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高校一年生・夏
32 彼はまだ自分の限界を知らない
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深い眠りの中から、彼を目覚めさせるものがある。
感じるのは野球の匂い。そう認識した直史は、すぐさま覚醒する。
時計を見れば、時刻はまだ六時前。
普段は規則正しく六時に起床している直史は、周囲を眺める。
昨日の夜はちゃんと眠れた。直史の心配は杞憂だった。
泥のように眠っている野球の匂いをさせる仲間たちを残し、直史は寝巻き用のジャージから運動用のジャージに着替え、タオルにボール一つ、マイグラブをもって部屋を出た。
宿泊施設を出て、壁に向けてボールの投げ込みが出来るところを捜す。あまり音の響かない、静かな場所を。
そこを確保した直史はぐるぐると足腰の関節を回し、筋肉を温めてから、ジョギングを開始した。
静かだ。
白富東の合宿所周りはちょっとした林に覆われているが、朝の中に人間の音がしない。
軽く汗ばむほどに体の奥まで暖まった直史は、壁に向かって投げ込む。マウンドではないので、上半身が主体の投げ方だ。
昨日は色々なことがありすぎて、ダウンがしっかりと出来なかった。今日の先発の予定は岩崎だが、直史のリリーフの可能性もあるし、決勝に進むならなお、体をケアしておかなければいけない。
投げ込みすぎるのも、もちろん禁止だ。壁にあるわずかな突起をめがけて、ストレートをゆっくりと投げていく。そして変化球へと続き、左肩も軽く動かしておいた。
施設に戻ると、既に朝食の時間になっていた。
父母会の人たちが協力して、セイバーの部下の栄養管理士の指導の下、朝食を作っていてくれる。
「どこ行ってたんだ? ブルペンにもいなかったし」
岩崎を隣に座らせたジンが、その反対側の椅子を引いてくれた。
「いや、昨日あんまり動かなかったから、ちょっと調整してきた」
「お前……昨日うちのチームで一番動いてた人間が、何言ってんだ?」
向こうから岩崎も言ってくるが、確かに昨日は14三振、内野フライ四つ、内野ゴロ三つという内容だったので、他の選手はあまり動いていなかったのだろう。
「打者相手には70球も投げてないんだから、肩肘の疲労なんてねえよ」
直史は納豆を二つ取ると、ご飯にかけて食べる。本当はここに生卵がほしいのだが、今は我慢だ。
「一応変な人間が入り込んでいるかもしれないんだから、気をつけろよな」
珍しく岩崎がそんな言葉をかけてくるが、彼が納豆にかけているのはマヨネーズだ。 醤油派の直史とは相容れない。
二人の溝は深い。
午後は特殊な練習をするが、午前は座学の予定であった。
しかしセイバーが戻ってこないため、上総総合の試合をビデオで見ることになっている。
「あ、しまった」
昨夜、直史はスマホの充電を忘れて、電源が切れた状態になっていた。
なにしろ急激に増えた知り合いからメールがたくさん届いたので、普段よりも早く電池が切れてしまったのだ。
いつもと違う場所に泊まるということもあって、就寝時のルーティンが崩れていた。
直史は電源コードをスマホにつなぐと、溜め息をついた。
普段はSNSやスマホでのネットサーフィンもほとんどしない直史だが、こういう時にスマホがないのも、やはり困りものだ。
「すみません、ちょっと図書館行って来ます」
色々と荷物は持ってきてもらったが、さすがに暇つぶしに読む本までは指定していなかった。
「おう、まだ図書館は開いてないと思うから、先に職員室に行った方がいいぞ」
北村に言われて、直史は施設を出る。
白富東には図書室はないが、図書館がある。
校舎本体よりも古い、120年ほど前に建築された、タイル張りの洋館だ。
実は文化財に指定するかという話が上がっているのだが、とりあえず野球部には関係はない。
普段よりは教員の数は少なく、司書の職員もまだ来ていなかった。
自分で開けて入っていいと直史は鍵を渡されたが、これは実はちょっとした特別待遇である。
――物事が、運命のように運ぶには、少しずつきっかけが組み合わさっていく。
朝日が木陰に遮られて、図書館の中は微妙に薄暗い。
文庫のコーナーに行った直史は、既に読んだことのある本を手に取る。
下手に新しい作品に手を出して、試合中に先が気になったら困る。
だからここは司馬遼太郎の「花神」を選んでおいた。
直史はこの小説が好きだ。
どこが好きだと問われれば、主人公が好きだ。
幕末維新の動乱の中で、坂本竜馬と同じぐらい異色の存在。
それでいて彼は、確かにそこにいたのだという存在感を感じさせる。
軽い足音が聞こえてきた。
司書の職員かと思って直史は鍵を手にしたが、入館してきたのは女生徒だった。
このまま鍵を預けていいものだろうか、と思わないでもなかったが少し躊躇する。
少女はメガネをかけていて、髪をきっちりと揃えていて、制服を着崩したりはしていない。
おそらく預けても問題ないとは思ったが、直史はそうしなかった。
彼女は真面目そうで、ごく普通の女の子――には見えなかった。
(ああ、所作が綺麗な子なんだな)
納得した直史の視線の先で、彼女は自分の背が届くかどうかという場所にある、分厚い装丁の本に手を伸ばしている。
危なっかしさに直史はなんとなく笑って、その本に手を伸ばした。
「どれ? これでいい?」
「はい。ありがとうございます」
タイトルは源氏物語第二巻。
訳者が書いていないが、原文なのだろうか。
直史はまた時間を待つべく、席に座る。
この時、直史が手の中の本を読もうとしなかったのも、どこにでもある奇跡的な偶然だった。
直史の前に、少女が立っている。
「あの、私は一年三組の佐倉瑞希です。佐藤直史君ですか?」
「そうだよ。えと、初めましてかな? 佐倉、さん」
少し呼びにくい名字であった。
「クラスも離れてるんで、初めましてだと思います。少し、お話してもいいですか?」
「いいけど、司書さんが来たら、俺戻るから」
「はい」
瑞希は直史の向かい側に座ると、鞄と本をその傍に置いた。
自然に背筋が伸びている座り方をしている子だ。
さて、話とはなんだろうか。
一日で中身は変わらないのに、急に有名人になってしまった直史は、何かを質問されることに慣れかけていた。
「あの、私、小説家になりたいんです」
しかし瑞希は違った。何かを尋ねるのではなく、彼女は直史と話がしたかったのだ。
「父は弁護士をしていて、私も将来は弁護士になりたいんですけど、小説家にもなりたいんです」
その言葉は不思議なほど直史の心に響いた。
「弁護士か。弁護士になって、それと一緒に、小説も書きたいの?」
「はい。私も本は好きで、よく読むんです。山崎豊子さんとか。だからどちらかというと小説家より、ノンフィクション作家に近いんですけど」
「ああ、砂の巨塔とか、女系家族とかの。確かに弁護士さんも読みそうだね」
「ええ。うちの父の本棚にあったんですけど、父はあんまり好きじゃないのに揃えてるんです」
「分かる気がする。あの人の作品って弁護士なら、好きか嫌いかの二択に分かれるんじゃないかな」
ふと直史は思った。
高校に入ってから、読書の話をするのはあまりなかったな、と。
二年の先輩には戦国時代オタクがいて、色々と話したりもしたが。
直史が好きな戦国武将は、本多忠勝である。
「けれど、弁護士かあ」
「不思議ですか?」
それは、弁護士と小説家の両方を目指すのが不思議という意味なのか、と直史は受け取った。
「いや、弁護士って人の話も聞くし、誰かに話したいこともあるよね。弁護士……いいな」
直史は公務員になりたいと思っていた。特に理由はない。ただ、しっかりとした職業にはつきたいと思っていた。
だが、直史が目指す千葉大学には、法経政学部がある。
「あ、俺も弁護士になる」
その日、瑞希は生まれて初めて、男の子が自分の将来を決断する姿を見た。
「え? あの、弁護士も今は需要と供給のバランスが微妙な職業ですよ? 確かに他の資格を兼ねることが出来るので、かなり有意な資格ですけど」
「うん、それでいいと思う。俺も将来のことなんとなくしか考えてなかったけど、なんだかすっきりした」
晴れ晴れとした直史の顔を見て、瑞希は逆に不思議に思った。
「あの、佐藤君はプロ野球選手にならないんですか?」
「ならないよ」
直史は即答出来た。
昨日の会見でもそうだった。大介にプロ志望のことを聞いた人間はいたが、直史にはいなかった。
直史がプロになれるとは、誰も思っていないのだ。なるならないではなく、なれると。可能性の問題だ。
「あの、佐藤君は凄い人なんですよね?」
「凄くないよ。普通だよ。普通の人間だって、人生に一回ぐらい、特別なことが起こるんだよ」
「普通の人は、新聞に載らないと思います」
「そうかな? でも犯罪者だって載るし、何か不思議なことをした人も載るでしょ?」
「でも、地方大会の試合なのに、全国紙に載るのはあまりないと思います」
ああ、この子はそのぐらいには野球に詳しいのか。
直史は少し認識を改めて、瑞希と向かい合った。
「あのさ、佐倉、さん。ピッチャーって、速い球を投げる人なのは分かるよね?」
「はい。父もここの野球部のOBで、私も一緒に野球中継は見てますから」
なるほど、本人にも教養ありか。
ならばむしろ、直史の限界も分かりやすいだろう。
「今、世界で一番速い球を投げる人が、時速169kmなんだ。計器の故障じゃないと分かってるのがこれ」
とんとん、と机の上を直史は叩いた。
「それで今、日本の高校生で一番速いのが、新潟の上杉っていう三年生がこの間出した、159km。これもちょっとニュースになってたかな」
帝都一と春日山の試合を、直史達は見ていた。
上杉兄弟は両方全国レベルだが、兄の方は特に超高校級と言うか、高校野球史上最強の投手ではないかとまで言われている。
あの日、帝都一との試合では、後で聞いたら155kmが出ていたそうだ。
「それで、その弟が俺たちと同じ一年生なんだけど、こいつも150km出てるわけね」
兄弟150kmという、それで新聞の一面にもなっていた。
「で、俺の球速が最高で135km。実は同じ一年に、140km出せるのが二人いるんだ。千葉県を探しても、一年生で140km出せるのはけっこういると思うよ」
これは事実であり、誰も疑う余地はない。
投手として通用するかどうかを別とすれば、直史のスピードは特筆すべきものではないのだ。
だが、それとは別の事実もある。
「けれどプロ野球の試合でも、120kmとか110kmとかの球を投げる人もいますよ。新聞には変化球がすごいって書かれてましたし」
緩急の投げ分けで、そういうボールはある。直史だって、90kmも出ないスローカーブは良く使う。
「変化球は、習って使えるようになればいいし、速い球を投げる人が、わざと遅い球を投げることは出来る。けれど遅い球しか投げられない人が、速い球を投げることは出来ないからね」
これは単純なロジックだ。直史が140kmを投げられないのは、誰もが認める現実だ。
「佐藤君の球は、これ以上速くならないんですか?」
その質問に、直史は答えられなかった。
「上杉さんというお兄さんが、160kmを投げた。単純に比べられないけど、弟さんの方がもしお兄さんと同じぐらい速くなるなら、佐藤君も145kmまでは投げられる可能性がありませんか?」
それは、否定出来ない可能性だ。
速い球が投げられない。では投げられるようになればいい。
しごく簡潔な主題だ。
直史はまだ、自分の限界を知らない。
自分を見つめる瑞希に、直史は軽く息を吐いて答えた。
「確かに、まだこれから速く投げられるかもしれない」
入学した時、自分のMAXは120kmだと思っていた。実際に全力を出したら125kmが出たし、今は135kmが出ている。
三ヶ月で10km速くなったのだとしたら、来年の春には165kmが……いや、それはないか。
ジンもセイバーも、スピードを求めるのは来年の春が目標とは言っていた。
しかしだからといって、直史のストレートの可能性を、否定したことはない。
「佐倉、さん。ありがとう」
瑞希は少しだけ首を傾げたが、直史のわずかな微笑みに気付いた。
「どういたしまして? あの、それで質問なんですけど、なんで私の呼び方、そんなにぎこちないんですか?」
「あ、これはすごく単純な理由で、俺の妹が桜って名前なんだ。だから呼びにくくって」
思わずさくらーっ!と怒鳴ってしまうこともあるのだ。お兄ちゃんなので。
「あ、佐倉、さんの名前も名字っぽいから、そちらで呼んでもいいかな。なら普通に話せると思う」
「はい。分かりました」
瑞希はメモを取り出すと、そこに自分の名前を書く。
瑞々しい、希望。
「夏の大会が終わったら、また話せますか?」
「うん、大丈夫。ちょっと大会中は無理だけど、メールでいいなら返せると思う。あ、スマホ持ってないや。メモ、もう一枚ある?」
携帯の番号を書いて渡す。
「メーカーが同じだから、それでメールも送れるよね。それと、なんだか俺たちの番号知りたがってる人間いるから、それだけ気をつけて」
「はい、分かりました。ありがとうございます、佐藤君」
まだそんなに話すことがあるだろうかと、直史は疑問にも思ったのだが、それは彼女の問題だろう。
「試合、応援に行きますね」
「だけど、明日は俺投げないよ。日曜日は投げると思うから、お父さんと一緒に見に来たらどうかな?」
白富東の、甲子園初出場が決まる瞬間を。
その劇的な瞬間を――。
「文章にしたらどうかな?」
え? と瑞希は声に出さずに問うた。
「ノンフィクションだけど、うちの野球部の話をさ。公立の進学校が、開校以来初めての甲子園の出場。ちょっとした第一級資料だね」
当事者の記録を、そう呼ぶのだ。
「分かりました」
そう言った瑞希の声には、強い意思が込められていた。
そして時は動き出す。
やってきた司書に鍵を渡して、直史は図書館を後にした。
微笑んだ瑞希が手を振り、直史も軽く手を振る。
自分も笑っていたことに、彼は気付かなかった。
「綺麗な子だったな」
直史はそう呟くと、宿泊施設へと足を速めた。
感じるのは野球の匂い。そう認識した直史は、すぐさま覚醒する。
時計を見れば、時刻はまだ六時前。
普段は規則正しく六時に起床している直史は、周囲を眺める。
昨日の夜はちゃんと眠れた。直史の心配は杞憂だった。
泥のように眠っている野球の匂いをさせる仲間たちを残し、直史は寝巻き用のジャージから運動用のジャージに着替え、タオルにボール一つ、マイグラブをもって部屋を出た。
宿泊施設を出て、壁に向けてボールの投げ込みが出来るところを捜す。あまり音の響かない、静かな場所を。
そこを確保した直史はぐるぐると足腰の関節を回し、筋肉を温めてから、ジョギングを開始した。
静かだ。
白富東の合宿所周りはちょっとした林に覆われているが、朝の中に人間の音がしない。
軽く汗ばむほどに体の奥まで暖まった直史は、壁に向かって投げ込む。マウンドではないので、上半身が主体の投げ方だ。
昨日は色々なことがありすぎて、ダウンがしっかりと出来なかった。今日の先発の予定は岩崎だが、直史のリリーフの可能性もあるし、決勝に進むならなお、体をケアしておかなければいけない。
投げ込みすぎるのも、もちろん禁止だ。壁にあるわずかな突起をめがけて、ストレートをゆっくりと投げていく。そして変化球へと続き、左肩も軽く動かしておいた。
施設に戻ると、既に朝食の時間になっていた。
父母会の人たちが協力して、セイバーの部下の栄養管理士の指導の下、朝食を作っていてくれる。
「どこ行ってたんだ? ブルペンにもいなかったし」
岩崎を隣に座らせたジンが、その反対側の椅子を引いてくれた。
「いや、昨日あんまり動かなかったから、ちょっと調整してきた」
「お前……昨日うちのチームで一番動いてた人間が、何言ってんだ?」
向こうから岩崎も言ってくるが、確かに昨日は14三振、内野フライ四つ、内野ゴロ三つという内容だったので、他の選手はあまり動いていなかったのだろう。
「打者相手には70球も投げてないんだから、肩肘の疲労なんてねえよ」
直史は納豆を二つ取ると、ご飯にかけて食べる。本当はここに生卵がほしいのだが、今は我慢だ。
「一応変な人間が入り込んでいるかもしれないんだから、気をつけろよな」
珍しく岩崎がそんな言葉をかけてくるが、彼が納豆にかけているのはマヨネーズだ。 醤油派の直史とは相容れない。
二人の溝は深い。
午後は特殊な練習をするが、午前は座学の予定であった。
しかしセイバーが戻ってこないため、上総総合の試合をビデオで見ることになっている。
「あ、しまった」
昨夜、直史はスマホの充電を忘れて、電源が切れた状態になっていた。
なにしろ急激に増えた知り合いからメールがたくさん届いたので、普段よりも早く電池が切れてしまったのだ。
いつもと違う場所に泊まるということもあって、就寝時のルーティンが崩れていた。
直史は電源コードをスマホにつなぐと、溜め息をついた。
普段はSNSやスマホでのネットサーフィンもほとんどしない直史だが、こういう時にスマホがないのも、やはり困りものだ。
「すみません、ちょっと図書館行って来ます」
色々と荷物は持ってきてもらったが、さすがに暇つぶしに読む本までは指定していなかった。
「おう、まだ図書館は開いてないと思うから、先に職員室に行った方がいいぞ」
北村に言われて、直史は施設を出る。
白富東には図書室はないが、図書館がある。
校舎本体よりも古い、120年ほど前に建築された、タイル張りの洋館だ。
実は文化財に指定するかという話が上がっているのだが、とりあえず野球部には関係はない。
普段よりは教員の数は少なく、司書の職員もまだ来ていなかった。
自分で開けて入っていいと直史は鍵を渡されたが、これは実はちょっとした特別待遇である。
――物事が、運命のように運ぶには、少しずつきっかけが組み合わさっていく。
朝日が木陰に遮られて、図書館の中は微妙に薄暗い。
文庫のコーナーに行った直史は、既に読んだことのある本を手に取る。
下手に新しい作品に手を出して、試合中に先が気になったら困る。
だからここは司馬遼太郎の「花神」を選んでおいた。
直史はこの小説が好きだ。
どこが好きだと問われれば、主人公が好きだ。
幕末維新の動乱の中で、坂本竜馬と同じぐらい異色の存在。
それでいて彼は、確かにそこにいたのだという存在感を感じさせる。
軽い足音が聞こえてきた。
司書の職員かと思って直史は鍵を手にしたが、入館してきたのは女生徒だった。
このまま鍵を預けていいものだろうか、と思わないでもなかったが少し躊躇する。
少女はメガネをかけていて、髪をきっちりと揃えていて、制服を着崩したりはしていない。
おそらく預けても問題ないとは思ったが、直史はそうしなかった。
彼女は真面目そうで、ごく普通の女の子――には見えなかった。
(ああ、所作が綺麗な子なんだな)
納得した直史の視線の先で、彼女は自分の背が届くかどうかという場所にある、分厚い装丁の本に手を伸ばしている。
危なっかしさに直史はなんとなく笑って、その本に手を伸ばした。
「どれ? これでいい?」
「はい。ありがとうございます」
タイトルは源氏物語第二巻。
訳者が書いていないが、原文なのだろうか。
直史はまた時間を待つべく、席に座る。
この時、直史が手の中の本を読もうとしなかったのも、どこにでもある奇跡的な偶然だった。
直史の前に、少女が立っている。
「あの、私は一年三組の佐倉瑞希です。佐藤直史君ですか?」
「そうだよ。えと、初めましてかな? 佐倉、さん」
少し呼びにくい名字であった。
「クラスも離れてるんで、初めましてだと思います。少し、お話してもいいですか?」
「いいけど、司書さんが来たら、俺戻るから」
「はい」
瑞希は直史の向かい側に座ると、鞄と本をその傍に置いた。
自然に背筋が伸びている座り方をしている子だ。
さて、話とはなんだろうか。
一日で中身は変わらないのに、急に有名人になってしまった直史は、何かを質問されることに慣れかけていた。
「あの、私、小説家になりたいんです」
しかし瑞希は違った。何かを尋ねるのではなく、彼女は直史と話がしたかったのだ。
「父は弁護士をしていて、私も将来は弁護士になりたいんですけど、小説家にもなりたいんです」
その言葉は不思議なほど直史の心に響いた。
「弁護士か。弁護士になって、それと一緒に、小説も書きたいの?」
「はい。私も本は好きで、よく読むんです。山崎豊子さんとか。だからどちらかというと小説家より、ノンフィクション作家に近いんですけど」
「ああ、砂の巨塔とか、女系家族とかの。確かに弁護士さんも読みそうだね」
「ええ。うちの父の本棚にあったんですけど、父はあんまり好きじゃないのに揃えてるんです」
「分かる気がする。あの人の作品って弁護士なら、好きか嫌いかの二択に分かれるんじゃないかな」
ふと直史は思った。
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二年の先輩には戦国時代オタクがいて、色々と話したりもしたが。
直史が好きな戦国武将は、本多忠勝である。
「けれど、弁護士かあ」
「不思議ですか?」
それは、弁護士と小説家の両方を目指すのが不思議という意味なのか、と直史は受け取った。
「いや、弁護士って人の話も聞くし、誰かに話したいこともあるよね。弁護士……いいな」
直史は公務員になりたいと思っていた。特に理由はない。ただ、しっかりとした職業にはつきたいと思っていた。
だが、直史が目指す千葉大学には、法経政学部がある。
「あ、俺も弁護士になる」
その日、瑞希は生まれて初めて、男の子が自分の将来を決断する姿を見た。
「え? あの、弁護士も今は需要と供給のバランスが微妙な職業ですよ? 確かに他の資格を兼ねることが出来るので、かなり有意な資格ですけど」
「うん、それでいいと思う。俺も将来のことなんとなくしか考えてなかったけど、なんだかすっきりした」
晴れ晴れとした直史の顔を見て、瑞希は逆に不思議に思った。
「あの、佐藤君はプロ野球選手にならないんですか?」
「ならないよ」
直史は即答出来た。
昨日の会見でもそうだった。大介にプロ志望のことを聞いた人間はいたが、直史にはいなかった。
直史がプロになれるとは、誰も思っていないのだ。なるならないではなく、なれると。可能性の問題だ。
「あの、佐藤君は凄い人なんですよね?」
「凄くないよ。普通だよ。普通の人間だって、人生に一回ぐらい、特別なことが起こるんだよ」
「普通の人は、新聞に載らないと思います」
「そうかな? でも犯罪者だって載るし、何か不思議なことをした人も載るでしょ?」
「でも、地方大会の試合なのに、全国紙に載るのはあまりないと思います」
ああ、この子はそのぐらいには野球に詳しいのか。
直史は少し認識を改めて、瑞希と向かい合った。
「あのさ、佐倉、さん。ピッチャーって、速い球を投げる人なのは分かるよね?」
「はい。父もここの野球部のOBで、私も一緒に野球中継は見てますから」
なるほど、本人にも教養ありか。
ならばむしろ、直史の限界も分かりやすいだろう。
「今、世界で一番速い球を投げる人が、時速169kmなんだ。計器の故障じゃないと分かってるのがこれ」
とんとん、と机の上を直史は叩いた。
「それで今、日本の高校生で一番速いのが、新潟の上杉っていう三年生がこの間出した、159km。これもちょっとニュースになってたかな」
帝都一と春日山の試合を、直史達は見ていた。
上杉兄弟は両方全国レベルだが、兄の方は特に超高校級と言うか、高校野球史上最強の投手ではないかとまで言われている。
あの日、帝都一との試合では、後で聞いたら155kmが出ていたそうだ。
「それで、その弟が俺たちと同じ一年生なんだけど、こいつも150km出てるわけね」
兄弟150kmという、それで新聞の一面にもなっていた。
「で、俺の球速が最高で135km。実は同じ一年に、140km出せるのが二人いるんだ。千葉県を探しても、一年生で140km出せるのはけっこういると思うよ」
これは事実であり、誰も疑う余地はない。
投手として通用するかどうかを別とすれば、直史のスピードは特筆すべきものではないのだ。
だが、それとは別の事実もある。
「けれどプロ野球の試合でも、120kmとか110kmとかの球を投げる人もいますよ。新聞には変化球がすごいって書かれてましたし」
緩急の投げ分けで、そういうボールはある。直史だって、90kmも出ないスローカーブは良く使う。
「変化球は、習って使えるようになればいいし、速い球を投げる人が、わざと遅い球を投げることは出来る。けれど遅い球しか投げられない人が、速い球を投げることは出来ないからね」
これは単純なロジックだ。直史が140kmを投げられないのは、誰もが認める現実だ。
「佐藤君の球は、これ以上速くならないんですか?」
その質問に、直史は答えられなかった。
「上杉さんというお兄さんが、160kmを投げた。単純に比べられないけど、弟さんの方がもしお兄さんと同じぐらい速くなるなら、佐藤君も145kmまでは投げられる可能性がありませんか?」
それは、否定出来ない可能性だ。
速い球が投げられない。では投げられるようになればいい。
しごく簡潔な主題だ。
直史はまだ、自分の限界を知らない。
自分を見つめる瑞希に、直史は軽く息を吐いて答えた。
「確かに、まだこれから速く投げられるかもしれない」
入学した時、自分のMAXは120kmだと思っていた。実際に全力を出したら125kmが出たし、今は135kmが出ている。
三ヶ月で10km速くなったのだとしたら、来年の春には165kmが……いや、それはないか。
ジンもセイバーも、スピードを求めるのは来年の春が目標とは言っていた。
しかしだからといって、直史のストレートの可能性を、否定したことはない。
「佐倉、さん。ありがとう」
瑞希は少しだけ首を傾げたが、直史のわずかな微笑みに気付いた。
「どういたしまして? あの、それで質問なんですけど、なんで私の呼び方、そんなにぎこちないんですか?」
「あ、これはすごく単純な理由で、俺の妹が桜って名前なんだ。だから呼びにくくって」
思わずさくらーっ!と怒鳴ってしまうこともあるのだ。お兄ちゃんなので。
「あ、佐倉、さんの名前も名字っぽいから、そちらで呼んでもいいかな。なら普通に話せると思う」
「はい。分かりました」
瑞希はメモを取り出すと、そこに自分の名前を書く。
瑞々しい、希望。
「夏の大会が終わったら、また話せますか?」
「うん、大丈夫。ちょっと大会中は無理だけど、メールでいいなら返せると思う。あ、スマホ持ってないや。メモ、もう一枚ある?」
携帯の番号を書いて渡す。
「メーカーが同じだから、それでメールも送れるよね。それと、なんだか俺たちの番号知りたがってる人間いるから、それだけ気をつけて」
「はい、分かりました。ありがとうございます、佐藤君」
まだそんなに話すことがあるだろうかと、直史は疑問にも思ったのだが、それは彼女の問題だろう。
「試合、応援に行きますね」
「だけど、明日は俺投げないよ。日曜日は投げると思うから、お父さんと一緒に見に来たらどうかな?」
白富東の、甲子園初出場が決まる瞬間を。
その劇的な瞬間を――。
「文章にしたらどうかな?」
え? と瑞希は声に出さずに問うた。
「ノンフィクションだけど、うちの野球部の話をさ。公立の進学校が、開校以来初めての甲子園の出場。ちょっとした第一級資料だね」
当事者の記録を、そう呼ぶのだ。
「分かりました」
そう言った瑞希の声には、強い意思が込められていた。
そして時は動き出す。
やってきた司書に鍵を渡して、直史は図書館を後にした。
微笑んだ瑞希が手を振り、直史も軽く手を振る。
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※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
江戸時代改装計画
華研えねこ
歴史・時代
皇紀2603年7月4日、大和甲板にて。皮肉にもアメリカが独立したとされる日にアメリカ史上最も屈辱的である条約は結ばれることになった。
「では大統領、この降伏文書にサインして貰いたい。まさかペリーを派遣した君等が嫌とは言うまいね?」
頭髪を全て刈り取った男が日本代表として流暢なキングズ・イングリッシュで話していた。後に「白人から世界を解放した男」として讃えられる有名人、石原莞爾だ。
ここはトラック、言うまでも無く日本の内南洋であり、停泊しているのは軍艦大和。その後部甲板でルーズベルトは憤死せんがばかりに震えていた。
(何故だ、どうしてこうなった……!!)
自問自答するも答えは出ず、一年以内には火刑に処される彼はその人生最期の一年を巧妙に憤死しないように体調を管理されながら過ごすことになる。
トラック講和条約と称される講和条約の内容は以下の通り。
・アメリカ合衆国は満州国を承認
・アメリカ合衆国は、ウェーキ島、グアム島、アリューシャン島、ハワイ諸島、ライン諸島を大日本帝国へ割譲
・アメリカ合衆国はフィリピンの国際連盟委任独立準備政府設立の承認
・アメリカ合衆国は大日本帝国に戦費賠償金300億ドルの支払い
・アメリカ合衆国の軍備縮小
・アメリカ合衆国の関税自主権の撤廃
・アメリカ合衆国の移民法の撤廃
・アメリカ合衆国首脳部及び戦争煽動者は国際裁判の判決に従うこと
確かに、多少は苛酷な内容であったが、「最も屈辱」とは少々大げさであろう。何せ、彼らの我々の世界に於ける悪行三昧に比べたら、この程度で済んだことに感謝するべきなのだから……。
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