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1巻

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 広いベッドの上でもつれ合いながら服をぎ取られ、深いキスをするたびに、ピンと張られていたシーツに波紋のようなしわが出来ていく。

「……綺麗だよ。とても綺麗だ」

 綺麗なのは貴方の方だと言いたくなるほど端整な顔立ちに、ジムに通っているのだろうか、細すぎず引き締まった彫刻のような美しい体。
 そんな彼に、まつ毛が触れるほど近くで、キスの合間に教え込むように囁かれると、私の心臓はドキンと大きく音を立てる。
 けれど壁際を足元から天井に向かって照らす間接照明と、わずかな気配にすら揺らぐキャンドルの淡い光にさらされた自分の肌に目がいくと、それが私を急に現実に引き戻す。

「ごめんなさい、私……」

 薄くなった醜い傷痕に彼の指が触れた瞬間、ずるりと記憶が引きり出され、ギュッと目を閉じて無意識に身を硬くしてしまう。

「大丈夫だよ」

 行き場を失ってシーツを掴んでいた私の手を、彼の大きな手は優しく拾い上げた。指を絡めつつ口元に引き寄せて、冷たくなった指先にそっとキスをする。

「緊張してるのかな」

 彼はそう呟いて、手を握ったまま指の背で私の頬を優しく撫でる。

(緊張、してないと言えば嘘になる)

 これでも私は他人の肌のぬくもりを知らない訳じゃない。
 だけど愛なんてものが、この世にあるとは思っていなかった。いや、そんなものは無いと信じて疑わなかった。
 ――親に愛されなかった過去。
 だから私は、私を否定しながらしか生きてこられなかった。

「震えは治まったみたいだね」

 それなのにこの腕の中は酷く安心する。生きていていいのだと、私を認めて良いのだと、この人が与えてくれるぬくもりが愛なのだろうと、私はすっかり心すらもゆだね始めている。

「ごめんなさい」

 そして思い知った。
 愛情欲しさに、易々と体を明け渡してしまった浅ましい過去に、どれだけもっともらしい理由をつけたところで、純潔には戻れない。

「ごめんなさい」
「どうして謝るの」

 だからこんなにも優しい腕に抱かれて、初めて自分の愚かさに気が付いて、恥ずかしさで消え入りたくなった。

「私、私は……」
「怖いのなら、ただ抱き締めて眠ろうか」
「そうじゃないんです。ただ、私は貴方が思ってるような女じゃないから」
「君が感じることを、そうじゃないなんて軽々しく否定は出来ないけど、君がそう感じて辛いなら、俺は君に少しでも好きになってもらえたってことかな」
「それは」
「俺は君が君だから好きなんだよ」 

 囁かれる声は優しくて、どこまでも甘く、今になって色んな理由をつけて自分を軽く扱ってきたことを後悔する。

「あの、私……」
「ん?」
「私、貴方が初めてじゃ」
「俺のベッドで、その話するの」
「ごめんなさ……」

 静かな怒りをはらんだ低い声にビクッとして、咄嗟とっさに謝罪を口にしようとした私の声に被せるように、彼は気まずそうに苦笑する。

「違うよ。これただのヤキモチだから」
「え」
「俺は嫉妬しっとでおかしくなるくらい、君のことが大好きなんだよ」

 真剣な眼差しが私を射貫く。彼はこんな私を本気で好きでいてくれる。
 怒って見えたのは、私にそこまで執着しているからなのだと分かった途端、胸の奥が熱くなって羞恥しゅうちと劣情が一気に大きくなっていく。

「君のことが大好きだよ」

 見つめ合う瞳が、私の心の奥底に語りかけるように静かに呟くと、ゆっくりと彼の唇が私の唇に重なって、固くなった体から徐々に力が抜けていく。

「好きだよ、沙矢さや

 ただ名前を呼ばれただけなのに、どうしてこんなにも泣きそうになるくらい、胸の奥を締め付けられるように強烈に響くんだろうか。

「沙矢」

 まるで生まれて初めてキスをするみたいに、ドキドキ心臓の音がうるさい。こんなにも優しい彼に抱かれる自分を、いい加減、自分自身で愛して受け入れる覚悟を決める。

「好き……です、貴方が好きです」
「うん。俺も沙矢が好きだよ」

 キスは唇から離れて首筋に移動して、されるがままにあごを少し上げ、彼に身を任せる。
 彼とこんな風に過ごす時が来るなんて、出会った経緯を思えば、あり得ないことだったのに。


   ◆◆◆


 小さな頃、母が連れていってくれるお芝居やミュージカルを観るのが大好きで、いつしかその中で私以外の存在になりたいと思うようになった。
 最初はきらびやかな世界への憧れが強かったけれど、いつからか、きっと舞台になら自分の居場所があるって信じていたんだと思う。
 小学校の学芸会は主役じゃなくても全力で取り組んだし、中学も演劇部で必死に頑張って、高校は夜学だったけど同好会で演劇を続け、賞を取ったりもした。
 だからこそ舞台に立てば、自分はそこにいていいんだという安心感が芽生えた。
 そして奨学金で進学した大学では、サークルじゃなくて外部の劇団に入って、時間を作り色んなワークショップにだって参加した。
 だけど現実は非情で、どんなに頑張っても生まれ持った見た目は華やかにならないし、舞台映えするほど背も伸びない。また、頑張れば頑張るほど嘘臭い芝居だと指摘されるようになっていった。
 それは私自身に、中身がないことが関係してるのかもしれない。
 鈍臭くて不器用で大根役者の自覚はあったので、二年前、二十六になってようやく夢に区切りをつけるつもりで今の会社に契約社員で就職した。
 しかし演じることは私の全てで、それを失うのは正直怖くてたまらなかった。そしてやっぱり芝居を諦めきれなくて、実は小遣い稼ぎを兼ねた副業をしている。
 ここはそんな私、常盤ときわ沙矢さやに、ささやかな夢を見させてくれる癒やしの場所だ。

「沙矢、お前再来週の土曜日いてるか」

 都内某所のビルの二階、担当業務のブロックごとにデスクが並ぶオフィスで、斜め隣から急に声をかけられる。
 長めの前髪が目元を隠しているものの、ハッと息を呑むほど美しい顔立ちの男性が、こちらを見ずにパソコンと睨めっこしたままキーボードを叩いている。

「あの。それって、本気で私に週末の予定があるかもと思って聞いてませんよね」
「はは、確かにな。思ってない。いてると思ってる」

 緩くパーマがかかった髪と、黒縁メガネがトレードマークの社長が可笑しそうに笑う。

「失礼だなあ、もう。笑うのは禁止ですってば」

 この笑顔にクラッとさせられた女性が何人いることだろうか。

「悪かったよ。いや、謝るのも変か」
「本当に失礼ですね、もういいです。それより土曜日ってことは、また前川まえかわさんのお孫さんとしてお見舞いに行くんでしょうか」
「沙矢、お前何年この仕事してる。軽々しく仕事内容や顧客の名前を出すな」
「すみません。汰一たいちさんと二人だと気が緩んじゃって」

 暦が関係ないここでは、祝日の今日も事務仕事が溜まっていた。出勤してる他のみんなは、ランチタイムでこの時間は席を外している。

「まあな、俺にとってもお前は娘みたいなもんだよ。でも仕事は仕事だ。少しの油断が大きな危険を生むんだぞ。気を付けろよ」

 そう答える香川かがわ汰一さんは、私が所属していた演劇集団〈プリズムスコール〉の元主宰であり、この芸能プロダクション、〈オフィス・クランベリィ〉の社長を務める四十六歳の独身イケおじ。
 プライベートをあまり明かしたがらないのは、バツがいくつもあるからだとか、女性にまつわるうわさが絶えないけれど、本当の理由は別にあることを私は知っている。

「よし。沙矢、詳細を今メールした。すぐ打ち合わせするぞ」
「分かりました」

 汰一さんのデスクはすぐそばなのに、業務内容がメールで送られてくるのには理由がある。
 舞台俳優や声優、ナレーターが多く所属する芸能プロダクション〈オフィス・クランベリィ〉にはもう一つ『人材レンタル』業務が存在する。私の副業がそれだ。
 汰一さんからのメールをチェックしていると、昼休みも終わりに近付き、ランチに出ていた社員たちがゾロゾロと事務所に戻ってきて、フロアが一気に賑やかになる。

「沙矢ちゃんお昼どうすんの」
「ちょっとまだバタバタしてて、これから打ち合わせが入ってますね」

 広げた書類をファイルに戻しながら、戻ってきた他の社員と雑談しつつ、冷えてしまったコーヒーを飲み干す。

「もう、社長はすぐそうやって沙矢ちゃんをこき使うんだから」
「大丈夫ですよ。埋め合わせにエグいくらい高いお肉おごってもらいますから」
「そうだよ、そうしなよ」
「えー、それ俺も便乗したい」
「分かる。私も」
「ははは、じゃあ今度みんなにご飯おごってくれるように言っときます」

 その辺りで会話を切り上げると、私は再び汰一さんからのメールに目を通して、内容に戸惑いながらも、手帳とノートパソコンを抱えて会議室に移動した。

「失礼します。すみません、遅くなりました」
「いいよ。あいつら戻ってきたんだろ」
「みんなで汰一さんにご飯おごってもらう話で盛り上がりました」
「なんだそれ」

 可笑しそうに笑いながらも視線をノートパソコンに移すと、汰一さんは表情をがらりと変えて、真剣な視線を私に向ける。

「さて、今回は一風変わった依頼だが、内容は把握したな」

 ブラインドを下げろと言う汰一さんは、炭酸水の入ったペットボトルをこちらに差し出して少し難しい顔をする。
 それはそうだろう、私だって困惑している。

「はい。だけど私で大丈夫なのか不安です」
「どうした、沙矢にしては珍しく弱気だな」
「だってこんなの、やっぱり無理があると言うか、別人なのがすぐにバレちゃいそうじゃないですか」
「弱気になるな。そのために打ち合わせしに、依頼人がこれから来ることになってる」

 スマホを覗き込んで時間を確認すると、汰一さんがそう心配するなと苦笑いを浮かべる。

「沙矢なら大丈夫だから任せるんだ」
「でもお見合いの代行だなんて」

 そう、今回の依頼はお見合いの替え玉だ。
〈オフィス・クランベリィ〉が請け負う『人材レンタル』は、舞台で役を演じる訳じゃなく、私たちとなんら変わらない、日々を生きる一般の人を演じる。
 私の副業は、その『人材レンタル』部門で他人を演じ切ること。

「まあな、確かに見合いの替え玉なんて、普通じゃあり得ない話だけどな」
「ですよね。お見合い写真とか、釣書とか、事前にやり取りがありそうなものなのに」
「まあ、お客様の事情は様々だ。という訳で、悪いけど昼飯は来客が終わってからにしてくれ」
「はい。分かりました」

 色々と不安はあるけれど、本格的な役者活動をやめた私が演じることが出来るチャンスはそう多くない。
 そうして汰一さんと雑談を交えながら事前に把握出来ている内容を共有していると、約束の午後一時を二十分ほど過ぎてから、その女性はやって来た。

「ごめんなさい。初めて来るのでタクシーに乗ったら、この辺り入り組んでて道に迷ってしまって」

 さして反省している様子もなく女性はそう言った。

(あれ? 地下鉄の駅から二分と離れてないし、めちゃくちゃ分かりやすい場所なのに)

 女性の受け答えに少し違和感を覚えたけれど、汰一さんが発した声で我に返る。

「そうでしたか。それは大変でしたね」

 汰一さんが笑顔を向ける中、来客用のお茶出しをして様子を見る。見た目で人を判断してはいけないが、かなり派手好きそうな女性だ。

「ええ。遅れてしまってごめんなさいね」
「構いませんよ。では早速ですが松永まつなが様、今回のご依頼を受けるに当たって、詳しい話をお伺いしてよろしいですか」

 汰一さんの一声で、私はトレイをサイドテーブルに置くと断りを入れて依頼人、松永美沙希みさきさんの向かいに腰かけた。

「ええ、お話しさせていただきます」

 そして彼女の身の上話を聞く。
 今から十年前、街中で持病の発作を起こしたお年寄りを助けた女性、松永菜々子ななこさんは、夫を早くに亡くし、当時中学生の一人娘を抱えたシングルマザーだった。
 倒れたお年寄り、資産家の畠中悠三はたなかゆうぞう氏は一命を取り留め、何かしらの形でお礼がしたいと、菜々子さんの娘であり、今回の依頼人である美沙希さんの学費を援助。
 しかしながら菜々子さんが病をわずらい倒れてしまい、数年の闘病の末にこの春亡くなってしまったのだという。
 そういった経緯があって、社会人になり自立しているとはいえ天涯孤独となってしまった美沙希さんを案じた畠中氏から、お節介とも取れる縁談が持ちかけられたそうだ。

「畠中のおじいちゃまには本当にお世話になったんですけど……」

 そう言って困惑した顔をするのは、確かに無理もないかもしれない。
 足長おじさんという有名な物語があるが、松永さんのこの話はそれよりも更に上をいく印象だ。

「これは以前も伺いましたが、本当に畠中様とはご面識がないんですか」

 汰一さんが尋ねているのは、大学を卒業するまで学費の援助を受けていたのに、美沙希さんが畠中氏と会ったことすらないという微妙な関係性についてだ。

「……ええ。お手紙でお礼状を出したことは何度もありますが、お母さんに命を救われて好きでやってることだから、お礼も必要ないと言われたりもしました」

 美沙希さんは困惑気味に口元に手を当てる。

「そんな畠中氏から、ご心配からなのでしょうが、お母様が亡くなったのを切っかけに、縁談を持ち込まれたとのことですが、普通にお断りになることは出来ないのでしょうか」

 汰一さんがそう言うのはもっともだ。
 たとえ命の恩人の娘とはいえ、学費の援助だけでもいきすぎている気がするのに、結婚相手までも押し付けるのは恩返しの域を超えている。

「何度もお断りしたんです。だけど見合い相手と会うだけ会ってみて欲しいって。会ってみて嫌なら断って構わないからって、どうしても取り合ってくれなくて」

 美沙希さんは疲れ切った顔でうっすらと涙を浮かべてしまった。
 慌ててハンカチを差し出すと、情けない話でごめんなさいと苦笑してあふれそうになった涙をぬぐう。

「会って断っても良いなら、なぜお会いにならないんでしょうか」
「万が一にでも先方に気に入られてしまったら、お断りするのが心苦しくなるじゃないですか」
「なるほど、そういう理由ですね」

 汰一さんは聞き取った内容を、ざっくりとメモに書き残していく。

「ところでお見合いに関してですが、お相手の写真や釣書どころか、お名前すら分からないのはどうしてですか」
「それは……断り続けましたし、その手の書類を一切受け取らなかったからです」

 その言葉に、また少し違和感を覚えるけど、それよりも美沙希さんの置かれている立場を思うと同情する気持ちが膨らんでいく。

「なるほど。最初から松永様にそのお話を受ける気はないので、お相手の素性がよく分からないということですね」

 汰一さんが最終確認のように美沙希さんを見つめると、彼女は気まずそうに表情を暗くして小さく頷いた。

「ご事情は把握しました。それでは今回松永様に代わって、松永様としてその場に伺うスタッフと詳細の確認を始めさせてください」

 汰一さんがそう切り出して、ようやく私は美沙希さんと、彼女のプライベートについての確認を開始した。
 普段よく行く場所だとか、好きな本やドラマ、ファッションはどんな雑誌を参考にしているか、ネイルにこだわりはあるか。
 普段の仕事内容や交友関係、どんな些細ささいなことも聞き逃さないように細かくメモを取る。
 そうして彼女になりきってお見合いの場に向かう。
 これが今、私が演じ続けることが出来る唯一の舞台なのだ。


   ◆◆◆


 そして迎えた見合い当日。
 美沙希さんの顔を先方は知らない。二十四歳の彼女に近付けるように、二十八歳の私には無理があるけど、出来るだけナチュラルなメイクを心がけたつもりだ。
 ネイルはあえてピンクが強いネオンカラーに、白のラインを入れて少しだけ上品さをプラス。
 やや厚手のオフホワイトのシアーに、ブリックピンクのツイードジャケットを羽織り、甘さを抑えるためにボトムはかっちりめの黒のワイドパンツ。
 そして足元には黒いスクエアトゥのパンプスを合わせて、髪はハーフアップで毛先を巻いたウィッグを被っている。

「さて。気を引き締めてかかろうか」

 パウダールームで一通り身なりをチェックし、前髪の崩れを直してからロビーに出る。
 指定されたお見合い会場であるシャスタホテル東京ベイは、近年アフタヌーンティーで注目され、海を一望出来るレストランも魅力的で、デートスポットとしても有名だ。
 土曜日とあって人出の多い一階のカフェラウンジを見つめていると、私と同じように『お見合い』が目的らしい人をちらほら見かけて、苦笑しながら場所を移動する。
 事前の情報がとぼしく相手が全く分からないのは凄く困る。ハンドバッグからこの日のために用意したスマホを取り出して、お見合い相手の山王さんのうさんという男性に電話をかけた。
 一コール、二コール。
 ところが呼び出し音はむなしく鳴り続き、何度かけても相手が電話に出る様子はない。

「困ったな」

 呟いて次の対策を練ろうとしていると、マナーモードにし忘れていた私用のスマホが鳴った。慌ててバッグから取り出した画面には非通知の文字が表示されている。

(……え)

 不意に襲ってくる恐怖で体が強張り、スマホを眺めていると、通りすがりのカップルが、二台のスマホを使い分けている私を不思議そうに見ていることに気が付いてハッと我に返る。
 非通知の着信に気味の悪さを感じつつも、今は仕事に集中しないといけない。
 慌てて私用のスマホを機内モードにしてバッグの底の方にしまうと、もう一度仕事用のスマホから山王さんの番号に電話をかけた。
 一コール、二コール、三コール。
 もう約束の時間だというのに、相変わらず山王さんが電話に出る気配はない。

(参ったな。どうしようかな)

 電話を切って考えあぐねていると、今度は電話を切ったばかりのスマホに着信があり、全く知らない番号が表示された。
 このスマホは依頼人と打ち合わせて、今日のために用意した電話番号だから、ここは躊躇ためらわずに出た方がいいかもしれない。

「はい。もしもし」

 とりあえず鳴り止まないスマホをタップして電話に出ると、心地のいい、けれどどこか冷淡な声が聞こえてきた。

『突然のお電話失礼いたします。松永美沙希さんの携帯電話でお間違いないですか』

 美沙希さん宛の電話ということは、もしかしてこの人は山王さんなのだろうか。
 事前に確認している番号と違うのが気になるけど、美沙希さん宛なので、探るような気持ちで応対する。

「はい。松永の携帯です」
『こんにちは。本日、山王に代わって畠中さんのご紹介で、ご挨拶をさせていただくカジミネと申します』

 どういうことだろうか、当日になって見合い相手が変更されたということだろうか。
 会話を進めると、電話の相手はどうやら美沙希さんがお世話になった畠中氏からの紹介で間違いないらしい。

「そうだったんですね。存じ上げずに大変失礼いたしました」
『構いませんよ。その辺りの詳細は会ってお話しします。もうホテルにはお見えですか』

 話が複雑になってしまったが、とにかく会わないことには話が進まない。

「ええ、一階のカフェラウンジの手前にいます。ロビーの端に電話のブースがあるのはお分かりになりますか」
『分かります。でしたら私の名前でカフェラウンジに入って待っていてください。少し道が混んでいたので、今駐車場に車を停めたところなもので』
「そうでしたか。ではお急ぎにならず、気を付けていらしてください。お待ちしております」

 電話を切ると、そのままカフェラウンジに向かって、言われた通りにカジミネさんの名前で待ち合わせだと伝えて席に着く。
 ホテルの駐車場ならば、あと十分ほどでこの場に本人が現れるだろう。
 見合い相手が山王さんではなくカジミネさんになった理由は分からないし、どんな人なのかも不明だが、とにかく彼が来る前に見合い相手が替わったことを汰一さんに報告しておく。
 メールを打ち終わってハンドバッグにスマホをしまうと、松永さんですかと、電話越しよりも更に冷淡な声が背後から聞こえて慌てて立ち上がる。

「初めまして。松永美沙希と申します」
「こんにちは。改めまして、畠中さんからお話をいただいたカジミネと言います。今日はお時間をいてくださってありがとうございます。どうぞ座ってください」
「はい、失礼します」

 おしとやかな笑みを浮かべて、相手の顔をようやくはっきりと見つめる。
 すらりとしたモデル顔負けの百九十センチ以上ありそうな長身と、短く整えられた明るい栗色の髪、何よりその整いすぎた小ぶりな顔には嫌と言うほど見覚えがあった。

(なんでこんなところに……)

 カジミネという珍しい苗字なのに、どうして気が付かなかったのだろう。
 私の記憶が確かなら、いや、視力が極端に落ちていなければこの顔を見間違えるはずがない。

「どうかなさいましたか」

 動揺して固まったことに気付いたのか、カジミネさんはソファーに腰かけた瞬間に気遣うそぶりを見せる。

「ごめんなさい。随分背が高くていらっしゃるので、つい見入ってしまったんです。不躾ぶしつけでしたね」
「ああ、そうでしたか。どうかお気になさらず」

 さして気に留めた様子はなく、飲み物を頼みましょうかとメニューを確認するカジミネさんの顔を再び見て確信する。

(やっぱり、間違いない)

 だけど私は心の準備が出来ていない。だって彼は、私が勤務する会社の人間だからだ。
 目の前でその長すぎる脚を組んで座っているだけなのに、かもし出される華やかな空気は明らかに異質で、良くも悪くも人の目を引く。
 梶峰昇かじみねのぼる。今や経済誌から女性向けファッション誌にまで特集が組まれるほどの有名人。
 彼が有名なのは、ブライダル関連を一手に取り扱い、自社が経営するドレスショップ、結婚式場やレストランを全国に十四箇所、それに加えて関東を中心に結婚相談所を八箇所展開する、〈シャォンス・ラ・マリエグループ〉の若き執行役員だからだ。
 元世界的モデルという経歴まで持つ三十三歳の彼には、その若さと華やかな経歴、人を惹きつける外見から、広告塔として取材のオファーが後を絶たない。
 そして何より梶峰さんは、私が本職で契約社員として勤める〈シャォンス・ラ・マリエグループ〉傘下さんか、〈エトワールブライズ〉のCEOだ。

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