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オーベルテューレ
19話
しおりを挟む「ほれ、仕上げだシャルル。まだこれで終わりじゃないんだろ?」
「もちろん」
不意をつく言葉に、一瞬ベルの思考が停止した。まだ、終わりじゃない?
「仕上、げ?」
たどたどしい口調でシャルルに問い詰めると、ユリの花弁を掌に乗せて一呼吸置いた後にしみじみと語りだした。
「なぜメインとしてユリを置いたか、わかりますか?」
「え、だって鍵盤をイメージして、なんじゃ――」
「もしそれだけだったら七○点だったがな」
厳しいな、とシャルルは肩をすくめて語を続ける。
「花言葉、というものをご存知ですか? すべての花には語る言葉、意味があるんです。例えばバラなら種類にもよりますが、『愛』や『美』などでしょうか」
「ユーストマは『よい語らい』、ガーベラは『悲しみ』、カサブランカは『威厳』、色の付いたカラーは『情熱』といったところか。意味は一つじゃなかったりするがな」
使用したユリ以外の花言葉を淡々とベアトリスは補う。
だが、だからこそユリの花言葉をベルは余計知りたくなった。
視線で呼びかけられたシャルルは、目を瞑り胸に手を当てた。
「――『無邪気』です」
「むじゃ、き……?」
はい、とシャルルは頷く。
「誰しも、それを好きになった経緯が必ずあるものです。その道のプロであれアマチュアであれです。そしてもしその道を進もうと思ったときは、富や名声でなく、ただ単に『好きだから』『楽しいから』が根底にあったはずなんです。それをもう一度確かめてみる、これはそのための、ベル先輩への一作です」
いつからだろう、才能などとつまらないことを考えるようになったのは。
思い出すのは、ペダルまで足が届かなかった自分の代わりに、そして一緒に弾いて、そして抱きしめてくれた母親と、弾き終えると頭を撫でてくれた父親の姿。
ただ、ピアニストになると純粋に信じていたあの時。
家族、そして自分のために弾いていたあの楽しい時間。ふと、ユリからイ短調が聴こえた気がした。
「……限界って、なんだと思う?」
心地よい沈黙の後、花を真上から覗き込み、表情がばれないようにベルはシャルルの答えを待つ。
しかし、泣いているのはバレバレである。
シャルルは呆れ顔のベアトリスと顔を見合わせた。
「私は知らんぞ」という細かなベアトリスの合図を感覚でシャルルは受け取った。だから彼は自分にとってのそれを言葉にして取り次いだ。
「『苦しみは人間を強くするか、それとも打ち砕くか、自分の内に持っている素質に応じてどちらかになる』。熱が冷めないのであれば、前者であると、僕は信じたいです」
「カール・ヒルティだな」
ベアトリスが言った学者かなにの名前は聞いたことなかったが、ベルから迷いが消えた。
もしかしたらそれはとっくに気付いていたのかもしれない、でも確信を持って今なら言えた。
このシードルにも届くように、小さいが、精一杯の力を詰め込んで、心の底から湧いてくる形のない物質を凝縮させた。
「あたし……ピアノが好き、大好き……」
やっと言えたその言葉。
それを待っていたかのように、ベアトリスが頬杖をついて提言する。
「だったらさっさと帰って弾くのがいいんじゃないのか? 『思い立ったが吉日』だ。よく覚えておけ」
「どこの国の言葉なの、それ?」
「忘れた」
そのやり取りに声を出してベルは笑った。どこが面白かったのかわからない、と姉弟は顔を見合わせたが、まぁいいか、と息を吐いた。
芯の通った瞳。その濁りのないヴァイオレットでベルはお願いをする。
「ねぇ、これ貰ってもいい? って、売り物か。お願い、売ってくれない?」
「もちろん」
不意をつく言葉に、一瞬ベルの思考が停止した。まだ、終わりじゃない?
「仕上、げ?」
たどたどしい口調でシャルルに問い詰めると、ユリの花弁を掌に乗せて一呼吸置いた後にしみじみと語りだした。
「なぜメインとしてユリを置いたか、わかりますか?」
「え、だって鍵盤をイメージして、なんじゃ――」
「もしそれだけだったら七○点だったがな」
厳しいな、とシャルルは肩をすくめて語を続ける。
「花言葉、というものをご存知ですか? すべての花には語る言葉、意味があるんです。例えばバラなら種類にもよりますが、『愛』や『美』などでしょうか」
「ユーストマは『よい語らい』、ガーベラは『悲しみ』、カサブランカは『威厳』、色の付いたカラーは『情熱』といったところか。意味は一つじゃなかったりするがな」
使用したユリ以外の花言葉を淡々とベアトリスは補う。
だが、だからこそユリの花言葉をベルは余計知りたくなった。
視線で呼びかけられたシャルルは、目を瞑り胸に手を当てた。
「――『無邪気』です」
「むじゃ、き……?」
はい、とシャルルは頷く。
「誰しも、それを好きになった経緯が必ずあるものです。その道のプロであれアマチュアであれです。そしてもしその道を進もうと思ったときは、富や名声でなく、ただ単に『好きだから』『楽しいから』が根底にあったはずなんです。それをもう一度確かめてみる、これはそのための、ベル先輩への一作です」
いつからだろう、才能などとつまらないことを考えるようになったのは。
思い出すのは、ペダルまで足が届かなかった自分の代わりに、そして一緒に弾いて、そして抱きしめてくれた母親と、弾き終えると頭を撫でてくれた父親の姿。
ただ、ピアニストになると純粋に信じていたあの時。
家族、そして自分のために弾いていたあの楽しい時間。ふと、ユリからイ短調が聴こえた気がした。
「……限界って、なんだと思う?」
心地よい沈黙の後、花を真上から覗き込み、表情がばれないようにベルはシャルルの答えを待つ。
しかし、泣いているのはバレバレである。
シャルルは呆れ顔のベアトリスと顔を見合わせた。
「私は知らんぞ」という細かなベアトリスの合図を感覚でシャルルは受け取った。だから彼は自分にとってのそれを言葉にして取り次いだ。
「『苦しみは人間を強くするか、それとも打ち砕くか、自分の内に持っている素質に応じてどちらかになる』。熱が冷めないのであれば、前者であると、僕は信じたいです」
「カール・ヒルティだな」
ベアトリスが言った学者かなにの名前は聞いたことなかったが、ベルから迷いが消えた。
もしかしたらそれはとっくに気付いていたのかもしれない、でも確信を持って今なら言えた。
このシードルにも届くように、小さいが、精一杯の力を詰め込んで、心の底から湧いてくる形のない物質を凝縮させた。
「あたし……ピアノが好き、大好き……」
やっと言えたその言葉。
それを待っていたかのように、ベアトリスが頬杖をついて提言する。
「だったらさっさと帰って弾くのがいいんじゃないのか? 『思い立ったが吉日』だ。よく覚えておけ」
「どこの国の言葉なの、それ?」
「忘れた」
そのやり取りに声を出してベルは笑った。どこが面白かったのかわからない、と姉弟は顔を見合わせたが、まぁいいか、と息を吐いた。
芯の通った瞳。その濁りのないヴァイオレットでベルはお願いをする。
「ねぇ、これ貰ってもいい? って、売り物か。お願い、売ってくれない?」
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