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(13)よく燃えそうな火に油を注がないで欲しい

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 冨島イマイ先生こと、翔璃に頼まれた翻訳文を榊さんがチェックしている間、私は翔璃に聞きたきことだらけで集中力が途切れそうになる。
「飯嶋さん、貴方、文芸の編集経験はないのよね」
「業務としてはないです」
「どういう意味かしら」
「研修のシステムが日本と同じか分からないんですが、入社一年目は色々な部署でのOJTがありました。基本はその時に叩き込まれましたから、文芸が全く分からない訳ではないです」
 自分のスキルを把握するのは大切なことだし、能力を謙遜しても意味はない。だから正直に伝えたのに、榊さんにはそれが鼻に付いたのか、彼女は面白くなさそうに顔を歪める。
「大袈裟ね。結局、経験がないのと同じじゃない」
 仮にも仕事相手の翻訳家が居る前で、大人気なくそう吐き捨てる榊さんに少し驚いて言葉を失うと、翔璃が嗜めるように間に入ってくれる。
「でも榊さんの指摘より的確だ。ニュアンスに血が通ってる。さっきより文章に躍動感が出る表現が多いのは事実だね」
「先生」
 榊さんはまるで裏切られたみたいな悲壮な顔をすると、そのストレスを私にぶつけるように睨み付けてくる。
「飯嶋さん。そんな訳だからサポートとして打ち合わせに顔を出してもらって大丈夫かな」
 翔璃はあくまで翻訳家の冨島イマイ先生として、私に確認するように声を掛けてくる。
「上司からそのようにと指示が出ております。お役に立てる知識があるようですので、よろしくお願いします」
「うん、よろしくね。じゃあ早速なんだけど」
 翔璃が挙げる項目をヒヤリングしながらパソコンに打ち込んでメモを取り、意識せずとも阿吽の呼吸が生まれて仕事は捗る。
 もちろん榊さんはそれが気に入らない様子だけど、さすがに仕事が絡んでいるので、不機嫌な顔をしながらも、私と翔璃のやり取りを見守っている。
 そして二時間ほど打ち合わせをすると、榊さんと翔璃の間の齟齬をかなり解消することが出来た。
「微妙なニュアンスだけど、確かに目から鱗とはこのことだね、榊さん」
「そうですね」
「お役に立てたみたいで良かったです」
 相変わらず無愛想な榊さんの態度が気になるけど、私は私の仕事をするしかないので、手を差し出して来た翔璃と握手を交わして席を立つ。
「じゃあ、これからの打ち合わせには、必ず飯嶋さんを同席させてください」
「待ってください。先生、それはどういう意味ですか」
「あれ? 言わないと分からないですか。こちらは別に担当が変わっても問題ないですけど」
 翔璃が私には決して見せない冷たい目を榊さんに向けると、彼女はその言葉の意味を理解したのか、苦々しい顔をしながらも分かりましたと小さく呟いた。
 なんだか物騒な気配を察して、どさくさに紛れて一人で退室しようとすると、ちょっと待てと言わんばかりに翔璃が私を引き留める。
「飯嶋さん。山根部長にお礼をお伝えしたいので、案内をお願いできますか」
「先生から直接ですか? それは構いませんが、元々は編集部からのお話ですから、榊さんを通してそちらに行かれてはいかがでしょうか」
 榊さんの面目を潰すようなことを、サラッと私に強要しないで欲しい。そんなメッセージを込めて目をかっぴらいて翔璃を見つめるが、我関せずな調子でスルーされる。
「編集部の河北さんとはいつでも会う機会があるので大丈夫です。なのでお願いしても良いですかね」
「承知しました。榊さん、先生を海外事業部にご案内しますけど宜しいですか」
 私はお願いされたから仕方なくだとアピールして榊さんを見ると、相変わらず不機嫌さを隠しもしない酷い態度で睨まれてしまう。
「良いんじゃないですか。先生がそう仰ってるんで、すぐにご案内してください」
「ありがとうございます。では先生、ご案内させていただきます」
 まるで針のむしろのような空気で、うっかりすると窒息してしまいそうだ。どうしてこうも翔璃の周りには厄介な女性の影がチラついているんだろうか。
 会議室を出てエレベーターホールに移動すると、隣に立った翔璃が大きく溜め息を吐く。
(溜め息吐きたいのはこっちだよ……)
 そうは思っても、少し疲れたような顔をしている翔璃が心配になって声を掛ける。
「どうかなさいましたか」
「んー。さっきの榊さんね、そろそろちょっと問題行動が増えてきててね」
 エレベーターに乗り込むと、ボソリと一言口説かれてると呟いて不快そうな顔をする。
「先生をですか」
「その驚きがヤキモチなら嬉しいんだけど」
「今話す話題じゃないです」
「そうでした」
 海外事業部に到着すると、早速山根部長の元に挨拶に行って、翔璃は私に話したように榊さんからの個人的なアピールの対処に困っていると相談を持ち掛ける。
 私が聞いて良い話なのか分からないけど、とりあえず退席を促されないのでその場から逃げそびれてしまった。
「河北さんにも直接お話ししますが、榊さんは春に担当に交代したばかりだし、彼女の代理が決まるまで飯嶋さん以外で、どなたかサポートがつくとありがたいんですけど」
「榊の件については、私の方でも河北に伝えて前向きに検討させてください。サポートに関しては編集から増員して対処するように私からも話を通しておきます。飯嶋では力不足でしたか?」
「いいえ、彼女の編集能力は確かだと思います。ただ彼女は私の婚約者なので」
 翔璃はサラッと口にしたけど、山根部長だけでなく、私にとってもそれは青天の霹靂で、この場に部長しか居ないとはいえ、そんなプライベートなことを勝手に言わないで欲しい。
「そうだったのか、飯嶋さん」
 驚きと喜ばしさが混ざった表情で翔璃と私を見比べる部長に、私は頭を抱えたいのを我慢して引き攣った笑顔を作る。
「個人的なことですので、ご報告は差し控えました」
 咄嗟にそう言うしかなくて、後で覚えてろよと翔璃を睨む。
「そういうことなので、変に噂を立てられて彼女の評価に影響したら嫌ですし、サポートに入ってもらうなら飯嶋さん以外でお願いします」
「承知しました。榊の件もありますし男性社員で検討を急ぐように話をしておきます」
 部長との話を終えた翔璃を見送るために一階まで降りると、帰りを待つから一緒に帰りたいと誘われて困惑する。
「結局、他の社員の目に触れたら同じじゃないですか」
「誰にだってプライベートはあるだろ。嫌なら家の鍵渡して。家で待ってるから」
「今持ってないし」
「だろ。近くのカフェで時間潰してるから、終わったら連絡して」
「強引だね」
「そうかな。今すぐキスしたいの我慢してるくらいだけど」
「うん、そういう発言自体やめようね?」
「分かってるよ」
 結局根負けして帰りに待ち合わせることを受け入れると、会社のエントランスを抜けて表まで見送りに出る。
 秋になって冷え込む日も出てきた夕方のオフィス街を、オフィスカジュアルスタイルで歩いていく翔璃の後ろ姿はなかなか新鮮だった。
 見送りを終えてフロアに戻ると、嬉々とした表情の清永さんに出迎えられる。
「飯嶋さん、あの方、今朝話してたイケメンの翻訳家さんですよね」
「ああ、あの人のことだったの」
「え、あのレベルでもダメでしたか」
「いや、素敵だと思うよ」
 本人にはちょっと言い辛いけど、ここは素直に誉めておくことにした。
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