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俺がお前の全てを守る
しおりを挟む春の浅き夢が終わり、朝の竹林に静寂が戻った。
しかし…
春陽が人間でない、今も頭に双角、口に双牙のある淫魔だという悪夢は決して終わらない。
ニセの朝霧が消えると、春陽が手に持っていた定吉の打刀や春陽の小袖に付いていたニセの朝霧の血も消えた。
しばらく呆然としていた春陽と定吉だったが、突然我に返った定吉は、春陽に近づこうと一歩前に出た。
すると、春陽も自分を取り戻したが、春陽が手にしていた刀の刃を春陽自身の首元に持っていった。
定吉は足を止め目を眇め首をゆっくり左右に振ると、まるでここが今戦の最中の地のように息を詰め、しかしこの上無く優しく春陽に言った。
「よせ……春陽……春陽……刀を捨てろ。俺が、俺がお前の全てを守る。必ずお前を幸せにする。だから……刀を捨てろ…」
定吉程の強面で巨躯の男がこんな声を出すのかと春陽は不思議に思いながら、春陽も首を左右に振って言った。
「定吉……私を守ると言うなら、私が今から首を切ったら、私にとどめを刺してくれ。そして、首を切り落とし心の臓を出して、この二つをマリア菩薩のおわすあの寺の斉火(いみび❋不浄を清めた火)で焼いてくれ。そうすれば私は、親兄弟、村人、定吉お前に害を与えないし、冥府から蘇る事も無い。頼む定吉……私を守るなら、私の屍を拾ってくれ…」
春陽が、武士らしく迷い無く一気に刃を動かそうとした。
「やめろぉっ!春陽っ!」
定吉が絶叫した。
大きな野獣が吠えたかのようなその声の大きさに春陽は驚くが、更にそれを上回る事があった。
春陽の前にいる定吉の両目から涙が流れていて、定吉の両頬が濡れているのが今度こそ春陽の目に映った。
「春陽……死ぬな…死なないでくれ…」
定吉が、振り絞るような悲愴過ぎる声で春陽に請う。
(どうして?どうして?私じゃ無く、お前がそんなに泣いて……いるんだ?)
春陽は、いつもふてぶてしい体の大きな男定吉の涙を見てとても不思議で。
でも、時折定吉が酷く空虚な目をする事を知ってる春陽は、同時に定吉の涙に胸が激しく痛んだ。
春陽の刃を動かす手は止まっていた。
すると、肉体的精神的疲れと人間としての空腹と、又始まりかけている淫魔の血と性の欲求への恐怖と拒絶から体がふらつき視界もぼやけたり元に戻ったりし始める。
「春陽……死ぬな……死なないでくれ…」
そう再び言いなから定吉は、一歩、二歩と、ゆっくり確実に春陽との距離を詰めていく。
そして、ふと春陽は、昔にも同じような事を言われた事を思い出した。
春陽が小さい頃、風邪を拗らせ肺炎になり死にかけた時の事を。
あの時布団で寝込み苦しむ春陽の手を握り、小さかった朝霧が泣きながら同じような事を春陽に必死で懇願していた。「ハル!死ぬな!死なないでくれ!俺が生きている限り死なないでくれ!」と。
そして数日前、朝霧が美月姫と観月屋敷を去る前日も、朝霧は最後に春陽に言っていた。
「ハル…最後にこれだけは約束してくれ。死なないと。俺が生きている限りは死なないと…」と。
「うぅっ…」
春陽はふらつきながら、思わず目を眇めて定吉を見た。
やがて春陽には、今春陽の元にゆっくり来る定吉が定吉本人の姿に見えたり、視野がかすみ定吉が朝霧に見えたりし始めた。そして
それが交互に早く入れ代わり、何度も何度も繰り返された。
「ズッ!」
突如、土が音を立てた。
気付くと春陽は、自分の首を切れないまま持っていた打刀を真っすぐ切っ先から地面に突き刺すと、柄を持ったまま膝から崩れ落ち、下を向き目を閉じて座り込んでいた。
「春陽っ!」
定吉は急ぎ春陽の元に走った。
「春陽っ……春陽っ…」
定吉は跪き、その名を呟きながら、定吉自身の怪力で春陽を潰さないように、しかし、もうふらふらでぼろぼろの春陽を、強く優しく春陽の頭から抱き締めた。
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