1 / 178
春光
しおりを挟む
ゆっくりとした、低い鐘の音が鳴る。
今日、最終の授業が終了した。
今日は、五時間目までしか授業が無い。
所々開いた学校の窓から、鮮やかになった日の光と春の柔らかい風が入ってくる。
「お前、本当に大丈夫か?」
急いで帰宅の用意をする摩耶優の背後から、クラスメイトで仲の良い箱崎が声をかけて近づいて来
た。
「え?ああ、大丈夫」
下がり気味の愛らしい目を細
め、優(ゆう)は笑顔で答えた。
今朝からずっと調子の悪い優を、箱崎はずっと心配してくれてい
る。
「ねえ、摩耶君、本当熱あるんじゃない?」
優と箱崎の回りを、数人の女子が囲む。
「あっ、本当大丈夫、大丈夫。ありがとう。又明日な」
又、ニコリとして、優は箱崎と教室をでた。
「ねぇ、なんか摩耶君っていつもなんか色っぽいけど、調子悪そうだとさらにヤバくない?」
二人の姿が見えなくなり、一人の女子がそう呟く。
「うん。なんか、変なフェロモ
ン、ムンムンしてる」
もう一人の女子が答えると、全員頬を赤らめ、暫く余韻に浸っていた。
「なにか、悩みでもあんの?」
箱崎が控え目に聞いてきた。
学校内では数人の男子とよく一緒にいる優だが、こうして広い川の横の通学路を一緒に途中の別れ路まで帰るのは、いつも箱崎だけだった。
「悩み?」
優は、少し首を傾げた。
確かに優の生い立ちは複雑だっ
た。
幼児の頃に記憶を一切無くして、
今横にある川の、どこか岸に倒れていたらしい。
それをたまたま助けたのが今の優の養父母で、一度施設に預けられた彼を、子供のいない二人が後に温かく迎え入れてくれたのだ。
養父母はとても優しく、金銭的にも裕福で、何かに不自由な思いをした事もなく、その愛情のせいか本当の親の事もくどくど考える事も無く、いつも前向きでこれた。
まぁ、この冬は大学受験だし、優自身は自覚が無いが、
「摩耶君はキレイすぎて、普通の女子はビビって告れない」
と常に周りの女子に言われるせいか、未だ恋愛未経験という事があるが。
あるとすれば夢だろう。
いつも頻繁に見る夢がある。
深い深い暗がりに、五口の日本刀が抜き身で地面に刺さっている。
その刃は、どれも素人が見ても真剣であろう事が分かるほどの禍々しくも神々しい光を放っていた
が、特に真ん中の、一際激しい輝きが優の心を引き付ける。
直刃の深い刃文(はもん)に金で桜の花を細工した鍔(つば)。
血の色の紅色の柄糸で菱形の紋様に巻かれた柄には、龍の目貫(めぬき)が見える。
そして、いつもその決まったそれに手を伸ばすと、いつもそこで汗に塗れた状態で起きてしまうの
だ。
そして、決まってその日一日は、物事に集中できなくなる。
今朝も、又、その夢を見た。
だから…
「別に、悩みなんてないよ。多分、風邪でも邪いたのかも」
春のクラス替えで最近知り合った箱崎には、今はこれで誤魔化せるだろう。
「何かあれば言えよ」
箱崎は、優の頭をポンポンとし
て、いつもの別れ道で別れた。
学校から優の自宅まで、長い川辺の道を歩いて十五分程。
車や人の多い通りを抜けると、草と土に代わりコンクリートが川を囲むが周囲は緑が多くなり、人通りは少なくなり、優の暮らす大きな家の建ち並ぶ地区に近づく。
優の背後から、役所の車が川の水量に注意と、車上の拡声器で大音量で警告を流しながら追い抜いて行った。
いつもは流れの緩やかな川も、昨日の昼からの豪雨で水かさも増
し、流れが急になっていた。
「ん?」
前方から、バシャバシャバシャと水鳥が水面を叩くような音がし
た。
だがすぐ、激しい水音の方に目を向けた優は、水鳥では無く、人の子供が溺れている事を知る。
「!」
あの車の人、流してる声で気付かなかったのか?
優は制服の上着を脱ぎ捨て、川に飛びこんでいた。
確かに流れは速いが、それなりに泳げる彼はなんとか必死で追いつく。
我を忘れて藻掻く子供を後ろから抱き止めるが、パニックになっているのか、暴れるのを止めない。
「助けるから!」
優の叫びに、子供は急に大人しくなり、優に身体を預けた。
だが流石に、一人より子供を抱いてこの流れはキツイ。
しかもこんな日に限って誰も通らず、助けてくれる者も誰もいな
い。
それでも、渾身の力を振り絞り泳ぎきり、少し高いコンクリートの岸に子供を上げると男の子だとわかり、彼は何度も何度も咳こんだが意識もハッキリあるようで、優は自分は足が川底につかないためにコンクリートに顔と腕だけ乗せ
掴まり、安堵の溜息を吐いた。
だが、次は自分がと上がろうとした瞬間、ヒヤっと冷たい恐怖と共に両足が急に攣った。
どうすれば?
それを考える間も与えられず、次の瞬間、今度は優が溺れて流されていた。
目の前が白くなっていく。
光だろうか?
それでも暫くは目が開けられないまま朦朧としていたが、やがて自分は何をしていたか、ボヤけた頭は逡巡しだした。
なかなか思いだせなかったが、急に記憶が甦り、優はガバッと横たえていた身体を起こした。
「生きてる…」
優は、何気に自分の右手を動かしてみた。
だが一瞬安堵した優は、自分が寝かされていた布団を挟んで両側
に、年老いた男女がいる事に目を丸める。
「おお、気がついたか、坊。良かった、良かった」
男性の方がにこやかに目を細めると、女性も同じように優を見た。
だが次の瞬間、優は異様な違和感を覚えた。
目の前の二人が、子供の頃読んだ昔話に出てくるような風貌だったからだ。
男性は、長い白髭をはやし濃紺の作務衣を着て、女性も渋色の着物に身を包み、長い白髪を後ろで束ねていた。
そして、よくよく周囲を見渡す
と、寝かされていた薄い布団の向こうには囲炉裏があり、何かを煮炊きしているようで、木造和風の家の造りも、お世辞にも立派とは言えない粗末な感じのものだった。
「あの、あなた方が、俺を助けてくれたのですか?」
何処か不審におもながらも、優は翁と言うにピッタリの男性に尋ねた。
「ああ、そうじゃよ。お前さん、川で溺れたんかの?岸で気を失っとった」
「…」
優は、ふと男の子を助けた事を思い出したが、次の瞬間、自分の髪がおかしい事に今気付く。
男らしく短くしていた髪が、伸びているのだ。
それも、胸より下に。
「え?」
気持ち悪くて引っ張ってみたり、頭をくしゃくしゃにしてみたが、どうも本当に、優自身の髪が伸びたのだ。
「どうしたのじゃ、お主大丈夫
か?」
心配する翁達を前に、優は暫く言葉を失った。
しかし、何より驚いたのが、近くの鏡台に映った自分の瞳が黒から青に変化していた。
慌てて布団から這い出てその前に行き、何かの見間違いでないか確認したが、確かに事実だった。
もしかして、自分はまだ気を失っていて、夢を見ているのか?
それとも、もしかしてもう自分
は…
ここは何処か、今いつか?
優の問と翁達の話しは全く噛み合わなかった。
親切で人の良さそうな翁夫婦が、
嘘を言って優をどうのという感じでは全くないが、彼等の話しをすぐ受け入れる事もできない。
翁が言うには、優がいるここは江戸時代なのだ。
しかも、優の習った歴史とは全く違う将軍家が代々納める、全く不条理な世界。
死んだ訳では無さそうだが、まさかこれが漫画でよく見る異世界なのだろうか?
その日寝て次の日起きたら、またきっといつもの平和な現代の生活になっている。
だか、何度目覚めても、現代には戻れなかった。
日は、無情に過ぎて行く。
時には大きな不安に押し潰されそうになるし、優が居なくなったとなれば、あの両親はどんなに嘆くだろうかと心痛は深くなる。
だがどんなに辛くても、涙は流さなかった。
いや、気が張り詰めているせい
か、流せない、と言うのが正しいのか?
翁夫婦は、素性の分からないにもかかわらず優を不憫に思い、暫く家に居ていいと言ってくれ、近くで拾った猫を小寿郎と名付けて飼う事も許してくれた。
そして、何処から来たなどは気を遣ってか、深く聞いて来る事は無かった。
ただ、誰かに問われれば、江戸から来たとだけ言うようにと告げられた。
綺麗な優は何もせずともいいとも言ってくれたが、そう言う事も言ってられず、すぐに優は老夫婦の仕事を手伝うようになった。
だが、それもいつまでの話しか不安にもなってくる。
日をそう待たず、優の存在は、山中に広がる翁夫婦のいる村の人々の知る所となる。
だだどうも青い瞳の所為で避けられて、こっそり物陰から優をひと目見ようと、老若男女が遠くから彼を覗くようになった。
ただの興味本位の者もいれば、優の美貌に惹かれるように来る者もいた。
翁の話しでは、この世界の江戸時代は鎖国が無い。
大きな町に出れば、青やら、黄色やら、様々な瞳の色の異国人が闊歩しているらしい。
それでも、このような山奥の村では珍しく、人々を萎縮させるらしい。
それに、急に伸びた黒髪を一度短くしたいと翁に言ってみたら、折角の美しい髪を切らない方がいいと説得された。
まるで絹の糸ようにサラサラ揺れるそれは、優の美しさを助長していた。
「おかしいな」
林の木々越し、遠くに翁の畑仕事を手伝う優の姿を見て、武士らしきスラリと長身の若い男がその甘い美貌を笑みで崩す。
「旅人の噂では、この村に現れた我らの主は、屈強な大男ではなかったか?」
返事を求め、近くに居た他の同じく長身の三人の男の顔を見た。
「噂とはそんなものだ…」
冷ややかな印象に整った顔の男
も、片方の口の端だけ上げて薄く微笑んだが、黒灰色の目だけは笑っていない。
「誠に、お美しい御方だ、我が主は!」
筋肉隆々の無骨な顔の男は、少し身を乗り出し、興奮の色を隠しもしない。
「はぁ…」
その様子に呆れた溜息を漏らしたら、黒灰色の目の男は、何処か皮肉めいた笑みになる。
「まぁ、あの血が入っている者ならば、美しいのは当然だろうな…」
その物言いに三人の男は、それぞれ冷たい視線を彼に返した。
特にきつく睨んだのは、寡黙気な美貌の、肩にかかる位の黒髪の男だった。
「本当に美しい…そう、思わんか、朝霧殿は?」
黒灰色の目の男のその問いに、黒髪の男、朝霧は、ほんの一瞬更に睨みを強めた。
だが…
「さぁ、どうかな?」
朝霧はそう静かに言い残し、その場を離れ歩いて行った。
あの日、子供を助けた日のほんの数日前、あの懐かしい街は桜が満開だった。
そして、場所は違えど、今この優のいる山の人里も薄い儚い色の花びらで埋め尽くされていた。
こっちは、山桜だが。
翁が用で町へ降り、今日は朝からそれほど仕事もなく、優は桜の咲き乱れる山中を、髪を後ろの上部で束ねて下ろし、覚えたての山菜採りに精をだしていた。
面白いほど良く採れるので、肩に担いだ籠は一杯になり…
きっとお婆さんも喜んでくれるかもと思う。
お婆さんが心配して、余り遠くへ行かないように再三言っていた
が、咲き乱れる花に誘われるように、優はどんどん山奥へ向かう。
そしてやがて、一本の巨大な桜の木に辿り着く。
余りの立派さに惹かれて、ここへ来たのは何回目か。
「凄い、キレイだ…」
無数の花びらが暖かい風に乗っ
て、優の回りを舞い散る。
その中を髪をたおやかになびかせ佇む彼は、まるで他の人間には天女が舞い降りたかの様に見える。
その様子を遠くから、先程の4人が見ていた。
少し、休憩するか。
優はその根本に腰掛け、腰に付けていた竹筒をとって、中の水を飲んだ。
「はぁ、炭酸、飲みたい…後、ハンバーガー食べたい…」
つい思わず弱々しく呟いたのは本音だった。
聞こえるのは、風の音と鳥の声だけ。
急に眠気が襲ってきて、いけないと思いつつも逆らえない。
山には、山賊や流れの盗賊も出
る。
「優は美しいから攫われるよ」
お婆さんの忠告が遠くに思いだされたが、優はそのまま目を閉じ
た。
「こんな所で、何かあったら…」
屈強な男定吉が、優を起こしに木陰から飛び出そうとするのを、横にいた朝霧が腕をとって止めた。
「何故です、何故止めるのですか、貴継(たかつぐ)様?」
朝霧は腕を離さず、一度遠くの優の寝顔を見た。
「しばらく休ませて差し上げろ」
「いや、しかし…」
「私もお前もいるし、近くに西宮と観月(かんげつ)も居る。何かあれば、ここ数日主を襲おうとした何人もの賊を主に内密に殲滅したように、我らが決して容赦しない」
観月は、黒灰色の瞳の男で、西宮は甘い美貌の男の方だ。
朝霧の強い眼差しに、定吉は、心配そうにしながらも思いとどまっ
た。
優はそんな事は夢にも思わず、穏やかな寝息をたてている。
「のどかですねぇ…」
西宮が木陰から微笑んだ。
観月は、静かに近くの桜の木の上に登り、幹に寄りかかり座ったまま散っていく花びらに右手をのばした。
朝霧と定吉はそれぞれ離れて、監視を怠らない。
どれ位眠ったのか?
優は、そっと目覚めた。
何処からか声がする。
優は桜を見上げた。
「あなたは…」
「お前、私の声が聞こえるの
か?」
普通なら、桜が喋るなんて恐怖以外何物でもないが、今は不思議とそう思わない。
その、声変わりはしているがまだ大人になりきる前の若い声に、ざらざらとした木皮を撫でた。
「あなたが、喋っているのです
か?」
少し間が開いたが、桜はゆっくりと、ああ、と答え、不思議そうに尋ねてきた。
「私の声が聞こえるなど、お前、人の子ではないな?」
「え?俺は、人間ですよ。普通の」
「隠しても無駄だ。お前から、匂いがする。禍々しい匂い…だが、それだけでない、一体お前はなんなんだ?」
「なんなんだって、本当に普通の人間で…」
優は幹に手を当てたまま、戸惑った。
「お前、気を付けろよ。魔が近づいてきている匂いがする」
魔が近づいてる?
優は、小首を傾げた。
だが、ふとそのまま何気に正面を見ると、一匹の蝶が、ヒラヒラと優美に舞ってこちらへ向かって来ていた。
見た事もない大きな、銀色に、青い紋様の麗しき姿に、優は思わず立ち上がり、くるりと向きを変え来た方向に又飛んで行ことするその姿を追おうとした。
「馬鹿か!駄目だ!行っては駄目だ!」
桜の木が叫ぶが、優は何故か立ち止まれなかった。
「駄目だ、行っては駄目だ!」
桜が尚もそう必死で呼び掛け、心の中では優自身も分かっていにもかかわらず、身体が言う事を聞かない。
だが、更に深い深い森へ吸い込まれるように数歩ふわふわと歩く
と、突然ぐいっと背後から抱きしめられた。
その両腕は、声にならない驚きと共に、優を力強く引き止めた。
優の華奢な手と違い、大きく筋張った逞しい男の両手が胸の辺りに見える。
ふと、不思議な感情が、優の心に溢れだした。
知ってるようで、知らない手。
この手は、この手は…
優は、思わずその右手に自分のそれを重ねて、後ろを振り返った。
自分より背が高いせいで見上げないといけなかったが、男の瞳と視線が合った。
その色は、深い深い濡れた漆黒。
野生の狼みたいな、スッゴイ…男前っ…
それが優の正直な感想であり、固まったまま、顔を外らす事が出来なかった。
突如、優の脳裏に、明らかに何処か別の場所の桜の木の下、花吹雪の中、今と同じような二人が浮かんだ。
今と同じ様に、背後から、強く強く抱かれている。
違うのは、優が武士の格好をしている事だ。
あれは、俺なのか?
かすかな疑問と、訳の分からない状況に優が言葉を失っていると、
黒い瞳の男朝霧は、優の身体を斜めにして抱き寄せ、長身を屈めて耳元で強く呟いた。
「行ってはいけません」
「どうして?」
優は、朝霧の上衣越しの分厚い胸に顔の半分を押しつけられたま
ま、されるがまま問うた。
「どうして?それは…教えてやろうか?」
蝶が飛んでいった方向から、美しい男の声がした。
優は、思わず声の方を見た。
いつの間にか目の前に、長い長い銀髪を揺らめかせた、青い瞳の美青年が佇んでいた。
まるで、さっきの蝶のよう…
優は、暫く言葉も無く呆然と見詰めた。
「久しいな。ハル…私は、お前に会いたくて、会いたくて…一度死んでも又、地獄の底から還っできたぞ…そして…」
銀髪の青年は、朝霧と、彼と同様に優の近くに出て来ていた、観月と西宮と定吉を見て目を眇め、くくっと笑うと続けた。
「又、相も変わらず忠義なお前の犬共よなぁ…ハル…」
その言葉に朝霧は、優の身体を左腕で抱き込み、犬呼ばわりされた四人は腰の二口の内の一口の刀を抜こうと手を伸ばすが、どれも鞘から抜けない事を確認すると舌打ちをして、仕方ないとばかりにもう一口の方を抜いて構えた。
当の優は、この状況が理解出来ずにだだ呆然としていたが、そんな彼を抱く腕に力を込める朝霧を見て、銀髪の男の柳眉がイライラとしていくのがわかった。
「まさか、私を覚えていないの
か?」
無論、優には覚えが無かった。
だが、あの青い瞳、自分と同じ色のそれには、何故か引っかかるものがあった。
ただ、それだけ…
「ふふっ、ふふふふっ…そうか…」
口元を歪ませて笑うと、銀髪の男は優を睨んだ。
「私を忘れるなど…なら、思いださせるまでよ!」
突然…
銀髪の男が右腕を上げると、何本もの太い蔦が優と朝霧に向かって空をきた。
「うわっ!」
優が叫ぶと、朝霧は彼を肩に担いて走りだした。
「紫煙(しえん)!」
ほぼ同時に観月も叫ぶと、突然どこからか鷹が飛んできて、羽ばたきながら結界を張り、暴れる蔦を食い止めようとした。
ぶつかりあった所が、バチバチと激しい火花を出して光る。
「早く行け!」
観月は、自分はその場に留まり、優と朝霧、西宮、定吉に逃げるよう声を振り絞った。
だが、彼等が走ろうとした方向がいつの間にか霧に包まれていると思ったら、その中から、蠢く人影の様な物が何体もこちらへ向かってゆっくり、身体を不気味に振るわせながらやって来る。
「なに?」
思わず、後ろ向きに担がれていた優が振り返ると、そこに居たの
は、紛れもなく映画で良く見るようなミイラだった。
「馬鹿な…」
優は、脳が現実に追いつかない。
突然、あんなにゆっくりとした動きだったミイラ達が四つん這いになったかと思えば、素早く風を切って優達の前に踊り出て、切り裂いてやるとばかりに長い爪を見せびらかした。
ヒュッと言う音に続き、刃で斬る音が2回した。
優と朝霧を後ろに守り、自分達が盾になった西宮と定吉が、飛びかかって来たミイラをそれぞれが一太刀で切り裂いた。
上下に別れた身体は地面に倒れ、そのまま藻屑となると思いきや、
その断面はすぐ様お互いを引き合い、やがて何もなかったかのようにぴたりと接合した。
そして、そればかりでなく、再び立ち上がりこちらへむかって爪を見せる。
「普通の剣ではやはり駄目だ!」
定吉が叫んだ。
「バカデカイ図体で泣き事か、勝吾(しょうご)!」
西宮が、大きく唸った。
ふと、優が、定吉を朝霧の肩から振り返って見た。
定吉は優と目が合うと、こんな状況なのに強張った表情を引っ込めてニコリとした。
そして、柄を握り直し、前を向いて叫んだ。
「誰が、泣き事など!」
素早く地面を蹴り、干からびた化け物に向かって行き、我武者羅に斬って行く。
「さっ、早く行け!」
優達に近づいて、西宮が促す。
彼に何と言えば言いのか分からない優は、唇を戦慄かせる。
「大丈夫です」
汗に塗れた優しげな顔を優に向け
て、西宮も笑みを浮かべた。
朝霧は、優を担いだまま走りだしたが…
「…!」
優は、思わず、残した彼の名前を呼びそうになった。
喉まで出かかっているのに、分からない、知っているような気がするのに。
西宮も走って、定吉に加勢して斬りまくる。
だがやはり、斬っても斬っても甦り、優達を逃がす時間稼ぎくらいしかできない。
「ちっ!」
観月の舌打ちと同時に、蔦の一本が結界を破り、定吉等の横を素早く通り過ぎ、朝霧の走る足を狙った。
朝霧は、優を抱えているにもかかわらず、さも馴れたような身軽さで緑の先端を刀で斬り落とし前に進む。
だが、続けて侵入した二本の蔦が朝霧の左足と刀を握る右腕を捕え
て、彼は優を肩から下ろすと叫んだ。
「走れ!早く!」
必死の形相に、考える隙も与えられず、優は前を向いて走りだそうとした。
「は!?」
そう思った瞬間、優の身体は無数の蔦に絡まれて、そのまま宙を飛んだ。
「主!」
ほぼ同時に、朝霧ら四人が絶叫した。
だが、それぞれ目の前の化け物をどうにかしなければいけない。
ドシャっと音を立てて、優が雁字搦めの身体を地面に落とされる
と、目の前に、あの銀髪の男が立っていた。
優が身体を強張らせると、男は微笑み少し身体を屈めて、優の顎を美しい手で掬いあげた。
「ハル…」
氷の様に冷たい指先なのに、銀髪の男の声は妙に熱っぽい。
「人違いだ。俺は、ハルじゃな
い!」
人を畏怖させるような男の容姿だったが、優は無性に怒りが込み上げて睨みつけた。
それを見て何が楽しいのか、男が愉快そうに笑うのが更に腹立たしい。
「お前は、ハルだ。私が間違うはずが無い…」
そう言うと、男はぐいっと優に自分の顔を近づけた。
優だけでなく、戦いながら彼の近くに集まって来ていた朝霧達も目を瞠る。
「ハル、お前を食らって、私は元の身体を一瞬で取り戻すぞ」
にっと笑った男の薄い唇の間から、二本の長い牙が瞬時に出た。
そして、爪も獣の様に鋭く伸び、まるで口付けするかの様に更に顔が接近する。
「食われる!」
恐怖で思わず目を瞑った優だったが、鈍い音と共に銀髪の男の顎の手が外れ、その身体が左へ僅かによろけた気配を掴む。
ゆっくりと、恐る恐る瞼を上げるると、稲妻の如く走り来た朝霧
が、銀髪の男の心臓に己の刀を突き刺していた。
西宮、定吉、観月も、朝霧と同じ事を考え傍に来たが、朝霧の方が一瞬速かった。
優は、不思議と血一滴ながれないその光景を、ただ唖然と見上げ
た。
「ふっ…」
銀髪の男は、苦しみを微塵も見せず笑った。
そんな彼を睨んだまま、朝霧は一度も視線を逸らさない。
突然、銀髪の男は、おもむろに自分の胸の刃を素手で握って余裕気に言った。
「こんな物は、私には効かない
ぞ、朝霧…。その腰の、もう一つは使えないのか?貴様の主人がこんな風に呆けているから…」
「くっ…」
茶化すようなもの言いに、益々朝霧の目は、激しい怒りの色を増した。
鋭利な刃を握る手と更に突き刺そうとする力が拮抗していたが、余裕があるのは、明らかに銀髪の男の方だった。
このままでは…
優が深く憂慮した瞬間、彼の身体から激しい閃光が出て、その近くの西宮等や木、あらゆる物を吹き飛ばし、その上化け物をも全て飛ばし消した。
優自身がふっ飛ばされずその場に居られ、落ちてきた木片や大きな石の破片から守られたのは、優より大きい朝霧が覆いかぶさってきて来て抱いてくれたお陰と、もう一つ、何か、何かの力。
今、俺何かした?
突然…
カタカタと優は震えだした。
本当に、自分が何かしたのかさえ分からないのだ。
だが、地面に仰向けで倒れたまま
で、恐る恐る首だけ上げて銀髪の男の居た方をみる。
あの男の姿は、もう無かった。
そして更に視線を移すと安堵する間も無く、優と向かい合う形で優の上にいた朝霧の顔があった。
寡黙そうな青年の額から、何筋もの血が流れていて、ぽたぽたと優の顔に落ちてくる。
それを朝霧は、見た目に似合わず優しく指先で拭い取るが、それは後から後から落ちてくる。
その仕草と感触に、優の背筋がゾワリとした。
血への恐怖と共に、それとは別に違う何かが彼の肌を妖しく粟立たせる。
不謹慎だが、まるで本当にたまにしかしない自慰の時の様な。
「あなたは…」
誰なのか?
でも、ここまで名前がでかかっているかのような不思議な感覚。
そして、鼻を付く、昔から大嫌いで苦手な血の臭いとその色。
腹の底から気持ちが悪い。
そして、天がぐらっと傾ぐ。
優は、そのまま気を失った。
優は翁の家に運ばれたが、丸一日眠ったままだった。
恐怖からの幻聴だろうか?
「又すぐ会える、ハル…」
銀髪のあの男の声が聞こえ、風のような何かにささやかに頬を撫でられた気がした。
そして…
何もかも夢ならいいのに…
そう考えながら目覚めるのは、何回目だろうか?
一番最初に目に入ったのは、傍らで寝ていた小寿郎と座っていた朝霧で、よく見渡すと、西宮、定吉、観月と、翁夫婦、皆心配そうに近くで優を見ていた。
「ケガは?…」
優は第一声、今はきれいになり、艶っぽくかかる前髪の間から見える朝霧の額を見た。
朝霧は、その心配に一度少し目を瞠ったが、すぐに冷静な表情になった。
「私なら、大丈夫です。それよ
り、御気分はいかがですか?」
低く、でも張りのある甘い甘い
声。
聞き覚えのあるような。
「でも、あんなに血が…!」
優が眉間に皺を寄せ声を上げる
と、朝霧は少し、ほんの少し微笑んだ様に見えた。
こんな風に、笑うんだ?
絶対笑わなさそうなのに…
不思議そうに優はそれを見た。
「大丈夫です…。血は出ましたが、傷は大したありません。それよ
り、もう少しゆっくりとお休みください」
「俺も、大丈夫です」
そう言い動き出した優の肩を朝霧は掴んだが、優はそのまま起き上がった。
さっき会ったばかりの青年達に優が戸惑っていると、朝霧も含め四人が、布団の縁沿いに回って優の正面に端座して、いきなり平伏した。
ギョッとする優を尻目に、優から向かって一番左手から順に顔を上げ名を名乗り再び畳に頭をつけ
た。
「観月頼光(よりみつ)にございます」
「西宮雅臣(まさおみ)にございます」
「定吉勝吾にございます」
「朝霧貴継にございます」
四人言い終えると、皆顔を上げて優を見た。
なんの冗談だろうか?と。
優からすれば誰も皆、高貴な武士のようで、年上で、自分のような人間にこんな態度をとっていいように見えない。
だが、まずは助けてもらった礼を言うべきだろう。
優は上布団の上に出て正座して、同じように頭を下げた。
「摩耶優です。助けていただい
て、本当にありがとうございました」
何故か唖然と硬直した青年達だったが、すぐ慌てて、まるで小さい子供の親の様に寄って来たのは西宮だった。
「どうかお顔をあげて。さっ、お身体が冷えます。どうか布団の中に…」
そう言うと西宮は、優の肩を抱いてそっと布団の中に導いた。
その腕は西宮の面差し同様とても優しくて、でも、逞しくて、ふと優が西宮を見ると、目尻を下げて微笑みすぐ横に座った。
言われるがまま落ち着くと、観月が口を開いた。
何故か翁夫婦に、優と話しがしたいから暫くこの家を出るよう告げた。
「もう少し待て。まだ目覚められたばかりだぞ!」
西宮が不服そうな声を上げると、観月は冷たい視線を西宮に向け
た。
「観月…」
朝霧も優を見据えたまま、威圧するような声を出した。
定吉も眉根を寄せ、男四人にピリピリとした空気が流れる。
「本当に、お身体は大丈夫です
か?」
一応、聞いてみてやる…
観月はそう言っている様な感じ
で、表情を変えず優に問うた。
「本当に大丈夫です」
優は、即答した。
「だそうだ…」
そう言うと、観月は夫婦に目配せした。
「え、あの…」
心配気に出て行く夫婦の顔を見ながら優が戸惑うと、観月は事務的な口調で、二人には先程了承を得ていると告げた。
その後ほんの一時、男五人の、気まずい沈黙だけの間が空いた。
だが、それを破ったのは、又観月だった。
「我らは、貴方様をお迎えに参りました」
そう言うと四人の男達は、再び優に向かってひれ伏し顔を上げた。
「迎え…に?」
訝しむ優に、観月が続ける。
「はい、我等は、荒清(あらきよ)神社の遣いの者で、貴方をお迎えに参りました」
「荒清神社?」
「貴方は、ご存知ではないですか?」
「えっと…」
色々思いだしてみたが、優には思い当たるものは無かった。
「荒清神社は、知りません…」
冷静そうな観月の瞳が、動揺したように見開く。
だがそれは、ほんの一瞬だった。
「やはりそうでしたか。貴方は、お小さい頃の記憶、五歳位の記憶は覚えておられますか?」
観月の質問に、優はハッとした。
「五歳位?…俺…俺は…」
初対面の人間に何処まで言うべきか言い淀む。
「俺は?…」
観月が、囁やく様に呟く。
さっきからの厳し目の口調で無
く、僅かに子供に言う様に優しげに聞こえるのは、優の気のせいだろうか。
「記憶が無くて、五歳位までの。その頃、川で溺れたのか記憶を失くして、倒れていた所を知らない人に助けてもらって」
「そうですか…」
そう言うと観月は、深い溜息を着いたが、次には一瞬、沈黙の間が空く。
だが彼は、すぐ思い切ったように告げた。
「貴方は、十三年前に行方不明になった、荒清神社の次男、観月春光(はるみつ)です」
「?」
本当に自分に言っているのだろうか?
優は不思議そうに、黒灰色の瞳を見た。
けれど、
「かんげつ…観月って、確かあなたも、観月じゃ?」
すっと、観月が口角を上げた。
「そうです。私は、観月頼光。荒清神社の長男です。ですから、つまり…貴方の兄です」
「!?」
いきなり迎えに来たとか、どこかの次男だとかも現実味は一切なかったけれど、いかにも無愛想で冷たそうな目の前の男が兄?
優にはこれが一番あり得ない話しだし、付いていけない。
「助けていただいたのはとても有り難いと思っていますが、いきなり現れたあなた達が言った事をすぐ信んじろというのは…第一、俺がその、春光さんだという、何か証拠でもあるんですか?」
優は、なるべく冷静を取り繕っ
た。
「我等が怪しと思うなら、ここの主人にお聞きください。主人は以前荒清の社殿で、私が宮司で主人が参り人として会っていて覚えておりました。そして証拠なら、我等が荒清の巫女が、貴方こそが観月春光だと神託を下しました」
「神託、巫女の神託?まさか、それだけで、俺が春光さんだと?」
「いいえ、それだけではありません」
観月は、優の瞳を凝視した。
「私の弟は、瞳の色が青かった。そう、正に貴方のように…」
更にこれをご覧ください。
そう言い観月は、おもむろに腰から刀を鞘ごと取り、優の前でゆっくりと横にして抜いた。
妖しい、鋭い生身の刀光。
優は、ゾクリと身体を震わせた。
「そ、それは…」
夢で見た、あの輝きと重なる。
「これは、荒清神社の守護刀のひとつ氷野江(ひょうのえ)。長い間誰かに封印されて、どんなに力の強い者が抜こうとしても一切鞘から抜け無かった。ですが…」
観月は、目を眇めた。
「あの時、貴方が身体から光を放った時、封印が解けた。私の持っている物だけではありません。他の三人の持つ守護刀もです」
「そ、それは、たまたま偶然で
は?」
思わずそれに手を伸ばしたい衝動を、優は堪える。
そして、じわじわと体温が上がってくる嫌な感じが始まる。
「ならば、あの、貴方の出した
光、あれはなんだとおっしゃいますか?」
「あれは…」
出来るなら、夢であって欲しかったのに…
「それに、あの、あの男は、貴方が観月春光だから狙ってきたのです」
観月の言葉に、朝霧等三人の表情が歪む。
ハル…
あの男は、優をそう呼んだ。
蜜の様に甘く、氷の様に冷たく。
まるで誘惑するかのように。
思い出すと、急に汗が吹き出て顔に一筋流れる。
「このままここに居るのは、危険なのです。貴方も、そして、貴方だけでは無い。翁夫婦も…」
「辞めろ、観月!」
近くで見ていた西宮が、優の変化に声を上げると優の肩を抱いた。
キッと観月は西宮を睨むと、冷ややかに言った。
「西宮、今はお前が兄弟では無いぞ。今の春光の兄は、私だ!」
優しげだった西宮の目がキツくなり、観月を睨み返す。
普段の優なら、今は西宮が兄弟でなく、観月が兄と言う謎の言葉に反応したのだが、意識がボンヤリし始めた彼は、そこを聞き逃し
た。
「お爺さん達も危ない?」
優は、眉根を寄せた。
「辞めろ、観月、今日はもうい
い!」
朝霧が、観月の肩をぐっと掴ん
だ。
お互い膝立ちで睨み合い、観月も朝霧の胸ぐらを掴む。
「ちょっ、止めてください!」
身体の大きな男二人が、今にも殴り合いを始めそうな雰囲気に優が止めに入ったが、彼等はそのまま優を一瞥したが引こうとしない。
優が戸惑うと、定吉が間に入っ
た。
朝霧と観月を引き離すと、溜息をついて観月の顔を見た。
「主を早く連れ帰りたいお気持ちは分かりますが、最近、いつもの貴方らしくありませんぞ。今日はもう辞めましょう、主も辛そうになさっている」
そう言うと、見た目では一番暴れそうな大男は、ニコリとして優の傍らに片膝を付いて座った。
「お爺さん達も危ないなら、外になんか出したら…」
ごく自然に、いつもそうするかのように、優は定吉の袂を握って彼に訴えた。
「ご安心下さい。ちゃんと近所の家に二人は頼んでありますし、観月様の頼りになる護衛もついてます」
「あの男は…誰ですか?俺の事、ハルって呼んでました」
優が袂を握る力を強めると、定吉は言いにくそうに下を向き、他の三人も視線を落とした。
「あの男、凄く、凄く、血の臭いがした」
思い出した途端に酷い寒気と目眩がして、優はそのまま定吉の胸の中に倒れて又気を失った。
又、剣が五口、地面に刺さっている。
その一口は、さっき見た観月の氷野江だと確信できる。
そして真ん中の、一段と美しくしい刀光。
あれは、あれは、自分を呼んでる。
優は手を伸ばしたが、それは突然、幻のように消えた。
ハっとして、優は布団の上で目が覚めた。
屋内は行灯の光で明るかったが、もうかなり遅い時間なのが分かる。
「御気分はどうですか?」
上から西宮が心配そうに、横たわっている優を見下ろしていた。
「俺、どうしたんだろう?頭を打ったりした訳じゃないのに」
「お疲れになっているのです…」
そう言って西宮は、苦笑して僅かに目尻を下げた。
彼の補助を受けながら、優は身体をゆっくりと起こした。
すると目の前に、朝霧と観月も座ってこちらを不安気に見ていた。
二人は何か同時に喋ろうとして唇を動かしかけたが、その時、定吉の明るい大きな声がした。
「お目覚めですか?どうです、お腹は減っておられませんか?」
生ける金剛力士の像の様な男は、何処から持って来たのか白の割烹着を着けて、菜箸を持っていた。
ギュルギュルー…
絶妙な間合いで優の腹が鳴った。
「あっ、えっ!」
なんでこのタイミング?
優は恥ずかしくて、真っ赤になって思わず下を向き、朝霧達も目を丸くした。
「さあ、飯にしましょう。何も恥ずかしくありませんぞ。もう長い間何も食べておられなかったんですから」
嬉しそうに、定吉が片目を閉じて見せた。
朝霧達も手伝い、布団の中で食事する優を囲み、五人分の配膳は手際良くすんだ。
「まさか、これ、全部定吉さんが?」
優は思わず驚くと、定吉が破顔した。
膳には、艷やかな米の炊き込みご飯や具沢山の煮物、かきたま汁や肉まであった。
翁夫婦の所の普段の食事も、白米や野菜や肉が沢山出たので、山奥の村にしては恵まれていると思ったがまた格別だった。
優が特に肉に目を奪われていると、膳前に座る定吉がおもむろに強い口調と共に彼を見た。
「どうか、勝吾とお呼び捨てください」
「それは、そんな事…」
優が戸惑うと、定吉は苦笑しながら小さい溜息をついた。
「これよりは、そうお呼び下さい。それより、冷めてしまいますよ。どうかお召し上がりください」
「あの、お爺さん達の食事は…」
自分だけが、こんな待遇を受けられない。
そう思い優が問いかけると、定吉が微笑んだ。
「大丈夫です。沢山作りましたから、夫婦にも、預かってもらっている家の家族にも、こちらと同じ食事を届けております。たいそう喜んでおりました。まだ沢山ありますから、主もお代わりなさってください。主は、食が細そうですから、沢山食べなくてわ」
主とは、自分の事なのだろうが…
どうも…
未だ納得できていないながらも、
優は一応頷いた。
まず、素朴に焼いてタレをかけた肉から食べた。
この世界の江戸時代は、牛肉は解禁されていた。
「お口に合いますか?」
まるで犬が褒めてもらうのを待っているかのような目をしている定吉がなんだか可愛くて、優は呟いた。
「美味しい…」
いや、実際、本当に美味しかったのだ。
良かったと言い喜ぶ定吉を見て、
西宮もくすりとして言った。
「勝吾はこんな見た目ですが、本当に料理が上手いですから」
「へぇ…」
納得しながら優が前を見ると、にこやかな三人と違い、ただ黙々と食事する朝霧と観月が居た。
さっきのいざこざを優が思いだすと、定吉はそれを察したようだった。
「ご心配なさらないでください、主。あんな風に掴み合うのは初めて見ましたが、お二人は幼馴染で仲がよろしいですから、何かあってもいつも知らぬ間に元に戻りますから」
「定吉…」
観月が低い声で、要らぬ事を言うなというように釘を刺した。
「幼馴染…」
優は、くすっと自然に笑みを零してしまった。
犬猿のなんちゃらみたいなのに以外で可愛いなと思いつつ、定吉が余りに気軽に言うから、安心していい気になったから。
「へ?」
優は間抜けな声を出した。
いつの間にか、彼の回りは箸を止め、何故か彼の顔を見詰めていた
から。
「あっ、ごめんなさい。なんだか、安心して」
優は皆を見渡し、最後に朝霧と目が合うと、照れを誤魔化しながら急いで肉を口に入れた。
なんだか変な空気になったが、久々に意識せず笑ったかもしれない。
「どうか、共に荒清社へ行き、話しだけは聞いていただきたい。その後どうするかの判断は、主に委ねますので…」
夜の床に付く前、観月は畳に三指を立てて優に懇願した。
主、主と言われるのもしんどいが、厠へ行くのも、風呂に入るのも護衛だと言われて、四人の男が交代で付いて来て外で待つ。
無論、眠る時も寝ずの番が付いた。
優はふっと夜中に目が覚め、小の
方を催していた。
左横になったまま、ゆっくり寝起きの頭を慣らそうと暫くじっとしようとすると、すぐ近くに、刀を脇に挟み持ち壁にもたれかかっている朝霧が見えた。
いつの間にか、西宮と交代していたようだ。
彼と目が完全に合っているはずなのだが、優を一心に見詰めるだけで何の反応もない。
こんな闇の中でも、遠くに用心で置いてある灯りで朝霧の瞳はよく見えてとても綺麗で、優も思わず無言で見てしまう。
「どうしました?」
やはり見えていたのか、朝霧が小声で聞いて来た。
なんとなく、多人数の時より声が優しい。
「か、厠。大丈夫、一人で行けます」
優は、上体を起こした。
「一人は駄目です。こんな時間、何がでて来るか分かりませんよ」
朝霧が、目を眇めて言った。
この翁の家に世話になり始めて、ただでさえ夜に外の厠へ行くのは不気味で我慢して行っていたの
に。
優は銀髪の男より、現代で友達と見たオカルト映画の所為でとても苦手になった霊的なものを思いだし、思わずうっとなって項垂れて言った。
「一緒に、お願いします」
眠る他の三人を起こさぬよう外に出て、提灯の灯りだけを頼りに厠を後にすると、ニャーと小寿郎が草陰から出て来て、優の足元に戯れついたので抱き上げる。
「小寿郎、お帰り」
そう言って頭を撫でてやると、朝霧が、一瞬驚いた顔をしてこちらを見た。
だがその後、優の後に同じ様に彼の腕の中の小寿郎の頭を撫でて聞いて来た。
「貴方が、名前を付けたのですか?」
「はい、小さい幸せって感じの猫でしょ?」
それを聞いて朝霧が、又ピクリと眉を動かした。
そして、いつもより優しげな声で尋ねて来た。
「では、大きい幸せは…誰です
か?」
「え?」
優が困惑すると、朝霧はいいえ、何でもありませんと呟き、その後も撫で続けた。
「あの、猫、好きですか?」
会話の続きが思い浮かばず、思わず優が朝霧に尋ねたが、余りに下らない事を聞いてしまったかと焦ってしまう。
「嫌いではありません。昔、観月の家でも、同じ名前の猫を飼ってました。私もよく相手をしましたが、名付けた本人が行方不明になって、ほぼ同時に、関係あるのか無いのか、猫は亡くなりました」
行方不明とは、春光の事だろうか?
朝霧と観月が幼馴染なら、春光ともそうなのだろうか?
優が聞いていいのか迷いながら、朝霧と目が合った。
すると突然、この前自分の見た幻影を思い出してしまった。
桜の木の下、朝霧に似た男に背後から抱かれる武士姿の自分を…
優は、恥ずかしくなる自分を誤魔化す為に下を向く。
「主?」
呼んだその朝霧の声は、ずんと優の腰に来るように艶が有った。
身体が熱くなるようで、優は声が裏返るのを必死で抑えた。
「い、いえ、なんでもありませ
ん…」
いつの間にか朝霧の白い毛を撫でる手が降りて来て、優の、小寿郎を持つそれに徐々に近づいて来
た。
軽く指先が触れかけた時、風が強く吹き、家がカタカタ音を立て
て、そこに無いはずの桜の花びらが数枚落ちて来た。
妖しい気配に朝霧は、腰の鞘に手をかけた。
「違う、彼は危ない者じゃない…」
優は、朝霧の袂を引っ張り止め
た。
それでも朝霧の右腕が、しっかりと優を抱いた。
じっと目を凝らして見ると、優のすぐ近くに、紺の着流しを着た華奢な男が立っていた。
金色の髪は腰まで長く、身長は優より同じか少し低い位で、まだ成長途中を感じさせた。
もしかしたら、年齢はかなり近いが下なのかもしれない。
優にはすぐ分かった。
あの銀髪の男同様、人間では無
い。
だがアレのように、血の臭いも禍
々しさも感じ無い。
ただ、顔は、目と口と鼻の部分だけ空いた白い面で覆っていた。
バタバタと音を立てて、音に反応して観月達三人もこちらへ出て来た。
「大丈夫。あの人は、敵じゃ無
い」
優は、防衛態勢の三人を押し止
め、面の男を振り返った。
「行ってしまうのだな…」
被り物をしていても、その綺麗な声に曇りがない。
言われた優が返事に困っている
と、彼はくすっと笑った。
「もう心の中では、その者達と行くとお前は決めている。だから、心の中で、私に別れを告げたのだろう?」
朝霧らが驚いて一瞬優を見ると、
一層西宮が歓喜して、優の右腕に手を置いて顔を覗き込んで来た。
「本当ですか?主!」
「えっ!その、なんと言うか、行かざるをえないというか…」
優は、まだ気持ちが整理できていない。
だが…
ハル…
あの男の冷たい指と声が、生々しく思いだされて悪寒がした。
このまま自分が此処に居たら、翁達に危害が必ず及ぶ。
よく分からないが、何故かそれだけは確信できる。
でも、だからと言って、自分はどうして朝霧達と行こうとしているのか?
答えが分からず視線を宙に彷徨わせた。
「ならば、気が変わらぬ内に、出立の用意だ」
観月が静かに言うと、優は慌て
た。
「そ、そんな、もう?お爺さん達にお別れとお礼位、ちゃんとしたいんです」
「無論、それ位、此方もその心づもりだ。用意だ、出立の…」
観月のいつも厳しい目元がフワリと、少し緩んだ気が優にはした。
「この前は、ありがとう。俺が変な光を出した時、俺が吹き飛ばなかったのは、朝霧さんが守ってくれたお陰もあるけど、貴方も守ってくれてましたよね」
再び優は振り返り、面の男を見
た。
「すまなかった。もっと守ってやるつもりが、侮ってあいつに先を取られ、動けなくされた。最後にあれ位しかしてやれなかった」
寂し気な面の男の声に、優は首を振った。
「本当に、助かったんです。ありがとうございました」
「あの男は、又、必ずお前の所に来る。そんな気がする。それに、実体の無い、幻の様な状態であれだけの力を遣う。並大抵では無
い」
「えっ?あれは幻?」
「知らなかったのか?あれは幻
影。何故、本体を出さないかは分からないが…」
又、すぐ会える、ハル…
幻聴でなかった。
なんとなく分かっていた事だったが、やっぱりかと優は、鼻で溜息を付いた。
これからどうなるなんて、考えもつかない。
でも、ここ何回も、あの桜の大木には癒やされてきた。
本当に…
「失礼だったらごめんなさい。もし良ければ、最後に、最後に面の下の顔、見せてくれませんか?もしかして、俺と年が同じ位か
も?」
優の願い事に、男は暫く黙り込んだ。
だがやがて、少し戸惑ったように口を開いた。
「我等一族の掟で、素顔は、親兄弟と、恋をし、心から愛した者にしか見せぬ決まりだ…」
「そうですか、桜の精らしい綺麗な掟ですね。無理な事聞いてすいませんでした」
優は、優しく微笑んだ。
「それに、言っておくが、私はこう見えて八十八年生きている。ガキのお前と一緒にするな」
男は腕組みし、つんつんとした態度で言ったが、拗ねている感じで優には可愛いくさえ聞こえてしまい、思わず謝罪に笑みが浮かん
だ。
「それは、ごめんなさい」
くすっと、男が鼻で笑った。
「最後と言ったが、まるでもう、会えぬような言い様だな…」
そう言って面の男は、桜の花風の中に消えた。
本当にありがとう。
別れを言いに来てくれて。
優は、そっと心の中で呟いた。
「さぁ、もう少し眠ってくださ
い」
朝霧が、抱いていた優の肩を優しく撫でた。
たまにこの男のする仕草が、いつもの仏頂面と落差があって優を戸惑わせる。
「あの、銀髪の男は、誰です?
どうして俺を…」
優の問いに、朝霧がらしくなく躊躇していると、観月の声がした。
「一緒に荒清社へ帰ったら、全て話します。取り敢えず、話しだけ聞いてください」
この、優を弟と言うのに、終始敬語な観月の事も引っかかっていたが、この強引な男は、日が登れば即旅立つ用意を始めるだろう。
優は黙って、地面の残された花びらを見た。
予想通り、観月は、昼前には出立すると決めた。
家に戻って来た翁夫婦は、せめて一晩優と過ごしたいと懇願した
が、観月は無表情で切り捨てた。
そして、優の居る前で夫婦に小判を大量に出し、これで今まで世話になった事は不問にするよう小刀を置き、誓約書に血判を迫った。
「血判?」
優が観月のしれっとした横顔を見て驚いていると、夫婦はハラハラと泣き出した。
「これは、受けとれません。儂らは、これをいただかんでも、坊と暮らせて本当に幸せじゃった。ずっと欲しかった本当の息子が出来たようで」
「そう言う訳にはいかぬ。けじめと思うて受け取れ」
観月は、眉一つ動かさない。
「あの…観月さん!」
優も、間に割って入ろうとした。
だが、観月は、チラッとだけ優を見ると又前を向き、冷たく言っ
た。
「主…これは、翁夫婦の問題で
す…」
ぐさっと心にきた、優の表情が歪む。
すると、朝霧と西宮が厳しい表情で何か観月に言おうとして、定吉に止められた。
結局、翁夫婦は受け取らず、血判も無くなり、定吉が作った朝ご飯を優の顔を見ながら一緒に食べてすぐの別れとなった。
いよいよ家を後にする時、優は本当に泣きそうだった。
だが、冷血漢で強引な観月の前で泣くのがしゃくで、耐えて礼を言うと翁夫婦を抱き締めた。
観月家のご子息がこのような事
と、夫婦は驚いたが、精一杯腕に力を込めた。
又、必ず、必ず来ると約束して。
ただ、優が猫を連れて行きたいと観月に言うと、彼は暫く無表情で優の顔を見て黙り込んでいた。
てっきり置いて行けと言われるばかりを予想してどう言い返すか考えていたが、好きにしろと言われて拍子抜けした。
しかし、どう言う心境の変化か、さっきから彼の優への言葉遣いが敬語で無くなっていた。
馬かぁ…乗れるかなぁ?
優は、乗馬など経験がなかった。
車や電車が無いので当然と言えばそうだが。
移動に4匹用意されていたそれを見て、優は小さく溜息を付いた。
すでに、見栄えの良い小紋をまるで七五三の子供の様に着せられ、髪を束ねて下ろしていたが、ふっと頭に笠を観月に被せられた。
「お前は、目立つ…」
そう言うと観月は、優の腕を強引に引っ張った。
「ん?」
「お前は、私と乗るんだ」
西宮か定吉なら、まだ気が楽なような気がしたが、
どうしよう…
優は、思わず戸惑わずにいられなかった。
「小寿郎は、私が」
朝霧が、相変わらず無表情だが、優の持っていた猫の入った藤の籠を預かってくれた。
優が馬を見て少し考えて居ると、
「何をしてる、乗れんのか?」
すでに馬上の観月が、冷ややかに言った。
「乗った事、無いですから…」
「さあ…」
観月が、手を取れと優に伸ばし
た。
言われた通り馬のたてがみを持ち鐙(あぶみ)に左足を乗せ、強い男の力を借りて一気に上がる。
優は鞍の有る前方に乗った。
観月は、馴れた感じで後ろの何も無い素の馬肌に跨り、前方の優の腰を、大切そうに抱きながら器用に手綱を握った。
優は、観月の抱いてくる腕の強さに戸惑った。
「行くぞ!」
観月の合図で、馬が駆け出す。
「うおっ」
優が馬の速さに驚くと、喋ると舌を噛むと背後から嗜められた。
朝霧、西宮、定吉と、3頭の馬が続く。
ふと
優が振り返ると、別れの悲しみには似合わない明るい光陽の中、翁達はいつまでも見送り続けてい
た。
優には、道中見る物が全て新鮮であり、歴史の教科書でしか見なかった江戸時代のような世界は何処か懐かしくも見えた。
不馴れな馬上だったが、西宮と定吉が体を常に気にしてくれていた上に、以外と朝霧と観月も愛想は相変わらず無いが、よく観察すると色々と目配せしてくれているのが分かり、体調を崩す事は無かった。
優は、ふと、時折気づけば朝霧を特に気にしている自分に気づいた。
そして、何故彼をよく意識するか優は考えてみた。
朝霧の、男らしい体躯と顔、そして立ち振る舞い。
身体も華奢で女顔、馬も乗りこなせなければ、スポーツもしない武道の覚えも無い自分。
他の三人も男前で武芸に長けていそうだが、自分にとって親しみ易い、そして距離の近い西宮や定吉、貴族然として余りに遠すぎる所に居る観月に比べ、朝霧は、優自身の男としてのコンプレックスを刺激するのだと思った。
比較して、どうしても自分が恥ずかしくなるんだよな。だから、すぐ赤くなったり、動揺するんだ、きっと…
朝霧と目が合いそうになると、その前に外らす。
そんな事を繰り返す。
だが、一つ気になったのは、朝霧と観月の間に、寒々しい空気が流れている事だった。
二人は一切目を合わさず、必要な事以外会話も無い。
きっと、自分の事で揉めた事が尾を引いているのだと、優は苦々しく思うが、二人に何を言えばいいかが分からなかった。
一晩旅籠に泊まったが、他は休憩以外馬を駆け、翁の家を出た次の日の昼過ぎには無事荒清神社のある町に入った。
長く賑やかな参道は、参拝者や町衆の安全の為、人を背に馬を歩かせる決まりがあった。
道の両方には、間隔を開けて和風の装飾をしたガス灯の様な物が幾つも建っていて、優が観月に尋ねると、この世界ではすでに力のある家や地域には、西洋から入ったガス灯が使われていると言う。
「おお、観月様じゃ!」
「朝霧様のお通りじゃ!」
「西宮様と、定吉様も居られるぞ!」
時折、参道の土産物屋に働く人々が口にし、お帰りなさいませと四人に声を掛ける。
四人は表情を崩す事無く、軽く頷いたりしながらそれに答えたりした。
「あの、観月様の前に居るのはどなただろう?」
優の耳に、何回かそんな声が入る。
彼が少し回りを見ようと笠を上げると、観月に止められた。
「笠を上げるな、出来るだけ顔を見られるな」
もう、何度目の注意だろうか?
すると、ヒソヒソと、衆人の声が優の耳に入った。
「青い目だ、青い目をしている」
すっかり忘れていた事を思い出し、優は目深にそれを被り直した。
翁が言った通り、旅の途中やこの町も、人の集まる所には様々な瞳の色の異国人が居た。
だが、それでも少数派の優の瞳は異質なのだ。
観月は、自分の目を余り良く思っていないのではないか?
優は、注意される理由がそこではないかと秘かに思う。
ただひたすらまっすぐで大きな道に、沢山の人や馬が行き交う。
その中に、優は強い視線を感じて
思わず前を見た。
あまり見るのも変な感じがしてすぐ視線を外したが、鮮やかな茜の着物を着た美しい少女が、彼を一心に見ている気がした。
観月の馬が通り過ぎると、少女は次に西宮をじっと見た。
彼はそれにすぐ気付く。
視線が合うと、彼女は頬を薄っすら染め笑みが零れかけた。
だが、西宮が表情も固くすぐ前を向くと、彼女は悲し気に後ろを向き、付き人の男とその場を走り去った。
優が荒清神社に到着すると、その敷地に入った瞬間から、その余りに清らかな気が、ここが俗世界と完全に分かたれていると感じさせた。
なだらかで上げ下げの余り無い広大な土地に巨大で豪華な社殿と、敷地に流れる澄んだ長い川と周りを囲む深い森。
この辺りも、現代の東京の地図に合わせると都心に近い。
現代でこれだけの土地を持てるというのは限られてくるだろう。
観月達は、境内にいる参拝者を避け、門番の守る関係者しか入れない裏門を通り奥へ進む。
人々のざわめきはやがてすぐ消え、馬の歩く音と風が揺らす木々の音、鳥の鳴き声だけになった。
やがて大きな舎殿の前に、沢山の古式ゆかしい装束姿の神職が左右に別れ、道側を向き立っていた。
玄関に到着し、先に降りた観月に続いて降りようとした優は、彼に下から抱き上げられて降ろされて、恥ずかしさにアタフタした。
観月や朝霧達とは、少ししか年が違わないと思うが、彼等の逞しさと比べると、まるで小さい子供扱いに見えたからだ。
そんな優を尻目に、神職達は静かに頭を下げた。
ただならぬ雰囲気に優が引いていると、右の一番先頭にいた神職が声を発した。
「お帰りなさいませ、頼光様、そして、春光様…」
人当たりの良さそうな青年だった。
「入るぞ」
草履を脱ぎ観月は、優の手を取りグイグイと舎殿の奥へ入って行く。
そして朝霧達も続く。
何処までも続く長い廊下には紅い上質な絨毯が絶える事無く敷かれ、両脇には、白い上衣に朱の袴の若い巫女達が何人も平伏していた。
その様子は圧巻で、優はただ目を丸くして引っ張られて行く。
暫く歩き、建物と建物を結んでいる廊下を渡ると、ここからが観月家の私邸になると、主の観月自身に教えられる。
しかし幾つ部屋があるんだろうと考ながら更に更に行くと、突然奥まった所の襖の前で止まる。
「入るぞ!」
観月がさっと開け放つと、目の前には布団に横になる老女と、その横に美しい巫女、彼女の横にも幼いおかっぱの女の子が居た。
「お帰りなさいませ」
そう巫女が言うと彼女と幼女は、姿勢も美しく頭を下げた。
巫女のとても冷静そうな美貌と発声は、どことなく観月に似ている。
「待っていた主を連れて帰ったぞ」
観月も布団の傍らに胡座をかくと、目で優にも座るよう合図した。
朝霧達は、入口近くの襖寄りに正座した。
「この日を、今か今かとお待ちしておりました。春光様」
仰向けで目を閉じていた老巫女は、首を右に倒し瞼を上げてゆっくり優の方を見た。
「横になっているこの者が、お前が春光だと予言した巫女、尋女(たずめ)だ」
観月が静かに言った。
優は予言者と会いはしたが、体調が悪いと言う事で、詳しくは後日と言う事になった。
一緒に居た巫女は小夜と言い、観月の遠縁の女性らしく、彼より一つ年下で、横に居た幼女の千夏は、彼女の年の離れた妹らしく、訳あって二人で荒清社に世話になっているらしい。
「春光さんも、お帰りなさいませ」
尋女の紹介後、小夜はそう言って優に色っぽく微笑んだ。
ずっと誰とも視線を合わせず頼りな気に俯いていた千夏は、観月から口が聞けないと教えられた。
舎殿の奥、観月家の私的な場所を、夕食までの間優は観月達に案内された。
特別用がない限り沢山いる神職の出入りもほぼ無く、あれだけ居る巫女もほぼ小夜だけが出入りし、彼女と他少人数の中年の使用人だけが観月と優、千夏、尋女、そして、同居する朝霧達三人の世話をするらしく、その空間は、ひたすらただっ広く怖い位静かだった
が、ただ時折、邪悪では無いが、何か得体の知れない何かの気配を幾つも優は感じ取る。
小さい子供じゃあるまいしと、怖がっている自分を叱咤して、気の所為だと誤魔化す。
夕闇が当たりを覆い、神社や舎殿の敷地や軒に灯篭の灯りが付くと、観月家の私的空間は増々空気が妖しく静まり返る。
だが、よほど観月家は力が有るのか、舎殿内にはガス灯も所々設置されいた。
上品な出汁の香りなどが漂い、優が観月家で初めての夕食を摂る時間になった。
上座の中央に観月が座り、その左に優が座り、下座の右側に朝霧、西宮、定吉と座した。
まず中年の女性が膳を観月に運んで、小夜が優のものを運んだ。
優の近くに小夜が寄ると、ふわっと何かの甘い妖しい香りがして、優は彼女を見た。
近くで見ると、増々、顔の作りが観月に似ているなと、彼と同じ綺麗な黒灰色の瞳といい、自分より、彼女の方がよっぽど兄妹と言った方がいい位だと思った。
「どうかされました?」
ボンヤリと彼女を見ていたら、蠱惑的な微笑みを返された。
「あっ、いえ、なんでも…」
少し照れて視線を下にすると、小夜の上衣の合わせ目がかなり空いていて、そこからかなり豊満な胸の谷間が覗いているのが見えた。
思わず真っ赤になって優が視線を逸らせると、観月が咳払いした。
「あらっ、申し訳ありません」
そう言うと小夜は、ニコリとして両裾を合わせ下座へ下がり、自分の膳の前に座った。
「では、どうぞお召しあがりくださいませ」
廊下に下がっていた女性が、平伏した後襖を閉めた。
「あの…」
優が、観月を見た。
「何だ?」
一旦取った箸を、観月は膳に戻した。
「あの、千夏ちゃんは?」
その問いに、少し変な間が空いたが、観月は小さく溜息を付いた後言った。
「あれは色々難しくてな、食べる日もあれば、全く受け付けない日もある」
「食べ無いと言ったら、姉の私の言う事も、もう誰の言う事も聞き入れません。今日はもう床に入りました」
困惑の表情で、小夜が続けた。
「そうなんですか…」
優は、感情の一切感じ取れない、俯くさっきの千夏を思い出した。
だだ会話無く、箸と陶器の音だけがする。
相変わらず、朝霧と観月は互いに牽制し合っているし、此方へ来る前は、西宮と定吉がもっと近くで食事して話しも弾んだが、この部屋は広過ぎて優は二人との距離を感じる上に、観月と朝霧には、初めて会った時からずっと話し辛い変な隔たりがある。
向こうの両親とは、小さいテーブルを囲み、翁夫婦とも囲炉裏を囲んでいつも楽しく食事をしたのを、今更ながらとても有り難い事だったんだと思う。
酷く懐かしくて、懐かしくてたまらなくなった。
食事が終わり、風呂の用意がされ、又長い廊下を観月に案内される。
行く途中にそれぞれの部屋がある、朝霧、西宮、定吉も、各々のそれに一度戻る為に優の後ろを付いて行く。
ふと優が前を見ると、白い薄衣一枚の小夜が着換えたらしく、自分の部屋から出て来た。
彼女は優を見ると、又、艷やかに微笑んで言った。
「春光さん、さぞお疲れでしょう。お風呂にご一緒し、お背中をお流しいたします」
「え!?」
観月以外の、優達四人の男の困惑を含んだ声が重なった。
優は、身体の線のハッキリ出ている薄着の彼女を見ると目を逸し、慌てて右手を前に思い切りだし振った。
「あっ、いえ、結構です。」
「なら、私がお背中を流しましょう!」
背後から優の両肩を掴み、定吉が
ニコリとして言って来た。
「いや、いいですって。風呂位一人で入らせて下さい」
優は苦笑いして定吉を見ると、急いで何処に風呂が有るのか分からないのに、前へ思い切り走り出した。
「お、お待ちください!主!」
定吉は、楽し気に後を走る。
「主!」
西宮も後を追い駆け出した。
「まぁ、以外と…お可愛らしい事。まるで、そう、生娘の様な…」
優の後ろ姿を見送り言いながら、小夜がさも楽しそうにふふっと笑った。
「小夜…」
じっと見ていた観月が、鋭く目を眇めて彼女を見た。
「お前、春光を試しているつもりか?」
よく似た血の、よく似た黒灰色の瞳同士が互いを見た。
「試す?まさか…」
「もし、お前が春光を試すような事をするなら、私にも考えがある…」
「考え過ぎでございますよ…」
妖艶にくすっと笑い、小夜は自室に戻った。
観月も、その後ろで全てを見ていた朝霧も、険しい目付きで暫く無言でその場に立ち、彼女の部屋の襖を見ていた。
「ル…、…ル」
遠くの声が、どんどん近くなる。
「いつまで寝てるつもりだ!春光、朝だ!」
上質の柔らかい布団で眠っていた優が瞼を上げると、腕を組んで仁王立ちし彼を上から見下ろす、白い上衣と、白地に白の八藤丸(やつふじのまる)の紋様の入った袴姿の観月が居た。
「俺は、まだ春光さんだと決まった訳じゃないですよ」
仰向けのまま、まだ半分寝呆けた状態で優が答えると、向こうは目を眇めた。
「お前は、春光だ」
そう一言言い、観月は背をむけた。
「早く起きろ。朝餉に遅れるぞ」
長身の男は、振り返らず言うと足音を一つ立てず静かに出て行っ
た。
「さあ、お着替え下さい」
上半身をゆっくり起こすと、定吉が近くに正座していた。
昨晩、背中を流すと、じゃれつく犬の様にしつこかったこの男を留めて一人で風呂に入ったが、優の身の回りの世話は、彼の仕事の一つらしい。
優の警護という仕事もあり、夜も隣りの部屋に西宮らと交代で眠るらしいが、昨日は朝霧と観月が当番だった。
「主、少しその…お口に涎が…」
ごつごつした男の指が、優の口元を拭う。
あの、隙の無い観月にもだらしない寝姿を見られたろだうか?
優が赤くなって照れると、定吉は優しく微笑んだ。
手早く着換え、顔を洗いに定吉と井戸へ向かうと、朝の剣術稽古終わりで身体の汗を手拭いで拭く、朝霧と西宮に会った。
上半身をはだけていたので、二人の隆々とした鍛えられた筋肉が生で見えた。
細いだけの自分のものとのあまりの違いに優はショックを受けたと同時に、暫く凝視してしまう。
筋肉割れてる…
やっぱり、武士はかなり鍛えてるんだなぁ…
「主?」
朝霧が何故か優し気に声をかけて来た気がして、優は慌てて声が上擦る。
「お、おはようございます」
やはり朝霧に対しては、何かもやもやとしてしまう。
おまけに、自分以外は皆朝早くから活動しているというのにいたたまれない。
身だしなみを整え、四人で食事に向かう。
廊下を進んでいると、少し前方の曲がり角から小寿郎が出て来た。
優よりも早くこの場所に馴れたかの様にもうすでに自由気ままにしているが、いつもの様に優の足元に寄って来て、翁の所に居た時より激しく頭を擦り付けてきた。
「小寿郎もおはよう」
優も抱き上げて頬ずりすると、ニャーと甘えた声がした。
「千夏さん…」
西宮の声がしてみんな又前を見ると、昨日会ったおかっぱの幼女が、角から身体の左側半分を出しこちらを見ていた。
「あっ、千夏ちゃん、おはよう」
優が優しい口調で笑いかけたが、彼女は無反応でただこちらを見て来る。
少し戸惑うが、優は彼女の視線の先に気づく。
「ああ、小寿郎?千夏ちゃん、一緒に遊んでやってくれる?」
それでも千夏は無表情だったが、やがておずおずと出て来て、優の目の前に来た。
「ち、千夏さんが!」
定吉が驚いた声を出したので、優が振り返る。
何故か、西宮も目を丸くしていた。
「しっ」
朝霧が、定吉を嗜めるようにした。
背後の訳は分からないが、優は千夏に合わせて膝を降り、同じ目線に合わせた。
「撫でたいの?」
表情はごっそり抜け落ちているが、優は彼女の瞳の奥に何かを感じる。
「怖くないよ…小寿郎はとても優しいから、ほら、撫でてご覧」
優は千夏の右手をとって、白いモフモフした頭に導いた。
最初躊躇っていたが、やがて小さい小さい手が優しく撫で始めた。
白猫は、ニャーと甘えた声を出した。
「なっ、怖くないだろ?」
相変わらず一切反応は無いが、優は満足気に笑った。
「さっ、千夏ちゃん、飯、いや、ご飯行こう、朝ご飯!」
優は小寿郎を下ろした代わりに、ばっと一気に千夏を抱き上げた。
いくら子供だと言っても、まるで空気のように軽い。
「わっ、主!」
さっきから定吉の様子がおかしくて、優は又後ろを見た。
「えっ?どうかしました?」
何だかみんな妙な感じだ。
「行きましょうか、主」
朝霧が静かに促した。
「あぁ、はい…」
背後では、西宮と定吉がまだ不思議そうな顔をしていた。
「ち、千夏!」
抱きかかえたまま優が部屋へ入ると、配膳を終えた小夜が大声を上げた。
何事かと入口で立ち止まると、観月が膳の前に座って湯呑みを持ったままこちらを見て固まり、使用人の女性が盆を落とした。
さっきからどうもおかしいと、優は小首を傾げた。
「つい、大声を、驚かせてすいません、春光さん。あの、千夏は、私以外が身体に触れるのをいつも嫌がるものですから、驚いてしまって…」
小夜が申し訳なさそうに近づいて来た。
「えっ、そうなの?千夏ちゃん!」
優は、慌てて千夏の顔を覗きこんだが、表情は無いが、暴れたり嫌がる感じは無く、彼の肩を掴んでいた。
「大…丈夫じゃないかな?」
「それに、千夏、あなたさっき朝餉は頂かないって」
小夜は、妹の腕をゆっくり撫でた。
「どう、少し食べてみる?」
優が囁く様に言うと、少し間が空いて、千夏はコクリと頷いた。
「千夏、あなた…」
そう言う小夜の表情は、昨晩の色香を振り撒く女性のものと別人の様で、まるで本当の母の様で、優はいい姉さんだなとただそれを眺めた。
小さい膳が下座に置かれ、千夏は姉の横で皆と食事を始めた。
優は、彼女と目が合うとニコリとしたが、相変わらず反応は来ない。
「春光…」
茶碗を持った観月が、前を向いたまま不意に横に呼び掛けた。
まだ、そうと決まった訳じゃないのに…
優は、心の中で深い溜息をつきながら、彼を見て戸惑いながら返事した。
「はい…」
「昼から、尋女がお前と話しをするそうだ。そして、もう一人客人が来る。何、お前は話しを聞く、ただそれだけでいい」
観月のその横顔は、波紋一つない水鏡の様に静かだった。
朝食後から優は、客人に会う為の着衣合わせで観月と小夜と舎殿の奥に閉じ籠もってしまい、西宮は手持ち無沙汰にしていたが、女中が沢山の大根を籠で運んでいるのを見て声を掛け、何度も遠慮されたが、代わりに井戸でそれ等を洗う事にした。
大きいタライに水を入れ、顔に似合わず豪快にたわしでじゃぶじゃぶ洗う。
しながら昨晩、観月と又、優の居ない所で揉めた事を思い出す。
尋女の話しを、今すぐ主に聞かせるのは幾ら何でも早すぎると、自分や朝霧や定吉は反対した。
だがあの男は、自分の立場を知らない方が危険だと引き下がらなかった。
今は、私が兄弟だ。
いつぞや村で観月が自分に言った事を、また昨日ぶつけられた事を西宮は思いだし、眉間に皺を寄せた。
そして、昨晩、定吉と二人になった時、彼が呟いた言葉も頭をよぎった。
「伝えるやり方の問題はありますが、この荒清社がこの様に立派に今有るのは、僅か二十二歳の観月様がやり手だからというのもありますが、生死も分からぬ弟君がそれでもいつ帰ってきてもいいようにと、涼しい顔をしておられるが、観月様が小さい頃から御自分の命を賭けて守ってこられたからです…」
一度たわしを握る手を止め、西宮は小さく呟いた。
「それでも、主が、余りに御可哀そうだ…」
暫くじっとしていると、背後に人の気配がした。
「梨花…」
振り返るとそこに、ここに帰って来た時に、馬上で彼と目の合った少女が居た。
「どうやって此処へ、此処へは許しの無い者は入れん」
西宮は、一度は動揺したが、すぐ棘の有る視線を彼女に投げかけ更に言った。
「今すぐ、帰れ…」
「雅臣様…」
「帰れ、と言っている」
低い、厳しさを含んだ声に、少女は可憐な唇を噛んだ。
「名家の、しかも武芸の誉高き雅臣様が、その様な事をなされているなんて…これが、これが、貴方様のお仕事ですか?」
更に、悲し気な瞳が西宮を見た。
「これは、たまたま私が手が空いていたから手伝うと言ったまでの事。私の仕事は、神剣をお守りする事、ただそれだけだ」
「本当に…それだけですか?」
消え入りそうなその梨花の言葉は西宮には聞きとれず、えっ?と聞き返す。
ピィーと小鳥が高い声を出して、近くの木から飛び立つ。
西宮に抱き付こうと、泣きながら走り出した梨花の音に驚ろいて。
「神剣をお守りするなら、私との婚約を破棄なさる必要など無いはずです。今までの剣守も皆、一緒に住む事は叶わずとも、皆結婚して子を儲けております。一緒に住めずとも、どんなに寂しくても、私しは、雅臣様だけに尽くし、雅臣様の御子を産みとうございます」
梨花は小さく柔らかい身体を西宮に押し当て、彼の襟元を掴み、その逞しい胸に頬摺りする。
だが、西宮の厳しい表情はやがて憐れみの色になり、彼女の肩を掴み自分の身体から離した。
「本当にすまん。何度お前に言われようと、私の気持ちは変わらん。梨花…赤ん坊の頃に親同士が勝手に決めた婚約とは言え、お前には申し訳無い事をしたと、本当にそう思っている。だが、お前程の美しさなら、私より他にお前を欲しいと、お前を幸せにしてくれる者が必ずいる」
「雅臣さ、ま…」
暫くの間、梨花の身体はただただ震えていた。
「西宮さん、居ます?」
間の悪い事に、観月に西宮への伝言を頼まれた何も知らない優が朝霧と定吉を伴って、少し離れた建物の陰から出て来て、正面で後ろ姿の少女の肩を持つ西宮と目が合った。
「うわっ!ごめんなさい」
どう見ても、恋人同士がいちゃついている風にしか優には見えず、思わず変な声がで出てしまった。
「こっ、これは、違うのです。主、この者は、私の幼馴染でして、梨花と申します」
西宮が、珍しく酷く慌てふためく。
「幼馴染?」
優がそう言うと、梨花は顔だけ彼の方を振り返って、又すぐ、恋しい男の顔を見上げて言った。
「春光様…御美しい方ですね…」
西宮の衣を両手で掴んだまま、両方の目から、涙が頬を伝った。
梨花は、今度は身体ごと優の方を向き彼に深く一礼すると、彼と逆方向へ素早く走り去った。
優は思い出した。
あの人は確か、昨日見た…彼女、泣いてる…
「西宮さん、梨花さん、追わないと!」
その優の言葉に、西宮は首を横に振る。
「朝霧達も知っている事ですから主にも申しますが、梨花は親が決めた許嫁でしたが、婚約を解消いたしました」
何故?
優はそう聞こうとして、押しとどまった。
まだ知り合ってほんの数日。
踏み込むのは躊躇した。
「そんなお顔はなさらずとも、大丈夫です、主、本当に…しかし、警備の者は何をしていたのか、確かめねば」
西宮は優に近づき、今度は彼の肩に優しく手を置き言った。
もうすぐ巫女との面会の時間が迫っている。
その事と同じ様に、梨花の走り去る後ろ姿に、優の心はザワザワとした得体の知れないものを感じ
た。
昼食後優は、客人と巫女に会う為に、特別な物に着替えなければならなかった。
用意されたのは、白い上衣、白色に紅色の観月と同じ紋様の入った袴。
しかし、観月の指示はそれだけでは無かった。
「どうして、化粧しなくちゃいけないんです?巫女さんじゃあるまいし。絶対嫌です。俺、これでも男ですよ!」
優は珍しく眉根を寄せて、何を考えているか分からない自称兄に抗議したが、今も男の巫女が居るだの、時間が無いのと結果丸め込まれてしまった。
小夜に化粧まで完璧に施され、長い髪はそのまま下ろし、椿の油を付け丹念に櫛でとかれると、縦長の鏡に映った自分の姿に優は思わず驚愕した。
そこには、何処かで見覚えのある、小夜ですら誉め崇める、違和感の無い完全な巫女が居た。
鏡越しに見る背後の観月は、それをじっと見て暫く押し黙っていたが、あの表情の変わらない男が、ふっと一瞬だけ満足気な顔になったように優には見えた。
襖を開けて、観月の後を付いて部屋を出ようとすると、廊下に通路を向き座して待機していた、朝霧、西宮、定吉と目が合った。
だが三人共、優の姿に一瞬固まってしまい、声が出ない様子だった。
やはり、変だったよな…どうすんだよ、これ…
心の中でそう思いながら、優は、観月の背中を恥ずかしさに赤くなりながら恨めし気に見た。
長い廊下を静々と、観月を先頭に、優、朝霧、西宮、定吉の順で行くと、途中、廊下の左右、壁を背に、彼等に向けて平伏しているちょんまげ姿の武士が何人か居た。
優が不思議にそれを見ていると、一際大きい、金の絵飾りも華やかな襖の部屋の前に来た。
珍しく舎殿の奥に来て居た神職二人が、入り口の襖左右に座して平伏した後、それぞれの方からそれを開けた。
深い香の香りが立ち込めた、静寂と重い空気のあまりに広い室内には、ちょんまげに武士の正装をした白髪混じりの初老の男と、その少し後ろに、尋女と、彼女を支える様に小夜だけが平伏して居た。
てっきり観月が一段高くなっている上座に座ると思いきや、彼は優にそこに座るよう言った。
そして自分は朝霧等と同じ、襖の入口側の臣下の位置の先頭に座った。
「この度は春光様には無事ご帰還の旨、誠にめでたき事とお慶び申し上げまする…」
優の正面の初老の男が上半身を深く傾げ、三指を立てて、優を見上げて渋みのある声で静ずかに言った。
優は返事に困るが、男の鋭すぎる目付きに更に戸惑う。
年齢的には現代の父の方に近いだろうが、彼はこんな厳しい雰囲気を周囲に撒き散らす様な男では無かった。
「主、此の者は、永松幕府老中頭、中尾に御座います」
観月がそう言うと、初老の男は再び畳に頭を付けた。
歴史の勉強はしたが、老中と言うのは幕府の権力者だと言う事位しか知らないし、そんな人間が自分に対してへり下り、優は増々困惑した。
「主、永松家は、我が荒清神社の最大の氏家に御座います」
社殿の広さ豪華さ、奥での生活の水準の高さ。
それは一般人の信仰もあるだろうが、やはり後ろ盾にそういう関係があればこそだろう。
優は観月の説明に納得した。
「本来であれば、将軍御自ら春光様のご帰還を祝しご挨拶申し上げるべきで御座いますが、なにせよ、上様はまだ御年六歳、更にお身体も弱く、代わりにこの中尾が参りました次第に御座います。何卒、後ろの物、此度の祝いの印なれば、お納めくださいませ」
緊張で気にする間がなかったが、中尾の言葉に優が後ろを見ると、白木の幾つもの台に何かが沢山乗っていて、白布が被せてあった。
観月が一度優に平伏し、上座に上がり布を全て取り去る。
そこには、沢山の黄金色の小判と金の塊の山、絹の織物の山、そして、上質な紙に書かれた米や肉や海産物、酒などの名は、全て今回荒清社にすでに納められている品々だ。
「確かに、ありがたく頂戴した」
又、観月は元の位置に戻り座した。
優は、この状況に深く後悔した。
ただ話しを聞くだけでは済まされない状況に来ているのではないか?
「所で、、この様な祝いの場でございますが、この中尾、上様に成り代わり如何なる処罰も覚悟の上、春光様に申し上げます」
さっきまで余裕に満ちていた中尾が、畳に視線を落とした。
「あ、いや、待て中尾」
観月が静止して続けた。
「主は、貴殿に報告した通り、幼い頃の記憶も失っておれば、長く行方知れずで、この荒清の事は疎か、アレの事も今は全くご存知ない。これより尋女より、主に事のあらましを話してもらう。貴殿は全て知ってはおろうが、共に聞き、今一度この場にてアレの事を再認識してみてはいかがか…」
「ははっ…」
中尾はずっと下を見たまま固まっていたが、再び優に向かって頭を下げた。
アレってなんだろう?
優が不安気にすると、正面から尋女の声がした。
「主様には貴重なお時間をおさきいただき、この尋女、恐悦至極にございます。なれど…」
声に力は余りないが、しっかりとした語り口が、暫く止まる。
「なれど…アレの事を、主様にお話申し上げるのは、若く清らかで美しい主様には大変酷な事とお見受けいたします。なれば、主様、ご自身に聞く御覚悟が無いと思われるならば、今は止め置かれた方がよろしいかと…」
優は、真っ直ぐ尋女を見た。
正座して膝に置いて握っていた拳に力を入れ、我慢出来ないとばかりに朝霧が身を乗り出して何かを言おとした。
だがそれを、観月が優を見たまま左腕で静止した。
くっと呻くと、朝霧は観月を睨んだ。
「聞かせてください。俺は、あの男が誰か知りたい…」
取り敢えず話しを聞くだけだと、呑気にのこのこ付いて来た自分を心底恨みながらも、今聞かないと言う選択肢はなかった。
そして本当にあの男の事を、自分は知らないといけないと優は思っている。
尋女も優を見詰めた。
まるで、彼の心の中を見透かそうとしているかのように。
「よろしいでしょう。では、お話いたします。なにせ、遙か昔の
事、しかも記録も多くが何故か消し捨てられております故、私共がお話出来る事は限られておりますが、分かっている事を…」
そう言い、尋女は静かに話し出した。
百五十年前。
この世界は戦国時代だった。
安藤家は、西関東の大名、都倉家の中級家臣だった。
ある時…
一族の安藤克一(かついち)は、幼馴染が武功を立てて出世した事を
激しく妬んだ。
考えた克一は、若く美しいと評判だっためい、椿を遠方から呼び寄せ、彼女の親の高額な医者代を肩代わりすると脅した。
更に椿は、結婚した相思相愛だった新婚の夫との間を無理矢理別れさせられ、克一の養女にさせら
れ…
都倉家の長、都倉俊馬(しゅんま)の側室に上げられた事から話しは始まる。
三十代後半の俊馬には、すでに正室と数人の側室がいた上、正室が産んだ跡継ぎもいた。
しかし…
とにかく好色な長は、戦いに明け暮れる日々の憂さ晴らしも有り、常に新しい美女や美少年を探して回って食指を伸ばしていた。
克一の狙い通り、椿は俊馬の目に止まり、夜伽に呼ばれ交わった。
だが、気が強く、性に潔癖で淡白で、未だ別れた夫の事が忘れられない椿に、俊馬は二、三度褥を共にするとすぐに飽き、又今度は違う女に手を出し、今度はその者に入れ上げた。
椿を俊馬の愛娼にさせ、自分の地位を上げるという克一の願いはもはや風前の灯火となった時…
克一はとある怪しい術師と知り合った。
その二十代後半の男、道尊は、どこから連れて来たのか、頭に角、口に牙の生えた二人の若い美しい男を捕らえていた。
そして克一に…
この二人は淫魔で、彼等と一度でも交わった人間は色欲に積極的になり色香も増すので、色事に淡白な椿を激変させて、もう一度俊馬の気を引く事が出来るとけしかけた。
淫魔の血を引く者と交わり血を啜られれば、その人間も淫魔となって色欲に狂い、生き血を求める魔物になるとも知らず…
まんまとその話しに乗った克一
は、再び椿を罠にはめ、淫魔の華奢な男の方、翆に彼女を犯させ、その血を吸わせた。
哀れな翆は、言う事を聞かなければもう一人の淫魔、蓮の命が無いと脅され、これも道尊がどう作ったのか、怪しい薬を無理矢理飲まされ発情させられていたのだ。
しかし道尊も、身体が大きく力も強そうな蓮を恐れていたのか、彼の方は術の掛かった強い鎖で縛り付け、術の施した牢屋に閉じ込めていた。
淫魔は、血と精からしか生きる糧を得られない。
翆と蓮は、いつかお互いを助けて道尊の元を脱出すると誓い、涙を流しながらお互いが見ている前で、道尊の連れて来た様々な人間を犯しその血を啜って生き長らえていた。
だが、蓮の力を削ぐ為に、彼にはギリギリ生きられる程、牢屋の柵越しにしか血も精も与えられず、彼は日に日に痩せ衰えていった。
しかし道尊の罪は、それ等だけに留まらなかった。
道尊は、都倉家の美しい姫、俊馬の妹の春姫に懸想をしていた。
そして、自分の恋が叶わ無いと知ると、彼女を使役する魔物に拉致させた。
更に、すでに心も身体もボロボロだった翆では役に立たぬと翆の命を人質に、媚薬を飲まされて発情した蓮に、牢屋の中で春姫を犯させた。
もはや狂ったように嗤いながらその様子を見ていた道尊だったが…
春姫を助けようと俊馬の臣下の者達が雪崩れ込んで来た上に、彼の予想が甘かった。
何故か春姫たった一人、一度の交わりだけで漲る力を取り戻した蓮が、道尊の呪術付の鎖も牢屋も破って出て来た。
蓮が道尊の首を締めその骨を折り身体ごと持ち上げたのと、臣下の観月頼宗(よりむね)が道尊の心臓を刺したのはほぼ同時だった。
道尊は即死だった。
道尊の余りの非道を見かね、彼の弟子の一人が春姫の窮状を俊馬に密告した為助けがすぐに来たのだった。
地獄はこれで、全て終わったかのようだったが…
椿は、悪阻やお腹が膨らむなどの予兆の何もないまま、自分が懐妊したと知らぬまま、わずか三ヵ月後、急に産気づき立派な男の子を産んだ。
だが、すでに俊馬と交わりがなかった時期に彼女が妊娠して子供が出来たなどとは公に出来ず、産まれた子は何処かへ隠された。
すでに翆と交わった直後から椿は急変し、妖しい色香を纏い周囲に振りまき…
数カ月後、美しくなったと噂を聞きつけた俊馬に再び夜伽を命じられると、立ちどころに、まさか側室が淫魔になったとは知らない彼を虜にした。
淫魔の血を引いた者とのまぐわいで相手は淫魔になるが、人間から淫魔になった者とまぐわっても、血を飲まれてもその相手は淫魔にはならない。
毎晩の様に交わり、やがてすぐ彼女は再びお腹に俊馬の子を宿し
た。
月満ちて男の子が産まれ、俊英(しゅんえい)となったが、その数年後、俊馬は椿との連日の交わりに全てを吸い付くされたかの様に、彼女との接合の途中腹上死した。
その後、椿はその己の身体を使って他家大名や己の臣下を誘惑し、更に、俊馬の長男、都倉家の跡取り、自分にすれば義理の息子俊景(しゅんけい)とも関係を持ち彼を操り、様々な手を使い…
天下統一直前に主を暗殺された千賀家の凋落後、更に激しくなる戦乱の中、俊景に天下統一を果たさせようとした。
一方、互いに想いあっていた頼宗に一命は助けられた春姫だったが…
自分の身が汚された上に、湧き上がる激しい性欲と血を飲みたいという欲求に絶望し、ある日自らの喉をかき切ろうとしたが、再び頼宗に止められた。
日に日に弱る妹を哀れみ、何も真実を知らない俊馬は、山奥の山荘に彼女を静養に行かせ、数人の付き人と頼宗を同行させた。
しかし、春姫もある日突然、なんの前触れもなく元気な男の子を産んだ。
「その男子、春姫様と蓮との間の御子春陽(はるひ)様こそ、春光様、貴方様の前世のお姿」
尋女のその言葉に、優は愕然とした。
「前世って…」
「今の貴方様は、春姫様のお産みになった春陽様の産まれ代わりでございますれば、どうか、この玉をご覧下さい。貴方様の力があれば、もしや私が見たものと同じものが見られるやもしれません」
そう言うと尋女は小夜に、箱から大きな水晶を取りださせ、彼女にそれを優の前に置かさせた。
だが、それは、なんの反応も示さない。
「そ、それで、春姫様は、その後どうなったんですか?」
優は、身を乗り出した。
頼宗は、春姫の全てを受け入れ結婚し、春姫は夫からのみ血を与えられ、彼との営みのみで性欲を満たし、その愛でやがて心の傷が和らいでいった。
彼は、春陽を自分の子で無いにかかわらず愛し養子にし、やがて春姫と頼宗の間にも男児春頼が産まれた。
「それが、あそこにおります、西宮様の前生の姿。何んの因果か今生は観月の家に産まれず、今の貴方様より先に産まれましたが、前生は、紛れも無く貴方様の弟君でございました。今の観月様が、前生では西宮家に産まれておいででした」
尋女の視線に合わせ、優は西宮を見た。
彼は切な気に優を見て微笑んだ。
この気持ちは?
優に、なんとも言えない感情がせり上がってくる。
その二人の様子を、観月がチラリと見て、今度は彼と優が目が合った。
だが、西宮の時とは又違うなんとも言え無い緊張感が漂うと、観月の方から気まず気に視線を外してしまった。
「それで、あの、ち…」
父、と言いかけて、優は慌てて言い直した。
「淫魔の二人は、どうしたのですか?」
「力を取り戻した蓮は、身体の弱り切った翆を抱き、その場から何処かへ消えたと弟子の日記には書いておりますが、それから先は、もう人の子は誰も知る由もなき事かと…」
尋女は続けた。
義理の息子の愛人となった椿の力
は絶大となり、横暴な目に余る振る舞いも増えた上に更に淫行に歯止めも効かなくなる。
尚一切年を取らぬ美しいままの彼女は、魔物だなんだのと影で囁かれ恐れられたが、一族では誰も逆らう事が出来なかった。
その内、中京の大名、永松家が頭角を現し、魔物が支配していると悪名高い都倉家を嫌悪して激しく対立した。
やがて、永松家の周りに、美しい銀髪の男が現れて不気味な事が次々に起こり始めた。
銀髪の男は、椿と翆との間の子供だったのだ。
遂に一族の危険を感じ恐れた永松家は、銀髪の男と同じ力を持つ春陽に助けを求めた。
元は、春陽も都倉の縁者であったが、椿が実権を握るようになってからは、すでにかの家とは絶縁状態にあったのだ。
戦いは、長く苦しいものになる。
それを悟った春陽は、信頼できる男四人に自分の血を混ぜ打たせ魔力を付け、邪悪な者を滅ぼせる刀剣を与え、それが使えるよう更に自分の血を彼等に飲ませた。
だがその血には、副作用もある。
淫魔の血は、同族には影響ない上、人間が飲めば淫魔にはならないがその者を隷属させる事が出来た。
その血を受け継いだ春陽のそれも又然り。
春陽と男達は、椿と銀髪の男を滅ぼし、やがて永松家は過酷な戦国大名達の戦いを制し、天下統一を成し遂げた。
「西宮様だけで無く、観月様、朝霧様、定吉様は、今生では確かに永松家の命令と自らの一族の為に貴方様に奉公する事になりましたが、前生では貴方様の血を飲んで盟約を交わした、貴方様の下僕でございました」
尋女が言い終わると、澄んだ玉が明るく光り、次に、紅い炎の色が部屋を広く染めた。
優と長尾は驚き、一瞬後ろへ引いたが、他の者は微動だにしない。
やがて優は、引き込まれる様に水晶の中を覗きこんだ。
神職の振る鈴の激しい音と、何人もの経を読む僧の大きな声が聞こえて来た。
暗い部屋の中、激しい大きな炎を中心に、四方に今と顔、身体の変わらぬ朝霧、観月、西宮、定吉らしき武士が正座していた。
スッと横から別の武士が入って来て、優はその顔を見て驚愕する。
紛れもなく、自分そのものの姿だったのだ。
自分そっくりの男は、自分の左腕を曲げて心臓の高さまで上げると、躊躇もせず左ひじ近く表側に縦に小刀で切れ目を入れた。
すぐに、鮮血が肌を下に這い、木の床にポタポタ落ちる。
彼はそのままで痛みを見せず、朝霧の前に来た。
彼が下を向くと、朝霧が彼を見た。
朝霧の両眼は、ただ美しい程に真っ直ぐ優そっくりの男を見上げ、右足だけ立てて、その傷口に唇をそっと付けようとしている。
「ダメ、ダメだ貴継!その血を飲んだら!貴継!」
優はガバッと立ち上がり、玉の中に向かって絶叫した。
だが、
何故、下の名で呼んだのか?
自分で無い、誰かが自分の口を動かせた様な違和感に固まる。
そしてその声に反応した、その中の朝霧と目が合う。
急に辺りの光は玉に吸い込まれ、やがてそれは何も映さない、静かな透明を取り戻した。
はぁはぁと息を荒げる優は、この世界、壁近くで苦悶の表情を浮かべていた朝霧とも視線が合った。
気が付けば感情が乱れて暴走し、優は走り出し部屋を飛び出していた。
「主!」
朝霧、観月、西宮、定吉が同時に叫んで後を追った。
廊下に待機していた神職や武士達も、驚きながら優を捕まえようとしたが、今の優は、現代にいる時より何故か身体能力が上がっていて、走る足に只人は付いて行けず、朝霧等四人のみが互角の速さを出せていた。
だが、なかなか優を捕まえられない。
観月はこんな時、式の紫炎が使えたらと追いながら思った。
彼は、先日の銀髪の男の攻撃を受けて、今も酷いケガが治りきらず呼べる状態では無い。
更に、他に四人いた式も、優を迎えに行った日以前に二人が銀髪の男に消されてしまった上に、残り二人も紫炎と同じ状態にされてしまっていた。
優は、方向も分からぬまま奥舎殿内を走り抜け、足袋のまま外へ出て、広い裏庭を突き抜け、何故か高く跳躍出来ると直感した瞬間、舎殿を囲む高い築地塀(つきじべい)の上の瓦に飛び乗った。
これは、魔物の血が入っているから?
自分でやっておいて、こんな事が出来るようになった自分に驚くと共に、罪悪感が湧いてくる。
彼は自分の名を必死で叫ぶ朝霧達の姿を一度振り返り見ると、そこから飛び降り、向こう側へ姿を消した。
ズシャっと地面を擦る音がした。観月が庭で朝霧に殴られ、飛ばされて地面に尻餅を付いたのだ。
「これで満足か、観月!」
朝霧が、腹の底からの怒声を出した。
唇の端が切れて血の出た観月は、そのままの状態でそれを拭い、殴った本人を下から睨んだ。
「こんな事をしている場合じゃない!早く主を!」
西宮の声は、叫びに近かった。
定吉は、すでに優を追って再び走りだしていた。
「ハルに何かあれば、お前を…!」
朝霧は怒気の籠もった低い声で観月を睨み告げると、西宮と裏門向けて駆け出した。
口内も切れて血の味を感じながらよろよろと観月も立ち上がり、そちらへ急ぎ外へ出た。
道に、白い紙の人型が落ちていた。
彼が優が塀を降りる時、遠くから飛ばした護身用の物だった。
自分の弟は、まだこれを跳ね返す術など持っているはずが無い。
ならば、誰が…
嫌な予感が駆け抜けた。
ただ闇雲に走った。
制御出来ない程気持ちが苦しくて、苦しくて…自分を失い…
気が付けば優は、舎殿から荒清社殿の敷地を走り抜け、外に飛び出してしまっていた。
やがて夕闇も近くなり、町中の人のまばらな裏道をとぼとぼ歩いていると、余りに美しい巫女姿は人目を引いた。
「こりゃ、綺麗な巫女様がお一人で、何処へ行かれます?」
前からいかにも素行の悪そうな若い男が三人が現れた。
優は相手にならず、そのまま通り過ぎようとしたが、にっと笑ったその内の一人に手首を捕まれた。
「珍しい、青い目の巫女様。どうか俺等にその身体で、神の御加護とやらを下さらんか?」
「離せ、この野郎!」
優はキッと睨んでその手を思いっきり振り払い、再び走った。
「おもしれぇ!たんまり可愛いがってやろうぜ!ありゃ、男だぞ!」
そう言いしつこい男達は追いかけて来たが、疲れてきたのか、優の走る速度が遅くなってきた。
ヤバイ、このままじゃ、捕まる!
そう思いながら尚走ると、民家の外壁の角から手が出て来て、優の腕を後ろから引っ張った。
「こちらです。春光様!」
女性の声に振り返ると、その手の主は見覚えのある顔、梨花だった。
優は、彼女に促されるまま手を引かれ、彼女の付き人の男を背後に細い道を通り、やがて一軒の商家らしい大きい屋敷の裏扉から中に入った。
どうやら男達も此処までは入れそうにない。
優は安堵の息を一つした。
「春光様がその様なお姿で、どうして御一人でこんな時間に町中に?」
梨花は、気遣いながら優に尋ねた。
真実も言えず、優が視線を下に口ごもっていると、梨花は彼の右手を取った。
「此処は、私の父の知り合いの屋敷です。心配なさらず暫く中でお待ち下さい。今すぐ使いの者に、雅臣様を呼びに行かせますから」
「それは…」
優は、慌てて梨花の手を握り返した。
さっきの水晶の中の様子を思い出し、鳥肌が立った。
そして、思わず逃げてしまった自分の情けなさと、朝霧達への申し訳なさ。
今彼等にどんな顔で会えというのだろうか?
「分かりました。取り敢えず中にお入りになってお休み下さい」
聖母の様に微笑んで、梨花はそのまま優の手を引いて、屋敷の中に連れ入った。
その内、外は闇が完全に落ちた。
誰かに見つかりたくないと優が言うと、梨花は困惑しながも、裏庭の、母屋から離れた幾つかの蔵の一つに彼を匿った。
優にとって蔵と言えば、金品や米や日用品を沢山詰め込んでカビ臭いイメージがあったが、連れられ入った其処はまだ出来たてのようで中には殆ど何も無く、新しい建物の臭いはしたものの、思いの他過ごし易い所だった。
広い二階に上がって、用意された着換えも食事も手を付けず、ただ黙って蝋燭の灯りだけの中、窓格子から外の星を見た。
朝霧さん達は、どうしているだろうか?
きっと怒っているに違い無い…
優は背を壁にそってずるずると座り込むと、膝を抱いてそこに顔を埋めた。
朝霧達は、顔面蒼白で必死にそれぞれ町、山、川へ散り、口止めした数人の神職と幕府の武士も加わり優の捜索は続いた。
朝霧は、ランプの灯りを頼りに全身汗塗れで町中を走り、美しい巫女を見なかったかと聞いて回った。
だが、夕闇で出歩く者も少ない上に、見たと言う者も、どちらの方向に行ったか知らないと言う。
「ハル…ハル…何処だ、ハル…頭がおかしくなりそうだ…」
そう小さく呟き両拳を握り、朝霧は空を仰ぎ見た。
「朝霧!」
突然暗闇から、聞き慣れない声が彼を呼んだ。
ばっと後ろを振り返ると、民家の塀の上に、見覚えのある赤い首輪、白い毛並みの猫が居た。
「小寿郎?」
荒清社から遠いこんな所にいるのも不思議だが、先程の呼び声は誰なのか辺りを見回す。
「私だ、朝霧」
明らかに喋っているのは、目の前の猫だった。
「小寿郎、お前…」
「私は、村で会っただろう。桜の精だ。詳しくは後だ。春光が西宮の許嫁の所にいる。時間がなくて西宮にしか知らせてないが、奴はもう向かってる。付いて来い!」
そう言い、小寿郎は道に降り走り出した。
驚いている暇は無かった。
朝霧は後ろに続いた。
「失礼いたします。お布団を引かせていただきます」
商家の若い美しい女中が、蝋燭の灯りをかざしながら蔵の階段を上がって来た。
優は真っ暗な中、色んな事が有り過ぎて、膝を抱えたまま気を失うようにほんの短い時間眠ってい
た。
「ありがとうございます」
正座し直し力無く言う。
女中は手際良く引き終えると、座って下を向いていた優をじっと見詰めてきた。
「どうか…しましたか?」
優が不思議そうに見ると、女はスルスルと自分の帯を解いたかと思うと着物を脱ぎ、下の薄い白襦袢だけになった。
そして、艶のある妖しい微笑みと共に、衿元をずらし白い両方の肩から鎖骨を出した。
「なっ…何ですか!?」
優が顔を赤くしながら顔を引き釣らせると、女はどんどん近づいて彼の前に来た。
「梨花様に、貴方様の夜のお世話をする様いいつけられましたの
で…」
「そ、そんな事、頼んでません!」
立ち上がり眉間を寄せハッキリ拒絶すると、女はどんな男も逆らえないような、優しさと淫靡さを溶かせ合わせた微笑みを浮かべると、優の右手を優しく取り自分の豊満な胸に導こうとした。
「俺、出て行きます!」
優はなるべく穏やかに自分の手を取り戻すと、壁に背を付けたまま右手へ移動し、走り出そうとした。
「なっ!?」
ガシッと左手首を捉えられる。
しかも、女性とは思えない強い力で。
そのまま女が身体を押しつけてきて、優は壁との間に挟まる。
押しのけられないこの力の強さ、普通じゃ無い。
そう思った時、女は、滴るような色を滲ませた笑みを浮かべた。
朝霧が商家に着いた時、店内に入ったすぐの土間にすでに西宮が居て、この家の奉公人の男と揉めていた。
「只今主人と奥様は不在でして、今暫くこちらでお待ちください。すぐ、すぐ梨花様をお呼びしますので」
男はえらく慌てた様子で、店内より奥に上がりこもうとする西宮を両手で押し止めていた。
「待てん。梨花がいつも泊まる部屋はこっちだったな!」
業を煮やした西宮が草履を脱ぎ、畳の上に上がり、店と続きの私邸の奥へ入って行き、朝霧達も後に続いた。
「どうか、どうか、お留まりを」
男の小声の必死の懇願を皆無視してどんどん行くと、やがて西宮がある部屋の前で止まり、障子を開けた。
「り…か…」
ランプをかざす西宮の目に、乱れた布団の中、裸の梨花と見知らぬ男が横たわっているのが映った。
周囲には、脱ぎ散らかした着物や下着が散乱していた。
梨花は目覚めると、最初少し寝呆けていたが、すぐ目の前に未だ恋しい元婚約者や朝霧がいるのを見て酷く驚愕し青ざめた。
「雅臣様…」
西宮は怒るでも無く、ただ酷く哀れみの籠もった目を向けた。
たが、梨花はそれが気にいらず、上半身を掛け布団で隠しつつ起こすと、くくっと笑い、吐き捨てるように彼に言った。
「これを見ても、やはり貴方は少しも怒って下さらないのですね。でも、これも全て雅臣様が悪いのですよ。今頃雅臣様の大切な御美しいあの方も、蔵の中で私と同じ様に汚れておいでだわ。所詮誰も一皮剥けば同じですわよ。雅臣様…」
ハッとして、西宮はすぐ横の廊下の雨戸を開け放ち飛び出し叫んだ。
「蔵は、こっちだ!」
西宮、朝霧、小寿郎はそちらへ走り出した。
「俺は、こ、これで…」
梨花の横の裸の男は、暗がりで、脱ぎ捨ててあった着物を手探りで急ぎ探し小脇にすると、そそくさと逃げて行った。
「くくっ…」
梨花は自嘲する様に笑いながら、両目から涙を零した。
「お前、人間じゃないな…」
怪力の女に間を詰められて、優はのけようと腕を身体同士の間に入れ、押し返し呻きながら言った。
ぐぐっと更に押し、隙間が出来た所を逃げようとするが、女に背後を取られ、今度は後ろ向きに両手をまとめて封じられ跪かされる。
「そうだ。しかも、女でも無い。この胸は作り物。女中に化ける為のな」
優の耳元で、背後からクスクスと笑いながらあやかしが言うと、背中に当たっていた胸が急に無くなった。
「折角死ぬ前に、最初は女の方、後で男の方でいい思いが出来たものを…観月春光…貴様、淫魔の血が騒がんのか?」
「ざけんなっ!誰がお前なんかに!」
激しく抵抗すると、優の髪がぐしゃっと彼の頭頂部で荒々しく掴まれ、彼の頭が更に背後のあやかしの胸に引き寄せられ、片手だけで押さえているだけのはずのあやかしの腕もびくともしない。
「社の中で兄の膝の上に大人しく座っておれば、外より幾分安全だったものを、わざわざ自分から一人で出て来るとわな。さあ、死にたくなければ、泣いてこの場で土下座して命乞いしてみろ。そして、言うんだ。どんな事でもいたしますと。そうすれば助けてやるぞ…」
怒りを押さえた、しかし唆す甘い声が優の耳朶を掠める。
「さぁ、言え…言え…」
あやかしの右手が優の首に来て、徐々に力を込めていく。
それでも必死で自分の腕を開放しようと藻掻いた。
「さぁ、早く!死ぬぞ!」
更にぐっと力を込められ、それでも優はこらえる。
「ちっ、もう、お迎えがきたか…」
突然、首から手が離れた。
優はその瞬間、僅かに出来た隙を見てあやかしの足を蹴りよろめかせ、その場を這い出した。
「主!」
梨花の居た部屋から駆けて来た朝霧と西宮の声が重なり、朝霧が床を逃げる優の腕を引っ張り抱き締めた。
ゲホゲホと、優はその場で咳込んだ後、包まれる安心感と共に大きな体を抱き返した。
西宮は、抜き身の刀をあやかしに向け、小寿郎は普通の猫から虎程の大きさになり、牙を剥いて威嚇した。
「ちっ」
とあやかしが舌打ちし、抱き合う優と朝霧を庇い前に出ている西宮と小寿郎を睨んだ。
互いにじりじりと攻撃の間合いを測る。
すると、突然背後から、誰かがあやかしのその腕をとって捻り上げた。
「私に黙って、何を勝手な真似をしている」
優は聞き覚えのある、凍る声に前を見た。
この声は…
やはり嫌な予想通り、あの銀髪の男がそこにいた。
だが、あの時と違い身体が透き通っており、とても不安定な感じだった。
「あ、藍様。わ、私しは、藍様…」
さっきまでのふてぶてしい態度を豹変させ、あやかしは銀髪の男を前に慌てふためき、恐れているようで声を震わせた。
「ハルを殺すのは、お前じゃ無い、誰でも無い、この私だ!ハルの肉を喰らって、この私の力を超えようとでも言うのか?」
「とんでもございません!私しは、私しは、藍様の為に、あの者さえいなければ藍様は…」
銀髪の男は底知れない酷薄な冷静さで、あやかしの髪を荒く掴み引き上げて、互いの顔を近づけた。
まるでさっき優がされていた事に対して、銀髪の男自身があやかしに報復しているかの様に。
「勝手な事をしたこの罪は、死をもって償ってもらうぞ…」
「どうか、お許しを、お許しを藍様!」
「許さん。お前には死あるのみ…」
ダンッと強い音と共に、銀髪の男は泣くあやかしを跪かせ、頭を押さえて床に付けさせた。
そして、立って朝霧達の背に守られている優を、目を眇めて凝視した。
優にあの尋女の話しが現実だと、その憎しみの籠もった眼差しが突きつけた。
「ハル、今日の所は引いてやる。あの時は油断したが、だが、また力を取りして、必ずお前にまた会いに来る…」
そう言うと、顔面恐怖に引き釣るあやかしを連れて、銀髪の男は煙のようにそこから消えた。
「はぁ…」
極度の緊張が解けて思わず漏れた優の溜息に、朝霧達が彼を振り返った。
溜息を付くのは、むしろ彼等のはずなのだ。
なのに朝霧は、深く優の心配をしてくる。
「お怪我は、何処かお怪我はありませんか?」
優は申し訳なく朝霧達を見て、ただ首を横に振った。
「出来る事なら、貴方に、あんな話しを聞かせたく無かった…」
朝霧が、憂いた瞳で呟いた。
優は、再び首を横に振った。
「すいませんでした…俺が、自分で聞くなんて言っておいて、勝手に動揺して…」
言い訳など出来ず、ただ声を振り絞る様に言うと、朝霧が黙って、優の顔に掛かっていた乱れた髪を彼の指で優しく撫でる様に直してくれた。
相変わらず、冬の月の下の鋭利な野生の狼の様な男なのに、時折こんな風に向けて来る仕草が、今も送って来る視線が優しい。
「ご無事で、良かった。本当に良かった…」
刀と殺気をしまった西宮が、優の右手を両手で包みそう言い微笑んだ。
彼が前世の弟だと、尋女のあの言葉を優は思い出し見上げた。
だが、やはり実感は感じない。
「お、俺…」
これからどうすべきかと言い募る優を、西宮の優しい声が包む。
「大丈夫です。私も最初、己の置かれた立場を聞いた時、正直戸惑いました。でも私は、一度に全てを聞かされた訳で無く、色々な話しをゆっくり時間を掛けて聞き納得しました。貴方は何も悪くない。驚いて当然です…」
一瞬、間が空いて、朝霧が静か
に続けた。
「今すぐ答えを出せとは無理かもしれません…でも…我等と一緒に帰っていただけますね…」
「はい…」
優は頷くと、目の前の朝霧と、あの炎の向こうの彼が重なり再び鼓動を早くした。
この、湧き出る胸をえぐられる様な痛み。
これは、前世の自分のものなのか?
春陽は、どんな想いで朝霧等に刀を授けたのだろうか?
ふと、そんな思いが脳裏をかすめたが、さっきからそこに居る、巨大な白い獣も酷く気になった。
「まさか、お前って、小寿郎?」
すっかり可愛気の無い大きさになり、目付きも荒ぶる猛獣のそれになっていたが、モフモフの毛並みは変わる事無くて、躊躇せず優しく撫でてやる。
「春光、私だ、もう忘れたか?」
巨大猫が喋ったのもそうだが、何よりその聞き覚えのある声に驚いた。
「桜の精、さん…」
「流石に覚えていたか…それと、私自身の名も今日より小寿郎にするぞ」
「でも、なんでここに?」
優が心配気に尋ねると、桜の精は少し黙った後口をひらいた。
「訳ありだ。又後で話す。取り敢えずここから早く出よう」
そう言うと、猛獣はたち所に元の大きさと可愛さに戻り、優の胸に抱いてくれと言わんばかりに飛びこんだ。
優達が蔵の外に出ると、使用人の男が何人かが、透明な壁に阻まれて蔵に入れないと慌てていた。
だが、西宮に促され再度試すと、壁など無くなっていたらしい。
まさか、小寿郎?
と、優は頭を撫でた。
そして、匿ってくれた梨花に礼を言いたいと西宮に頼んだが、それは叶わなかった。
具合が悪く眠っているから、と表向き西宮は穏やかだったが、何処か頑なに断固拒まれている気がして、優は静かに屋敷を去るしか無かった。
優が小寿郎を抱えながら、灯りを持つ西宮を先頭に、朝霧に背後を守られて川沿いの帰路を行っていると、向こうからランプを持つ人がかなりの速さでこちらへ向かって来た。
「主!」
仄かな光の中、定吉が歓喜の声を上げた。
「主!主!」
「うわっ」
定吉が、小寿郎ごと優を軽々抱き上げた。
「何処かケガは、痛い所は?」
定吉は、まるで小さい自分の子供を心底心配して聞いている父親の様で、優は首を横に振り、申し訳なさに顔を歪めた。
「本当にすいませんでした…」
「定吉!」
朝霧が背後から咎める。
だが、言われた本人は悪びれな
い。
「貴継様、これは決して邪な気持ちからでは有りませんから御安心を」
はぁ…と朝霧の溜息が漏れた。
「春光様、良かった。ご無事で、本当に良かった。観月様もまだ探しておられるでしょう」
定吉から出た観月と言う名に、優は体をビクリとさせた。
彼はどんなに怒っているだろうか?
あの絶対零度の視線で睨まれると思うと、背筋が急速に冷えて表情も強張る。
「許してくれないかも…」
優の呟きに定吉は、身体に似合わず優しく囁いた。
「観月様なら大丈夫です。けれど、もし許していただけないなら、私は主に付いて何処へでも行き、共に生きて参りますから」
何故、知り合って間の無い自分にここまで言えるのか?
やはり、前世の血の盟約が関わっている部分が有るのだろうと思うと、優は湧いてくる複雑なものをそっと飲み込んだ。
途中、捜索していた神職や幕府の用人何人かと合流し、やがて暫く行くと又灯りが見えた。
駆け寄って来たのは、観月だった。
彼は少し優等と距離を空けて止まるといつもの彼らしくなく、酷く息を切らせて汗を額から流していた。
暫く、そんな彼の姿を以外だなと優は瞠目していたが、後ろから定吉に肩を掴まれた。
「なんなら、御一緒に謝りますが…」
定吉の提案は心底有り難かったが、優はニコリと笑って見せた。
「大丈夫。ちゃんと一人で謝ります」
小寿郎をその腕から放し、優から観月に近づいた。
暫く言い淀み、優が謝罪しようと口を開いた瞬間観月の腕が上がり、てっきり頬を叩かれると覚悟して唇を噛んで目を閉じた。
だが、その予想は、驚く形で裏切られた。
気づけば、優は観月に抱き締められていた。
「済まなかった。春光…私が、事を急ぎ過ぎた…」
観月の声に、いつもの余裕が感じられない。
「俺の方こそ、すいませんでした…」
優が戸惑い気味に抱き返し、更に顔を彼の胸に寄せると、彼の熱い体温と香の芳しい匂いを感じ、速い鼓動が聞こえた。
「もう、いい。無事ならもう、いいんだ。帰るぞ、春光…」
こんな声も出せるのだと驚く程、
観月の声は、別人の様に甘く優しかった。
すっかり夜も更けていたにも拘らず舎殿に戻ると、千夏と小夜、尋女、中尾も眠らず優を待っていた。
特に千夏は、興奮して寝ないとぐずり姉をかなり困らせたらしく、優の姿を見ると駆け寄って、その腰に黙って抱きついて来た。
「ごめん、千夏ちゃん」
優は、抱き上げて抱擁した。
何か、彼の危険を察していたかの様に、無表情でも、言葉は無くても、千夏が心配してくれていたのがよく分かった。
「…ル…ル…春光!いつまで寝てるつもりだ!」
翌朝、優がその声で目覚めると、又装束姿の観月が仁王立ちで、冷静な視線で布団の中の優を見下ろしていた。
夜は、あんなに優しかったのに…
優は、そう思いながら仰向のまま黙って暫くその姿を眺めた。
「何だ?」
訝し気に観月が聞いて来た。
「何でもありません」
優が微笑むと、観月は無表情でクルリと踵を返し、そのまま部屋を出て行こうとして一度立ち止まった。
「それから、そのだらしない寝相と浴衣、なんとかしろ」
振り向かずそう断じてと言うと、足音無く行ってしまった。
「まぁ、確かに…でも、浴衣に慣れてないからなぁ…」
口煩い自称兄だが、優が起き上がって自分の目覚めの姿を新ためて見ると、布団もくちゃくちゃで、胸もはだけかけていた。
「浴衣なら、その内お慣れになりますよ。それに、寝相の悪いのは、私はお元気でいいと思いますがね。さぁ、主、お着替えしましょうか?それと、あの…今日も口元に涎が…」
じっと優の胸の辺りを凝視していた定吉だったが、昨日と同じ様に朗らかに笑う彼が、優の口元を優しく拭った。
もう、朝霧達の朝稽古は終わっただろうか?
明日こそは、自分でもう少し早く起きようと優は思った。
朝食の後、優はどうしても帰城しなければならない中尾と再び接見した。
こちらから昨日の事を謝罪すべきと思っていたが、先に三指を突き、ひたすら頭を下げたのは中尾の方だった。
「申し訳ございません。永きに渡り江戸城の護りにとお預かり申し上げていた春光様のお刀を、先日何者かに盗み出されてしまうという失態を犯してしまった責任は、この中尾が、どの様な処罰も受け賜る所存で御座います」
畳にめり込むのでは無いかと思う程平伏す姿に、優は困惑し観月を見れば、観月は、本来なら切腹ものだと、自分の父親と言っていい程の年齢の中尾に尊大に断言したが、中尾による刀の捜索を優先し、当日刀を警護していた者とまとめ役の上官の高い地位と報酬を剥奪とする事、彼等の数日の禁錮で今回は様子を見ると決着した。
中尾の話しでは、将軍家としてもすでに捜索しているという事だったが、未だ何の手掛かりも無いと言う。
そして、幕府内では一部の人間しかまだその事を知らないが、護り刀が無くなった事で、永松家に又、何か良からぬ事が起こるのでは無いかと言う者が居るという。
中尾は浮かない表情を浮かべたまま、昼食後、数人だけの共を連れ、裏門から人目を忍んで帰路に着いた。
昨日聞いたアレとは、正に春陽の魔剣の事だったのだ。
その後優は、観月達四人と小寿郎を連れて、再び床に付いていた尋女の元を訪れた。
今日の彼女の顔色は、若干良さを感じられた。
「俺を襲った、あの藍と言う男が刀を盗んだんでしょうか?」
優の問いに、彼女は項垂れた。
「それは分かりません。水晶を持ってしても…」
「あの男は、その、春陽さん達が倒したのではないのですか?」
答えに間が空いた。
「倒したと、文献には記されておりますが、詳しい話しは余り残っておらず、どう戦ったのか、最後はどうだったのか、戦いの終わった後、春陽様がどうお暮らしなさったのかさえ分かりません。もしかしてですが、何者かが、わざわざ文献を始末した形跡も有ります」
「そうですか…」
優は、畳に視線を落とした。
「だだ、あの男は、又貴方様の御命を狙っておるのだけは確かな上、盗まれた刀は、貴方様の血で出来た貴方様の分身の様なもの。探し出し取り戻さければどの様な事になるか…どうかくれぐれもお気を付けください。しかし、永松の家も、無理矢理貴方様の刀だけ己が城に城護りだと奪っておいて、みすみす盗まれるとは…」
尋女は顔だけ優に向けて、更に静かに続けた。
「ただ…貴方に害なす淫魔を滅しなければなりませんが、元を正せばその根源を呼んだのは人間の方。そして、いつもその力に取り憑かれて事を起こすのも、人間の弱さと醜さで御座います」
「はい…」
優が静かに頷くと、背後で人知れず西宮が目を伏せた。
西宮は、ここでは自分と朝霧と小寿郎しか知らない、もう二度と会う事の無いだろう、純真だと疑わなかった梨花のもう一つの顔を思い出した。
無論、とうに婚約は解消していたから、彼女が誰と何をしようと自分は何か言うつもりも無い。
しかし、復縁したいと、自分の子供を産みたいと熱く言って来たその日の夜にあの姿は、本当に心底驚愕した。
そして、もし、あの口ぶりから、梨花が主を貶めるのに敵に加担していたなら、調べてあるべき処分を下さなければならない。
「春光様は、向こうの世界に帰りたいとお思いですか?」
尋女が、突然に以外な質問をした為優は動揺した。
帰りたい。
それは帰りたいに決まってる。
でも…
「これから自分がどうなるか分かりませんが、今すぐは無理でも、いつかは帰りたいとは思います。あっちには好きな人もいますし…」
優は正直に言ったつもりだが、無論ここで言った好きな人と言うのは、現代の東京の父と母の事だ。
だが、背後の朝霧等五人には、恋愛関係の人間の事だという印象と誤解を深く与えてしまっていた。
五人は、いつか帰りたいと聞き、自分達がそれぞれ顔には出さないが内心酷く動揺している事に、その感情に戸惑った。
自分に与えられた部屋に戻った優は、一人だけ用事の無かった朝霧と二人きりになった。
小寿郎も、どうして自分に付いてきたのかと未だ聞けないまま、猫の姿でさっき黙ってふらっと何処かへ出掛けて行った。
あの物事に疑り深そうな自称兄が、喋る猫を見ても一切動揺せず、邪気が無いからと放っておいてくれるのは幸運だ。
静寂が支配し、観月、西宮や定吉と一緒に居る時と別の、又何か緊張感のある雰囲気になる。
すると、朝霧がおもむろに尋ねてきた。
「障子を開けてもよろしいですか?」
「あっ、ええ、どうぞ」
「主、庭に、是非見て頂きたい木があります」
朝霧は、庭に面した方のそれを開けた。
眩しい光が、一瞬で広い部屋に広がった。
暇が無かった為、優は初めて部屋から外を見る事が出来た。
縁側に出ると、左側に大きな桜の木が見え、思わずその花の美しさに感嘆の声を漏らした。
置いてあった履き物を履いて、優は子供の様に庭へ飛び出した。
「凄く綺麗だ…」
大きさから、かなりの樹齢だろう。
立派な太さの幹を撫でると、心地良い風に薄紅色の花びらがハラハラと舞った。
「荒清社が出来る、そのずっと前からここにあるそうです…」
そう言いながら、朝霧が近づく足音がした。
何気に彼を振り返ると、彼が静かに、しかし射抜く様に優を見詰めている気がした。
この感じ、優には概視感があった。
この桜、あの初めて朝霧に助けられた時に、走馬灯の様に脳裏に浮かんだ時のやつかも…
あの時、自分に似た男は、朝霧に似た男に後ろから抱かれていた。
そう、穏やかに、幸せそうに…
「そう、なんですね…」
優は朝霧に笑い掛けると、その回想に思わず顔が赤くなるのを隠す為、前を向き、花を見上げた。
あの、抱かれていた自分が事実なら、朝霧自身もそんな優を抱く過去の彼自身を何処かで見たりしているのだろうか?
そう考えるて、すぐハッと我に返った。
何考えてんだろ…俺。
朝霧さんも俺も男だし、あの脳裏に浮かんだ映像も、ただ脳がバグっただけだろうし…
そう思いながらも、これとは別に以前から気になっていた事を思い切って聞いてみようという気になった。
「あの…朝霧さんは、春光さんとは幼馴染だったんですか?」
全て言い終えると、静かに朝霧の方を振り返った。
朝霧は突然で少し動揺したが、優を見据えたまま暫く沈黙した。
その内、ゆっくり朝霧の唇が動いた。
「ええ、そうです。幼い頃、貴方と私はいつも一緒でした。私は、ずっと貴方に、貴方に又会える事を信じて生きてきました…」
この一瞬も、花衣は風に攫われ散らされていく。
春の光は、夢の様に、おぼろげに、足速に消えて逝く。
今日、最終の授業が終了した。
今日は、五時間目までしか授業が無い。
所々開いた学校の窓から、鮮やかになった日の光と春の柔らかい風が入ってくる。
「お前、本当に大丈夫か?」
急いで帰宅の用意をする摩耶優の背後から、クラスメイトで仲の良い箱崎が声をかけて近づいて来
た。
「え?ああ、大丈夫」
下がり気味の愛らしい目を細
め、優(ゆう)は笑顔で答えた。
今朝からずっと調子の悪い優を、箱崎はずっと心配してくれてい
る。
「ねえ、摩耶君、本当熱あるんじゃない?」
優と箱崎の回りを、数人の女子が囲む。
「あっ、本当大丈夫、大丈夫。ありがとう。又明日な」
又、ニコリとして、優は箱崎と教室をでた。
「ねぇ、なんか摩耶君っていつもなんか色っぽいけど、調子悪そうだとさらにヤバくない?」
二人の姿が見えなくなり、一人の女子がそう呟く。
「うん。なんか、変なフェロモ
ン、ムンムンしてる」
もう一人の女子が答えると、全員頬を赤らめ、暫く余韻に浸っていた。
「なにか、悩みでもあんの?」
箱崎が控え目に聞いてきた。
学校内では数人の男子とよく一緒にいる優だが、こうして広い川の横の通学路を一緒に途中の別れ路まで帰るのは、いつも箱崎だけだった。
「悩み?」
優は、少し首を傾げた。
確かに優の生い立ちは複雑だっ
た。
幼児の頃に記憶を一切無くして、
今横にある川の、どこか岸に倒れていたらしい。
それをたまたま助けたのが今の優の養父母で、一度施設に預けられた彼を、子供のいない二人が後に温かく迎え入れてくれたのだ。
養父母はとても優しく、金銭的にも裕福で、何かに不自由な思いをした事もなく、その愛情のせいか本当の親の事もくどくど考える事も無く、いつも前向きでこれた。
まぁ、この冬は大学受験だし、優自身は自覚が無いが、
「摩耶君はキレイすぎて、普通の女子はビビって告れない」
と常に周りの女子に言われるせいか、未だ恋愛未経験という事があるが。
あるとすれば夢だろう。
いつも頻繁に見る夢がある。
深い深い暗がりに、五口の日本刀が抜き身で地面に刺さっている。
その刃は、どれも素人が見ても真剣であろう事が分かるほどの禍々しくも神々しい光を放っていた
が、特に真ん中の、一際激しい輝きが優の心を引き付ける。
直刃の深い刃文(はもん)に金で桜の花を細工した鍔(つば)。
血の色の紅色の柄糸で菱形の紋様に巻かれた柄には、龍の目貫(めぬき)が見える。
そして、いつもその決まったそれに手を伸ばすと、いつもそこで汗に塗れた状態で起きてしまうの
だ。
そして、決まってその日一日は、物事に集中できなくなる。
今朝も、又、その夢を見た。
だから…
「別に、悩みなんてないよ。多分、風邪でも邪いたのかも」
春のクラス替えで最近知り合った箱崎には、今はこれで誤魔化せるだろう。
「何かあれば言えよ」
箱崎は、優の頭をポンポンとし
て、いつもの別れ道で別れた。
学校から優の自宅まで、長い川辺の道を歩いて十五分程。
車や人の多い通りを抜けると、草と土に代わりコンクリートが川を囲むが周囲は緑が多くなり、人通りは少なくなり、優の暮らす大きな家の建ち並ぶ地区に近づく。
優の背後から、役所の車が川の水量に注意と、車上の拡声器で大音量で警告を流しながら追い抜いて行った。
いつもは流れの緩やかな川も、昨日の昼からの豪雨で水かさも増
し、流れが急になっていた。
「ん?」
前方から、バシャバシャバシャと水鳥が水面を叩くような音がし
た。
だがすぐ、激しい水音の方に目を向けた優は、水鳥では無く、人の子供が溺れている事を知る。
「!」
あの車の人、流してる声で気付かなかったのか?
優は制服の上着を脱ぎ捨て、川に飛びこんでいた。
確かに流れは速いが、それなりに泳げる彼はなんとか必死で追いつく。
我を忘れて藻掻く子供を後ろから抱き止めるが、パニックになっているのか、暴れるのを止めない。
「助けるから!」
優の叫びに、子供は急に大人しくなり、優に身体を預けた。
だが流石に、一人より子供を抱いてこの流れはキツイ。
しかもこんな日に限って誰も通らず、助けてくれる者も誰もいな
い。
それでも、渾身の力を振り絞り泳ぎきり、少し高いコンクリートの岸に子供を上げると男の子だとわかり、彼は何度も何度も咳こんだが意識もハッキリあるようで、優は自分は足が川底につかないためにコンクリートに顔と腕だけ乗せ
掴まり、安堵の溜息を吐いた。
だが、次は自分がと上がろうとした瞬間、ヒヤっと冷たい恐怖と共に両足が急に攣った。
どうすれば?
それを考える間も与えられず、次の瞬間、今度は優が溺れて流されていた。
目の前が白くなっていく。
光だろうか?
それでも暫くは目が開けられないまま朦朧としていたが、やがて自分は何をしていたか、ボヤけた頭は逡巡しだした。
なかなか思いだせなかったが、急に記憶が甦り、優はガバッと横たえていた身体を起こした。
「生きてる…」
優は、何気に自分の右手を動かしてみた。
だが一瞬安堵した優は、自分が寝かされていた布団を挟んで両側
に、年老いた男女がいる事に目を丸める。
「おお、気がついたか、坊。良かった、良かった」
男性の方がにこやかに目を細めると、女性も同じように優を見た。
だが次の瞬間、優は異様な違和感を覚えた。
目の前の二人が、子供の頃読んだ昔話に出てくるような風貌だったからだ。
男性は、長い白髭をはやし濃紺の作務衣を着て、女性も渋色の着物に身を包み、長い白髪を後ろで束ねていた。
そして、よくよく周囲を見渡す
と、寝かされていた薄い布団の向こうには囲炉裏があり、何かを煮炊きしているようで、木造和風の家の造りも、お世辞にも立派とは言えない粗末な感じのものだった。
「あの、あなた方が、俺を助けてくれたのですか?」
何処か不審におもながらも、優は翁と言うにピッタリの男性に尋ねた。
「ああ、そうじゃよ。お前さん、川で溺れたんかの?岸で気を失っとった」
「…」
優は、ふと男の子を助けた事を思い出したが、次の瞬間、自分の髪がおかしい事に今気付く。
男らしく短くしていた髪が、伸びているのだ。
それも、胸より下に。
「え?」
気持ち悪くて引っ張ってみたり、頭をくしゃくしゃにしてみたが、どうも本当に、優自身の髪が伸びたのだ。
「どうしたのじゃ、お主大丈夫
か?」
心配する翁達を前に、優は暫く言葉を失った。
しかし、何より驚いたのが、近くの鏡台に映った自分の瞳が黒から青に変化していた。
慌てて布団から這い出てその前に行き、何かの見間違いでないか確認したが、確かに事実だった。
もしかして、自分はまだ気を失っていて、夢を見ているのか?
それとも、もしかしてもう自分
は…
ここは何処か、今いつか?
優の問と翁達の話しは全く噛み合わなかった。
親切で人の良さそうな翁夫婦が、
嘘を言って優をどうのという感じでは全くないが、彼等の話しをすぐ受け入れる事もできない。
翁が言うには、優がいるここは江戸時代なのだ。
しかも、優の習った歴史とは全く違う将軍家が代々納める、全く不条理な世界。
死んだ訳では無さそうだが、まさかこれが漫画でよく見る異世界なのだろうか?
その日寝て次の日起きたら、またきっといつもの平和な現代の生活になっている。
だか、何度目覚めても、現代には戻れなかった。
日は、無情に過ぎて行く。
時には大きな不安に押し潰されそうになるし、優が居なくなったとなれば、あの両親はどんなに嘆くだろうかと心痛は深くなる。
だがどんなに辛くても、涙は流さなかった。
いや、気が張り詰めているせい
か、流せない、と言うのが正しいのか?
翁夫婦は、素性の分からないにもかかわらず優を不憫に思い、暫く家に居ていいと言ってくれ、近くで拾った猫を小寿郎と名付けて飼う事も許してくれた。
そして、何処から来たなどは気を遣ってか、深く聞いて来る事は無かった。
ただ、誰かに問われれば、江戸から来たとだけ言うようにと告げられた。
綺麗な優は何もせずともいいとも言ってくれたが、そう言う事も言ってられず、すぐに優は老夫婦の仕事を手伝うようになった。
だが、それもいつまでの話しか不安にもなってくる。
日をそう待たず、優の存在は、山中に広がる翁夫婦のいる村の人々の知る所となる。
だだどうも青い瞳の所為で避けられて、こっそり物陰から優をひと目見ようと、老若男女が遠くから彼を覗くようになった。
ただの興味本位の者もいれば、優の美貌に惹かれるように来る者もいた。
翁の話しでは、この世界の江戸時代は鎖国が無い。
大きな町に出れば、青やら、黄色やら、様々な瞳の色の異国人が闊歩しているらしい。
それでも、このような山奥の村では珍しく、人々を萎縮させるらしい。
それに、急に伸びた黒髪を一度短くしたいと翁に言ってみたら、折角の美しい髪を切らない方がいいと説得された。
まるで絹の糸ようにサラサラ揺れるそれは、優の美しさを助長していた。
「おかしいな」
林の木々越し、遠くに翁の畑仕事を手伝う優の姿を見て、武士らしきスラリと長身の若い男がその甘い美貌を笑みで崩す。
「旅人の噂では、この村に現れた我らの主は、屈強な大男ではなかったか?」
返事を求め、近くに居た他の同じく長身の三人の男の顔を見た。
「噂とはそんなものだ…」
冷ややかな印象に整った顔の男
も、片方の口の端だけ上げて薄く微笑んだが、黒灰色の目だけは笑っていない。
「誠に、お美しい御方だ、我が主は!」
筋肉隆々の無骨な顔の男は、少し身を乗り出し、興奮の色を隠しもしない。
「はぁ…」
その様子に呆れた溜息を漏らしたら、黒灰色の目の男は、何処か皮肉めいた笑みになる。
「まぁ、あの血が入っている者ならば、美しいのは当然だろうな…」
その物言いに三人の男は、それぞれ冷たい視線を彼に返した。
特にきつく睨んだのは、寡黙気な美貌の、肩にかかる位の黒髪の男だった。
「本当に美しい…そう、思わんか、朝霧殿は?」
黒灰色の目の男のその問いに、黒髪の男、朝霧は、ほんの一瞬更に睨みを強めた。
だが…
「さぁ、どうかな?」
朝霧はそう静かに言い残し、その場を離れ歩いて行った。
あの日、子供を助けた日のほんの数日前、あの懐かしい街は桜が満開だった。
そして、場所は違えど、今この優のいる山の人里も薄い儚い色の花びらで埋め尽くされていた。
こっちは、山桜だが。
翁が用で町へ降り、今日は朝からそれほど仕事もなく、優は桜の咲き乱れる山中を、髪を後ろの上部で束ねて下ろし、覚えたての山菜採りに精をだしていた。
面白いほど良く採れるので、肩に担いだ籠は一杯になり…
きっとお婆さんも喜んでくれるかもと思う。
お婆さんが心配して、余り遠くへ行かないように再三言っていた
が、咲き乱れる花に誘われるように、優はどんどん山奥へ向かう。
そしてやがて、一本の巨大な桜の木に辿り着く。
余りの立派さに惹かれて、ここへ来たのは何回目か。
「凄い、キレイだ…」
無数の花びらが暖かい風に乗っ
て、優の回りを舞い散る。
その中を髪をたおやかになびかせ佇む彼は、まるで他の人間には天女が舞い降りたかの様に見える。
その様子を遠くから、先程の4人が見ていた。
少し、休憩するか。
優はその根本に腰掛け、腰に付けていた竹筒をとって、中の水を飲んだ。
「はぁ、炭酸、飲みたい…後、ハンバーガー食べたい…」
つい思わず弱々しく呟いたのは本音だった。
聞こえるのは、風の音と鳥の声だけ。
急に眠気が襲ってきて、いけないと思いつつも逆らえない。
山には、山賊や流れの盗賊も出
る。
「優は美しいから攫われるよ」
お婆さんの忠告が遠くに思いだされたが、優はそのまま目を閉じ
た。
「こんな所で、何かあったら…」
屈強な男定吉が、優を起こしに木陰から飛び出そうとするのを、横にいた朝霧が腕をとって止めた。
「何故です、何故止めるのですか、貴継(たかつぐ)様?」
朝霧は腕を離さず、一度遠くの優の寝顔を見た。
「しばらく休ませて差し上げろ」
「いや、しかし…」
「私もお前もいるし、近くに西宮と観月(かんげつ)も居る。何かあれば、ここ数日主を襲おうとした何人もの賊を主に内密に殲滅したように、我らが決して容赦しない」
観月は、黒灰色の瞳の男で、西宮は甘い美貌の男の方だ。
朝霧の強い眼差しに、定吉は、心配そうにしながらも思いとどまっ
た。
優はそんな事は夢にも思わず、穏やかな寝息をたてている。
「のどかですねぇ…」
西宮が木陰から微笑んだ。
観月は、静かに近くの桜の木の上に登り、幹に寄りかかり座ったまま散っていく花びらに右手をのばした。
朝霧と定吉はそれぞれ離れて、監視を怠らない。
どれ位眠ったのか?
優は、そっと目覚めた。
何処からか声がする。
優は桜を見上げた。
「あなたは…」
「お前、私の声が聞こえるの
か?」
普通なら、桜が喋るなんて恐怖以外何物でもないが、今は不思議とそう思わない。
その、声変わりはしているがまだ大人になりきる前の若い声に、ざらざらとした木皮を撫でた。
「あなたが、喋っているのです
か?」
少し間が開いたが、桜はゆっくりと、ああ、と答え、不思議そうに尋ねてきた。
「私の声が聞こえるなど、お前、人の子ではないな?」
「え?俺は、人間ですよ。普通の」
「隠しても無駄だ。お前から、匂いがする。禍々しい匂い…だが、それだけでない、一体お前はなんなんだ?」
「なんなんだって、本当に普通の人間で…」
優は幹に手を当てたまま、戸惑った。
「お前、気を付けろよ。魔が近づいてきている匂いがする」
魔が近づいてる?
優は、小首を傾げた。
だが、ふとそのまま何気に正面を見ると、一匹の蝶が、ヒラヒラと優美に舞ってこちらへ向かって来ていた。
見た事もない大きな、銀色に、青い紋様の麗しき姿に、優は思わず立ち上がり、くるりと向きを変え来た方向に又飛んで行ことするその姿を追おうとした。
「馬鹿か!駄目だ!行っては駄目だ!」
桜の木が叫ぶが、優は何故か立ち止まれなかった。
「駄目だ、行っては駄目だ!」
桜が尚もそう必死で呼び掛け、心の中では優自身も分かっていにもかかわらず、身体が言う事を聞かない。
だが、更に深い深い森へ吸い込まれるように数歩ふわふわと歩く
と、突然ぐいっと背後から抱きしめられた。
その両腕は、声にならない驚きと共に、優を力強く引き止めた。
優の華奢な手と違い、大きく筋張った逞しい男の両手が胸の辺りに見える。
ふと、不思議な感情が、優の心に溢れだした。
知ってるようで、知らない手。
この手は、この手は…
優は、思わずその右手に自分のそれを重ねて、後ろを振り返った。
自分より背が高いせいで見上げないといけなかったが、男の瞳と視線が合った。
その色は、深い深い濡れた漆黒。
野生の狼みたいな、スッゴイ…男前っ…
それが優の正直な感想であり、固まったまま、顔を外らす事が出来なかった。
突如、優の脳裏に、明らかに何処か別の場所の桜の木の下、花吹雪の中、今と同じような二人が浮かんだ。
今と同じ様に、背後から、強く強く抱かれている。
違うのは、優が武士の格好をしている事だ。
あれは、俺なのか?
かすかな疑問と、訳の分からない状況に優が言葉を失っていると、
黒い瞳の男朝霧は、優の身体を斜めにして抱き寄せ、長身を屈めて耳元で強く呟いた。
「行ってはいけません」
「どうして?」
優は、朝霧の上衣越しの分厚い胸に顔の半分を押しつけられたま
ま、されるがまま問うた。
「どうして?それは…教えてやろうか?」
蝶が飛んでいった方向から、美しい男の声がした。
優は、思わず声の方を見た。
いつの間にか目の前に、長い長い銀髪を揺らめかせた、青い瞳の美青年が佇んでいた。
まるで、さっきの蝶のよう…
優は、暫く言葉も無く呆然と見詰めた。
「久しいな。ハル…私は、お前に会いたくて、会いたくて…一度死んでも又、地獄の底から還っできたぞ…そして…」
銀髪の青年は、朝霧と、彼と同様に優の近くに出て来ていた、観月と西宮と定吉を見て目を眇め、くくっと笑うと続けた。
「又、相も変わらず忠義なお前の犬共よなぁ…ハル…」
その言葉に朝霧は、優の身体を左腕で抱き込み、犬呼ばわりされた四人は腰の二口の内の一口の刀を抜こうと手を伸ばすが、どれも鞘から抜けない事を確認すると舌打ちをして、仕方ないとばかりにもう一口の方を抜いて構えた。
当の優は、この状況が理解出来ずにだだ呆然としていたが、そんな彼を抱く腕に力を込める朝霧を見て、銀髪の男の柳眉がイライラとしていくのがわかった。
「まさか、私を覚えていないの
か?」
無論、優には覚えが無かった。
だが、あの青い瞳、自分と同じ色のそれには、何故か引っかかるものがあった。
ただ、それだけ…
「ふふっ、ふふふふっ…そうか…」
口元を歪ませて笑うと、銀髪の男は優を睨んだ。
「私を忘れるなど…なら、思いださせるまでよ!」
突然…
銀髪の男が右腕を上げると、何本もの太い蔦が優と朝霧に向かって空をきた。
「うわっ!」
優が叫ぶと、朝霧は彼を肩に担いて走りだした。
「紫煙(しえん)!」
ほぼ同時に観月も叫ぶと、突然どこからか鷹が飛んできて、羽ばたきながら結界を張り、暴れる蔦を食い止めようとした。
ぶつかりあった所が、バチバチと激しい火花を出して光る。
「早く行け!」
観月は、自分はその場に留まり、優と朝霧、西宮、定吉に逃げるよう声を振り絞った。
だが、彼等が走ろうとした方向がいつの間にか霧に包まれていると思ったら、その中から、蠢く人影の様な物が何体もこちらへ向かってゆっくり、身体を不気味に振るわせながらやって来る。
「なに?」
思わず、後ろ向きに担がれていた優が振り返ると、そこに居たの
は、紛れもなく映画で良く見るようなミイラだった。
「馬鹿な…」
優は、脳が現実に追いつかない。
突然、あんなにゆっくりとした動きだったミイラ達が四つん這いになったかと思えば、素早く風を切って優達の前に踊り出て、切り裂いてやるとばかりに長い爪を見せびらかした。
ヒュッと言う音に続き、刃で斬る音が2回した。
優と朝霧を後ろに守り、自分達が盾になった西宮と定吉が、飛びかかって来たミイラをそれぞれが一太刀で切り裂いた。
上下に別れた身体は地面に倒れ、そのまま藻屑となると思いきや、
その断面はすぐ様お互いを引き合い、やがて何もなかったかのようにぴたりと接合した。
そして、そればかりでなく、再び立ち上がりこちらへむかって爪を見せる。
「普通の剣ではやはり駄目だ!」
定吉が叫んだ。
「バカデカイ図体で泣き事か、勝吾(しょうご)!」
西宮が、大きく唸った。
ふと、優が、定吉を朝霧の肩から振り返って見た。
定吉は優と目が合うと、こんな状況なのに強張った表情を引っ込めてニコリとした。
そして、柄を握り直し、前を向いて叫んだ。
「誰が、泣き事など!」
素早く地面を蹴り、干からびた化け物に向かって行き、我武者羅に斬って行く。
「さっ、早く行け!」
優達に近づいて、西宮が促す。
彼に何と言えば言いのか分からない優は、唇を戦慄かせる。
「大丈夫です」
汗に塗れた優しげな顔を優に向け
て、西宮も笑みを浮かべた。
朝霧は、優を担いだまま走りだしたが…
「…!」
優は、思わず、残した彼の名前を呼びそうになった。
喉まで出かかっているのに、分からない、知っているような気がするのに。
西宮も走って、定吉に加勢して斬りまくる。
だがやはり、斬っても斬っても甦り、優達を逃がす時間稼ぎくらいしかできない。
「ちっ!」
観月の舌打ちと同時に、蔦の一本が結界を破り、定吉等の横を素早く通り過ぎ、朝霧の走る足を狙った。
朝霧は、優を抱えているにもかかわらず、さも馴れたような身軽さで緑の先端を刀で斬り落とし前に進む。
だが、続けて侵入した二本の蔦が朝霧の左足と刀を握る右腕を捕え
て、彼は優を肩から下ろすと叫んだ。
「走れ!早く!」
必死の形相に、考える隙も与えられず、優は前を向いて走りだそうとした。
「は!?」
そう思った瞬間、優の身体は無数の蔦に絡まれて、そのまま宙を飛んだ。
「主!」
ほぼ同時に、朝霧ら四人が絶叫した。
だが、それぞれ目の前の化け物をどうにかしなければいけない。
ドシャっと音を立てて、優が雁字搦めの身体を地面に落とされる
と、目の前に、あの銀髪の男が立っていた。
優が身体を強張らせると、男は微笑み少し身体を屈めて、優の顎を美しい手で掬いあげた。
「ハル…」
氷の様に冷たい指先なのに、銀髪の男の声は妙に熱っぽい。
「人違いだ。俺は、ハルじゃな
い!」
人を畏怖させるような男の容姿だったが、優は無性に怒りが込み上げて睨みつけた。
それを見て何が楽しいのか、男が愉快そうに笑うのが更に腹立たしい。
「お前は、ハルだ。私が間違うはずが無い…」
そう言うと、男はぐいっと優に自分の顔を近づけた。
優だけでなく、戦いながら彼の近くに集まって来ていた朝霧達も目を瞠る。
「ハル、お前を食らって、私は元の身体を一瞬で取り戻すぞ」
にっと笑った男の薄い唇の間から、二本の長い牙が瞬時に出た。
そして、爪も獣の様に鋭く伸び、まるで口付けするかの様に更に顔が接近する。
「食われる!」
恐怖で思わず目を瞑った優だったが、鈍い音と共に銀髪の男の顎の手が外れ、その身体が左へ僅かによろけた気配を掴む。
ゆっくりと、恐る恐る瞼を上げるると、稲妻の如く走り来た朝霧
が、銀髪の男の心臓に己の刀を突き刺していた。
西宮、定吉、観月も、朝霧と同じ事を考え傍に来たが、朝霧の方が一瞬速かった。
優は、不思議と血一滴ながれないその光景を、ただ唖然と見上げ
た。
「ふっ…」
銀髪の男は、苦しみを微塵も見せず笑った。
そんな彼を睨んだまま、朝霧は一度も視線を逸らさない。
突然、銀髪の男は、おもむろに自分の胸の刃を素手で握って余裕気に言った。
「こんな物は、私には効かない
ぞ、朝霧…。その腰の、もう一つは使えないのか?貴様の主人がこんな風に呆けているから…」
「くっ…」
茶化すようなもの言いに、益々朝霧の目は、激しい怒りの色を増した。
鋭利な刃を握る手と更に突き刺そうとする力が拮抗していたが、余裕があるのは、明らかに銀髪の男の方だった。
このままでは…
優が深く憂慮した瞬間、彼の身体から激しい閃光が出て、その近くの西宮等や木、あらゆる物を吹き飛ばし、その上化け物をも全て飛ばし消した。
優自身がふっ飛ばされずその場に居られ、落ちてきた木片や大きな石の破片から守られたのは、優より大きい朝霧が覆いかぶさってきて来て抱いてくれたお陰と、もう一つ、何か、何かの力。
今、俺何かした?
突然…
カタカタと優は震えだした。
本当に、自分が何かしたのかさえ分からないのだ。
だが、地面に仰向けで倒れたまま
で、恐る恐る首だけ上げて銀髪の男の居た方をみる。
あの男の姿は、もう無かった。
そして更に視線を移すと安堵する間も無く、優と向かい合う形で優の上にいた朝霧の顔があった。
寡黙そうな青年の額から、何筋もの血が流れていて、ぽたぽたと優の顔に落ちてくる。
それを朝霧は、見た目に似合わず優しく指先で拭い取るが、それは後から後から落ちてくる。
その仕草と感触に、優の背筋がゾワリとした。
血への恐怖と共に、それとは別に違う何かが彼の肌を妖しく粟立たせる。
不謹慎だが、まるで本当にたまにしかしない自慰の時の様な。
「あなたは…」
誰なのか?
でも、ここまで名前がでかかっているかのような不思議な感覚。
そして、鼻を付く、昔から大嫌いで苦手な血の臭いとその色。
腹の底から気持ちが悪い。
そして、天がぐらっと傾ぐ。
優は、そのまま気を失った。
優は翁の家に運ばれたが、丸一日眠ったままだった。
恐怖からの幻聴だろうか?
「又すぐ会える、ハル…」
銀髪のあの男の声が聞こえ、風のような何かにささやかに頬を撫でられた気がした。
そして…
何もかも夢ならいいのに…
そう考えながら目覚めるのは、何回目だろうか?
一番最初に目に入ったのは、傍らで寝ていた小寿郎と座っていた朝霧で、よく見渡すと、西宮、定吉、観月と、翁夫婦、皆心配そうに近くで優を見ていた。
「ケガは?…」
優は第一声、今はきれいになり、艶っぽくかかる前髪の間から見える朝霧の額を見た。
朝霧は、その心配に一度少し目を瞠ったが、すぐに冷静な表情になった。
「私なら、大丈夫です。それよ
り、御気分はいかがですか?」
低く、でも張りのある甘い甘い
声。
聞き覚えのあるような。
「でも、あんなに血が…!」
優が眉間に皺を寄せ声を上げる
と、朝霧は少し、ほんの少し微笑んだ様に見えた。
こんな風に、笑うんだ?
絶対笑わなさそうなのに…
不思議そうに優はそれを見た。
「大丈夫です…。血は出ましたが、傷は大したありません。それよ
り、もう少しゆっくりとお休みください」
「俺も、大丈夫です」
そう言い動き出した優の肩を朝霧は掴んだが、優はそのまま起き上がった。
さっき会ったばかりの青年達に優が戸惑っていると、朝霧も含め四人が、布団の縁沿いに回って優の正面に端座して、いきなり平伏した。
ギョッとする優を尻目に、優から向かって一番左手から順に顔を上げ名を名乗り再び畳に頭をつけ
た。
「観月頼光(よりみつ)にございます」
「西宮雅臣(まさおみ)にございます」
「定吉勝吾にございます」
「朝霧貴継にございます」
四人言い終えると、皆顔を上げて優を見た。
なんの冗談だろうか?と。
優からすれば誰も皆、高貴な武士のようで、年上で、自分のような人間にこんな態度をとっていいように見えない。
だが、まずは助けてもらった礼を言うべきだろう。
優は上布団の上に出て正座して、同じように頭を下げた。
「摩耶優です。助けていただい
て、本当にありがとうございました」
何故か唖然と硬直した青年達だったが、すぐ慌てて、まるで小さい子供の親の様に寄って来たのは西宮だった。
「どうかお顔をあげて。さっ、お身体が冷えます。どうか布団の中に…」
そう言うと西宮は、優の肩を抱いてそっと布団の中に導いた。
その腕は西宮の面差し同様とても優しくて、でも、逞しくて、ふと優が西宮を見ると、目尻を下げて微笑みすぐ横に座った。
言われるがまま落ち着くと、観月が口を開いた。
何故か翁夫婦に、優と話しがしたいから暫くこの家を出るよう告げた。
「もう少し待て。まだ目覚められたばかりだぞ!」
西宮が不服そうな声を上げると、観月は冷たい視線を西宮に向け
た。
「観月…」
朝霧も優を見据えたまま、威圧するような声を出した。
定吉も眉根を寄せ、男四人にピリピリとした空気が流れる。
「本当に、お身体は大丈夫です
か?」
一応、聞いてみてやる…
観月はそう言っている様な感じ
で、表情を変えず優に問うた。
「本当に大丈夫です」
優は、即答した。
「だそうだ…」
そう言うと、観月は夫婦に目配せした。
「え、あの…」
心配気に出て行く夫婦の顔を見ながら優が戸惑うと、観月は事務的な口調で、二人には先程了承を得ていると告げた。
その後ほんの一時、男五人の、気まずい沈黙だけの間が空いた。
だが、それを破ったのは、又観月だった。
「我らは、貴方様をお迎えに参りました」
そう言うと四人の男達は、再び優に向かってひれ伏し顔を上げた。
「迎え…に?」
訝しむ優に、観月が続ける。
「はい、我等は、荒清(あらきよ)神社の遣いの者で、貴方をお迎えに参りました」
「荒清神社?」
「貴方は、ご存知ではないですか?」
「えっと…」
色々思いだしてみたが、優には思い当たるものは無かった。
「荒清神社は、知りません…」
冷静そうな観月の瞳が、動揺したように見開く。
だがそれは、ほんの一瞬だった。
「やはりそうでしたか。貴方は、お小さい頃の記憶、五歳位の記憶は覚えておられますか?」
観月の質問に、優はハッとした。
「五歳位?…俺…俺は…」
初対面の人間に何処まで言うべきか言い淀む。
「俺は?…」
観月が、囁やく様に呟く。
さっきからの厳し目の口調で無
く、僅かに子供に言う様に優しげに聞こえるのは、優の気のせいだろうか。
「記憶が無くて、五歳位までの。その頃、川で溺れたのか記憶を失くして、倒れていた所を知らない人に助けてもらって」
「そうですか…」
そう言うと観月は、深い溜息を着いたが、次には一瞬、沈黙の間が空く。
だが彼は、すぐ思い切ったように告げた。
「貴方は、十三年前に行方不明になった、荒清神社の次男、観月春光(はるみつ)です」
「?」
本当に自分に言っているのだろうか?
優は不思議そうに、黒灰色の瞳を見た。
けれど、
「かんげつ…観月って、確かあなたも、観月じゃ?」
すっと、観月が口角を上げた。
「そうです。私は、観月頼光。荒清神社の長男です。ですから、つまり…貴方の兄です」
「!?」
いきなり迎えに来たとか、どこかの次男だとかも現実味は一切なかったけれど、いかにも無愛想で冷たそうな目の前の男が兄?
優にはこれが一番あり得ない話しだし、付いていけない。
「助けていただいたのはとても有り難いと思っていますが、いきなり現れたあなた達が言った事をすぐ信んじろというのは…第一、俺がその、春光さんだという、何か証拠でもあるんですか?」
優は、なるべく冷静を取り繕っ
た。
「我等が怪しと思うなら、ここの主人にお聞きください。主人は以前荒清の社殿で、私が宮司で主人が参り人として会っていて覚えておりました。そして証拠なら、我等が荒清の巫女が、貴方こそが観月春光だと神託を下しました」
「神託、巫女の神託?まさか、それだけで、俺が春光さんだと?」
「いいえ、それだけではありません」
観月は、優の瞳を凝視した。
「私の弟は、瞳の色が青かった。そう、正に貴方のように…」
更にこれをご覧ください。
そう言い観月は、おもむろに腰から刀を鞘ごと取り、優の前でゆっくりと横にして抜いた。
妖しい、鋭い生身の刀光。
優は、ゾクリと身体を震わせた。
「そ、それは…」
夢で見た、あの輝きと重なる。
「これは、荒清神社の守護刀のひとつ氷野江(ひょうのえ)。長い間誰かに封印されて、どんなに力の強い者が抜こうとしても一切鞘から抜け無かった。ですが…」
観月は、目を眇めた。
「あの時、貴方が身体から光を放った時、封印が解けた。私の持っている物だけではありません。他の三人の持つ守護刀もです」
「そ、それは、たまたま偶然で
は?」
思わずそれに手を伸ばしたい衝動を、優は堪える。
そして、じわじわと体温が上がってくる嫌な感じが始まる。
「ならば、あの、貴方の出した
光、あれはなんだとおっしゃいますか?」
「あれは…」
出来るなら、夢であって欲しかったのに…
「それに、あの、あの男は、貴方が観月春光だから狙ってきたのです」
観月の言葉に、朝霧等三人の表情が歪む。
ハル…
あの男は、優をそう呼んだ。
蜜の様に甘く、氷の様に冷たく。
まるで誘惑するかのように。
思い出すと、急に汗が吹き出て顔に一筋流れる。
「このままここに居るのは、危険なのです。貴方も、そして、貴方だけでは無い。翁夫婦も…」
「辞めろ、観月!」
近くで見ていた西宮が、優の変化に声を上げると優の肩を抱いた。
キッと観月は西宮を睨むと、冷ややかに言った。
「西宮、今はお前が兄弟では無いぞ。今の春光の兄は、私だ!」
優しげだった西宮の目がキツくなり、観月を睨み返す。
普段の優なら、今は西宮が兄弟でなく、観月が兄と言う謎の言葉に反応したのだが、意識がボンヤリし始めた彼は、そこを聞き逃し
た。
「お爺さん達も危ない?」
優は、眉根を寄せた。
「辞めろ、観月、今日はもうい
い!」
朝霧が、観月の肩をぐっと掴ん
だ。
お互い膝立ちで睨み合い、観月も朝霧の胸ぐらを掴む。
「ちょっ、止めてください!」
身体の大きな男二人が、今にも殴り合いを始めそうな雰囲気に優が止めに入ったが、彼等はそのまま優を一瞥したが引こうとしない。
優が戸惑うと、定吉が間に入っ
た。
朝霧と観月を引き離すと、溜息をついて観月の顔を見た。
「主を早く連れ帰りたいお気持ちは分かりますが、最近、いつもの貴方らしくありませんぞ。今日はもう辞めましょう、主も辛そうになさっている」
そう言うと、見た目では一番暴れそうな大男は、ニコリとして優の傍らに片膝を付いて座った。
「お爺さん達も危ないなら、外になんか出したら…」
ごく自然に、いつもそうするかのように、優は定吉の袂を握って彼に訴えた。
「ご安心下さい。ちゃんと近所の家に二人は頼んでありますし、観月様の頼りになる護衛もついてます」
「あの男は…誰ですか?俺の事、ハルって呼んでました」
優が袂を握る力を強めると、定吉は言いにくそうに下を向き、他の三人も視線を落とした。
「あの男、凄く、凄く、血の臭いがした」
思い出した途端に酷い寒気と目眩がして、優はそのまま定吉の胸の中に倒れて又気を失った。
又、剣が五口、地面に刺さっている。
その一口は、さっき見た観月の氷野江だと確信できる。
そして真ん中の、一段と美しくしい刀光。
あれは、あれは、自分を呼んでる。
優は手を伸ばしたが、それは突然、幻のように消えた。
ハっとして、優は布団の上で目が覚めた。
屋内は行灯の光で明るかったが、もうかなり遅い時間なのが分かる。
「御気分はどうですか?」
上から西宮が心配そうに、横たわっている優を見下ろしていた。
「俺、どうしたんだろう?頭を打ったりした訳じゃないのに」
「お疲れになっているのです…」
そう言って西宮は、苦笑して僅かに目尻を下げた。
彼の補助を受けながら、優は身体をゆっくりと起こした。
すると目の前に、朝霧と観月も座ってこちらを不安気に見ていた。
二人は何か同時に喋ろうとして唇を動かしかけたが、その時、定吉の明るい大きな声がした。
「お目覚めですか?どうです、お腹は減っておられませんか?」
生ける金剛力士の像の様な男は、何処から持って来たのか白の割烹着を着けて、菜箸を持っていた。
ギュルギュルー…
絶妙な間合いで優の腹が鳴った。
「あっ、えっ!」
なんでこのタイミング?
優は恥ずかしくて、真っ赤になって思わず下を向き、朝霧達も目を丸くした。
「さあ、飯にしましょう。何も恥ずかしくありませんぞ。もう長い間何も食べておられなかったんですから」
嬉しそうに、定吉が片目を閉じて見せた。
朝霧達も手伝い、布団の中で食事する優を囲み、五人分の配膳は手際良くすんだ。
「まさか、これ、全部定吉さんが?」
優は思わず驚くと、定吉が破顔した。
膳には、艷やかな米の炊き込みご飯や具沢山の煮物、かきたま汁や肉まであった。
翁夫婦の所の普段の食事も、白米や野菜や肉が沢山出たので、山奥の村にしては恵まれていると思ったがまた格別だった。
優が特に肉に目を奪われていると、膳前に座る定吉がおもむろに強い口調と共に彼を見た。
「どうか、勝吾とお呼び捨てください」
「それは、そんな事…」
優が戸惑うと、定吉は苦笑しながら小さい溜息をついた。
「これよりは、そうお呼び下さい。それより、冷めてしまいますよ。どうかお召し上がりください」
「あの、お爺さん達の食事は…」
自分だけが、こんな待遇を受けられない。
そう思い優が問いかけると、定吉が微笑んだ。
「大丈夫です。沢山作りましたから、夫婦にも、預かってもらっている家の家族にも、こちらと同じ食事を届けております。たいそう喜んでおりました。まだ沢山ありますから、主もお代わりなさってください。主は、食が細そうですから、沢山食べなくてわ」
主とは、自分の事なのだろうが…
どうも…
未だ納得できていないながらも、
優は一応頷いた。
まず、素朴に焼いてタレをかけた肉から食べた。
この世界の江戸時代は、牛肉は解禁されていた。
「お口に合いますか?」
まるで犬が褒めてもらうのを待っているかのような目をしている定吉がなんだか可愛くて、優は呟いた。
「美味しい…」
いや、実際、本当に美味しかったのだ。
良かったと言い喜ぶ定吉を見て、
西宮もくすりとして言った。
「勝吾はこんな見た目ですが、本当に料理が上手いですから」
「へぇ…」
納得しながら優が前を見ると、にこやかな三人と違い、ただ黙々と食事する朝霧と観月が居た。
さっきのいざこざを優が思いだすと、定吉はそれを察したようだった。
「ご心配なさらないでください、主。あんな風に掴み合うのは初めて見ましたが、お二人は幼馴染で仲がよろしいですから、何かあってもいつも知らぬ間に元に戻りますから」
「定吉…」
観月が低い声で、要らぬ事を言うなというように釘を刺した。
「幼馴染…」
優は、くすっと自然に笑みを零してしまった。
犬猿のなんちゃらみたいなのに以外で可愛いなと思いつつ、定吉が余りに気軽に言うから、安心していい気になったから。
「へ?」
優は間抜けな声を出した。
いつの間にか、彼の回りは箸を止め、何故か彼の顔を見詰めていた
から。
「あっ、ごめんなさい。なんだか、安心して」
優は皆を見渡し、最後に朝霧と目が合うと、照れを誤魔化しながら急いで肉を口に入れた。
なんだか変な空気になったが、久々に意識せず笑ったかもしれない。
「どうか、共に荒清社へ行き、話しだけは聞いていただきたい。その後どうするかの判断は、主に委ねますので…」
夜の床に付く前、観月は畳に三指を立てて優に懇願した。
主、主と言われるのもしんどいが、厠へ行くのも、風呂に入るのも護衛だと言われて、四人の男が交代で付いて来て外で待つ。
無論、眠る時も寝ずの番が付いた。
優はふっと夜中に目が覚め、小の
方を催していた。
左横になったまま、ゆっくり寝起きの頭を慣らそうと暫くじっとしようとすると、すぐ近くに、刀を脇に挟み持ち壁にもたれかかっている朝霧が見えた。
いつの間にか、西宮と交代していたようだ。
彼と目が完全に合っているはずなのだが、優を一心に見詰めるだけで何の反応もない。
こんな闇の中でも、遠くに用心で置いてある灯りで朝霧の瞳はよく見えてとても綺麗で、優も思わず無言で見てしまう。
「どうしました?」
やはり見えていたのか、朝霧が小声で聞いて来た。
なんとなく、多人数の時より声が優しい。
「か、厠。大丈夫、一人で行けます」
優は、上体を起こした。
「一人は駄目です。こんな時間、何がでて来るか分かりませんよ」
朝霧が、目を眇めて言った。
この翁の家に世話になり始めて、ただでさえ夜に外の厠へ行くのは不気味で我慢して行っていたの
に。
優は銀髪の男より、現代で友達と見たオカルト映画の所為でとても苦手になった霊的なものを思いだし、思わずうっとなって項垂れて言った。
「一緒に、お願いします」
眠る他の三人を起こさぬよう外に出て、提灯の灯りだけを頼りに厠を後にすると、ニャーと小寿郎が草陰から出て来て、優の足元に戯れついたので抱き上げる。
「小寿郎、お帰り」
そう言って頭を撫でてやると、朝霧が、一瞬驚いた顔をしてこちらを見た。
だがその後、優の後に同じ様に彼の腕の中の小寿郎の頭を撫でて聞いて来た。
「貴方が、名前を付けたのですか?」
「はい、小さい幸せって感じの猫でしょ?」
それを聞いて朝霧が、又ピクリと眉を動かした。
そして、いつもより優しげな声で尋ねて来た。
「では、大きい幸せは…誰です
か?」
「え?」
優が困惑すると、朝霧はいいえ、何でもありませんと呟き、その後も撫で続けた。
「あの、猫、好きですか?」
会話の続きが思い浮かばず、思わず優が朝霧に尋ねたが、余りに下らない事を聞いてしまったかと焦ってしまう。
「嫌いではありません。昔、観月の家でも、同じ名前の猫を飼ってました。私もよく相手をしましたが、名付けた本人が行方不明になって、ほぼ同時に、関係あるのか無いのか、猫は亡くなりました」
行方不明とは、春光の事だろうか?
朝霧と観月が幼馴染なら、春光ともそうなのだろうか?
優が聞いていいのか迷いながら、朝霧と目が合った。
すると突然、この前自分の見た幻影を思い出してしまった。
桜の木の下、朝霧に似た男に背後から抱かれる武士姿の自分を…
優は、恥ずかしくなる自分を誤魔化す為に下を向く。
「主?」
呼んだその朝霧の声は、ずんと優の腰に来るように艶が有った。
身体が熱くなるようで、優は声が裏返るのを必死で抑えた。
「い、いえ、なんでもありませ
ん…」
いつの間にか朝霧の白い毛を撫でる手が降りて来て、優の、小寿郎を持つそれに徐々に近づいて来
た。
軽く指先が触れかけた時、風が強く吹き、家がカタカタ音を立て
て、そこに無いはずの桜の花びらが数枚落ちて来た。
妖しい気配に朝霧は、腰の鞘に手をかけた。
「違う、彼は危ない者じゃない…」
優は、朝霧の袂を引っ張り止め
た。
それでも朝霧の右腕が、しっかりと優を抱いた。
じっと目を凝らして見ると、優のすぐ近くに、紺の着流しを着た華奢な男が立っていた。
金色の髪は腰まで長く、身長は優より同じか少し低い位で、まだ成長途中を感じさせた。
もしかしたら、年齢はかなり近いが下なのかもしれない。
優にはすぐ分かった。
あの銀髪の男同様、人間では無
い。
だがアレのように、血の臭いも禍
々しさも感じ無い。
ただ、顔は、目と口と鼻の部分だけ空いた白い面で覆っていた。
バタバタと音を立てて、音に反応して観月達三人もこちらへ出て来た。
「大丈夫。あの人は、敵じゃ無
い」
優は、防衛態勢の三人を押し止
め、面の男を振り返った。
「行ってしまうのだな…」
被り物をしていても、その綺麗な声に曇りがない。
言われた優が返事に困っている
と、彼はくすっと笑った。
「もう心の中では、その者達と行くとお前は決めている。だから、心の中で、私に別れを告げたのだろう?」
朝霧らが驚いて一瞬優を見ると、
一層西宮が歓喜して、優の右腕に手を置いて顔を覗き込んで来た。
「本当ですか?主!」
「えっ!その、なんと言うか、行かざるをえないというか…」
優は、まだ気持ちが整理できていない。
だが…
ハル…
あの男の冷たい指と声が、生々しく思いだされて悪寒がした。
このまま自分が此処に居たら、翁達に危害が必ず及ぶ。
よく分からないが、何故かそれだけは確信できる。
でも、だからと言って、自分はどうして朝霧達と行こうとしているのか?
答えが分からず視線を宙に彷徨わせた。
「ならば、気が変わらぬ内に、出立の用意だ」
観月が静かに言うと、優は慌て
た。
「そ、そんな、もう?お爺さん達にお別れとお礼位、ちゃんとしたいんです」
「無論、それ位、此方もその心づもりだ。用意だ、出立の…」
観月のいつも厳しい目元がフワリと、少し緩んだ気が優にはした。
「この前は、ありがとう。俺が変な光を出した時、俺が吹き飛ばなかったのは、朝霧さんが守ってくれたお陰もあるけど、貴方も守ってくれてましたよね」
再び優は振り返り、面の男を見
た。
「すまなかった。もっと守ってやるつもりが、侮ってあいつに先を取られ、動けなくされた。最後にあれ位しかしてやれなかった」
寂し気な面の男の声に、優は首を振った。
「本当に、助かったんです。ありがとうございました」
「あの男は、又、必ずお前の所に来る。そんな気がする。それに、実体の無い、幻の様な状態であれだけの力を遣う。並大抵では無
い」
「えっ?あれは幻?」
「知らなかったのか?あれは幻
影。何故、本体を出さないかは分からないが…」
又、すぐ会える、ハル…
幻聴でなかった。
なんとなく分かっていた事だったが、やっぱりかと優は、鼻で溜息を付いた。
これからどうなるなんて、考えもつかない。
でも、ここ何回も、あの桜の大木には癒やされてきた。
本当に…
「失礼だったらごめんなさい。もし良ければ、最後に、最後に面の下の顔、見せてくれませんか?もしかして、俺と年が同じ位か
も?」
優の願い事に、男は暫く黙り込んだ。
だがやがて、少し戸惑ったように口を開いた。
「我等一族の掟で、素顔は、親兄弟と、恋をし、心から愛した者にしか見せぬ決まりだ…」
「そうですか、桜の精らしい綺麗な掟ですね。無理な事聞いてすいませんでした」
優は、優しく微笑んだ。
「それに、言っておくが、私はこう見えて八十八年生きている。ガキのお前と一緒にするな」
男は腕組みし、つんつんとした態度で言ったが、拗ねている感じで優には可愛いくさえ聞こえてしまい、思わず謝罪に笑みが浮かん
だ。
「それは、ごめんなさい」
くすっと、男が鼻で笑った。
「最後と言ったが、まるでもう、会えぬような言い様だな…」
そう言って面の男は、桜の花風の中に消えた。
本当にありがとう。
別れを言いに来てくれて。
優は、そっと心の中で呟いた。
「さぁ、もう少し眠ってくださ
い」
朝霧が、抱いていた優の肩を優しく撫でた。
たまにこの男のする仕草が、いつもの仏頂面と落差があって優を戸惑わせる。
「あの、銀髪の男は、誰です?
どうして俺を…」
優の問いに、朝霧がらしくなく躊躇していると、観月の声がした。
「一緒に荒清社へ帰ったら、全て話します。取り敢えず、話しだけ聞いてください」
この、優を弟と言うのに、終始敬語な観月の事も引っかかっていたが、この強引な男は、日が登れば即旅立つ用意を始めるだろう。
優は黙って、地面の残された花びらを見た。
予想通り、観月は、昼前には出立すると決めた。
家に戻って来た翁夫婦は、せめて一晩優と過ごしたいと懇願した
が、観月は無表情で切り捨てた。
そして、優の居る前で夫婦に小判を大量に出し、これで今まで世話になった事は不問にするよう小刀を置き、誓約書に血判を迫った。
「血判?」
優が観月のしれっとした横顔を見て驚いていると、夫婦はハラハラと泣き出した。
「これは、受けとれません。儂らは、これをいただかんでも、坊と暮らせて本当に幸せじゃった。ずっと欲しかった本当の息子が出来たようで」
「そう言う訳にはいかぬ。けじめと思うて受け取れ」
観月は、眉一つ動かさない。
「あの…観月さん!」
優も、間に割って入ろうとした。
だが、観月は、チラッとだけ優を見ると又前を向き、冷たく言っ
た。
「主…これは、翁夫婦の問題で
す…」
ぐさっと心にきた、優の表情が歪む。
すると、朝霧と西宮が厳しい表情で何か観月に言おうとして、定吉に止められた。
結局、翁夫婦は受け取らず、血判も無くなり、定吉が作った朝ご飯を優の顔を見ながら一緒に食べてすぐの別れとなった。
いよいよ家を後にする時、優は本当に泣きそうだった。
だが、冷血漢で強引な観月の前で泣くのがしゃくで、耐えて礼を言うと翁夫婦を抱き締めた。
観月家のご子息がこのような事
と、夫婦は驚いたが、精一杯腕に力を込めた。
又、必ず、必ず来ると約束して。
ただ、優が猫を連れて行きたいと観月に言うと、彼は暫く無表情で優の顔を見て黙り込んでいた。
てっきり置いて行けと言われるばかりを予想してどう言い返すか考えていたが、好きにしろと言われて拍子抜けした。
しかし、どう言う心境の変化か、さっきから彼の優への言葉遣いが敬語で無くなっていた。
馬かぁ…乗れるかなぁ?
優は、乗馬など経験がなかった。
車や電車が無いので当然と言えばそうだが。
移動に4匹用意されていたそれを見て、優は小さく溜息を付いた。
すでに、見栄えの良い小紋をまるで七五三の子供の様に着せられ、髪を束ねて下ろしていたが、ふっと頭に笠を観月に被せられた。
「お前は、目立つ…」
そう言うと観月は、優の腕を強引に引っ張った。
「ん?」
「お前は、私と乗るんだ」
西宮か定吉なら、まだ気が楽なような気がしたが、
どうしよう…
優は、思わず戸惑わずにいられなかった。
「小寿郎は、私が」
朝霧が、相変わらず無表情だが、優の持っていた猫の入った藤の籠を預かってくれた。
優が馬を見て少し考えて居ると、
「何をしてる、乗れんのか?」
すでに馬上の観月が、冷ややかに言った。
「乗った事、無いですから…」
「さあ…」
観月が、手を取れと優に伸ばし
た。
言われた通り馬のたてがみを持ち鐙(あぶみ)に左足を乗せ、強い男の力を借りて一気に上がる。
優は鞍の有る前方に乗った。
観月は、馴れた感じで後ろの何も無い素の馬肌に跨り、前方の優の腰を、大切そうに抱きながら器用に手綱を握った。
優は、観月の抱いてくる腕の強さに戸惑った。
「行くぞ!」
観月の合図で、馬が駆け出す。
「うおっ」
優が馬の速さに驚くと、喋ると舌を噛むと背後から嗜められた。
朝霧、西宮、定吉と、3頭の馬が続く。
ふと
優が振り返ると、別れの悲しみには似合わない明るい光陽の中、翁達はいつまでも見送り続けてい
た。
優には、道中見る物が全て新鮮であり、歴史の教科書でしか見なかった江戸時代のような世界は何処か懐かしくも見えた。
不馴れな馬上だったが、西宮と定吉が体を常に気にしてくれていた上に、以外と朝霧と観月も愛想は相変わらず無いが、よく観察すると色々と目配せしてくれているのが分かり、体調を崩す事は無かった。
優は、ふと、時折気づけば朝霧を特に気にしている自分に気づいた。
そして、何故彼をよく意識するか優は考えてみた。
朝霧の、男らしい体躯と顔、そして立ち振る舞い。
身体も華奢で女顔、馬も乗りこなせなければ、スポーツもしない武道の覚えも無い自分。
他の三人も男前で武芸に長けていそうだが、自分にとって親しみ易い、そして距離の近い西宮や定吉、貴族然として余りに遠すぎる所に居る観月に比べ、朝霧は、優自身の男としてのコンプレックスを刺激するのだと思った。
比較して、どうしても自分が恥ずかしくなるんだよな。だから、すぐ赤くなったり、動揺するんだ、きっと…
朝霧と目が合いそうになると、その前に外らす。
そんな事を繰り返す。
だが、一つ気になったのは、朝霧と観月の間に、寒々しい空気が流れている事だった。
二人は一切目を合わさず、必要な事以外会話も無い。
きっと、自分の事で揉めた事が尾を引いているのだと、優は苦々しく思うが、二人に何を言えばいいかが分からなかった。
一晩旅籠に泊まったが、他は休憩以外馬を駆け、翁の家を出た次の日の昼過ぎには無事荒清神社のある町に入った。
長く賑やかな参道は、参拝者や町衆の安全の為、人を背に馬を歩かせる決まりがあった。
道の両方には、間隔を開けて和風の装飾をしたガス灯の様な物が幾つも建っていて、優が観月に尋ねると、この世界ではすでに力のある家や地域には、西洋から入ったガス灯が使われていると言う。
「おお、観月様じゃ!」
「朝霧様のお通りじゃ!」
「西宮様と、定吉様も居られるぞ!」
時折、参道の土産物屋に働く人々が口にし、お帰りなさいませと四人に声を掛ける。
四人は表情を崩す事無く、軽く頷いたりしながらそれに答えたりした。
「あの、観月様の前に居るのはどなただろう?」
優の耳に、何回かそんな声が入る。
彼が少し回りを見ようと笠を上げると、観月に止められた。
「笠を上げるな、出来るだけ顔を見られるな」
もう、何度目の注意だろうか?
すると、ヒソヒソと、衆人の声が優の耳に入った。
「青い目だ、青い目をしている」
すっかり忘れていた事を思い出し、優は目深にそれを被り直した。
翁が言った通り、旅の途中やこの町も、人の集まる所には様々な瞳の色の異国人が居た。
だが、それでも少数派の優の瞳は異質なのだ。
観月は、自分の目を余り良く思っていないのではないか?
優は、注意される理由がそこではないかと秘かに思う。
ただひたすらまっすぐで大きな道に、沢山の人や馬が行き交う。
その中に、優は強い視線を感じて
思わず前を見た。
あまり見るのも変な感じがしてすぐ視線を外したが、鮮やかな茜の着物を着た美しい少女が、彼を一心に見ている気がした。
観月の馬が通り過ぎると、少女は次に西宮をじっと見た。
彼はそれにすぐ気付く。
視線が合うと、彼女は頬を薄っすら染め笑みが零れかけた。
だが、西宮が表情も固くすぐ前を向くと、彼女は悲し気に後ろを向き、付き人の男とその場を走り去った。
優が荒清神社に到着すると、その敷地に入った瞬間から、その余りに清らかな気が、ここが俗世界と完全に分かたれていると感じさせた。
なだらかで上げ下げの余り無い広大な土地に巨大で豪華な社殿と、敷地に流れる澄んだ長い川と周りを囲む深い森。
この辺りも、現代の東京の地図に合わせると都心に近い。
現代でこれだけの土地を持てるというのは限られてくるだろう。
観月達は、境内にいる参拝者を避け、門番の守る関係者しか入れない裏門を通り奥へ進む。
人々のざわめきはやがてすぐ消え、馬の歩く音と風が揺らす木々の音、鳥の鳴き声だけになった。
やがて大きな舎殿の前に、沢山の古式ゆかしい装束姿の神職が左右に別れ、道側を向き立っていた。
玄関に到着し、先に降りた観月に続いて降りようとした優は、彼に下から抱き上げられて降ろされて、恥ずかしさにアタフタした。
観月や朝霧達とは、少ししか年が違わないと思うが、彼等の逞しさと比べると、まるで小さい子供扱いに見えたからだ。
そんな優を尻目に、神職達は静かに頭を下げた。
ただならぬ雰囲気に優が引いていると、右の一番先頭にいた神職が声を発した。
「お帰りなさいませ、頼光様、そして、春光様…」
人当たりの良さそうな青年だった。
「入るぞ」
草履を脱ぎ観月は、優の手を取りグイグイと舎殿の奥へ入って行く。
そして朝霧達も続く。
何処までも続く長い廊下には紅い上質な絨毯が絶える事無く敷かれ、両脇には、白い上衣に朱の袴の若い巫女達が何人も平伏していた。
その様子は圧巻で、優はただ目を丸くして引っ張られて行く。
暫く歩き、建物と建物を結んでいる廊下を渡ると、ここからが観月家の私邸になると、主の観月自身に教えられる。
しかし幾つ部屋があるんだろうと考ながら更に更に行くと、突然奥まった所の襖の前で止まる。
「入るぞ!」
観月がさっと開け放つと、目の前には布団に横になる老女と、その横に美しい巫女、彼女の横にも幼いおかっぱの女の子が居た。
「お帰りなさいませ」
そう巫女が言うと彼女と幼女は、姿勢も美しく頭を下げた。
巫女のとても冷静そうな美貌と発声は、どことなく観月に似ている。
「待っていた主を連れて帰ったぞ」
観月も布団の傍らに胡座をかくと、目で優にも座るよう合図した。
朝霧達は、入口近くの襖寄りに正座した。
「この日を、今か今かとお待ちしておりました。春光様」
仰向けで目を閉じていた老巫女は、首を右に倒し瞼を上げてゆっくり優の方を見た。
「横になっているこの者が、お前が春光だと予言した巫女、尋女(たずめ)だ」
観月が静かに言った。
優は予言者と会いはしたが、体調が悪いと言う事で、詳しくは後日と言う事になった。
一緒に居た巫女は小夜と言い、観月の遠縁の女性らしく、彼より一つ年下で、横に居た幼女の千夏は、彼女の年の離れた妹らしく、訳あって二人で荒清社に世話になっているらしい。
「春光さんも、お帰りなさいませ」
尋女の紹介後、小夜はそう言って優に色っぽく微笑んだ。
ずっと誰とも視線を合わせず頼りな気に俯いていた千夏は、観月から口が聞けないと教えられた。
舎殿の奥、観月家の私的な場所を、夕食までの間優は観月達に案内された。
特別用がない限り沢山いる神職の出入りもほぼ無く、あれだけ居る巫女もほぼ小夜だけが出入りし、彼女と他少人数の中年の使用人だけが観月と優、千夏、尋女、そして、同居する朝霧達三人の世話をするらしく、その空間は、ひたすらただっ広く怖い位静かだった
が、ただ時折、邪悪では無いが、何か得体の知れない何かの気配を幾つも優は感じ取る。
小さい子供じゃあるまいしと、怖がっている自分を叱咤して、気の所為だと誤魔化す。
夕闇が当たりを覆い、神社や舎殿の敷地や軒に灯篭の灯りが付くと、観月家の私的空間は増々空気が妖しく静まり返る。
だが、よほど観月家は力が有るのか、舎殿内にはガス灯も所々設置されいた。
上品な出汁の香りなどが漂い、優が観月家で初めての夕食を摂る時間になった。
上座の中央に観月が座り、その左に優が座り、下座の右側に朝霧、西宮、定吉と座した。
まず中年の女性が膳を観月に運んで、小夜が優のものを運んだ。
優の近くに小夜が寄ると、ふわっと何かの甘い妖しい香りがして、優は彼女を見た。
近くで見ると、増々、顔の作りが観月に似ているなと、彼と同じ綺麗な黒灰色の瞳といい、自分より、彼女の方がよっぽど兄妹と言った方がいい位だと思った。
「どうかされました?」
ボンヤリと彼女を見ていたら、蠱惑的な微笑みを返された。
「あっ、いえ、なんでも…」
少し照れて視線を下にすると、小夜の上衣の合わせ目がかなり空いていて、そこからかなり豊満な胸の谷間が覗いているのが見えた。
思わず真っ赤になって優が視線を逸らせると、観月が咳払いした。
「あらっ、申し訳ありません」
そう言うと小夜は、ニコリとして両裾を合わせ下座へ下がり、自分の膳の前に座った。
「では、どうぞお召しあがりくださいませ」
廊下に下がっていた女性が、平伏した後襖を閉めた。
「あの…」
優が、観月を見た。
「何だ?」
一旦取った箸を、観月は膳に戻した。
「あの、千夏ちゃんは?」
その問いに、少し変な間が空いたが、観月は小さく溜息を付いた後言った。
「あれは色々難しくてな、食べる日もあれば、全く受け付けない日もある」
「食べ無いと言ったら、姉の私の言う事も、もう誰の言う事も聞き入れません。今日はもう床に入りました」
困惑の表情で、小夜が続けた。
「そうなんですか…」
優は、感情の一切感じ取れない、俯くさっきの千夏を思い出した。
だだ会話無く、箸と陶器の音だけがする。
相変わらず、朝霧と観月は互いに牽制し合っているし、此方へ来る前は、西宮と定吉がもっと近くで食事して話しも弾んだが、この部屋は広過ぎて優は二人との距離を感じる上に、観月と朝霧には、初めて会った時からずっと話し辛い変な隔たりがある。
向こうの両親とは、小さいテーブルを囲み、翁夫婦とも囲炉裏を囲んでいつも楽しく食事をしたのを、今更ながらとても有り難い事だったんだと思う。
酷く懐かしくて、懐かしくてたまらなくなった。
食事が終わり、風呂の用意がされ、又長い廊下を観月に案内される。
行く途中にそれぞれの部屋がある、朝霧、西宮、定吉も、各々のそれに一度戻る為に優の後ろを付いて行く。
ふと優が前を見ると、白い薄衣一枚の小夜が着換えたらしく、自分の部屋から出て来た。
彼女は優を見ると、又、艷やかに微笑んで言った。
「春光さん、さぞお疲れでしょう。お風呂にご一緒し、お背中をお流しいたします」
「え!?」
観月以外の、優達四人の男の困惑を含んだ声が重なった。
優は、身体の線のハッキリ出ている薄着の彼女を見ると目を逸し、慌てて右手を前に思い切りだし振った。
「あっ、いえ、結構です。」
「なら、私がお背中を流しましょう!」
背後から優の両肩を掴み、定吉が
ニコリとして言って来た。
「いや、いいですって。風呂位一人で入らせて下さい」
優は苦笑いして定吉を見ると、急いで何処に風呂が有るのか分からないのに、前へ思い切り走り出した。
「お、お待ちください!主!」
定吉は、楽し気に後を走る。
「主!」
西宮も後を追い駆け出した。
「まぁ、以外と…お可愛らしい事。まるで、そう、生娘の様な…」
優の後ろ姿を見送り言いながら、小夜がさも楽しそうにふふっと笑った。
「小夜…」
じっと見ていた観月が、鋭く目を眇めて彼女を見た。
「お前、春光を試しているつもりか?」
よく似た血の、よく似た黒灰色の瞳同士が互いを見た。
「試す?まさか…」
「もし、お前が春光を試すような事をするなら、私にも考えがある…」
「考え過ぎでございますよ…」
妖艶にくすっと笑い、小夜は自室に戻った。
観月も、その後ろで全てを見ていた朝霧も、険しい目付きで暫く無言でその場に立ち、彼女の部屋の襖を見ていた。
「ル…、…ル」
遠くの声が、どんどん近くなる。
「いつまで寝てるつもりだ!春光、朝だ!」
上質の柔らかい布団で眠っていた優が瞼を上げると、腕を組んで仁王立ちし彼を上から見下ろす、白い上衣と、白地に白の八藤丸(やつふじのまる)の紋様の入った袴姿の観月が居た。
「俺は、まだ春光さんだと決まった訳じゃないですよ」
仰向けのまま、まだ半分寝呆けた状態で優が答えると、向こうは目を眇めた。
「お前は、春光だ」
そう一言言い、観月は背をむけた。
「早く起きろ。朝餉に遅れるぞ」
長身の男は、振り返らず言うと足音を一つ立てず静かに出て行っ
た。
「さあ、お着替え下さい」
上半身をゆっくり起こすと、定吉が近くに正座していた。
昨晩、背中を流すと、じゃれつく犬の様にしつこかったこの男を留めて一人で風呂に入ったが、優の身の回りの世話は、彼の仕事の一つらしい。
優の警護という仕事もあり、夜も隣りの部屋に西宮らと交代で眠るらしいが、昨日は朝霧と観月が当番だった。
「主、少しその…お口に涎が…」
ごつごつした男の指が、優の口元を拭う。
あの、隙の無い観月にもだらしない寝姿を見られたろだうか?
優が赤くなって照れると、定吉は優しく微笑んだ。
手早く着換え、顔を洗いに定吉と井戸へ向かうと、朝の剣術稽古終わりで身体の汗を手拭いで拭く、朝霧と西宮に会った。
上半身をはだけていたので、二人の隆々とした鍛えられた筋肉が生で見えた。
細いだけの自分のものとのあまりの違いに優はショックを受けたと同時に、暫く凝視してしまう。
筋肉割れてる…
やっぱり、武士はかなり鍛えてるんだなぁ…
「主?」
朝霧が何故か優し気に声をかけて来た気がして、優は慌てて声が上擦る。
「お、おはようございます」
やはり朝霧に対しては、何かもやもやとしてしまう。
おまけに、自分以外は皆朝早くから活動しているというのにいたたまれない。
身だしなみを整え、四人で食事に向かう。
廊下を進んでいると、少し前方の曲がり角から小寿郎が出て来た。
優よりも早くこの場所に馴れたかの様にもうすでに自由気ままにしているが、いつもの様に優の足元に寄って来て、翁の所に居た時より激しく頭を擦り付けてきた。
「小寿郎もおはよう」
優も抱き上げて頬ずりすると、ニャーと甘えた声がした。
「千夏さん…」
西宮の声がしてみんな又前を見ると、昨日会ったおかっぱの幼女が、角から身体の左側半分を出しこちらを見ていた。
「あっ、千夏ちゃん、おはよう」
優が優しい口調で笑いかけたが、彼女は無反応でただこちらを見て来る。
少し戸惑うが、優は彼女の視線の先に気づく。
「ああ、小寿郎?千夏ちゃん、一緒に遊んでやってくれる?」
それでも千夏は無表情だったが、やがておずおずと出て来て、優の目の前に来た。
「ち、千夏さんが!」
定吉が驚いた声を出したので、優が振り返る。
何故か、西宮も目を丸くしていた。
「しっ」
朝霧が、定吉を嗜めるようにした。
背後の訳は分からないが、優は千夏に合わせて膝を降り、同じ目線に合わせた。
「撫でたいの?」
表情はごっそり抜け落ちているが、優は彼女の瞳の奥に何かを感じる。
「怖くないよ…小寿郎はとても優しいから、ほら、撫でてご覧」
優は千夏の右手をとって、白いモフモフした頭に導いた。
最初躊躇っていたが、やがて小さい小さい手が優しく撫で始めた。
白猫は、ニャーと甘えた声を出した。
「なっ、怖くないだろ?」
相変わらず一切反応は無いが、優は満足気に笑った。
「さっ、千夏ちゃん、飯、いや、ご飯行こう、朝ご飯!」
優は小寿郎を下ろした代わりに、ばっと一気に千夏を抱き上げた。
いくら子供だと言っても、まるで空気のように軽い。
「わっ、主!」
さっきから定吉の様子がおかしくて、優は又後ろを見た。
「えっ?どうかしました?」
何だかみんな妙な感じだ。
「行きましょうか、主」
朝霧が静かに促した。
「あぁ、はい…」
背後では、西宮と定吉がまだ不思議そうな顔をしていた。
「ち、千夏!」
抱きかかえたまま優が部屋へ入ると、配膳を終えた小夜が大声を上げた。
何事かと入口で立ち止まると、観月が膳の前に座って湯呑みを持ったままこちらを見て固まり、使用人の女性が盆を落とした。
さっきからどうもおかしいと、優は小首を傾げた。
「つい、大声を、驚かせてすいません、春光さん。あの、千夏は、私以外が身体に触れるのをいつも嫌がるものですから、驚いてしまって…」
小夜が申し訳なさそうに近づいて来た。
「えっ、そうなの?千夏ちゃん!」
優は、慌てて千夏の顔を覗きこんだが、表情は無いが、暴れたり嫌がる感じは無く、彼の肩を掴んでいた。
「大…丈夫じゃないかな?」
「それに、千夏、あなたさっき朝餉は頂かないって」
小夜は、妹の腕をゆっくり撫でた。
「どう、少し食べてみる?」
優が囁く様に言うと、少し間が空いて、千夏はコクリと頷いた。
「千夏、あなた…」
そう言う小夜の表情は、昨晩の色香を振り撒く女性のものと別人の様で、まるで本当の母の様で、優はいい姉さんだなとただそれを眺めた。
小さい膳が下座に置かれ、千夏は姉の横で皆と食事を始めた。
優は、彼女と目が合うとニコリとしたが、相変わらず反応は来ない。
「春光…」
茶碗を持った観月が、前を向いたまま不意に横に呼び掛けた。
まだ、そうと決まった訳じゃないのに…
優は、心の中で深い溜息をつきながら、彼を見て戸惑いながら返事した。
「はい…」
「昼から、尋女がお前と話しをするそうだ。そして、もう一人客人が来る。何、お前は話しを聞く、ただそれだけでいい」
観月のその横顔は、波紋一つない水鏡の様に静かだった。
朝食後から優は、客人に会う為の着衣合わせで観月と小夜と舎殿の奥に閉じ籠もってしまい、西宮は手持ち無沙汰にしていたが、女中が沢山の大根を籠で運んでいるのを見て声を掛け、何度も遠慮されたが、代わりに井戸でそれ等を洗う事にした。
大きいタライに水を入れ、顔に似合わず豪快にたわしでじゃぶじゃぶ洗う。
しながら昨晩、観月と又、優の居ない所で揉めた事を思い出す。
尋女の話しを、今すぐ主に聞かせるのは幾ら何でも早すぎると、自分や朝霧や定吉は反対した。
だがあの男は、自分の立場を知らない方が危険だと引き下がらなかった。
今は、私が兄弟だ。
いつぞや村で観月が自分に言った事を、また昨日ぶつけられた事を西宮は思いだし、眉間に皺を寄せた。
そして、昨晩、定吉と二人になった時、彼が呟いた言葉も頭をよぎった。
「伝えるやり方の問題はありますが、この荒清社がこの様に立派に今有るのは、僅か二十二歳の観月様がやり手だからというのもありますが、生死も分からぬ弟君がそれでもいつ帰ってきてもいいようにと、涼しい顔をしておられるが、観月様が小さい頃から御自分の命を賭けて守ってこられたからです…」
一度たわしを握る手を止め、西宮は小さく呟いた。
「それでも、主が、余りに御可哀そうだ…」
暫くじっとしていると、背後に人の気配がした。
「梨花…」
振り返るとそこに、ここに帰って来た時に、馬上で彼と目の合った少女が居た。
「どうやって此処へ、此処へは許しの無い者は入れん」
西宮は、一度は動揺したが、すぐ棘の有る視線を彼女に投げかけ更に言った。
「今すぐ、帰れ…」
「雅臣様…」
「帰れ、と言っている」
低い、厳しさを含んだ声に、少女は可憐な唇を噛んだ。
「名家の、しかも武芸の誉高き雅臣様が、その様な事をなされているなんて…これが、これが、貴方様のお仕事ですか?」
更に、悲し気な瞳が西宮を見た。
「これは、たまたま私が手が空いていたから手伝うと言ったまでの事。私の仕事は、神剣をお守りする事、ただそれだけだ」
「本当に…それだけですか?」
消え入りそうなその梨花の言葉は西宮には聞きとれず、えっ?と聞き返す。
ピィーと小鳥が高い声を出して、近くの木から飛び立つ。
西宮に抱き付こうと、泣きながら走り出した梨花の音に驚ろいて。
「神剣をお守りするなら、私との婚約を破棄なさる必要など無いはずです。今までの剣守も皆、一緒に住む事は叶わずとも、皆結婚して子を儲けております。一緒に住めずとも、どんなに寂しくても、私しは、雅臣様だけに尽くし、雅臣様の御子を産みとうございます」
梨花は小さく柔らかい身体を西宮に押し当て、彼の襟元を掴み、その逞しい胸に頬摺りする。
だが、西宮の厳しい表情はやがて憐れみの色になり、彼女の肩を掴み自分の身体から離した。
「本当にすまん。何度お前に言われようと、私の気持ちは変わらん。梨花…赤ん坊の頃に親同士が勝手に決めた婚約とは言え、お前には申し訳無い事をしたと、本当にそう思っている。だが、お前程の美しさなら、私より他にお前を欲しいと、お前を幸せにしてくれる者が必ずいる」
「雅臣さ、ま…」
暫くの間、梨花の身体はただただ震えていた。
「西宮さん、居ます?」
間の悪い事に、観月に西宮への伝言を頼まれた何も知らない優が朝霧と定吉を伴って、少し離れた建物の陰から出て来て、正面で後ろ姿の少女の肩を持つ西宮と目が合った。
「うわっ!ごめんなさい」
どう見ても、恋人同士がいちゃついている風にしか優には見えず、思わず変な声がで出てしまった。
「こっ、これは、違うのです。主、この者は、私の幼馴染でして、梨花と申します」
西宮が、珍しく酷く慌てふためく。
「幼馴染?」
優がそう言うと、梨花は顔だけ彼の方を振り返って、又すぐ、恋しい男の顔を見上げて言った。
「春光様…御美しい方ですね…」
西宮の衣を両手で掴んだまま、両方の目から、涙が頬を伝った。
梨花は、今度は身体ごと優の方を向き彼に深く一礼すると、彼と逆方向へ素早く走り去った。
優は思い出した。
あの人は確か、昨日見た…彼女、泣いてる…
「西宮さん、梨花さん、追わないと!」
その優の言葉に、西宮は首を横に振る。
「朝霧達も知っている事ですから主にも申しますが、梨花は親が決めた許嫁でしたが、婚約を解消いたしました」
何故?
優はそう聞こうとして、押しとどまった。
まだ知り合ってほんの数日。
踏み込むのは躊躇した。
「そんなお顔はなさらずとも、大丈夫です、主、本当に…しかし、警備の者は何をしていたのか、確かめねば」
西宮は優に近づき、今度は彼の肩に優しく手を置き言った。
もうすぐ巫女との面会の時間が迫っている。
その事と同じ様に、梨花の走り去る後ろ姿に、優の心はザワザワとした得体の知れないものを感じ
た。
昼食後優は、客人と巫女に会う為に、特別な物に着替えなければならなかった。
用意されたのは、白い上衣、白色に紅色の観月と同じ紋様の入った袴。
しかし、観月の指示はそれだけでは無かった。
「どうして、化粧しなくちゃいけないんです?巫女さんじゃあるまいし。絶対嫌です。俺、これでも男ですよ!」
優は珍しく眉根を寄せて、何を考えているか分からない自称兄に抗議したが、今も男の巫女が居るだの、時間が無いのと結果丸め込まれてしまった。
小夜に化粧まで完璧に施され、長い髪はそのまま下ろし、椿の油を付け丹念に櫛でとかれると、縦長の鏡に映った自分の姿に優は思わず驚愕した。
そこには、何処かで見覚えのある、小夜ですら誉め崇める、違和感の無い完全な巫女が居た。
鏡越しに見る背後の観月は、それをじっと見て暫く押し黙っていたが、あの表情の変わらない男が、ふっと一瞬だけ満足気な顔になったように優には見えた。
襖を開けて、観月の後を付いて部屋を出ようとすると、廊下に通路を向き座して待機していた、朝霧、西宮、定吉と目が合った。
だが三人共、優の姿に一瞬固まってしまい、声が出ない様子だった。
やはり、変だったよな…どうすんだよ、これ…
心の中でそう思いながら、優は、観月の背中を恥ずかしさに赤くなりながら恨めし気に見た。
長い廊下を静々と、観月を先頭に、優、朝霧、西宮、定吉の順で行くと、途中、廊下の左右、壁を背に、彼等に向けて平伏しているちょんまげ姿の武士が何人か居た。
優が不思議にそれを見ていると、一際大きい、金の絵飾りも華やかな襖の部屋の前に来た。
珍しく舎殿の奥に来て居た神職二人が、入り口の襖左右に座して平伏した後、それぞれの方からそれを開けた。
深い香の香りが立ち込めた、静寂と重い空気のあまりに広い室内には、ちょんまげに武士の正装をした白髪混じりの初老の男と、その少し後ろに、尋女と、彼女を支える様に小夜だけが平伏して居た。
てっきり観月が一段高くなっている上座に座ると思いきや、彼は優にそこに座るよう言った。
そして自分は朝霧等と同じ、襖の入口側の臣下の位置の先頭に座った。
「この度は春光様には無事ご帰還の旨、誠にめでたき事とお慶び申し上げまする…」
優の正面の初老の男が上半身を深く傾げ、三指を立てて、優を見上げて渋みのある声で静ずかに言った。
優は返事に困るが、男の鋭すぎる目付きに更に戸惑う。
年齢的には現代の父の方に近いだろうが、彼はこんな厳しい雰囲気を周囲に撒き散らす様な男では無かった。
「主、此の者は、永松幕府老中頭、中尾に御座います」
観月がそう言うと、初老の男は再び畳に頭を付けた。
歴史の勉強はしたが、老中と言うのは幕府の権力者だと言う事位しか知らないし、そんな人間が自分に対してへり下り、優は増々困惑した。
「主、永松家は、我が荒清神社の最大の氏家に御座います」
社殿の広さ豪華さ、奥での生活の水準の高さ。
それは一般人の信仰もあるだろうが、やはり後ろ盾にそういう関係があればこそだろう。
優は観月の説明に納得した。
「本来であれば、将軍御自ら春光様のご帰還を祝しご挨拶申し上げるべきで御座いますが、なにせよ、上様はまだ御年六歳、更にお身体も弱く、代わりにこの中尾が参りました次第に御座います。何卒、後ろの物、此度の祝いの印なれば、お納めくださいませ」
緊張で気にする間がなかったが、中尾の言葉に優が後ろを見ると、白木の幾つもの台に何かが沢山乗っていて、白布が被せてあった。
観月が一度優に平伏し、上座に上がり布を全て取り去る。
そこには、沢山の黄金色の小判と金の塊の山、絹の織物の山、そして、上質な紙に書かれた米や肉や海産物、酒などの名は、全て今回荒清社にすでに納められている品々だ。
「確かに、ありがたく頂戴した」
又、観月は元の位置に戻り座した。
優は、この状況に深く後悔した。
ただ話しを聞くだけでは済まされない状況に来ているのではないか?
「所で、、この様な祝いの場でございますが、この中尾、上様に成り代わり如何なる処罰も覚悟の上、春光様に申し上げます」
さっきまで余裕に満ちていた中尾が、畳に視線を落とした。
「あ、いや、待て中尾」
観月が静止して続けた。
「主は、貴殿に報告した通り、幼い頃の記憶も失っておれば、長く行方知れずで、この荒清の事は疎か、アレの事も今は全くご存知ない。これより尋女より、主に事のあらましを話してもらう。貴殿は全て知ってはおろうが、共に聞き、今一度この場にてアレの事を再認識してみてはいかがか…」
「ははっ…」
中尾はずっと下を見たまま固まっていたが、再び優に向かって頭を下げた。
アレってなんだろう?
優が不安気にすると、正面から尋女の声がした。
「主様には貴重なお時間をおさきいただき、この尋女、恐悦至極にございます。なれど…」
声に力は余りないが、しっかりとした語り口が、暫く止まる。
「なれど…アレの事を、主様にお話申し上げるのは、若く清らかで美しい主様には大変酷な事とお見受けいたします。なれば、主様、ご自身に聞く御覚悟が無いと思われるならば、今は止め置かれた方がよろしいかと…」
優は、真っ直ぐ尋女を見た。
正座して膝に置いて握っていた拳に力を入れ、我慢出来ないとばかりに朝霧が身を乗り出して何かを言おとした。
だがそれを、観月が優を見たまま左腕で静止した。
くっと呻くと、朝霧は観月を睨んだ。
「聞かせてください。俺は、あの男が誰か知りたい…」
取り敢えず話しを聞くだけだと、呑気にのこのこ付いて来た自分を心底恨みながらも、今聞かないと言う選択肢はなかった。
そして本当にあの男の事を、自分は知らないといけないと優は思っている。
尋女も優を見詰めた。
まるで、彼の心の中を見透かそうとしているかのように。
「よろしいでしょう。では、お話いたします。なにせ、遙か昔の
事、しかも記録も多くが何故か消し捨てられております故、私共がお話出来る事は限られておりますが、分かっている事を…」
そう言い、尋女は静かに話し出した。
百五十年前。
この世界は戦国時代だった。
安藤家は、西関東の大名、都倉家の中級家臣だった。
ある時…
一族の安藤克一(かついち)は、幼馴染が武功を立てて出世した事を
激しく妬んだ。
考えた克一は、若く美しいと評判だっためい、椿を遠方から呼び寄せ、彼女の親の高額な医者代を肩代わりすると脅した。
更に椿は、結婚した相思相愛だった新婚の夫との間を無理矢理別れさせられ、克一の養女にさせら
れ…
都倉家の長、都倉俊馬(しゅんま)の側室に上げられた事から話しは始まる。
三十代後半の俊馬には、すでに正室と数人の側室がいた上、正室が産んだ跡継ぎもいた。
しかし…
とにかく好色な長は、戦いに明け暮れる日々の憂さ晴らしも有り、常に新しい美女や美少年を探して回って食指を伸ばしていた。
克一の狙い通り、椿は俊馬の目に止まり、夜伽に呼ばれ交わった。
だが、気が強く、性に潔癖で淡白で、未だ別れた夫の事が忘れられない椿に、俊馬は二、三度褥を共にするとすぐに飽き、又今度は違う女に手を出し、今度はその者に入れ上げた。
椿を俊馬の愛娼にさせ、自分の地位を上げるという克一の願いはもはや風前の灯火となった時…
克一はとある怪しい術師と知り合った。
その二十代後半の男、道尊は、どこから連れて来たのか、頭に角、口に牙の生えた二人の若い美しい男を捕らえていた。
そして克一に…
この二人は淫魔で、彼等と一度でも交わった人間は色欲に積極的になり色香も増すので、色事に淡白な椿を激変させて、もう一度俊馬の気を引く事が出来るとけしかけた。
淫魔の血を引く者と交わり血を啜られれば、その人間も淫魔となって色欲に狂い、生き血を求める魔物になるとも知らず…
まんまとその話しに乗った克一
は、再び椿を罠にはめ、淫魔の華奢な男の方、翆に彼女を犯させ、その血を吸わせた。
哀れな翆は、言う事を聞かなければもう一人の淫魔、蓮の命が無いと脅され、これも道尊がどう作ったのか、怪しい薬を無理矢理飲まされ発情させられていたのだ。
しかし道尊も、身体が大きく力も強そうな蓮を恐れていたのか、彼の方は術の掛かった強い鎖で縛り付け、術の施した牢屋に閉じ込めていた。
淫魔は、血と精からしか生きる糧を得られない。
翆と蓮は、いつかお互いを助けて道尊の元を脱出すると誓い、涙を流しながらお互いが見ている前で、道尊の連れて来た様々な人間を犯しその血を啜って生き長らえていた。
だが、蓮の力を削ぐ為に、彼にはギリギリ生きられる程、牢屋の柵越しにしか血も精も与えられず、彼は日に日に痩せ衰えていった。
しかし道尊の罪は、それ等だけに留まらなかった。
道尊は、都倉家の美しい姫、俊馬の妹の春姫に懸想をしていた。
そして、自分の恋が叶わ無いと知ると、彼女を使役する魔物に拉致させた。
更に、すでに心も身体もボロボロだった翆では役に立たぬと翆の命を人質に、媚薬を飲まされて発情した蓮に、牢屋の中で春姫を犯させた。
もはや狂ったように嗤いながらその様子を見ていた道尊だったが…
春姫を助けようと俊馬の臣下の者達が雪崩れ込んで来た上に、彼の予想が甘かった。
何故か春姫たった一人、一度の交わりだけで漲る力を取り戻した蓮が、道尊の呪術付の鎖も牢屋も破って出て来た。
蓮が道尊の首を締めその骨を折り身体ごと持ち上げたのと、臣下の観月頼宗(よりむね)が道尊の心臓を刺したのはほぼ同時だった。
道尊は即死だった。
道尊の余りの非道を見かね、彼の弟子の一人が春姫の窮状を俊馬に密告した為助けがすぐに来たのだった。
地獄はこれで、全て終わったかのようだったが…
椿は、悪阻やお腹が膨らむなどの予兆の何もないまま、自分が懐妊したと知らぬまま、わずか三ヵ月後、急に産気づき立派な男の子を産んだ。
だが、すでに俊馬と交わりがなかった時期に彼女が妊娠して子供が出来たなどとは公に出来ず、産まれた子は何処かへ隠された。
すでに翆と交わった直後から椿は急変し、妖しい色香を纏い周囲に振りまき…
数カ月後、美しくなったと噂を聞きつけた俊馬に再び夜伽を命じられると、立ちどころに、まさか側室が淫魔になったとは知らない彼を虜にした。
淫魔の血を引いた者とのまぐわいで相手は淫魔になるが、人間から淫魔になった者とまぐわっても、血を飲まれてもその相手は淫魔にはならない。
毎晩の様に交わり、やがてすぐ彼女は再びお腹に俊馬の子を宿し
た。
月満ちて男の子が産まれ、俊英(しゅんえい)となったが、その数年後、俊馬は椿との連日の交わりに全てを吸い付くされたかの様に、彼女との接合の途中腹上死した。
その後、椿はその己の身体を使って他家大名や己の臣下を誘惑し、更に、俊馬の長男、都倉家の跡取り、自分にすれば義理の息子俊景(しゅんけい)とも関係を持ち彼を操り、様々な手を使い…
天下統一直前に主を暗殺された千賀家の凋落後、更に激しくなる戦乱の中、俊景に天下統一を果たさせようとした。
一方、互いに想いあっていた頼宗に一命は助けられた春姫だったが…
自分の身が汚された上に、湧き上がる激しい性欲と血を飲みたいという欲求に絶望し、ある日自らの喉をかき切ろうとしたが、再び頼宗に止められた。
日に日に弱る妹を哀れみ、何も真実を知らない俊馬は、山奥の山荘に彼女を静養に行かせ、数人の付き人と頼宗を同行させた。
しかし、春姫もある日突然、なんの前触れもなく元気な男の子を産んだ。
「その男子、春姫様と蓮との間の御子春陽(はるひ)様こそ、春光様、貴方様の前世のお姿」
尋女のその言葉に、優は愕然とした。
「前世って…」
「今の貴方様は、春姫様のお産みになった春陽様の産まれ代わりでございますれば、どうか、この玉をご覧下さい。貴方様の力があれば、もしや私が見たものと同じものが見られるやもしれません」
そう言うと尋女は小夜に、箱から大きな水晶を取りださせ、彼女にそれを優の前に置かさせた。
だが、それは、なんの反応も示さない。
「そ、それで、春姫様は、その後どうなったんですか?」
優は、身を乗り出した。
頼宗は、春姫の全てを受け入れ結婚し、春姫は夫からのみ血を与えられ、彼との営みのみで性欲を満たし、その愛でやがて心の傷が和らいでいった。
彼は、春陽を自分の子で無いにかかわらず愛し養子にし、やがて春姫と頼宗の間にも男児春頼が産まれた。
「それが、あそこにおります、西宮様の前生の姿。何んの因果か今生は観月の家に産まれず、今の貴方様より先に産まれましたが、前生は、紛れも無く貴方様の弟君でございました。今の観月様が、前生では西宮家に産まれておいででした」
尋女の視線に合わせ、優は西宮を見た。
彼は切な気に優を見て微笑んだ。
この気持ちは?
優に、なんとも言えない感情がせり上がってくる。
その二人の様子を、観月がチラリと見て、今度は彼と優が目が合った。
だが、西宮の時とは又違うなんとも言え無い緊張感が漂うと、観月の方から気まず気に視線を外してしまった。
「それで、あの、ち…」
父、と言いかけて、優は慌てて言い直した。
「淫魔の二人は、どうしたのですか?」
「力を取り戻した蓮は、身体の弱り切った翆を抱き、その場から何処かへ消えたと弟子の日記には書いておりますが、それから先は、もう人の子は誰も知る由もなき事かと…」
尋女は続けた。
義理の息子の愛人となった椿の力
は絶大となり、横暴な目に余る振る舞いも増えた上に更に淫行に歯止めも効かなくなる。
尚一切年を取らぬ美しいままの彼女は、魔物だなんだのと影で囁かれ恐れられたが、一族では誰も逆らう事が出来なかった。
その内、中京の大名、永松家が頭角を現し、魔物が支配していると悪名高い都倉家を嫌悪して激しく対立した。
やがて、永松家の周りに、美しい銀髪の男が現れて不気味な事が次々に起こり始めた。
銀髪の男は、椿と翆との間の子供だったのだ。
遂に一族の危険を感じ恐れた永松家は、銀髪の男と同じ力を持つ春陽に助けを求めた。
元は、春陽も都倉の縁者であったが、椿が実権を握るようになってからは、すでにかの家とは絶縁状態にあったのだ。
戦いは、長く苦しいものになる。
それを悟った春陽は、信頼できる男四人に自分の血を混ぜ打たせ魔力を付け、邪悪な者を滅ぼせる刀剣を与え、それが使えるよう更に自分の血を彼等に飲ませた。
だがその血には、副作用もある。
淫魔の血は、同族には影響ない上、人間が飲めば淫魔にはならないがその者を隷属させる事が出来た。
その血を受け継いだ春陽のそれも又然り。
春陽と男達は、椿と銀髪の男を滅ぼし、やがて永松家は過酷な戦国大名達の戦いを制し、天下統一を成し遂げた。
「西宮様だけで無く、観月様、朝霧様、定吉様は、今生では確かに永松家の命令と自らの一族の為に貴方様に奉公する事になりましたが、前生では貴方様の血を飲んで盟約を交わした、貴方様の下僕でございました」
尋女が言い終わると、澄んだ玉が明るく光り、次に、紅い炎の色が部屋を広く染めた。
優と長尾は驚き、一瞬後ろへ引いたが、他の者は微動だにしない。
やがて優は、引き込まれる様に水晶の中を覗きこんだ。
神職の振る鈴の激しい音と、何人もの経を読む僧の大きな声が聞こえて来た。
暗い部屋の中、激しい大きな炎を中心に、四方に今と顔、身体の変わらぬ朝霧、観月、西宮、定吉らしき武士が正座していた。
スッと横から別の武士が入って来て、優はその顔を見て驚愕する。
紛れもなく、自分そのものの姿だったのだ。
自分そっくりの男は、自分の左腕を曲げて心臓の高さまで上げると、躊躇もせず左ひじ近く表側に縦に小刀で切れ目を入れた。
すぐに、鮮血が肌を下に這い、木の床にポタポタ落ちる。
彼はそのままで痛みを見せず、朝霧の前に来た。
彼が下を向くと、朝霧が彼を見た。
朝霧の両眼は、ただ美しい程に真っ直ぐ優そっくりの男を見上げ、右足だけ立てて、その傷口に唇をそっと付けようとしている。
「ダメ、ダメだ貴継!その血を飲んだら!貴継!」
優はガバッと立ち上がり、玉の中に向かって絶叫した。
だが、
何故、下の名で呼んだのか?
自分で無い、誰かが自分の口を動かせた様な違和感に固まる。
そしてその声に反応した、その中の朝霧と目が合う。
急に辺りの光は玉に吸い込まれ、やがてそれは何も映さない、静かな透明を取り戻した。
はぁはぁと息を荒げる優は、この世界、壁近くで苦悶の表情を浮かべていた朝霧とも視線が合った。
気が付けば感情が乱れて暴走し、優は走り出し部屋を飛び出していた。
「主!」
朝霧、観月、西宮、定吉が同時に叫んで後を追った。
廊下に待機していた神職や武士達も、驚きながら優を捕まえようとしたが、今の優は、現代にいる時より何故か身体能力が上がっていて、走る足に只人は付いて行けず、朝霧等四人のみが互角の速さを出せていた。
だが、なかなか優を捕まえられない。
観月はこんな時、式の紫炎が使えたらと追いながら思った。
彼は、先日の銀髪の男の攻撃を受けて、今も酷いケガが治りきらず呼べる状態では無い。
更に、他に四人いた式も、優を迎えに行った日以前に二人が銀髪の男に消されてしまった上に、残り二人も紫炎と同じ状態にされてしまっていた。
優は、方向も分からぬまま奥舎殿内を走り抜け、足袋のまま外へ出て、広い裏庭を突き抜け、何故か高く跳躍出来ると直感した瞬間、舎殿を囲む高い築地塀(つきじべい)の上の瓦に飛び乗った。
これは、魔物の血が入っているから?
自分でやっておいて、こんな事が出来るようになった自分に驚くと共に、罪悪感が湧いてくる。
彼は自分の名を必死で叫ぶ朝霧達の姿を一度振り返り見ると、そこから飛び降り、向こう側へ姿を消した。
ズシャっと地面を擦る音がした。観月が庭で朝霧に殴られ、飛ばされて地面に尻餅を付いたのだ。
「これで満足か、観月!」
朝霧が、腹の底からの怒声を出した。
唇の端が切れて血の出た観月は、そのままの状態でそれを拭い、殴った本人を下から睨んだ。
「こんな事をしている場合じゃない!早く主を!」
西宮の声は、叫びに近かった。
定吉は、すでに優を追って再び走りだしていた。
「ハルに何かあれば、お前を…!」
朝霧は怒気の籠もった低い声で観月を睨み告げると、西宮と裏門向けて駆け出した。
口内も切れて血の味を感じながらよろよろと観月も立ち上がり、そちらへ急ぎ外へ出た。
道に、白い紙の人型が落ちていた。
彼が優が塀を降りる時、遠くから飛ばした護身用の物だった。
自分の弟は、まだこれを跳ね返す術など持っているはずが無い。
ならば、誰が…
嫌な予感が駆け抜けた。
ただ闇雲に走った。
制御出来ない程気持ちが苦しくて、苦しくて…自分を失い…
気が付けば優は、舎殿から荒清社殿の敷地を走り抜け、外に飛び出してしまっていた。
やがて夕闇も近くなり、町中の人のまばらな裏道をとぼとぼ歩いていると、余りに美しい巫女姿は人目を引いた。
「こりゃ、綺麗な巫女様がお一人で、何処へ行かれます?」
前からいかにも素行の悪そうな若い男が三人が現れた。
優は相手にならず、そのまま通り過ぎようとしたが、にっと笑ったその内の一人に手首を捕まれた。
「珍しい、青い目の巫女様。どうか俺等にその身体で、神の御加護とやらを下さらんか?」
「離せ、この野郎!」
優はキッと睨んでその手を思いっきり振り払い、再び走った。
「おもしれぇ!たんまり可愛いがってやろうぜ!ありゃ、男だぞ!」
そう言いしつこい男達は追いかけて来たが、疲れてきたのか、優の走る速度が遅くなってきた。
ヤバイ、このままじゃ、捕まる!
そう思いながら尚走ると、民家の外壁の角から手が出て来て、優の腕を後ろから引っ張った。
「こちらです。春光様!」
女性の声に振り返ると、その手の主は見覚えのある顔、梨花だった。
優は、彼女に促されるまま手を引かれ、彼女の付き人の男を背後に細い道を通り、やがて一軒の商家らしい大きい屋敷の裏扉から中に入った。
どうやら男達も此処までは入れそうにない。
優は安堵の息を一つした。
「春光様がその様なお姿で、どうして御一人でこんな時間に町中に?」
梨花は、気遣いながら優に尋ねた。
真実も言えず、優が視線を下に口ごもっていると、梨花は彼の右手を取った。
「此処は、私の父の知り合いの屋敷です。心配なさらず暫く中でお待ち下さい。今すぐ使いの者に、雅臣様を呼びに行かせますから」
「それは…」
優は、慌てて梨花の手を握り返した。
さっきの水晶の中の様子を思い出し、鳥肌が立った。
そして、思わず逃げてしまった自分の情けなさと、朝霧達への申し訳なさ。
今彼等にどんな顔で会えというのだろうか?
「分かりました。取り敢えず中にお入りになってお休み下さい」
聖母の様に微笑んで、梨花はそのまま優の手を引いて、屋敷の中に連れ入った。
その内、外は闇が完全に落ちた。
誰かに見つかりたくないと優が言うと、梨花は困惑しながも、裏庭の、母屋から離れた幾つかの蔵の一つに彼を匿った。
優にとって蔵と言えば、金品や米や日用品を沢山詰め込んでカビ臭いイメージがあったが、連れられ入った其処はまだ出来たてのようで中には殆ど何も無く、新しい建物の臭いはしたものの、思いの他過ごし易い所だった。
広い二階に上がって、用意された着換えも食事も手を付けず、ただ黙って蝋燭の灯りだけの中、窓格子から外の星を見た。
朝霧さん達は、どうしているだろうか?
きっと怒っているに違い無い…
優は背を壁にそってずるずると座り込むと、膝を抱いてそこに顔を埋めた。
朝霧達は、顔面蒼白で必死にそれぞれ町、山、川へ散り、口止めした数人の神職と幕府の武士も加わり優の捜索は続いた。
朝霧は、ランプの灯りを頼りに全身汗塗れで町中を走り、美しい巫女を見なかったかと聞いて回った。
だが、夕闇で出歩く者も少ない上に、見たと言う者も、どちらの方向に行ったか知らないと言う。
「ハル…ハル…何処だ、ハル…頭がおかしくなりそうだ…」
そう小さく呟き両拳を握り、朝霧は空を仰ぎ見た。
「朝霧!」
突然暗闇から、聞き慣れない声が彼を呼んだ。
ばっと後ろを振り返ると、民家の塀の上に、見覚えのある赤い首輪、白い毛並みの猫が居た。
「小寿郎?」
荒清社から遠いこんな所にいるのも不思議だが、先程の呼び声は誰なのか辺りを見回す。
「私だ、朝霧」
明らかに喋っているのは、目の前の猫だった。
「小寿郎、お前…」
「私は、村で会っただろう。桜の精だ。詳しくは後だ。春光が西宮の許嫁の所にいる。時間がなくて西宮にしか知らせてないが、奴はもう向かってる。付いて来い!」
そう言い、小寿郎は道に降り走り出した。
驚いている暇は無かった。
朝霧は後ろに続いた。
「失礼いたします。お布団を引かせていただきます」
商家の若い美しい女中が、蝋燭の灯りをかざしながら蔵の階段を上がって来た。
優は真っ暗な中、色んな事が有り過ぎて、膝を抱えたまま気を失うようにほんの短い時間眠ってい
た。
「ありがとうございます」
正座し直し力無く言う。
女中は手際良く引き終えると、座って下を向いていた優をじっと見詰めてきた。
「どうか…しましたか?」
優が不思議そうに見ると、女はスルスルと自分の帯を解いたかと思うと着物を脱ぎ、下の薄い白襦袢だけになった。
そして、艶のある妖しい微笑みと共に、衿元をずらし白い両方の肩から鎖骨を出した。
「なっ…何ですか!?」
優が顔を赤くしながら顔を引き釣らせると、女はどんどん近づいて彼の前に来た。
「梨花様に、貴方様の夜のお世話をする様いいつけられましたの
で…」
「そ、そんな事、頼んでません!」
立ち上がり眉間を寄せハッキリ拒絶すると、女はどんな男も逆らえないような、優しさと淫靡さを溶かせ合わせた微笑みを浮かべると、優の右手を優しく取り自分の豊満な胸に導こうとした。
「俺、出て行きます!」
優はなるべく穏やかに自分の手を取り戻すと、壁に背を付けたまま右手へ移動し、走り出そうとした。
「なっ!?」
ガシッと左手首を捉えられる。
しかも、女性とは思えない強い力で。
そのまま女が身体を押しつけてきて、優は壁との間に挟まる。
押しのけられないこの力の強さ、普通じゃ無い。
そう思った時、女は、滴るような色を滲ませた笑みを浮かべた。
朝霧が商家に着いた時、店内に入ったすぐの土間にすでに西宮が居て、この家の奉公人の男と揉めていた。
「只今主人と奥様は不在でして、今暫くこちらでお待ちください。すぐ、すぐ梨花様をお呼びしますので」
男はえらく慌てた様子で、店内より奥に上がりこもうとする西宮を両手で押し止めていた。
「待てん。梨花がいつも泊まる部屋はこっちだったな!」
業を煮やした西宮が草履を脱ぎ、畳の上に上がり、店と続きの私邸の奥へ入って行き、朝霧達も後に続いた。
「どうか、どうか、お留まりを」
男の小声の必死の懇願を皆無視してどんどん行くと、やがて西宮がある部屋の前で止まり、障子を開けた。
「り…か…」
ランプをかざす西宮の目に、乱れた布団の中、裸の梨花と見知らぬ男が横たわっているのが映った。
周囲には、脱ぎ散らかした着物や下着が散乱していた。
梨花は目覚めると、最初少し寝呆けていたが、すぐ目の前に未だ恋しい元婚約者や朝霧がいるのを見て酷く驚愕し青ざめた。
「雅臣様…」
西宮は怒るでも無く、ただ酷く哀れみの籠もった目を向けた。
たが、梨花はそれが気にいらず、上半身を掛け布団で隠しつつ起こすと、くくっと笑い、吐き捨てるように彼に言った。
「これを見ても、やはり貴方は少しも怒って下さらないのですね。でも、これも全て雅臣様が悪いのですよ。今頃雅臣様の大切な御美しいあの方も、蔵の中で私と同じ様に汚れておいでだわ。所詮誰も一皮剥けば同じですわよ。雅臣様…」
ハッとして、西宮はすぐ横の廊下の雨戸を開け放ち飛び出し叫んだ。
「蔵は、こっちだ!」
西宮、朝霧、小寿郎はそちらへ走り出した。
「俺は、こ、これで…」
梨花の横の裸の男は、暗がりで、脱ぎ捨ててあった着物を手探りで急ぎ探し小脇にすると、そそくさと逃げて行った。
「くくっ…」
梨花は自嘲する様に笑いながら、両目から涙を零した。
「お前、人間じゃないな…」
怪力の女に間を詰められて、優はのけようと腕を身体同士の間に入れ、押し返し呻きながら言った。
ぐぐっと更に押し、隙間が出来た所を逃げようとするが、女に背後を取られ、今度は後ろ向きに両手をまとめて封じられ跪かされる。
「そうだ。しかも、女でも無い。この胸は作り物。女中に化ける為のな」
優の耳元で、背後からクスクスと笑いながらあやかしが言うと、背中に当たっていた胸が急に無くなった。
「折角死ぬ前に、最初は女の方、後で男の方でいい思いが出来たものを…観月春光…貴様、淫魔の血が騒がんのか?」
「ざけんなっ!誰がお前なんかに!」
激しく抵抗すると、優の髪がぐしゃっと彼の頭頂部で荒々しく掴まれ、彼の頭が更に背後のあやかしの胸に引き寄せられ、片手だけで押さえているだけのはずのあやかしの腕もびくともしない。
「社の中で兄の膝の上に大人しく座っておれば、外より幾分安全だったものを、わざわざ自分から一人で出て来るとわな。さあ、死にたくなければ、泣いてこの場で土下座して命乞いしてみろ。そして、言うんだ。どんな事でもいたしますと。そうすれば助けてやるぞ…」
怒りを押さえた、しかし唆す甘い声が優の耳朶を掠める。
「さぁ、言え…言え…」
あやかしの右手が優の首に来て、徐々に力を込めていく。
それでも必死で自分の腕を開放しようと藻掻いた。
「さぁ、早く!死ぬぞ!」
更にぐっと力を込められ、それでも優はこらえる。
「ちっ、もう、お迎えがきたか…」
突然、首から手が離れた。
優はその瞬間、僅かに出来た隙を見てあやかしの足を蹴りよろめかせ、その場を這い出した。
「主!」
梨花の居た部屋から駆けて来た朝霧と西宮の声が重なり、朝霧が床を逃げる優の腕を引っ張り抱き締めた。
ゲホゲホと、優はその場で咳込んだ後、包まれる安心感と共に大きな体を抱き返した。
西宮は、抜き身の刀をあやかしに向け、小寿郎は普通の猫から虎程の大きさになり、牙を剥いて威嚇した。
「ちっ」
とあやかしが舌打ちし、抱き合う優と朝霧を庇い前に出ている西宮と小寿郎を睨んだ。
互いにじりじりと攻撃の間合いを測る。
すると、突然背後から、誰かがあやかしのその腕をとって捻り上げた。
「私に黙って、何を勝手な真似をしている」
優は聞き覚えのある、凍る声に前を見た。
この声は…
やはり嫌な予想通り、あの銀髪の男がそこにいた。
だが、あの時と違い身体が透き通っており、とても不安定な感じだった。
「あ、藍様。わ、私しは、藍様…」
さっきまでのふてぶてしい態度を豹変させ、あやかしは銀髪の男を前に慌てふためき、恐れているようで声を震わせた。
「ハルを殺すのは、お前じゃ無い、誰でも無い、この私だ!ハルの肉を喰らって、この私の力を超えようとでも言うのか?」
「とんでもございません!私しは、私しは、藍様の為に、あの者さえいなければ藍様は…」
銀髪の男は底知れない酷薄な冷静さで、あやかしの髪を荒く掴み引き上げて、互いの顔を近づけた。
まるでさっき優がされていた事に対して、銀髪の男自身があやかしに報復しているかの様に。
「勝手な事をしたこの罪は、死をもって償ってもらうぞ…」
「どうか、お許しを、お許しを藍様!」
「許さん。お前には死あるのみ…」
ダンッと強い音と共に、銀髪の男は泣くあやかしを跪かせ、頭を押さえて床に付けさせた。
そして、立って朝霧達の背に守られている優を、目を眇めて凝視した。
優にあの尋女の話しが現実だと、その憎しみの籠もった眼差しが突きつけた。
「ハル、今日の所は引いてやる。あの時は油断したが、だが、また力を取りして、必ずお前にまた会いに来る…」
そう言うと、顔面恐怖に引き釣るあやかしを連れて、銀髪の男は煙のようにそこから消えた。
「はぁ…」
極度の緊張が解けて思わず漏れた優の溜息に、朝霧達が彼を振り返った。
溜息を付くのは、むしろ彼等のはずなのだ。
なのに朝霧は、深く優の心配をしてくる。
「お怪我は、何処かお怪我はありませんか?」
優は申し訳なく朝霧達を見て、ただ首を横に振った。
「出来る事なら、貴方に、あんな話しを聞かせたく無かった…」
朝霧が、憂いた瞳で呟いた。
優は、再び首を横に振った。
「すいませんでした…俺が、自分で聞くなんて言っておいて、勝手に動揺して…」
言い訳など出来ず、ただ声を振り絞る様に言うと、朝霧が黙って、優の顔に掛かっていた乱れた髪を彼の指で優しく撫でる様に直してくれた。
相変わらず、冬の月の下の鋭利な野生の狼の様な男なのに、時折こんな風に向けて来る仕草が、今も送って来る視線が優しい。
「ご無事で、良かった。本当に良かった…」
刀と殺気をしまった西宮が、優の右手を両手で包みそう言い微笑んだ。
彼が前世の弟だと、尋女のあの言葉を優は思い出し見上げた。
だが、やはり実感は感じない。
「お、俺…」
これからどうすべきかと言い募る優を、西宮の優しい声が包む。
「大丈夫です。私も最初、己の置かれた立場を聞いた時、正直戸惑いました。でも私は、一度に全てを聞かされた訳で無く、色々な話しをゆっくり時間を掛けて聞き納得しました。貴方は何も悪くない。驚いて当然です…」
一瞬、間が空いて、朝霧が静か
に続けた。
「今すぐ答えを出せとは無理かもしれません…でも…我等と一緒に帰っていただけますね…」
「はい…」
優は頷くと、目の前の朝霧と、あの炎の向こうの彼が重なり再び鼓動を早くした。
この、湧き出る胸をえぐられる様な痛み。
これは、前世の自分のものなのか?
春陽は、どんな想いで朝霧等に刀を授けたのだろうか?
ふと、そんな思いが脳裏をかすめたが、さっきからそこに居る、巨大な白い獣も酷く気になった。
「まさか、お前って、小寿郎?」
すっかり可愛気の無い大きさになり、目付きも荒ぶる猛獣のそれになっていたが、モフモフの毛並みは変わる事無くて、躊躇せず優しく撫でてやる。
「春光、私だ、もう忘れたか?」
巨大猫が喋ったのもそうだが、何よりその聞き覚えのある声に驚いた。
「桜の精、さん…」
「流石に覚えていたか…それと、私自身の名も今日より小寿郎にするぞ」
「でも、なんでここに?」
優が心配気に尋ねると、桜の精は少し黙った後口をひらいた。
「訳ありだ。又後で話す。取り敢えずここから早く出よう」
そう言うと、猛獣はたち所に元の大きさと可愛さに戻り、優の胸に抱いてくれと言わんばかりに飛びこんだ。
優達が蔵の外に出ると、使用人の男が何人かが、透明な壁に阻まれて蔵に入れないと慌てていた。
だが、西宮に促され再度試すと、壁など無くなっていたらしい。
まさか、小寿郎?
と、優は頭を撫でた。
そして、匿ってくれた梨花に礼を言いたいと西宮に頼んだが、それは叶わなかった。
具合が悪く眠っているから、と表向き西宮は穏やかだったが、何処か頑なに断固拒まれている気がして、優は静かに屋敷を去るしか無かった。
優が小寿郎を抱えながら、灯りを持つ西宮を先頭に、朝霧に背後を守られて川沿いの帰路を行っていると、向こうからランプを持つ人がかなりの速さでこちらへ向かって来た。
「主!」
仄かな光の中、定吉が歓喜の声を上げた。
「主!主!」
「うわっ」
定吉が、小寿郎ごと優を軽々抱き上げた。
「何処かケガは、痛い所は?」
定吉は、まるで小さい自分の子供を心底心配して聞いている父親の様で、優は首を横に振り、申し訳なさに顔を歪めた。
「本当にすいませんでした…」
「定吉!」
朝霧が背後から咎める。
だが、言われた本人は悪びれな
い。
「貴継様、これは決して邪な気持ちからでは有りませんから御安心を」
はぁ…と朝霧の溜息が漏れた。
「春光様、良かった。ご無事で、本当に良かった。観月様もまだ探しておられるでしょう」
定吉から出た観月と言う名に、優は体をビクリとさせた。
彼はどんなに怒っているだろうか?
あの絶対零度の視線で睨まれると思うと、背筋が急速に冷えて表情も強張る。
「許してくれないかも…」
優の呟きに定吉は、身体に似合わず優しく囁いた。
「観月様なら大丈夫です。けれど、もし許していただけないなら、私は主に付いて何処へでも行き、共に生きて参りますから」
何故、知り合って間の無い自分にここまで言えるのか?
やはり、前世の血の盟約が関わっている部分が有るのだろうと思うと、優は湧いてくる複雑なものをそっと飲み込んだ。
途中、捜索していた神職や幕府の用人何人かと合流し、やがて暫く行くと又灯りが見えた。
駆け寄って来たのは、観月だった。
彼は少し優等と距離を空けて止まるといつもの彼らしくなく、酷く息を切らせて汗を額から流していた。
暫く、そんな彼の姿を以外だなと優は瞠目していたが、後ろから定吉に肩を掴まれた。
「なんなら、御一緒に謝りますが…」
定吉の提案は心底有り難かったが、優はニコリと笑って見せた。
「大丈夫。ちゃんと一人で謝ります」
小寿郎をその腕から放し、優から観月に近づいた。
暫く言い淀み、優が謝罪しようと口を開いた瞬間観月の腕が上がり、てっきり頬を叩かれると覚悟して唇を噛んで目を閉じた。
だが、その予想は、驚く形で裏切られた。
気づけば、優は観月に抱き締められていた。
「済まなかった。春光…私が、事を急ぎ過ぎた…」
観月の声に、いつもの余裕が感じられない。
「俺の方こそ、すいませんでした…」
優が戸惑い気味に抱き返し、更に顔を彼の胸に寄せると、彼の熱い体温と香の芳しい匂いを感じ、速い鼓動が聞こえた。
「もう、いい。無事ならもう、いいんだ。帰るぞ、春光…」
こんな声も出せるのだと驚く程、
観月の声は、別人の様に甘く優しかった。
すっかり夜も更けていたにも拘らず舎殿に戻ると、千夏と小夜、尋女、中尾も眠らず優を待っていた。
特に千夏は、興奮して寝ないとぐずり姉をかなり困らせたらしく、優の姿を見ると駆け寄って、その腰に黙って抱きついて来た。
「ごめん、千夏ちゃん」
優は、抱き上げて抱擁した。
何か、彼の危険を察していたかの様に、無表情でも、言葉は無くても、千夏が心配してくれていたのがよく分かった。
「…ル…ル…春光!いつまで寝てるつもりだ!」
翌朝、優がその声で目覚めると、又装束姿の観月が仁王立ちで、冷静な視線で布団の中の優を見下ろしていた。
夜は、あんなに優しかったのに…
優は、そう思いながら仰向のまま黙って暫くその姿を眺めた。
「何だ?」
訝し気に観月が聞いて来た。
「何でもありません」
優が微笑むと、観月は無表情でクルリと踵を返し、そのまま部屋を出て行こうとして一度立ち止まった。
「それから、そのだらしない寝相と浴衣、なんとかしろ」
振り向かずそう断じてと言うと、足音無く行ってしまった。
「まぁ、確かに…でも、浴衣に慣れてないからなぁ…」
口煩い自称兄だが、優が起き上がって自分の目覚めの姿を新ためて見ると、布団もくちゃくちゃで、胸もはだけかけていた。
「浴衣なら、その内お慣れになりますよ。それに、寝相の悪いのは、私はお元気でいいと思いますがね。さぁ、主、お着替えしましょうか?それと、あの…今日も口元に涎が…」
じっと優の胸の辺りを凝視していた定吉だったが、昨日と同じ様に朗らかに笑う彼が、優の口元を優しく拭った。
もう、朝霧達の朝稽古は終わっただろうか?
明日こそは、自分でもう少し早く起きようと優は思った。
朝食の後、優はどうしても帰城しなければならない中尾と再び接見した。
こちらから昨日の事を謝罪すべきと思っていたが、先に三指を突き、ひたすら頭を下げたのは中尾の方だった。
「申し訳ございません。永きに渡り江戸城の護りにとお預かり申し上げていた春光様のお刀を、先日何者かに盗み出されてしまうという失態を犯してしまった責任は、この中尾が、どの様な処罰も受け賜る所存で御座います」
畳にめり込むのでは無いかと思う程平伏す姿に、優は困惑し観月を見れば、観月は、本来なら切腹ものだと、自分の父親と言っていい程の年齢の中尾に尊大に断言したが、中尾による刀の捜索を優先し、当日刀を警護していた者とまとめ役の上官の高い地位と報酬を剥奪とする事、彼等の数日の禁錮で今回は様子を見ると決着した。
中尾の話しでは、将軍家としてもすでに捜索しているという事だったが、未だ何の手掛かりも無いと言う。
そして、幕府内では一部の人間しかまだその事を知らないが、護り刀が無くなった事で、永松家に又、何か良からぬ事が起こるのでは無いかと言う者が居るという。
中尾は浮かない表情を浮かべたまま、昼食後、数人だけの共を連れ、裏門から人目を忍んで帰路に着いた。
昨日聞いたアレとは、正に春陽の魔剣の事だったのだ。
その後優は、観月達四人と小寿郎を連れて、再び床に付いていた尋女の元を訪れた。
今日の彼女の顔色は、若干良さを感じられた。
「俺を襲った、あの藍と言う男が刀を盗んだんでしょうか?」
優の問いに、彼女は項垂れた。
「それは分かりません。水晶を持ってしても…」
「あの男は、その、春陽さん達が倒したのではないのですか?」
答えに間が空いた。
「倒したと、文献には記されておりますが、詳しい話しは余り残っておらず、どう戦ったのか、最後はどうだったのか、戦いの終わった後、春陽様がどうお暮らしなさったのかさえ分かりません。もしかしてですが、何者かが、わざわざ文献を始末した形跡も有ります」
「そうですか…」
優は、畳に視線を落とした。
「だだ、あの男は、又貴方様の御命を狙っておるのだけは確かな上、盗まれた刀は、貴方様の血で出来た貴方様の分身の様なもの。探し出し取り戻さければどの様な事になるか…どうかくれぐれもお気を付けください。しかし、永松の家も、無理矢理貴方様の刀だけ己が城に城護りだと奪っておいて、みすみす盗まれるとは…」
尋女は顔だけ優に向けて、更に静かに続けた。
「ただ…貴方に害なす淫魔を滅しなければなりませんが、元を正せばその根源を呼んだのは人間の方。そして、いつもその力に取り憑かれて事を起こすのも、人間の弱さと醜さで御座います」
「はい…」
優が静かに頷くと、背後で人知れず西宮が目を伏せた。
西宮は、ここでは自分と朝霧と小寿郎しか知らない、もう二度と会う事の無いだろう、純真だと疑わなかった梨花のもう一つの顔を思い出した。
無論、とうに婚約は解消していたから、彼女が誰と何をしようと自分は何か言うつもりも無い。
しかし、復縁したいと、自分の子供を産みたいと熱く言って来たその日の夜にあの姿は、本当に心底驚愕した。
そして、もし、あの口ぶりから、梨花が主を貶めるのに敵に加担していたなら、調べてあるべき処分を下さなければならない。
「春光様は、向こうの世界に帰りたいとお思いですか?」
尋女が、突然に以外な質問をした為優は動揺した。
帰りたい。
それは帰りたいに決まってる。
でも…
「これから自分がどうなるか分かりませんが、今すぐは無理でも、いつかは帰りたいとは思います。あっちには好きな人もいますし…」
優は正直に言ったつもりだが、無論ここで言った好きな人と言うのは、現代の東京の父と母の事だ。
だが、背後の朝霧等五人には、恋愛関係の人間の事だという印象と誤解を深く与えてしまっていた。
五人は、いつか帰りたいと聞き、自分達がそれぞれ顔には出さないが内心酷く動揺している事に、その感情に戸惑った。
自分に与えられた部屋に戻った優は、一人だけ用事の無かった朝霧と二人きりになった。
小寿郎も、どうして自分に付いてきたのかと未だ聞けないまま、猫の姿でさっき黙ってふらっと何処かへ出掛けて行った。
あの物事に疑り深そうな自称兄が、喋る猫を見ても一切動揺せず、邪気が無いからと放っておいてくれるのは幸運だ。
静寂が支配し、観月、西宮や定吉と一緒に居る時と別の、又何か緊張感のある雰囲気になる。
すると、朝霧がおもむろに尋ねてきた。
「障子を開けてもよろしいですか?」
「あっ、ええ、どうぞ」
「主、庭に、是非見て頂きたい木があります」
朝霧は、庭に面した方のそれを開けた。
眩しい光が、一瞬で広い部屋に広がった。
暇が無かった為、優は初めて部屋から外を見る事が出来た。
縁側に出ると、左側に大きな桜の木が見え、思わずその花の美しさに感嘆の声を漏らした。
置いてあった履き物を履いて、優は子供の様に庭へ飛び出した。
「凄く綺麗だ…」
大きさから、かなりの樹齢だろう。
立派な太さの幹を撫でると、心地良い風に薄紅色の花びらがハラハラと舞った。
「荒清社が出来る、そのずっと前からここにあるそうです…」
そう言いながら、朝霧が近づく足音がした。
何気に彼を振り返ると、彼が静かに、しかし射抜く様に優を見詰めている気がした。
この感じ、優には概視感があった。
この桜、あの初めて朝霧に助けられた時に、走馬灯の様に脳裏に浮かんだ時のやつかも…
あの時、自分に似た男は、朝霧に似た男に後ろから抱かれていた。
そう、穏やかに、幸せそうに…
「そう、なんですね…」
優は朝霧に笑い掛けると、その回想に思わず顔が赤くなるのを隠す為、前を向き、花を見上げた。
あの、抱かれていた自分が事実なら、朝霧自身もそんな優を抱く過去の彼自身を何処かで見たりしているのだろうか?
そう考えるて、すぐハッと我に返った。
何考えてんだろ…俺。
朝霧さんも俺も男だし、あの脳裏に浮かんだ映像も、ただ脳がバグっただけだろうし…
そう思いながらも、これとは別に以前から気になっていた事を思い切って聞いてみようという気になった。
「あの…朝霧さんは、春光さんとは幼馴染だったんですか?」
全て言い終えると、静かに朝霧の方を振り返った。
朝霧は突然で少し動揺したが、優を見据えたまま暫く沈黙した。
その内、ゆっくり朝霧の唇が動いた。
「ええ、そうです。幼い頃、貴方と私はいつも一緒でした。私は、ずっと貴方に、貴方に又会える事を信じて生きてきました…」
この一瞬も、花衣は風に攫われ散らされていく。
春の光は、夢の様に、おぼろげに、足速に消えて逝く。
0
お気に入りに追加
134
あなたにおすすめの小説
45歳のおっさん、異世界召喚に巻き込まれる
よっしぃ
ファンタジー
2月26日から29日現在まで4日間、アルファポリスのファンタジー部門1位達成!感謝です!
小説家になろうでも10位獲得しました!
そして、カクヨムでもランクイン中です!
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
スキルを強奪する為に異世界召喚を実行した欲望まみれの権力者から逃げるおっさん。
いつものように電車通勤をしていたわけだが、気が付けばまさかの異世界召喚に巻き込まれる。
欲望者から逃げ切って反撃をするか、隠れて地味に暮らすか・・・・
●●●●●●●●●●●●●●●
小説家になろうで執筆中の作品です。
アルファポリス、、カクヨムでも公開中です。
現在見直し作業中です。
変換ミス、打ちミス等が多い作品です。申し訳ありません。
男子高校生だった俺は異世界で幼児になり 訳あり筋肉ムキムキ集団に保護されました。
カヨワイさつき
ファンタジー
高校3年生の神野千明(かみの ちあき)。
今年のメインイベントは受験、
あとはたのしみにしている北海道への修学旅行。
だがそんな彼は飛行機が苦手だった。
電車バスはもちろん、ひどい乗り物酔いをするのだった。今回も飛行機で乗り物酔いをおこしトイレにこもっていたら、いつのまにか気を失った?そして、ちがう場所にいた?!
あれ?身の危険?!でも、夢の中だよな?
急死に一生?と思ったら、筋肉ムキムキのワイルドなイケメンに拾われたチアキ。
さらに、何かがおかしいと思ったら3歳児になっていた?!
変なレアスキルや神具、
八百万(やおよろず)の神の加護。
レアチート盛りだくさん?!
半ばあたりシリアス
後半ざまぁ。
訳あり幼児と訳あり集団たちとの物語。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
北海道、アイヌ語、かっこ良さげな名前
お腹がすいた時に食べたい食べ物など
思いついた名前とかをもじり、
なんとか、名前決めてます。
***
お名前使用してもいいよ💕っていう
心優しい方、教えて下さい🥺
悪役には使わないようにします、たぶん。
ちょっとオネェだったり、
アレ…だったりする程度です😁
すでに、使用オッケーしてくださった心優しい
皆様ありがとうございます😘
読んでくださる方や応援してくださる全てに
めっちゃ感謝を込めて💕
ありがとうございます💞
執着攻めと平凡受けの短編集
松本いさ
BL
執着攻めが平凡受けに執着し溺愛する、似たり寄ったりな話ばかり。
疲れたときに、さくっと読める安心安全のハッピーエンド設計です。
基本的に一話完結で、しばらくは毎週金曜の夜または土曜の朝に更新を予定しています(全20作)
信じて送り出した養い子が、魔王の首を手柄に俺へ迫ってくるんだが……
鳥羽ミワ
BL
ミルはとある貴族の家で使用人として働いていた。そこの末息子・レオンは、不吉な赤目や強い黒魔力を持つことで忌み嫌われている。それを見かねたミルは、レオンを離れへ隔離するという名目で、彼の面倒を見ていた。
そんなある日、魔王復活の知らせが届く。レオンは勇者候補として戦地へ向かうこととなった。心配でたまらないミルだが、レオンはあっさり魔王を討ち取った。
これでレオンの将来は安泰だ! と喜んだのも束の間、レオンはミルに求婚する。
「俺はずっと、ミルのことが好きだった」
そんなこと聞いてないが!? だけどうるうるの瞳(※ミル視点)で迫るレオンを、ミルは拒み切れなくて……。
お人よしでほだされやすい鈍感使用人と、彼をずっと恋い慕い続けた令息。長年の執着の粘り勝ちを見届けろ!
※エブリスタ様、カクヨム様、pixiv様にも掲載しています
料理屋「○」~異世界に飛ばされたけど美味しい物を食べる事に妥協できませんでした~
斬原和菓子
ファンタジー
ここは異世界の中都市にある料理屋。日々の疲れを癒すべく店に来るお客様は様々な問題に悩まされている
酒と食事に癒される人々をさらに幸せにするべく奮闘するマスターの異世界食事情冒険譚
こども病院の日常
moa
キャラ文芸
ここの病院は、こども病院です。
18歳以下の子供が通う病院、
診療科はたくさんあります。
内科、外科、耳鼻科、歯科、皮膚科etc…
ただただ医者目線で色々な病気を治療していくだけの小説です。
恋愛要素などは一切ありません。
密着病院24時!的な感じです。
人物像などは表記していない為、読者様のご想像にお任せします。
※泣く表現、痛い表現など嫌いな方は読むのをお控えください。
歯科以外の医療知識はそこまで詳しくないのですみませんがご了承ください。
病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない
月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。
人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。
2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事)
。
誰も俺に気付いてはくれない。そう。
2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。
もう、全部どうでもよく感じた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる