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オーベルテューレ
22話
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翌日、シャルルはベルと初めて会ったあの信号機で止まっていた。人口密度が高い街の中で、取り残されたような感覚に陥る。お客様に対して思うこと、胸によぎるのは『今、ほんの少しでも幸せでいるか』である。
自分のやったことがマイナスに転がることもある。その場合はすべて責任はフローリストが背負うべきものだ。やりがいと不安の狭間で揺れるのは当然のことでもある。
しかし成功した時の充実感があるのもまた事実であり、それは言葉にできないほどのもので、それを感じたくてフローリストをやめられないのである。
「先輩のピアノ、少し聴いてみたかったかも」
昨日の彼女の晴れ渡った笑顔を思い出すと、おそらく魅力的な演奏になることは考えるに難しくない。ピアノに詳しくないシャルルだが、それは本心から出たものだった。姉はやたら詳しいが、そもそも弾いているのを見たことがない。本物のピアニストの生演奏とはどんなものなのか、少し気になりだしていた。
車用の信号機が黄色く点滅し、歩行者が許されるまでの数秒。シャルルの視界がぼやけた。
「うん……? なんか、世界が――」
「だーれだ?」
背後から聞こえる声、それは近いうちに泣き声や怒声、感声など、様々に聞いた気がするものだった。そしてその唇の柔らかさも。その人物が眼鏡を奪い取ったのだ。
元々悪い視力で、さらに矯正器具まで失ったシャルルは、ゆっくりと振り向いた。
「――ベル、先輩」
輪郭の曖昧な固体ではあるが、紛れもなく彼女だった。なんとなく昨日の別れ際を思い出すと、自分の顔が赤くなってゆくのがわかる。
ついシャルルが左の頬をさすると、それに気付いたベルも自分の唇を、眼鏡を持っていない左手のしなやかな流体を思わせる指で触れた。
「あ……いや、あはは……」
自分の昨日の行為を思い出すと、よくもまぁあんな恥ずかしいことが出来たものだ、と反省した。挨拶でもなんでも、キスはどちらかというと男性側からするのが常である。魔が差した、というやつか。
「それよりどうしたんです? 今日もなにか、っていうか家がこっちの方角だったんですか?」
眼鏡を返してもらったシャルルがはっきりと焦点を合わせて彼女の光を捉える。
「いや、家じゃなくて、でも目的地がこっちっていうか、そんな感じ」
「?」
「それよりさ、昨日手に持ってた箱ってあの容器よね。どうしてあたしが〈ソノラ〉を探してるってわかったの? ベアトリスさんは『フローリストだから』って言ってたけど」
緑に光る信号機を確認し、二人は並んで歩きだす。先に疑問を切り出したのはベルだった。昨日ベアトリスから言われたことが未だに腑に落ちず、フローリストとは超能力を身につけることから始まるのではないか、などと突飛なことも考えた。
が、その苦悶の種はあっさりとシャルルの一言で取り払われた。
「姉さんが? またそんな意味のない嘘を……だって先輩、〈ソノラ〉の住所を書いた紙を持って立ち止まってたじゃないですか」
「あ――」
そういえばそうだ、とベルは苦言を呈した。なんの捻りもない、ただの当然すぎる結果だったのだ。
「それでアベニューで会った時も、どう考えても着いてていいはずの頃合なのに、道の真ん中で立ち尽くしてるからどうしたんだろうって。僕は容器を探してたら、ついその店の店員さんと話しこんでしまって」
屈託のなく笑ってごまかすシャルル。
あまりにも単純な解答に、ベルは細く華奢な方をすくめた。力が抜けるのを肌で感じる。その場に崩れ落ちないか心配である。
「そう、だったんだ」
「全く姉さんは子供なんだから……」
自分のやったことがマイナスに転がることもある。その場合はすべて責任はフローリストが背負うべきものだ。やりがいと不安の狭間で揺れるのは当然のことでもある。
しかし成功した時の充実感があるのもまた事実であり、それは言葉にできないほどのもので、それを感じたくてフローリストをやめられないのである。
「先輩のピアノ、少し聴いてみたかったかも」
昨日の彼女の晴れ渡った笑顔を思い出すと、おそらく魅力的な演奏になることは考えるに難しくない。ピアノに詳しくないシャルルだが、それは本心から出たものだった。姉はやたら詳しいが、そもそも弾いているのを見たことがない。本物のピアニストの生演奏とはどんなものなのか、少し気になりだしていた。
車用の信号機が黄色く点滅し、歩行者が許されるまでの数秒。シャルルの視界がぼやけた。
「うん……? なんか、世界が――」
「だーれだ?」
背後から聞こえる声、それは近いうちに泣き声や怒声、感声など、様々に聞いた気がするものだった。そしてその唇の柔らかさも。その人物が眼鏡を奪い取ったのだ。
元々悪い視力で、さらに矯正器具まで失ったシャルルは、ゆっくりと振り向いた。
「――ベル、先輩」
輪郭の曖昧な固体ではあるが、紛れもなく彼女だった。なんとなく昨日の別れ際を思い出すと、自分の顔が赤くなってゆくのがわかる。
ついシャルルが左の頬をさすると、それに気付いたベルも自分の唇を、眼鏡を持っていない左手のしなやかな流体を思わせる指で触れた。
「あ……いや、あはは……」
自分の昨日の行為を思い出すと、よくもまぁあんな恥ずかしいことが出来たものだ、と反省した。挨拶でもなんでも、キスはどちらかというと男性側からするのが常である。魔が差した、というやつか。
「それよりどうしたんです? 今日もなにか、っていうか家がこっちの方角だったんですか?」
眼鏡を返してもらったシャルルがはっきりと焦点を合わせて彼女の光を捉える。
「いや、家じゃなくて、でも目的地がこっちっていうか、そんな感じ」
「?」
「それよりさ、昨日手に持ってた箱ってあの容器よね。どうしてあたしが〈ソノラ〉を探してるってわかったの? ベアトリスさんは『フローリストだから』って言ってたけど」
緑に光る信号機を確認し、二人は並んで歩きだす。先に疑問を切り出したのはベルだった。昨日ベアトリスから言われたことが未だに腑に落ちず、フローリストとは超能力を身につけることから始まるのではないか、などと突飛なことも考えた。
が、その苦悶の種はあっさりとシャルルの一言で取り払われた。
「姉さんが? またそんな意味のない嘘を……だって先輩、〈ソノラ〉の住所を書いた紙を持って立ち止まってたじゃないですか」
「あ――」
そういえばそうだ、とベルは苦言を呈した。なんの捻りもない、ただの当然すぎる結果だったのだ。
「それでアベニューで会った時も、どう考えても着いてていいはずの頃合なのに、道の真ん中で立ち尽くしてるからどうしたんだろうって。僕は容器を探してたら、ついその店の店員さんと話しこんでしまって」
屈託のなく笑ってごまかすシャルル。
あまりにも単純な解答に、ベルは細く華奢な方をすくめた。力が抜けるのを肌で感じる。その場に崩れ落ちないか心配である。
「そう、だったんだ」
「全く姉さんは子供なんだから……」
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