恨み雨と、虹の橋

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恨み雨と、虹の橋

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 意識を集中させて水のイメージを作る。閉じた瞳に映するその水を天高く上げて、飛散させ、細かな滴が降り注ぐように。

 
 左指を天へ向けて目を開けば、局所的な雨が畑に降り注いだ。
 

「おー、今日もありがとうな」
「いえ、このくらいでしたら」

 
 雨乞い、祈雨、雨降らし。様々な言い方はあれど、乾燥地帯では昔から行われてきた風習だ。


 この農村も昔から晴れの日が多く、雨が少ない。ということで、代々雨乞いの風習があり、その巫女の血を受け継ぐ我が家が現代に至るまでその役割を担っている。



 のだけれど。


 
「もっとたくさん降らせることができたらいいんですけど」


 
 年々その力は衰え、一番下の自分にはひとつの畑に降らせるくらいの能力しか残っていない。

 
「いんや、昔みたいにこのへん中に降らせると今は苦情も出るけぇ。こんぐらいがちょうどいいよ」

 
 お前さんは大変だけどな。とシゲさんは笑う。確かに、今日は朝から十五ほど行って、もう日が傾いている。配慮されるのはありがたいが、この時期はなかなか学校へも行けない。

 
「ワシももっと足が動きゃあええんだが」
「無理は良くないですよ。お大事にされてください」

 
 では、と声をかけて次の畑へ向かう。次の担い手がいない以上、足腰を悪くしたシゲさん世代の人が無理にでも頑張るしかなく、夏場の水やりも一苦労だ。その一助に少しでも慣れていたらいいんだけど。


自転車に乗って風を受けても熱風でさすがに倒れそうだ。どこかで水分補給をしよう。と、自販機のある公園まで来ると。


 
「つばさ先輩」



 日に透けるようなきらきらとした長い髪。端正な顔立ちに加えて溌剌としていて皆に優しいその性格。ちょっと特殊能力を持った程度の凡人である自分とは縁のない学校の人気者である彼女が、珍しいことに滑り台の上でぼんやりしていた。


 今日は確か短縮授業だったはずだ。まあ、人気者の先輩にもそんなことをしたい日もあるだろう。たまたま通りかかっただけの凡人には声をかけるという選択肢もなく、とりあえず自販機で清涼飲料水を買って次の現場へ向かうだけだ。


 
 例えし、彼女が泣いていたとしても。


 
 自分が声をかけるよりは、きっと適任の誰かがいるのだろうし。知らない自分が声をかけて解決する問題でもないだろう。


 そうして、何も見なかったことにして立ち去ろうとした時、前方から人が来た。リボンの色は緑色。つばさ先輩と同じ三年生だ。
 


「……っ!」


 
 それを見て、慌てたのはつばさ先輩だった。知り合いか、泣いているところを見られたくないのか、そのどちらもか。詳細は分からないけれど、なんとなく、本当になんとなく、気まぐれに。目を瞑り、開けて、左手を動かした。


 
「あれ、つばさ? って、わ! わ! 雨!?」


 
 案外と予想は当たり、つばさ先輩の知り合いだったらしい彼女は突如公園付近だけに降った雨に驚き、ちょっとした屋根のある自販機のところまで避難した。つばさ先輩も少し遅れて同じ行動を取る。

 
「あー、雨くんがいたからか。駄目だよー、人がいないか見て降らさなきゃ」
「すみません」

 
 雨を降らせることができるからか、そんなあだ名を勝手につけているらしい知らない先輩から怒られた。まあ、言われたことはもっともなのでこちらも謝っておく。
 

「つばさも災難だったねー。ってか、あんなとこでどしたの?」

 
 話を振られたつばさ先輩は、雨に濡れた顔でこちらを見て、微笑む。


 
「ちょっと童心に帰って登ってただけ。そしたら、降られちゃった」


 
 濡れた髪から、滴が落ちる。
 


 
「恨むぞ、雨くん」


 
 
 なんとなく、綺麗だと思っていただけのつばさ先輩が。
 
 
 
 心の中に、すとんと降ってきた。



   *
 


「探した」


 
 次の日。8つ目の畑を終えて、なかなか今日は良いペースだと思っていたところにつばさ先輩は現れた。

 
「サボりですか?」
「今日は午前中だけだよ、不良少年」
「僕にはこれが単位ですよ」
「らしいね」

 
 知っているなら非難しないでほしかったところだけれど。濡れていないせいか、その笑顔のせいか。今日の先輩は明るく輝いて見える。

 
「探したよ」
「さっき聞きました」
「探してた理由は?」
「それはまだです」
 

 自転車に乗ったまま話すのもなんなので、一先ず木陰に移動した。本格的な暑さはまだだと言うのに、木陰に移ってもあまり涼しくはならない。
 


「昨日、ありがと」
「……いえ」


 
 お礼を言うためだったのか。大したことはしていないし、服を濡らしたことを責められたらどうしようかと思っていたけれど、その心配はなさそうだった。

 
「で、頼みもあるんだ」
「なんでしょう」
「降らせて」
 

 木陰から出て、先輩は自分を指さす。


「ここに」


 
 できないことはない。昨日のようにやればいいだけだ。ただ。

 
「濡れますよ」
「うん」
「家は近いんですか」
「暑いからすぐに乾くよ」

 
 友達から、暑いのでやってくれと言われたことは何度かあるけれど。


 
「じゃあ」


 
 先輩は、暑い中僕を探し回ってまで雨を浴びたかったのだろうか。


 降らせた雨を手のひらで受け止めつつ、空を見上げる先輩は、ただ綺麗だった。


 
「綺麗だね、雨」
「そうですか?」
「うん、とても」


 
 晴れた空から、滴だけが先輩の周りに降り注ぐ。雨に何を見て綺麗だと言ったのか、何を隠したかったのかは、分からないけれど。


 
「あー、気持ち良かった」
 


 ずぶ濡れの先輩は伸びをしながら笑う。
 


「ありがと、明日はどの辺にいるの?」
 


 どうやら、明日もこれは続くようだった。




   *
 



「見つけた」
「……おはようございます」


 
 そうして、休日の朝早くも例外ではないらしく。私服姿の先輩が今日も現れた。

 
「今日のご予定は?」
「今日も変わりなしですよ。畑を中心に回るだけです」
「中心ってことは、畑以外もあるんだ」
「そうですね」
 

 そんな会話をしながら歩く。最近では、雨を浴びるだけではなく、時間がある時は僕について回ってくれるようになった。


 虫が案外平気でセミを捕まえたり何もないところで盛大に転んだり突然の山道に慄いて帰ったり夕方にはよく息があがっていたりと、僕と違って遊びながら騒ぎながら一日を過ごしている。今年卒業なのにこんなことをしていていいのだろうか。

 
「先輩は?」
「今日もご一緒しようかな」

 
 聞けば、あっさりと答えが返ってきた。
 

「焼けますよ」
「美味しくなるかな」
「焦げますよ」
「それは困った」
 

 そんな素振りは見せず、結局ついてくるようだった。目的は、知らない。
 

「しかし暑いね」
「夏ですから」
「あ、猫」
「伸びてますね」

 
 他愛もない。別に誰と交わしても特に意味のないような会話だけして、歩いて、辿り着いて、降らせて、歩く。
 


「今度は山道か」
「足大丈夫ですか?」
「この前の反省も踏まえて登山靴履いてきたから」
「いや、やぶ蚊に噛まれてます」
「え?」


 
 先輩が叩くと、手のひらには血が付いた。手遅れだったらしい。

 
「教えてよ」
「教えました」
「叩いてくれたらよかったのに」
「女性をいきなり叩けませんよ」
 

 むぅ、と先輩は唸って手を見る。手のひらは血と蚊だったもので汚れたままだ。

 
「雨くん」
「もう少し行くと川もありますから」
「雨くん」
「我慢してください」

 
 人を蛇口扱いしないでほしいものだ。雨降らしも割合と体力を使うのだから。見つけた川で手を洗い、少し文句が付いて出るようになった先輩の口撃を後ろからちくちくと受けながら、目的地である泉へとたどり着いた。
 


「……綺麗」


 
 それなりに手入れされているからか、このあたりだけ空気が違うように感じる。祠への供え物は母さんが今朝やってくれたんだろう。水だけ替えて祈りを捧げる。

 
「私もしていいのかな?」
「この村の水神様ですからね。大丈夫ですよ」


 何を祈ったのかは分からないが、やたら長かった先輩のお祈りが終わった後で、雨を降らせる。月に一度、水神様へと雨をお返しする儀式。こうすることで、雨降らしの力が継続するのだ。

 
「雨くんは、この先もずっとこうしていくの?」
「そうですね。村に永久就職です」
「出たくならない?」
「そういうものですから」
「そう」

 
 そっか、と先輩は口にして、帰り道は何も喋らなかった。こちらからも、何と声をかけたら良いのか分からなくて、そのまま。そのまま、その日は別れた。



   *
 


 次の日から先輩は現れず、夏休みに入ってから唐突にまた現れた。

 
「久しぶり」
「お久しぶりです」
「今日のご予定は?」
「今日も変わりなしです、先輩は」
「今日もご一緒しようかな」
  

 ということで、今日も先輩はついてくるようだった。しばらく現れなかった理由はなんとなく聞かない方がいい気がして、そのまま自転車を走らせる。


途中、例の公園で休憩していると、この前よろしく先輩の知り合いが現れた。

 
「つばさと雨くんだ。何してんの?」
「雨降らしです」
「同行中です」
「なるほど」
 

 それで納得してくれたのかは知らない。

 
「ひまりは?」
「部活の差し入れと練習相手。つばさも今度行こうよ。人数不足みたいで」
 

 つばさ先輩達はバドミントン部だったか。部員数も少ないので大会もないし、三年生の今は部活も終わったんだろう。そして、ただでさえ少ない部員が三年生の卒業と夏休みでさらに少なくなっていると。
 

「今は雨くんに忙しくて」
「ほう」
 

 多分、適当なことを言っているつばさ先輩と本当に忙しい僕を交互に眺め、ひまり先輩は納得したような顔をした。何を納得したのかは知らない。
 


「雨くん」
「はい」
「つばさをよろしくね」
「……はい」
「うちの畑もよろしくね」
「それは今日行きます」
「うむ」
 


 そして、満足げな顔をしてひまり先輩は去って行った。
 

 
 結局、つばさ先輩は宣言通り僕に忙しかったらしく、バトミントン部に顔を出すことは一度もなかった。
 
 


   *


 
「次の土曜日の夜」
 


 先輩が唐突に口を開いた。
 

「空いてる?」
「納涼祭の手伝いが」
「真面目だ」
「真面目です」
「抜けられる?」
 

 半ば命令に近いそれは、胸が高鳴りこそすれ、嫌なものではなかった。
 
 

「少しなら」
 
 

 そうして、小さい頃からずっと手伝いの傍ら、音だけ聞いていた花火を先輩と見ることになった。汗を拭う間もなく向かった先で、先輩は浴衣を身に纏っていた。
 

「じゃーん」
「浴衣ですね」
「浴衣です。感想は?」
「……良いんじゃないかと」
 

 目を泳がせながら答えた僕に満足したのか、先輩はそのまま歩き始める。花火は少しずつ上がり始めているというのに、それから遠ざかる足を止めようとはしない。
 


「この村、出なきゃいけなくて」
 


 先輩の後ろ姿を、花火の光が照らす。
 

「この時期に。あと半年とかも、待てないんだって」


 この村から出る人は別に少なくはない。親の転勤だとか離婚だとか。ここにはない大学や大きな病院や遊び場や就職先。様々なものを求めて大人も子供も出ていく。
 

「卒業までいたかったけど、どうにもできなくて。そういうものみたい」
 

 そういうもの。僕が村から出ない理由と、同じ言葉が使われた。
 
 

「雨くん」


 
 最初に出会った公園で、花火が時折照らす顔は悲しげに、先輩は自分を指さす。
 



 
「降らせて。ここに」
 



 
 浴衣姿に合わせてあげた髪に付けた、簪が静かに揺れる。
 


「濡れますよ」
「うん」
「家遠いですよね」
「それでも」
 


 花火の光が反射した雨は、光の粒となって僕らを濡らしていく。
 


「雨くん」
 


 初めて握った手は、雨が降っているというのに、不思議と熱く感じた。


 
「寂しいって、言って」
「寂しいです」
「行かないでって、言って」
「言えません」


 
 顔を上げた先輩に、伝える。



「ここから出られない僕は、誰にも行かないでとは言えません」


 
 変わっていくものを、止めることはできない。先輩も、友達も、誰でも。この村から出ていく人に、僕は何もできない。
 
 

「言えることとすれば、気が向いたら帰ってきてください。それだけです」
 

 
 失望されただろうか。先輩は俯き、少ししてから、また顔を上げた。


 
「雨くん」
「はい」
「気が変わりました」
「はい」
「待ってて、くれる?」
「……はい」


 


 そうして、先輩は唇を重ねた。
 



 
 間に入った雨のせいで、熱いのに冷たくて。
 
 



 
 冷たいのに、とても熱い感触だけ残して。その夏は終わった。
 






   *






 
 夏が終わって先輩は村を離れた。僕はといえば、相も変わらず暑さの残る中、自転車を漕いで特別単位を集めるのに必死だった。それは秋まで続き、冬は冬で雪かきに追われているうちに過ぎていった。


 
「雨くん」


 
 時折、聞こえないはずの声に、思い出したかのように熱くなる唇を除いて。平凡な僕の人生は、平凡に過ぎ。春が来て、また夏が来た。
 

 
「探した」

 
 
 聞き覚えのある言葉に振り向いてみたが、浴衣を着たどこかの女の子が、どこかの男の子に怒りながら言っただけのものだった。案外引き摺っている自分に驚きながらも、とりあえず今やっていた仕事に戻る。花火大会まであまり時間がない。その前に、このあたりだけでも片付けないと。
 



「雨くん」



 
 荷物を運んだ先でかけられた声は、確か大学へ行くために村を離れたひまり先輩のものだった。
 


「お久しぶりです」
「うん、久しぶり」


 
 言いながら、ひまり先輩は僕の手を取る。


 
「はい、これ」
「なんですか?」
「悪いお姉さんからのお誘い」


 
 ひまり先輩は、どうしてか、悲しげに笑う。
 
 


「一緒に、外に行こう」
 



 
 つばさの、ところに。



 
 
 続けられた言葉と、渡されたチケットとともに握りしめられた手を振り払えなくて。
 
 
 


 
 その日、初めて村の外へ出た。






   *





 
 夜が終わり朝が来るまで。電車の中で、ひまり先輩は色々なことを教えてくれた。つばさ先輩のこと。ひまり先輩のこと。聞けば終わってしまいそうで、僕が聞けなかった他愛のないこともすべて。


 
 つばさ先輩が病気にかかっていたことも、すべて。



 
 中途半端な時期に村を離れた理由。部活に顔を出せなかった理由。水神様に長く祈っていた理由。何もないところで派手に転んでいた理由。あの日公園で泣いていた理由。
 


『この時期に。あと半年とかも、待てないんだって』
 


 それは親の都合でもなんでもなく。つばさ先輩の療養を大きな病院ですることが、というただそれだけのことだったのだろう。


 
「治療法も確立していないから。入院したら、きっと。そのまま」
 


 電車を降りて、大きな総合病院についても、なぜかふわふわとしたまま。
 


『行かないでって、言って』


 
 言っていたら、彼女はどうしたんだろう。
 


「雨くん?」



 
 足を止める。自分が言ったことを、先輩が言ったことを思い出す。
 
 

「すみません、ひまり先輩」
 
 

 僕は、あの時。
 

 
「約束したので、僕は行けません」
 

『気が変わりました』
 
 
「僕は、行きません」
 
 
『待ってて、くれる?』
 
 
 重い病気だろうと、治療法が確立されてなかろうと。



 
 彼女は僕に、待っていてと言ってくれたのだ。
 


 
「それで、いいの?」
 
 


 ひまり先輩がわざわざ来て連れ出してくれたのだ。会えるのは最後の機会かもしれない。もう、二度と会えなくなるのかもしれない。それでも。
 

 
「代わりに、これだけ」
 
 

 晴れの日に雨が降る。局所的に。病院の周りだけ。
 
 
 先輩が気付くかどうかも分からない。この選択が正しかったのかもわからない。
 


けれど。
 



『雨くん』
 
 
 


 なんとなく、先輩の声が聞こえたような気がした。







   *
 





 そうして、夏が終わり秋が来て。冬が来て春が来て。季節が巡り、また季節が巡り、何度か季節が巡って。相変わらず家のことや畑のことや雨を降らせることばかりをやっていた頃。

 
 夏の暑い日に公園で水分補給をして、なんとなくあの日のことを思い出し、雨を降らせてみた。年数が経過して危険だからと撤去されて、遊具もなくなった公園を静かに雨が濡らしていく。
 
 
 
「下ろしたての服だったのに」
 
 
 
 不意に後ろから聞こえた声に振り向けば、ずぶ濡れとなった先輩がこちらを見ていた。
 
 
 


「恨むぞ、雨くん」
 
 


 
 言葉とは裏腹に、弾むような声は雨を散らす。






 雨のあとには、綺麗な虹がかかっていた。
 






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