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1巻

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「顔色が悪いね。突然声をかけて驚かせて申し訳なかった」

 私を気遣うように、もう平気かなとゆっくり腕を離すと、梶峰さんは改めて私の顔を覗き込む。

「平気です。もう大丈夫なので」

 陣野真弓として演じる新婦の友人の顔に戻ると、賑やかに盛り上がる会場を振り返りながら、お祝い事だとこっちまで浮かれますよねと誤魔化した。
 だってどう考えても、声をかけられた瞬間に叫びながらうずくまるのは異様だ。絶対変に思われているだろうから、出来ればもうその話題には触れられたくない。

「そうだね。浮かれて食べすぎたことにしておこうか。俺がこれ以上、過度に心配しても鬱陶うっとうしいだろうからね」

 梶峰さんは暗に何も聞くつもりはないと言いたいのか、揶揄からかうような笑みを浮かべて、私の行動には深入りしてこなかった。

「なんで食べすぎなんですか。お酒をいただきすぎただけですよ」
「へえ。じゃあそういうことにしておいてあげるよ」
「嫌な言い方しますね」

 こんなたわいないやり取りをしていると、私は自分の中に生まれた違和感に気づいた。
 会社での印象もそうだけど、梶峰さんはお見合い代行で対峙した時とは別人みたいに優しい。
 もしかしてあの時に非情なほど冷淡な印象だったのは、別に私を馬鹿にしていた訳じゃなくて、代行を頼んだ依頼人に嫌悪感を持っていただけなんだろうか。

「ところで、君の方の『報告』は終わったのかな」
「ええ。お時間をいただいてすみません」
「そうか。では場所を移動して、と思ったんだけど、今日のところはやめておくことにするよ」

 梶峰さんはそう言うと、申し訳ないと難しい顔をして頭を下げた。
 そもそも私を誘ったのは彼の方なのに、一体どういった心境の変化だろう。それとも冗談半分の軽いお誘いだったのだろうか。

「どういうことですか」
「あれ? もしかして楽しみにしてくれたのかな」
「いや、あのですね」
「冗談だよ。申し訳ないんだが、実は人と会う予定が急に入ってしまってね」
「そうだったんですか」
「がっかりしたかな」
「まさか」

 余裕たっぷりで可笑しそうに肩を揺らす梶峰さんに、願ってもないことですよと意地悪く笑って返す。
 すると梶峰さんは少し真面目な表情をして、本当のところはねと私の顔を覗き込んだ。

「君は顔色も良くないし、また別の機会にゆっくり話を聞かせてくれないかな」

 そう言って私の手を取ると、不意にただようフゼアノートの香り。
 いつ用意していたのか、私の手に名刺を握らせて、梶峰さんは「裏に個人の連絡先を書き込んである」と意味深に口角を上げる。

「連絡待ってるよ」
「私がわざわざ貴方に連絡すると思いますか」
「つれないな。だけど女性に連絡先を聞くのは失礼だからね。今の俺にはこうすることしか出来ない」
「じゃあ連絡しなければ、今後は会うこともないですね」
「そういうことになるね」

 梶峰さんは可笑しそうに喉を鳴らすと、ちらりと腕時計を見てそろそろ失礼するよと言った。

「自分から声をかけておいて、今夜は本当に申し訳ない」
「いえ。私にとっては好都合ですので」

 皮肉たっぷりに答えると、本当に時間がないらしい梶峰さんは、それは残念だなと笑いながら、それでも待ってるからと一言呟いて、その場を離れて店の出入り口に向かう。
 その後ろ姿は、私がCEOとして知っているものとも、お見合いの代行の時に見たものとも違って、とても優しい気配を纏っていた。


   ◆◆◆


 陣野真弓として梶峰さんに再会してから二週間。
 連絡先の書き込まれた名刺は受け取ったけれど、もちろん私から連絡することはなかったし、この先も連絡しないで済むならそうしていただろう。

「常盤さん。これコピー六部じゃなくて、六パターンを三部ずつでお願いしたんだけど。どうかしたの、顔色良くないけど調子悪いの」
「あ、すみません。すぐにやり直してきます」

 先輩社員の吉田よしださんの声にハッと我に返った。
 すぐに資料を持ってコピー機のあるスペースに移動すると、指示通りに書類をセッティングし直しながらたまらず息を吐き出す。
 あの結婚式の次の日、私は陣野真弓ではなく、常盤沙矢として〈エトワールブライズ〉に出勤して、いつも通り仕事に取り組み、CEOの梶峰さんとも何度もすれ違った。
 けれど彼が本当の私に気付くことはなく、やはり『人材レンタル』の役者である陣野真弓に対して、何か話がしたかったんだと結論づけることにした。
 事情があって『人材レンタル』という仕事に興味があるのか、それは梶峰さんと話をしてみないと分からないけれど、とにかく平凡な契約社員の常盤沙矢には一切関係ないことだ。
 そんな風に安心していたのも束の間、今朝アクシデントがあった結果、突然、梶峰さんから呼び出しを食らってしまったのだ。

『随分と擬態が巧いな、君は』

 感心したように呟いて私を凝視する梶峰さんの顔が頭から離れない。
 私が陣野真弓だとバレてしまった理由は、朝礼でのスピーチだった。
 案の定、私のつたないスピーチの内容よりも、その声に興味が湧いたのか、CEOの部屋のドアにもたれかかって、面白そうに口元に弧を描いていた梶峰さんの顔を思い出す。
 そうなのだ。ここでもやはり私は声のせいで、大根役者〈オフィス・クランベリィ〉のレンタル俳優である陣野真弓だと気付かれてしまったのだ。  
 コピーした資料を手に吉田さんの元に向かうと、業務の確認をしてから一言断りを入れて、気分転換に窓際のデスクに移動した。
 フリーアドレスは、こんな時にはありがたい。

(はあ、気が重いな)

 データを拾いつつ頼まれた資料を作りながら、すっかり冷めてしまったコーヒーを飲んでいると、背後から突然現れた梶峰さんに声をかけられた。

「常盤さんは上の空かな」
「……お疲れ様です」
「俺と食事するのがそんなに不服かな」
「不服とかそんなこと以前に、契約社員の私がCEOとご一緒するなんて恐れ多くて」

 気が重く、胃まで痛む原因はこれだ。

「俺がそんなに苦手なのかな、陣野真弓さん」
「ちょっ、その名前は職場ではやめ……てください」

 かがんで耳元に囁いてきた梶峰さんの方を振り返ると、思いのほか顔が近くて、動揺して一気に頬が熱くなってしまう。

「とにかく、あちらの仕事でしたら事務所を通してくださらないとお受け出来ないです」
「見合いした仲じゃないか」
「あのですね」
「約束しただろ。仕事が終わったら食事に行こう。逃げるなよ、常盤沙矢さん」

 これは偽名じゃないよな。そう言ってポンと肩を叩いて微笑む姿は、ハタから見れば従業員をねぎらうスマートなCEOに映っているのかもしれない。
 だけど私にとっては、悪魔にしか見えない恐ろしい存在だ。
 梶峰さんが離れていくと、何人かに興味本位で話を聞かれたりしたが、そこは嘘と真実を絶妙に交ぜながら返答していく。
 独身であの顔立ちと華やかな経歴、確固たる地位を持つ梶峰さんは、主に女性社員から絶大な人気を誇る人だ。

「ああ、本当に気が重い」

 終業まではあと少し。大きな溜め息を吐き出して、私は再びキーボードを叩き始める。
 そもそも私が勤める〈エトワールブライズ〉は、ウェディングプランナーやドレスコーディネーターはもちろん、婚活支援で活躍するマッチングコーディネーターも多く抱えるブライダル企業。
 もちろん管理部門もある訳で、私の仕事は花形部署のプランナーや、コーディネーターのサポート事務。いわゆる裏方だ。

「常盤さん、遠藤えんどう様と山岡やまおか様ご夫婦のフォトセッションの資料、ちょっとテコ入れするかもしれないから明日にはちょうだいね」
「その件でしたらチャットメモ残しましたけど、先ほどメールお送りしてるのでチェックお願いします。あ、十七時過ぎのメールです。松嶋まつしまチーフにもccで送信してます」
「ありがとう! 助かる」

 退勤時間が迫ると、こんな風にバタバタすることはしょっちゅうある。

(この忙しさに紛れてしれっと帰りたい)

 そう思ってガラス張りになったCEOの部屋へチラリと視線を向けると、あろうことかこちらを見つめる梶峰さん本人と目が合ってしまった。
 目が合った瞬間から、梶峰さんは何かを伝えるように口元を大袈裟に動かしているものの、この席からは遠くてさっぱり分からない。
 何度か繰り返してくれる梶峰さんには悪いけど、困惑しながらペコッと頭だけ下げて視線を戻した。
 そしてキーボードを叩き始めてしばらくすると、社内チャットが届き、通知を確認したら差出人が梶峰さんでゲンナリする。
 ポップアップをクリックしてメッセージを開くと、少し冷ややかな内容が表示された。

【逃げるなよ、と言ったんだ。どさくさ紛れに帰ろうとか思ってるんじゃないだろうね】

 ハッとしてCEOの部屋を振り返ろうとするけど、あまり目立つことはしたくない。

(バレてる。撒いて帰ろうとしてる思考を読まれてる)

 動揺したまま、なんと返事をするべきか悩んでいると、新たにメッセージが届く。

【仕事が終わったら地下駐車場に。正面玄関から逃げても無駄なので必ず来るように】

 釘を刺す言葉に、私なんかでは太刀打ち出来る相手じゃないことを悟る。
 だからいよいよ腹をくくって、分かりましたとチャットで短い返事をすると、コーヒーのカップを片付けるために席を立ち上がり、手にしたスマホで短いメッセージを打つ。
 もちろん相手は〈オフィス・クランベリィ〉の社長である汰一さんだ。
 梶峰さんに身バレし、ご飯に誘われてしまった。
 しかも事実は分からないけど、この大根役者に一芝居打たせようとしている可能性もある。
 万が一にもそういう依頼なら、本当に事務所を通してもらわないと困るのだ。
 いよいよ頭痛がしてきて頭を抱え、既読もつかず返事もないスマホを握り締めて溜め息を吐く。
 席に戻って伝票チェックをしつつデータ入力をして、それが終わると経理の担当者のデスクまで伝票を届けに行く。
 残念ながらこれで本日の業務は終わりだ。
 憂鬱ゆううつな気持ちで帰り支度を整えて、何気なくCEOの部屋を振り返ると、またも目が合った挙げ句に『』と、微笑みながら口パクで念を押されてしまった。
 本当に私ときたら、あの二次会の時に学んだはずなのに、どうして同じように声を意識し忘れてしまったんだろうか。
 喉を押さえてうなる。本当に役者として使い物にならない自分に嫌気が差す。
 仕事を終えて、パウダールームでよれたメイクを直し、溜め息が出そうになるのを我慢しながらメイクポーチの中身を整理して気持ちを落ち着ける。
 今になって後悔しても仕方ないことだけど、仕事として、こんな初歩的なミスを犯したのは非常にマズい。汰一さんに絶対怒られる。今はそれで胃が痛い。
 社長といえど、汰一さんはマネージャー業務も兼任している。
 この時間になってもメッセージが既読にならないということは、多分役者の現場同行でスマホを機内モードに設定している可能性が高い。
 けれど仕事の連絡も入るため、こまめに通知は確認するはず。
 出来れば梶峰さんと出かける前に、汰一さんとコンタクトを取りたかったが、時間がないのでそのまま地下駐車場に降りた。
 車通勤が認められているため、自社ビルの地下駐車場は、それなりの数の車で埋められている。

(CEOの車種、聞くの忘れちゃったな)

 ぼんやりとそんなことを考えていると、一台のド派手なグランドツアラーが目に入る。
 どんな顔したやつが乗ってるのかと毒づいていたら、こんな顔だけどと背後から声をかけられた。

「びっくりした! 梶峰CEO」
「お待たせしたかな。結構大きな声で独り言を言うんだな」
「え、私声に出してましたか」
「そうだね、気分悪そうな声だったよ」

 笑うのをこらえている梶峰さんの様子は、それだけで私に優しい印象を与えるには充分だった。

「さて。こんな車だけど、乗り心地は悪くないよ」

 エスコートされて助手席に乗り込むと、革張りのシートはいかにも高級で、広々した空間が外観とは異なる印象を与えた。

「それじゃあ行こうか」

 ゆっくりとした丁寧な運転で駐車場を出ると、梶峰さんが運転するメタリックブロンズの車体が、夜の街を走り抜ける。

「さて。ちょっと面白いところに行こうか」
「面白いところ、ですか」
「その前に少し買い物してもいいかな」
「ええ、大丈夫ですけど」

 梶峰さんは宣言通り途中でショッピングモールに立ち寄ると、併設されたスーパーマーケットで、私に好みを聞きながら食材や調味料を買い込んだ。
 なぜここで食料品を買うのか疑問に思いつつも、買ったばかりの商品を袋に詰めて、周りにはカップルに見えてるのかなとふざける梶峰さんをたしなめる。
 そして着替えが必要になるからと、私と一緒にファストファッションのテナントをいくつか回り、二人分の下着を含めた着替えを一式買い揃えた。

「結構な荷物になりましたね」
「思い付きで行くことにしたから、そうなると結構入り用になるもんだね」

 梶峰さんはクスッと笑って、重いだろうからと私の荷物をさりげなく回収して自分の肩にかけてしまう。
 モテる男はこういうことをサラッとこなすよなと、汰一さんを思い出して、そういえば返信が来てないかどうか気になった。

「すみません、ちょっと連絡が来てるかもしれないのでスマホを触っても構いませんか」
「構いませんよ。そんなのわざわざ聞かなくてもいいのに、随分律儀だね」
「この状況が信じられませんが、梶峰CEOはうちのトップですし」
「今はプライベートだから、その手の気遣いはしなくていいよ。無理に誘った自覚もあるしね」

 そう言うと、梶峰さんは休憩スペースに向かい、ベンチに座るように私を呼び寄せて、気を遣わせないためか自分もスマホを取り出した。
 バッグからスマホを取り出すと、着信が一件と、メッセージアプリの通知が二件。どちらも汰一さんからだ。
 この場で電話をかけ直す訳にはいかないので、取り急ぎアプリを開いて、汰一さんから届いたメッセージを確認する。

【了解。状況は把握した】
【依頼なら後日俺も交えて話を聞くと言って、絶対にその場で了承しないこと。プライベートで口説くどかれるなら、頑張れよ(笑)】

 怒られるかと思いきや揶揄からかうようなメッセージが届いてて拍子抜けするも、梶峰さんを待たせてもいけないので、短く了解の返事を打つ。

「お待たせしてしまってすみません。私の方は終わりました」
「本当? ごめん。二、三分ほど待っててもらえるかな」
「ならあのカフェでコーヒーでも買ってきます。好きなものがあれば伺います」
「甘いものも平気だから、君と同じで構わないよ。はいこれ」

 さりげなく渡されたので、カフェのプリペイドカードかと思いきや、会計の時にそれが梶峰さんのクレジットカードだと気付いてかなり焦った。
 当然のようにブラックカード。ハイステータスなご身分の人はやっぱり生きている世界線が違う。
 ベンチに戻ろうとカフェを出ると、可愛らしい女性二人組に話しかけられ笑顔で対応する梶峰さんが見えた。
 最近じゃ女性誌にも出ているし、本当に有名人なんだなと傍観していたら、私を見つけた梶峰さんが、今までとは違ってとろけるように破顔して私に手を振る。

(なんて甘い顔で笑いかけるんですか‼)

 その表情はあまりにも無防備で、梶峰さんを男性として意識したことがなかった私への破壊力は抜群だ。
 案の定、梶峰さんに詰め寄っていた女の子たちが不審そうに私を見つめている。

「じゃあ、彼女が来たから失礼しますね」

 梶峰さんは意味深に微笑むと、カップを取り上げて私の手を恋人繋ぎで握り締め、何事もなかったかのように歩き始めた。

「ナンパされたんですか」
「こんなオジサンを? まさか。俺のファンなんだってさ」

 駐車場で車に乗り込み、たわいないやり取りをする。

「でも意外でした。梶峰CEOでもスーパーマーケットとかに行くんですね」
「俺をなんだと思ってるの」
「神の寵児ちょうじ? とかですかね」
「なんだそれ、初めて言われたよ」

 世間話をしながら更に一時間ほど走ると、海が見える場所までやって来た。
 会社を出るまではあれほど苦痛で仕方なかったのに、初めて一緒に出かける、しかも会社のトップと同席してる割には、案外楽しくあっという間に時間が過ぎていく。

「もうすぐ目的地」
「面白いところって海ですか」
「海は嫌いだったかな」
「夏は苦手ですけど、海は嫌いじゃないですよ」

 窓の外に見える仄暗ほのぐらい海を眺めつつ、夜の海ってちょっと怖いですねと子どもみたいな言葉しか出てこない自分が恥ずかしくなった。

「どうして夏は駄目なのか聞いてもいいかな」
「大した理由じゃないですよ。私、低体温なので夏は頭がボーッとしやすくて。病院に行っても低体温とは関係ないって言われるんですけど、本当にだるさが酷くて」
「なんだ、そういう理由か」

 ハンドルを傾けて優しく笑う梶峰さんは、やっぱり整った顔をしていて、その華やかさが少しうらやましくなる。

「どういう理由だと思ったんですか」
「失恋の痛手が癒えないのかと」
「そんな色気のある話じゃなくてすみませんね」

 つい喧嘩腰に答えると、梶峰さんは可笑しそうに肩を揺らし、ハンドルを握る手に力を込めていた。


   ◆◆◆


 辿り着いたマリーナに停泊したクルーザーへ乗り込むと、そのゆったりとして広々した空間に驚く。

「これは、梶峰CEOの持ち物なんですか」
「そうだね。レンタルではないよ」

 開放的なフライブリッジから夜の海が一望出来、キッチンが設置されたメインデッキを見て回ると、ゆったりとくつろげるリビングスペースが広がっている。
 そして階下のキャビンフロアにはキングサイズのベッドの他に、シャワーやトイレまであって更に驚いてしまう。

「さて、探検は終わったかな。まずはお腹も減ってるだろうし食事を用意しようか」
「あ、手伝います」
「ここは手狭だし、気持ちだけいただこうかな。無理に呼んだのは俺だから」

 座って待ってるようにとソファーに案内されて、スマホとリンクすれば動画配信のサブスクが見られると、梶峰さんはテレビの電源をオンにした。

「操作が分からなかったら遠慮なく聞いて。とりあえずは好きに過ごして待っててくれるかな」
「分かりました」

 早速操作方法を確認すると、大好きな俳優の新作がもう公開されていて、興奮気味にその映画を見始めた。
 なのに見始めて五分と経たないうちに、梶峰さんの立てる音、それに気配ばかりか息遣いまでが気になって仕方ない。

(落ち着かない……)

 何かを刻んで包丁がまな板に当たる音、ボウルで何かをえたり、フライパンで何かを焼いたりする音や匂い。
 大学時代から一人暮らしの生活に慣れた私にとって、他人の生活音がする空間には違和感がある。
 今までに恋人がいなかった訳じゃないけど、少し前までは、芝居さえ出来れば良かったし住む場所にこだわりもなかった。
 だからたとえ恋人でも気軽には呼べない、辛うじて和式トイレと風呂場が付いた、洗濯機も外置きの部屋に住んでいたし、役者志望の仲間も似たような感じだった。
 契約社員だけど就職もして、やっと人並みの部屋に引っ越してみたものの、仕事と芝居の両立という忙しさで恋人を作る暇もなく、気付けばお一人様まっしぐら。
 そんなこんなで、やっぱり人の気配があるのは落ち着かなくて、大好きな俳優の出ている映画なのに集中出来ない。

「どうかした? そわそわしてるね、落ち着かないかな」
「いえ、いい匂いがするなって」

 梶峰さんとたわいないやり取りをしながら、この変に緊張した空気を打ち破るための策を考える。

(そうか。演技すれば良いのかも)

 今の状況を乗り切るには、上司、しかも会社のトップに連れてこられたんじゃなくて、昔から縁のある先輩に招待された設定を演じればいいかもしれない。
 ずっと芝居としか向き合ってこなかった私は、こんな時どうしていいか分からないし、演技すれば緊張を回避出来る気がしたので、キャラクターになりきることにする。
 そうすると不思議なことに、今までの閉塞感に似た緊張感はなくなって、先輩を慕う後輩になれた。

「それで、今日はどうして呼び出されたんでしょう。私個人に出来ることはないですよ」
「なかなか手強いね。俺としては、君の副業の内容を黙っておく代わりに、少し手伝いをして欲しいだけなんだけどね」
「言いましたよね、個人ではお受け出来ないって。あちらも立派な仕事ですし、いくら梶峰さんのお願いでも無理です」
「なら事務所を通せばいいのかな」
「そうですね。どんな依頼かによるので、社長とお話ししていただかないと」
「なるほどね」

 梶峰さんはあごに手を当てて、少し逡巡しゅんじゅんする様子を見せるが、とりあえずは食べようかとテーブルに料理を運んでくる。
 甘辛いソースの香りが食欲をそそる厚切りのポークソテーに、魚介のパスタはどうやらオリジナルのレモンソース。
 レタスやブロッコリーに、カットされたゆでたまごが盛り付けられたサラダと、コンソメスープまで並んで至れり尽くせりだ。

「これを今、この短時間で作ったんですか」
「焼いたり茹でただけだよ」
「料理出来る人は、だいたいそう言いますよね」
「まあ普段より張り切ったし、頑張ったことにしておこうかな」

 梶峰さんは揶揄からかうように笑うと、カトラリーをセットしてワインを開ける。

「え、呑むんですか」
「シラフじゃ出来ない話をするつもりで、今夜わざわざここに連れてきたんだけどね」
「だから私に話されても、仕事はお受け出来ませんって」
「聞くだけ聞いて欲しいんだよ。こちらも死活問題でね」

 グラスに注がれたワインのように、蠱惑的こわくてきな深みのある苦笑いに、本当に華がある人だなと改めて思う。
 私が得られなかった天性の華やかさ。うらやましいと思う反面、梶峰さんの立場でしか感じ得ないこともあるのかもしれないと想像する。

「……では私は貴方の、気の置けない後輩を演じます」
「ん? どういうことかな」
「常盤沙矢としても、陣野真弓としても、個人的にお話を聞くことは出来ません。だから、梶峰さんとちょっと縁のある後輩。そんな立場で愚痴ぐちを聞こうと思うんです」
「なるほど、ここに来ても演技する訳か」

 そう呟くと、梶峰さんはワイングラスを傾けて面白いねと口元に笑みを刻んだ。

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