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1話
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「ビリヤードのナインボール、最後に九番のボールを落としたら勝ち。数字の低い方から順番に落としていくんだけど、一から八までは全部相手が落としても、九を落としたら自分の勝ちだ」
ドイツ・ミュンヘンにあるビール醸造所のレストラン。高い天井、白を基調とした壁には、所縁のある風景画などが掲げられ、比較的明るさを抑えた電球色の蛍光灯が照らす。その他、店主の趣味か、猟銃や鹿の剥製なども飾り付けられ、居心地の良い店内に一役買っている。
ドイツでは酒場での相席は当たり前となっており、初対面でも酒を酌み交わすのはお国柄と言っていいだろう。長い木造の机とイスとビールとヴルスト。それだけで会話は止まらない。実際、この場にいる多くの人間が初対面だったりする。
その喧騒の片隅で、ひとりの若者と中年の男性がチェス盤を挟んで座っている。例に漏れず初対面。若者の声は鋭く、他の音に埋もれず、掻い潜り中年男性の耳に刺さる。
八×八の盤上にポーンを八、ルークを二、ナイトを二、ビショップを二、クイーンとキングをひとつずつ、お互いに準備。お互いに指したら、残り時間を示すチェスクロックを押す。駒を動かしながら、相手のキングを詰ませたら勝ち。それがチェス。
何千年も形を変えながらも、世界で今現在も五億を超えるプレイヤーを生み出しているボードゲーム。特にヨーロッパなどでは、街中にチェス盤があったり、こういった大衆の集まる場所には高確率でプレーしている者がいる。
先手の白い駒を操る男性は、ビールのジョッキをグイっと飲み干す。相当飲んでいるはずだが、酔っている様子はない。むしろ頭が冴えてくる。キンキンに冷えたビールが、全身を巡って細胞を活性化させる。
「それくらいは知ってる。で、なんで今その話をする?」
少し不機嫌気味に、ジョッキをテーブルに叩きつける。その音に一瞬、近くにいた人々は驚くが、すぐさま自分達の話題に戻っていく。
頬杖をつきながら若者は不敵に笑みを浮かべた。相手の苛立ちを肌で感じつつも、余裕は崩さない。この程度の威圧など、今までに何度も感じてきた。
「これってさぁ、色んなスポーツにも当てはまると思うんだよな。野球も、スノボーも、ボクシングも、最後の最後にヒョイっと大逆転が起きる。満塁ホームランに、最後の滑走のとんでもないエア、残り数秒のラッキーパンチ。盛り上げるなら大逆転一択だ」
「……どこで間違えた?」
顎に手を置きながら、男性はチェス盤を深く覗き込む。顔は紅潮しているが、酒の影響だけではないだろう。手玉に取られた、とその様子から容易に想像できる。
「九手前のクイーンをg3に動かしたところ。ポーンをテイクせずに、g1でチェックをかけるべきだった。その後、ドローで逃げようってのはわかるんだけど、クイーン同士でエンディングに至る道筋の勉強が足りてなかったみたい。んで、最後に大逆転。ナインボールゲット」
対局の途中ではあるが、もう戻ることはできない。丁寧に分水嶺となった部分の解説を始める。お互いにこの先の流れはわかっている。数手先で後手の黒い駒の若者が勝つ。
チェス歴四〇年以上。男性は腕には多少なりとも自信があった。ここいらでは上から数えた方が早い腕前を持っているとの自覚もある。が、歴と同じくらい歳が離れているであろう子供に終始圧倒されて終わった。中盤まで自分の方が有利、と思っていたのは、相手の手のひらで踊っていただけ。チェスはドローが多いゲームではあるが、それすらも許されず。
「……お前、グランドマスターか?」
チェス界の最高峰の称号、グランドマスター。実際に対局したことはないが、もし対局したらこれほどまでに差を痛感するのではないか、と考えていた。それが今、目の前で起きた。
「バカな。グランドマスターはもっと強いだろ。ただの野良真剣師」
ビショップを右手の親指と人差し指で挟み、揺らしながら、若者は男性の問いに答えた。謙遜しているが、もしやり合うことになっても、負ける気はしない。そういう意志の強さを感じる。
頭を抱え込んだ男性は勢いよく顔を上げ、ひとつ大きくため息をついた。
ドイツ・ミュンヘンにあるビール醸造所のレストラン。高い天井、白を基調とした壁には、所縁のある風景画などが掲げられ、比較的明るさを抑えた電球色の蛍光灯が照らす。その他、店主の趣味か、猟銃や鹿の剥製なども飾り付けられ、居心地の良い店内に一役買っている。
ドイツでは酒場での相席は当たり前となっており、初対面でも酒を酌み交わすのはお国柄と言っていいだろう。長い木造の机とイスとビールとヴルスト。それだけで会話は止まらない。実際、この場にいる多くの人間が初対面だったりする。
その喧騒の片隅で、ひとりの若者と中年の男性がチェス盤を挟んで座っている。例に漏れず初対面。若者の声は鋭く、他の音に埋もれず、掻い潜り中年男性の耳に刺さる。
八×八の盤上にポーンを八、ルークを二、ナイトを二、ビショップを二、クイーンとキングをひとつずつ、お互いに準備。お互いに指したら、残り時間を示すチェスクロックを押す。駒を動かしながら、相手のキングを詰ませたら勝ち。それがチェス。
何千年も形を変えながらも、世界で今現在も五億を超えるプレイヤーを生み出しているボードゲーム。特にヨーロッパなどでは、街中にチェス盤があったり、こういった大衆の集まる場所には高確率でプレーしている者がいる。
先手の白い駒を操る男性は、ビールのジョッキをグイっと飲み干す。相当飲んでいるはずだが、酔っている様子はない。むしろ頭が冴えてくる。キンキンに冷えたビールが、全身を巡って細胞を活性化させる。
「それくらいは知ってる。で、なんで今その話をする?」
少し不機嫌気味に、ジョッキをテーブルに叩きつける。その音に一瞬、近くにいた人々は驚くが、すぐさま自分達の話題に戻っていく。
頬杖をつきながら若者は不敵に笑みを浮かべた。相手の苛立ちを肌で感じつつも、余裕は崩さない。この程度の威圧など、今までに何度も感じてきた。
「これってさぁ、色んなスポーツにも当てはまると思うんだよな。野球も、スノボーも、ボクシングも、最後の最後にヒョイっと大逆転が起きる。満塁ホームランに、最後の滑走のとんでもないエア、残り数秒のラッキーパンチ。盛り上げるなら大逆転一択だ」
「……どこで間違えた?」
顎に手を置きながら、男性はチェス盤を深く覗き込む。顔は紅潮しているが、酒の影響だけではないだろう。手玉に取られた、とその様子から容易に想像できる。
「九手前のクイーンをg3に動かしたところ。ポーンをテイクせずに、g1でチェックをかけるべきだった。その後、ドローで逃げようってのはわかるんだけど、クイーン同士でエンディングに至る道筋の勉強が足りてなかったみたい。んで、最後に大逆転。ナインボールゲット」
対局の途中ではあるが、もう戻ることはできない。丁寧に分水嶺となった部分の解説を始める。お互いにこの先の流れはわかっている。数手先で後手の黒い駒の若者が勝つ。
チェス歴四〇年以上。男性は腕には多少なりとも自信があった。ここいらでは上から数えた方が早い腕前を持っているとの自覚もある。が、歴と同じくらい歳が離れているであろう子供に終始圧倒されて終わった。中盤まで自分の方が有利、と思っていたのは、相手の手のひらで踊っていただけ。チェスはドローが多いゲームではあるが、それすらも許されず。
「……お前、グランドマスターか?」
チェス界の最高峰の称号、グランドマスター。実際に対局したことはないが、もし対局したらこれほどまでに差を痛感するのではないか、と考えていた。それが今、目の前で起きた。
「バカな。グランドマスターはもっと強いだろ。ただの野良真剣師」
ビショップを右手の親指と人差し指で挟み、揺らしながら、若者は男性の問いに答えた。謙遜しているが、もしやり合うことになっても、負ける気はしない。そういう意志の強さを感じる。
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