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嬢
贖
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太郎は、どうしても今日朝一番で謝罪する必要があった。洋平に、相続権の生前廃除手続きをされては困るからだ。
午前9時。太郎は実家のインターホンを鳴らす。
『どうぞ、お入りください』
雪乃の声。カメラの映像で来訪者を確認出来るため、名乗る必要は無い。
太郎は自ら玄関の扉を開け、家に入る。
洋平はリビングのソファに腰を掛け、テレビを見ている。雪乃は台所で食器を洗っている。
太郎は、あくまで家の中に入る許可を得たに過ぎない。出迎えられたり、歓迎されることはない。
雪乃がソファの前、床に水の入ったコップを置く。
「座ったら?」
太郎はコップを置かれた場所に正座する。
「親父」
太郎が話し始めた途端、雪乃が眼前のソファに腰を下ろす。そして太郎をオットマンにするかのように、肩に足を乗せる。
「ここ、私の席だから」
「親父」
雪乃が太郎の頭を踏む。
「私に報告すること無い?」
10万円の使い道のことだ。
「香織に『使わずに貯めておきたい』『10万円なんて大金、使える余裕は無い』と言われた」
「んー、それは誰のお金?」
「……俺の金」
「家のお金です」
香織にも、同じことを言われた。それが何だというのだ。
「家の金は、俺の金だ」
「私は、家のお金を使ってとは言ってない。違い、わからないですか?」
「同じだろう。元々俺の金だ」
「婚姻期間中、形成された財産は、夫婦のどちらか一方の収入だけで形成された場合であっても共有財産です。家のお金は、香織さんの財産でもある」
「どうしろと言うんだ!」
声を荒らげる太郎。頭を踏み、黙らせる雪乃。
「太郎さんに100円あげる。オットマンの利用料。そこの棚の上にあるから、帰りに持っていって。洋平さん、あげてもいいよね?」
「構わんよ」
洋平は雪乃の横暴を注意しようともせず、大人しく従う。きっと何か弱みを握られているに違いない。
「太郎さん、こんなこと言われて腹立ってるでしょ? 私を踏んで、仕返ししていいよって言われたら、いくら払える?」
「お前を踏めるなら、3,000円払ってやる」
「妥当な額だね。気が済むまで罵倒させてあげる。いくら払える?」
「3……2万円払う。手持ちがそれだけしかない」
「私を踏んで、罵倒する行為は、太郎さんにとって23,000円の価値があるのね? 洋平さんは違う金額をつける。価値は人それぞれ。奉仕を積み重ねて、10万円分の価値があると思ってもらえることをすればいいでしょ。家のお金を使わなくても出来るよね」
「それなら出来る」
「じゃあ、改めて。昨日のことは水に流してあげる。洋平さんも、水に流してくれる?」
「ああ。雪乃が望むなら」
雪乃は太郎の肩に乗せている足を下ろし、立ち上がる。
「これで、この話はおしまい。二限目から授業だから、あとはお二人でどうぞ」
雪乃が大学に行ったため、洋平と太郎の二人きりとなった。
「何なんだ、あいつは……」
太郎は、洋平がそばに居るにもかかわらず、つい口を滑らせてしまった。洋平から怒号を浴びせられることを覚悟する。
しかし太郎の予想に反し、洋平は笑い飛ばした。
「太郎をオットマンにする料金は100円だったか。えらく買い叩かれたな。笑いをこらえるの大変だったぞ」
思い出すだけでも、腹が――立っていない。頭を踏まれたことなんて一度も無い。その一度目を、親父の前でされただなんて屈辱だ。酷い扱いをされた。それなのに、太郎は自分でも意外なほど、負の感情を抱いていない。
笑っている洋平の顔を最後に見たのは、23年前の事故の前。
「親父とこんな風に、他愛もない話をするのはいつ振りかな……」
「ゆ……母さんが、元気だった時以来だな」
話すのも、あの時以来か――。
「雪乃さんとは、どうやって知り合ったんだ? 親父との接点は無いだろう。こんなこと聞くと不快になるだろうが……結婚詐欺とか、保険金目当てでは無いのか? 雪乃さんに、不信感を抱きながら接したくないから、正直に言ってほしい」
洋平から怒号が飛んでくるのは覚悟の上。
しかし雪乃と何度も顔を合わせた後、感情移入してしまってからでは言い出しにくい。太郎は、今が尋ねられる最後の機会だと直感した。
「太郎が心配しているようなことは無い」
洋平は考えたり、躊躇うことなく否定した。しかし太郎は、あまりにもあっさりし過ぎていることが引っ掛かった。
「どうして無いと言い切れるんだ?」
洋平は棚の引き出しから、紙を取り出す。太郎は卓上に置かれた紙を見て、それが保険証券だとわかった。
「俺が加入している生命保険は10年ごとの更新タイプで、80歳まで更新が可能なもの。今年で終わりだ。生命保険目当てではないことはわかるだろ?」
「わかる」
洋平は預金通帳を開き、太郎に見せる。
「これが残高。生きてるだけでマイナスだから、残りはもうこれだけしか無い」
「不定期に入金されてる金は何だ?」
「残高不足にならないよう、雪乃が入れてくれている」
「そんな……」
知らなかったとはいえ、雪乃に娼婦だ何だと罵詈雑言を浴びせたことを悔いる。
午前9時。太郎は実家のインターホンを鳴らす。
『どうぞ、お入りください』
雪乃の声。カメラの映像で来訪者を確認出来るため、名乗る必要は無い。
太郎は自ら玄関の扉を開け、家に入る。
洋平はリビングのソファに腰を掛け、テレビを見ている。雪乃は台所で食器を洗っている。
太郎は、あくまで家の中に入る許可を得たに過ぎない。出迎えられたり、歓迎されることはない。
雪乃がソファの前、床に水の入ったコップを置く。
「座ったら?」
太郎はコップを置かれた場所に正座する。
「親父」
太郎が話し始めた途端、雪乃が眼前のソファに腰を下ろす。そして太郎をオットマンにするかのように、肩に足を乗せる。
「ここ、私の席だから」
「親父」
雪乃が太郎の頭を踏む。
「私に報告すること無い?」
10万円の使い道のことだ。
「香織に『使わずに貯めておきたい』『10万円なんて大金、使える余裕は無い』と言われた」
「んー、それは誰のお金?」
「……俺の金」
「家のお金です」
香織にも、同じことを言われた。それが何だというのだ。
「家の金は、俺の金だ」
「私は、家のお金を使ってとは言ってない。違い、わからないですか?」
「同じだろう。元々俺の金だ」
「婚姻期間中、形成された財産は、夫婦のどちらか一方の収入だけで形成された場合であっても共有財産です。家のお金は、香織さんの財産でもある」
「どうしろと言うんだ!」
声を荒らげる太郎。頭を踏み、黙らせる雪乃。
「太郎さんに100円あげる。オットマンの利用料。そこの棚の上にあるから、帰りに持っていって。洋平さん、あげてもいいよね?」
「構わんよ」
洋平は雪乃の横暴を注意しようともせず、大人しく従う。きっと何か弱みを握られているに違いない。
「太郎さん、こんなこと言われて腹立ってるでしょ? 私を踏んで、仕返ししていいよって言われたら、いくら払える?」
「お前を踏めるなら、3,000円払ってやる」
「妥当な額だね。気が済むまで罵倒させてあげる。いくら払える?」
「3……2万円払う。手持ちがそれだけしかない」
「私を踏んで、罵倒する行為は、太郎さんにとって23,000円の価値があるのね? 洋平さんは違う金額をつける。価値は人それぞれ。奉仕を積み重ねて、10万円分の価値があると思ってもらえることをすればいいでしょ。家のお金を使わなくても出来るよね」
「それなら出来る」
「じゃあ、改めて。昨日のことは水に流してあげる。洋平さんも、水に流してくれる?」
「ああ。雪乃が望むなら」
雪乃は太郎の肩に乗せている足を下ろし、立ち上がる。
「これで、この話はおしまい。二限目から授業だから、あとはお二人でどうぞ」
雪乃が大学に行ったため、洋平と太郎の二人きりとなった。
「何なんだ、あいつは……」
太郎は、洋平がそばに居るにもかかわらず、つい口を滑らせてしまった。洋平から怒号を浴びせられることを覚悟する。
しかし太郎の予想に反し、洋平は笑い飛ばした。
「太郎をオットマンにする料金は100円だったか。えらく買い叩かれたな。笑いをこらえるの大変だったぞ」
思い出すだけでも、腹が――立っていない。頭を踏まれたことなんて一度も無い。その一度目を、親父の前でされただなんて屈辱だ。酷い扱いをされた。それなのに、太郎は自分でも意外なほど、負の感情を抱いていない。
笑っている洋平の顔を最後に見たのは、23年前の事故の前。
「親父とこんな風に、他愛もない話をするのはいつ振りかな……」
「ゆ……母さんが、元気だった時以来だな」
話すのも、あの時以来か――。
「雪乃さんとは、どうやって知り合ったんだ? 親父との接点は無いだろう。こんなこと聞くと不快になるだろうが……結婚詐欺とか、保険金目当てでは無いのか? 雪乃さんに、不信感を抱きながら接したくないから、正直に言ってほしい」
洋平から怒号が飛んでくるのは覚悟の上。
しかし雪乃と何度も顔を合わせた後、感情移入してしまってからでは言い出しにくい。太郎は、今が尋ねられる最後の機会だと直感した。
「太郎が心配しているようなことは無い」
洋平は考えたり、躊躇うことなく否定した。しかし太郎は、あまりにもあっさりし過ぎていることが引っ掛かった。
「どうして無いと言い切れるんだ?」
洋平は棚の引き出しから、紙を取り出す。太郎は卓上に置かれた紙を見て、それが保険証券だとわかった。
「俺が加入している生命保険は10年ごとの更新タイプで、80歳まで更新が可能なもの。今年で終わりだ。生命保険目当てではないことはわかるだろ?」
「わかる」
洋平は預金通帳を開き、太郎に見せる。
「これが残高。生きてるだけでマイナスだから、残りはもうこれだけしか無い」
「不定期に入金されてる金は何だ?」
「残高不足にならないよう、雪乃が入れてくれている」
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