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春の浅き夢
しおりを挟む朝明けの竹林に一陣の春風が吹いた。
「貴継…」
春陽は、定吉に後ろから抱き締められながら、前方の朝霧を凝視した。
「春陽……俺は帰ってきた。春陽……そんな男じゃ無くて、俺と一緒に行こう。俺は本当は、春陽が淫魔だと、ずっと前から知っていた」
朝霧は表情は一切無くて、でも声だけは甘くて優しい。
「ダメだ……春陽。あいつは絶対お前の幼馴染みじゃない。黒い一つ目の化け物が化けてるだけだ。本当だ、俺を信じろ」
定吉は、更に春陽を抱く腕に力を込めると春陽の耳元に背後からささやき、春陽を定吉に留めようとした。
定吉は見たのだ。
さっき春陽を竹林で見かけ定吉が気配を消して追いかけている間、その前を黒い丸い塊が同じように春陽を追いかけていたのを。そして急にその姿が消えたのだ。
あの黒い塊は、以前春陽を襲い定吉も怪我を負わされた化け物とよく似ている。
そして何より、定吉が各地の市中に放っている忍び達の報告からして、本物の朝霧が今、こんな所にいるはずは絶対にないのだ。
「定吉…」
春陽がさっきと別人のような落ち着いた声で呼んだ。
そして、春陽の体を抱き締めて重なる定吉の両手を春陽の左手が強く握った。
そして春陽は、定吉に顔だけ振り返り微笑んだ。
定吉は一瞬その笑みに、普段ならあり得無い一生の不覚を覚えた。
定吉が気付いた時には、春陽は、定吉の腰帯に差した二つの鞘の片方から生身の打刀をなんなく出し、風のように奪い朝霧のすぐ前に立ち、朝霧を庇うように定吉に向かいその切っ先を向けていた。
「ハァ……春陽…」
定吉は、艶めいた深いため息混じりの声を出した。
しかしその吐息は、春陽に対してのモノなのか、春陽に簡単に翻弄されてしまった定吉自身に対しての呆れなのか、誰にも分からない。
だが定吉は、鋭い切っ先を前にしても一切怯ます一歩前へ出た。
すると、春陽はゆっくり首を左右に振って定吉に静かに言った。
「定吉……それ以上来るな。私は、貴継と行く」
それでも、定吉が春陽を見ながら又一歩前へ出ようとした。
「定吉!来るな!私は、二度とお前とは戦いたく無い。そう……例え来世でも……お前とは戦いたく無い」
その言葉に定吉は、春陽と刀を交えたあの橋での邂逅を思い出し動きを止めた。そして、つい何日か前の事だが懐かしそうに目を細め春陽をじっと見詰め思った。
(それは……二度と戦いたくないのは……俺も同じだ、春陽。そう、例え来世で会っても……何度生まれ変わってお前と又会っても…)
そして、「そいつはお前の大切な幼馴染みじゃ無い!お前の幼馴染みは……お前を捨てて去っていったんだ!もう帰って来ない!」と叫びそうになり、寸前で止めてその言葉を飲み込んだ。
自分が淫魔だと知り絶望してすっかり青白くやつれ果てた春陽に、定吉にはどうしても言えなかった。
だが、そんな定吉を前に、春陽は刀を持ったまま振り返り朝霧に左腕で抱きついた。
「貴継……一緒に行こう。一緒にどこまでも」
春陽の声は、穏やかだ。
「春陽…」
優しく呟き、朝霧も春陽を両腕で抱きしめた。しかしこの場でも朝霧は怖い位に一切無表情だ。
「…」
定吉はそんな春陽を見て、その場にただ無言で呆然と立っているしかできなくなり、更に息が出来ないような感覚に陥った。でもそれは定吉自身が何故自分がそうなるか理解していない。
しかし突然、春陽が向かい合い体を寄せる朝霧に対して静かに厳しく言い放った。
「お前があの化け物だと、私が気付かないとでも?」
朝霧の右腕は、すぐに春陽を刀で襲おうと朝霧の腰帯にある鞘にいったが、すぐにそうさせまいと春陽の左腕がそれを捕らえた。
そして、一瞬で朝霧の両目は、全てが赤く染まり人のモノで無くなり春陽を睨んだが…
「ううぅっ…」
左腕で春陽を抱き締めていた朝霧の口から、突然呻き声が漏れた。
春陽が、朝霧の左脇腹にさっき定吉から奪った刀を刺していた。
刃先はすでに、朝霧の体を通り抜け背中から出ている。
「屋敷を出た時からずっと私を付けてきてたのは知っていた。春陽、春陽と、ニセ者がうるさいぞ…本物はな…そんな呼び方はしないんだよ…」
春陽は、刺されたままでもまだ春陽を抱き締めるニセの朝霧を春陽の左腕で抱きながら、左の口角だけ上げて嗤って言った。そして右手で刀の柄を一度真っすぐ前に少し引いた。
切っ先はニセの朝霧の体内胸すぐ下の脇腹に戻ったが、春陽はその後すぐ、又ニセの朝霧の心の臓に向かい刃を再び強く押し込んだ。
その化け物の肉体は硬かったが、今はやつれていても淫魔の春陽の怪力なら容易だった。
「ぶっほっ!」
ニセの朝霧は、目が人間のそれに戻り口から吐血した。そして、しばらく虚ろな視線を無言で春陽に向けた後、まるで負け惜しみのようにと切れと切れ呟いた。
「勝った気で……いるなよ。これは所詮……分身の方だ。必ず本体がお前を……始末するからな…」
それを悲愴な表情で見ていた、顔と上半身にニセの朝霧の返り血を浴びていた春陽は、今度は一気に刀をニセの朝霧の体から引き抜いた。
ニセの朝霧は春陽を空虚に見詰めながら、背中から倒れそうになった。
春陽は何故か左腕でそれを引き止めて、春陽の方に倒れてきたニセの朝霧の体を強く、強く抱き締めた。
春陽の体は、ニセの朝霧より小さいにもかかわらす。
「ごめん……貴継……一緒に行かなくてごめん……ごめん…」
そう呟きながら、春陽は両目からハラハラと涙の粒を落とした。
勿論、今春陽が抱き締めているのはニセの朝霧だった。
しかし、春陽の心の底からのその贖罪の言葉は、本物の朝霧に向けたモノだった。
すると突然、春陽に抱かれたまま、ニセの朝霧である化け物の体が音を立てず静かに粉々に砕けて散った。
小さい砂のようなその破片達は、ほんの一瞬朝靄の中で清らかな陽の光を受けキラキラしながら、やがてそっと春の浅き夢のように全て消え去った。
その様子を、定吉も呆然とただ見詰めた。
同じ頃…
本物の朝霧は、自分に付いた山賊の返り血を山中の小川で洗い流し終え、再び春陽の元に帰ろうと旅を再開した。
「よし。行くぞ!」
朝霧は、無事だった馬の横に立ちそう言うと手綱を引いた。
(ハル!ハル!俺はもうすぐ帰る!もうすぐ会える!)
そしてそう思うと、もう少し歩き木々の密集地帯を抜ければ広い道に出て、馬に乗り一気に春陽の元に帰る距離が稼げると心を浮上させた。
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