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鮭のセクロス
しおりを挟む彼は群れの中でも特に大きさや力に秀でていたわけではない、ごくごく普通で平均的なオスであった。
何か他の個体とは異なる著しい動きをするとか、特徴的な目立つ外観であるといったようなことは一切なく、良くも悪くもあらゆる個性というものを置き去りにして只管(ひたすら)数ある仲間達の中に埋没している、そんな個体であったのだ。
結果的にはそれが功を奏したのかもしれない。
初めてこの世に生まれ出た母なる川から大洋に出ていったときも。
わけもわからず無我夢中で仲間達についていった長い道行の間も。
やがてたどり着いた北海の荒波の中でも。
幾多の同胞達が恐ろしい外敵や否応も無く襲ってくる自然の脅威に命を落としていったのだが。
群れの中に埋没して必死でただ己のことを考えていただけで何とかこれまで生き延びてこれたのだった。
そんな幸運が続いたことで、とうとう「彼」も自分が一体何をするために生まれたのかを理解するところまで成長してしまった。
あるのが当然として受け入れていた豊富な食料を無心で貪っていたある日。
北海の過ごしやすい温(ぬる)さの水の中に、ひんやりとした冷たさが混じり始めたと思ったとき。
突如生まれた強烈な衝動。
それは周囲を囲む、数匹の仲間を身近に感じたときに激しく湧き上がってきた。
生来の能力を遺憾なく発揮して海流を掻き分けて力強い泳ぎを見せる彼女達。
暗い水中でキラリと美しく白金(しろがね)に光るしなやかな肌をこれでもかと見せ付けながら。
彼はそんな彼女たちを認識した瞬間に、抑えられない凶暴な渇望が己の中に湧き上がるのをはっきりと感じた。
狂おしく込み上げてくる、とても純粋で利己的な。
一方的にそれを満たしたいという思いでいっぱいになってしまうのがわかった。
これまで彼を支配していた食欲とは似て非なるものながら負けずとも劣らない。
その新たな欲求の強さに彼は慄いた。
ただ、その何かが具体的に何なのかは未だよくわからない。
はっきりと己の中に存在する欲求が一体何か、どうすれば解消されるのかまったくわからない苛立ちに包まれながら、それをごまかすかのようにそれまで以上に大量の食料を食いあさる。
唯一薄ぼんやりとわかったのは、ここではないどこか、遥か遠くで成就されるものなのだということだけであった。
そうして始まった大移動。
動き出したときには行き先はもうはっきりと理解していた。
自分たちが生まれたあの母なる川。
とても急峻で身体を傷つけ死に絶えることすら覚悟せざるをえない、決してやさしくはないが自分たちにとっては無くてはならない、生まれ出でた苦痛と幸福の象徴たる郷愁の場所。
この衝動はそこでこそ解消されるものなのだ。
あの激しく厳しい急流の中でこそ成就されて全てが解放されることになるのだ。
誰に教わるわけでもない。
彼の中にある太古から連綿と続く二重螺旋の形をした生命の鎖が齎(もたら)すビジョンがなんの不整合も無い唐突の理解と行動を為さしめる。
道行は辛く苦しいものであった。
多くの仲間達が脱落していった。
その中には彼が渇望していたメスもたくさんあった。
オスが死ぬ分にはさほども心を動かされなかったが、そうして本能の衝動の矛先を向けようと算段していた者達が死に絶えていくことには何か勿体無いような惜しいような、美味しい物をうっかり食べはぐったようなやきもきした焦燥感が彼を襲う。
だからといって自分に何か出来ることがあるわけでもない。
さらにはより強く激しい想いと衝動に支配されていたので、そんな僅かに生まれた他の個体を慮るような感情はすぐにちぎれてどこかに消えていく。
碌に食べる暇も無く空っぽの胃袋がもだえながら叫び続ける食欲すら無視して凌駕する、強烈で狂おしい謎の渇望。
いまやそれだけが彼を成り立たせていた。
無情にすべてを洗い流して押し戻そうと身体を苛む激流も。
そこかしこに横たわり自分たちを打ち据えて元に戻らないほど破壊しようとする冷たく硬い岩石も。
何とか乗り越えていけたのは、己を完全に夢中にさせて他のことなど考えられぬようにした恐ろしいまでに強烈な衝動のためであった。
それは彼の生命自体が燃焼して激しいエネルギーを撒き散らすことで発生した物理的な反応そのものであった。
もうこの旅の終着点も近いことを感じている。
自分を支配する想いはすでにはちきれんばかりになって、暴力的な勢いをもって解放されようとずっとどくんどくんと脈動を続けている。
ああ、まだなのか。
もう限界だ。
もうあとちょっと。
ああ、見えた!
そこは行く手を阻む最大の難所であったのだが、憑かれたようにその向こうに待ち受けているであろう光景以外になにも見えなくなっていた彼は、自分でも自覚しないままに大きく羽ばたいて中空を飛んでいた。
生まれてから己の周囲に満ちて常にやさしく包み込んで絶えたことがない、慣れ親しんだ液体がないことも理解せずに、ひたすら無我夢中で己の本来の生息域を一瞬だけ乗り越えた。
彼らにとっては非日常的で特別な高次元へのアクセスをその時確かに自分の物としたのだ。
そうしてわけのわからない恍惚感と、ずっと続いている渇望だけに包まれてたどり着いた場所には彼同様にごくごく一部の選ばれた者達、まごうことなきエリートたちが最後の仕事を為そうとひしめき合っていた。
……約束の地。
そんな感慨など微塵も持つことなく、すぐに動き出す。
我慢できないほどの衝動はそのままだったし、何よりその時には彼も自分を間も無く待ち受ける運命を理解し始めていた。
かつて安穏とした北の海で肥え太っていた身体は見る影も無く、やせ衰えて。
無数の傷が生々しい裂け目をさらして隠すことが無い。
尾びれやむなびれなど既にほとんど失っているものすらある。
もう己の生命(いのち)の灯火(ともしび)が尽きようとしていることはわかっていた。
だからうだるような熱の中になにか底冷えするようなじっとりとした寒気を感じる我が身に冥(くら)い予感を抱きながらも、必死でここまでやってきたその目的を貫徹しようと全力で動き続けた。
と、そこで目の前に突然開けた空間、たくさんの岩に囲まれて細かい砂利が一面にしかれた広場のような場所に抜けた。
流れも緩やかでさほど力を込めずとも安定していられる。
それまで全身に込めていた力の行き場をいきなり失った肩透かしによろけながらも。
視線の先にいる一匹のメスに意識のすべてを奪われていた。
彼女だ。
一瞬で理解した。
あれが己の相手なのだと。
彼がざぶんとひとかきでそばにいくと、相手も無言で身を寄せてくる。
互いの思いを確認するのにはそれだけで十分であった。
恐らく彼女が作ったのであろう、大きなくぼみが水底に意味深に横たわっている。
そこに二人で寄り添いながらゆっくりと近づいていき。
先にことに至ったのは彼女の方であった。
全身を細かく震わせたかと思った瞬間。
ぞぶり!
彼女の全てがそこに放出された。
紅く輝く小さな無数の玉。
これほど美しいものなどこの世に存在するまい。
そしてとうとう自分の番が来たことを知る。
あれだけ強く激しく渇望していたことにいざ挑まんとしている今。
とうに全ての感覚は麻痺して腹の奥底にあるぼんやりとした熱さと疼きだけしか感じていない。
……でもそれだけでいい。
彼はうっとりと見蕩れていた紅い宝石たちに近づくと。
己の生命すべてを解き放った。
それまで我慢に我慢を続けて溢れんばかりに全身を犯していた熱病のような激しい欲求と渇望そのものが白銀の迸りとなって噴出された。
その時。
彼がそれまでの生の中で感じてきたどのような感覚とも違うものがやってくる。
苦痛と快感がないまじった凄まじい達成感と。
もう取り返しがつかないことをしてしまったような巨大な喪失感。
ああ、俺はこれのために生きていたのか。
このためにこそ、生まれでて急流を下り幾多の危険を乗り越えてたどり着いた安寧の海で好きなままに貪りつづけてまたこの場所に戻ってきたのか。
既に食欲が無くなって久しく、最後に残った衝動も今すべてを解き放って絶え果てた。
ただ、自分の前で必死で身体をよじり最後の力を振り絞って生み出したものを覆い隠さんと砂を巻き上げる彼女を守らなくてはならないという意識だけがあったが。
やがては全てが終わり彼女も力尽きて流されていくとその思いも薄れて消えていき。
彼にはもう何も残されていなかった。
ざぶん。
最後に一度、思い出したかのように尾びれの無くなった身体でひとかきをすると。
そのまま動かなくなってゆっくりと流されていった。
了
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