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パリとベトナム。

196話

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 不満を膨らませた頬で表現しつつ、アニーはそっぽを向く。

「今日のユリアーネさん、厳しいっス」

 せっかく手に入れた代物なのに。〈ヴァルト〉に置いてきてしまった。鬱憤を晴らすべく、店員に注文を入れる。

 その内容を聞き、コーヒーを飲もうとしていたユリアーネの手が止まる。

「……蜂蜜入りの紅茶、ですか?」

 要求は蜂蜜。すでにスプーンを手にして混ぜる気満々のアニー。唇を突き出す。

「? なんかおかしいっスか? 結構合うんですよ、シシーさんも褒めてくれましたし」

 鼻歌混じりで、キッチンのほうに消えていった店員のあとを視線で追ってみる。追加でミルクティー。飲み終わったら最後はレモンティーで締める。彼女なりの紅茶への敬意の表れ。たまに順番が前後したり、さらに追加したり逆に減ったりもする。

「そう、ですか……」

 コーヒーにも蜂蜜は合う。紅茶にも合うと。だから問題などなにもないはずなのに。ユリアーネの心にまたも引っかかる名前。憧れているはずの人なのに。ボディブローのようにじわじわと効いてくる。くらったことないけども。

 そして話は再度、あの人物へ。

「いやー、いい香りっスよね。ライチやグレープフルーツの爽やかさ、ローズやカシュメランの優雅な包容力。あれぞお姉様って感じっス」

 独特な評価を述べつつアニーは酔いしれる。今回も口利きをしてくれたことでパリに来れたわけで。こういう方には尊敬の念を抱くのみ。

 人懐っこい彼女なら、どなたとでも仲良くなれることは〈ヴァルト〉でも実感済み。だが過去を思い返すユリアーネに懸念点がある。

「……初めてお会いした時、なにか疑っていませんでしたか?」

 たしかクラフトコーラを飲んだ時の朝、だったと思う。シシー・リーフェンシュタールという名前すら知らないで会話をし、その際に「隠している」と嗅覚が告げたらしいこと。

 などということをアニーは覚えているはずもなく。嗅覚というものは記憶とリンクしている、いわゆるプルースト現象もなんのその。興味がないことはすぐに忘れる都合のいい脳を持つ。

「そうでしたっけ? でもその妖しさも魅力的です。あ、ユリアーネさんはそれとはまたちょっと違うんですけど、こう、天使のような」

 体をくねらせ、よくわからないジェスチャーで伝える。天使。羽。鳥。やっぱ鶏肉だなぁ、今夜は。

「……ありがとうございます」

 と返すユリアーネの頭の中は、色々とこんがらがってきた。コーヒーの味がよくわからなくなるほどに。いや、別に取られるとか。そういうのではないのだが、なにか心がざわつく。

 手の届くところにいる存在が、それなのに触れられなくなるような。伸ばした手が空を切るような。わからない。注意深く、というのも違う気がする。言いようのない不安。

「? どうかしたっスか? やっぱり今日のユリアーネさん、少し変ス。疲れがきましたか?」

 気遣うアニー。今日、というかここ最近。それか〈ヴァルト〉の心配? やっぱり物価上昇の波がキツいのだろうか。物価が上がったぶんだけ、給料も上げなくてはならない。って店長言ってましたし。

 自分でもわかっている。なにか変だ、ということに。ユリアーネは答えが出せないまま、まわりに迷惑をかけている。なんとかしなきゃ。

「そう……かもしれませんね。隣国とはいえ、外国ですから。気づかないうちにひとつひとつ気を張ってたのかもしれません」

 そういうことにしておく。きっと。そうなのだと信じたい。
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