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窮地
しおりを挟む春頼は、まさか……婬魔が、これ程に血に敏感だとは思わなかった。
春頼は、にわとりを締めた後、血の付いた手を何度も洗い、風呂にまで入り、着替えもした。
それでも、分るのだ。
すると春陽が、体をユラユラしながら布団の上に立ち上がった。
そして、すぐ横に胡座でいた春頼と向かい合う形で、春頼を上からみおろし、怖い位優しい声で呟いた。
「春頼……お前……婬魔の私が……この兄が怖いか?」
春陽は、顔色は青白くやつれて憔悴しきっているのに、春陽の目元と口元は僅かに微笑む。
それが春陽の美貌と溶け合い、とても妖しい美しさを漂わせている。
しかし春頼は、やはり動揺を見せず、真っ直ぐ春陽を見上げたまま首を横に振り、即毅然と言い切った。
「いいえ、兄上」
すると次に春陽は、鋭く伸びた爪の生えた右手でその春頼の顎を掬い上げ、又聞いた。
「春頼……お前は……私を殺すのか?そうだ……お前は、私を殺すのだろう?私が……阿鼻の谷底へ堕ちたなら、私の首を切り落とし、心の臓をえぐり出すのだろう?」
確かに婬魔の息の根を完全に止めるには、ただ首を落としただけでは蘇る。
その心の臓を出し、神仏の斎火(いみび*不浄を清めた火)で浄化しなければならなかったのだ。
春頼は一瞬、心の臓が跳ねた。
春頼が父から「もしも春陽が我を無くしたら、まず春陽の首を斬り落とせ」と秘かに言われている事を……春陽は、もしかしたら知っている?……或いは勘づいているのでは?と感じたから。
けれど……その答えは分からないが…
「いいえ、兄上」
動揺を隠したまま、やはり春頼は、兄を見詰めたまま即答して首を左右に振る。
しかし…
「フッ……くくっ……くくくっ…」
春陽が、急にそうあざけるように嗤った。
そして、右手で持ち上げていた春頼の顎を、今度は子猫でも撫でるように優しくくすぐるように、春陽のその人差し指の腹で撫でてきた。
そして更に、急に立ったまま体を折り、春頼の顔に春陽の顔を近づけた。
春陽と春頼の兄弟の唇同士が、接吻する程に近い。
これには流石の春頼も心の臓をドクっとさせたが、あくまで平静を装う。
だが……ジリジリ……ジリジリと、春頼の息すら奪うように……大虎が子猫に攻められているように……心体逞しい武者の春頼の方が、春頼より断然体の小さく細い兄の春陽に追い詰められているような風になっていた。
やがて、その体勢のまま春陽は、春頼を見詰めたまま、吐息を混ぜたような声で呟いた。
「良いのか?春頼……私をこのままにして?私の、この兄の首を斬り落とし心の臓を焼かねばお前もその内私のように汚れてしまい……お前も私と一緒に同じ所に堕ちてしまうぞ?…」
わざとだろうか?
そう言った春陽は、春陽の双牙を春頼に見せつけるようにしながら、おぞましい程美しく微笑んだ。
だが春頼は、春陽のその禍々しい姿にさえ、視線を一瞬たりともそらす事ができなかった。
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