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コン・フォーコ
25話
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「ではまず、水揚げについていくつか注意点を言っておきます」
「お願いしますシャルル先生」
「……なんか慣れませんね、『先生』っていう呼び方」
入るものを拒むかのような重々しい片開き扉の難関をいとも容易く駆け抜け、店内に入り込んだ風が花の香りと混ざり合う。天然のアロマを思わせる優美で可憐な香りは、そこに存在する者の気持ちを安らげ、俗世の痛みを忘れさせる。
この小さな花屋によって、一人のピアニストが救われてから数日が経った。心に痛みを伴っていたそのピアニストも、今ではかつての純粋に楽しんでいた頃の音を思い出し、その枯れかけていた心の土台には、柔らかな水分を伴った土が敷かれている。
もう二度と揺らぐことのない、夏の台風ですら耐え抜く頑丈さを備えたそのピアニストの花の咲く大地に、もう一本の苗木が植えられた。それは『フローリスト』という小さな苗木であった。
「でも、やっぱりこういうのは形から入ったほうがいいと思うんだ。だから『先生』って。他の呼び方のほうがいい?」
「……もうなんでもいいです」
少女よりも二回り小さな少年は、少し年の離れた自由奔放な、しかし花に対する姿勢や知識、その他諸々から尊敬の念も抱いている姉を持ち、呆れを纏った表情を日に何度か浮かべることがある。その時と同じ疲れを、一人のピアニスト兼フローリストからも感じる。最近は溜め息が倍に増え、二酸化炭素を大目に排出しているのではないか。
「では先生、ご指導ご鞭撻のほう、よろしくお願いします」
恭しくお辞儀をするベルを見ると、いつものフレンドリーすぎるくらいに接してくる姿とはかけ離れ、不思議と品よく見えてきた。だが、それと同時にシャルルは背中がむず痒くもなる。なにか違うと。
「……やっぱり普段通りでお願いします。なんか……馴れません」
「普段どおりってこう?」
「だから抱きつかないでください!」
隙を見せると抱きついてくる先輩を押しのけつつ、姉に見られたらまたややこしくなるとシャルルは懸念した。その姉は現在出かけてまだ帰って来る気配がないのは幸いしていたとしか言いようがない。ベルの抱きつきに対しては恥ずかしさの、姉に見られたらまずい、という意味で一瞬体が強張った。
姉であるベアトリスは、なぜか他人、特に弟に対しては常に上にありたいという信念のようなものを抱いている。他人が弟に対して施したことは自分もやらねば気が済まない。「雲みたいに掴みどころがない」と揶揄されるそれは、すでに彼が物心ついた時からそうであった。諦めるしかないのか、とシャルルは頭が痛い。
「そう? あたしもやっぱ仰々しいのは苦手かな」
「自分から言いだしたのに……」
今のシャルルにとって、そんな姉がもう一人増えたような気分だった。わざとらしく咳払いをして場を正す。
「では、水揚げをすることによって花を長持ちさせることができますが、その際の注意点を挙げてみます」
「お願いしますシャルル先生」
「……なんか慣れませんね、『先生』っていう呼び方」
入るものを拒むかのような重々しい片開き扉の難関をいとも容易く駆け抜け、店内に入り込んだ風が花の香りと混ざり合う。天然のアロマを思わせる優美で可憐な香りは、そこに存在する者の気持ちを安らげ、俗世の痛みを忘れさせる。
この小さな花屋によって、一人のピアニストが救われてから数日が経った。心に痛みを伴っていたそのピアニストも、今ではかつての純粋に楽しんでいた頃の音を思い出し、その枯れかけていた心の土台には、柔らかな水分を伴った土が敷かれている。
もう二度と揺らぐことのない、夏の台風ですら耐え抜く頑丈さを備えたそのピアニストの花の咲く大地に、もう一本の苗木が植えられた。それは『フローリスト』という小さな苗木であった。
「でも、やっぱりこういうのは形から入ったほうがいいと思うんだ。だから『先生』って。他の呼び方のほうがいい?」
「……もうなんでもいいです」
少女よりも二回り小さな少年は、少し年の離れた自由奔放な、しかし花に対する姿勢や知識、その他諸々から尊敬の念も抱いている姉を持ち、呆れを纏った表情を日に何度か浮かべることがある。その時と同じ疲れを、一人のピアニスト兼フローリストからも感じる。最近は溜め息が倍に増え、二酸化炭素を大目に排出しているのではないか。
「では先生、ご指導ご鞭撻のほう、よろしくお願いします」
恭しくお辞儀をするベルを見ると、いつものフレンドリーすぎるくらいに接してくる姿とはかけ離れ、不思議と品よく見えてきた。だが、それと同時にシャルルは背中がむず痒くもなる。なにか違うと。
「……やっぱり普段通りでお願いします。なんか……馴れません」
「普段どおりってこう?」
「だから抱きつかないでください!」
隙を見せると抱きついてくる先輩を押しのけつつ、姉に見られたらまたややこしくなるとシャルルは懸念した。その姉は現在出かけてまだ帰って来る気配がないのは幸いしていたとしか言いようがない。ベルの抱きつきに対しては恥ずかしさの、姉に見られたらまずい、という意味で一瞬体が強張った。
姉であるベアトリスは、なぜか他人、特に弟に対しては常に上にありたいという信念のようなものを抱いている。他人が弟に対して施したことは自分もやらねば気が済まない。「雲みたいに掴みどころがない」と揶揄されるそれは、すでに彼が物心ついた時からそうであった。諦めるしかないのか、とシャルルは頭が痛い。
「そう? あたしもやっぱ仰々しいのは苦手かな」
「自分から言いだしたのに……」
今のシャルルにとって、そんな姉がもう一人増えたような気分だった。わざとらしく咳払いをして場を正す。
「では、水揚げをすることによって花を長持ちさせることができますが、その際の注意点を挙げてみます」
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