69 / 208
自由な速さで。
69話
しおりを挟む
少し離れ、見守る。リスクもなく、ただリターンがある。ここで会ったのもなにかの縁、記憶には残るだろうと楽しむことにした。
「もちろん」
と、女性は一瞬でチェリストのスイッチを入れる。空気が変わる。人々の雑踏が、耳に入らなくなる。想像するのは、劇作家ジャン・アヌイの『レオカディア』。
アルベール王子は、レオカディアという女性と出会い恋に落ちるが、三日後にレオカディアは事故で死去してしまう。悲しみに暮れる王子は、二年後、母の計らいによって、レオカディアそっくりのアマンダという女性と出会うことになる。そして三日間、レオカディアのように振る舞うように言い伝えられたアマンダは、ある歌を歌う。
プーランク『愛の小径』。同主調転調。急激に曲の雰囲気が変わる転調を採用し、なんとも言えないオシャレなパリの風情を感じさせる名曲。元はアマンダの歌曲なのだが、歌詞を読んでみても、楽しい思い出を語る前半と、絶望的な悲しみを語る後半に分かれる。しかしなぜか楽しい前半を暗い短調、悲しみの後半を明るい長調と、あべこべな作りとなっている。おそらくなにかしらの意図がある。
そんな『レオカディア』の物語を知ってか知らずか、女性の弾くチェロの音に聴衆は惹きつけられる。次第に雑踏の声は止み、囲うように人だかりができ、急いで撮影し出す者もいる。聴こえるのはチェロの優雅な音と、小鳥の囀り、木々の葉ずれ。
「……ねぇ、これ、たぶんだけど」
その演奏を聴きながら、ニコルは小さな声でブランシュに語りかけた。
そして、ブランシュも目を見開いて頷く。
「……はい、おそろしく上手いです」
大勢の人だかりの前で弾くのであれば、ある程度の腕前があるとは予想していた。だが、それを遥かに超える実力。ブランシュは感動よりも衝撃の方が強い。
音の焦点の合わせ方に迷いがない。おそらくC・G・Dの弦には、羊の腸を素材にしたガット弦、Aにはピラストロのクロムコアスチール。弓はトルテか。それぞれの特徴をよく理解している。
かつて、クリーヴランド管弦楽団で主席奏者であった、リン・ハレルが言っていた『チェロはメロウなものから、巨大な怒りまで表現できる』という言葉。ブランシュは初めて理解した。ホールでもない、反響の雑なこの場所で、心に響くチェロの音色。
五分ほどの演奏であったが、終わった瞬間、みなが正気に戻るまで二秒ほど要した。そして、喝采。からの、いつの間にか用意されていた、折り畳みの小さなカゴに、おひねりをどんどんと投入していく。そして、握手や記念撮影など。未来のスターかもしれない彼女に、お近づきになりたいのはパリの人々も同じ。
数分を要した後、人々は元の日常に溶け込んでゆく。荷物を片付け終え、女性はニコルとブランシュに再度声をかけた。
「やはり、大勢の前で弾くのは気持ちいいね。みんな盛り上がるし、おひねりももらえるし」
おひねりと聞き、うっ、とブランシュは苦い記憶を思い出し、ニコルを見る。お金を渡してくる人を信用できない。
「もちろん」
と、女性は一瞬でチェリストのスイッチを入れる。空気が変わる。人々の雑踏が、耳に入らなくなる。想像するのは、劇作家ジャン・アヌイの『レオカディア』。
アルベール王子は、レオカディアという女性と出会い恋に落ちるが、三日後にレオカディアは事故で死去してしまう。悲しみに暮れる王子は、二年後、母の計らいによって、レオカディアそっくりのアマンダという女性と出会うことになる。そして三日間、レオカディアのように振る舞うように言い伝えられたアマンダは、ある歌を歌う。
プーランク『愛の小径』。同主調転調。急激に曲の雰囲気が変わる転調を採用し、なんとも言えないオシャレなパリの風情を感じさせる名曲。元はアマンダの歌曲なのだが、歌詞を読んでみても、楽しい思い出を語る前半と、絶望的な悲しみを語る後半に分かれる。しかしなぜか楽しい前半を暗い短調、悲しみの後半を明るい長調と、あべこべな作りとなっている。おそらくなにかしらの意図がある。
そんな『レオカディア』の物語を知ってか知らずか、女性の弾くチェロの音に聴衆は惹きつけられる。次第に雑踏の声は止み、囲うように人だかりができ、急いで撮影し出す者もいる。聴こえるのはチェロの優雅な音と、小鳥の囀り、木々の葉ずれ。
「……ねぇ、これ、たぶんだけど」
その演奏を聴きながら、ニコルは小さな声でブランシュに語りかけた。
そして、ブランシュも目を見開いて頷く。
「……はい、おそろしく上手いです」
大勢の人だかりの前で弾くのであれば、ある程度の腕前があるとは予想していた。だが、それを遥かに超える実力。ブランシュは感動よりも衝撃の方が強い。
音の焦点の合わせ方に迷いがない。おそらくC・G・Dの弦には、羊の腸を素材にしたガット弦、Aにはピラストロのクロムコアスチール。弓はトルテか。それぞれの特徴をよく理解している。
かつて、クリーヴランド管弦楽団で主席奏者であった、リン・ハレルが言っていた『チェロはメロウなものから、巨大な怒りまで表現できる』という言葉。ブランシュは初めて理解した。ホールでもない、反響の雑なこの場所で、心に響くチェロの音色。
五分ほどの演奏であったが、終わった瞬間、みなが正気に戻るまで二秒ほど要した。そして、喝采。からの、いつの間にか用意されていた、折り畳みの小さなカゴに、おひねりをどんどんと投入していく。そして、握手や記念撮影など。未来のスターかもしれない彼女に、お近づきになりたいのはパリの人々も同じ。
数分を要した後、人々は元の日常に溶け込んでゆく。荷物を片付け終え、女性はニコルとブランシュに再度声をかけた。
「やはり、大勢の前で弾くのは気持ちいいね。みんな盛り上がるし、おひねりももらえるし」
おひねりと聞き、うっ、とブランシュは苦い記憶を思い出し、ニコルを見る。お金を渡してくる人を信用できない。
0
お気に入りに追加
8
あなたにおすすめの小説
【R18】もう一度セックスに溺れて
ちゅー
恋愛
--------------------------------------
「んっ…くっ…♡前よりずっと…ふか、い…」
過分な潤滑液にヌラヌラと光る間口に亀頭が抵抗なく吸い込まれていく。久しぶりに男を受け入れる肉道は最初こそ僅かな狭さを示したものの、愛液にコーティングされ膨張した陰茎を容易く受け入れ、すぐに柔らかな圧力で応えた。
--------------------------------------
結婚して五年目。互いにまだ若い夫婦は、愛情も、情熱も、熱欲も多分に持ち合わせているはずだった。仕事と家事に忙殺され、いつの間にかお互いが生活要員に成り果ててしまった二人の元へ”夫婦性活を豹変させる”と銘打たれた宝石が届く。
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
王太子さま、側室さまがご懐妊です
家紋武範
恋愛
王太子の第二夫人が子どもを宿した。
愛する彼女を妃としたい王太子。
本妻である第一夫人は政略結婚の醜女。
そして国を奪い女王として君臨するとの噂もある。
あやしき第一夫人をどうにかして廃したいのであった。
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
ずぶ濡れで帰ったら彼氏が浮気してました
宵闇 月
恋愛
突然の雨にずぶ濡れになって帰ったら彼氏が知らない女の子とお風呂に入ってました。
ーーそれではお幸せに。
以前書いていたお話です。
投稿するか悩んでそのままにしていたお話ですが、折角書いたのでやはり投稿しようかと…
十話完結で既に書き終えてます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる