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26.今、一度の希望を

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 あの日、父さんと姉さんが死んだことは、村長さんから聞かされた。遺体を見ることもなかった俺は未だに二人がいなくなった実感もないままに過ぎゆく日々に身を置いている。


 ただひとつ実感できることがあるとすれば。



「あら、フィー君。おかえりなさい!」




 明るく笑いかけてくれるその人が、



「こんにちは……おばさん。お元気でしたか」



 自分の母親ではなくなったということ。そのくらいだ。






◇        ◇        ◇






 まだ仕事も多いリアンを連れ回すのは気が引けたが、ノア様の許しも得て久しぶりの休暇に村を訪れ自分の家だったところへ帰ってきた。


 ただ、村は村で聖女様の存在が必要だったらしく、リアンは来て早々村長さんのところへ引っ張られていってしまった。プライベートだから、というのは聖女様にはなかなか通らないものだ。


「ごめんね。何かご馳走できれば良かったんだけど」
「いえ、お構いなく……」


 テーブルの上には皿が二つ。料理はその上で冷えていくだけだ。


「ああ、ヨハンさんとアンリなら朝から山へ出かけちゃったの。アンリなんて鹿を捕まえてくるって張り切っちゃって」


 くすくすと笑いながら彼女は皿を片付けていく。貴重な食料は食べ終わったと認識しているのかいないのか、ゴミになって捨てられていく。


 これを、俺がなんとかできるのだろうか。


 しっかり者の姉さんなら、一喝して支え合って生きていくこともできただろう。優しい父さんなら、傍で常に励ますことができただろう。ただ、俺は。



「顔色……あまり良くないようですが」
「心配かけちゃってごめんね。でも大丈夫よ。一日一食もダイエットって考えたらちょうど良いし」



 唇を噛む。そんな冗談を言っている場合じゃない。続けようとして、



「ありがとう、フィー君は優しいのね。……フィー君が本当の子供だったら良かったのに」



 撫でられた手の暖かさに、言葉は声にならずに消えた。



「アンリなんて怒ってばかりなのよ。なんて、アンリに言ったらまた怒られちゃうわね」



 そんなことを語る彼女は言葉とは裏腹にひどく嬉しそうで。その後、彼女の手伝いをしている間も優しい夫としっかり者の姉の楽しい話は途切れることなく続いた。彼女の認識では、幼い頃両親に捨てられたことになっている俺に。

 とても嬉しそうに、倒れるまでずっと幸せな話を続けていた。






◇        ◇        ◇





 幻惑魔法。


 一時的ではあるが対象の意識を乱し、そこにはないものを見せたり、宙を浮いているように認識させたりする魔法だ。

 その特性から使い手は限られていて、祭りや演劇の際の演出等に用いられることが多く、基本的に個人で使用することは禁じられている国が多い。先代の国王がその影響を受けて崩御されてからはこの国ではより規制も強い。


 何かの役に立つかもしれないと独学で身につけていたが、使用したことが分かれば自分もそれなりに罰されるだろう。



 それでも。



「母さん、倒れたんだって?」


 扉を開けた先で、彼女はぼんやりと瞼を開けた。


「アンリ……?」
「ちゃんと食べてないからこうなるのよ。ほら、これ食べて」


 もしかしたら必要になるかもしれないと、城で出された朝食を取っておいて良かった。スプーンで運んだそれに口をつける彼女を見て少しほっとする。やっぱり、姉さんの姿なら言うことを聞いてくれる。


「私達よりも母さんの方が心配なんだから。ちゃんと自分の分はしっかり食べて」
「……ええ、そうね」


 疎ましい息子が愛しい娘になり代わっていることには気づかず、彼女はまた笑顔を見せる。あの日から、正しい家族のかたちを手に入れたあの日から、彼女はよく笑うようになった。この夢を終わらせることが彼女にとって正しいことか、分からなくなるくらい幸せそうに。


「ごちそうさま。また怒られちゃったわね」
「本当。母さんは私がいないとダメなんだから」


 言って、笑顔を作る。自分は姉のように、上手く笑えているだろうか。ぼんやりとしてきた彼女を寝かせて、手を握る。



「母さん、また父さんと出かけてくるから、その間もちゃんと食べてね。一人だからって疎かにしないこと。私達は出かけた先で支給されるから」



 これで辻褄が合うだろうか。彼女の世界を守りつつ、食事を取らせる方法が自分には他に浮かばない。



「アンリは……王都に行くの?」
「え……ええ、そうね。仕事があるらしくて。王都に」



 その辺りの設定までは考えていなかった。うつらうつらとしているので、多分このまま休んでくれるとは思うけれど、それまで話を合わせないと。


「王都のパン屋さん……あの、鳥の像の近くの」
「ああ、あそこ。帰りに買ってこようか?」


 以前、王都へ行った際のお土産に母さん達がよく買ってきていた店だ。もっとも、今は小麦も取れないため閉まっているが。瞳を閉じて、ぼんやりとした口調のまま、彼女は嬉しそうに続ける。



「あそこのね、木苺のジャムのクッキー……フィーが好きなの」



 返さなければならないはずの言葉は、また上手く出て来なくなった。



「あの子……あんまり言わないけど。あれが一番よく食べるの……。買ってきて、くれる?」



 返事を、しないと。



 乾いていた唇を舐めて湿らせて、震える声を抑えて伝える。



「…………分かった」



 彼女はその返事に、



「ありがとう、アンリ…………大好きよ」



 満足したのか、穏やかな顔で眠りに入った。彼女の今いる幸せな世界は、過去の記憶のつぎはぎで、脆くて時折矛盾して、それでも全てが幸せな記憶で構成されている。



 その中に、ほんの少しでも自分がいるのなら。




「早く、元気になって……」




 幻惑魔法はきっともう解けているけれど。




「…………母さん」




 眠りについた彼女は、俺の声には気付かない。





 あの時、俺が熱を出さなければ。




 俺がこんな瞳をしていなければ。




 そもそも、俺が生まれてこなければ。





 ずっと自分を呪ってきた。けれど。






 ほんの少しだけれど、今生きていることを許された。






 そんな気がした。
 







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