いをもらした老婆の背後で、ワントーン低いガラルドの声が響き渡った。
「聞こえてんぞ、ババア。てめぇ、目的地に着く前に埋めてやろうか」
「盗み聞きとは、男らしくないね。年寄りの冷や水を笑って聞き流せるくらいの度量がないのかいっ」
「ンだと!?」
「あーもう、やめなよー。何かあたしが一番大人みたいじゃん……」
「ガキが何言ってやがる!」
「子供は黙ってな!」
大人二人の同時口撃を受けて、フユラは珍しく、深々と溜め息をもらした。
精神的に大人なのはもしかしたら、単純に年を重ねたこの二人より、自分の方なのかもしれないと、本気で思った。
陽もとっぷりと暮れた頃―――一行は樹木がまばらに乱立する小さな空き地で焚き火を起こし、マウロで調達してきた食材で簡単な食事を取っていた。
「いよいよ、明日だねぇ……」
万感の想いを胸に、シュリがまばらな木々の間から彼方を見やる。
太陽が姿を消し、今は肉眼でその姿を捉えることは出来なかったが、先程まで、その方角に霧を纏った小さな森の姿を確認することが出来ていたのだ。
「ねぇシュリさん、もし……もしも、お孫さんの想い人に会えなかったらどうするの?」
デザートのレイシーという丸い小振りな果実の皮を指で剥きながら、フユラが尋ねる。
「その時は……このブレスレットを、その場所に置いてくるよ。彼がいつか訪れた時に、気付いてもらえることを祈ってね……」
形見のブレスレットにそっと手を重ね、静かな眼差しで呟く老婆に、ガラルドが現実を突きつける。
「レウラの丘にたどり着けなかった場合は、どうすんだよ」
「ふふ、わたしはそれはないと思っているんだけどね。もしもの場合は……そうだねぇ。風となってこの森を越えて、何としても約束の場所にたどり着こうか」
「ちっ……何だそりゃ」
「ふふ……」
赤い炎を頬に映したシュリは小さく微笑んで、ガラルドとフユラを見つめた。
「頼りにしているよ、二人共」
「うん、頑張るよ。 一緒にレウラの丘まで行こうね!」
「やれるだけのことは、やるって言ってんだろ」
「宜しく頼むよ」
シュリはそう言って水を一杯飲み干すと、ゆっくりとした動作で外套をかけ、横になった。
「今日はだいぶ歩いたねぇ……わたしはもう休ませてもらうよ。お休み」
「お休みなさい」
就寝の挨拶をしてさほど経たないうちに、シュリの口からは安らかな寝息が聞こえ始めた。
「早ぇーな……」
「疲れたんだよ、けっこうなペースで歩いていたし」
「まぁ、ババアにしちゃ頑張った方か」
「素直な言い方じゃないなー……」
「あ?」
「何でもない」
果汁で汚れた指を拭きながら、フユラはガラルドに話しかけた。
「ねぇ、前に聞いた、ガラルドの育ての親……呪術師の、おじいちゃん。もしかして、シュリさんに似ていた?」
「あ? 何だ急に……性格的には似てねーよ。世話焼きって部類では一緒かもしれねーけどな。アイツは口出すだけ出しといて、放任主義っつーか……」
焚き火の中を木の棒でかきまぜながら、ガラルドはそう答えた。
パチッ、と音を立てて焚き木が爆ぜる。
「放任主義?」
「何だかんだ言って、結局はオレの自主性に任せんだよ。どういう結果になろうが、てめぇの導いたコトだ……自分のケツは自分で拭け、ってな。助言はしても、一切手は貸さねー……飄々としたジジイだったぜ」
口ではそう言いながらも、育ての親のことを語るガラルドの暗い緋色の瞳は穏やかな光を帯びていて、その表情は少しだけ優しかった。
そのイメージをぼんやりと脳裏に描きながら、フユラも知らず、優しい表情になった。
「覚えてないけど、あたしも一度、会ったことがあるんだよね」
「ずっと昔の話だ。もっとも、お前はその時寝てたからな。会ったって言えんのは向こうだけじゃねーか?」
「そっか……」
フユラはうつむいてひとつ吐息をつくと、パッと顔を上げて、ガラルドの顔を見た。
「あたし、一度は会って話してみたいな」
「はぁ? 会って何話すんだよ」
「色々。小さい頃のガラルドの話とか、あたし達の旅のコトとか」
「っだらねー……必要ねーよ。つーか、会うことは多分、ねーだろ」
フユラが口を開きかけたその時、シュリが大きなくしゃみをした。
ビクリとするフユラ、チラリと視線を投げるガラルドを背に、老婆はフガフガと鼻を鳴らし、二、三度身じろぎすると、また静かな寝息を立て始めた。
「……お前もそろそろ寝とけ。明日は早ぇーぞ」
「あ―――うん……そうする。お休み、ガラルド」
「あぁ」
魔人と人との混血であるガラルドは、数日なら眠らなくても平気だ。そして、わずかな時間でも睡眠を取れば体力を回復することが出来る。シュリの手前、表向きはフユラと交代ということにしていたが、野営時の寝ずの番は彼の務めだった。
横になったフユラの身体が規則正しい呼吸を刻むようになった頃、ガラルドは暗い緋色の瞳を、小さく背中を丸めて眠る依頼主の老婆へと向けた。その目が左腕のブレスレットに吸い寄せられるようにして、ふと留まる。
そんな自分に、ガラルドは軽い違和感を覚えた。
老婆には不釣合いなデザインの、美しい珊瑚(さんご)色の石を組み合わせた、繊細な細工のブレスレット―――老婆らしからぬデザインのものだから、これが今回の依頼の発端となるものだから―――今まではそんなふうに思いあまり気に留めていなかったのだが、それだけにしては―――ふとした瞬間に、あまりにもそこに視線が行きすぎる気がする。
―――何だ?
切れ長の瞳を細め、ガラルドはそれを凝視した。
この第六感的な感覚を無視してはいけない―――そう思った。
ここから見た限りでは普通のブレスレットだ。特に悪い影響を及ぼすような気配は、感じられない。
身に着けているシュリがピンピンしているのだからおそらくそういう類のものではないのだろうが、何かが引っかかった。
それを確かめるべく音もなく立ち上がると、ガラルドは安らかな寝息を立てるシュリの元に歩み寄った。その背後にかがみ、ブレスレットに触れようとしたその瞬間―――。
「夜這いかい?」
それまで安らかな寝息を立てていたシュリの浅葱色の瞳が静かに開かれた。
「……やっぱり起きてやがったか。誰がてめぇみてーなババアを襲うか」
ガラルドが皮肉げにそう返すと、シュリは瞳を大きく瞬かせた。
「おや、気付いていたのかい?」
「さっきの下手なくしゃみ……息を飲んだのをごまかす為だろ?」
「おやおや、バレていたんだ……さすがだね」
「オレ達のあの会話を聞いて、何にあんたが反応したのかは分かんねーけどな。何で寝たフリをする必要があった?」
シュリは静かに半身を起こすと、鋭さを帯びたガラルドの視線を臆することなく受け止めた。
「深い意味はないよ。神経が高ぶっているのか、途中で目が覚めちゃってね……。寝たフリを続けたのは、若い者達に気を遣ったのさ」
「気を遣う意味が分かんねーな……」
「ふふ……そういうお前さんは、何をしようとしていたんだい」
「それを、見せてもらおうと思ってな」
顎でしゃくるようにしてブレスレットを示すと、シュリはゆっくりと頷いて、ガラルドに左腕を差し出した。
「わたしはひとつ、願掛けをしていてね。このブレスレットを外すことは出来ないけど、このまま見たり触ったりしてもらう分には構わないよ」
「そう言われて、オレが大人しく従うとでも?」
「わたしは人を見る目はあるつもりだよ。そういうヤツなら、言う前にやっているさ」
ガラルドの暗い緋色の瞳と、シュリの浅葱色の瞳が正面から向かい合う。しばらく見つめ合った後、ガラルドは短く息を吐き出した。
手を伸ばして、老婆のブレスレットに触れる。間近で見ると、石の輝きとはまた別の、微弱な……不思議な輝きが、うっすらとそれを取り巻いているのが分かった。普通の人間の目では、確認することは出来ないだろう。
これが、違和感の正体か……。
嫌な感じはしない。どちらかというと、何かの加護に近いような感じだ。昔は大きな力を持っていたものが、長い年月の間に少しずつ失われていったような……。
しばらく瞳を細めてそれを観察した後、ガラルドはそこから手を離した。
「このブレスレットが、どうかしたのかい?」
「コイツは孫の形見なんだったな。孫がコイツをどういう経路で手に入れたのか分かるか?」
「……恋人からもらったと、言っていたけれど―――どうしてだい?」
「……大したことじゃない。少し、気になっただけだ」
それだけ言って、ガラルドは自分の場所に戻った。シュリはブレスレットに触れながら少しの間ガラルドの方を見つめていたが、やがて何も言わずに横になった。
深い闇の向こうにある霧に覆われた森を見据えながら、ガラルドは一人、もの思いに沈み込んだ。
依頼主の老婆には、どうやら何か思うところがあるようだ。
どういう理由があるのかは分からなかったが、シュリは何かを隠している―――そう、確信した。
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