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Beside You 2 ~君の居る場所~
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魔人と呼ばれる強大な力を誇る種族が存在し、特異な能力を秘めた生物達が跋扈する世界―――。力無き人々はそれらの脅威に対抗する為、様々な武具を造り出し、呪術と呼ばれるチカラを編み出した。
呪術とは、己の持つ魔力を源に様々な現象を具現化する魔法のチカラ―――それを操る能力を持つ者達を総称して、“呪術師”と呼ぶ。
ひとくちに呪術師と言っても、その系統は実に様々である。火水風土の四大元素に基づいた力を振るう者、神に祈りを捧げることで病気やケガを癒す者、逆に邪神に祈りを捧げ他人に災いを及ぼす者など、多種多様だが、彼らに共通するのは、呪紋と呼ばれる紋様を描くことによってその力を発動する点だ。
そういったチカラを手にすることによって、人々は決して暮らしやすいとは言えない環境の中で、独自の文明を築き上げ、その多くはつつましくささやかな生活を送っている。
この世界に於いて、最も恐れられる存在が魔人―――魔人とは、『神が産み出した災厄』と謳われ人々に恐れられる、異形の生物である。
その外見は人に似ているが、翼を持つ者、肉食獣のような手足を持つ者等、その形体は個々によって異なっており、同じ形体を持つ者はいない。
人に近い姿でありながら、人とは決定的に違うその生物は、長命で、強靭な肉体を持ち、強大な魔力を誇る。その圧倒的な力の前には、人間はただひれ伏すことしか出来ない。人間達の生み出した武具や呪術など、魔人の力の前ではあまりにもささやかなものだ。
『ディーヴァ』という呼び名は、その昔、一人の魔人がまるで歌をくちずさむかのように軽々と一国を滅ぼしたところから付けられたと言われている。
人間にとっての救いは、そのあまりに強大な力ゆえか、魔人はその個体数が極めて少なく、単独で行動することを好み、自分以外のものには基本的に関心を示さない、独特の性質にあった。簡単に言うと、人前に姿を現す、ということがまずないのだ。
とはいえ、気紛れを起こして惨禍を巻き起こしたという話は度々歴史上に登場している。もし魔人が支配欲を持ち、徒党を組むような性質であったなら、人間という種族は遠い昔にこの地上から消滅していたことだろう。
それ故、学者達の中には、『魔人は世界の均衡を保つ為に神が創り出した必要悪』という説を唱える者がいる。人間が増え過ぎて食物連鎖が崩れるのを防ぐ為に、神が魔人を産み出したのだと、そういう理屈だ。
実はガラルドの父親は、この魔人にあたる。彼は、人間と魔人との間に生まれた半魔なのだ。
両親の関係は、深い愛情で結ばれていた―――というものではない。人間の母を魔人の父が無理矢理奪い、結果、ガラルドが出来たという―――そういう、ものだった。
数年前、初めて目にしたその父親は、母親を襲ったことについて、
『どんなモンか興味があったんだよ。それ以上でも、以下でもねぇ』
という暴言を吐いた。
母親には将来を誓い合った呪術師の青年がいたのだが、彼は何故か、魔人の子を身ごもった彼女を、変わらず一途に愛し続けた。
そして、ガラルドを産んでまもなく、流行り病で彼女があっさり逝ってしまった後、彼は酔狂にもその半魔の子を引き取り、育てることにしたのだ。
呪術師として嘱望されていた未来を自ら断ち、家族から絶縁され、人々からは敬遠され、後ろ指をさされ―――人里離れた草原の、小さな家で暮らし始めた。
全てを聞かされ育ったガラルドには、この男の生き方が理解出来なかった。
バカとしか言いようがない―――そう、思っていた。
それは、母にしてもそうだ。
自分など、産まなければ良かったのに。
そうすれば、また違う未来も拓けていたのだろうに―――。
人生の全てを投げ出し、彼らが―――特に、育ての親であるあの男が得たものは、いったい何だったのだろう。
残ったものといえば、自分という半魔の存在だけ―――特に男に懐くわけでもなく、成長してからは長い人生を持て余し、ただふらふらと旅をして―――こんなモノを育てる為に、彼は自分の人生を犠牲にしたのだろうか。
そんなガラルドに転機が訪れたのは十一年前―――ひと晩の宿を求めて立ち寄った小さな村で、彼は瀕死の呪術師の女性と出会い、彼女に特殊な呪術をかけられた。
それは、『生命を繋ぐ呪術』―――ガラルドは、彼女の幼い娘と運命を繋がれてしまったのだ。
それが、フユラだった。
その呪いを解く為には、遥かな魔法都市アヴェリアに赴くしかない。
ガラルドとフユラの旅は、こうして始まったのだった。
その途中様々な出来事があり、その中で、フユラの母がアヴェリアの高位の呪術師だったこと、アヴェリアでは魔人に対抗する為の“夢の人類”誕生プロジェクトが極秘裏に進められていること、その被験体だったフユラの持つ魂の輝きにセラフィスという魔人が魅せられ、彼女を付け狙っていること、などが分かった。
そして、そんな中で少しずつ、少しずつ築かれていった、ガラルドとフユラの関係―――最近になって、ガラルドはようやく、育ての親である呪術師の生き方にはそれなりの意味があったのかもしれない、と思えるようになった。
彼と最後に会ったのは、アヴェリアへ向けて旅立った十一年前―――その当時、既に老齢となっていたあの呪術師は、今もまだ、あの古びた家で一人、暮らしているのだろうか。
今もなお、アヴェリアへと向かっている旅の途中―――人間の寿命を考えれば、彼が生きているうちに再び相見えることは、おそらくもう、ないのだろう。
マウロへと続く街道を歩きながら、ふと、そんなことを、ガラルドは思った。
涼やかな風が、柔らかく頬をなでていく―――……。
雇い主の老婆の名は、シュリといった。
見事な白髪を頭の上でひとつにまとめ、薄茶色の長衣の上からくたびれたオリーブ色の外套を羽織っている。浅葱色の瞳が穏やかな、深い皺の刻まれた顔は、よく見れば整った造作をしていた。若い頃は、けっこうな美女だったのかもしれない。
彼女の左の手首に、老婆には不釣合いなデザインの、美しい珊瑚色の石を組み合わせた繊細な細工のブレスレットが嵌められていたのが、ガラルドの目を引いた。
木製の杖をつきながら歩くシュリの隣を歩きながら、フユラが彼女に話しかけた。
「おばあちゃん、マウロの先の丘に用事があるって言っていたよね。そこって、マウロから近いの?」
「まぁ、そうだね。“レウラの丘”と呼ばれているところなんだけど……歩いて半日程度じゃないかね」
「そうなんだ? 良かったら、そこまでの護衛も引き受けるよ?」
「ふふ、商売熱心なお嬢ちゃんだね。まぁその話は、町までのあんたらの様子を見て、わたしの懐具合と相談してから、だね。後はお連れのお兄さんの気分次第かね」
二人の話を聞きながら後ろで渋い顔をするガラルドの様子が想像出来たらしく、シュリはそう言って笑った。振り返って、その表情を確認したフユラも笑う。
「ところで、二人はどういう関係なんだい? 兄妹のようには見えないけど……」
「あ、それはねー……」
「保護者だ」
間髪入れず、ガラルドはそう答えた。
「とある理由でコイツを預かった。それだけの関係だ」
その素っ気ない回答に、フユラが愛らしいカーブを描く頬をふくらませる。
「そういう言い方はないんじゃないの? もっとこう、旅のパートナー、とかさ」
「お前みたいなガキ、パートナーなんて言えるか。せめて呪術師と呼べるレベルになってから、そういうコトは言え」
「ガ、ガキとは何よっ! 未来のレディーに向かってっ!」
「レディーってガラかよ……っつーか、今はやっぱガキってコトじゃねーか」
口論に発展しそうな二人の勢いに、溜め息混じりのシュリの声が割って入った。
「……二人の仲がいいのはよう分かった。もう、その辺でやめておきな」
「ガラルドのバカッ」
ぷんぷんしながら、フユラが大股で運命を共有する青年に背を向ける。
何故だか最近は、こういうことが多くなっていた。
唇をとがらせながら、フユラは思う。
以前のガラルドはとても優しかったのに、最近は何だか冷たく、素っ気ない感じがする。今のように、二人の関係を聞かれた時などは特にそうだ。
保護者―――それは確かに、間違ってはいない。物心ついた時から、自分はガラルドとずっと一緒にいて、彼に育ててもらったようなものだ。
自分の母親の呪術によって、ガラルドは幼い自分と生命を繋がれ、アヴェリアを目指すことを余儀なくされてしまった―――それは、彼にとっては予想しえない最悪の出来事だったと言えるだろう。それを預かったと言ってくれているだけ、感謝するべきなんだろうとは思う。
けど―――そんな言い方をされると、最近は特に、悲しいし、寂しい感じがした。
―――昔みたいに、手も繋いでくれないしさっ……。
何とも言えず胸が重苦しい感じになってきて、フユラはそっとそこに手を当てた。怒り任せにどしどし歩いていたので、その振動でも胸が痛む。
自分が成長するにつれて、いつの間にか―――二人の間には、触れ合うということが、なくなっていた。当たり前のように触れ合っていたあの頃が、何だか今は、ひどく昔のことのように感じられる。
ずっと側にいるのに、何だかだんだんガラルドが遠くになっていくような気がして―――それが怖くて、フユラはそれ以上考えることをやめた。
立ち止まったフユラの様子に何か察するものがあったのか、ゆっくりと歩み寄ったシュリが、穏やかな声をかけた。
「フユラ、っていったっけね? 呪術師の修行中って話だったけど、どんな呪術を勉強しているんだい?」
「え……あ、うん……今は風系と、あと回復系、かな。最近少しずつ、自信がついてきたトコなんだ」
「おや、ということは、四大元素系と信仰系、両方を使えるんだ。凄いじゃないか。異なる系統を使える人は、少ないって言うよ」
「えへ……」
照れ笑いを浮かべて、フユラは軽く頭をかいた。何気ない会話だったが、重く沈みこんでいた気持ちが、それだけでずいぶん救われたような気がする。
「おばあちゃん……シュリさんは、何をしていた人なの?」
そう尋ねると、老婆は腰にくくりつけてあった道具袋の中から小さな箱を取り出し、それを広げて見せた。
「わたしは故郷で薬師をしていたんだよ。自分で薬草を取ってきて、調合したりしていたんだ」
「へぇ、薬師!? スゴい!」
箱の中には様々な色や形の薬が数種類、整然と並べられていて、それを目にしたフユラは目を輝かせた。
「わたしも薬師として一人前になるまでには、だいぶ時間がかかった。だから、フユラ……お前さんも、あせることはない。まだ若いんだからね。一日一日、自分の出来ることをして、高みを目指していけばいい。そうすれば、いつかおのずと一人前と呼ばれるようになっているはずさ」
シュリのその言葉に温かさを感じて、フユラは微笑み、頷いた。
「……うん! そうだね」
その様子を、少し後ろから、ガラルドは無言で見つめていた。
その夜、野営の番を務めながら、ガラルドは昼間見た夢のことを思い出していた。
幼い頃のフユラと、彼女を温かく見つめる、自分―――。
懐かしい、夢―――何故、あんな夢を見たのだろう。
乱舞する炎を頬に映しながら、ガラルドは近くで眠るフユラを見やった。
シュリと隣り合わせで健やかな寝息を立てている、運命を共有する少女―――彼女が呼吸するたび、身体にかけられた生成り色の外套が緩やかに上下している。
ガラルドはそっと、自らの左足首に触れた。
彼の左足首とフユラの左手首には、彼女の母親によって施された黒い呪紋が、ぐるりと一周するようにして刻まれている。彼女の左手首にリストバンドが嵌められているのはその為だ。当初はひどく禍々しいと感じられていたものだが、今となっては、何だか自分と少女を繋ぐ“絆”のようにさえ、ガラルドには感じられている。
幼い頃のフユラは、セラフィスという魔人から身を守る為、その存在の輝きを隠す為の呪術を母親にかけられていた。その影響から、当時の彼女は無口で大人しく、感情をあまり表に出さない、少々成長の遅れた感のある、人形のような可愛らしさの少女だったのだ。
それが六年前、その呪術が解けてからというもの、彼女はそれまでの遅れを取り戻すかのようにめざましいスピードであらゆるものを吸収し、社交的で、ひどく活動的な少女になってしまった。
社交性が皆無で協調性がなく、口数もそう多くはない自分といるはずなのに、何故この少女は、こんなにも正反対に成長してしまったのか。
その成長ぶりは、ガラルドを軽く混乱させていた。
年々、フユラは『ハルヒ』に似てきてしまっているのだ。
ハルヒというのは、六年前、突然彼らの目の前に現れた、『未来のフユラ』が名乗った名前だ。何故そんな事態が起こってしまったのかというと、それはひとえにガラルドの過去の過ちによるものなのだが―――幼かったフユラは当時のことをよく覚えていないようだったが、ガラルドの脳裏にはその時の出来事が鮮明に焼きついていた。
『ハルヒと名乗ったフユラ』の容姿は十五才程度に見えたが、彼女は元の時代に戻るまでに、世にも怖ろしい予言を残していったのだ―――。
それは、その時の彼女とガラルドが恋仲になっているという、ガラルド的には考えられない、信じられない内容の話だった。
二才の時から共に過ごしてきた少女とそんな関係になるなど、有り得ないし、考えられない。
自分はロリコンではないのだ。
ガラルドはそうなることは百パーセントないという自信のもと、この目で見てきたいくつもの未来と重なる符号を無視し、普段は考えないようにしているのだが、昼間のように二人の関係を尋ねられた時などは、ついつい過敏に反応してしまう傾向にあるようだ。
―――何やってんだか、オレは……。
「有り得ねっての……」
そう独りごちて、ガラルドは手元の枯れ木を手折り、焚き火の中にくべた。
健やかに眠るフユラの表情は、まだまだ子供だ。
その身に大きすぎる、強大な潜在能力を有した、“夢の人類”―――その溢れんばかりの、魔人の心すら魅了した魂の輝きは、今、左手首の護符の力でどうにか抑えているといった状態だ。
考えてみれば不思議だ、とガラルドは思う。
人間と魔人との混血である自分と、人の手と自然の摂理とが奇跡的な確率で創り出した、いわば人類の進化版である少女―――共にこの世界で異端たる二人が巡り会い、こうして共に旅をしているというその現実―――神という者がこの世に存在するのかは分からないが、もしそういう者が存在するのだとしたら、その存在はかなりの悪戯好きと言えるだろう。
不安定な力を有した少女は、夢に見たあの頃と変わらず、ガラルドにとって、特別な意味を持つ。初めて出会った、『守りたい』と思える唯一の存在―――『大切』と呼べる存在なのだ。
だが、それはおそらく家族だとかペットなどに抱く感情に近いものなのであって、それが恋愛対象に変わるなどということは、未来永劫、有り得ない。
静かな月の光が冴え冴えと映し出す夜の闇の中、ガラルドは自らの中で改めてそう結論付けた。
未来は、自分で選び取り、切り拓くものなのだ。
あらかじめ定まった未来など、有りはしない―――……。
翌日も順調に歩を進め、ほぼ予定通りの行程を進むことが出来た。途中、野盗の一団に出くわしたものの、ガラルドの活躍によってあっさりと事なきを得、そして、更に翌日。この日も朝から天気が良く、このまま行けば、昼過ぎには予定通りマウロの町にたどり着けるだろう―――地図を眺めながらガラルドはそう踏んでいたのだが、現実は、なかなか予定通りにはいかないものだ。
その日、フユラは朝から元気がなかったのだが、歩き始めて少し経つと、その顔色が目に見えて悪くなってきた。時折下腹部に手を当て、切なそうな吐息をつく。
「どうした? 腹が痛いのか」
ガラルドがそう尋ねると、フユラは小さく頷いて、青ざめた顔でこう答えた。
「うん……昨日の夜から、ちょっと痛かったんだけど……何か、だんだん痛くなってきちゃって」
「ひどい顔色だよ。大丈夫かい?」
シュリがそう言って、フユラの白い額に手を当てた。
「熱はないようだけど……どんなふうに痛むんだい?」
「何て言ったらいいのかな……波があるわけじゃなくって、じわじわとお腹の下が締め付けられるようなカンジが続いているっていうか……」
「―――とりあえず木陰で休もう」
街道沿いにある比較的大きな木の下まで移動して、一行はフユラの様子を見ることになった。
「ごめんね、シュリさん……急いでいるのに」
道具袋を枕にして横たわり、小さな声でそう詫びるフユラに、シュリは首を振って、腰の道具袋から薬箱を取り出した。
「子供がそんなこと、気にするもんじゃないよ」
「子供じゃないモン……」
「そうだったね。呪術師の卵なんだった、悪かったよ」
シュリはそう笑って、フユラの額の汗を拭いてやった。
「手足の先が冷たい……少し貧血を起こしている感じもあるね。痛いのは下腹部だけ? 吐き気はあるかい?」
「ううん、吐き気は……痛いのは、お腹だけ……」
そんな二人の様子を見ていたガラルドが、ためらいがちに声をかけた。
「おい、どうなんだ? 何の腹痛だ? その症状に合う薬はあんのか?」
「今問診中だよ、ちょっと待ってな」
ピシリとそう言って、シュリは再びフユラに尋ねた。
「同じような腹痛は前にも経験したことがあるかい?」
「ううん、ない……と思う……」
「生理は?」
「え?」
その言葉に、フユラは澄み切ったすみれ色の瞳を切なそうに瞬かせた。
「せいり……? 何? それ」
硬直するガラルドに、押し殺したシュリの声が響く。
「……保護者。そういう教育はしていないのかい?」
「……え。あ…………」
衝撃的なキーワードに少なからぬ動揺を受けたガラルドは、とっさに何を言っていいのか分からず、珍しくうろたえた。
その様子を見たシュリは、溜め息をひとつつき、こう呟いた。
「まったく、保護者が聞いてあきれるよ……。大事なことなのにね。―――よし、フユラ、辛いだろうけど、起きれるかい? 少しあっちへ行こうか。確かめたいことがあるんだ」
「??? う、うん……」
シュリとガラルドとのやりとりにただならぬ雰囲気を感じつつ、フユラは老婆に促されるまま立ち上がると、不安そうな顔で一度保護者の青年を振り返った後、彼女と木立の中へ消えていった。
ひとり取り残される格好になったガラルドは、呆然とした面持ちで、近くの木の幹にトン、と寄りかかった。
こんなに間抜けな姿を他人の前に晒したのは後にも先にもこれが初めてだったが、今の彼はそれに気付く余裕すらなかった。
生理。
生理、だと……!?
フユラが、か……!?
それは、女性であればいずれは誰にでも訪れる、性徴の印―――十三才になったフユラに訪れても決して不思議ではないことだったのだが、ガラルドにとってそれは、まさに青天の霹靂と言えた。
彼にとってそれは、考えたこともない、まさかの事態だったのだ。
日一日と成長していくフユラを見守りながら、何故か、彼女がいつか大人になるのだということを想像出来ていなかった。いつまでも子供のままだと―――心のどこかで、そう思い込んでしまっていたのだ。
「きゃっ……」
その時、木立の奥から微かなフユラの声が聞こえてきて、ガラルドはぎくりと身体を強張らせた。
フユラとシュリの気配は、変わらない位置にある―――辺りに、危害を加えそうな生物の気配もない。アクシデントが起こったわけではなさそうだ。
―――な、何なんだ……。
妙な動悸で息苦しくなるのを覚えながら、ガラルドはイライラと気を揉んだ。
まだ、フユラにそれが訪れたと決まったわけではない。だが、いずれはその時が来るのだということに気付かされて、それに少なからぬ動揺をしている自身を感じ、何とも言えない、複雑で腹立たしい気分になった。
もしかしたらそれは、思春期の娘を持つ父親のような気持ち―――それに近いモノだったのかもしれない。
フユラとシュリは、しばらくしてから戻ってきた。難しい顔をしたシュリと、頬を染めてうつむくフユラの様子を見て、ガラルドには察しがついた。
どういう態度を取ったらいいものかと、表面上は平静を装いながら内心頭を悩ませていると、シュリの手にした杖がボカッとガラルドの頭に落とされた。
「……!? なっ、何しやがるこのババアッ!」
「ババアじゃないわ、このエセ保護者ッ!」
抗議の声を上げるガラルドに、シュリが怒りの声を返す。
「あぁ!?」
「お前は保護者の役目をなんッも果たしとらん!」
「ンだと!?」
「思春期の子供ってのは、心と身体のバランスを保つのが何よりも大事な時期なんだよ! 肉体の変化に戸惑い、不安を覚える―――お前にも覚えがあろうがっ」
ガラルドは一瞬、言葉を飲み込んだ。
思春期と呼べる時期は、彼にとってはおそろしく昔の話で―――思い出そうと記憶をたどってみても、なかなかそこにたどり着くことが出来ない。
「生理はおろか、性のことについて何ひとつ教えていないばかりか、あまつさえブラジャーひとつ買い与えてやってないなんて、どういうつもりなんだい!」
「ブッ……」
絶句するガラルドに、シュリは畳み掛ける。
「ふくらみ始めってのはね、ちょっとした振動でも痛いものなんだよ! ブラジャーを着けることによって、それがどれだけ軽減されるか……活動しやすくするという意味でも、それに、形を崩さないようにする為にも、ブラジャーを身に着けるってことは有効なんだよ!」
「シュ、シュリさんッ」
真っ赤になったフユラが、耐えかねた様子で背後から老婆に抱きついた。
「も、もういいからっ。言わなかったあたしも悪いんだし……」
「いーや、これは大人が悪いッ」
シュリはきっぱりとそう言って、ガラルドをにらみつけた。
「子供が恥ずかしくて言い淀むだろうことを察して、上手に手を差し伸べてやるのが大人の役目ってもんだろう?」
「―――……ッ」
ガラルドは片手で口元を覆うようにして、目の前の老婆を見た。その後ろで、真っ赤になってガラルドと目を合わせないようにしているフユラの身体が、小さく震えているのが分かった。
シュリによって突きつけられた、事実―――過失が自分にあることは、火を見るより明らかだった。
同性の知り合いどころか、頼る者がガラルドしかいないフユラは、そういったことを誰にも相談することが出来ず―――ガラルドの知らぬところで一人、悩んでいたに違いない。
フユラに負けないくらい自分の顔が赤くなっているだろうことを自覚しながら、ガラルドは少女の名を呼んだ。
「―――フユラ」
ビクリ、と少女の小柄な身体が震え、そろそろと、澄んだすみれ色の瞳がためらいがちにこちらへ向けられた。その瞳を見つめ、ガラルドは謝罪した。
「気付かなくて―――悪かった……」
心から出た言葉だった。
保護者失格―――と言われても、返す言葉がない。
「ガ……ガラルド……」
そんな初めて見る保護者の青年の姿に、何と答えていいか分からない様子で、銀色の髪の少女が困った顔でその名を呼ぶ。
その様子を見ていたシュリは、深い深い溜め息を吐き出した。
「まぁ……反省してるようだし、保護者としての最低限の自覚は持ってるようだね。フユラ、お前さんがいいっていうんなら許してやるといい」
「ゆっ、許すも何もっ……あたし、別に怒ってないよ」
「なら、それでいいさ。……優しい子で良かったね、保護者」
少しだけ口元を緩めたシュリに、ガラルドは決まりが悪そうな表情を見せると、ぶっきらぼうな口調でフユラに尋ねた。
「……で、お前……具合はどうなんだ」
「え……あ、うん……まだちょっと痛いけど、さっき生理痛の薬をもらって飲んだから……」
「少し休めば、薬が効いてじき楽になってくる。それまで横になっていればいいさ」
シュリにそう促されて、フユラは痛みが治まるまで休むことになった。
木陰で横たわり瞳を閉じているうちに、薬が効いて楽になってきたのか、いつしかフユラの口からは穏やかな寝息が聞こえ始めた。
その様子を見てホッと肩の力を抜いたガラルドに、シュリが話しかけてきた。
「どうやら薬が効いてきたようだね。顔色も戻ってきたし……昨日は痛みのせいであまり眠れなかったみたいだね」
「……あぁ」
頷いて、ガラルドは薬師の老婆を見た。
「……面倒、かけたな」
「過ぎたことは、もういいよ。まぁ、わたしがいてあんた達、運が良かったね」
まったくだった。
シュリがいなければ、今頃どうなっていたことか―――途方に暮れていたに違いない自分の姿を想像して、ガラルドは頭を痛めた。
女性特有のこういった現象について、男の自分は経験はもちろん、細かい知識もないのだ。
「……なぁ」
暗い緋色の瞳を彷徨わせながら、ガラルドは聞きにくそうに口を開いた。
「生理……って、毎回、こんなに苦しむモンなのか?」
「個人差が大きいから何とも言えないけどね、ひどい人はひどいよ。この子の場合は今日が初めてだからね……初めての時は痛みを覚える人が多いものなんだ。次からは全く痛まないって人もいるから、様子を見てみないと、こればっかりは分からないね」
初めて耳にする情報だった。
ひと口に生理といっても、個人によってそんなに違いがあるものなのか。
成熟した女性に月に一度訪れるモノ、といった程度の知識しかなかったガラルドにとっては、軽い衝撃だった。
「そう……なのか。痛みがひどかった場合は、その……何ていう薬を与えてやればいいんだ? その薬は、どこの町の薬屋でも売ってるモンなのか」
「……へぇ」
シュリは皺だらけの口元にうっすらと笑みを刷くと、頼もしそうに浅葱色の瞳を瞠った。
「な……何だよ」
「この子のこと、大事に思っているんだね」
「!」
面と向かって赤面するようなことを言われ、ガラルドは苦々しい顔でシュリから視線を逸らした。
これだから、年寄りは嫌だ。特に世話焼きの部類に属する輩は、恥ずかしげもなくこういう言葉を使ってくるから、タチが悪い。
「ふふ……生理痛に効くのは、セガールっていう薬だよ。コイツはいくつかの薬草を調合したもので、頭痛なんかにも効くんだ。だいたいどこの町の薬屋でも売っているよ。ほら、コイツさ」
シュリはそう言って、薬箱の中のセガールをガラルドに見せた。仄かに赤味がかった粉末状の薬が、一包ずつ丁寧に半透明の紙に包まれている。
「セガール、だな」
その薬を目に焼きつけながら、ガラルドはそう呟き―――しばらく沈黙した後、意を決したようにシュリの顔を見た。
「うん? 何だい、人の顔をまじまじと見て」
フユラが寝ていて良かったと心から思いながら、ガラルドは口を開いた。
「あの……よ、わりぃけど―――面倒ついで、マウロに着いたらコイツに、色んなモンの選び方っつーか、買い方を教えてやってもらえねぇか。その分は、報酬から差し引いてもらって構わねーから」
「色んなものっていうと……例えばブラジャーとかかい?」
そういう固有名詞を出すな、と心の中でぼやきながら、ガラルドは頷いた。
「まぁ……そういう、女特有のモン。オレが一緒に行ってやるワケにもいかねーだろ? 選び方とかもよく分かんねーし……」
言葉を濁しながらの不器用な頼み方ではあったが、彼なりの誠意は相手に伝わったらしく、シュリは楽しそうに笑って、一見ふてくされたような表情になってしまったガラルドを見やった。
「ふふ……そうだねぇ、フユラはいい子だし、あんたもどうやら悪い人じゃなさそうだ。口は悪いし、見てくれはちょっと怖そうだけどね。……報酬は、そのままでいいよ。その代わり―――引き続き、“レウラの丘”への護衛も引き受けてもらおうかね。もちろん、その報酬はタダ同然でお願いするよ」
「っ……あざといババアだな」
「あざといとは何だい、わずかな資産を有効に活用しようとする、涙ぐましい、か弱い年寄りの知恵だよっ」
「ものは言いよう、だな」
「嫌味な男だね。わたしの出した条件を飲むのか飲まないのか、どっちなんだい」
眉を跳ね上げてそう詰め寄るシュリ―――背に腹は変えられないガラルドは、盛大な溜め息をついた。
「……わぁーったよ。その条件で、雇われてやるよ」
「どうしてそう、上からものを言うかね、この保護者は。こういうところはフユラの方がよっぽど大人だよ」
自分に対してまるで物怖じしない老婆の態度に、ガラルドはふと、懐かしいものを覚えた。
時には辛辣に、けれど決して批判するだけではない―――どこか温かみさえ感じられる、こんなにもありのままの言葉をぶつけてくる存在は―――……育ての親である呪術師を、思い起こさせた。
成り行き上、この老婆とはもう少しだけ長く付き合うことになりそうだ。
傭兵などという人に使われる仕事は基本的に好きではない、が―――……。
―――まぁ、仕方がねぇ、か……。
最初にこの老婆の依頼を引き受けた時よりは、いくぶん大らかな気持ちで、ガラルドはそれを承諾したのだった。
呪術とは、己の持つ魔力を源に様々な現象を具現化する魔法のチカラ―――それを操る能力を持つ者達を総称して、“呪術師”と呼ぶ。
ひとくちに呪術師と言っても、その系統は実に様々である。火水風土の四大元素に基づいた力を振るう者、神に祈りを捧げることで病気やケガを癒す者、逆に邪神に祈りを捧げ他人に災いを及ぼす者など、多種多様だが、彼らに共通するのは、呪紋と呼ばれる紋様を描くことによってその力を発動する点だ。
そういったチカラを手にすることによって、人々は決して暮らしやすいとは言えない環境の中で、独自の文明を築き上げ、その多くはつつましくささやかな生活を送っている。
この世界に於いて、最も恐れられる存在が魔人―――魔人とは、『神が産み出した災厄』と謳われ人々に恐れられる、異形の生物である。
その外見は人に似ているが、翼を持つ者、肉食獣のような手足を持つ者等、その形体は個々によって異なっており、同じ形体を持つ者はいない。
人に近い姿でありながら、人とは決定的に違うその生物は、長命で、強靭な肉体を持ち、強大な魔力を誇る。その圧倒的な力の前には、人間はただひれ伏すことしか出来ない。人間達の生み出した武具や呪術など、魔人の力の前ではあまりにもささやかなものだ。
『ディーヴァ』という呼び名は、その昔、一人の魔人がまるで歌をくちずさむかのように軽々と一国を滅ぼしたところから付けられたと言われている。
人間にとっての救いは、そのあまりに強大な力ゆえか、魔人はその個体数が極めて少なく、単独で行動することを好み、自分以外のものには基本的に関心を示さない、独特の性質にあった。簡単に言うと、人前に姿を現す、ということがまずないのだ。
とはいえ、気紛れを起こして惨禍を巻き起こしたという話は度々歴史上に登場している。もし魔人が支配欲を持ち、徒党を組むような性質であったなら、人間という種族は遠い昔にこの地上から消滅していたことだろう。
それ故、学者達の中には、『魔人は世界の均衡を保つ為に神が創り出した必要悪』という説を唱える者がいる。人間が増え過ぎて食物連鎖が崩れるのを防ぐ為に、神が魔人を産み出したのだと、そういう理屈だ。
実はガラルドの父親は、この魔人にあたる。彼は、人間と魔人との間に生まれた半魔なのだ。
両親の関係は、深い愛情で結ばれていた―――というものではない。人間の母を魔人の父が無理矢理奪い、結果、ガラルドが出来たという―――そういう、ものだった。
数年前、初めて目にしたその父親は、母親を襲ったことについて、
『どんなモンか興味があったんだよ。それ以上でも、以下でもねぇ』
という暴言を吐いた。
母親には将来を誓い合った呪術師の青年がいたのだが、彼は何故か、魔人の子を身ごもった彼女を、変わらず一途に愛し続けた。
そして、ガラルドを産んでまもなく、流行り病で彼女があっさり逝ってしまった後、彼は酔狂にもその半魔の子を引き取り、育てることにしたのだ。
呪術師として嘱望されていた未来を自ら断ち、家族から絶縁され、人々からは敬遠され、後ろ指をさされ―――人里離れた草原の、小さな家で暮らし始めた。
全てを聞かされ育ったガラルドには、この男の生き方が理解出来なかった。
バカとしか言いようがない―――そう、思っていた。
それは、母にしてもそうだ。
自分など、産まなければ良かったのに。
そうすれば、また違う未来も拓けていたのだろうに―――。
人生の全てを投げ出し、彼らが―――特に、育ての親であるあの男が得たものは、いったい何だったのだろう。
残ったものといえば、自分という半魔の存在だけ―――特に男に懐くわけでもなく、成長してからは長い人生を持て余し、ただふらふらと旅をして―――こんなモノを育てる為に、彼は自分の人生を犠牲にしたのだろうか。
そんなガラルドに転機が訪れたのは十一年前―――ひと晩の宿を求めて立ち寄った小さな村で、彼は瀕死の呪術師の女性と出会い、彼女に特殊な呪術をかけられた。
それは、『生命を繋ぐ呪術』―――ガラルドは、彼女の幼い娘と運命を繋がれてしまったのだ。
それが、フユラだった。
その呪いを解く為には、遥かな魔法都市アヴェリアに赴くしかない。
ガラルドとフユラの旅は、こうして始まったのだった。
その途中様々な出来事があり、その中で、フユラの母がアヴェリアの高位の呪術師だったこと、アヴェリアでは魔人に対抗する為の“夢の人類”誕生プロジェクトが極秘裏に進められていること、その被験体だったフユラの持つ魂の輝きにセラフィスという魔人が魅せられ、彼女を付け狙っていること、などが分かった。
そして、そんな中で少しずつ、少しずつ築かれていった、ガラルドとフユラの関係―――最近になって、ガラルドはようやく、育ての親である呪術師の生き方にはそれなりの意味があったのかもしれない、と思えるようになった。
彼と最後に会ったのは、アヴェリアへ向けて旅立った十一年前―――その当時、既に老齢となっていたあの呪術師は、今もまだ、あの古びた家で一人、暮らしているのだろうか。
今もなお、アヴェリアへと向かっている旅の途中―――人間の寿命を考えれば、彼が生きているうちに再び相見えることは、おそらくもう、ないのだろう。
マウロへと続く街道を歩きながら、ふと、そんなことを、ガラルドは思った。
涼やかな風が、柔らかく頬をなでていく―――……。
雇い主の老婆の名は、シュリといった。
見事な白髪を頭の上でひとつにまとめ、薄茶色の長衣の上からくたびれたオリーブ色の外套を羽織っている。浅葱色の瞳が穏やかな、深い皺の刻まれた顔は、よく見れば整った造作をしていた。若い頃は、けっこうな美女だったのかもしれない。
彼女の左の手首に、老婆には不釣合いなデザインの、美しい珊瑚色の石を組み合わせた繊細な細工のブレスレットが嵌められていたのが、ガラルドの目を引いた。
木製の杖をつきながら歩くシュリの隣を歩きながら、フユラが彼女に話しかけた。
「おばあちゃん、マウロの先の丘に用事があるって言っていたよね。そこって、マウロから近いの?」
「まぁ、そうだね。“レウラの丘”と呼ばれているところなんだけど……歩いて半日程度じゃないかね」
「そうなんだ? 良かったら、そこまでの護衛も引き受けるよ?」
「ふふ、商売熱心なお嬢ちゃんだね。まぁその話は、町までのあんたらの様子を見て、わたしの懐具合と相談してから、だね。後はお連れのお兄さんの気分次第かね」
二人の話を聞きながら後ろで渋い顔をするガラルドの様子が想像出来たらしく、シュリはそう言って笑った。振り返って、その表情を確認したフユラも笑う。
「ところで、二人はどういう関係なんだい? 兄妹のようには見えないけど……」
「あ、それはねー……」
「保護者だ」
間髪入れず、ガラルドはそう答えた。
「とある理由でコイツを預かった。それだけの関係だ」
その素っ気ない回答に、フユラが愛らしいカーブを描く頬をふくらませる。
「そういう言い方はないんじゃないの? もっとこう、旅のパートナー、とかさ」
「お前みたいなガキ、パートナーなんて言えるか。せめて呪術師と呼べるレベルになってから、そういうコトは言え」
「ガ、ガキとは何よっ! 未来のレディーに向かってっ!」
「レディーってガラかよ……っつーか、今はやっぱガキってコトじゃねーか」
口論に発展しそうな二人の勢いに、溜め息混じりのシュリの声が割って入った。
「……二人の仲がいいのはよう分かった。もう、その辺でやめておきな」
「ガラルドのバカッ」
ぷんぷんしながら、フユラが大股で運命を共有する青年に背を向ける。
何故だか最近は、こういうことが多くなっていた。
唇をとがらせながら、フユラは思う。
以前のガラルドはとても優しかったのに、最近は何だか冷たく、素っ気ない感じがする。今のように、二人の関係を聞かれた時などは特にそうだ。
保護者―――それは確かに、間違ってはいない。物心ついた時から、自分はガラルドとずっと一緒にいて、彼に育ててもらったようなものだ。
自分の母親の呪術によって、ガラルドは幼い自分と生命を繋がれ、アヴェリアを目指すことを余儀なくされてしまった―――それは、彼にとっては予想しえない最悪の出来事だったと言えるだろう。それを預かったと言ってくれているだけ、感謝するべきなんだろうとは思う。
けど―――そんな言い方をされると、最近は特に、悲しいし、寂しい感じがした。
―――昔みたいに、手も繋いでくれないしさっ……。
何とも言えず胸が重苦しい感じになってきて、フユラはそっとそこに手を当てた。怒り任せにどしどし歩いていたので、その振動でも胸が痛む。
自分が成長するにつれて、いつの間にか―――二人の間には、触れ合うということが、なくなっていた。当たり前のように触れ合っていたあの頃が、何だか今は、ひどく昔のことのように感じられる。
ずっと側にいるのに、何だかだんだんガラルドが遠くになっていくような気がして―――それが怖くて、フユラはそれ以上考えることをやめた。
立ち止まったフユラの様子に何か察するものがあったのか、ゆっくりと歩み寄ったシュリが、穏やかな声をかけた。
「フユラ、っていったっけね? 呪術師の修行中って話だったけど、どんな呪術を勉強しているんだい?」
「え……あ、うん……今は風系と、あと回復系、かな。最近少しずつ、自信がついてきたトコなんだ」
「おや、ということは、四大元素系と信仰系、両方を使えるんだ。凄いじゃないか。異なる系統を使える人は、少ないって言うよ」
「えへ……」
照れ笑いを浮かべて、フユラは軽く頭をかいた。何気ない会話だったが、重く沈みこんでいた気持ちが、それだけでずいぶん救われたような気がする。
「おばあちゃん……シュリさんは、何をしていた人なの?」
そう尋ねると、老婆は腰にくくりつけてあった道具袋の中から小さな箱を取り出し、それを広げて見せた。
「わたしは故郷で薬師をしていたんだよ。自分で薬草を取ってきて、調合したりしていたんだ」
「へぇ、薬師!? スゴい!」
箱の中には様々な色や形の薬が数種類、整然と並べられていて、それを目にしたフユラは目を輝かせた。
「わたしも薬師として一人前になるまでには、だいぶ時間がかかった。だから、フユラ……お前さんも、あせることはない。まだ若いんだからね。一日一日、自分の出来ることをして、高みを目指していけばいい。そうすれば、いつかおのずと一人前と呼ばれるようになっているはずさ」
シュリのその言葉に温かさを感じて、フユラは微笑み、頷いた。
「……うん! そうだね」
その様子を、少し後ろから、ガラルドは無言で見つめていた。
その夜、野営の番を務めながら、ガラルドは昼間見た夢のことを思い出していた。
幼い頃のフユラと、彼女を温かく見つめる、自分―――。
懐かしい、夢―――何故、あんな夢を見たのだろう。
乱舞する炎を頬に映しながら、ガラルドは近くで眠るフユラを見やった。
シュリと隣り合わせで健やかな寝息を立てている、運命を共有する少女―――彼女が呼吸するたび、身体にかけられた生成り色の外套が緩やかに上下している。
ガラルドはそっと、自らの左足首に触れた。
彼の左足首とフユラの左手首には、彼女の母親によって施された黒い呪紋が、ぐるりと一周するようにして刻まれている。彼女の左手首にリストバンドが嵌められているのはその為だ。当初はひどく禍々しいと感じられていたものだが、今となっては、何だか自分と少女を繋ぐ“絆”のようにさえ、ガラルドには感じられている。
幼い頃のフユラは、セラフィスという魔人から身を守る為、その存在の輝きを隠す為の呪術を母親にかけられていた。その影響から、当時の彼女は無口で大人しく、感情をあまり表に出さない、少々成長の遅れた感のある、人形のような可愛らしさの少女だったのだ。
それが六年前、その呪術が解けてからというもの、彼女はそれまでの遅れを取り戻すかのようにめざましいスピードであらゆるものを吸収し、社交的で、ひどく活動的な少女になってしまった。
社交性が皆無で協調性がなく、口数もそう多くはない自分といるはずなのに、何故この少女は、こんなにも正反対に成長してしまったのか。
その成長ぶりは、ガラルドを軽く混乱させていた。
年々、フユラは『ハルヒ』に似てきてしまっているのだ。
ハルヒというのは、六年前、突然彼らの目の前に現れた、『未来のフユラ』が名乗った名前だ。何故そんな事態が起こってしまったのかというと、それはひとえにガラルドの過去の過ちによるものなのだが―――幼かったフユラは当時のことをよく覚えていないようだったが、ガラルドの脳裏にはその時の出来事が鮮明に焼きついていた。
『ハルヒと名乗ったフユラ』の容姿は十五才程度に見えたが、彼女は元の時代に戻るまでに、世にも怖ろしい予言を残していったのだ―――。
それは、その時の彼女とガラルドが恋仲になっているという、ガラルド的には考えられない、信じられない内容の話だった。
二才の時から共に過ごしてきた少女とそんな関係になるなど、有り得ないし、考えられない。
自分はロリコンではないのだ。
ガラルドはそうなることは百パーセントないという自信のもと、この目で見てきたいくつもの未来と重なる符号を無視し、普段は考えないようにしているのだが、昼間のように二人の関係を尋ねられた時などは、ついつい過敏に反応してしまう傾向にあるようだ。
―――何やってんだか、オレは……。
「有り得ねっての……」
そう独りごちて、ガラルドは手元の枯れ木を手折り、焚き火の中にくべた。
健やかに眠るフユラの表情は、まだまだ子供だ。
その身に大きすぎる、強大な潜在能力を有した、“夢の人類”―――その溢れんばかりの、魔人の心すら魅了した魂の輝きは、今、左手首の護符の力でどうにか抑えているといった状態だ。
考えてみれば不思議だ、とガラルドは思う。
人間と魔人との混血である自分と、人の手と自然の摂理とが奇跡的な確率で創り出した、いわば人類の進化版である少女―――共にこの世界で異端たる二人が巡り会い、こうして共に旅をしているというその現実―――神という者がこの世に存在するのかは分からないが、もしそういう者が存在するのだとしたら、その存在はかなりの悪戯好きと言えるだろう。
不安定な力を有した少女は、夢に見たあの頃と変わらず、ガラルドにとって、特別な意味を持つ。初めて出会った、『守りたい』と思える唯一の存在―――『大切』と呼べる存在なのだ。
だが、それはおそらく家族だとかペットなどに抱く感情に近いものなのであって、それが恋愛対象に変わるなどということは、未来永劫、有り得ない。
静かな月の光が冴え冴えと映し出す夜の闇の中、ガラルドは自らの中で改めてそう結論付けた。
未来は、自分で選び取り、切り拓くものなのだ。
あらかじめ定まった未来など、有りはしない―――……。
翌日も順調に歩を進め、ほぼ予定通りの行程を進むことが出来た。途中、野盗の一団に出くわしたものの、ガラルドの活躍によってあっさりと事なきを得、そして、更に翌日。この日も朝から天気が良く、このまま行けば、昼過ぎには予定通りマウロの町にたどり着けるだろう―――地図を眺めながらガラルドはそう踏んでいたのだが、現実は、なかなか予定通りにはいかないものだ。
その日、フユラは朝から元気がなかったのだが、歩き始めて少し経つと、その顔色が目に見えて悪くなってきた。時折下腹部に手を当て、切なそうな吐息をつく。
「どうした? 腹が痛いのか」
ガラルドがそう尋ねると、フユラは小さく頷いて、青ざめた顔でこう答えた。
「うん……昨日の夜から、ちょっと痛かったんだけど……何か、だんだん痛くなってきちゃって」
「ひどい顔色だよ。大丈夫かい?」
シュリがそう言って、フユラの白い額に手を当てた。
「熱はないようだけど……どんなふうに痛むんだい?」
「何て言ったらいいのかな……波があるわけじゃなくって、じわじわとお腹の下が締め付けられるようなカンジが続いているっていうか……」
「―――とりあえず木陰で休もう」
街道沿いにある比較的大きな木の下まで移動して、一行はフユラの様子を見ることになった。
「ごめんね、シュリさん……急いでいるのに」
道具袋を枕にして横たわり、小さな声でそう詫びるフユラに、シュリは首を振って、腰の道具袋から薬箱を取り出した。
「子供がそんなこと、気にするもんじゃないよ」
「子供じゃないモン……」
「そうだったね。呪術師の卵なんだった、悪かったよ」
シュリはそう笑って、フユラの額の汗を拭いてやった。
「手足の先が冷たい……少し貧血を起こしている感じもあるね。痛いのは下腹部だけ? 吐き気はあるかい?」
「ううん、吐き気は……痛いのは、お腹だけ……」
そんな二人の様子を見ていたガラルドが、ためらいがちに声をかけた。
「おい、どうなんだ? 何の腹痛だ? その症状に合う薬はあんのか?」
「今問診中だよ、ちょっと待ってな」
ピシリとそう言って、シュリは再びフユラに尋ねた。
「同じような腹痛は前にも経験したことがあるかい?」
「ううん、ない……と思う……」
「生理は?」
「え?」
その言葉に、フユラは澄み切ったすみれ色の瞳を切なそうに瞬かせた。
「せいり……? 何? それ」
硬直するガラルドに、押し殺したシュリの声が響く。
「……保護者。そういう教育はしていないのかい?」
「……え。あ…………」
衝撃的なキーワードに少なからぬ動揺を受けたガラルドは、とっさに何を言っていいのか分からず、珍しくうろたえた。
その様子を見たシュリは、溜め息をひとつつき、こう呟いた。
「まったく、保護者が聞いてあきれるよ……。大事なことなのにね。―――よし、フユラ、辛いだろうけど、起きれるかい? 少しあっちへ行こうか。確かめたいことがあるんだ」
「??? う、うん……」
シュリとガラルドとのやりとりにただならぬ雰囲気を感じつつ、フユラは老婆に促されるまま立ち上がると、不安そうな顔で一度保護者の青年を振り返った後、彼女と木立の中へ消えていった。
ひとり取り残される格好になったガラルドは、呆然とした面持ちで、近くの木の幹にトン、と寄りかかった。
こんなに間抜けな姿を他人の前に晒したのは後にも先にもこれが初めてだったが、今の彼はそれに気付く余裕すらなかった。
生理。
生理、だと……!?
フユラが、か……!?
それは、女性であればいずれは誰にでも訪れる、性徴の印―――十三才になったフユラに訪れても決して不思議ではないことだったのだが、ガラルドにとってそれは、まさに青天の霹靂と言えた。
彼にとってそれは、考えたこともない、まさかの事態だったのだ。
日一日と成長していくフユラを見守りながら、何故か、彼女がいつか大人になるのだということを想像出来ていなかった。いつまでも子供のままだと―――心のどこかで、そう思い込んでしまっていたのだ。
「きゃっ……」
その時、木立の奥から微かなフユラの声が聞こえてきて、ガラルドはぎくりと身体を強張らせた。
フユラとシュリの気配は、変わらない位置にある―――辺りに、危害を加えそうな生物の気配もない。アクシデントが起こったわけではなさそうだ。
―――な、何なんだ……。
妙な動悸で息苦しくなるのを覚えながら、ガラルドはイライラと気を揉んだ。
まだ、フユラにそれが訪れたと決まったわけではない。だが、いずれはその時が来るのだということに気付かされて、それに少なからぬ動揺をしている自身を感じ、何とも言えない、複雑で腹立たしい気分になった。
もしかしたらそれは、思春期の娘を持つ父親のような気持ち―――それに近いモノだったのかもしれない。
フユラとシュリは、しばらくしてから戻ってきた。難しい顔をしたシュリと、頬を染めてうつむくフユラの様子を見て、ガラルドには察しがついた。
どういう態度を取ったらいいものかと、表面上は平静を装いながら内心頭を悩ませていると、シュリの手にした杖がボカッとガラルドの頭に落とされた。
「……!? なっ、何しやがるこのババアッ!」
「ババアじゃないわ、このエセ保護者ッ!」
抗議の声を上げるガラルドに、シュリが怒りの声を返す。
「あぁ!?」
「お前は保護者の役目をなんッも果たしとらん!」
「ンだと!?」
「思春期の子供ってのは、心と身体のバランスを保つのが何よりも大事な時期なんだよ! 肉体の変化に戸惑い、不安を覚える―――お前にも覚えがあろうがっ」
ガラルドは一瞬、言葉を飲み込んだ。
思春期と呼べる時期は、彼にとってはおそろしく昔の話で―――思い出そうと記憶をたどってみても、なかなかそこにたどり着くことが出来ない。
「生理はおろか、性のことについて何ひとつ教えていないばかりか、あまつさえブラジャーひとつ買い与えてやってないなんて、どういうつもりなんだい!」
「ブッ……」
絶句するガラルドに、シュリは畳み掛ける。
「ふくらみ始めってのはね、ちょっとした振動でも痛いものなんだよ! ブラジャーを着けることによって、それがどれだけ軽減されるか……活動しやすくするという意味でも、それに、形を崩さないようにする為にも、ブラジャーを身に着けるってことは有効なんだよ!」
「シュ、シュリさんッ」
真っ赤になったフユラが、耐えかねた様子で背後から老婆に抱きついた。
「も、もういいからっ。言わなかったあたしも悪いんだし……」
「いーや、これは大人が悪いッ」
シュリはきっぱりとそう言って、ガラルドをにらみつけた。
「子供が恥ずかしくて言い淀むだろうことを察して、上手に手を差し伸べてやるのが大人の役目ってもんだろう?」
「―――……ッ」
ガラルドは片手で口元を覆うようにして、目の前の老婆を見た。その後ろで、真っ赤になってガラルドと目を合わせないようにしているフユラの身体が、小さく震えているのが分かった。
シュリによって突きつけられた、事実―――過失が自分にあることは、火を見るより明らかだった。
同性の知り合いどころか、頼る者がガラルドしかいないフユラは、そういったことを誰にも相談することが出来ず―――ガラルドの知らぬところで一人、悩んでいたに違いない。
フユラに負けないくらい自分の顔が赤くなっているだろうことを自覚しながら、ガラルドは少女の名を呼んだ。
「―――フユラ」
ビクリ、と少女の小柄な身体が震え、そろそろと、澄んだすみれ色の瞳がためらいがちにこちらへ向けられた。その瞳を見つめ、ガラルドは謝罪した。
「気付かなくて―――悪かった……」
心から出た言葉だった。
保護者失格―――と言われても、返す言葉がない。
「ガ……ガラルド……」
そんな初めて見る保護者の青年の姿に、何と答えていいか分からない様子で、銀色の髪の少女が困った顔でその名を呼ぶ。
その様子を見ていたシュリは、深い深い溜め息を吐き出した。
「まぁ……反省してるようだし、保護者としての最低限の自覚は持ってるようだね。フユラ、お前さんがいいっていうんなら許してやるといい」
「ゆっ、許すも何もっ……あたし、別に怒ってないよ」
「なら、それでいいさ。……優しい子で良かったね、保護者」
少しだけ口元を緩めたシュリに、ガラルドは決まりが悪そうな表情を見せると、ぶっきらぼうな口調でフユラに尋ねた。
「……で、お前……具合はどうなんだ」
「え……あ、うん……まだちょっと痛いけど、さっき生理痛の薬をもらって飲んだから……」
「少し休めば、薬が効いてじき楽になってくる。それまで横になっていればいいさ」
シュリにそう促されて、フユラは痛みが治まるまで休むことになった。
木陰で横たわり瞳を閉じているうちに、薬が効いて楽になってきたのか、いつしかフユラの口からは穏やかな寝息が聞こえ始めた。
その様子を見てホッと肩の力を抜いたガラルドに、シュリが話しかけてきた。
「どうやら薬が効いてきたようだね。顔色も戻ってきたし……昨日は痛みのせいであまり眠れなかったみたいだね」
「……あぁ」
頷いて、ガラルドは薬師の老婆を見た。
「……面倒、かけたな」
「過ぎたことは、もういいよ。まぁ、わたしがいてあんた達、運が良かったね」
まったくだった。
シュリがいなければ、今頃どうなっていたことか―――途方に暮れていたに違いない自分の姿を想像して、ガラルドは頭を痛めた。
女性特有のこういった現象について、男の自分は経験はもちろん、細かい知識もないのだ。
「……なぁ」
暗い緋色の瞳を彷徨わせながら、ガラルドは聞きにくそうに口を開いた。
「生理……って、毎回、こんなに苦しむモンなのか?」
「個人差が大きいから何とも言えないけどね、ひどい人はひどいよ。この子の場合は今日が初めてだからね……初めての時は痛みを覚える人が多いものなんだ。次からは全く痛まないって人もいるから、様子を見てみないと、こればっかりは分からないね」
初めて耳にする情報だった。
ひと口に生理といっても、個人によってそんなに違いがあるものなのか。
成熟した女性に月に一度訪れるモノ、といった程度の知識しかなかったガラルドにとっては、軽い衝撃だった。
「そう……なのか。痛みがひどかった場合は、その……何ていう薬を与えてやればいいんだ? その薬は、どこの町の薬屋でも売ってるモンなのか」
「……へぇ」
シュリは皺だらけの口元にうっすらと笑みを刷くと、頼もしそうに浅葱色の瞳を瞠った。
「な……何だよ」
「この子のこと、大事に思っているんだね」
「!」
面と向かって赤面するようなことを言われ、ガラルドは苦々しい顔でシュリから視線を逸らした。
これだから、年寄りは嫌だ。特に世話焼きの部類に属する輩は、恥ずかしげもなくこういう言葉を使ってくるから、タチが悪い。
「ふふ……生理痛に効くのは、セガールっていう薬だよ。コイツはいくつかの薬草を調合したもので、頭痛なんかにも効くんだ。だいたいどこの町の薬屋でも売っているよ。ほら、コイツさ」
シュリはそう言って、薬箱の中のセガールをガラルドに見せた。仄かに赤味がかった粉末状の薬が、一包ずつ丁寧に半透明の紙に包まれている。
「セガール、だな」
その薬を目に焼きつけながら、ガラルドはそう呟き―――しばらく沈黙した後、意を決したようにシュリの顔を見た。
「うん? 何だい、人の顔をまじまじと見て」
フユラが寝ていて良かったと心から思いながら、ガラルドは口を開いた。
「あの……よ、わりぃけど―――面倒ついで、マウロに着いたらコイツに、色んなモンの選び方っつーか、買い方を教えてやってもらえねぇか。その分は、報酬から差し引いてもらって構わねーから」
「色んなものっていうと……例えばブラジャーとかかい?」
そういう固有名詞を出すな、と心の中でぼやきながら、ガラルドは頷いた。
「まぁ……そういう、女特有のモン。オレが一緒に行ってやるワケにもいかねーだろ? 選び方とかもよく分かんねーし……」
言葉を濁しながらの不器用な頼み方ではあったが、彼なりの誠意は相手に伝わったらしく、シュリは楽しそうに笑って、一見ふてくされたような表情になってしまったガラルドを見やった。
「ふふ……そうだねぇ、フユラはいい子だし、あんたもどうやら悪い人じゃなさそうだ。口は悪いし、見てくれはちょっと怖そうだけどね。……報酬は、そのままでいいよ。その代わり―――引き続き、“レウラの丘”への護衛も引き受けてもらおうかね。もちろん、その報酬はタダ同然でお願いするよ」
「っ……あざといババアだな」
「あざといとは何だい、わずかな資産を有効に活用しようとする、涙ぐましい、か弱い年寄りの知恵だよっ」
「ものは言いよう、だな」
「嫌味な男だね。わたしの出した条件を飲むのか飲まないのか、どっちなんだい」
眉を跳ね上げてそう詰め寄るシュリ―――背に腹は変えられないガラルドは、盛大な溜め息をついた。
「……わぁーったよ。その条件で、雇われてやるよ」
「どうしてそう、上からものを言うかね、この保護者は。こういうところはフユラの方がよっぽど大人だよ」
自分に対してまるで物怖じしない老婆の態度に、ガラルドはふと、懐かしいものを覚えた。
時には辛辣に、けれど決して批判するだけではない―――どこか温かみさえ感じられる、こんなにもありのままの言葉をぶつけてくる存在は―――……育ての親である呪術師を、思い起こさせた。
成り行き上、この老婆とはもう少しだけ長く付き合うことになりそうだ。
傭兵などという人に使われる仕事は基本的に好きではない、が―――……。
―――まぁ、仕方がねぇ、か……。
最初にこの老婆の依頼を引き受けた時よりは、いくぶん大らかな気持ちで、ガラルドはそれを承諾したのだった。
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何も知らずにいたアリスは酷くショックを受ける。
先方が承諾した事で、アリスの気持ちは置き去りに、婚約者を入れ換えられる事になってしまった。
悲しみに沈むアリスに、夫となる伯爵は告げた、「これは白い結婚だ」と。
運命は回り始めた、アリスが辿り着く先とは… ◇異世界:短編16話《完結しました》
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