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Hello World
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人を好きになるって分からない。人のことも分からない。いや、分からなくても良かったのだ。
俺にとっては、あの人とは不幸な出会いだったのだろう。
しかし、その不幸で、そして一生の出会いで、俺は「人間っぽく」なってしまったのだ。
いつも人気のないシャワールームでそういうことをするようになったのは、いつからだろう。でも、それは俺から仕掛けたことだ。あの人がたくさんのものを持っていて、その持っていることに強い関心を惹かれたし、自分の手を沸騰する油の中にいれるようなこともしてみたかった。
肌に触れられて、かまれて、自分の体を開示していくのは恐ろしくてどきどきした。
春 四月
フットサルの練習場は、K市M駅から、少し歩いたところにあった。埋め立て地にあるそこは幹線道路が近くに走っており、いつも浜風が吹いていた。
その日は春だというのに、浜風がどんよりとした塩気をはらみ、うねっていた。
石井晶は「息苦しいな」とつぶやいて、ノンフレームの眼鏡を軽くあげた。そして、きれいといわれる虹彩のはしばみの瞳で、春曇りの空を見上げた。雲はそれほど出ていないが、山からの風と浜風が、ぶつかっているような気がした。
携帯に入れた英語構文のリスニングを、何度もリピートしていた。それを聞きながら、だらだらと続く坂道を降りていく。
「晶!」
キッと横に、黒のVOXYがとまり、助手席の窓がスライドして開いた。
「さとっさん」
晶は、眼鏡に携帯のイヤフォンが引っかからないよう、爪先でうまく外した。運転席には髪を刈り上げ、仕立ての良いスーツを着て、日に焼けた、がっしりとした体格の男性がいた。
晶のチームメイトである村上聡は、にっこりと晶に微笑みかけた。
「乗っていくか」
「助かります」
晶が助手席に乗り込むと、村上は軽くアクセルを踏み込んだ。
すうっと、車は走り出す。村上の運転はブレーキを踏むのもゆっくりで、流れるようだった。そして、歩行者に気を配っていて、彼の性格をよく現していた。
「さとっさんはもう仕事、終わりっすか」
「いや、練習が終わったらまた帰社するよ」
一流商社で営業をしている村上は、稼ぐ額も一般のサラリーマンとは違う。だが、仕事の量もほかのサラリーマンとは違っているらしい。晶はふうっとため息をつく。
「えー、まじっすか。体、大丈夫すか」
「おれは仕事が好きだからね、それに鍛えているから、多少のことは問題ない」
「でた! さとっさんの「おれは鍛えているから」論! たくましいっすね。ところで、詩織さんは元気なんですか。そろそろ、おなかも大きくなってるでしょ」
晶は首をかしげる。耳にかけた茶褐色の髪がさらっと落ちた。
「元気、元気。なんとか、フットサルやらせてもらっているよ。妊娠初期のころはつわりが酷かったんだが、落ち着いてきた」
「よかったですね」
「まあ、おれも、ちゃんとした「お父さん業」をやらんといかんかなって思ってるけど」
「……もしかして、フットサル、やめるんですか?」
「詩織は気晴らししておいで、って言ってくれるけど、実際に生まれてみるとね、難しいかなって。仕事、妻子、フットサル、だと、フットサルの順位が低くなるのは、しかたないかな……」
「そっすか……寂しいな」
「なんだよ、いつでもうちにメシ食いに来いよ」
「いや、それこそ、詩織さんに悪いでしょ」
「晶は詩織のウケがいいから、大丈夫だよ。いや、まじ、子供と詩織が安定してきたら、会いに来てよ。それより、晶のほうはどうなんだ。今年、受験生だろ」
「そうですねえ……でも、ずっと勉強していると、ストレスたまって。フットサルで発散できたほうが、勉強効率もいいんです」
「……まあ、お前のプレースタイル見てると、それは分かる」
「はは」
含むところがある村上の言葉に、晶は軽く笑った。
「それにお前、星が浦だろ? 偏差値いいんじゃないの」
「でも、私学ですからね。生徒の成績は千差万別です。スポーツ科、普通科、進学コースとあるんで。まあ、俺はそっちのほうがいろいろ面白いやつがいて、楽しいんですけど」
晶は学ランの襟をくっと引っ張り、首もとを開けた。二年ちょっと着ている学ランは、ほつれやけばだちが目立った。今日は春先にしては蒸す。晶はシャツの第一ボタンも外した。
晶は大きな瞳をまためかせ、携帯をいじった。そろそろ連絡があるかな、と確認したが、友人からのLINEが数件入っているだけだった。「今日は来るんですか?」と、メッセージとスタンプを送る。
「おいおい、晶もすみにおけないな。彼女か」
村上の言葉に、晶はリュックからペットボトルを出して飲みながら、「違いますよ」と、ひらひらと手を振ってみせた。
ふと、助手席のミラーに映る自分の顔を見た。左顎にほくろがあり、そばかすがほんのり浮いている白い顔が目に付く。光によって色を変える虹彩。はしばみの瞳、日焼けをしても赤くなるだけで、白くなる肌。浜風が色素の薄い、豊かな茶褐色の髪をばさばさとなぶっていく。
「そういや、前に言ったけど、今日から新しいやつが参加するんだ。お前より歳下らしい」
村上は、このフットサルチーム「La lucha」(ラ・ルチャ)の今年度の運営を、担当していた。
「へえ……戦力になったら、いいですね」
「まあ、うちは地域リーグだからね。戦力になるかどうかより、気が合うかどうか、かな。堺さんからの紹介で……確か、高校一年生だったと思う」
「そうなんですか、珍しいな……」
「堺さんも、顔が広いからな。ジムトレーナーだから、多分、そのあたりからだろ」
「そいつ、今日、来るんですか?」
「堺さんが連れてくるって」
なだらかなカーブを村上はゆるくスピードを落としながら、回りきった。
「へえ。ちょっと楽しみ」
フットサルの練習は、週に二、三回、休日を主に、十九時から二十一時の間に行われる。地域リーグに所属する「La lucha」は、ほぼ、同好会、サークルの体を取っている。
晶は施設内のロッカールームで着替えると、室内のコートへ向かった。室温も調整されており、快適だ。ただ、そばには高速道路が走っており、防音がしっかりしていても、時々、車の音が聞こえてくる。
練習場として借りている室内施設では、フットサルコートを、電灯がこうこうと照らしだし、ガラスが壁一面に張られていた。
晶のそばで、「ピヴォ」で髪をツーブロックにした村瀬光太郎が、そのややつりあがった目をいっそうつりあげて、「おす」と、晶と挨拶を交わす。
ストレッチをする二人は手をぶらぶらさせながら、くだらないはなしを続けた。
ゲラゲラと笑っている二人の背後から「楽しそうだな」
と、「アラ」の東大輔が大股で、姿勢よくやってきた。髪を短く刈り、一重の爽やかな顔立ちをした東は白のトレーニングジャージに黒のズボン、トレーニングショーツを合わせていた。
「いや、大輔さん、村瀬さんがいつもと違う真面目なこといったんで」
東大輔は、身長こそ168センチ程度だが、整った顔立ちと、優れたゲームメイク、かつ、O大理学部大学院在学と言うステータスで、一部に熱狂的な女性ファンがいた。ストイックで冷静な東はゲームキャプテンも任されていて、責任感は強い。
がっちりした体格の北村豊は二十九歳。「アラ」のポジションで、もうこのチームに入って十年になる。
すらっとしていて、芸能人のような甘い顔立ちの「ピヴォ」の石田瑛人は、妻の実家の花屋を任されている三十歳だが、ずっと若く見える。
「ゴレイロ」兼「フィクソ」の山崎樹は、二十五歳。
晶を車に乗せてくれた村上は三十一歳。ナイキのピストレ上下をフランクに着こなし、青いシューズを履いていた。
「あー、集合!」
村上が声をかけると、メンバーたちは集まって輪になる。
「今日のメンバーは……、東、石井、北村、石田、山崎、村瀬、と、俺、村上、と……あと、卒業した堺さんが来てくれています」
堺より一歩下がったところに、背がすらっとしており、頼りなさげな雰囲気の少年が立っていた。白いシャツに黒のハーフパンツから、にゅっと細長い脚が伸びている。
「えっと新人さん、入りました。堺さんからの紹介です。えっと……名前は「佐藤春樹」くん。自己紹介してもらえる? 佐藤くん」
「はい」
「佐藤春樹」と呼ばれた少年は、姿勢よく胸を張って一歩前に出た。そして腕を一直線におろし、ゆっくりと九十度くらいの角度で頭をさげる。仕草こそはおとなしめだが、体育会系の上下関係の中にいたのだろう。
「はじめまして。佐藤春樹といいます、中学まではサッカーやっていました。よろしくお願いします」
よろしく、と、あちらこちらから、声があがると、春樹はすっと顔をあげた。
「晶、歳が近いから面倒見てやって」
村上に手招きされた晶は、「わかりました」と、春樹のそばに寄っていった。
身長172センチの晶から見ると、春樹はすらりとしていた。180センチはあるだろう。春樹は手足が長く、腰の位置も晶とはまったく違った高さにあった。
晶から見た春樹はどこか透明感があり、輪郭が青かった。
「きれいなやつだな」
それが晶の春樹への第一印象だった。
日焼けしていない肌から、春樹がサッカーから遠ざかっていることを晶は感じ取る。
「佐藤くん、俺、石井晶。「あきら」って呼んで。俺も、佐藤くんのこと、「はるき」って呼ぶから。……サッカーやってたんだよね。じゃあ、フットサルのルールは、ほとんどわかるよね?」
「はい、だいたいは」
近くで聞くと、意外にも深くて暗い海を思わせる声だった。年齢の割には大人びて見える上、どこか物憂げだ。
チームメイトが全員年上のせいか、春樹はやや遠慮をしているように見えた。
体にも恵まれているし、サッカーでも活躍したんじゃないのかな。晶はそっと春樹の顔をうかがう。
黒々とした髪を無造作にカットしているが、どことなくけだるげな甘さをふくんだ二重、長いまつげが縁取る黒目がちな瞳、すっと通った鼻梁、ややぷっくりとした唇は、同性でもみとれる造りをしていた。
晶は村上に声をかけた。
「さとっさん、春樹をあとでゲームに入れて実戦させてくれませんか」
「了解」
晶は春樹に、ゲーム前に説明をしておいた。
「フットサルについて解説しておくね」
春樹が溶け込みやすいよう、晶は笑顔を作りつつ、やや高い声で春樹に語りかけた。
春樹もふっと力が抜けたように見えた。
「フットサルは、人数五人でゲームをします。一人はゴールキーパーの担当。交代要員は最大九人。交代はサッカーと違って制限されないんだ。ピッチの幅は、……えっと、タッチラインが38から42メートル、ゴールラインは18から22メートル。センターサークルの半径は3メートル、ペナルティエリアの半径は6メートル。ゴールは高さ2.08メートル、横幅3.16メートル。サッカーと違って、高さはともかく、幅はかなり小さい」
「そうですね」
「ボールは、サッカーのより一回り小さくて、しかもはずみにくい。要領や戦略は独自のものがあるけど、それはおいおい理解したらオッケー。ちなみにアディショナルタイムと、オフサイドはなし」
春樹は体を傾けて聞いていた。手にはメモを携えている。
「はい」
「一試合、前後半の二十分の計四十分」
「はい」
「ねえ、ちょっと、声小さくない? 俺が歳上だから? そんなの気にしなくて大丈夫だよ。俺、とっつきにくい?」
風のように涼やかな声を少し張り上げて、晶はおどけてみせる。
「そんなことないです、ぜんぜん」
春樹がびっくりしたのか、瞳を見開く。ああ、こういう顔もできるんだ、と晶はほっとした。春樹の表情が、あまり変わらなかったのが気になっていた。
「だろ?」
年の差は気にするな、と言いながら、晶は春樹の肩をたたいた。
「それと、うちは地域リーグだから、サークルみたいなもんなの。そういや、どこの高校? 聞いていい?」
春樹が気を遣わないようにと晶は一気にたたみかけるように話をして、春樹との距離を縮めようとした。
「星が浦高校です」
「え? マジ? ほんと?」
「はい、星が浦の一年D組です」
「俺も星が浦だよ」
「そうなんすか……って、すみません、そうなんですか」
「いいよ、別に、敬語じゃなくって。そう、俺、三年A組」
晶ははなしを続けた。
「まず、ポジションの説明をするね。まずは、サッカーのゴールキーパーにあたる「ゴレイロ」。とは言っても、フットサルでは数的な関係から、攻撃参加率はサッカーより高い。次はサッカーでは、ディフェンダーにあたる「フィクソ」。フットサルは基本、マンツーマンディフェンス」
「サッカーよりも、コンタクトスポーツですね」
「お、さすが、わかってるね。サッカーよりフットサルはぶつかり合いが多い。ほぼ喧嘩みたいな時もある。あとは、サイドプレイヤーにあたる「アラ」。マンツーマンできる体力と、ドリブルする能力が求められる。あとは「ピヴォ」。フォワードにあたるポジションね。春樹はガタイもいいし、ここがいいんじゃないかな」
「わ、すげえ」
一度目のミニゲームで村瀬が春樹に当たったが、春樹は体幹が強いのだろう、あたり負けしなかった。
春樹は大きな体の割には、ボールさばきが器用で、上体もよく伸び、視野が広い。
姿勢がきれいで、独特のカリスマ性を感じさせる。
最初は周りと合わせづらかったのか、戸惑うようなところも見受けられたが、流動性の高いポジショニングにもついてきた。さらにはドリブルの速さはチーム一だったため、最終的には春樹にボールが集まるようになっていった。
「あいつ、凄いっすね」
晶が村上と顔を見合わせていると、不意に背後から声がした。
「あー、おれ、あいつ見たことあるわ……ああ、聡さん、あいつ、県選抜に出てましたよ」
「あ、貢さん……」
「おお、藤田、遅かったな」
村上に声をかけられて、藤田貢はぺこっとその細く長い体を折り曲げるようにして、おじぎをした。
「すいません、ちょっと客につかまっちゃってて……」
「お、おっす……大変ですね、IT企業のぎじつ、えいぎょうって」
「言えてねえじゃん。「技術営業」な」
白い歯を見せて藤田は笑う。
「「技術営業」」
「よく言えました」
むすっとする晶に、藤田は笑いかけた。そのしっとりとした豊かな黒髪が、はらっと落ちる。ばさばさと音でも立てそうなまつげがはためくと、晶のほうへ真っ黒な瞳が向けられた。
ぷっくりとした涙堂と、白い歯が、爽やかさとほんのりと甘ったるさを醸し出していた。182センチのすらりとした体躯に、めりはりのある筋肉がついている。レアルマドリードのユニフォームに、黒のハーフパンツ、フットサルストッキング、青みがかったグリーンのシューズをあわせていた。
「え? 佐藤、県選抜だったの?」
周囲にいた人間にも、藤田の声が伝わったらしい。藤田は晶の肩に腕を回して携帯をさわると、動画を出してきた。「ほら」
「あったあった、これです」
「全国中学生選抜大会」のテロップが出ている画面の中で、ずば抜けてボールの所有率が高い選手が、どう見ても目の前にいる春樹に見えた。
「ほんものですよね」
「晶、お前、佐藤のことどう思う?」
藤田が晶の茶褐色の髪を今度は、くしゃくしゃしながら、たずねた。182センチもある藤田がそばにならぶと、晶は自分が小さいな、と感じる。それが本来は嫌だが、藤田の背の高さ、顔、熱が晶には心地よかった。藤田が離れると、熱が残っているみたいで心が騒いだ。
「どうって……? うーん、元県選抜だけあって、うまいかな」
「そうだね。ただ、あいつ凄くセンスあるけど、ちょっと」
「ちょっと? なんすか」
藤田の態度に、いささか晶は納得がいかない。
「まあ、一回やってみよう」
晶は藤田のいいたいことを、ゲームの中で理解することになった。
ミニゲームは参加者が少なかったため、二度にわたって、春樹の力量をはかる目的で行われた。晶も自分のポジション「アラ」に入った。
二度目、春樹はボールを持ちすぎた。サッカーであればドリブルで抜けたとしても、スペースがあるが、フットサルは距離感が違う。すぐにディフェンスに囲まれる。
「佐藤! ボール!」
追い詰められかけた、と見た藤田がうまくリードして、春樹にボールを出させると「スイッチ」の要領で藤田がパスを出し、交差したところに来ていた春樹にボールをパスした。春樹はそのままゴールを決める。
「ナイス! 佐藤」
「ありがとうございます!」
「もっと自分だしていいぞ、勝手にやってみろ」
藤田はそう、春樹の背中を叩いた。
「はい!」
春樹の顔から、強張りのようなものが消えて、年相応の少年の顔になっていた。
晶はそんな春樹と藤田を交互に見た。藤田は春樹が周りに遠慮していると感じとって、フォローしてやったのだ。
晶ははしばみの瞳を藤田にぎゅっと向けた。
ゲームが終わると、春樹のまわりにチームの面々がわらわらと集まってくる。
「お前、中学の県選抜だったんだって?」
「あ……はい」
「すげえじゃん」
「はあ……」
春樹の「たいしたことではない」「なぜ、騒ぐのか」と言わんばかりの一見ふてぶてしい態度に、逆に周りが戸惑った様子を見せる。
さっと晶が「春樹、すごいよ! こんな逸材が入ってくれるなんて、俺ら、めっちゃ得ですねえ!」と、すかさずフォローに入った。春樹もそれを察したのか「いえ、そんなに、あの、ありがとうございます」とぼそぼそと口にした。
「春樹は家、どっち方面?」
練習終了後、ロッカーで春樹は晶に声をかけた。
「S区のほうです。地下鉄のM駅になります」
「じゃあ、俺と同じ沿線だ。俺、いつも貢さんに車で送ってもらっているんだ。春樹も一緒に乗せてもらえるか、聞いてみる」
晶は藤田に、声をかけた。
「車? いいよ。佐藤、遠慮すんな」
藤田は車を駐車場から入り口まで回してくれた。藤田の車の後部座席に、晶と春樹は乗り込んだ。
この街の山と海はとても近く、その狭い土地に人々は暮らしていた。
藤田は一人暮らしをしている。住まいはS区でも海側で、春樹は山側、晶はさらに奥のN区になる。
I駅で、藤田は晶と春樹を降ろした。
「佐藤、また来いよ。晶、ちゃんと連れて帰ってやれよな」
「分かってますよ」
「新人に気を遣えよ?」
「わかってますって。俺はいいやつなんで」
「ほんとに一言多いなあ、お前は」
ちょけてからにという藤田の言葉に、「そうなんですよ、俺は一言多いんです」と晶はふふんと笑ってどこか嬉しそうな顔をしてみせた。藤田もそれが当然と言った顔をする。春樹はこの二人は年齢が離れていても仲がいいんだな、とぼんやりと眺めていた。
「春樹は、さすがに一年生って感じだな、学ランがてかってないし、まだ「着られている」感ある」
電車のなかで、晶は春樹の学ランの裾をつまんだ。
「そうですか」
春樹は、晶の距離感の近さに戸惑う。この人は誰にでもこうなのだろうか。
「そういや、M駅だったよね。ちょっと時間ある?」
「はい」
「俺、M駅そばの予備校に通ってるんだけど、置きっぱなしにしてた参考書、とってくるわ。そのついでに、ちょっと話そうよ」
M駅で降りると春樹を待たせ、晶は走り出した。五分もしないうちに晶は戻ってくると「はい」と、コーヒーのボトルを春樹に渡し、駅に隣接しているショッピングセンターの広場で話しはじめた。
「ありがとうございます、えっと」
「晶でいいってば。春樹は高校では部活、入ってないの?」
「はい。決めかねているうちに入り損ねてしまって……そのうちに堺さんが声かけてくれました」
やや猫背気味にうつむいて、ぽつりぽつりと喋る春樹に、晶はふんふん、と頷きながら携帯を取り出した。
「へえ。俺はねえ、フットサル好きなんだ」
「……そうですか」
距離がやたら近い人だ。別にこっちは話を聞いてないのにな。
「もともと兄貴がフットサルやってて、ここのチームに入ったの。うちの兄貴、もう就職してて、今、北海道にいるんだぜ。そうだ、LINE登録していい?」
「えっと、これです」
立て板に水とばかりに話す晶に春樹は気圧されつつ、携帯を出す。
「ありがと」
晶は春樹から携帯を手に取ると、手際よく設定してしまう。晶は春樹の友達の登録数の少なさをさりげなく見てとったようだ。
「うちのチーム、春樹に入ってもらってよかったわ。だらけてるから。あ、これはみんなには内緒ね」
くつくつと笑って晶はいきなり、「二人の秘密」と言い出す。そして春樹の携帯から着信音がした。
春樹が携帯を覗くと、晶から「よろしくね」のスタンプがLINEに入っている。
その日はじめて、春樹は笑みを見せた。
「ありがとうございます」のスタンプを春樹が晶に送り返すと、にっと晶は春樹に向かって笑いかけた。
その後、六月のリーグ開催に向けて調整が行われた。
春樹は最初だけ、遠慮がちに周りと接していたが、すぐに実力を発揮しはじめた。フットサルのルールもあっと言う間に吸収し、ゲームでも指示を出すようになってきた。
サッカーより、フットサルは確かにあたりが激しい。体格がものを言うコンタクトなスポーツでもある。
「もうちょっと身長が欲しかった」と晶は言うが、その分、晶はボールを器用にさばく、と春樹は見つめた。
ボールを触っている時、晶は若鮎のようにいきいきとしていた。
帰り道、晶と春樹はときおり、M駅でコーヒーを飲むようになった。
「オレ、サッカー推薦が決まりかけてたんです」
春樹は、ふいに強豪校の名をあげた。
「すごいじゃん」
「いえ……結局、取り消されちゃったんで」
「え?」
「高校の指導者が替わっちゃって……その人が、うちの中学の先生と折り合い悪くて」
「はあ? なにそれ、酷くない? ほかの学校、紹介してもらえなかったの?」
「はい」
「ええ……高校進学、しかも強豪校じゃん……俺だったらあちこちに相談するけど……」
「そうすればよかったかもしれないですね。でも、そういう話、割とあるみたいです。オレは別にどうでも……」
晶は首を突き出して、春樹の顔をまじまじと「なに言ってるんだ」と見つめた。
「オレ、変ですよね」
「……まあ、そうかもしんないけど、それが春樹らしさかもね」
そうですか、と春樹はそれだけ告げた。
「そういやさ、うちの学校、購買の使い方テクニック教えてやるよ。昼は大変だからな、おばちゃんと仲良くなっとくんだよ、それでな……」
晶はしんみりした空気を変えようとして、わざと学校での生活小百科を面白おかしく話して聞かせた。
ある日の練習後、春樹はシャワールームが混み合うのがいやで、ストレッチで時間を潰していた。
「あ、先輩と藤田さん、待たせちゃうかな……」
いつもどおり、自分のことしか考えていないことにはた、と気が付く。多分、こういう時には、勉強や仕事で疲れている年上の人を待たせるものではないのだ。多分。
早足で、シャワールームへ向かう。うっかりがたんと大きな音を立てて、扉を開けてしまった。
「あっ」
ガタガタと言う音と、軽い悲鳴のような声が聞こえる。
「あの、すいません、佐藤ですが、何かありましたか? こけたりしてませんか?」
確か今日、練習場を使っていたのは春樹たちだけだった。シャワールームにいるのは、恐らく、チームメイトだろう。
「あ、はるき? だ、大丈夫。……おそかったね」
トーンが高くなった声が、シャワールームに響く。
「晶先輩ですか?」
「うん、ちょっと滑りかけただけ。そうだよね、貢さん?」
「うん、そう、気にしないでいいよ」
ああ、藤田さんと先輩がまだいたんだ。春樹はほっとして、シャワーを使い始める。
ふと、晶へ視線をやると、胸からタオルを巻いている。男同士なのにな。
ただ、そのタオルの陰から、なにか赤いあざのようなものが見えた。
「じゃあ、俺ら、先にいってるから。ゆっくりしておいで」
「ありがとうございます」
無造作に服を脱ぎ、シャワーの栓をねじると、あとの二人は急ぎ足で出て行く。
シャワーの湯気で藤田と晶の姿は見えにくかったが、二人が妙によそよそしいように春樹は感じた。だが、シャワーの心地よさに感覚を持って行かれた。
春 四月下旬
ひととおり、春樹とメンバーが顔を合わせたタイミングで「新人歓迎会」という名の飲み会が開かれた。
二十名ほどが集まり、いつも使っている居酒屋で春樹は一通りの挨拶をして、すみっこに引っ込もうとした。そこに、北村と石田が声をかけてきた。
「佐藤、こっちこい。学生生活のはなし、きかせてくれや」
「はい」
春樹はあらためて石田を見つめた。すらりとした体つき、整った顔立ちは、三十歳とは思えない艶めいた雰囲気を放っている。既婚者で、きれいな奥さんと娘が二人いるらしい。
だが、女性がいつも数人、顔ぶれを変えながら練習を見に来ていた。
「まあ、そんなにかたくならずに」
北村が春樹に人なつこい笑顔を向けてくれた。北村は整体院に勤める二十九歳。独立を目指している。
「佐藤はモテるだろ? そのあたりの武勇伝ないの」
石田がはなしを振ってくるが、春樹は首を横にふるだけだった。
「いえ、オレはぜんぜんです」
「えーうそ! じゃあ、紹介してやろうか?」
「……そういえば、佐藤って、家族何人? 一人っ子? 兄弟いるのか?」
北村が春樹に大きな声で家族構成を聞く。そうやって、石田の春樹への好奇心をそらしてやろうとしていた。
「うちは、父と母、祖父母です」
「兄弟いないの?」
「オレ、ひとりです」
「そういう話はいいから。で、まだ童貞?」
石田が食い下がってくる。
「瑛人さん、もういいから。高校生にそういう話はやめておきましょうよ」
北村が石田を制してくれている間、春樹は喉の渇きを覚えた。石田の話はどうでもよかった。もしかすると、自分はとても緊張しているのかもしれない。席を替わる時に持ってきたソフトドリンクに口をつけた。ごくごくごく、と炭酸の甘いドリンクは春樹の喉を通り抜け、するすると胃に収まった。その瞬間、胃が燃えた。
「おい、佐藤、それ、東の……」
「え? まじで?」
石田と北村が春樹が飲みほしたドリンクに気がつく。
「え?」
「それ、東の焼酎五割カルピスだよ!」
「石田さんも北村さんも! なに考えてるんだよ! ちょっとは気を遣えよ! 東さんも、なんでそんな度数高いカルピスハイ飲んでるんだよ!」
生まれてはじめてアルコールを飲んだ春樹はトイレに直行し、晶は事情を村瀬から聞いて激怒していた。東は晶の激昂にも動ずることなく、焼酎五割カルピスを飲んでいる。
「村瀬さん、すいません、ちょっと白湯、持ってきてやってください」
春樹は便器を抱きかかえるようにして、受け付けないアルコールを全部だそうとしていた。晶がせっせと背中をさすってやる。
「春樹、大丈夫か」
「だ、だいじょうぶです……」
春樹は、いったん、吐き出せるものを吐き出すとそう、つぶやいた。それでも顔面が青白い。よっこいしょ、と心配して見に来た村瀬や東が春樹を立たせてやった。
「すいません、ちょっとこいつ、家まで送っていきます」
「ついていこう」
村上もジャケットをとって、立ち上がった。
「村瀬さんと東さんはタクシーつかまえてください。吐くのは収まったみたいだし」
晶はそういいながらも「ゲロ袋もってなよ」と、ビニール袋を春樹にわたす。意味が分からない。おとなって意味が分からない。
「家のほうには今から連絡しておく、会計とかは東、やっておいてくれ」
「わかりました」
村上がてきぱきと指示をだす。
「ありがとうございます、じゃあ」
村上の言葉を背にして、晶は村瀬と東に手伝ってもらって外に出た。
タクシーが閑静な住宅街にある春樹の自宅につくと、春樹の母親が玄関先で待っていた。後部座席で春樹の介抱をしていた晶と村上が、春樹を抱えて降りる。
すらっと背が高く、春樹と顔だちが似ているショートカットの母親がさらりとしたカーデガンを羽織って頭をさげた。
「すみません、佐藤春樹の母です。村上さんと、石井さん? どうせ、この子がぼおっとしていたんでしょう」
「ごめん、かあさん、オレが悪い……」
「ご近所迷惑よ。ちょっとおじいちゃん、春樹を部屋まで連れて行ってください。そうよ、あんたがぼけっとしてたからこうなったんじゃないの?」
母親の声に春樹は「うへえ」とだけ言って、耳をふさぐまねをする。
こういうところは子供っぽいな、と晶は笑みがもれそうになった。
祖父らしき老人が晶たちに頭をさげ、春樹を大きな一軒家に連れて入った。晶と村上も頭をさげる。
「ほんとに、すみませんでした。今後、こういうことがないようにします」
「まあねえ。正直、いくらサークルの新歓してもらうからって、居酒屋にいくのを止めなかった私が悪いわ」
「すいません……」
「ええっと石井くん……よね? あなたも星が浦なんでしょ? なにかあったら、処分を受けるのはあなただし。あと、村上さん? あなた、大人として止めるべきじゃなかったのかしら?」
サバサバと言ってのける春樹の母に、晶は小さくなるばかりだった。
「すいません、そのあたりは俺が気を付けます」
今度は村上が、必死で頭を下げた。
「まあ、はっきり言っちゃったけど、気にしないで。これからも節度ある範囲で、あの子を誘ってあげてください」
言いたいことを言うと、春樹の母親は急に声のトーンを落として、笑った。
「それと、あなた、「晶先輩」よね」
春樹の母が、晶の顔をまじまじと見つめて言った。
「はい、石井晶は僕です」
「春樹が時々、話をしているの。男の子って外の話、しないでしょ。それが珍しく「晶先輩」「晶先輩」って。……その「晶先輩」にはなしがしたいけれど、少しだけいいかしら」
「はい」
「あの子、ちょっといきがってるでしょ。中学の時もそう。サッカーで自分のできがいいって、つけあがってたのよ」
いきなり、ペラペラはなしはじめる春樹の母に、晶はきょとんとする。
「いえ、春樹くんは凄くいい子です、チームでも活躍してくれて」
晶は慌てて春樹のいいところを口にする。……えっと、どこだっけ。プレーはうまい。でも最年少のわりにはふてぶてしく見える。ただ、実力はあるし、みんな認めている。
「あら、そう。フットサルが楽しいのかしら。だといいんだけれど」
「楽しいかは本人じゃないと分かりませんが、うちの大事な戦力です」
そこだけ、晶はきっぱりと言ってのけた。
「……ありがとう。あの子、サッカーをすっぱりやめちゃったでしょ。……私、外科で看護師をやってるんですけど、怪我をして、ああ言う「挫折したけど、オレは傷ついてない」って顔する子、わりと見るんですよ。まだまだ子どもなのにね。……まあ、子どもだから強がるんでしょうけど」
「はあ……」
そこから、母親のマシンガントークが始まった。
「どこでも浮いてたみたいで。それを「自分が凄いから」「みんなはオレのことを恐れてる」なんて、思い込んでるんですよ」
「いえ、春樹君はそんなふうに思ってないみたいです」
晶は慌てて手を振る。むしろ、「俺が凄いから」と春樹が考えていたほうが、彼が今後人と関わる道筋が見える気がした。
「そうかしら。……高校の推薦を取り消されてもけろっとしてて、親がどれだけ慌てたかもわかってないのよね」
苦労したのよ、成績もいまいちで、と母親が困ったように言う。この母親から春樹という人間が生まれたとは信じがたかった。
「そうですか……」
「初対面の人にすみません、ペラペラと。あんな子ですけど、仲良くしてやってくださいね」
母親として、息子を気遣っているのを晶はその毒舌で推察した。
月曜日、春樹は購買で買ったパンを持ってあがっていった。昼休み。屋上は生徒でざわついている。春の風はまだ少し肌寒い。
「春樹、こっち!」
晶が手を振って、春樹を呼んだ。
晶から昼飯を一緒に食べよう、とLINEがあったのだ。
「先輩、こないだはすいませんでした」
「いや、こっちこそ、申し訳なかった。みんなからも、グループLINEでメッセあったでしょ?」
「ありました」
春樹はわざわざ、晶に携帯の画面を見せる。
「大丈夫か」
「ほんとごめん」
「お酒は二十歳になってから」
そんな言葉がぽこぽこと並んでいた。
「そうか、よかった。……、春樹、教室で一緒にご飯食べる友達いないの?」
さらりと、晶が春樹に探りを入れる。
「はい。昼飯食べたら、すぐに寝ちゃいますし」
「そうなんだ」
晶は空を見上げた。薄い雲と青い空が春らしい空気をたたえていた。
「そっか。俺も来てくれて嬉しいよ。あと、紹介するね。俺の友達」
横を見るとカップ麺をすすっている、地味な少年が座っていた。顔は弥生式土器みたいに特に特徴はない。体つきはひょろりとしており、寒いのか、ニットを学ランの下に着込み、ネックウォーマーを着けている。
星が浦高校は山の上にあった。最寄り駅より少しひんやりとしていて、風も強い。
「金沢遊馬。よろしく。晶と同じクラスだよ」
金沢は座っていたところ、わざわざ立ち上がって春樹に手を差し伸べてきた。
「佐藤春樹です」
春樹は、金沢のひんやりとした手を握った。晶よりやや身長の低い金沢は、これと言った特徴のない白い顔で、春樹に笑いかけた。
「で、この佐藤が手伝ってくれるの?」
「そう」
「え?」
金沢の言葉に晶がうなずく。春樹は二人の会話の意図がわからず、すっとんきょうな声をあげた。
「まあ、座れ」
晶が春樹に促す。春樹は金沢と晶と輪になる形で座った。
「金沢は、演劇部所属。今度のゴールデンウィーク、文化祭があるの、知ってるよね」
「はい」
「演劇部も舞台やるんだ。「奇跡の人」。知ってる?」
「いえ、しりません」
「これだから若いもんは」
晶は二年しか違わないのに年寄りのようなしわがれた声を出して、首をぶるぶるとわざとらしく振った。
「金沢くん、説明してあげて」
「1890年頃のアメリカ。熱病によってしゃべれない、聞こえない、見えないと言う障害を負ってしまったヘレン・ケラーと、その家庭教師、サリバン先生の愛と苦闘の物語だよ」
「高校演劇では、スタンダードな演目だし、商業演劇でも、女優同士が迫真の演技でぶつかり合う! って、話題にしやすいんだろうね、何度も上演してる。こないだもやってた」
金沢と晶のペースに、春樹はまったくついていけなかった。
「はあ」
「春樹は帰宅部でしょ、手伝ってよ」
「え? オレがですか、ちょっと意味がわかりません」
「時間がない、人手がない、帰宅部の春樹がそこにいた。それだけ」
「ええ……まじですか……」
うへえ、と春樹は顔をしかめた。晶はそんな春樹の背を、ちゃかすように叩いていった。
「先輩命令だ」
「オレは何を手伝えばいいんですか」
「いろいろ仕事はあるから、心配しないで」
放課後、春樹は晶と金沢に、なかば強制的に演劇部の部室へ連れて行かれることになった。
「おはようございます」
謎の挨拶をして金沢と晶が部室に入ると、きゃあっと黄色い悲鳴があがった。
春樹は珍しくびっくりして、目と口を大きく開けた。
「おはよう! 金沢、石井、その子、どうしたの?」
「おはよう! 一年? 一年の男子?」
「石井の後輩を無理矢理連れてきた」
金沢が冷静に説明した。
「夕方なのに、なんで「おはよう」なんですか」
「よく知らないけど、歌舞伎業界からはじまったみたいね」
きゃあきゃあと言う声で、春樹は頭が痛くなりそうだった。部室には、十数人ほどの女子生徒たちがひしめいている。気がつくと、春樹は演劇部員たちに袖や腕を引っ張られていた。
「この子、知ってる! すっごく目立つ一年だ! 背が高くって、かっこよくって、入学式の時、うわさになってなかった?」
「なってた!」
「え、この子なの? ほんと、イケメンだ!」
「ちょっと、そこ、静かにする。……春樹、説明すると部員は金沢以外、全員女子。俺は手伝いだけしてる」晶はそう言うと、春樹をぐっと前に押し出した。
「佐藤春樹くん、一年D組。手伝いをしてくれます。よろしく」
「佐藤です。よろしくお願いします」
春樹が挨拶をすると、部長らしき女生徒が
「こんなイケメンが入ってくれるんだったら、ヘレンのお兄さん役やってもらうんだったのに!」
と、叫んだが「そんなの、オレ、絶対に無理です!」と、春樹が慌てふためき、晶がげらげらと笑った。
ゴールデンウィークまでは時間がなかったので、その日から春樹は演劇部で、金沢や晶にまじり、大道具や小道具を作ることになった。
金沢や晶はクライマックスに使われるポンプ式の井戸作りに取りかかっていた。
春樹も女の子たちに囲まれて、ボンドを使ってフリルを付けている。
「佐藤くん、もうちょっとクシュクシュって感じにして」
「くしゅくしゅですか」
「そうそう、そんな感じ。うまいじゃん」
そういえば、と春樹は気がつく。
帰宅部だったために、授業が終わればすぐに家路についていたが、放課後は日中と違う活気に溢れていた。グラウンドからは、野球部のかけ声や吹奏楽部のプアーンと言う音が響いてくる。中学時代には、こんな喧噪の中にいたはずだが、すっかりと忘れていた。そんなことどうでも良かったのだ。
小学生時代の春樹は体が小さかった。近所の子供の中でも、「ちび」「ちびはる」と言われていた。早起きし、そんな小さな体を左右に揺さぶって、サッカーの練習に通った。買ってもらったチームの練習着は、ぶかぶかのままだった。それでもボールと戯れるのは楽しかったし、そのまま、サッカーをしていられたらよかった。年齢を経るにつれ、身長もぐんぐんと伸びたが、サッカーがただ、ただ、楽しいことは変わらなかった。そんなこともすっかり忘れていたのだ。
「あの……金沢先輩ってどうして演劇部に入ってるんですか」
演出を担当する金沢は晶のように積極的に距離は詰めてくれないので、最初は戸惑った。しかし、勇気を出して春樹は自ら話を振ってみた。
「もともと俺、オペラ好きなんだ」
「オペラ」
春樹は同年代の口からその言葉を聞くのは、初めてだった。
「そう。母の趣味でね。オペラ好きなんていやしないっていわれるけどね」
「はあ」
「人間の肉体って、楽器になるんだよ。そういうのが面白かったから」
「はあ……えっと、それで晶、石井先輩とは、どうやって知り合ったんですか」
あれ、自分でも珍しく人の話をしている、と春樹はちらっと晶の顔を思い浮かべた。
「あいつも俺も本が好きでさ。もともとは一年の時、図書委員同士で知り合ったんだ」
春樹は晶の一年生の時を想像しようとしたが、うまく思い浮かばない。もともと空想力や想像力は欠如している。
「あいつも舞台とか映画好きでしょ」
「そうなんですか」
初耳だった。晶の意外な一面を見たようでもあるし、彼らしくもあった。
「そう。それに晶は誰とでも仲良くできるからね。俺みたいな変わったのともうまくやれるの。……まあ、それもどうかと思う時もあるけど、いいやつ。佐藤君は本を読む?」
「あんまり」
「平山夢明の「デブを捨てに」いいよ」
「デブを、すてに」
「パンチあるタイトルだろ。図書室にあるから、読んでみてよ」
春樹は、はい、と言いながら、その本を読むことはないだろうと黙っていた。
10/23
ゴールデンウィークに向かって、どんどん日は過ぎていく。
春樹は元来の優れた学習能力で照明を任せてもいいくらいにまで慣れてきた。
ある日、晶は部員が話していることを小耳に挟んだ。
「はるちゃんってすごくいい子だけど、ちょっと言葉が足りないって言うか、誤解されやすいタイプかもね」
「ああ。ちゃんと仕事やってくれてるのに、こないだも自分がやったことでも、私が「はるちゃんがやってくれたの?」って聞くまで「自分がやった」って言わないのよ」
「私、思うんだけど、はるちゃんってあんまり人に興味がないのかも」
晶も春樹から受ける人への関心の薄さをずっと感じていた。一見すると、つっけんどんに見える。もともと無愛想なのもあるだろう。晶やフットサルの面々には、体育会系の上下関係に従っているようなところもある。だから晶に言われて演劇部の手伝いなどをしているのだ。しかし、ただ、周りを見ていないだけなのだろう。
晶はそんな春樹の生き方を好ましく感じていた。どうしても人を観察してしまいたがる自分とは真逆の人間だ。そして孤高で誰とも馴れ合わない。いや、そんなことにも、気も付いていないのだろう。
フットサルの練習に文化祭の用意にで、春樹も晶も忙しかった。それでも藤田にI駅まで送ってもらい、時折、晶は進学塾に寄る前に春樹と軽く話した。ある日のことだった。
「オレ、変ですか」
「え、ええと、どういうことだろ」
春樹は、晶を凝視してくる。
突然の言葉に晶は驚いた。春樹の顔はとても小さく、整っていた。真っ黒な瞳は光を映していない。その分迫力があり、晶はけおされたがそのまま口を開く。
「俺でよかったら、話、聞くけど」
「先輩も見ましたよね。オレ、県選抜に選ばれたんです。ただ、その時のチームの連中から、ガン無視くらって……」
春樹の口調は、まるで他人事のようだった。
「「お前とはやりたくない」って、はっきり言われました。あと、「お前はアンドロイドみたいだ」って。どういう意味なんでしょうね」
「……」
仲間からアンドロイドみたいだと言われて、その意味が分かっていない。晶は少しだけ、そのチームメイトに同情した。しかし、にこっと、いつもの笑顔を春樹に向けた。
「そうだったんだ。でも、県選抜でいいところまでいったよね、確か、最終的には全国ベスト八とかじゃなかった?」
「うまくとりなしてくれるやつがいたんで。でも、正直言うとオレ、そのあと、サッカーとか、どうでもよくなりました」
「そうなんだ……」
「「なんで続けないんだ」「ほかにもサッカーが強い高校あるだろ」「おかしい」って言われたんですけど、オレはどうでもよくなって。だから星が浦に進学決めました。星が浦、楽しそうだったし、その時のオレの成績でも入れる枠あったし」
「確かに、ちょっとおかしいかもしれないけど、それが春樹らしさなのかもね……」
「やっぱり、そうですよね。でも、おかしくてもいいかなって。そんなふうに言われたことも、今の今まで忘れてました」
「普通、忘れる?」
晶は眼鏡のブリッジをくい、と中指であげた。変わっている、とは確かに感じていたが、ここまでとは。
「そうですよね、オレ、そういうところあるみたいなんですよね。……ガン無視くらった時も「じゃあ仕方ないか」って、帰り支度してたとこ、チームメイトのひとりが止めてくれたんです」
「……まあ、それが春樹らしさなのかもね」
「そうなんです。そういう人間らしいんですよ、オレ」
自分のことなのに他人のように語る春樹に、晶も口をつぐむしかなかった。
文化祭が始まると、多忙を極めた。フットサルはさすがに休ませてもらっている。大会が始まるのは六月からだからだ。
雑用、大道具の組み立て、小道具の運搬など、春樹の演劇部での負担も増えてくる。
何度も練習が繰り返されるなか、春樹も夜中までかかって照明の操作を覚えた。
演劇部の出展は、文化祭の二日目だった。
実在のヘレン・ケラーは家庭教師のサリバンによって、言葉を知っていき、そして「水」という概念を獲得する。そこに至るまでにはヘレンの過保護な両親、冷静に物事を見つめ、ヘレンに文字の獲得は無理だとする兄の存在に対して、サリバンはヘレンの知性を信じ、甘やかされてきたヘレンの教育に没頭する。
へレンとサリバン先生を演じる二人は、学生とは思えないくらい本気でぶつかり合った。その熱意は観客にも伝わっていた。
ラストシーンではあちらこちらから、すすり泣きが聞こえてきた。最後のカーテンコールではたくさんの拍手が起こった。
10.27
五月 初旬
軽い打ち上げの後、晶と春樹は坂の上の学校からゆっくりと駅へ向かっていった。
「メシ、くっていこうか」
晶は春樹をファミレスに誘った。春樹はまだ、文化祭の余韻に浸っていた。祭りのあとの感覚は、久しぶりに春樹を満ち足りた気分にさせた。
「春樹って本とか読む?」
金沢と同じことを聞かれた。
「いえ、あんまり」
「あのさ、ちょっと文章かいてみない?」
「どういうことですか?」
「えっと、本を読んで感想書く、「読書ノート」つけてみない? それ、俺と交互にやろう」
「男ふたりで、ですか……LINEじゃ駄目なんですか」
「本、苦手?」
「ほとんど読んだことないです」
コーラを飲みながら、また、本の話か、と少しうんざりした。
「えっとさ、俺、脚本、勉強してるんだ」
「はあ」
春樹は晶の話がつながらなくて、混乱する。
「今ね、シナリオ教室の通信制を受講してるんだ。高校二年の時、夏休みに東京行って、スクーリングしてきたんだ。みんなで同じ題を使って、時間区切って、鉛筆でごりごり書いたり、脚本家や映画監督のはなし聞いたり。そしたら、自分がいいたいことや書きたいこと以外に、別のものが見えてきたんだ」
「すいません、はなしが見えてきません」
春樹は戸惑う。
「ええっとそれほど大げさなものじゃなくても、春樹もやってみるといいなって」
「どうしてですか」
「それは秘密」
春樹にとってサッカーがどうでもよくなったことも、周りに対して自分を理解してもらうことを放棄していることも、どうでもいい。
晶はそう納得している。しかし、自分自身が「書く」ことで、気がついたことがあった。それを春樹にも共有して欲しいと、なかば、押しつけたい気持ちがあった。春樹の中にある感情の萌芽があるなら、光を当てたかった。何より春樹が変化するのを見たかった。
それは晶自身、物書きのはしくれとして春樹の変容を知りたかったからだ。
「うーん……」
「俺自身の体験を、春樹にもなんとなくでいいから、分かって欲しい。書くことで、春樹がどんなふうに変わるのか、見たい。脚本の勉強にもなるだろうし。そこは、ちょっと俺にだまされたと思って」
ぱん、と手を合わせて、晶は春樹に頭をさげた。
「はあ……じゃあ、だまされたと思ってやってみます」
すねたような春樹の言葉に晶はひひひ、と笑った。
「とりあえず、紙でやってみよ。これ、うちの妹、藍がおすすめしてくれたノート」
と言って、大きな猫のおなかに三行だけ罫線が引かれた、大きなメモパッドを出してきた。
「……これにですか」
手渡されたノートを見ながら、春樹は戸惑った。子どもっぽすぎるし、猫がでかい。
「あと、これ、よかったら」
晶は一冊の文庫本と、ブルーレイのジャケットを取り出した。
「「かもめのジョナサン【完成版】」……「スラムドッグ$ミリオネア」ですか」
「俺、どっちも好きなんだ。よかったら、感想教えて。それをまず、書いてきて」
晶は、ストローでジュースを吸い上げた。
「オレ、ほんとに何を書けばいいのか、わからないです」
「それでいいよ。わからないなら、わからないって書いて」
春樹はどうして晶がこんなに自分を構ってくれるのか、解せなかった。
だが「先輩」と言うものと仲良くできるのは春樹にとって関心があったし、晶といる時間は心地よい。
★10・27
五月下旬
フットサルにもなれて、試合が組まれると聞いた頃だった。
晶は藤田になついているように見える。それが自分とはあまり関係はないように思えたが、少し腹のあたりがなぜかざらっとした。
それ以上に、春樹は四苦八苦していた。これまで本なんて、読書感想文のために読むくらいだったし、しかもあらすじを書き連ねて提出するのが、おちだったから。晶が「俺の脚本の勉強になるかも」と言ったけれど、足を引っ張るばかりだろう。
晶から渡された本も、ペラペラとページを繰る程度だった。
「ジョナサンの飛ぶ姿がきれいだと思いました」
それだけしか書けなかった。それでも思い切って文庫を読み始めると、ジョナサン・リヴィングストンというかもめが限界に向かって飛ぶ場面には心が騒いだ。
春樹と晶は昼休みやフットサルの練習の時にノートを交換した。
「本とブルーレイ、押しつけてごめんな」
「いえ……」
「無理しなくていいよ。困ったでしょ」
「最初は、ちょっと。でも、なんか、嬉しかったです」
「……そうなの?」
「先輩や周りの人間と仲良くできたこと、ないですから」
その言葉を晶はあえて無視した。
「そうかそうか。そういうのも、気楽に書いてよ。一日ごとに交換しなくてもいいから」
晶はにこにこしながら、猫のメモパッドを受け取った。晶が笑ってくれることが、春樹には嬉しかった。
春樹は晶と話がしたかった。晶が自分に構ってくれると体がふんわり浮いたような気分がする。晶がほかの人に向かって笑うと、みぞおちがいたい。
春樹は晶との時間をもっと作りたくてブルーレイも見た。
「スラムドッグ$ミリオネア」は、晶の説明によると2008年制作、イギリスのダニー・ボイル監督の作品。インドのストリートチルドレン、ジャマールが様々な苦難を乗り越え、その経験を知識、糧にしてクイズ番組「クイズ$ミリオネア」を勝ち進む。
スピード感あるドラマ展開に「ついていけない」と思いながらも、ジャマールが兄やヒロインのラティカと別れたあたりから、目を離せなくなっていった。
ジャマールと自分とが何故だか重なった。
物語というもの、言葉というものについて、春樹は考えたことがなかった。
映画も見なければ、小説も漫画も読まない、ゲームもしない。春樹は携帯を見ることすら、ほとんどなかった。たまに海外サッカーを見る程度だ。今までは、それでよかったのだ。
衣替えが終わった六月初旬。風が爽やかに吹き、校庭にある木々を揺らしていた。
春樹は昼休み、晶との「読書ノート」に向かっていた。
何を書こうか。
放課後、図書館にいた晶を見つけて、ファンシーなメモパッドを渡そうとしたが、晶がぶ厚めのノートにぶちぶち言いながら書き付けていたので、そのまま帰ったことがある。晶は何に夢中になったのだろう? そして文字を書く、物語を作ると言うことはどういう意味を持ち、楽しさを与えてくれるのだろう?
晶の熱中する姿から、関心がわいてきたのは事実だ。
晶はやや丸みを帯びた字で、見た映画、読んだ本、些細な日常を読みやすく綴っていた。
「どうしたら、こんなふうに書けるんだろ」
春樹はおでこで、シャーペンのヘッドをノックする。
「なにしてんの! 春樹!」
鈴のように高い声が背後からした途端、春樹は強い衝撃を首に受けた。
「ぐえっ」
春樹の幼なじみ、村野えりが春樹をヘッドロックしていた。
「なにすんだ」
ごほごほと春樹は咳き込むと、えりの腕を振りほどく。
紺色の襟のセーラー服を着た、小柄なえりの肌は雪のように白く、しみひとつない。そして、くるりと巻いたまつげに縁取られた瞳が、春樹を覗き込んできた。
「何度声をかけても、反応しない春樹が悪い」
えりはそういうと、春樹の前の席の椅子にすらっと長く、小さな膝を持つ足を折りたたんで座った。
「何してるの?」
「お前には関係ないよ」
「なんなの、その態度」
ムッとしたえりは春樹のおでこに指を丸めて、でこぴんをした。幼いころから同い年の春樹はえりにいつもでこぴんをされ、いじられていた。
「いって」
春樹は思わず、おでこを手で覆う。
「ねえ、いつものバーベキュー、今度の休みにやるけど、来るよね」
えりと春樹の家族を含む近隣の数軒ほどは、古くからの付き合いがあった。ときおり山や海へもキャンプに行き、毎年六月あたりに近くの河原でバーベキューをやるのが、恒例の行事だ。
「今年はちょっと無理」
「なんでよ」
「色々あんだよ」
「色々って何よ」
「フットサルとか、色々だよ」
「教えてくれてもいいじゃない」
食い下がるえりを、春樹はうっとうしく感じた。
「教える理由なんか、ない」
「なによ、その言い方」
えりは口を尖らせて、春樹の頭を軽くたたいた。
「……フットサル、おもしろいの?」
えりは急に声のトーンを落とした。
「まあまあ、かな」
「そう」
「うちの学校にもメンバーいるよ。三年の石井先輩」
「そういえば、演劇部にも出入りしてるんでしょ。演劇部に入ったの?」
「そういうわけじゃない。ただの手伝い。石井先輩に誘われたから」
「石井先輩って……どんな人?」
「うんと……。眼鏡かけてて、……オレよりちょっと身長が低い。三年A組だから、進学クラスだよ」
「ふうん。……石井先輩とは仲いいんだ」
「それほどでもない」
そう言いながら、「石井先輩」と口にする時、あまり表情を変えないとえりが春樹を見ているのを、春樹はさとって、顔色を戻す。
「そうなの」
「そう」
「じゃあね! お肉食べられなくて残念でした!」
えりは大股でどしどし歩いて春樹の教室を出た。
「なによ、石井先輩、石井先輩って」
「読書ノート」の交換はゆっくり続いた。自分から提案しておきながら、晶は「続いているなあ」と驚いていた。春樹が予想していた以上に「書くこと」に執着したのだ。
自分が何を思っているのか、何を求めるのか、そんなことは今までどうでもよかった。
だが、猫の腹の白い三行ほどの罫線が、春樹に「どう感じるか」を、突きつけてきた。
苦しかったが充実していた。十本ダッシュを繰り返して、息が上がった感覚を思い出す。それが心地よかった。
そして「晶」という読み手がいると思えば、背中がそわっとした。
★10/30
晶にノートを渡す、と言う名目で三年生の階に向かった。一年生が三年生のクラスに行くのは、勇気がいる。いくら人の気持ちを考えない春樹であっても、見知らぬ他人、年長者からは圧迫感を抱く。
晶のクラスをちらちらと覗くが、どうやら晶はいない。すると、金沢が春樹に気が付いて、寄ってきてくれた。
「晶に用事?」
「あ、はい、これを渡したくて」
「ああ、「読書ノート」ね。預かっておくよ。「かもめのジョナサン」いいだろ? あのジョナサン・リヴィングストンの魂の物語だと俺は思うよ」
「はあ……」
金沢は、晶から「読書ノート」について聞いているらしい。どこか、二人きりの秘密をばらされた気がして、春樹はごり、としたものを喉に感じた。
「あのさ、あいつ、佐藤君にあれこれ押しつけてない?」
金沢が上目遣いで、ゆっくりと言葉を選びながら話しかける。
「いえ、そんなことはないです。むしろ、オレが迷惑かけていると思います」
「……そうなのかな。まあ、それならいいんだけど」
「……どういう意味でしょうか」
「ううん。ちょっと晶は……えっと、そうだな、お節介過ぎるところがあるからね。あと、人にあれこれコミットし過ぎの観察好き。そういうのがよく働くのは、時と場合によるから」
あれこれ押しつける。お節介。コミット。観察好き。時と場合。春樹には金沢の持って回った言い方からは何がいいたいか、理解できなかった。
「あいつは君のお母さんじゃないからねえ」
「オレには、母はひとりです」
何を言えばいいのかわからず、春樹はそういうしかなかった。
「……はは。佐藤君らしいや。ごめん、今のは忘れてくれ。これ、ちゃんと責任持って渡しとくから」
金沢は白い特徴のない顔で笑った。少し不気味だった。
春樹と晶はフットサルがない時でも、時々帰り道を共にした。単純に家の方向が一緒ということもあったが、「読書ノート」の交換で会うことも多くなった。
「なんでオレに「スラムドッグ$ミリオネア」を貸してくれたんですか」
春樹は思い切って晶に聞いてみた。
「俺、イギリスの舞台、見るの好きでさ。「ナショナル・シアター・ライブ」って言う、イギリスの舞台を収録したのを日本の映画館で上映してくれるプロジェクトがあるの。それで「スラムドッグ$ミリオネア」の、ダニー・ボイル監督が舞台演出した「フランケンシュタイン」を見てさ。それが、すっごくよかったんだよ。それからダニー・ボイルを追いかけるようになったんだ」
「そうなんですね」
熱く語る晶の言葉の内容すべてを春樹は理解できなかった。だが「スラムドッグ$ミリオネア」の監督なら、さぞかし疾走感溢れる舞台を作ったのだろう。
「2012年のロンドンオリンピックの開会式も、ダニー・ボイルが総合演出したんだ。あとでLINEでURL送るから、暇な時、見てよ」
やや高揚し、一気にまくし立てる晶の姿を春樹は初めて見た。
「……晶先輩は、イギリスにいくんですか?」
「え?」
「それだけ好きなら、本場のイギリスの舞台で戦いたいのかなって」
春樹の言葉の強さと、唐突さに晶はきゅっと背筋を伸ばした。
「そこまで考えてなかったけど……そうだな、やっぱりいつかは行きたいなあ。……俺、舞台や表現の仕事、したいんだよね。大学もそっちのほうに進みたい」
「へえ……すごいですね」
晶が優秀なのは、「読書ノート」からも推測された。晶はたった二、三行の文章でも的確な描写をした。春樹にもわかりやすい言葉を選んでくれているのが、伝わってきた。そういえば、と春樹は思い当たった。晶のかばんのなかから、ちらっと見える参考書はとても難しそうだった。
国語の赤点が当たり前の春樹には、晶という世界はまったく違ったものだった。だから、手を伸ばしたくなったのかもしれない。
晶の妹、藍がくれたメモパッドの猫の腹は、大きさこそは変わらなかったが、白い部分は次第に減っていった。
晶についても、次第に知識が増えていった。兄は望、妹は藍、あと、犬のぽんちゃんがいること。晶は母親似だと言うこと。中学時代までは眼鏡をかけていなかったこと。豚骨ラーメンが好きで、固ゆで卵が嫌いなこと。
それらはまるで降り積もっていく雪のようにまっさらで、春樹にとってはきれいなものだった。
六月中旬
フットサルは地域戦のリーグがスタートした。春樹という新戦力はほかのチームにも脅威として映っているようだった。
そのためか、相手チームからのあたりは強い。しかし、そのぶつかり合いが、春樹には面白かった。がつがつしているところがいい。自分の性に合っている。春樹は確かに対人面ではアンドロイドだったが、その体の中には野蛮さを飼っていた。それが、フットサルをしている時は発露され、解放された気になり、とても気持ちがいい 。
それに、晶とパスがうまく通ると信頼しあっている、そんな気分になれた。それは春樹の喜びと興奮につながった。それで勝てるともっと楽しかった。
春樹は毎日、晶のことばかりを考えていた。晶から送ってもらったロンドンオリンピックの開会式の動画も何度も見た。女王陛下が007とスカイダイビングするところでは思わず笑ってしまった。
ただ、試合となると、晶の別の一面が見えることもあった。
その日の試合はやや荒れ気味だった。やたらとコンタクトが多く、ぶつかり合い、削り合ってしまい、双方が熱くなっていた。
相手も春樹が戦力として有望と悟ったせいか、やたらと当たってくる。東の判断で交代枠を使い、晶が春樹の代わりに入った。
「春樹、おつかれ。あとは任せろ」
小声で「仇はとってやるから」と言うと、晶はボールを積極的に取りに行く。それほど身長が高くない晶だが、足技には定評があった。
「あーあ、晶の「悪いクセ」が出たよ」
同じく外から試合を見ていた村瀬が、ぺたっと床に座って、汗を拭く春樹のそばでためいきをついた。
「悪いクセ?」
「そう。あいつ、見た目以上にずるいし、試合ではキレやすいぜ」
晶は相手チームのあたりの強いうちのひとりにぶつかるふりをしたかと思えば、さっとかわしてボールをパスしてしまう。頭に血が上った相手をわざわざ煽っているのがわかった。審判が見ていないところで相手を手でさっと押しのけたり、小馬鹿にするような態度を取ってみたり。しかし、審判が晶のほうをむくと、知らん顔をしてみせる。
ついに晶に苛ついた相手が、どしん、と胸からぶつかった。観客やプレイヤーから、驚きの声や悲鳴、ペナルティを求める声が一斉にあがる。
おっと手を広げて、わざと晶は倒れ込む。すべてが明らかにわざとらしかった。しかし、相手チームがペナルティを取られてしまう。審判の吹くホイッスルの音が、体育館内に響き渡った。
「え?」
春樹は目の前で起こっていることが、信じられなかった。
にやっと笑って立ち上がった晶をチームの面々がやれやれといったていで背を叩いて、しかたないなと言う顔をしていた。
藤田が晶の頭をくしゃっとすると、へへと笑う。ちょっとだけ藤田がお小言を言っているようだ。あんまりやり過ぎるな、と口もとが動いた。
顔色一つ変えず、東がさっとボールをとってペナルティエリアへ向かう。そのまま、東が颯爽とペナルティキックを決めた。
「華奢で童顔でいい人そうじゃん、晶って。でも、それを逆手にとることもできるから、したたかだよな。しかもあいつ、よくバトるんだよ。試合では」
春樹の中で「晶」と言う人間に別の属性が加わった。
ノンフレームの眼鏡をとったはしばみの瞳が光によって色を変えて、きれい。肌の色が薄く、血の色が透けて見えそうで、きれい。ペールグリーンのような輪郭が、きれい。フットサルの時に見せる足の筋肉の動きが、きれい。
だけれど、意地悪でずるいところもある。そこに春樹はぐっと気持ちを持って行かれた。
晶のことをもっと知りたかった。一年生や二年生の時、中学の時はどんな学生だったのだろう。晶の見ている世界を知りたい。
だから、「読書ノート」に書いた。
「晶先輩と、これまでとは違うことをやってみたいです」
晶は、春樹との「読書ノート」の交換を喜びに感じていた。「コミュモン」の晶は、春樹の文章が次第に変わっているのを目で追っていった。春樹は、「変だ」と言われても、それさえどうでもいいと忘れる人間だ。なにも考えていないのだろう。もしかすると春樹にとって、この「読書ノート」は何の役にも立たないかもしれない。
晶は生来、お節介だ。それに人のこころの隙間に、すっと入っていく力を持っている。一部では「コミュ力モンスター」扱いされているほどだ。「コミュモン」と揶揄され、携帯を向けられ「コミュモン、ゲットだぜ!」そんな遊びが晶のまわりで流行っていた。晶のそのコミュニケーション能力の高さは知らない女の子から「私のこと、もてあそんだよね!」「いい気分にさせといて、ひどい」と、いきなり駅で言われるくらいのものだった。
晶にはいつも使う表情筋がある。それを使った笑顔で人に拒絶されたことはない。
誰にでも優しくする。いつもお得意の表情筋を使って、にこにことした笑顔を向ける。お節介を焼く。それが晶という人間を成す要素だった。
晶は自分が関わることで、人が変容していくのを見るのが好きだった。演劇部に関しても自分が脚本を書いたり、部員や友達の金沢も助けたりしたかった。自分が働きかけることで演劇部の面々が楽しそうにしているのが嬉しかった。自分が行動すると人は思わぬ顔をしたり、予想だにしない行動をとったりする。「あなたは、私の気持ちをもてあそんだ!」と、駅で急に知らない女の子から言われたとしても。
びっくりして「お前の彼女?」と金沢に言われたが「……知らない」と言ってしまい、その女の子が号泣するなんてことが幾度かあったのだ。
晶は自分のパーソナルスペースが狭かったり、変に期待を持たせたりするところがある、と経験から学んだ。気をつけなければと思いつつ、どこかでぼんやりとしか自分の力を晶は把握していなかった。
晶は自分が人に関わって波紋のように人を見つめるところもあった。ものを書くとき、この人の言っていることが使えないか、このシチュエーションはうまく反映できないかと見てしまう。ただ、そういった人たちはどこかで愛おしかった。
春樹に関してもそうだ。
出会った当初の春樹は、まさにアンドロイドのようだった。大きな体を張り、鈍感で誰も気にしていなかったし、誰も見ていなかった。
その春樹が、晶に「違ったことをしてみたい」とまで、言ってくれる。晶はそんなふうに、春樹が自分によって変わっていく過程を見られることをかけがえがない瞬間として捉えて、心の引き出しに入れる。
それは自分の心の奥にいる人に対しても、だ。ただ、一番はあの人だ。
晶は早々に、LINEで春樹にメッセージを送った。
「映画、見に行かない?」
すぐに既読がついた。
六月 下旬
一学期、期末テスト期間前の六月末の休みに、晶と春樹は映画館に出かけた。
地下鉄を上がって洋館のたたずまいが並ぶ道を歩くと、局面型のエントランスに立派な円柱が立つホールがある。その地下に、小さな映画館が隠れ家のように存在していた。二人が見たのは、口コミで評判になった映画だった。
「すっごく面白いんだって」
春樹は映画にも翻弄されたが、横に座った晶の声やちょっとした動き、息づかい、反応が気になってしかたがなかった。
映画のあと、二人は遅めの昼ご飯をとった。おしゃれな街やカフェを通り抜け、場末の中華料理屋に入る。
「ここ、案外いけるんだよね」
晶はそう言って、床が油で滑りそうな店へ滑り込んだ。
「面白かった! 春樹はどうだった?」
晶は担々冷麺、春樹は普通の冷麺を頼んだ。
「ちょっと、意味が掴めないとこもありましたけど、おもしろかったです。と言うか、あれはそもそも、どういうジャンルの映画なんですか」
「え? まずそこから? あれはシチュエーションコメディだよね」
ぺらぺらと興奮してはなしだす晶の頬はいつも以上に紅潮していて、その虹彩のきれいな瞳もぱっと見開かれている。
「晶先輩はほんとに、なんでも知ってますね」
春樹は憧れの眼差しで晶を見た。晶は春樹にとって自分の周りにいなかった人間だった。何を言っているのか分からないけれど、晶を突き動かす物語にひかれた。
「うーん、でも映画とか舞台とか、本格的に見ている人や、やろうと思っている人とは見ている数や努力は、足りてないんだよね……」
注文していたものが来たので、二人は食べることに没頭した。
「ここの冷麺、うまいだろ」
「はい」
「貢さんに教えてもらったんだ。会社でもちょっとした名店扱いされてるって」
「貢さん……藤田さんですか」
「うん」
「貢さんって、アメリカに留学してたんだって。一年間。自動車でアメリカ大陸横断したって。すごくない?」
「そうなんですか」
晶の口から藤田の名前が出てくると、春樹は腹の奥にずしんと重たいものがやってくる。消化しきれない不安。気持ち悪さ。そういったものがくる。今まで感じたことのないどす黒いタールのようなもの。
晶は藤田のことを話す時、とても嬉しそうだ。頬が紅潮して幸せそうだ。
幸せってどういうことなのか、よく分からない。でも、フットサルで晶とパスが通るとぞくぞくする。高揚する。ところが藤田の話が晶の口から出ると、そのパスを藤田にとられたような気がするのだ。
だからだろうか、つい、要らないことを言ってしまった。
「あの……受験生なのに、フットサルやってていいんですか」
春樹の問いかけに、晶ははっとした顔をした。
「そうだね……。でもフットサル、気晴らしになるんだ。ほら、俺、外面はいいでしょ。フットサルだと、キレること、できるの」
「キレることが、できる」
「俺、人前で喧嘩したことないし……人との喧嘩の仕方がわからなくて、ググったことあるんだ」
「そういうもんなんですか」
「人に関心はあるけど、ぶつかるのは怖い。ちょっと引いてるとこある。……春樹も喧嘩したことないだろ」
「……そうですね。そこまで深い付き合いってなかったと思います。どうでもよくなってしまって」
「そっか」
晶ははは、と軽く笑ってのけた。それが春樹を救った。自分が人に関心がなく、それが恐らく世間一般にはおかしなことだろう、と気が付いていたからだ。
晶は晶で春樹が戸惑いながらはなすのを、お酢を飲んだような気持ちで見つめていた。
彼は彼で一生懸命に自分のことをはなす。そして、自分がどうやらおかしいと言うことにも気が付いている。
だが晶は春樹が「おかしい」とは思いたくなかった。世間で言う「普通」とはずれているだけなのだ。それを駄目なものとして、春樹自身に思って欲しくなかった。
そして晶は妹に感じるような愛おしさと、どことなくいたいけさを春樹に抱いた。
「あの、すごくバカなこと、聞いちゃってすみませんでした」
「なんで? 俺はそう思ってないよ」
「すみません……」
春樹の言葉は晶を追い詰めもした。晶がフットサルを続けるのにはほかの理由もあったからだ。晶はそれが不純だと感じていた。フットサルというスポーツに対する侮辱。そんな気がして誰にも言えないでいた。それらを春樹に悟られたかとおびえた。
「あー、せっかくの冷麺だったのに、写真撮るの忘れた!」
晶は黙り込む春樹を前に、わざとらしく声をあげた。
「写真、ですか?」
「うん、時々、食べたものとか映して、インスタやツイッターにアップしてるの。春樹、こっち向いて」
「え?」
晶から携帯のカメラを向けられて、春樹は思わず、手で顔を遮ってしまう。
「あー、変なのが撮れた」
晶は携帯を春樹に向けると、春樹の平らな手がひゅっと残影を残す写真を見せた。
「お前、ツイッターとかインスタやらないの」
「やってないです」
「ふーん」
まあ、そうだろうなと、晶は春樹の携帯を取り上げると、さくさくと作業をする。
「はい。これ」
晶は春樹に携帯を返した。
「なんですか?」
水を飲みながら、晶は春樹の顔に自分の顔を寄せた。春樹はびくっとしてしまう。
「勝手に春樹のアカウントつくっちゃった。相互フォローは今のとこ、俺ひとりだけど」
「はあ」
「はい、こっち向いて」
と、晶は春樹の写真をさっと撮ってしまう。
「なにしてるんですか」
慌てる春樹を無視して、晶は携帯をいじっている。
「ほい」
晶は携帯を、春樹のほうに向けた。
そこには驚いた顔をする春樹と、「後輩と冷麺」と言う文字が並んでいた。
その後、ボーリングを軽く楽しんで二人は別れた。
帰宅し、シャワーを浴びて、春樹はテレビを点ける。海外サッカーの放映時間が近づいていた。
独立型二世帯住宅なので祖父母の部屋は一階にあり、二階に両親の部屋、三階に春樹の部屋があった。
クーラーを入れた冷えた部屋で、春樹はソファにすらっとした足を放り出した。自分の携帯のツイッターアプリを開いて、相互フォローしている晶のツイートを見る。
春樹は「後輩」と言う二文字に、胸をどんと突かれた。
晶は中華料理屋から、春樹とボーリング楽しむ写真や、帰宅時に撮ったのだろう、夕焼けなどをアップしていた。晶がわざわざインスタのアプリも入れてくれ、アカウントも作ってくれていた。そちらも確認してみた。
晶のアカウントには今日の映画のことや、中華料理の写真がアップされていた。自分の顔や姿が、「晶」という人間を通して、携帯から見えることが春樹は不可思議な気さえした。
「先輩からオレはこんなふうに見えているのかな……」
前期の期末テストが終わり、夏休みに入る直前。学校全体が浮かれた空気に包まれていた。
春樹は赤点が多く、補習続きだった。
「ギリシア神話では、ゼピュロス神が西風を司るんだ」「西風は春の到来を意味する」そう言って、歴史の先生はボッティチェリの「プリマベーラ」と「ヴィーナスの誕生」の絵はがきを見せてくれた。
歴史はいつも赤点、もしくは赤点ぎりぎりだったが、先生が語るうんちくが春樹は好きだった。
晶は夏期講習がすでにスタートし、塾に通い詰めるようになったため、フットサルに顔を出すことが少なくなった。
とはいえ、気晴らしにと時々顔を出して、体を動かしている。
春樹は最寄りのM駅にあるショッピングセンターの魚屋で、調理のバイトを始めた。適度に涼しく、親の知り合いの店というのもありがたかったし、晶の塾に近いのもバイトとして選んだ理由だった。
七月 下旬
その日は地元駅のショッピングセンターにお盆の屋台が出ると聞いて、春樹と晶は出かけることにした。
塾の帰り、バイトあがりで、二人は適当なTシャツとハーフパンツで、屋台を冷やかしていた。
「あの、はるちゃん?」
おどおどとした声が、背後から聞こえてくる。
まだ少年っぽさを残した三人連れが、立っていた。
「……はるちゃん、俺らだよ。T中のサッカー部の田中と、池田」
「……あと道上……覚えてる?」
「ああ、そうだっけ。うん、久しぶり……えーっと、元気?」
「うん。……はるちゃん、この人、先輩?」
さばさばした言動をとる春樹に対して、目の前の三人は視線をそらしたり、言葉に詰まったりしていた。
「うん。こっちは高校の先輩。先輩も俺もフットサルやってる」
三人は初めまして、と体育会系らしく、声をあげて晶に挨拶する。
そのうちの一人が、やや、言いにくそうに口を開いた。
「今は、サッカーやってないの?」
三人が持っているかき氷がほぼ水になっているのを晶は見て、さっとはなしに割って入った。
「春樹はうちのチームで頑張ってくれてる。チームの貴重な戦力だよ」
「あ、はい。……そうなんですか」
どこかで、晶の中で意地悪い感情が働いたのは事実だった。春樹の肩を持ってやりたい。ただ、それを表に出すことはしなかった。
春樹はばさばさと長いまつげをはためかせて、晶と三人のやりとりを見ているだけだった。
もう日は暮れつつあるのに、昼の熱が残って蒸している。
「春樹、かき氷、五人分買ってきて。味はお任せするから。お金はここから出して」
「はい」
晶は春樹に財布を渡すと、春樹はかき氷の屋台へてくてく歩いて行く。それを三人はびっくりして、見つめていた。居づらそうに、春樹の元チームメイトは、肩をくっつけあっている。
「あのさ、急に変なこと聞くけど、春樹って取っつきにくかった? めんどくさかった?」
「あの、それは……」
「逆にはるちゃん、俺らのこと……言ってましたか? あの、嫌な思いしたとか…」
晶は三人の言葉に耳を傾けていた。
「いや、そういう話は全然聞いてないよ」
晶はやんわりと、三人に微笑みかけた。晶はいつもの表情筋を使い、にこっと笑ってみせる。
晶の笑みにホッとしたのだろう、そのうちの一人が、視線を背けがちだった顔を晶のほうへ向けた。
「俺ら、はるちゃんとはあんまりうまくいってなくって……。はるちゃんはすごくて、俺らには手が届かないエースだったんですけど、正直、とっつきにくいっていうか……俺たちが怖くって……なんていうかうまくいえないんですけど……はるちゃん、よくわかんないし」
「そうなんだ。ロボットみたい?」
晶がそういうと三人はびっくりした顔をして黙りこむ。
「部活の連中で遊びに行く時も、「どうせ来ないだろう」って、結局、誘わなくって」
「はるちゃんに悪いことしたなって、今は思ってます」
「ありがと。春樹の話してくれたの、嬉しかったよ」
「そういってくれる先輩が、今のはるちゃんにはいるんですね」
三人はほっとした顔をする。
「春樹が君たちに意地悪された、なんて思ってたら、かき氷なんて買ってこないよ」
晶は三人に笑って見せた。
それでも、春樹がまるでこの三人を覚えていないかのように振る舞った、いや、恐らく本当に忘れていたのだと、思い至る。確かに、ハブられたことは知っていた。でもどうでもよかったのだ、春樹にとってそんなことは。むしろかわいそうなのは、目の前の彼らのほうだった。
「あんまり気にしなくていいからね、あ、きたきた」
春樹は言われたとおり、かき氷をメロン、コーラ、ブルーアイスなどバリエーションをつけて買ってきた。
「春樹、三人にあげて。じゃあね!」
晶は三人にありがと、と手を振った。春樹は、それぞれにどの味がいいかたずね、渡していた。じゃあ、と春樹は三人に手を振る。残された三人は、いつまでも晶と春樹のほうを見つめていた。
「なに、話してたんですか?」
「うーん? 雑談」
しゃくしゃくといちご味のかき氷をかき混ぜると、晶は適当にごまかした。
「そうっすか」
何か言いたげにしている春樹にあえて気が付かないふりをして、晶は春樹とかき氷の交換をする。
「味、かわらねえな」
「どれも一緒だって聞いたことあります」
「えっマジ? それより、たこ焼きくわねえ?」
「そうっすね」
夏祭りが終わってしばらくの夕方、バックヤードでお茶を飲んでいた時、携帯を見ると晶から「今日ひま?」とメッセが入っている。「ひまです」と打ち返す。しばらく経って「これからオールで遊ばない?」と笑顔のスタンプとともにメッセージが返ってくる。「大丈夫です」と、笑顔のスタンプをはやる手で送った。
バイト後、春樹はいったん家に帰り、シャワーを浴びて汗を流した。
クローゼットの扉を全開にして、どの服がいいか選んだが、もともとそれほど洋服を持っていない。晶にださいと思われたくなかった。釣り合いのとれる服を選びたかった。こんな気持ちになったことがない。
なんとか、黒のサマーカーディガンとブルーのシャツ、それにワイドパンツにサンダルをあわせた。
そしてM駅そばのショッピングセンター広場のいつもの場所で、晶を待った。待ち合わせの時間は午後八時。
「ごめんな! 待たせた」
携帯をいじっているうちに、たたたっと足音がした。顔をあげると、息を切らせた晶が走ってくる。春樹の心がざわっと波立つ。
晶は塾から飛び出してきたのだろう、ぜえぜえと言いながら春樹の前に立った。
シンプルなビッグパーカーにクロップドパンツ、ローテクスニーカーにリュックを肩にかけていた。髪を切ったのか、茶褐色の髪が、耳にかかる程度になっている。そのせいか、晶はいつも以上に幼く見えた。
「大丈夫です、オレも家に帰ってたんで」
「うちの人、何にもいわない?」
「晶先輩が一緒だって言ったら、OK出してくれました」
「うわー、責任重大だな! あ、ご飯もう食べた?」
「家でちょっとだけ」
二人は駅のほうへ歩き出す。住宅街にあるM駅構内からは帰宅の途につくサラリーマンやOLが駅から溢れ出してくる。その波に逆行するように二人は都市部に向かうホームに並ぶと、ぴりりりり、と警笛音と無機質なアナウンスが流れ、電車の到来を告げた。
晶と春樹は繁華街に出て、ファーストフードで軽く腹を満たすと、場所を移動して、カラオケボックスに入った。二十三時以降は利用ができないため、晶がどんどんと曲を入れていく。
古い洋楽や、最近のヒット曲を無難に歌いこなす晶に対して、春樹は持たされたタンバリンを適当に振っていた。
「春樹、なんか歌え」
晶にそう言われ、父親がいつも歌っている国民的アイドルの昔の歌を歌った。
晶がうまいうまい、とおおげさなくらいに手を叩いてくれた。
二十三時前にカラオケボックスを出て、国道沿いに歩くことにした。
「このまま歩いて行けば、S海岸に出るはず」
晶は、地元で有名なS海岸の名を口にして、てくてく歩き出した。次第に夜も更けていく。途中、時間があったので、海沿いの波止場にも寄った。ざぶ、ざぶ、と海の音と、ほんのり鼻を突く、淀んだ潮の匂いがした。
春樹はこんな時間に外に出ていることがなかったので、不安と高揚感で目が冴えた。
新しく作られた白いモニュメントを晶は撮影し、その間、春樹は芝生をぶらぶらした。
道すがら、晶と春樹は特にこれといった意味のないことを話した。
ただ、春樹は自分が「どうでもいいはなし」ができることに驚いていたし、その相手が晶であるのは必然だと思われた。
深夜三時過ぎ。自家用車の数は少なくなり、大型のトラックなどが勢いをつけて走って行く。海側にある工場地帯を左手に見ながら、ひたすら歩いた。早起きする人や、新聞をはこぶ人、早朝出勤のサラリーマンの気配が戻ってきた。
晶と春樹は、そのまま開けた海岸へ到達した。白い砂浜に、ゆったりとした海が黒々と広がっていた。
朝日が昇ってくるのは、思っていた以上に速かった。ゆっくりと空が赤みがかかっていくのを、晶と春樹は、黙って空を見ていた。
「去年の今頃、こんなふうに春樹って他人と朝日を眺めるなんて、思いもしなかったなあ」
「そうですね……」
「俺さ、小学生の時、ちょっとうざがられてたの」
「え? 晶先輩が? なんでですか」
「お調子者だろ、俺。誰とでも仲良くしたがって……どっかで勘違いしたんだよね。「友達百人できるかな」を真に受けちゃって、友達がたくさんいるのがいいことだと思ってた。だから「八方美人」とか言われちゃって。まあ、今もそういうところあるけど。……春樹はそういうの、ある?」
あえて、晶は春樹に爆弾を落とすくらいいの気持ちで、質問を降ってきているようだった。
「そうですね……。ほんと、今はどうだっていいんですけど」
「うん」
「オレ、中学時代は「エース」だったんです。でも県の選抜いったら、ガン無視だし、結局、中学のチームでも、浮いてたみたいです。ミーティングしてる間もボール蹴りたかったし、みんなでご飯食べて帰ろうって時も、それより帰って走りたかったし。……家にメシ、あるじゃないですか。もったいないし。それと合宿でも、打ち上げで花火とかやるくらいなら、寝ていたかったです」
「……うん」
晶はしみじみとああ、春樹は本当にアンドロイドなのだな、と聞いていた。
「だから、部活の連中も一緒に遊ぶ時、オレを誘わなかったみたいです。部活の連中からも佐藤はロボットだ、アンドロイドだって言われてたみたいなんですが、それも「どうだってよかった」んです」
「……うん」
「「こわい」「付き合えない」「佐藤はおれらと違う」って言われる。中学一年の時、三年の先輩に「ばかにすんな」って言われました。オレは先輩をばかになんかしてなかったんですけど……」
「そうかあ」
晶はただ、相づちを打つだけだった。春樹はその相づちに引きずられるように、どんどんはなしを続けた。
「気がついたら、サッカーもどうでもいいなって。部活に入らなかったのも、そのせいかもしれません」
「春樹は……言葉が悪いかもしれないけど、「どうでもいいやつ」が視界に入ってないんだろうな」
「そうなんですかね」
「聞いてるだけだと、周りのほうがまともな気がする。だけど、お前が間違ってるとも思えないし、俺はお前みたいな生き方、羨ましいし、かっこいいなあって」
きっと春樹の中には、才能がふんだんに溢れているのだろう。本人も気が付いていないが、その才能が強固な基盤となって、ぶれることがないのだ。
晶はそう、春樹を見ていた。自分とはまったく違う生き方をしている。それは好ましかった。
ぺたり、と海岸沿いに作られた白い階段に晶は腰を降ろした。春樹も晶のそばに腰を降ろす。
「オレにも、よくわかりません。今まで考えたことがないです。……あとから、色々いわれて「ああそうなのかな」とは一瞬だけ、思うんですけど、どうでもいいから忘れてしまう。……でも、文化祭は特別でした」
「特別? 楽しかったの?」
「そうですね、楽しかったんです。多分」
晶は春樹を理解し始めた。春樹は、彼なりの言葉は持っているがそれを行使することに執着がなく、人とつながることにも関心がない。だが、これから感情と感覚がうまく絡みついたら、彼はもっと違った世界を見るかもしれない。そんな彼を見てみたかった。それは単に好奇心の範疇を出ていないが、言葉を選びながら晶は口を開いた。
「春樹はどうでもいいやつには、どう思われててもいいんだろ。それでいいんだよ。でも、好きだな、理解したいな、理解して欲しいなと思える人間がこれから先、現れたとするよね。その相手には「自分が思っている自分」として見て欲しいって時がきて、自分の口から、ちょっとでも気持ちを伝えられたら嬉しくない?」
「たぶん、嬉しい、のかな……」
春樹が脳裏に何かを思い浮かべていそうだったが、口には出さなかった。
「もちろん、言葉で全部、伝えられるわけじゃないけどさ。何か言えたほうが、いいと俺は思うんだ」
晶は朝焼けの光のなかで、笑った。
海岸のすぐそばにある駅で朝日を見ながら、二人は始発を待つ。
二人は電車に乗るとすぐ、うとうとし始める。
晶が、春樹の肩にもたれかかってくる。自分より小さな丸く形の良い頭は、思った以上に重みがあった。春樹は手足に重い石が乗っかったような気がして、動けなくなった。
そっと、晶を盗み見る。潮の香りと、シャンプーのにおいがした。なんていうシャンプーなんだろう。知りたくなった。
ふんわりと頬を触ってみる。晶は起きない。ひんやりとした肌はしっとりとしていて、心地がよかった。
もっと触れたい。自分の中にある欲に春樹は戸惑ったが、思い切って晶の髪を撫でてみた。ふわっとした茶褐色の髪は、手のひらになじんだ。くしゅっと柔らかく掴んでみる。
ふとリュックから晶の携帯が目に付く。ライトがまだ点いていたため、画面もくっきり見えた。
「あれ?」
ツイッターの画面が開かれているようだったが、春樹が知っている晶のホーム画面とは違っていた。女性と男性が映っているらしきアイコンとアカウント名が、春樹の脳裏に焼き付いた。
「先輩の書いているもの、読んでみたいです」
春樹はバイト終わり、晶と過ごすケンタッキーで思い切って言葉にした。
「え?」
「あの、先輩、脚本? 小説ですか……? 書いてるんですよね。コンクールで評価高かったって演劇部の人が言ってるのを聞きました」
「あーああ。そうなんだ。嬉しいけど、なんか、恥ずかしいな」
へへっと晶は笑う。
「読んでもわかんないかもしれないんですけど……」
「いや、春樹がそういってくれるだけで嬉しいよ。えっと去年のでいい? 今年、あんまり書けてなくてさ。よかったら、去年の演劇コンクールの舞台映像あるから、一緒に見て貰えるとありがたいな」
恥ずかしいといいながらも一気に口調が早くなり、紅潮した顔を見せる晶に春樹は晶の違う世界を垣間見た。
晶は早速、脚本とDVDを持ってきてくれた。
「脚本は読み方わかんなくて当然だから、DVD見ながら読んでよ」
「はい」
「感想聞かせてくれよ」
「オレがわかることでよかったら」
「それで十分だよ」
晶が少し日焼けした顔をほころばせた。
帰宅して早々にDVDを見始める。確かに最初はよく分からなかった。しかし次第に晶たちの作った世界にのみこまれていく。
死ねない体になってしまった娘が、好きな男の子ども、孫、その先の子どもたちまでも見つめていき、時に助け、時に恋に落ちるというはなし。らしい。太平洋戦争から、高度成長期、昭和の時代、と時が流れていく。ぼんやりと眺めつつも、すべて女子高校生が演じているにもかかわらず、強い愛のものがたりであることは春樹でもわかった。
明るくて面倒見のよい晶が、日焼けして微笑みかけてきてくる晶が、こんなに一途な愛のはなしをかく、その裏腹さに驚いた。主人公の娘は時に死ねないと、愛するものの死に慟哭する。その一方で、愛する男の子の子どもたちを守っていこうとするのだ。彼の頭のなかにこんな空間と生きている人間たちがいるのか? 春樹はそのことに怯んだ。ずっと自分はアンドロイドのままでいいのに、とんでもない人、とんでもないものにふれたのかもしれない。
晶の台本と大原の演出によってこの作品は近畿大会の二位を受賞したらしい。ストーリーはまとまりがないがダイナミックでよい、今後に期待できるという審査員らしき講評も入っている。時に笑いを、時に涙を、そして演者たちが感情を剥き出しにし、ぶつかりあっているのを見て、自分がやってきたサッカーやフットサルと何が違うのか分からなくなった。調べてみると高校演劇は各地方の予選を勝ち抜き、全国大会に進む、激しい世界でもあった。なにより肉体を駆使し、表現する。春樹は自分よりこの人たちはおかしいと感じた。脚本を覚え、感情を理解し、他者になり、表現する。自分の知らない人たちと世界だった。他者であり、晶でもあった。
春樹はいてもたってもいられず、晶に電話をしてしまう。
「え、はるき?」
晶がすっとんきょうな声で電話に出る。
「あ、あの、すいません、えっとはい、佐藤です」
「どうしたの?」
晶の声にはっと我に返った。
「あ、あの、DVD見ました、それで、あの、えっといいたいことがあったんですが」
「うん」
「あの、えっとすごかったです」
「ええ、そうなの?」
「どうすごいかはうまく言えないですけど、怖かった」
「えっ? ホラー? ってこと?」
「いえ、違って、オレのやってたこととなにが違うのか、演劇やる人すげえって、あと、サチ。サチが、凄くて」
春樹は劇の主人公の少女の名を告げた。
「ああ、あの人ね。去年の三年生で、存在感とカリスマ性ある人でさ、今、芸大いってて」
「それもなんですが、どうして、晶先輩はあんなはなしがかけるんですか。すごいです、すごい」
語彙力がないってことを春樹は悔いた。もっとなめらかに自分の興奮を伝えたいのに。
「もしかして、褒めてくれてるの?」
「そうです、あれ、みんなに見て欲しいです」
電話の先でくすっと声がもれる。
「それ、最高の褒め言葉」
八月 初旬
春樹の高校一年の夏休みは、めまぐるしく過ぎていった。
魚屋でひたすら魚をカットし、ラッピングする。フットサルがある時は、シューズやウェアの入ったリュックを背負って出かけていく。
塾がショッピングセンターに隣接している晶とは、昼ご飯を一緒にすることが多くなっていった。ショッピングセンターのフードコートや、カフェで二人は過ごした。ノートのやりとりはまだ続いていた。
「ほんとにお前、成績やばいんだな」
登校日に、赤点の補習の結果を貰った春樹は、それを晶に見せた。
その結果をさすがの晶も、眉を寄せて見つめていた。
「俺もそんなに時間ないけど、ちょっと勉強しよ」
「え、いいんですか」
「そのかわり、モスのチキンバーガー奢れよな」
「はい」
晶は教えかたもうまく、春樹は頭の中が改造されていくような感覚を抱いた。その一方で、晶の指先などをぼおっと見つめてしまい、「聞いてる? 佐藤くん?」と、晶に怖い笑顔を向けられる。「すいません」といいながらも、わきたつ感情が抑えられない、そんな時だった。
「あれ、晶と佐藤?」
不意に声をかけられた。
「あ、貢さん」
そこにいたのは、藤田だった。
「ああ、そっか。この辺、お前らの地元だもんな」
「俺の地元はもうちょっと先です。知ってるでしょ。相変わらず、変なTシャツ着てますね」
ぱっと晶の顔が輝く。
「いいだろ」
黒い生地に、猫がお寿司を抱えて歩いているTシャツを藤田は着て、ゆるめのジーンズを履いていた。それでも随分とおしゃれに見えてしまう。
「ここ、いいか」
モスバーガーのセットのトレイを持って、藤田は晶の横の席に座った。
「いいですよ」
二人のやりとりに、春樹は少しむっとする。どうしてオレには許可を取らない。
「今日はどうしたんですか」
「ちょっとね、用事があったの。親戚の集まり」
「親戚の集まりに、そのシャツですか」
「おれ、親族のなかでは末っ子ポジションだから、いいの。……二人は、勉強してるんだ。学校の課題かなにか?」
「はい、オレの成績が悪いので、先輩に見てもらっています」
春樹はわざと、声を張り上げてみた。思ったより大きな声が出てしまって、晶に少し厳しく「こら」と言われ、藤田には吹き出され、いっそういやな気分になる。
春樹は、藤田といる時の晶が嫌いだった。生き生きと、晴れ渡った空のような顔をする。
二人の物理的な距離の近さは、シャワールーム以来、感じるようになってきた。藤田はどこかでセーブしているようだったが、晶のほうが自然と藤田に寄っていくのだ。本人は距離を取っているつもりだろうが、藤田も晶が近づくと、やたらとスキンシップする。
そのせいか、チームメイト、特に石田あたりから「いちゃいちゃすんな」と言われていた。
今だって、春樹のほうに座ってもいいのに、当然のように藤田は晶の横に座って、晶は嬉しそうに肩を寄せて、参考書をわざわざ見せている。
晶は比較的、肌の色合いが変わりやすい体質なのだろう。藤田と目があうと、顔色がさっと朱色に変わるのもいらついた。
「先輩、ここわかりません」
「どれ」
「へー、今の高校生ってこんなこと、勉強するの」
「貢さんも、そんなに歳、変わらないでしょ」
「え、おれ、今度の十二月でもう二十八だよ」
「見えないですよね」
藤田が自分と晶の間に入ってくるのもいらいらした。
ほうっておいてくれないかな。
「すいません、コーヒーおかわりしてきます」
そういって、春樹は席を立つ。
彼らを二人きりにするのはいやだったが、二人を見ているのもいやだった。
晶が藤田の前でしか見せない顔を見たくなかった。その瞬間に晶は自分の先輩ではなくなるからだ。
春樹は年長者に「先輩たちは、おかわりどうですか」と聞くのをまた忘れた、と春樹ははっとする。でも今は二人を見たくないから、どうでもいいことにした。
春樹がはじめて覚えた強い感情は「マジデダイキライ」だった。
フットサルのゲームの時だった。相手チームにはガタイがよく、あからさまに体格のおとる東や晶にぶつかってくるやからがいた。しかし、東は冷静にかわした。ただ、晶とは相性が悪すぎた。
晶は煽るのが好きなのだ。それがいつもは「けんかできない」彼なりのフットサルでの発散方法だったのだろう。
春樹は晶が相手をこばかにして、ペナルティぎりぎりまで、やりあっているのを不安になりながら、見つめていた。
パスが石田から東に通った時だった。晶の顎に相手のひじがはいろうとした。
「あぶない!」
春樹は思わず相手と晶の間に入った。晶を守りたかったのだ。
「いてえ!」
あれ? と冷静になってみると相手が逆に顎を押さえてコートに転がっている。
「ちょ、ちょっと春樹、大丈夫?」
晶が慌てて、春樹の頭に手をやる。じわっと熱い感覚がしてくる。そして頭を抑えるとぬるっとしたものが手についた。たらあっと血が流れおちていく。
「春樹! 血がでてる!」
「あ、ああ、そうですね」
「そうですねじゃなくて」
「たいしたことないっす」
客席もコート内もざわめき、審判が試合の中断を指示してくる。
ぼおっと立っていた春樹は藤田に手を掴まれた。
「とりあえず医者いこう、あとのことは俺らに任せて。東さん、春樹を医者に連れてってやってください」
「わかった」
「春樹、ごめん、俺のせいで」
「いえ、そんなことないです、っていうか、俺の頭が相手の顎に当たったんですね」
たらっと落ちてくる血をタオルで抑えながら、春樹は冷静に振り返ってみた。頭はがんがんいたいが、ぬるりと落ちる血には興味がなかった。子どものころからこの程度の怪我は繰り返している。
「とりあえず医者だ」
タオルを押さえつつ、春樹はざわざわしているコートから東に腕をひかれてコートをあとにした。
問題になったのは、相手チームの負傷した人間が謝罪と治療費を求めてきたことだった。
こういったぶつかり合いは当然あることで、問題になることは殆どなかった。ただ、今回は相手がしつこかった。
そこまで、春樹は試合から数日後のチームミーティングで聞かされた。
「治療費などは支払う必要はないし、なんなら、弁護士を通してくれと伝えた。相手チームの管理者もそれは理解しているんだが、怪我をしたやつが晶と春樹に謝罪しろといっている。そんな必要ないけどな」
村上はそこまではなす。
「すいません、俺がうかつなことをしたから」
晶は春樹の頭の包帯を見つつ、頭をさげた。
「しかたねえし、あれはお前のせいじゃねえ。煽るのも煽られるのもありなのに、手を出した相手が悪い」
いつもフラフラしている石田がいつもの調子でへらっと笑ってみせた。
「そうですね。ただ、こちらとしても顔を見て、はなしをしたほうがいいです。俺に任せて貰えますか」
少し考えこんでいた藤田が手をあげて、春樹に視線をやる。
「春樹、診断書とれるよな」
春樹の頭が顎に当たった相手チームの人間とファミレスで藤田は待ち合わせして、春樹と晶を連れていった。
「このたびは申し訳ありませんでした」
と藤田は相手に爽やかすぎるほどの微笑みを浮かべ、自分の名刺を渡す。そこから藤田は、「念のためにボイスレコーダーで録音させていただきますね」と手際よく、レコーダーをテーブルの上に載せた。
今回のことはフットサル協会の上部に判断を仰いでもよいこと、そのための準備はできていること、春樹の診断書を出し、また状況からも故意ではなかったこと、それらを立て板に水のように、かつ、分かりやすいように藤田は話していった。
春樹はいつものふわふわして、優しくて気を遣うだけではない藤田の「大人」としての存在感に圧倒されていた。ニコニコ笑ったかと思うとやんわりと相手を追い詰める言葉を使う。
「謝罪に関しての要求ですが、治療費がかかっているのはこの佐藤のほうも同様です」
藤田はニコニコと笑いながら、しかし目は決して笑っていない。
「それに謝罪でしたら、先ほどさせていただきました。こちらからは特に要求はいたしません。これでお話はクローズとさせていただきます。まことに申し訳ございませんでした」
最後、再度の謝罪はくどいほどで、それが藤田がどれだけ社会人としてこういう場面を経験してきたか、春樹は圧倒されるしかなかった。
「貢さん、すいませんでした」
結果的にうまく物事が収まり、藤田は晶と春樹を車に乗せると、晶が少し震える声で藤田に謝罪する。
「気にするな。大人が子どもをかばうのは当たり前だろ」
「でも」
「人生の先輩に任せなさいって。それに、俺もあいつ、前からむかついてたからね。今日も服、きめてきたんだよね~」
ははっと藤田が笑うとスーツのボタンを外すと下にシャツを着ていた。かわいい猫が「ふぁっきゅーにゃん」と中指を立ててるTシャツだった。
「ふははっ」
それまで表情が硬かった晶が吹き出す。
「こっちが勝負服」
藤田の言葉に晶が一瞬びっくりして、ぷっと吹き出す。
そんなふたりを見ながら、春樹はいいようのない感情が腹のなかで渦巻いていることに気が付いた。
頭から突っ込むしかできなかった自分。みんなに面倒を見てもらった自分。
藤田はそんなところにはいない。ずっと大人でたくさんのことを経験してきて、面倒なやつも笑顔であしらってしまう。
そして晶の顔は花が咲いているかのように、藤田に向けられている。
「マジデキライ」
はっと春樹は我に返る。何度もその言葉がまるで呪文のように形どられていく。
藤田のことがマジで嫌い。
その日、一日、春樹の頭のなかで呪文は「マジキライマジキライ」とサウンドしてうるさくて仕方なかった。
生まれてはじめて、人を酷く憎むということを春樹は覚えたのだ。それが最初に感じた強い感情だったことに春樹は戸惑っているが、その感情に身を浸すのは悪くなかった。それでも花が咲くように藤田に笑いかけていた晶に、いいようもない腹のそこから感じる不穏な感情が止められずにいた。
八月 中旬
太陽の光は肌にいたいほど照りつけてきた。湿気も多く、汗がとまらない。くっきりと影は陰影をつけ、日差しの強さを目にも肌にも刻みつけてくる。
フットサルで成人組は大抵、練習後やゲームの後に飲みに行く。春樹は以前のことがあったため、あまり参加はしなかったが、その日は練習に来ていた晶が参加すると言うので、ついて行った。
「でさあ、女のほうが「こういうの、はじめて……」「えいとくん、すごおい」とか言うわけよ」
石田が女性に絡んだはなしを大声でしている。家庭持ちの石田だったが、複数の女性と割り切った関係を持っていて、それを自慢にしていた。
春樹などには想像も及ばないが、石田の芸能人のように華やかで整った顔立ち、すらっとして筋肉が適度に乗った体を求めて、女性のほうから声をかけてくると言う。
どうやって出会うのか、どのようなプレイをするのか、と赤裸々かつ、おおげさに語る石田を、春樹は「虫みたいだ」と思った。人間じゃない。虫。
そうやって女遊びをする石田も、石田の体を求めてくる女性たちも、どんなふうに虫のようにごそごそ、群がってくるんだろう。……虫がうごめく様を脳裏に描いて、それを振り払うように、横に座っている晶へちらっと視線を送った。
黙ってソフトドリンクを飲んでいる晶は誰とも喋らず、仏頂面だった。ノンフレームの眼鏡の奥にある目は、ややすわっている。
晶はソフトドリンクをおくと、こめかみに指をおいて、ほおづえをついた。珍しく、ちっと舌打ちをする。
晶がいらついているのは、確実だった。こんな晶を春樹は見たことがなかった。しかし、春樹はほっとした。晶は石田にいい感情を抱いていない。晶はまっとうな人間なのだろう。少なくとも「虫」じゃない。
酔いが回ってきたせいか、石田のはなしがさらにげすな方向へ向かおうとしていた時、晶が立ち上がる。
そんな晶の肩を藤田が掴んでむりやり座らせた。がたん、と椅子が鳴る。キッと晶は藤田を見つめたが、藤田はゆるく顔を横に振った。
「ねえ、石田さん、そういうのどうかな」
そのかわり、藤田は涙堂をぷっくりと作りながら、よく通る涼やかな声を発した。
「あ?」
「石田さんがよくモテるのは、おれもわかってる。イケメンだもんね。女の人がほうっておかないや。……でも、家族のことを考えた行動をしたほうがいいよ」
藤田はまなじりをさげ、口角をあげた。はりついたような笑みだ、と春樹はその笑顔を見た。とてもきれいで、隙がない笑顔。
藤田の整った顔にはりついた笑みが、春樹には不気味に見えた。そしてこれが「大人」なのか、と春樹は藤田の横顔を見た。
「ちえっ。藤田だってモテるくせによ」
一瞬、場の空気が不穏になったが、石田は軽口を叩いて、すねたようにやれやれと藤田に笑って見せる。端っこのほうで、誰かが「さすが、藤田だな」「石田のこと、丸め込んじゃったよ」と、こそこそ喋っているのが春樹の耳にも届いた。
「おれはモテないですよぉ」
また、張り付くような笑顔を藤田が見せたのを見て、村上がわざと藤田にはなしを振った。
「そういや「あすみさん」とは、どうなってるんだ」
「ぼちぼちですよ」
「そんなことないでしょ」
「あすみさん」って誰だ。
「もう婚約したんでしょ」
「まあ、その」
藤田が言いにくそうにして晶にちらっと視線を送ったのを、春樹は見逃さなかった。
隣にいた晶がそっと席を立つ。
「晶先輩、どこ行くんですか」
「ちょっとトイレ」
早口でそれだけ言うと、さっと晶はいなくなった。
「晶は貢のおっかけだからなあ……」
「二人って「そんな仲」だっけ?」
「晶が一方的に貢になついてるんでしょ」
「だから、あそこはカップルだって」
「石田さん、もうやめなさい」
「東っち、こええ」
そんな言葉が、春樹の耳に入ってくる。
春樹は心にぼんやりとした重たい雲がかかるのを感じた。その雲をかき消したい、そう思って晶の姿を探すが、見当たらない。
思い切って席を立ち、晶の様子を春樹は見に行く。すると、長い廊下の隅っこの壁側に立っている晶がいた。
「晶先輩、大丈夫ですか……」
「うん、ちょっとコンタクトがずれただけ」
真っ赤になった目を両手でこすりながら、晶は顔を伏せた。
「コンタクト、してましたっけ」
「してたよ」
突きはなすように晶は早口でそれだけ言うと、席に戻っていく。
確かに晶は運動する時はコンタクトをする。しかし、さきほどまでノンフレームの眼鏡をかけていた。
春樹は晶に声をかけてやりたかった。晶の背中がひどく小さく見えて、「かわいそう」に感じたからだ。ぎゅっと背中を抱きしめてやりたい。そんな自分の思いに春樹はぎょっとする。晶はいい先輩だ。なのに、自分は晶の薄い肩、真っ赤な目、すっとのびた襟足を見て身震いしたのだ。
帰宅した春樹はベッドの上にごろんと寝転がり、さきほどの晶や藤田の振る舞いを思い出していた。うっすら察していることを、春樹は納得したくなかった。ベッドに、ぴんと張り付いたブルーのシーツはひんやりとしている。
風呂に入っている時も、テレビを見ている時も、こうやっている時も、晶のことを考えている自分に春樹は気がついていた。その一方で、藤田への「マジキライ」の呪文が吹き出してくる。
「読書ノート」として使っているメモパッドは、二冊目に入った。今度は小さな猫がころころ転がっている表紙だ。
机に座ってそのファンシーな表紙をめくり、何かを書こうしたが、何も浮かんでこない。ただ、晶が藤田をどう思っているのか、問い詰めたくなる。
ノートを放り出して、またベッドに転がった。
ぱらぱらと晶に借りている「かもめのジョナサン」を読む。
かもめのジョナサンが限界まで速度を自分と競い、長老たちにかもめたちのルールを 破ったと追放され、いつしか教祖になり、しかしたったひとりのジョナサン・リヴィングストンという存在になるまでのはなしだ。
カモメの写真がとても綺麗だ。文庫本だけれど、上品な絵本にも思える。
晶と夜通し歩いた日のことを思い出す。あんなふうにはなしができる人は、いなかった。
……晶は、自分を見ていてくれる。はずだ。
演劇部に連れて行ってくれた、カラオケで歌を歌った、二人きりで夜を通して歩いた、一緒に朝日が昇る海を見た。
晶は。晶は自分をどう思っているのかな。
あの人はどんな体つきをしていて、どんな顔をしていて、どんな指先をしていたかな。あの人がきれい、と感じたのは最初はいつだっけ?
こんなふうに人を思ったことなんて、なかった。それと同時にまた「マジキライ」が出てくる。晶とこの呪文が結びついているみたいだ。
晶は華奢な雰囲気はあっても、172センチはある先輩で、男性だ。男性を性的に意識したことなどない。もともと春樹は性愛への興味が薄かった。それなりに生理的な現象で自慰はするが、愛情を誰かに抱いたことはない。
晶の顔が脳裏にちらつく。まず、最初に「恥ずかしい」と言う言葉が浮かんだ。晶に失礼だ。知られたくない。そして、こんな自分も知らなかった。人を思うこと、誰かの姿を心に浮かべて、こんなに胸が高鳴るなんて、今まで知りもしなかった。
深くてあたたかな海の底から、水面へと上がっていく。きらきらと輝く水面へ、顔を出す。凄く気持ちがいい。
その瞬間、春樹は目が覚めた。
クーラーを「強」に設定してしまったせいか、部屋が冷蔵庫のように冷え切っている。
「あ……」
春樹は下半身に違和感を抱く。
「まじか……」
汚した下着は、両親がいないタイミングを見計らって風呂場で洗った。誰もいないとわかっているのに、誰かに見られるのでは、と冷や汗をかく。
「なんなんだよ、オレ」
晶の姿が脳裏によぎる。きっと晶はこんなふうに、自分を見てはくれないだろう。
もっと自分を見て欲しい、自分を意識して欲しい。でも、そんな自分がひどく愚かで、浅ましいと春樹は自分をどこかで自分を鳥瞰している。それでも、晶を思うと味わったことのないような多幸感が、ざぶざぶと満ちてくる。
あの人、指の形が整っていたな、色はオレより白いな、少しそばかすがあるな、左顎にほくろがあったな、肩幅はそれほどなくて華奢な感じだったな、と晶を思い出していた。
「おい、佐藤!」
誰かが自分の名前を呼んだ。そう思った時には遅かった。ぼんやりして、春樹は自分がどこにいるのか、わかっていなかった。
冷えた魚屋の奥で白長靴を履いていた。ああ、バイトしてたんだ。
「あれ……」
なんとなく、手がぬるっとする。ふと視線を向けると、左手からだらだらと血が流れていた。前にもこんなことがあったな。ああ、ちょっと前の頭の怪我だ。
「さっさとこっちきて傷口洗え!」
店長がどぼどぼとホースから水を出して、春樹を大声で呼んだ。
「それほど痛くないです」
「そういう問題じゃない!」
流れた血の量の割に傷口はそう深くなく、大型のバンドエイドが春樹の指にぺったり張り付いている。この間のフットサルといい、流血が続いてるな、と春樹はぼんやり思う。
「スタバにいます」
春樹は晶にそれだけメッセージを送ると、途中で読むのを止めていた「カモメのジョナサン【完全版】」を、右手でペラペラめくった。
かもめのジョナサン・リヴィングストンについて、その思想や生き方すべてを
春樹は理解し咀嚼することはできなかった。れでもジョナサンが時速342キロで飛ぶ姿を思い浮かべ、自分もかもめになったようにジョナサンをはらはらと見守った。
春樹はこんな本を読んだことがなかった。本から得られるものが、こんなに胸をはやらせるとは知らなかった。
最後のページをめくる。
「ジョンとでも呼んでくれ、そう、ジョナサンだ、よろしく」
ジョナサンが告げた時、春樹の瞳から一気に涙がこぼれた。これは「神さま」のはなしだ。春樹はそう直感した。空を飛ぶ、かもめの神さま。
「……だいじょうぶ?」
気がつくと、そばに晶が心配そうに立っていた。春樹は周りの客が怪訝そうな顔をして、こちらをちらちら見ていることに気がついた。180センチもある男が、涙を流している様は、スタバでは浮いていて異様だったろう。
「すいません、だいじょうぶです……」
そう言って、鼻をすすり上げながら、春樹は晶を見た。
「どうかした?」
「……「そう、ジョナサンだ。よろしく」っていうところ……」
ぼたぼたぼたっと涙がその瞬間、またしても春樹の瞳からこぼれた。
それを見た晶は、春樹が本のどこで泣いているのか、勘づいた。そして晶自身もじわっと涙ぐむ。
「あー……そうかあ……あそこ、凄く「くる」よね……俺も泣いた……」
しんみりとして、涙を流す男子高校生二人に、周りの客は明らかに「ひいて」いた。
ああ、オレにとってのジョナサンは晶先輩だ。
春樹は瞳を潤ませて目の前に座る晶を見て、確信した。
「……そういえば、左手のバンドエイド、めちゃくちゃ大きいけど、切っちゃったの?」
晶が潤んだ目を指で拭いながら、春樹の怪我に気がつく。
「ちょっと、考えごとしてて……」
「……こないだも頭から血出したよね……大丈夫? 気をつけろよ」
誰のせいだと思ってるんだよ。オレの神さまのせいだよ。
何度も何度も理由も分からなくても、春樹は晶の書いた脚本の舞台を見た。うっすら、春樹でもこれは、晶の書いた強い物語だと分かった。
「ああ、あれね」
DVDと脚本をその日、返しながら、春樹がどういう理由で書いたのかを聞いた時、晶はさらっと言ってのけた。
「うちの曾祖母が主人公のサチみたいに苦労したの。俺、なんかの時に聞いたけど、曾祖母は学校もいけなくて、生まれた日も分からなかったんだよね。そういうとき、山の上で死体を焼く人がいたんだって。そんな人のほうが、小学校しかいけない、家族の弁当を作って家族の面倒を見ている自分よりお金もらってるって。……俺はひいばあちゃんの言ってることが分かんなかったけど、色々調べて。曾祖母は昭和初期の呉の出身なんだけど、その当時は船の工場が呉にあって、父親はそこに働きにでた。当時は冷蔵庫もコンビニもないから、弁当をつくらないといけない。ひいばあちゃんがどういう気持ちで、死体を焼く人を羨んだのか、なんだかつらくてさあ。……じゃあ、ひいばあちゃんのことを守ってくれる人間がいてもよかったなあって。最初は男の子を死ねない設定にしてたけど、女の子のほうが演じる先輩に合ってるって思ったから。イメージとしては吸血鬼なんだけどね、死ねないって言うのは」
スムーズにそんな言葉が出てくる晶に春樹はびっくりした。春樹なら、曾祖母がかわいそうだったとしか感じなかった、いや、かわいそうとすら感じなかった。そういう時代だろうと思っていた。なのに晶はそれをすくい上げ、物語にしたのだ。曾祖母はもう亡くなっているという。だが、晶の物語のなかで、何度も繰り返し、上演されるたびにきっと曾祖母は生きているのだ。
ぞっとした。
物語はこわい。
人を惹き付ける。
春樹はしかし怖いものに手を伸ばしてみたかった。
しばらくしてフットサルの練習に春樹は晶と参加した。フットサルの練習は週一、二回だ。ゲームは月一回。参加できるものが参加できるタイミングで行う。しかし、どことなく藤田と晶とはギクシャクしているように春樹には感じられた。
相変わらず石田は女性との駆け引きのはなしばかりをするし、それに対して東が軽蔑の眼差しを向けて「ゲス」「クズ」と突っ込んでいる。
お盆のせいか、人の集まりが悪い。晶は藤田の後ろ姿を盗み見た。
いつもどおり、帰り道は藤田の車でI駅まで送ってもらう。藤田と晶のはなしは妙にすれ違い、かみ合わないでいた。
「お疲れさまでした」
「気をつけて帰れよ」
いつもの挨拶をしてクーラーが効いた車内から、むっと熱気漂う駅前の道へ降り立った。湿気が肌にまとわりついて、べたべたする。
地下鉄I駅への階段を降りようとした時だった。着信音がした。晶の携帯だった。そばにいた春樹がぎょっとする素早さで晶は携帯を取り出し、画面を見つめた。
「ごめん、春樹、先、帰ってて」
晶はそれだけ言うと、身を翻して走りだす。
春樹が何か言ったようだが、聞こえなかった。
晶は全速力で携帯の発信者のもとへ、赴いた。
公園の前に藤田が車を停めて、もたれながら立っている。ノーネクタイ、ネイビーのダブルラインが入ったビジネスカジュアルシャツに、同じくネイビーのセンタープレスが入ったスラックスが、よく似合っていた。
「貢さん……」
晶はぜえぜえと息をついだ。
「あのさ、ちょっとこないだのこととか、はなしたいんだけど……」
晶より十センチは高い藤田が困ったような顔をして、晶と目を合わせないままだ。
「こないだって、俺が貢さんの家にいって、セックスしようとして失敗したってことですか」
晶はいらだっていた。藤田が自分に対して壁を作っているのを感じとった。
「あの時は、ちゃんとできなかった。……俺が子供だからって、貢さんは遠慮した。俺は最後までできるっていったのに……俺はあんたを好きだってはっきり言ったのに、ごまかした。……ずるい」
「晶、そういうことじゃない……。やっぱり、こんなのよくない、おれはそう思って」
「こんなのってなんですか、男同士だからですか、俺が学生だからですか、「あすみさん」に申し訳ないからですか!」
と、一気に言うと、晶は持っていたかばんを地面に投げつけた。挙げ句、晶は左足で地面を蹴る。
「どうして、ちゃんと俺をみてくれないんですか」
悲鳴みたいに甲高い声が暗い公園に響き渡った。
「俺を見てください!」
藤田には伝わっているはずだ。自分がどれほど藤田に恋い焦がれているか。自分がどれほど藤田に振り向いて欲しいか。
「すまない……おれはお前のこと、大事にできないって」
藤田は絞り出すような声を出した。情けない。晶はそんなふうに、藤田を冷静に見つめる自分がいることに気がついた。
藤田は困惑したようすで晶の肩をなだめ抱こうとするが、晶はそれを振り払った。
「大事になんてされなくてもいい。そんなこと、知ってる。……俺は、「あすみさん」がいてもいいんです……! どうせ、俺は「あすみさん」にはかなわない、わかってる、こんなことをしたらいけないですよね。それもわかってますよ……でも、貢さんだって、俺を拒絶しなかったじゃないですか。俺のこと、嫌いじゃないですよね? 俺に期待させてましたよね?」
「だから……」
「俺は、先のことなんてどうでもいい、だからこそ、こないだみたいにうやむやにしないでください」
誰かに聞かれているかもしれない。男同士の痴話げんかなんてみっともない。それでも晶はどうでもよかった。言いたいことはちゃんと言わないと、伝わらないんだ。
「貢さんは、いつだって、曖昧にして、丸め込もうとする。飲み会の石田さんの時も一緒だ」
「あれは、しかたないじゃないか、それに今はそのはなしはしていない、おれは、お前を傷つけたくない」
「そんなこと、どうだっていい! 違うんだ、俺は覚悟だって決めてる、それをなかったことにされるのが、一番くやしい……大人ぶって、曖昧にしないでください!」
そう言って、晶はぶつかるようにして藤田に抱きついた。大人の男の匂いがして、頭の中がしびれた。そして、かみつくようなキスをした。これで終わるなら、終わってしまえばいいんだ。
藤田の長い腕が、うすっぺらな晶の体に巻き付いた。ぎりぎり、と音でもしそうだった。
晶と藤田は体を離すと、じっと顔を見合わせた。熱を帯びた視線が絡み合って、唇が重なった。唾液が落ちていくような音がしそうだった。
藤田が何も言わずに晶の荷物を拾い上げて肩にかけ、二人で車に乗り込んだ。
その車が走り去るのを、背の高い人影が呆然と立ち尽くして見ていた。
春樹だった。
ぼんやりと電車に乗っていたら、春樹はM駅で降りるのを忘れ、終点のS駅まで行ってしまった。
あんな晶を見たことがなかった。喧嘩なんてできないって言ってたのに。……いや、あんなふうになるのは、藤田だけなんだろう。ああ、マジデキライ。
ふと思い出して、S海岸からの帰りに見た晶の携帯画面を思い出す。
記憶を引きずり出して、アカウントを携帯画面に打ち込んだ。どきどきしながら、そのツイートの数々を見る。晶が「ほくろの位置がおなじ」と笑って言っていた女優と、藤田がよく似ていると言われている俳優のツーショットが、サムネイルだった。
鍵はかけられていなかったが、英語のツイートが羅列してあった。フォロー数はゼロ、フォロワーは数人いるようだった。
「He will not choose me」
「He loved her more than me」
そんなつぶやきが散逸してある。一見すると、片思いに揺れる若い女性のツイートのように見えた。
つぶやきをどんどんと、春樹は遡った。いくらSNSに疎い春樹であっても、それが晶の裏アカウントだと判断できた。
オールに誘ってくれたのも、藤田に「あすみさん」との用事が入って約束を破られたから。
フットサルを続けているのも、藤田のそばにすこしでも長くいたかったから。
飲み会でこっそりトイレに行ったのも、泣いていたから。
機械翻訳を使って、春樹は長いまつげで縁取られた真っ黒い瞳をまたたかせながら、読み進める。
ショックじゃないと言えば、うそだ。
それでもわからないよう加工された写真の中に、春樹は自分の姿をみとめた。
その写真には「He raises me Up」とだけ、書かれてあった。
春樹は、みぞおちを蹴られたような気がした。
晶は春樹に励まされていた。春樹は晶という人間を通して、自分の存在価値を与えられたような気がした。
自分の気持ちはうそじゃない。
晶が好きだ。
汗がだらだらと落ちる。クーラーを効かせてあるのに、それすらも追いつかない。
「は、あ……」
抱きしめられて、死にそうになる。こんな思いをもう、この先、二度とできないだろう。
「だいじょうぶ?」
「へいき」
これは浮気なんだろうか。そうだろうな、それだけゲスな人間なんだ。俺は。
「好きです、ずっと好きでした」
それだけ言うと、彼の性器を含んで吸い上げる。
「あ、ダメ……それは駄目だから」
「どうして」
「傷つけるのが、怖い……」
彼は確実に怯えていた。逆に、自分が彼を犯しているみたいだ。
「嘘つき。責任を取りたくないだけでしょ。俺がいいって言ってるんです。……もう、二度とないんです。やったあとは、捨ててしまえばいいんですよ。それで幸せになってください」
「そういうこと、言うな、捨てるとか、自分を大事に……」
ああ説教くさい。そういうところも好きだけど、この場で言うことじゃない。自分がいいと言っているのだ。何故、彼は分かってくれない。
「うだうだ、つまらないことを言わないでください。ここまできて、やめるのは卑怯です」
そう言って、上に乗っかる。彼の体はしなやかな筋肉が乗っていて、自分よりもずっと大人びていた。成熟した大人の男。汗ばんだ、肌を持つ男。熱帯を思わせるような、しっとりとした色気を持つ男。
その胸に手を当ててみた。どく、どく、と心臓が脈打っている。
彼は、確かに、この場に存在している。それが凄まじい歓喜として、興奮につながった。
そして、彼のベッドで抱き合っている。恐らく、彼女を何度も抱いた、この場所で。
抱きついて、自分から、彼の中心を挿入する。
「い、いった……い……」
涙がこぼれかけた。
「だから、もう、やめておこう」
彼は自分の肩に手を置くが、それを払いのける。
「そのほうが、いや、です」
深いところまで、彼を飲み込む。痛いけれど、それがよかった。痛みが、傷が、全部を覚えていればいいと願った。
ゆっくりと体を動かす。そして、彼にも動いて、とねだった。一瞬躊躇した彼だが、自分の唇を割って、舌を入れてきた。その舌を、自分は吸い、嬲り、絡ませる。そして、彼は下から自分を揺さぶってきた。
彼も覚悟を決めてくれたんだ、と嬉しくなった。弾けるような喜びが、全身を巡っていく。
体が律動するたび、髪の毛がゆれる。汗が張り付いていて、うっとうしい。
彼にしがみついて、「好き、好き、」と声をあげている自分がまるで他人のようだった。 喘いで、酷い声を上げている自分を、どこかぼおっと見ている自分がいる。
彼に抱かれたことは一生、忘れない。
いや、もしかしたらいつか、忘れているかもしれない。
そんな時がきたら、自分は本当に幸せになれるのだろう。
八月下旬
春樹は晶への気持ちをはっきり自覚してから、晶の顔を見るのを躊躇してしまった。
そして藤田とのことで何かあったのだろうと考えると、更にどうしたらいいのか、わからなくなった。
バイトでひたすら働くのは気が晴れた。しかし、晶には「補習があって」「田舎に用事があって」と、顔を合わせるのを断ってしまっている。
あの夜、晶と藤田の間に何があったかなんて、知りたくなかった。
それでも、フットサルではどうしても顔をあわせなければいけない。躊躇する気持ちと、晶に会いたい思いが交差していた。
球技場に入るとむっとした熱気を感じる。鼻の奥が痛かった。
先に晶がiphoneにイヤフォンをしながら、軽くストレッチをしていた。英語構文のリスニングをしているのだろう。
「よう」
春樹をみとめると、晶はイヤフォンをとって手をあげた。
「ウス」
軽く頭をさげると、ボールを蹴り始める。
春樹は息苦しかった。人間って人を好きになると、こんなふうになるんだ。
ぼちぼちメンバーが集まってくる。その中に藤田もいた。
春樹は晶と藤田を交互に見つめた。二人の間には何もないように見えもしたが、特別なものがあるようにも思えた。
藤田が蹴ったボールが晶のもとへ転がった。二人は一瞬だけ視線を合わせて、すっとそらした。胸になにかがどん、とくる。
晶は春樹とは違う世界にいるのだ。もともとそうだったじゃないか。とても遠い人だったのだ。だから惹かれた。
それでも晶が幸福であるなら。晶が好きな人のそばで笑っていられるなら。春樹は晶を祝福したかった。
帰りの車の中でも、藤田と晶の会話はちぐはぐだった。わざとらしいくらいに藤田と晶はどうでもいいことで、盛り上がっては黙る。確実に自分の存在があるせいだな……と春樹らしくもなく、思考を巡らす。
ふいに、晶の腕が春樹に触れる。
「ちょっと、春樹、大丈夫? 熱あるよ」
ぱっと平たく冷たい手のひらを、晶は春樹の額にあてた。
「ちょっと、気持ち悪くなってきました……」
そういえば体の節々がいたい。鼻の奥に熱が溜まったような感覚もする。息苦しさや気持ちの悪さは、晶への思いからではなかった。
なんだよ。ただの風邪か。
晶が春樹の家を訪れるのは二度目だった。祖父母はすでに就寝しており、母も夜勤で出かけ、エンジニアの父親はプロジェクトが大詰めで、今日は帰ってこない。
熱をはかると三十八度を超えていた。
「夏風邪だな……」
「これ、冷えピタと、インスタントアイスノン。車の中にあったから使って」
晶と藤田が、かいがいしく春樹の世話を焼いてくれる。
「すいません……もう、大丈夫なんで」
春樹はベッドから、上半身を起こす。
「いや、大丈夫じゃないでしょ。……貢さん、俺、春樹を見てるんで、帰ってください」
「いいのか?」
「俺、明日も休みですし、昼から塾行けばいいし」
にこっと、晶はいつもの表情筋を使って藤田に笑ってみせる。
「……じゃあ、おれ、帰るな。何かあったらすぐに連絡してくれよ。佐藤、お大事に」
「はい……ありがとうございます……」
熱が上がってきたのか、ぜえぜえと苦しい息のしたから、春樹は藤田に礼を言った。
「どう? 具合」
晶の言葉に、春樹は軽く咳をした。
「すごく、苦しいです……」
晶に甘えたくなって、春樹はそう告げた。
晶は、インスタントアイスノンをタオルでくるんで、春樹の頭のしたにおいてやった。かいがいしく看病をしてくれる晶に、春樹は自分の中の留め具が跳ね上がる音を聞いた。
「……晶先輩、藤田さんとなにかあったんですか?」
「え? なんで」
ノンフレームの眼鏡の奥にある、きれいな虹彩のはしばみの瞳が、怯えを見せた。
「藤田さんと、一緒にいたくないんですか? 強引に藤田さんを追い返しませんでしたか」
「そうでもないけど」
「オレにはそう見えました」
全体を青で統一された春樹の部屋のラグに座り、晶は膝を立て、頭をかしげる。そんな仕草さえ、いいな、と春樹はぼんやり見つめた。
「そういや、そろそろ夏も終わりだよな」
晶は春樹が寝ているベッドに、肘をつく。
「あと十日もしたら学校始まるし……俺さ、夏休みでフットサルやめるんだ」
「え?」
「進みたい東京の大学があるけど、ちょっと偏差値が足りなくて……だから、秋から塾の補講も増やす」
晶が遠くに行ってしまう。藤田とのことで、春樹は晶に距離を感じていた。いっそう遠くへ、手の届かないところへ行ってしまう。胸にしみのような恐れが広がった。
「東京行ったら、藤田さんとはどうするんですか」
自分でも驚くくらい静かな声が出た。
晶が体を起こして、春樹を見た。ノンフレームの眼鏡ごしに、きれいな虹彩のはしばみの瞳が大きく見開かれた。
「なんで……」
「藤田さんと、一緒に、東京いくんですか?」
「そんなわけない」
晶がかぶりを振った。
「俺は……先輩が藤田さんに「あすみさん」がいてもいいって言ったのと同じように、先輩に藤田さんがいてもいいです」
「こないだの公園で、はなし、きいてたの」
春樹はこくんと、首を縦に振る。
晶の顔がくしゃっとゆがむ。春樹から顔が見えないよう、晶は顔を背けた。
「ちがう。貢さんと東京に、いくわけない」
「なにがちがうんですか」
「貢さんは、もうすぐいなくなる。……聞いたんだ。来年の春、海外へ赴任する内示がおりたって。だから、「ちゃんとする」って。貢さんは、「あすみさん」と結婚する」
「じゃあ、どうしてあの日、一緒に行っちゃったんですか」
「思い出、つくってもらった」
春樹はがばっと、ベッドから起き上がった。
晶の肩を掴んで、ぐいっとこちらに向かせる。晶は下を向いていたが、涙をこらえていた。
「そんなの、おかしいです」
「なにが。春樹には関係ないだろ」
「関係なくないです」
「関係ない、お前には関係ないだろ」
「おかしい、そんなのおかしい、藤田さんが好きなら、奪えばいい」
春樹は自分の言っていることが理解できなかった。それでも、どんどん言葉が口をついて出てくる。
「オレは藤田さんと晶さんが、どういう関係だか、知らないです。「あすみさん」も知らない。……でも、なんていうか、藤田さんを諦めないでくださいよ。好きなら追いかけてくださいよ」
藤田への嫉妬、晶への渇望感、なにより、晶には幸せでいて欲しい、そんな気持ちがまるで奔流のようにして、吹き出してくる。自分という防波堤が、決壊してしまう。
掴んだ晶の肩を自分のほうへ引き寄せて、うすっぺらな体を抱きしめた。
「……お前の言ってること、よくわからないよ……」
晶はそれだけ言うと、そのまま春樹の胸に頭を押しつけ、嗚咽を漏らした。
「オレもよくわかってないですけど、そうとしか、言えないんです」
そのまま春樹は、ぐっと晶をベッドに押し倒す。晶は抵抗しなかった。
クーラーと、外を走る車の音だけが聞こえる。
衣擦れの音が、やたらとはっきりと耳に入ってきた。
「俺も、よくわかんないや」
晶が腕を伸ばしてきて、春樹の首を捉えた。そして自分のほうへ寄せる。目と目があった。春樹の真っ黒な瞳は熱で潤み、晶のはしばみの瞳はそんな春樹の瞳をガラスのように映していた。カーテン越しに、電灯の光が晶の瞳に入った。さっと、眼鏡を外したはしばみの瞳が緑色を帯びた。
その瞬間、春樹は晶にキスをした。がち、と歯と歯が一瞬当たるが、晶がすっと横にずらした。幾度か触れるだけのキスをすると、柔らかくて温かい舌が春樹の唇を割ってきた。いきものみたいなそれは、春樹の口腔をぶしつけに蹂躙した。必死になって、晶の舌に春樹は自分の舌を絡めた。
はじめてなのに、まるで手順を知っているみたいだった。春樹は晶のシャツの裾から手を入れて、ほどよく筋肉が付いているけれど、浮いているあばらに自分の筋張った長い指を這わせた。晶も春樹の服を思い切りよく脱がせる。全部脱いでしまうと、春樹はぎゅっと晶の体を抱きしめた。熱があるせいか、晶の体はひんやりとしていて気持ちがいい。晶も春樹を抱きしめ返した。
藤田と比べられたらどうしよう、と一瞬、戸惑ったが、どうでもよくなって、がっついた。あちこち噛んでなめて、必死だった。晶の胸は春樹の大きなてのひらで押すと、ぺこん、と音がしそうだった。
未発達の少年ぽさと、そしてできあがりつつある濃厚な男の色気が春樹の体からは溢れていた。
春樹の肌より晶の肌は白く、また血の色が透けて見えるようだった。
晶の胸をぺろっと舐めてみると、少ししょっぱい。さあっと朱が肌を染め上げる。
「あっ」
晶の声があがった。嬉しかった。晶が自分を感じているのだ。頭がくらくらする。首の根元を噛むと、軽く歯形がついた。ぞくっと背筋に電気が走った。もっともっと、晶が欲しい。
「先輩は、きれい、ですね」
「なに、いってんの? 俺、男だよ」
「それでも、きれいです。……そんな言葉しか、出てこないんです、オレ」
この人はとてもきれいだ。乱れていてもきれいで、びっくりしてしまう。
美しいオレの神さま。
晶が春樹の手をとると、指をからみつかせてきた。
この手で、どんな物語を描こうとしているのだろう。その言葉の一つに春樹はなりたかった。
きれいな虹彩のはしばみの瞳は、今、どんなふうに輝いているんだろう。それが見たくて、まぶたをなめると、晶がきゅっと「いや」と、目を逆につむってしまう。
そのまま強く抱きしめ、体を下へずらしていく。同性の体を触ったことなんてない。それでも欲のままにちゅ、ちゅ、と何度もリップ音を鳴らして、その肌を堪能した。
そして、必死に薄い晶の体を求めた。晶の性器を口に含むと、晶に髪をつかまれる。
「あ、ああ、……!」
「はじめてじゃないから、大丈夫なんでしょ?」
思わず意地悪を言ってしまう。
晶はぱっと目を見開いたが、そのまま、また声をあげた。筋肉がついているけれど、細い足をばたつかせる。征服欲が湧いてきて、力に任せ、晶の足首を掴んで広げた。
足の筋肉はやはり間近で見ると、とても美しく、骨の上に乗っている。そして、その骨はどちらかと言えば、しっかりとしていた。その足を舐めあげると、ひぅと声があがる。
この足で、ボールを蹴って、オレにパスしてくれた。
あの時、春樹は信頼されていると感じた。そんなふうに、誰かから信頼されているとか、しているとか、考えたこともなかった。
いやだな、今のオレはかっこわるい。がっついてて、頭がパンクしそうだ。体が熱のせいか、興奮しているせいか、汗がぽたぽたと落ちる。冷房も意味をなさない。
「そうだよ、はじめてじゃない」
「……」
がん、と言う音がして、頭を殴られた気がした。
「……だからって、見るなよ、はずかしい」
そういう晶の足をぐっと広げて、口を大きく開け、性器を含みながら春樹は言う。
「藤田さんには見せたんですか、平気なんですか」
だんだんとまたマジキライの呪文が頭でまわる。すると獰猛なけものが自分のなかから出てきそうだった。
「平気なわけ、ないだろ……」
春樹はまた晶の性器を含むと、すすりあげた。自分が自慰をする時、どこが気持ちいいか思い出して、必死になる。裏側を舐め上げると、晶のあげる声が悲鳴じみてくる。
「は……ああ、いぃっやだ、……はるき、だめ、いや、う、……はぁ、あぁっ……」
そのまま、吸い上げていくと、
「あ、ああ……あ! や、やあ、いくっ」
晶はそう叫ぶと、達してしまう。口の中に温かくてぬるっとしていて、苦いものが広がった。思い切って、口内にある精液を飲み下してしまう。
「お、お前、なにやってんだよ」
はあはあと息をつきながら、晶は上体を起こして春樹の顔を見た。高揚しているのか、晶は顔から首、そして全身にわたって、肌が赤みを増していた。
「先輩の精液、飲んだだけっす」ぐいっと、春樹は口をわざとぬぐってみせる。挑戦的で野蛮な顔をしている、と自分でもわかっていた。
しかし、春樹の顔を見た晶は、今度はどんと春樹を突き飛ばした。
「わっ」
春樹はベッドに押しつけられ、晶が春樹の足と足の間に体をいれた。晶の唇が春樹の性器を包み込む。晶も頭がおかしくなっていた。晶の中にあるけものが、春樹に引きずられて顔を出した。
春樹はべろりと舐め上げられると、そのまま、温かな口腔に含まれた。
「やめてください、ちょっ」
「いや」
春樹を含みながら、晶はもごもごとそれだけ言うと、痛いくらいに愛撫を繰り返す。晶に吸われて舐め上げられて、春樹は頭が吹っ飛びそうになった。
口淫されるのははじめてだった。ねっとりとした温かさに包まれて、どんどんと追い込まれる。鈴口を割られて、吸われて、ふと晶のほうを見た。自分のものを含んだ晶と、目がばちっとあう。茶褐色の髪が邪魔をして、きれいな虹彩のはしばみの瞳はよく見えなかったが、深い瞳孔が広がっているのを見た瞬間、春樹は果てた。
「あ、ああっ……」
結局、性器をこすりつけあって、お互いを慰め合って、何度か精を吐き出した。
このきれいな人は、あの「読書ノート」の文章のように、すべてがどこかしら優しくて、丸みを帯びている。しかし、本質はその骨のようにしっかりとして、真っ白なのだ。この人を焼いたらきっと白い骨がすらりと残っているのだろう。
何度、「読書ノート」のやりとりをしても、春樹にはわからないことがある。何が、晶を、そのように物語へとかき立てるのか。そうして、藤田へと恋心を駆り立てるのか。
それを理解したかった。だが、晶の体を抱いてもわからないままだった。だから、もっともっとと、欲望が溢れてくる。
晶は春樹が吐き出したものを受け止めて、すくって舐めた。
よだれがしたたり落ちるのも構わず、お互いの唇をなめ、激しく舌を絡ませた。晶は春樹の膝に乗って、抱きついて、何度も春樹の唇を食んだ。そして、春樹のものも自分の体で食んだ。
無言だけれど、相手の激しくなる呼吸がしっかりと聞こえてくる。
春樹の性器は晶を追い詰めて、狂わせた。それは春樹も同じだった。晶の中に自分がいる、晶につつまれている。
「せんぱい、せんぱい」
そう口にするので必死だった。
二人ともだんだん息があがってきて、酸欠みたいになってくる。はあ、はあ、と言う声が部屋中に響いた。
目をあけると、いつもの天井があった。
起き上がると、体のうえにタオルケットがかけられていてびっくりする。あれはうそでも夢でもなかったのだ。
部屋を見渡したがぐちゃぐちゃになっていたシーツは整えられ、脱ぎ捨てた服もたたんであった。
机の上にポカリ、ゼリー、追加の冷えピタがあった。
ぴらっとメモが残っている。見慣れた丸みを帯びた晶の字だ。
「帰ります。お大事に」
とだけ、書かれてあった。
熱は平熱まで落ちていたが、まだ、夢を見ているような心地がした。
そのまま、夏休みは終わった。
晶は春樹と「あんなこと」をしてしまい、頭を抱えたくなった。
貢とセックスをした。それで思い出を作ってもらった。何度も深くつながって、幸せだった。そう思っていたけれど、貢がいなくなる、「あすみさん」と結婚することは、晶の奥深いところを傷つけたままだった。平気な顔をしていたつもりだった。
そしてそのまま、年下の、自分が面倒を見ている気になっている春樹に慰められて、自分からも激しく求めてしまった。
何より、春樹に言葉をぶつけられて、戸惑った。
「おかしい、そんなのおかしい、藤田さんが好きなら、奪えばいい」
「藤田さんを諦めないでくださいよ。好きなら追いかけてくださいよ」
そして、そう言って自分を嬲っている時の春樹はフットサルで見せる、きれいな野性の生き物のようだった。
貢を奪うなんてできない。そんな勇気もない。割り切るために、貢に無理を言って、セックスしてもらったようなものだ。
だからこそ、春樹のことを考えると、申し訳なくなってしまう。
「俺、春樹にひどいことしたよな……」
春樹が避けないでいてくれたら。と考えたが、それは虫がいい気がする。
それにあんなふうに、こっそり帰るべきではなかった。
焦っていたのだ。「コミュモン」も悪手を打つのだ。
九月 初旬
夏休み限定のバイトも終わり、一年と三年ではなかなか顔を合わせることはなくなった。「読書ノート」は、晶のもとにあって、巡ってくる気配もない。
「宙ぶらりんだ」
春樹はぼんやりと、晶のことを考える。
晶が何も言ってくれないと、春樹は動きようがなかった。怖かった。会いに行って拒絶されるのが。今までこんな恐れを抱いたことは、なかった。
恐れから逃げるように、フットサルに打ち込んだ。夏休みが終わるタイミングで、晶がやってきて引退の挨拶をしていった。
「送別会、ほんとにしなくていいのか」
「嬉しいんですけど、後ろ髪を引かれそうで。あと、模試や特別補講で時間がないんです」
村上の言葉に、晶は困ったように笑った。
帰ります、と言って晶はみんなに手をふった。
「春樹、頑張れよ」
晶は茶褐色の髪を揺らして、にこっと微笑みかけてきた。いつも見る、あの笑顔。誰にでも使うための笑顔。
それを向けられて、春樹は黙って見送るしかできなかった。
秋の気配が深まる頃には、春樹はすでにチームの主力になっていた。
「お疲れ」
目の下にくまをつくった東が練習場にやってくる。
「お、何徹目?」
石田の言葉に、東は頭を振りながら言った。
「三徹目です。研究が進まなくて」
「すごいな。学者にでもなるのか」
「そうですね。大学でもどこででも、今の研究ができれば、有り難いです。でも村上さんも忙しいでしょ」
東が練習着に着替えながら、はなしているのを、春樹はぼんやりと聞いていた。
「まあ。商社なんて、体力馬鹿じゃないとやれないねえ」
「そういうものなんですか」
春樹が会話に加わってきたことを、その場のメンバーは若干驚いたような顔をして見つめた。
「佐藤がこういうはなしに食いつくの、はじめてじゃない?」
石田がけらけらと笑ってのけるのを東が年下にもかかわらず、尻に蹴りを入れた。
「そうだな、体力はいるし、いろいろとごちゃごちゃはしているよ。俺らの世界は特にね。金とものを回す仕事は、魑魅魍魎しかいないなあ……それが面白いけどな」
村上がストレッチをしながら、春樹を見上げてくる。
「俺んとこだって、大変だよ。花屋なんてもうかんねえし。婿の立場で自営なんて、やるもんじゃないわ。舅のプレッシャーも激しいしよ」
石田がぶつぶつと言ってのける。
「村上さんも、東さんも、石田さんも、なんでフットサルやるんですか」
「え、なに? これは面接ですかぁ?」
「うるさいですよ、石田さん」
また、東が石田に蹴りを入れるが、石田はきゃきゃと笑ってのけた。なんだかんだと仲がいいのだろう。この二人は。
「そりゃあ、楽しいからでしょ。歳を取ってきて、仕事仲間だけとの飲み会しかない世界とか、つまんないし。それに、部活やってるみたいな気分がすんだよね」
「俺は、フットサルやると研究が捗る気がする」
「俺は、女が寄ってきやすいから」
「石田さんは黙ってて」
「佐藤も楽しいから、やるんだろ」
村上は目尻にしわを入れて、微笑みかけてきた。
楽しい?
確かにそうかもしれない。サッカーも楽しかった。ただ、それはもう色彩を失っている。
今は晶と会う勇気が持てなくて、フットサルをやっていると、晶のことを思い出さずにすんだ。しかし、ゲームをすると晶がいて、パスをくれるような幻影も抱いた。
それに、フットサルは確かに春樹と肌があった。激しくて、熱くて、コンパクトにまとまっているところを、春樹は気に入っていた。ゲームを支配する時、自分の野蛮さが剥き出しになるとぞくぞくする。
晶がいなくなれば、別にやめてもよかった。しかし、フットサルから離れる選択を春樹はしなかった。
そんな時に、高校生で構成されるフットサルチームから春樹に声がかかった。
村上と一緒にスカウトと会った春樹は、良い成績をあげればフットサルでプロになれると知った。
帰り道、春樹は村上の車に乗せて貰った。
運転をしながら、村上は春樹にはなしをしてくる。
「サッカー選手と違って、プロでも年収は五百五十万から六百万程度だぞ」
「……十分です。欲しいものも特にないし。その前に、プロにならないと意味ないですよね」
「お前らしいや。でも、金はあるにこしたことはないぞ。……そういや、サッカーはもうしないの」
「村上さんは、フットサルが楽しいからやっているって、言ってましたよね。今はフットサルが多分、オレは楽しいんです」
「そっか。……まあ、お前の人生だ。好きに生きたらいい。諦めたくないことがあるなら、追いかけるべきだし、どうでもいいなら、それはほうっておけ」
春樹はきょとんとした顔をして、村上を見た。
「俺たちだって社会の枠にだけとらわれて、生きてるわけじゃない。歳を取るのは楽しいぞ。いろんなことがどうでもよくなる。まあ、そこで自分なりに守るものや、育てるものもできてくるけど、俺は今が面白い」
「そうなんですか」
「ああ。俺は十年後のお前に会うのが、楽しみだ」
春樹は少し照れて、どういう顔をしたらいいかわからず、外を流れていく海の景色を見た。
「ありがとう、ございます」
春樹は晶に連絡したかった。だが、どうしてもできなかった。借りていたブルーレイは返すことができず、読書ノートのやりとりも途絶えた。三年と一年が顔をあわせることは滅多にない。昼飯もいつしか、クラスメイトと食べるようになった。
晶がどうして藤田に惹かれたのか、春樹にはわからなかった。そんなことは、春樹にはどうでもよかった。晶は好きにしたらいい。藤田を追っかけていってもいい。藤田と「あすみさん」との結婚式に乱入したっていい。そして藤田と幸せになったらいい。
でも、ずっと自分は晶を思ってしまうだろう。あの夜のこともずっと忘れない。それだけでよかったのだ。
そんな時、春樹の心に入ってきたのが、えりだった。
「春樹、ご飯たべた?」
えりがずかずかと春樹の家にあがるようになってきたのは、晶と過ごした夜からしばらくしてからだった。
「食べてないけど」
春樹はリビングで歴史の赤点をなんとか回避しようと、復習のために教科書に向かっていた。
「おばさん、夜勤でしょ。冷凍室にシチューあるって聞いてる」
それからも、えりは小鳥や小さなうさぎや猫のように、春樹のまわりをちょこまかしてまわった。
「これ、私が作ったの」
えりは、手提げ袋に入れたお弁当箱を出してくる。
きんぴら、からあげ、だしまき卵、ポテトサラダ、おにぎりがぎっしり詰まっていた。
「これ、えりのおばさんがつくったんじゃないの」
「失礼ね! ちゃんと私が作ったわよ!」
春樹は箸をとり、口にはこぶ。えりがそれをじいっとにらんでいた。
「うん、まあまあ……」
「おいしいでしょ!」
でこぴんが飛んでくる。ぴしっと音がして、春樹のおでこが赤くなった。
秋が深まって行くのと比例して、えりと春樹の距離はどんどん近くなった。
春樹の新しいチームでの試合をえりは必ず観戦にきた。栗色の髪を三つ編みにし、ベレー帽にブルゾン、ロングスカート、ブーツをあわせたえりは、ほかの誰よりぴかぴかしていた。
それでも、試合の時には晶の言葉を思い出していた。
「好きだな、理解したいな、理解して欲しいなと思える人間がいたとするよね。そんな相手には、「自分が思っている自分」として見て欲しい。そんな時、言葉が役に立つとするなら、嬉しくない?」
チームメイトも、所詮はどうでもいいやつらだ。だが、勝ったほうが楽しい。
春樹はできるだけ、丁寧に的確に言葉を使うように意識し、行動した。
「サンキュー、春樹!」
「佐藤、ナイスアシスト!」
そんな言葉をかけられることがどんどんと増えていった。
ああ、自分が晶の言葉に動かされている、と春樹は天を仰ぐ。
えりは学校でも試合の終わりでも、春樹と一緒に帰るようになった。
晶と過ごしたショッピングセンターの広場を、えりと通り過ぎた。冬が近づくにつれ、えりは春樹の腕をとり、手を握ってきた。
春樹は晶のことを思い出して、えりの行動には戸惑った。しかし、まっすぐに気持ちを伝えようとえりは笑顔を見せ、寒くなっていく季節に寄り添うようにそばにいてくれた。
帰り道、別れる角ではじめてキスをした。
えりは心を揺さぶってこない。春樹の心を着地させてくれた。
クリスマスイブにはえりが作ったケーキを食べ、はじめてセックスをした。
えりの体はほっそりとしていて、しなやかだった。
時々、えりと晶がだぶることがあった。二人はまったく違ったいきものなのに、似ている気がした。きらきら光る若鮎のようなところが。
しかし、えりは晶よりずっと柔らかく、晶はえりより、ずっとしっかりとした男の骨格を持っていた。
「ずっと春樹が好きだったの。こどものころから、ずっと。ひとりじめしたかったの」
えりはそういって、春樹にしがみついた。
冬至はもうずっと前に過ぎ去ったのに、晶のことを考えると、自分の心の中の夜がぐっと早まり、闇が深くなる気がした。えりのことを大切にしたいと思いながら、春樹は晶を忘れることができなかった。
年があけて卒業式前、村上から連絡があった。
藤田の結婚式の二次会に参加しないか、と言う誘いだった。晶も来ると言う。受験も終わった頃だ。藤田と晶が同じ場所にいるのを見るのは、いやだった。それでも、晶に会いたかった。それに「あすみさん」という人にも、興味がわいた。晶が好きな藤田が選んだ女性はどんな人なのだろうか、と。
二月 下旬
「あすみさん」という人は、まるで絹のような人だった。二次会で藤田のそばにいる彼女を見て、春樹はその肌の白さ、華奢さに驚いた。嬉しそうに微笑む顔が、絹の肌触りを感じさせた。幸せってこういう形、生き物なんだろうな、と春樹は彼女から知った。
二次会はカジュアルレストランで、午後から行われた。春樹はあまり、こういったおしゃれな場所に来たことがない。大人たちに混じって、かしこまっているのは息苦しかった。
様々な出し物が行われている間、春樹は晶と少しだけ離れた場所に座っていた。春樹も晶も、学校の制服を着ていた。それがスーツ姿の大人に囲まれていると、心強くもあった。自分と晶は、つながっている、一緒なのだ、と。
藤田は一切、晶を見なかった。そして、藤田はずっと「あすみさん」を見つめて、笑っていた。
眼鏡をしていない晶の表情は、少し硬かった。時々、晶の喉がぐっと上がり、そして、口角が下がるのを春樹は見ていた。
それでも晶は時々見せる、人が心を許してしまう、あの笑みを浮かべていた。しかし、あの笑みは威嚇でもあるのだな、と春樹は彼を見ながら悟った。近づくな、テリトリーに踏み込むな、関わるな。
二次会が終わった瞬間に、晶は会場から素早くコートを着て立ち去った。それを反射的に春樹は追う。日はとっぷりと暮れている。
建物を出たあと、晶はローファーなのに凄い速さで駆けていく。それよりずっと速く春樹は走り、晶の腕を取った。ばしっと音がした。
「待ってください、先輩」
「いたい、離せ」
うつむいたままの晶の顔からぽたぽたと涙が落ちて、アスファルトの地面にしみをつくった。
「離したくないです」
ぐっと腕を握るとコートを通して、晶の腕の細さが伝わってくる。
「じゃあ、いいよ、そのままにしてなよ」
「はい」
「……俺、頑張っただろ」
「……はい」
「わかってた、わかってたんだ。納得してたけど、来るんじゃなかった」
「……はい」
「……あんなに残酷な人、好きになるんじゃなかった」
「そうっすね」
「そこは、お前……それは、ないよ、もっと言い方、あるだろ」
また、晶は崩れ落ちるようにして、泣き始めた。そのまま、春樹は晶を抱きしめた。
「オレ、アンドロイドなんで、よくわかりません」
自分でも冷静過ぎるとびっくりしたが、男性同士で使えるラブホテルを検索し、一番近いところへ晶の肩を抱いたまま連れ込んだ。
あとで考えると、あの時の自分は随分と切羽詰まっていたのだ。晶を助けたかったし、彼をまた、手に入れるチャンスだった。
晶は緊張がとけたのか、芯が抜けたようになって、泣きながら春樹に寄りかかっている。
「めちゃくちゃにしますから」
そう宣言すべきだ。それを実行することで、多分、晶は救われる。春樹はそう野性の勘を働かせた。だが、その割には晶の制服のボタンをいちいち丁寧に外し、ズボンを脱がせた。
タイル張りがきれいなバスルームの楕円形のバスタブに温かい湯を張り、丁寧に洗ってやった。
冷えた晶の体がすこしずつ、温かくなっていく。
泣くのをやめたかと思うと、また嗚咽を漏らす晶は、春樹の知っている「先輩」ではなくて、ただの小さな子どものようだった。
「めちゃくちゃにするんじゃないのかよ」
「これからしますけど」
そう言って、晶を風呂の中で後ろから抱きしめて、そのまま、引き上げてベッドに寝転がした。ぎゅっと晶が抱きついてくる。
「いっそ殺してくれよ」
「そうですか」
晶の体を言葉どおりにしてやろうと、うつ伏せにする。
「いたっ」
「殺されたいんでしょ」
自分がいらいらしていることに春樹は気が付いた。晶が耐えているのがいやだった。
「だから、藤田さんを奪えばよかったのに」
藤田の名前でまた涙を流す晶がうっとうしかったし、自分とセックスすることで救われて欲しかった。
何度も背中から、首を噛んで、悲鳴があがるほど、痕をつけた。
ばたつく足も体重をかけて、動けなくする。
「あ、ああ、いやッ」
「ここまで付いてきて、今更そういうこと言うんですか」
そう深くて暗い海のような声で言うと、耳朶を舐め上げ、舌を入れて、嬲り上げる。後ろに組んだ手を動かせないようにして、力を誇示してやった。こんなところで、こんなベッドの上で、自分が年齢も、経験も行く先も多分、ずっと追いつけない先輩にやっと逆転できている。
そう思うと、自分の中心がぐっと持ち上がるのを感じた。
「どうせ、浮気だったんでしょ、どうでもいい人になるんでしょ。お互い」
「ならない、そんなの、ならない!」
晶が激昂して春樹の下から抜けだそうとするのを、力を込めて押さえ込む。
「うそだ、先輩は藤田さんを奪えなかった。だから、浮気だ、遊びだ」
理論が破綻しているのは、わかっている。だが、晶が感情を剥き出しにするのが嬉しかった。
「喧嘩、しましょうよ。今、キレてもいいですよ。でも、オレには勝てないです」
「あ、ああっ」
舌で、首から、背中から何度も舐めて、キスをして、噛んだ。
「これ、弱いんだ」
「うるさぃ」
顔が見たかった。だから今度は上を向かせて、首をきつく噛み、眉に、頬に、ほくろにキスをして、最後に唇にキスをした。
「いたぁっ」
強く噛んで吸い上げると、悲鳴があがった。
「うそでしょ、痛くないでしょ。死にたいんでしょ?」
二度目の晶の体は、前よりもじっくりと味わえた。
素肌で抱き合うのは心地がよい。骨が折れるくらいに抱きしめたら、ほんとに死んじゃうのかな。きっと一緒に死ねたらいいんだろうな。
「なんで、おまえ、そんななの」
「そんなって?」
「なんで、こんなこと、できるの。ほてるとか、なんでつかおうとか、おもいつくの」
「……わからない、です」
本当にわからない。多分、きっと理由をつけようとしたら、いっぱいあるんだろう。
たとえば、この人が藤田のことをこの瞬間だけでも、忘れたらいい。自分にちょっとでも溺れてくれたらいい。すぐにセックスしたい。
でも、そんなことすらどうでもよくて、多分、自分の中にある野蛮さ、けものがこんなことをさせている。全部、愉悦のせいで、それを求める自分がいて、この人を所有したい。それができたら、きっと楽しいんだろう。
「なんか、よく、わからないけど、せんぱいと、こう、したいだけです」
晶の中心を握ると、そのまま上下させる。「あ、ああ、やめて、や、ああ、う……あ、熱い」
晶の後ろを、ホテルにあったローションでほぐすと、これもホテルに備え付けのゴムを着けて一気に挿入する。
「やあっ」
「黙って」
春樹は、自分の血管が全部破裂していくような感覚に陥る。晶の腕を取ると、また、噛み跡を付けた。
そして、何度も晶の中を蹂躙する。もうだめ、もういや、やめて、と言いながら、晶は涙を流し続けた。
「あ、あ、やだ、い、いく、だめ」
「もういくんですか」
「いやだって、いや、だめ、いく、」
何度も晶の体を本当は貪りたい、ずっとこうしていたい。
「いって。オレももうだめ」
好きだ、この人が好きだ。
あれ、でも、この人はオレの神さまじゃなかったのか? なのに手荒く扱ってしまっている、失敗した、オレは頭が悪い。いつも失敗している。年上って苦手だ。でもこの人は好きなんだ。だから、こうするしかない。
がつがつとグラインドをして、泣いている晶に抱きつかれて、ああ、ほんとにこのまま一緒に死ねたらいいな。そう、春樹は願った。死ぬなんて、今まで考えたこともなかったのに。
えりのことを一切、思い出さずにいたことにも、春樹は驚かなかった。
晶の中は熱くて、柔らかくて、酷く締め付けてくる。
ぎゅっと抱きしめ合って、晶はああっと泣きながら、いった。それと同時に、春樹も熱を放つ。
明け方にホテルを出て、二人はなんとなく距離を取ったまま歩く。きりきりとした冬の空気は肌寒くて、本当は前を歩く晶の手を握りたかった。でも、できなかった。
もう、晶は泣いていなかった。そのかわり酷くかさついた、乾いたような表情をしていた。
地下鉄の始発を、がらんとして底冷えする駅で待っている間、晶が缶コーヒーを渡してきた。いつも一緒に飲んでいたブランドのホットだった。
こういうところが、晶たる所以なのだ。
春樹の胸は、ぎゅっと痛んだ。
「ありがとうございます……」
あんなにめちゃくちゃにしたのに、今更、何をかしこまっているのだろう。缶コーヒーを渡すと、晶は黙ってうつむいた。
二人はそのまま何も言わず、始発に乗り、少し離れて座る。電車はゆっくりと走っていく。かたたん、かたたん、と揺れて、二人を運ぶ。春樹はじわっと焦っていた。
そして、とうとう何も言葉を交わさないまま、春樹が降りるM駅に着いてしまう。
晶を慰め、自分の心を明かすような言葉を伝えたかった。しかし、春樹は何も思い浮かばず、ホームへ降り立った。
こんな時、言葉がなにも出てこない。春樹は口をはくはくと動かしたが、気の利いた台詞など出てくるわけはなかった。アンドロイドなのだから。
終点まで行く晶を、春樹は白い息を吐きながら、見送った。電車がゆっくりと動き出す。春樹は誰もいないホームで、電車を追って、思わず走り出していた。
「せんぱい、せんぱい……」
冷たい風が、頬を切るようだった。そのまま全身を切ってしまってくれたら、いいのに。そしたら、先輩は振り向いてくれるんじゃないか?
こんなふうに、痛みと憐憫を欲しがる自分に春樹は驚いていた。
しかし、電車が見えなくなるまで、晶はずっとうつむいたままだった。
三月
晶たち三年生の卒業式が、やってきた。
春樹は体育館に入場してくる三年生の中に、晶の姿を認めた。一瞬だけ、視線がかち合ったが、すぐにどちらともなく、外してしまった。
卒業式のあと、思い切って、演劇部にいるかと寄ってみたが、晶は不在だった。
金沢はいつもの白い表情のない顔で、春樹にはなしかけてきた。
「いろいろあると思うけど、そうそう縁は切れないから」
「それはどういう意味ですか」
「そのうち、天啓がおりてくるさ」
いやに思わせぶりにそう告げると、金沢は春樹に「また会おう」と握手を求めてきた。
そのまま、帰宅の途についた春樹に、LINEが入ってきた。晶からだった。
大学に受かったこと、引っ越し先の住所、そして「お前は俺の大事な後輩だから」の一文だけが記されていた。
ああ。このまんま遠くなって、終わるんだ。
さみしい。
その言葉が、春樹の心をよぎる。もうすぐ、晶は、ここから去って行くだろう。そのことが、春樹の心に動揺を生んだ。ちくちくっとした感覚を、春樹は生まれて初めて抱いた。
ありがとうございました、先輩も元気で、お借りしているブルーレイはどうすれば……そんな文面を思いついたが、送った途端、すべてが終わってしまう気がして、怖くなった。
そしてそのまま、携帯をポケットにしまう。
これでいい。この土地でフットサルをやりながら、えりと一緒に日々を過ごそう。
四月 初旬
「ごめん、春樹。やっぱりあんたとは、もとの「幼なじみ」に戻りたい」
二年生に上がって、クラス替えが行われた始業式。春樹はえりに呼び出され、いきなり別れを告げられた。
春風はそよそよと吹き、桜のはなびらを散らしている。
突然のことで、さすがの春樹も動揺した。
「オレ、えりに嫌われるようなことしたかな……。頭が回らないところあるし、無遠慮なとこもあるから、えりが嫌がるようなことしてたのかも。……そうだったら、ごめん」
「違うの、春樹は悪くない」
えりの栗色の髪が、春風にそよいだ。ピンクのカーデガンを羽織ったえりの顔は西風に吹かれて、はっきり見えない。歴史の先生が見せてくれた「ヴィーナスの誕生」に描かれたヴィーナスと、えりがだぶった。
「春樹は、ほかの人が好きなんだよね。……私じゃないの、わかってる。私、ずっと春樹を見てたから……その人と春樹の間に距離ができたの、気がついたの。だからそこに入り込んだの。きっと、春樹のいつか一番になれるって思った。クリスマスイブも、お正月も、バレンタインも楽しかった。でも、いつも春樹は、うわのそらなの」
「そんなことない、オレはえりのこと、好きだ。ちゃんと見てる」
「ちがうよ」
えりはちょっとだけ、泣いているようだった。
「春樹はいつだって、どこにいたって、私じゃなくて、その人のことばっかり考えてる。きっと今もそうだよ……」
「……」
そうなのだろうか。春樹はえりの言葉に何も言えなくなった。オレが? 誰を? あの人のことを?
「ごめん。でも、ほんとうは春樹と一緒にいたいよ」
えりの泣く声が聞こえてくる。
「でも、ずっと「石井先輩」のことを思い続ける春樹のそばにいるのは、私が苦しいの……この半年だけでも、春樹に見てもらえないの、つらかった、苦しかった、ずっと「石井先輩」が春樹のそばにいるんだもん……」
えりはそれだけ言うと、鼻をすすり上げた。
春樹はなにも言えなかった。ひどく寒かった。自分がまだ、晶を引きずっていることをえりに言われて気が付いた。
ああ、ほんとうに、頭が悪い。アンドロイドと言われても仕方ない。いや、アンドロイドのほうが、ずっとできがいい。
「春樹はその人のこと、忘れてない。私がどんなにそばにいても、その人にはかなわない。……「石井先輩」って人のこと……たぶん、絶対に忘れられないし、忘れないんだ」
春樹は心臓を槍かなにかで、突き刺されたようだった。
「ずっと、春樹のこと、好きだった。だから、春樹の「はじめての女の子」になれて嬉しかった」
「そんなの……オレだって、えりが好きだよ」
「それは「幼なじみ」として、でしょ」
えりは春樹にでこぴんをした。それは触れるだけの、とても優しいものだった。春樹がおでこに手をあてると、えりは涙で赤くなった目でにっこり笑った。
「その人、追いかけてよ。春樹が本当に好きな人を、追いかけてよ」
それだけ言って、春樹の前から立ち去った。栗色の髪が揺れていた。
西からの風が吹いている。
春樹はぼんやりと空を見上げた。何が起こっているのか、まだ把握できなかった。
それでも、えりが言った言葉「好きな人を追いかけてよ」を、何度も反芻した。それは自分が晶に言った言葉と同じだった。
いつもじゃれあっていた、えりがいつの間にか、あんなに大人になっていたなんて、春樹は思いも寄らなかった。えりに大切にされている自分がいるということにも、びっくりしていた。
えりは春樹を宝ものみたいに、扱ってくれたのだ。胸がぐっと詰まった。
春樹はぐすっと鼻をすすり、まぶたをおさえた。
藤田が最後にフットサルの練習場にやってきたのは、四月も末だった。
「えっ赴任先にいってなかったの?」
石田が藤田の姿を認めてびっくりする。
「ええ、色々手続きが必要になって、一旦帰国したんです。明後日の夜の便で立ちます。そしたら五年は帰ってこられないので、最後にみんなの顔を見たくて」
へへと豊かな髪をかきながらいう、藤田の顔には二次会の時の冷たさはなかった。
「佐藤、今日、一緒に帰ろう。送っていってやる」
「……はい」
何でオレなんだ? 晶がいないこの練習場に藤田になんの用があるというんだ。
シャワーを浴びて、車に乗り込む。しばらく二人は無口だったが、春樹が言葉を発した。
「……俺、藤田さんとはなしがしたかったです」
「おれもそのつもりで来た」
「……なんで、東京に晶先輩と一緒にいかないんですか」
「佐藤はとんちんかんなこと言うな」
春樹はぼんやりと藤田という人間の輪郭をあらためて探った。でもよくわからなかった。ただ、凄く遠くにいて、自分みたいに子供には分からないことを藤田はたくさん知っている。そこに多分、晶は惹かれたのだろう。
晶が好きな男というのをしっかり目に焼き付けておこうとする。
「……二次会終わったあと、お前らふたりですっとんで出てったろ」
「見てたんですか。あんだけ晶先輩、ガン無視してたくせに」
「最後、ちゃんと見たよ」
「どっちかをちゃんと選んだらよかったんです。……もともと、あんたは奥さん、あすみさんだけを見てりゃよかったのに。……なんてか、オレはよくわかんねえけど」
「お前無口なのに口開くと毒いね」
山と海の狭い街を車は高速を通り、トンネルに入る。春樹はマジキライの呪文がまた頭でまわるだけで言葉がでない。いらいらする。
「どうとでもいえよ。……どうせオレはこどもだ。でも晶先輩を期待させた藤田さんが悪い」
人を誹謗する言葉がこんなに自分の口から出るとは思いも寄らなかった。いや、語彙力がないから暴力的な言葉遣いしかできないのだ。
「オレは、晶先輩が藤田さんと東京に行くんだって勝手に思ってた。……そうやって幸せになるのが恋愛ってもんじゃないんですか」
「そうだな」
「男同士とかよくわかんねえ。でも好きならそれでいいんじゃないんですか。オレはガキだから分かんないです。……でも、あんまりだよ」
ただ、春樹はわかっていた。オレはそんなあんまりな先輩につけ込んだ。先輩は始発の電車でオレをちらりともみなかった。
「お前に罵られると罰してもらっているなって」
「オレは藤田さんを罰してるつもりなんてない。オレは、あんたにそんなに関心ない」
自分がなにを言っているかも分からない。
「そっか」
嘘だ。晶の藤田を見る目線がいやだった。熱のこもった眼差しが大嫌いだった。大嫌い。大嫌いってあいう胸がかきむしられる不気味さで、気持ち悪さなんだ。今更、春樹は理解した。アンドロイドなのに。「晶先輩はほんとに馬鹿です。……オレが言うことじゃないですけど、二度と晶先輩の前に現れないでください」
「うん。そのつもり」
淡々とした藤田の口調に春樹はいらいらとする自分がいて、そしてじんわりと目尻が熱くなるのを感じた。
「あ、あんたが、あきらせんぱいをしあわせにしてくれたらよかった、くやしい。くやしい」
「……佐藤がそういうふうにいうの、おれはなんだか凄いところに立ち会ってるのかもな」
藤田の言葉が憎たらしかった。
「……そもそも晶はおれをほんとに好きだったのか」
「え?」
「確かにおれにはあすみがいたよ。でも本気で晶に引っ張られた。めちゃくちゃにしてやりたかったし、あいつの体のほうがおれを引っ張ったんだ」
「意味わかんねえ」
「もし、俺があすみじゃなくて晶を選んで東京にいったとする。そこで捨てられるのは、俺のほうだよ」
春樹は藤田の言葉に呆然とした。
「あきらせんぱい、そんな人じゃねえよ」
「……そうかな。おれはあいつのこと、怖かった。怖かったから触れたかったし、正直やりたかったし、あいつのこと、おれのほうがわすれられないんだ。あいつのペースに巻き込まれたのはおれだよ。本当は晶はおれのこと、一生、好きではいない。もの凄い嵐が待ってる気がした。晶は本質的には荒々しい、けものみたいなところがある。だからおれは安心できるあすみを選んだ」
「いみ、わかんねえ……」
「でも、もう、俺はお前にも晶にも会うことないよ。安心しろよ」
あっさりと言い放つ藤田は自分より大人で、ずるくて、凄く遠かった。
春先の浜風は湿気ており、潮の香りさえさせている。この匂いが春樹は嫌いではなかった。
晶と出会った時も、こんな風が吹いていた。
チームで、春樹はどんどんと頭角を現していた。試合では、いつもスターティングメンバーに入っていたし、チームの中心的存在として見られることが多くなった。
春樹はいつでも、潮の香りと湿気た浜風を纏っているような気がした。それは晶のことを考え続けていることと、変わらなかった。そして、その風はまるで、晶の肌のようだった。
二年生になったころから、演劇部の手伝いを再開した。
「はるちゃん、忙しそうだけど大丈夫なの」
新しい部長が、遠慮がちに聞いてくる。
「大丈夫です、やらせてください」
「よかった。金沢先輩も石井先輩も卒業しちゃって、男の子いなくなったから、助かる」
今年は「ロミオとジュリエット」を文化祭で上演する予定だ。
「はるちゃんがロミオやってくれると、嬉しいんだけど」
「それだけは勘弁してください」
二人は一瞬黙って、それから笑い合った。
五月 初旬
晶から「読書ノート」は返ってこないままだったが、春樹は一日の終わりに日記をつけるようになった。日記帳は、自分で選んだ青地に星座が銀色でプリントされた、やや値の張るものだった。
三年日記と言うもので、一日に書くスペースは、それほどない。言葉を紡ぐのがうまくない春樹には、それくらいが丁度よかった。
フットサルの練習内容、メンバーの様子、自分が飲んだもの、食べたもの、学校でのできごと……そんな程度でしかなかったが、晶と「読書ノート」をはじめたころに比べれば、格段に書けるようになっていた。
日記帳に向かうと、晶の顔が何度も浮かんだ。茶褐色の髪、左顎のほくろ、きれいな虹彩のはしばみの瞳、色素の薄い肌、そばかす……。
あの「読書ノート」が返ってこないように、晶の存在も帰ってこない気がした。
結局、会えないで、借りたままになっていた本とブルーレイを取り出してみた。晶と会うことがなくなり、えりと付き合っている間、しまい込んでいたのだ。
「スラムドッグ$ミリオネア」を再生しながら、春樹は晶のツイッターやインスタグラムを開こうとして、やめた。
そんなことをしても、なんの意味もない。
今の晶を盗み見るようなことは、したくない。
自分がどうしたいか、自分はどうなりたいのか。
藤田の言葉を思い出した。晶が藤田を捨てる? 嵐? その意味も掴めずに自分は一方的に晶が藤田を乞うていて、求めていたのだと、被害者なのだと、それを二次会の終わりに掠め取って陵辱したと思っていた。でもなにか違う。違和感が溢れでる。
えりはとても強くて、愛情に溢れていた。えりに自分は愛されて、大切にされた。自分はそのえりにさえ、追いついていない。
「その人、追いかけてよ。春樹が本当に好きな人を追いかけてよ」
ピンクの桜の花びらのなかで、えりが言った言葉がサラウンドして聞こえる。
「好きなら追いかけてくださいよ」
自分が晶にいった言葉だ。
「どうでもいいやつには、どう思われててもいい。でも、好きだな、理解したいな、理解して欲しいなと思える人間がいたとするよね。そんな相手には、「自分が思っている自分」として見て欲しい。そんな時、言葉が役に立つとするなら、嬉しくない?」
晶の言葉が頭の中で響いた。
晶はほかの人と違う。
晶は特別だ。
あの人は特別だ。
オレの神さまだ。
逃げたまんまだった。晶に拒絶されるのが怖くて、しっぽを巻いて逃げ出したのだ。あの地下鉄の朝、追いかけたのに、結局、えりに逃げた。傷つきたくないとさえ気が付いていなかった。
なにより「好きです」って、真正面から、ちゃんと言ってない。
晶、えり、藤田、かつてのチームメイト。みんなのほうがずっと確かに人間だ。
ジャマールは、「クイズ$ミリオネア」で優勝し、人が行き交う駅でラティカを待っている。黄色いスカーフをたなびかせ、ラティカがジャマールのもとにやってくる。「僕らの運命だ」ジャマールが告げた。
春樹はがたんと立ち上がり、リュックと財布、携帯とバッテリーだけを掴んで、部屋を飛び出す。どたどたと階段を駆けおりると、夕飯の用意をする母と珍しく家にいてソファでくつろぐ父がいた。
「春樹、どこかいくの」
「ちょっと出かけてくる」
「ごはんは?」
「また連絡するから!」
玄関であわててスニーカーをつっかけると、春樹はバン! と、ドアを開け、駆けだしていった。
駅まで走って電車に飛び乗り、S駅近くの夜行バス乗り場に到着した。バスを待つ人が、ざわざわと待ち合い室にひしめき合っている。次々に各地方へ旅立つバスが発車し、めまぐるしく人の群れが流れていく。
東京行きのバスには、まだ空席があった。慌ててチケットを受け取って、夜行バスに乗る。少し固くて春樹には狭い椅子に、体を預けた。窓側の席から、家路を急ぐ人たちの姿が見えた。
ふと、チケットに目をやると「東京行き かもめ号」と、書いてあった。
くすっと、笑いが漏れた。きっと、全部がつながっている。そして自分はまだ自分の運命の輪すら回していないのだ。知らないことが、きっとある。
なにより晶に会いたかった。
バスがエンジンをかけ、流れるように発車する。カーテンの隙間から、春樹は外を見た。高速に乗ると、オレンジ色の光が過ぎては去って行く。遠くへ、晶のいる街へとバスは春樹を乗せて走る。
何度か休憩を経て、バスは東京へ到着した。春樹はうとうととしか、できなかった。緊張して眠れなかったのだ。
早朝にバスを降ろされて、キョロキョロと見回す。東京ははじめてだった。降車場所には、たくさんの高いビルが建ち並んでいた。春樹の生まれ育ったところとは、まったく違っている。
晶が送ってくれた住所と、降車したところは随分と離れているようだった。
携帯でマップ検索をし、晶のマンションの最寄り駅を探す。
春の朝は薄ら寒いが、心地よかった。
「バッテリー持ってきといてよかった……」
始発の電車を待ちながら、春樹は携帯を見つめる。思い立って東京まで来てしまった。そもそも、晶が家にいるかどうかもわからない。それでも会いたかった。ちゃんと晶に、自分の気持ちを告げたかった。
途中、電車を間違えたり、乗るべき電車とは違う電車に乗って引き返したりしながら、なんとか春樹は晶の送ってくれた住所の最寄り駅にたどり着いた。
春樹は駅近くのコンビニに入り、マンションの場所をたずね、早足でマンションまで歩みを進めた。
胸が高鳴り、自然と歩みも速くなる。
「あった……!」
晶から送られた住所のマンションに到着する。新築と思われるマンションに、オートロックの扉。
思い切って晶に電話をする。
しかし、着信音が鳴るだけ。「おかけなおしください」と、アナウンスがむなしく響く。
春樹はマンションの呼び出しボタンの前で、躊躇しながら立っていた。どきどきしながら、晶の部屋番号「303」号室を押す。ピンポーンと音がするが、返事はない。
時計を見ると、午前六時三十分だった。もう、出かけているのかもしれない。大学まで追いかけようかと思ったが、どのキャンパスにいるのかも知らなかった。
途方に暮れた春樹は、マンションの前にあるエントランス横の花壇に腰をかけた。ふっと気が緩む。手足が温かくなって、眠気が襲ってきた。
自宅マンション前に、見覚えがある人影がいる。
晶は、ノンフレームの眼鏡のブリッジをくい、と中指であげた。
すたすたと近づくと、そこにはいるはずのない春樹がリュックを抱えて、大きな体をくたりと折り、壁にもたれて寝息を立てていた。
「はるき……?」
間違いない、春樹だった。
晶はそっと、春樹の肩に手を置いた。
「ねえ、春樹、起きて。風邪引いちゃうよ」
晶に揺さぶられて、春樹は目を覚ます。
「あきらせんぱい!」
春樹は目をこすって、しばらくぼんやりしていたが、ロング丈のチェスターコート、白のシャツに革靴、キャンパストートバッグの晶の姿をみとめて、がばっと立ち上がった。
「どうして、ここにいるの?」
晶はきれいな虹彩のはしばみの瞳を見開いて、春樹を見つめた。
ああ、ほんものだ、春樹はそう思った瞬間、晶に抱きついた。
「ごめん、携帯の電源オフにしてた」
晶は春樹を自宅マンションに招き入れてくれた。白い洋室九畳ほどの縦長の部屋は、きれいに整頓されている。まだ、段ボールが積み重なってはいた。
家電や家具は白、ベッドやカーテンはパステルグリーンで統一されている。本棚には大学で使う教科書や洋書、文庫本やDVDが整然と並んでいた。
「昨日から大学の劇団の仕込みがあって、ついさっき、終わったとこなんだ」
「劇団に入ったんですか?」
「うん。割と有名なとこで、集まってる連中も面白いやつばっかりだよ。今は演出助手の下っ端やらせてもらいながら、脚本書いてる」
晶はそういいながら、インスタントでいい? とコーヒーを淹れてくれる。
「……東京くるなら、連絡くれればよかったのに」
晶は春樹がここまできた理由を薄々悟っていたが、それを口に出すのは傲慢な気がして、少し強めに「東京」と言う言葉を使った。
「いえ、急に思いたったので……」
窮屈げな春樹を見て、晶はやわらかな微笑みを浮かべた。いつもの表情筋は使っていない。
「ちょっと背ぇ、のびたね」
「そうですか……自分じゃ気がつかなくて。先輩も、髪の毛、のびましたね」
「受験から卒業式、引っ越し、入学式ってどたばたしちゃって。……それにしても、ちゃんとここまでよくこられたね。俺、まだ迷うよ。平地、怖いわ」
マグカップを、晶は春樹に渡した。
「ありがとうございます。……携帯のマップで、検索しました。でも、かなり迷ってあちこち行っちゃいました」
漆黒の液体は湯気をたて、白いマグカップとコントラストをなしていた。
「……春樹は、こっちに何か用事があったの?」
晶はわざとそんなそっけない言葉を春樹に振った。自分から春樹の意図することを口に出すのは、怖かったが、春樹にその負担を分け渡した。ここまできたのだから、きっと、春樹は応えてくれる。そんな甘えもあった。
晶の言葉に、春樹はちょっとだけコーヒーをすすってから顔をあげた。そしてしっかりと、晶の瞳を見つめた。朝の光がきれいな虹彩のはしばみの瞳に反射して、輝いていた。
「どうしても、先輩に会いたかったんです」
春樹は、自分の声が震えているのを感じた。
晶は春樹の顔つきをまじまじと見ながら、随分と大人びたな、と、どこかカメラ越しに見ているような気がした。
「ちゃんと、先輩とはなしがしたかった。先輩が、いなくなって……オレが悪いんですけど、先輩を避けてしまって、会えなくて、すごく寂しかった。分からないこともあった。それに、ちゃんと真正面から、言いたかった」
「なにを」
晶が真剣に春樹を見つめてくる。
「先輩のこと、好きです」
ぱっと、晶の瞳孔が大きくなった。
「……」
「ずっと好きでした……。晶先輩は、オレにとってのジョナサンです。神さまです」
「そんないいもんじゃないよ、春樹」
晶はすっと、視線をそらした。
「俺は、お前が思っているようないい人間じゃない。……石田さんみたいに、男でも女でもいいから遊んでみたかったし……人も自分も傷つけてみたいって気持ちもあった。そういうことに、興味があった。だから好き勝手やれる石田さんが正直羨ましかったし、妬ましかった。……そんなことする勇気もないくせにね」
「……」
「俺さ、お前のことちょっとかわいそうって思ってた。ひとりなんだなって。ロボットやアンドロイドみたいで、コミュニケーションへたで。でも結局は俺のほうがお前よりずっとひとりぼっちなんだ」
「……はい? 意味わかんないです。たくさん、友達いるじゃないすか」
「人の付き合いの濃淡なんて、当人にだってわかんないよ。俺は誰かに関心を持ってかき回して、いい気になってるだけ。そしてそれを書けたらいいんだ。傲慢なんだよ」
晶の扱う言葉が格段に難しくて、春樹は戸惑った。
「でも、俺みたいなのでもいっぱい傷つくんだ。っていうか、俺、よわいの。自分でよくわかった。……二次会のあと、お前と一緒にいられて、ああいうことして、ほんとは凄く助かったんだ。……俺。ああいうセックス、好きな人間なんだって。ぐちゃぐちゃになれて、俺のばかばかしい生き方が壊れて」
「あれは、オレが悪いです」
「そんなこと、ない。いやだったら、付いていかない」
「そうですか。オレはずっと、後悔してました。もっと優しくできたら、もっと先輩のことを考えていればって」
「そんなの、無理だよ。俺が駄目だったんだから。あの時、ほんとに駄目だった。……よく、大学も受かったなって思ってる」
「……」
「貢さんのことだって、ほんとは「あすみさん」って人がいなかったら、あんなに好きになっていなかったかもしれない。どっかで、ひりひりした遊びがしたかったのかもしれない。……そういう人間だよ、俺は。お前がいうように、「浮気」だったのかもしれない」
なにか言葉を、と思うが、春樹にはそういった言葉の倉庫がない。だから黙っていると、晶はさらに口を開いた。
「そういう自分だったら、もっとものが書けるって思った。ばかだろ。ミイラ取りがミイラみたいなもんだよ」
自嘲するように笑う。
「藤田さんは、晶先輩にいずれ自分が捨てられるって言ってました」
「そういうところ、たしかにあるかもね」
「それがほんとの気持ちですか?」
春樹の瞳が晶の瞳を射貫いた。
「春樹は、どういうことを俺に、聞いてるの」
「藤田さんとのこと、本当の気持ちを教えてください」
ふうっと、晶はため息をついた。そして、冷えた風のような涼しい声で、つぶやいた。
「……そうだよ、本当は貢さんに好きになって欲しかった。貢さんに振り向いて欲しかったし、貢さんの全部が欲しいって……ずっと欲しい、欲しいって、そればっかりだった。でもそういう自分にも酔ってて、痛い目にあってる自分ならもっとなにかが手に入るって思った。欲張った。貢さんのいうことは当たってて、はずれてる」
「はい」
「だから、春樹に「神さま」なんて、言われる資格、俺にはない」
「それは、今は……どうでもいいです」
「え?」
「オレが晶先輩、……晶さんを好きなんです。晶さんと、ああいうことして、メモだけ残されて、すごく惨めな気がして……。二回目も、ちゃんと言える言葉がなかった。……ああ、拒絶されるのかな、あの時のことは「なしにしよう」ってことかな、って。全部。全部、「なし」ってことかなって。すげえ、臆病でした。ほんとにすみませんでした……でも、オレは晶さんが好きなんです。だからどうでもいいです、晶さんがどんな人でも」
「でも、お前、彼女いるじゃん」
春樹は驚いた。
「知ってたんですか……」
「そりゃ、学校からの帰り道に、栗色の長い髪のかわいい子と、手を恋人つなぎして歩いてるの、見たから。知ってる。卒業式の日にLINE送ったけど、返信ないし。いろいろ、「終わったな」「ちゃんと言えないままだな」って思ってた。これでも、かなり落ち込んだし……」
「ふられました」
「ええ?」
「「春樹は自分なんて見てない、ずっとうわのそらだった。ずっとほかの人のことを考えている、それは石井先輩だ。幼なじみに戻ろう」って、はっきり言われました」
「はあ……」
晶は呆然とした。
「すごいな、あの女の子。そこまで春樹のこと見てて、春樹が好きだったんだ……でも、きっと彼女は、本当は……ずっと春樹と一緒にいたいんじゃないかな……今でも」
「えっ」
春樹はそんなことを思いもしなかった。
「あの女の子、本当に春樹のことを大事だったから、「幼なじみ」に戻ろうって言ってくれたんだよ……」
「……まったく、気がつきませんでした……。 やっぱりオレはアンドロイドなんです」と整った顔をそのままにつぶやいた。
「……俺もさ、金沢に言われたんだ。「お前は蜘蛛の糸をたらして、罪人たち、カンダタをうまく操って遊んでいる、お釈迦様か」「罪人やカンダタは、ちゃんとした意思を持った人間だよ。お前はお釈迦様じゃない」って。「お前はなにもわかっていない」「自分の欲望で周りを振り回すな」って。「なにがコミュモンや」って。……誰のことも、ちゃんと見てなかったんだな、俺。小学生の頃から変わってない。自分勝手だった。ただ、人の世話を焼いて、うまく立ち回ってるつもりの自分が好きだっただけ。芥川の「蜘蛛の糸」っていうはなしのお釈迦様と一緒。気まぐれな神さまのつもりだった。仏様のつもりで、みんなを手の平でみつめて、自分は糸を垂らして、そんで右往左往する人たちを記憶して、物語にしてた」
「金沢先輩がそんなこと、言ってたんですか」
春樹は金沢の言葉を思い出した。
「そのうち、天啓がおりてくるさ」
「全部見通してたのは、金沢かもな。……あのさ、春樹。俺、まだ貢さんのこと引きずってるよ。それにひどい人間だよ」
「……それだけ好きだったんじゃないですか」
「そうかな。自分が勝手にできるって思ってたところで、二次会呼ばれて、幸せなところを見せつけられて、俺は逆にあれで貢さんに引きずられているんだから」
晶はそう言って、マグカップをテーブルの上に置いた。
春樹はもしかしたら、藤田はそうするために二次会に晶を呼び、一切無視したのかもしれないと思い至る。そうしたら、この二人の間にはどんな感情があったのだろうか。さわやかで大人で立派な藤田も、所詮は弱くて、晶の深いところに自分を残したかったのだろうか。人は不思議だ。人は難しくてこわい。
「晶さんがそうだったとしても、どんなにひどい人間でもいいんです。晶さんが、おかしくっても、自分勝手でも、ひとりでも、オレは晶さんが好きです……今は、そばにいられないですけど、でも、ずっと好きです、これから先も」
春樹は、つきものが落ちたような顔をしていた。それを見て、晶は言葉を続けた。
「俺ね、脚本学校でたくさんガリガリかいてるうちに、自由だって思った。俺は世界を作ってるって。貢さんともお前とも色んな人といろんなことがあればあるほど、もっと書けるんだって。傲慢だろ。それを金沢に言われた。……でも、もし、お前が死んだり、貢さんがあすみさんと俺のせいで別れたりしたらそれも書いちゃうかもしれない。……でも、そういうのって、才能じゃないし、本当の書く力じゃないって、なんか、こう、分かってきた」
「そういう晶さんが好きです」
晶はしばらく春樹の顔を見つめると、そのまま唇を寄せてきた。春樹もそっと近づく。目はあけたまま、軽く唇同士が触れた。
まばたきをしながら、キスを繰り返した。相手が自分の瞳を覗き込んでいることが、不思議だった。甘いような、しょっぱいようなキスだった。
二人は少しだけ、泣いていた。
春樹は、そっと目を閉じた。唇の感覚に集中したかった。柔らかな晶のそれが、ちゅ、ちゅ、と音を立てて、春樹の唇を食むと、舌で春樹のまつげを、すっと舐めた。
その間にも、春樹は本当のところ、晶は春樹のことを東京までやってきて、重たい奴って思っているんじゃないか。こうやって抱き合ってくれているのも、おなさけなんじゃないか、と不安になっていく。
だが、今、目の前に晶という魂と肉体があるのに、それがいつわりなんて、おなさけなんてあり得ないと、頭の中で全部なぎはらって、晶の体を抱いた。白いシャツの手触りの向こうに、膝立ちした晶の体がある。シャツ越しに、晶の体にキスをした。晶の体は前より、薄くなったようだった。
「……なあ、一緒にシャワー、浴びとこ?」
晶が顔を伏せながら、そうつぶやいた。せまい洗面所で服を脱ぎ、二人は無言でシャワーを浴びて、お互いの体を洗った。灯りのあるところで見る晶の体は、やはり痩せていて、鎖骨がくっきり浮いている。熱い湯が当たると、白い肌はほんのり赤く色を変えた。
春樹は晶の頭の位置で、自分の背が伸びたこと、そして離れていた時間を思い知った。
シャワーが終わると、体を拭くのもそこそこに、春樹と晶はベッドにもつれ込んだ。気がつくと、二人とも激しく興奮していた。
唇を重ね、唾液が溢れるのも構わず、ねぶり合った。春樹はすぐにでも晶が欲しかった。晶の耳、首、胸から腹へ手を滑らせ、骨張った体を確認した。
忘れないようにと晶の姿形、肉体を目に焼き付けた。この人の体に、「読書ノート」へ書き付けるように、自分の心を記したかった。読み手の晶に、自分を開示したかった。そして、この人にとっての物語、この人が藤田を見つけたように、この人をときめかせたかった。
きっとどうでもいいことや、どうでもいい人は忘れるけれど、この人の体と顔と、すべては忘れない。
ただ、この人に書き付けたことは、いつか消えてしまうかもしれない。
それが怖かった。だが、晶とパスしあったように、彼と自分の間には架け橋がもうできている。そう信じよう、信頼しよう。晶とパスしたように、体を通じ合わせることができる。
それが生きる証になる。
晶の茶褐色の髪の毛を撫でて、キスをすると、晶もキスを返してきた。晶の左顎のほくろにもキスをした。そばかすのある頬にも何度も、キスを落とした。春樹は何度も晶の耳を舐め、首筋を吸った。しっかりと痕をつけておきたかった。いずれは消えるものであっても、少しでも長く、晶に自分の存在をその噛みあとから、思い出して欲しかった。
余裕なんて、まったくなかった。晶と離れて過ごすなんて、本当はいやだ。自分だけのものになってくれたら、とずっと願っていた。だから、こんなふうに晶を抱けるのは夢のようで、いずれ夢のようになくなるのか、と怖くもなった。
晶も春樹の肌を吸い、痕をつけてきた。晶が痕をつけるたび、きゅうっと痛みが走る。それが心地よかった。
「すいません……余裕、ないです」
「俺も、あんま、よゆうない」
春樹は晶も自分を欲しがってくれているのが、嬉しかった。
晶の性器を握りこむと、ゆるく立ち上がっている。それを柔らかく緩急をつけてこすりあげながら、晶の奥に触れた。びく、と晶の体が跳ねる。もう、藤田には明け渡した場所なのに、と春樹は腹の奥底から薄暗いものがやってくるのを感じた。少しだけ乱暴に、晶の口に指を入れる。
「あ、ぐ」
舌を指先でつまんで指を唾液で濡らして、唾液まみれになった指を引き抜いて、晶の奥にぐっと入れ込んだ。
「うん、いぃッ、あ、ああ」
晶の声があがる。はっと冷静になり、そのままゆっくり指を押し入れた。男のそこがどう感じるか、よく知らない。だからゆっくりと進める。ある場所で、晶が「ああっそこ、だめ、」と、声を上げた。
何度もその場所をなぶると、びくびくと晶は震えて春樹にしがみつく。長くなった髪がばさっと揺れて、春樹の筋肉が乗った腕を掴む晶の指先が白くなった。
「きもち、いいですか」
春樹の深くて暗い海のような声が、晶の耳もとで響いた。
「あ、うん、……いい、……あ、ああ、もうダメ、だから」
許して、と晶にささやかれた時、春樹はぞわりと鳥肌が立った。そして晶の性器を強くこすり上げると、晶の体が大きく反りあがる。
「あ、いい、……あぁっひぁっ……もう、わかんないっいく、いくっ」
晶は白い肌を真っ赤にして精を吐き出し、ぶるぶると震えた。
春樹は、はあはあと息をつぐ晶の腰を抱えた。一つになりたい、晶の全部が欲しい。
「乱暴にしたら、ごめんなさい」
それだけ言うと、自分のものを晶の中にゆっくりと挿入した。
ぎゅっと晶の眉がひそめられるのを見て、つい、反射的にその眉間を親指で、そっと押しあげた。
「なに、してんだよ……」
晶は春樹の行動に涙をこぼしながら、きれいな虹彩のはしばみの瞳をそっと開け、苦しい息のしたから呆れたように笑って見せた。
ああ、やっぱりこの人が欲しい。神さまみたいなこの人が欲しい。どんな無体な神さまでも仏様でもこの晶という自分の神さまが欲しかった。
体がつながっても、すべてが手に入るわけではないだろう。でも、ちょっとだけでも、晶という人間のかけらが手に入る。
ゆっくりと負担がないように、と春樹は体を進めた。
「う……ああ、ああ、ん、ああっ」
ゆっくりと体を動かすと、晶が顔を手で覆うが、春樹はその腕をとって、自分の首にかけた。
「ちゃんと顔、見せて、ください」
「あ、うん、はるき、」
潤んだはしばみの瞳が揺れている。
「ああ、いい、だめになる、だめになる……あぁ……いや、あ、う、はぁっ」
ぐっと抱きしめると、春樹は晶にささやいた。
「……駄目になってください……。すごく好きです、ずっと好きです、オレのことだけ、見てください」
「うん、うん、はるきのことだけ、見てる」
晶の中が締まって、春樹はどんどんと追い詰められる。
「はるき、はるき、いっしょにいこ?」
晶がねだるように言う。
晶の性器をしごきながら、春樹は体を揺らした。頭も全身もくらくらして、晶ががくがく、震えるのが伝わってくる。
「……っ、もう……いくっ」
それを合図のようにして、春樹はグラインドを大きくする。春樹ももう限界だった。
晶は大きく息を吐くと、春樹の手のひらに精液を吐き出す。
晶は自分がこうやって普通に春樹に抱かれていることに驚いていた。もう二度と会わないかもしれなかった春樹がそばにいる。春樹は東京まで来てくれた。その喜びを感じざるを得なかった。全身の奥底から、吹き出すような多幸感と心地よさを春樹に与えてもらっているのだ。そう感じると、生きている自分の輪郭が見えてくる気がした。
「あきらさん、すき、すき、きもちいい?」
「いい、きもちいい」
春樹も晶も、絶頂に向かっていくだけだった。二人とも強く抱き合って、手を握り合った。その瞬間、せき止めていたものが全部壊れて、溢れ出していった。
朝から何度か肌を重ねて、疲れ切ってうたたねから目覚めると、夕方になっていた。カーテンから差し込む光は、橙色をしている。
春樹は自分の腕の中で、背中を見せて眠っている晶に気がつく。すうすうと寝息が聞こえ、腕まくらをしている春樹の指先にその吐息がかかった。晶の首はすっと長い。髪の襟足がうなじを隠していた。髪をそっとかき分けてキスをする。鍛えていても痩せたせいか、丸めた背中には骨が浮いていた。
そっと晶の肩に触れると尖ったところがあり、全体的にひらべったい。今はこの骨張った肩が、愛おしかった。そして少しだけ、悲しくなった。
晶の言葉が気にならない、と言えばうそになる。だが、もうそれはそれでよかった。自分はアンドロイドで、この人はたちの悪い神さまなのだ。
自分は晶が好きで、自分も晶もこうやって、この世に存在している。
中学の時、「はるちゃんはおれらとは違うから」そう言われて、ああそうか、としか思わなかった。どこに行っても、何をしても、「佐藤はおれらとは違うから」「はるちゃんはこわい」と、言われた。気がついたら、ひとりぼっちだった。しかし、だからどうしたんだ? とさえも、考えなかった。それならそれでよかった。欠けているのかなと、不安になることもなかった。
それでも今は、晶と言う人間を見つけた。この人はじつのところ、ひとりでよいという。ものが書ければ幸せだという。
えりと言うむすめにも愛された。晶の本質にも触れた。そのためにここまでやってきた。それでいい。
春樹は多幸感とともに、寂寥感を味わっていた。
いずれ、K市に帰らなければいけない。桜はすっかり散って、葉桜に変わっていた。
晶も春樹も授業があったので、三日間だけ一緒にいた。晶は大学のキャンパスを春樹に案内してやった。
晶は東京にまだ不慣れだったが、それでも春樹をあちこち連れて行ってくれた。春樹は東京スカイツリーより、東京タワーを見たがった。
「子どものころから、行ってみたかったんです」
晶はそんな春樹のために、トップデッキのツアーを予約した。あまりの高さにやや高所恐怖症気味の晶は吐き気がしたが、春樹は目を輝かせて東京の街を見渡した。
この街には山がない。海もない。おかしな街だと思った。とにかく広くて、たくさんの情報とものと人が溢れている。面白いが、どれも春樹の心の奥底には響かなかった。
不安になる。晶はこの街で、変わっていくかもしれない。
それでも。晶が変わっても、春樹はずっと晶を好きでいるだろう。それだけは確信できた。
夜はコンビニ弁当を買い、晶とNetflixを見た。
「最近、韓国の映画が面白いんだよね」
晶はそういうと、特急列車にゾンビが大量発生する映画を再生した。
「……すげえ、こわいです。ゾンビ、量が多すぎるし、空から降ってくるのは反則……」
あまりの展開の速さとグロテスクさに、春樹はクッションを握りしめていた。
「え、春樹にも怖いもの、あったの」
そういうと晶は笑って、春樹の顎にキスをした。
晶の伸びきった髪を、春樹はカミソリで切ってやった。
明日はもう、帰る日だ。じりじりとした焦燥感が二人の中にもわいてくるが、あえて、髪を切ったり、配信動画を見たりしていた。
「晶さんの髪の毛切るの、すごく緊張します。カミソリでいいんですか」
「大丈夫、大丈夫。ちょっとつまんで、そぎ落としていったらいいから」
春樹がひやひやしながら、ざくざくと切りおとした茶褐色の髪は、バスルームの床に、ばらばらと散らばった。
「予想より、ひどくない」
と、シャワーで髪を洗って整えた晶は、春樹に向かって笑った。
暇があれば晶のベッドでくっついて、何度も抱き合った。もう、あと一回。そんなタイミングだった。
「晶さん、ずっと好きです」
そう言って、春樹は強く晶を抱いた。晶を手の中に入れている時が、一番安心できた。
「今だけは、オレを好きでいてください」
「今だけってことはないよ」
ずっと好きでいる、と、晶は春樹の体に抱きつく。
晶は思う。
どうして春樹は、こんなに自分を好きだと言ってくれるのだろうか。
こんなにきれいで若さを持て余して、したたり落ちるような色気を持っている春樹が、自分をいつまでも好きだという。
いつか、間違えたと言うのではないだろうか。傲慢で世界を作り出したい自分の浅ましさを晶は、貢や金沢、そして春樹自身におしえられたと感じている。
だからいつか春樹は、あの栗色の髪の女の子のように、慎ましやかで、美しい、自分とは違う人間を選ぶのではないか。
二人の気持ちはちょっとずれたところで、シンクロしている。
しかし、晶はここまで追いかけてきた春樹を愛したかった。
それでも、と、晶は春樹に自分からキスをする。舌を絡ませると、ぺちゃぺちゃと音がして、春樹の唾液と自分の唾液が混じることで、興奮した。
「あきらさん、すきです」
そう言って、春樹は晶の胸を嬲った。
「うん、俺も、好き」
晶が瞳を伏せたまま、つぶやく。そして、好き、と口にすれば、春樹のことをもっと愛していけると確信した。
春樹はその瞬間に、全身に電流が走るような感覚を抱く。
嘘かもしれない。気休めで言ってくれているのかもしれない。それでも、「好き」の、たった二文字の言葉が自分を「生きている」と思わせるなんて、知らなかった。
晶の胸の突起を春樹は吸う。びりびりとした歓喜が、晶の全身を駆け巡って、思わず声が出る。
「はあっ」
晶も春樹の中心を握って、そっと優しく撫であげた。
「あ、あきらさ……」
「させて」
そのまま、体をずらして、春樹のものを口に含む。自分が吸い上げるたびに、口の中で、それが大きく膨らんでいくと、満足していく自分がいた。
「俺のも、して」
そういうと、体の位置をずらして、春樹の顔の上に、自分がくるようにする。
「はい」
そう言うと、春樹は晶のものを含んだ。
春樹は、晶がどうすれば気持ちよくなってくれるのか、そればかりを考えていた。
そして、たくさん気持ちよくなってもらいたかった。少しでも未練を持ってほしい。
「あ、すごい、いい、」
口からよだれを垂らして、思わず、晶は言葉にしてしまう。
「すいません、やっぱり、顔が見たい」
「うん……」
春樹は今度は晶を下にして、その小さな顔を大きな両の手のひらで、挟み込んだ。
「オレを見てください」
「うん。見てる」
晶も、春樹の端整な顔を、両の手で包み込んだ。
そしてお互いにキスをする。そのまま、春樹は晶の中へと自分を進めた。
「あきらさん、オレの、感じる?」
「うん、感じる。春樹の体、凄く、好き」
体中が全部、ほてってくる。肉体をつなげると、興奮がやってくる。
晶が自ら、腰を動かしてきた。
「あ、あきら、さん」
「俺がしたいから、いいの」
そうやって、晶は自分の奥へと春樹を導く。
この人はオレの神さまだ。とんでもない神さまだ。でも、ようやく、この美しい神さまを、ちゃんと慈しむことができた気がする。
晶の中に自分がいる。
そっと体を離して、晶の下腹部に触れてみた。
「晶さんの、ここに、オレいます」
「……そうだね、でも」
そういうの、照れるから、と晶はぜえぜえと息をつきながら、柔らかく笑った。
「すごい、奥まで届いてる、春樹がいる」
「オレと晶さん、離れないですよね」
「うん」
はあ、はあ、とはしばみの瞳を潤ませて、晶は春樹の真っ黒な瞳を見つめて、言った。
「ねえ、一緒にいこう?」と、春樹の肌と自分の肌を合わせ、また、深いところへと春樹を誘った。
「いっしょに、」
春樹はそう言うと、晶の足を持ち上げて、自分の体をさらに奥へと進めた。
春樹が帰る日がやってきた。
晶がてきぱきと、春樹の新幹線のチケットを買ってくれる。
「オレが出します」
「先輩に甘えとけ。そのかわり、金はちゃんと、貯めとけよ」
晶はそう言うと、新幹線で食べる弁当やお土産も、春樹に持たせた。
プラットホームには晶も見送りで入った。
平日の昼間は、ビジネスマンや海外からの旅行客が目立つ。
春樹の乗る新幹線が、ホームにやってきた。
春樹は思いきって、晶の指を取った。晶は一瞬、躊躇したようだったが、ぐっと春樹の手を握り返してくる。
「気をつけてな」
「晶さんも、大学、頑張ってください」
それだけ言うと、二人はなにも言えなくなってしまった。もっとはなすべきことがあったはずなのに、伝えなければいけない大事なことがあったのに、何か言うと涙がこぼれてしまう。
晶も春樹も、目を潤ませて見つめ合った。何度もまばたきをして、涙をこらえた。
発車のアナウンスが聞こえ、ゆっくりとドアが閉まる。
デッキに立って、窓から春樹はホームの晶を見つめた。
晶の口がぱくぱくと「電話して」「いつでも連絡くれ」と言っていた。
春樹は何度もうなずいた。
ぷあん、と音がして、新幹線がスピードをゆるく上げていく。
晶が追いかけてくるのが見える。ああ、あの時とは逆なんだ。あの冬の日とは逆なんだ。
もう、晶の姿は見えなくなった。しばらく春樹はデッキで立ち尽くし、流れていく東京の景色を見ていた。
次に会えるのは、いつだろう? 晶は東京で、変わっていくのだろうか?
春樹は自分が涙を流していることに、気がついた。
気がついたことは、それだけではない。自分だけを、見て欲しかった。できるなら、春樹は晶の物語になりたかった。晶がずっと自分を書いてくれたらとさえ思う。
はた、と春樹はずっと抱えてきた違和感の理由を知った。晶にとって、藤田のこともどこかで「書く」ことに繋がっている。ずっと藤田にマジキライの呪文を頭で踊らせていたが、そうではなかったと思い知ったのだ。
春樹は晶という神さまに出会ってしまったけれど、晶はきっと書くことの神さまに出会っている。それが何かしら人の形をしていればよかったのに。晶にとっては書くことが一番なのだ。
春樹はぽたぽたと流れる涙を手の甲で、ひたすらぬぐった。
本当に自分はしあわせなんだろうか。晶と出会ったことで、こんなつらさを知ってしまった。晶を知ったことで、弱くなった。
人を強く愛すると、その分、手酷い別れがやってくる。それにものを書きたい人にこちらを向かせるのはほぼ無理だろう。
何よりすでに晶と自分とは、こうやって数百キロの距離に分かたれている。
こんな苦しみを知りたくなかった。アンドロイドのままでよかった。
それでも晶と言う人間を思うと、自分の輪郭がはっきりする。晶から与えられる痛くて甘くて、言葉にできない、この感覚。それを抱きしめていたかった。
春樹という若い魂を乗せて、新幹線は西へと走る。
五月 中旬
高校二度目の文化祭を、春樹はまた演劇部の面々と過ごした。女性ばかりの「ロミオとジュリエット」は、マキューシオ役の部員が男装の麗人として、人気を博した。
舞台を見に来た金沢にも会った。金沢は、京都にある芸大へ進学していた。
「随分、さっぱりした顔をしているね」
「そうですか?」
「晶も誰にどう、気持ちを注げばいいのか、わかってきたんだろうな」
ゴールデンウィークだと言うのに、金沢はぴっちりとノーカラーのシャツとジャケットを着ている。
「……金沢先輩には、晶さんがどう見えていたんですか」
おずおずと、春樹は白い顔の金沢にたずねた。
「あいつは、愛や善意と言う傲慢さの使い方を知らなかったんだろうね。まあ、若いから仕方がない」
同い年なのにな、と春樹は金沢の冷えた声を聞いていた。
「あのままだと、あいつはお節介をやいた「誰か」に刺されていたかもね」
「……物騒なことをいいますね」
「人付き合いを自分のエゴのために使っているのに、「ボランティア」と間違えると、相手に迷惑だし、失礼だよ」
「……でも晶さんがそういう人じゃなかったら、会ってなかったら、オレは何も手にしていなかったです」
「それはまさに、タイミングの良さだね」
「それだけでしょうか」
「それだけって。あのさ、タイミングって、大事なんだ。恋愛がうまくいくかどうかは、ほとんど、タイミング如何だよ」
「金沢先輩の口から、そんな言葉を聞くとは思いませんでした」
「失礼だな。恋物語はすべて、タイミング次第。「ロミオとジュリエット」も、そうじゃないか。タイミングが合わずに二人とも死んだ」
金沢は辛辣な言葉を吐きながらも、晶を友達として愛おしんでいるのが春樹には分かった。
そして、自分と晶とは恋人なんだ、と春樹は改めて、握り込むように確認した。
図書室で借りた「デブを捨てに」はちょっとずつ、読み進めた。
晶とはLINEで毎日のようにはなしをした。
「読書ノート」は晶が持っているままだが、そのかわり、手紙のやりとりで本について映画について、そして普段の生活について、書き連ねた。
手書きの文字を綴るのは、心地がよかった。晶という読み手がいるから。そして、晶の手紙の丸みを帯びた文字が彼の肉体と瞳、すべてを思い起こさせた。
晶のインスタグラムは、大学での充実ぶりとともに、ラーメンの食べ歩きで埋め尽くされた。
晶のツイッターの裏アカウントは、いつの間にか削除されていた。
村上や石田、東がたまに春樹の試合を見に来てくれた。
えりは春樹が東京に行っている間に髪の毛をばっさり切っていた。えりと春樹はもう手をつなぐことはないが、時折、帰り道を共にする。
春樹は大学進学に向けて、晶の通っていた塾に入った。赤点続きだった歴史が次第に楽しく感じられ、先生もそんな春樹にギリシア悲劇や神話、歴史について読みやすい本を貸してくれた。
六月 中旬
初夏の日差しが感じられる頃、春樹ははじめてゲームキャプテンを任された。
春樹は晶に関すること以外、自分が何も変わっていない、と分かっている。アンドロイドのままだ。
ただ、勝たないと楽しくない。そのためならチームメイトと意思を通じ合わせたほうがいいと学んだだけだ。
アンドロイドも学習する。
相手チームは強豪だったが、春樹のチームはからくも勝利した。春樹は体以上に脳の疲労を感じたが、子供のころの純粋な喜びが、そこにはあった。
楽しい。
汗だくで体育館から出ると、そこに、いつも見たいと願っている顔があった。
茶褐色の髪、ノンフレームの眼鏡、色素の薄い肌、そばかす、そしてきれいな虹彩のはしばみの瞳。
「へへ、来ちゃった」
テーラードジャケットに、デニムパンツ、リュックを背負った晶が笑って立っていた。
春樹は目を見開いて、あんぐりと口を開けてしまった。
晶は破顔一笑、春樹に向かって大きく手を広げた。
人目もはばからず、シャツやシューズを放り出して、春樹は駆け出す。
うねるような潮風が吹いていた。そして、日差しはきらめいて、二人を照らしている。
「僕らの運命だ」
俺にとっては、あの人とは不幸な出会いだったのだろう。
しかし、その不幸で、そして一生の出会いで、俺は「人間っぽく」なってしまったのだ。
いつも人気のないシャワールームでそういうことをするようになったのは、いつからだろう。でも、それは俺から仕掛けたことだ。あの人がたくさんのものを持っていて、その持っていることに強い関心を惹かれたし、自分の手を沸騰する油の中にいれるようなこともしてみたかった。
肌に触れられて、かまれて、自分の体を開示していくのは恐ろしくてどきどきした。
春 四月
フットサルの練習場は、K市M駅から、少し歩いたところにあった。埋め立て地にあるそこは幹線道路が近くに走っており、いつも浜風が吹いていた。
その日は春だというのに、浜風がどんよりとした塩気をはらみ、うねっていた。
石井晶は「息苦しいな」とつぶやいて、ノンフレームの眼鏡を軽くあげた。そして、きれいといわれる虹彩のはしばみの瞳で、春曇りの空を見上げた。雲はそれほど出ていないが、山からの風と浜風が、ぶつかっているような気がした。
携帯に入れた英語構文のリスニングを、何度もリピートしていた。それを聞きながら、だらだらと続く坂道を降りていく。
「晶!」
キッと横に、黒のVOXYがとまり、助手席の窓がスライドして開いた。
「さとっさん」
晶は、眼鏡に携帯のイヤフォンが引っかからないよう、爪先でうまく外した。運転席には髪を刈り上げ、仕立ての良いスーツを着て、日に焼けた、がっしりとした体格の男性がいた。
晶のチームメイトである村上聡は、にっこりと晶に微笑みかけた。
「乗っていくか」
「助かります」
晶が助手席に乗り込むと、村上は軽くアクセルを踏み込んだ。
すうっと、車は走り出す。村上の運転はブレーキを踏むのもゆっくりで、流れるようだった。そして、歩行者に気を配っていて、彼の性格をよく現していた。
「さとっさんはもう仕事、終わりっすか」
「いや、練習が終わったらまた帰社するよ」
一流商社で営業をしている村上は、稼ぐ額も一般のサラリーマンとは違う。だが、仕事の量もほかのサラリーマンとは違っているらしい。晶はふうっとため息をつく。
「えー、まじっすか。体、大丈夫すか」
「おれは仕事が好きだからね、それに鍛えているから、多少のことは問題ない」
「でた! さとっさんの「おれは鍛えているから」論! たくましいっすね。ところで、詩織さんは元気なんですか。そろそろ、おなかも大きくなってるでしょ」
晶は首をかしげる。耳にかけた茶褐色の髪がさらっと落ちた。
「元気、元気。なんとか、フットサルやらせてもらっているよ。妊娠初期のころはつわりが酷かったんだが、落ち着いてきた」
「よかったですね」
「まあ、おれも、ちゃんとした「お父さん業」をやらんといかんかなって思ってるけど」
「……もしかして、フットサル、やめるんですか?」
「詩織は気晴らししておいで、って言ってくれるけど、実際に生まれてみるとね、難しいかなって。仕事、妻子、フットサル、だと、フットサルの順位が低くなるのは、しかたないかな……」
「そっすか……寂しいな」
「なんだよ、いつでもうちにメシ食いに来いよ」
「いや、それこそ、詩織さんに悪いでしょ」
「晶は詩織のウケがいいから、大丈夫だよ。いや、まじ、子供と詩織が安定してきたら、会いに来てよ。それより、晶のほうはどうなんだ。今年、受験生だろ」
「そうですねえ……でも、ずっと勉強していると、ストレスたまって。フットサルで発散できたほうが、勉強効率もいいんです」
「……まあ、お前のプレースタイル見てると、それは分かる」
「はは」
含むところがある村上の言葉に、晶は軽く笑った。
「それにお前、星が浦だろ? 偏差値いいんじゃないの」
「でも、私学ですからね。生徒の成績は千差万別です。スポーツ科、普通科、進学コースとあるんで。まあ、俺はそっちのほうがいろいろ面白いやつがいて、楽しいんですけど」
晶は学ランの襟をくっと引っ張り、首もとを開けた。二年ちょっと着ている学ランは、ほつれやけばだちが目立った。今日は春先にしては蒸す。晶はシャツの第一ボタンも外した。
晶は大きな瞳をまためかせ、携帯をいじった。そろそろ連絡があるかな、と確認したが、友人からのLINEが数件入っているだけだった。「今日は来るんですか?」と、メッセージとスタンプを送る。
「おいおい、晶もすみにおけないな。彼女か」
村上の言葉に、晶はリュックからペットボトルを出して飲みながら、「違いますよ」と、ひらひらと手を振ってみせた。
ふと、助手席のミラーに映る自分の顔を見た。左顎にほくろがあり、そばかすがほんのり浮いている白い顔が目に付く。光によって色を変える虹彩。はしばみの瞳、日焼けをしても赤くなるだけで、白くなる肌。浜風が色素の薄い、豊かな茶褐色の髪をばさばさとなぶっていく。
「そういや、前に言ったけど、今日から新しいやつが参加するんだ。お前より歳下らしい」
村上は、このフットサルチーム「La lucha」(ラ・ルチャ)の今年度の運営を、担当していた。
「へえ……戦力になったら、いいですね」
「まあ、うちは地域リーグだからね。戦力になるかどうかより、気が合うかどうか、かな。堺さんからの紹介で……確か、高校一年生だったと思う」
「そうなんですか、珍しいな……」
「堺さんも、顔が広いからな。ジムトレーナーだから、多分、そのあたりからだろ」
「そいつ、今日、来るんですか?」
「堺さんが連れてくるって」
なだらかなカーブを村上はゆるくスピードを落としながら、回りきった。
「へえ。ちょっと楽しみ」
フットサルの練習は、週に二、三回、休日を主に、十九時から二十一時の間に行われる。地域リーグに所属する「La lucha」は、ほぼ、同好会、サークルの体を取っている。
晶は施設内のロッカールームで着替えると、室内のコートへ向かった。室温も調整されており、快適だ。ただ、そばには高速道路が走っており、防音がしっかりしていても、時々、車の音が聞こえてくる。
練習場として借りている室内施設では、フットサルコートを、電灯がこうこうと照らしだし、ガラスが壁一面に張られていた。
晶のそばで、「ピヴォ」で髪をツーブロックにした村瀬光太郎が、そのややつりあがった目をいっそうつりあげて、「おす」と、晶と挨拶を交わす。
ストレッチをする二人は手をぶらぶらさせながら、くだらないはなしを続けた。
ゲラゲラと笑っている二人の背後から「楽しそうだな」
と、「アラ」の東大輔が大股で、姿勢よくやってきた。髪を短く刈り、一重の爽やかな顔立ちをした東は白のトレーニングジャージに黒のズボン、トレーニングショーツを合わせていた。
「いや、大輔さん、村瀬さんがいつもと違う真面目なこといったんで」
東大輔は、身長こそ168センチ程度だが、整った顔立ちと、優れたゲームメイク、かつ、O大理学部大学院在学と言うステータスで、一部に熱狂的な女性ファンがいた。ストイックで冷静な東はゲームキャプテンも任されていて、責任感は強い。
がっちりした体格の北村豊は二十九歳。「アラ」のポジションで、もうこのチームに入って十年になる。
すらっとしていて、芸能人のような甘い顔立ちの「ピヴォ」の石田瑛人は、妻の実家の花屋を任されている三十歳だが、ずっと若く見える。
「ゴレイロ」兼「フィクソ」の山崎樹は、二十五歳。
晶を車に乗せてくれた村上は三十一歳。ナイキのピストレ上下をフランクに着こなし、青いシューズを履いていた。
「あー、集合!」
村上が声をかけると、メンバーたちは集まって輪になる。
「今日のメンバーは……、東、石井、北村、石田、山崎、村瀬、と、俺、村上、と……あと、卒業した堺さんが来てくれています」
堺より一歩下がったところに、背がすらっとしており、頼りなさげな雰囲気の少年が立っていた。白いシャツに黒のハーフパンツから、にゅっと細長い脚が伸びている。
「えっと新人さん、入りました。堺さんからの紹介です。えっと……名前は「佐藤春樹」くん。自己紹介してもらえる? 佐藤くん」
「はい」
「佐藤春樹」と呼ばれた少年は、姿勢よく胸を張って一歩前に出た。そして腕を一直線におろし、ゆっくりと九十度くらいの角度で頭をさげる。仕草こそはおとなしめだが、体育会系の上下関係の中にいたのだろう。
「はじめまして。佐藤春樹といいます、中学まではサッカーやっていました。よろしくお願いします」
よろしく、と、あちらこちらから、声があがると、春樹はすっと顔をあげた。
「晶、歳が近いから面倒見てやって」
村上に手招きされた晶は、「わかりました」と、春樹のそばに寄っていった。
身長172センチの晶から見ると、春樹はすらりとしていた。180センチはあるだろう。春樹は手足が長く、腰の位置も晶とはまったく違った高さにあった。
晶から見た春樹はどこか透明感があり、輪郭が青かった。
「きれいなやつだな」
それが晶の春樹への第一印象だった。
日焼けしていない肌から、春樹がサッカーから遠ざかっていることを晶は感じ取る。
「佐藤くん、俺、石井晶。「あきら」って呼んで。俺も、佐藤くんのこと、「はるき」って呼ぶから。……サッカーやってたんだよね。じゃあ、フットサルのルールは、ほとんどわかるよね?」
「はい、だいたいは」
近くで聞くと、意外にも深くて暗い海を思わせる声だった。年齢の割には大人びて見える上、どこか物憂げだ。
チームメイトが全員年上のせいか、春樹はやや遠慮をしているように見えた。
体にも恵まれているし、サッカーでも活躍したんじゃないのかな。晶はそっと春樹の顔をうかがう。
黒々とした髪を無造作にカットしているが、どことなくけだるげな甘さをふくんだ二重、長いまつげが縁取る黒目がちな瞳、すっと通った鼻梁、ややぷっくりとした唇は、同性でもみとれる造りをしていた。
晶は村上に声をかけた。
「さとっさん、春樹をあとでゲームに入れて実戦させてくれませんか」
「了解」
晶は春樹に、ゲーム前に説明をしておいた。
「フットサルについて解説しておくね」
春樹が溶け込みやすいよう、晶は笑顔を作りつつ、やや高い声で春樹に語りかけた。
春樹もふっと力が抜けたように見えた。
「フットサルは、人数五人でゲームをします。一人はゴールキーパーの担当。交代要員は最大九人。交代はサッカーと違って制限されないんだ。ピッチの幅は、……えっと、タッチラインが38から42メートル、ゴールラインは18から22メートル。センターサークルの半径は3メートル、ペナルティエリアの半径は6メートル。ゴールは高さ2.08メートル、横幅3.16メートル。サッカーと違って、高さはともかく、幅はかなり小さい」
「そうですね」
「ボールは、サッカーのより一回り小さくて、しかもはずみにくい。要領や戦略は独自のものがあるけど、それはおいおい理解したらオッケー。ちなみにアディショナルタイムと、オフサイドはなし」
春樹は体を傾けて聞いていた。手にはメモを携えている。
「はい」
「一試合、前後半の二十分の計四十分」
「はい」
「ねえ、ちょっと、声小さくない? 俺が歳上だから? そんなの気にしなくて大丈夫だよ。俺、とっつきにくい?」
風のように涼やかな声を少し張り上げて、晶はおどけてみせる。
「そんなことないです、ぜんぜん」
春樹がびっくりしたのか、瞳を見開く。ああ、こういう顔もできるんだ、と晶はほっとした。春樹の表情が、あまり変わらなかったのが気になっていた。
「だろ?」
年の差は気にするな、と言いながら、晶は春樹の肩をたたいた。
「それと、うちは地域リーグだから、サークルみたいなもんなの。そういや、どこの高校? 聞いていい?」
春樹が気を遣わないようにと晶は一気にたたみかけるように話をして、春樹との距離を縮めようとした。
「星が浦高校です」
「え? マジ? ほんと?」
「はい、星が浦の一年D組です」
「俺も星が浦だよ」
「そうなんすか……って、すみません、そうなんですか」
「いいよ、別に、敬語じゃなくって。そう、俺、三年A組」
晶ははなしを続けた。
「まず、ポジションの説明をするね。まずは、サッカーのゴールキーパーにあたる「ゴレイロ」。とは言っても、フットサルでは数的な関係から、攻撃参加率はサッカーより高い。次はサッカーでは、ディフェンダーにあたる「フィクソ」。フットサルは基本、マンツーマンディフェンス」
「サッカーよりも、コンタクトスポーツですね」
「お、さすが、わかってるね。サッカーよりフットサルはぶつかり合いが多い。ほぼ喧嘩みたいな時もある。あとは、サイドプレイヤーにあたる「アラ」。マンツーマンできる体力と、ドリブルする能力が求められる。あとは「ピヴォ」。フォワードにあたるポジションね。春樹はガタイもいいし、ここがいいんじゃないかな」
「わ、すげえ」
一度目のミニゲームで村瀬が春樹に当たったが、春樹は体幹が強いのだろう、あたり負けしなかった。
春樹は大きな体の割には、ボールさばきが器用で、上体もよく伸び、視野が広い。
姿勢がきれいで、独特のカリスマ性を感じさせる。
最初は周りと合わせづらかったのか、戸惑うようなところも見受けられたが、流動性の高いポジショニングにもついてきた。さらにはドリブルの速さはチーム一だったため、最終的には春樹にボールが集まるようになっていった。
「あいつ、凄いっすね」
晶が村上と顔を見合わせていると、不意に背後から声がした。
「あー、おれ、あいつ見たことあるわ……ああ、聡さん、あいつ、県選抜に出てましたよ」
「あ、貢さん……」
「おお、藤田、遅かったな」
村上に声をかけられて、藤田貢はぺこっとその細く長い体を折り曲げるようにして、おじぎをした。
「すいません、ちょっと客につかまっちゃってて……」
「お、おっす……大変ですね、IT企業のぎじつ、えいぎょうって」
「言えてねえじゃん。「技術営業」な」
白い歯を見せて藤田は笑う。
「「技術営業」」
「よく言えました」
むすっとする晶に、藤田は笑いかけた。そのしっとりとした豊かな黒髪が、はらっと落ちる。ばさばさと音でも立てそうなまつげがはためくと、晶のほうへ真っ黒な瞳が向けられた。
ぷっくりとした涙堂と、白い歯が、爽やかさとほんのりと甘ったるさを醸し出していた。182センチのすらりとした体躯に、めりはりのある筋肉がついている。レアルマドリードのユニフォームに、黒のハーフパンツ、フットサルストッキング、青みがかったグリーンのシューズをあわせていた。
「え? 佐藤、県選抜だったの?」
周囲にいた人間にも、藤田の声が伝わったらしい。藤田は晶の肩に腕を回して携帯をさわると、動画を出してきた。「ほら」
「あったあった、これです」
「全国中学生選抜大会」のテロップが出ている画面の中で、ずば抜けてボールの所有率が高い選手が、どう見ても目の前にいる春樹に見えた。
「ほんものですよね」
「晶、お前、佐藤のことどう思う?」
藤田が晶の茶褐色の髪を今度は、くしゃくしゃしながら、たずねた。182センチもある藤田がそばにならぶと、晶は自分が小さいな、と感じる。それが本来は嫌だが、藤田の背の高さ、顔、熱が晶には心地よかった。藤田が離れると、熱が残っているみたいで心が騒いだ。
「どうって……? うーん、元県選抜だけあって、うまいかな」
「そうだね。ただ、あいつ凄くセンスあるけど、ちょっと」
「ちょっと? なんすか」
藤田の態度に、いささか晶は納得がいかない。
「まあ、一回やってみよう」
晶は藤田のいいたいことを、ゲームの中で理解することになった。
ミニゲームは参加者が少なかったため、二度にわたって、春樹の力量をはかる目的で行われた。晶も自分のポジション「アラ」に入った。
二度目、春樹はボールを持ちすぎた。サッカーであればドリブルで抜けたとしても、スペースがあるが、フットサルは距離感が違う。すぐにディフェンスに囲まれる。
「佐藤! ボール!」
追い詰められかけた、と見た藤田がうまくリードして、春樹にボールを出させると「スイッチ」の要領で藤田がパスを出し、交差したところに来ていた春樹にボールをパスした。春樹はそのままゴールを決める。
「ナイス! 佐藤」
「ありがとうございます!」
「もっと自分だしていいぞ、勝手にやってみろ」
藤田はそう、春樹の背中を叩いた。
「はい!」
春樹の顔から、強張りのようなものが消えて、年相応の少年の顔になっていた。
晶はそんな春樹と藤田を交互に見た。藤田は春樹が周りに遠慮していると感じとって、フォローしてやったのだ。
晶ははしばみの瞳を藤田にぎゅっと向けた。
ゲームが終わると、春樹のまわりにチームの面々がわらわらと集まってくる。
「お前、中学の県選抜だったんだって?」
「あ……はい」
「すげえじゃん」
「はあ……」
春樹の「たいしたことではない」「なぜ、騒ぐのか」と言わんばかりの一見ふてぶてしい態度に、逆に周りが戸惑った様子を見せる。
さっと晶が「春樹、すごいよ! こんな逸材が入ってくれるなんて、俺ら、めっちゃ得ですねえ!」と、すかさずフォローに入った。春樹もそれを察したのか「いえ、そんなに、あの、ありがとうございます」とぼそぼそと口にした。
「春樹は家、どっち方面?」
練習終了後、ロッカーで春樹は晶に声をかけた。
「S区のほうです。地下鉄のM駅になります」
「じゃあ、俺と同じ沿線だ。俺、いつも貢さんに車で送ってもらっているんだ。春樹も一緒に乗せてもらえるか、聞いてみる」
晶は藤田に、声をかけた。
「車? いいよ。佐藤、遠慮すんな」
藤田は車を駐車場から入り口まで回してくれた。藤田の車の後部座席に、晶と春樹は乗り込んだ。
この街の山と海はとても近く、その狭い土地に人々は暮らしていた。
藤田は一人暮らしをしている。住まいはS区でも海側で、春樹は山側、晶はさらに奥のN区になる。
I駅で、藤田は晶と春樹を降ろした。
「佐藤、また来いよ。晶、ちゃんと連れて帰ってやれよな」
「分かってますよ」
「新人に気を遣えよ?」
「わかってますって。俺はいいやつなんで」
「ほんとに一言多いなあ、お前は」
ちょけてからにという藤田の言葉に、「そうなんですよ、俺は一言多いんです」と晶はふふんと笑ってどこか嬉しそうな顔をしてみせた。藤田もそれが当然と言った顔をする。春樹はこの二人は年齢が離れていても仲がいいんだな、とぼんやりと眺めていた。
「春樹は、さすがに一年生って感じだな、学ランがてかってないし、まだ「着られている」感ある」
電車のなかで、晶は春樹の学ランの裾をつまんだ。
「そうですか」
春樹は、晶の距離感の近さに戸惑う。この人は誰にでもこうなのだろうか。
「そういや、M駅だったよね。ちょっと時間ある?」
「はい」
「俺、M駅そばの予備校に通ってるんだけど、置きっぱなしにしてた参考書、とってくるわ。そのついでに、ちょっと話そうよ」
M駅で降りると春樹を待たせ、晶は走り出した。五分もしないうちに晶は戻ってくると「はい」と、コーヒーのボトルを春樹に渡し、駅に隣接しているショッピングセンターの広場で話しはじめた。
「ありがとうございます、えっと」
「晶でいいってば。春樹は高校では部活、入ってないの?」
「はい。決めかねているうちに入り損ねてしまって……そのうちに堺さんが声かけてくれました」
やや猫背気味にうつむいて、ぽつりぽつりと喋る春樹に、晶はふんふん、と頷きながら携帯を取り出した。
「へえ。俺はねえ、フットサル好きなんだ」
「……そうですか」
距離がやたら近い人だ。別にこっちは話を聞いてないのにな。
「もともと兄貴がフットサルやってて、ここのチームに入ったの。うちの兄貴、もう就職してて、今、北海道にいるんだぜ。そうだ、LINE登録していい?」
「えっと、これです」
立て板に水とばかりに話す晶に春樹は気圧されつつ、携帯を出す。
「ありがと」
晶は春樹から携帯を手に取ると、手際よく設定してしまう。晶は春樹の友達の登録数の少なさをさりげなく見てとったようだ。
「うちのチーム、春樹に入ってもらってよかったわ。だらけてるから。あ、これはみんなには内緒ね」
くつくつと笑って晶はいきなり、「二人の秘密」と言い出す。そして春樹の携帯から着信音がした。
春樹が携帯を覗くと、晶から「よろしくね」のスタンプがLINEに入っている。
その日はじめて、春樹は笑みを見せた。
「ありがとうございます」のスタンプを春樹が晶に送り返すと、にっと晶は春樹に向かって笑いかけた。
その後、六月のリーグ開催に向けて調整が行われた。
春樹は最初だけ、遠慮がちに周りと接していたが、すぐに実力を発揮しはじめた。フットサルのルールもあっと言う間に吸収し、ゲームでも指示を出すようになってきた。
サッカーより、フットサルは確かにあたりが激しい。体格がものを言うコンタクトなスポーツでもある。
「もうちょっと身長が欲しかった」と晶は言うが、その分、晶はボールを器用にさばく、と春樹は見つめた。
ボールを触っている時、晶は若鮎のようにいきいきとしていた。
帰り道、晶と春樹はときおり、M駅でコーヒーを飲むようになった。
「オレ、サッカー推薦が決まりかけてたんです」
春樹は、ふいに強豪校の名をあげた。
「すごいじゃん」
「いえ……結局、取り消されちゃったんで」
「え?」
「高校の指導者が替わっちゃって……その人が、うちの中学の先生と折り合い悪くて」
「はあ? なにそれ、酷くない? ほかの学校、紹介してもらえなかったの?」
「はい」
「ええ……高校進学、しかも強豪校じゃん……俺だったらあちこちに相談するけど……」
「そうすればよかったかもしれないですね。でも、そういう話、割とあるみたいです。オレは別にどうでも……」
晶は首を突き出して、春樹の顔をまじまじと「なに言ってるんだ」と見つめた。
「オレ、変ですよね」
「……まあ、そうかもしんないけど、それが春樹らしさかもね」
そうですか、と春樹はそれだけ告げた。
「そういやさ、うちの学校、購買の使い方テクニック教えてやるよ。昼は大変だからな、おばちゃんと仲良くなっとくんだよ、それでな……」
晶はしんみりした空気を変えようとして、わざと学校での生活小百科を面白おかしく話して聞かせた。
ある日の練習後、春樹はシャワールームが混み合うのがいやで、ストレッチで時間を潰していた。
「あ、先輩と藤田さん、待たせちゃうかな……」
いつもどおり、自分のことしか考えていないことにはた、と気が付く。多分、こういう時には、勉強や仕事で疲れている年上の人を待たせるものではないのだ。多分。
早足で、シャワールームへ向かう。うっかりがたんと大きな音を立てて、扉を開けてしまった。
「あっ」
ガタガタと言う音と、軽い悲鳴のような声が聞こえる。
「あの、すいません、佐藤ですが、何かありましたか? こけたりしてませんか?」
確か今日、練習場を使っていたのは春樹たちだけだった。シャワールームにいるのは、恐らく、チームメイトだろう。
「あ、はるき? だ、大丈夫。……おそかったね」
トーンが高くなった声が、シャワールームに響く。
「晶先輩ですか?」
「うん、ちょっと滑りかけただけ。そうだよね、貢さん?」
「うん、そう、気にしないでいいよ」
ああ、藤田さんと先輩がまだいたんだ。春樹はほっとして、シャワーを使い始める。
ふと、晶へ視線をやると、胸からタオルを巻いている。男同士なのにな。
ただ、そのタオルの陰から、なにか赤いあざのようなものが見えた。
「じゃあ、俺ら、先にいってるから。ゆっくりしておいで」
「ありがとうございます」
無造作に服を脱ぎ、シャワーの栓をねじると、あとの二人は急ぎ足で出て行く。
シャワーの湯気で藤田と晶の姿は見えにくかったが、二人が妙によそよそしいように春樹は感じた。だが、シャワーの心地よさに感覚を持って行かれた。
春 四月下旬
ひととおり、春樹とメンバーが顔を合わせたタイミングで「新人歓迎会」という名の飲み会が開かれた。
二十名ほどが集まり、いつも使っている居酒屋で春樹は一通りの挨拶をして、すみっこに引っ込もうとした。そこに、北村と石田が声をかけてきた。
「佐藤、こっちこい。学生生活のはなし、きかせてくれや」
「はい」
春樹はあらためて石田を見つめた。すらりとした体つき、整った顔立ちは、三十歳とは思えない艶めいた雰囲気を放っている。既婚者で、きれいな奥さんと娘が二人いるらしい。
だが、女性がいつも数人、顔ぶれを変えながら練習を見に来ていた。
「まあ、そんなにかたくならずに」
北村が春樹に人なつこい笑顔を向けてくれた。北村は整体院に勤める二十九歳。独立を目指している。
「佐藤はモテるだろ? そのあたりの武勇伝ないの」
石田がはなしを振ってくるが、春樹は首を横にふるだけだった。
「いえ、オレはぜんぜんです」
「えーうそ! じゃあ、紹介してやろうか?」
「……そういえば、佐藤って、家族何人? 一人っ子? 兄弟いるのか?」
北村が春樹に大きな声で家族構成を聞く。そうやって、石田の春樹への好奇心をそらしてやろうとしていた。
「うちは、父と母、祖父母です」
「兄弟いないの?」
「オレ、ひとりです」
「そういう話はいいから。で、まだ童貞?」
石田が食い下がってくる。
「瑛人さん、もういいから。高校生にそういう話はやめておきましょうよ」
北村が石田を制してくれている間、春樹は喉の渇きを覚えた。石田の話はどうでもよかった。もしかすると、自分はとても緊張しているのかもしれない。席を替わる時に持ってきたソフトドリンクに口をつけた。ごくごくごく、と炭酸の甘いドリンクは春樹の喉を通り抜け、するすると胃に収まった。その瞬間、胃が燃えた。
「おい、佐藤、それ、東の……」
「え? まじで?」
石田と北村が春樹が飲みほしたドリンクに気がつく。
「え?」
「それ、東の焼酎五割カルピスだよ!」
「石田さんも北村さんも! なに考えてるんだよ! ちょっとは気を遣えよ! 東さんも、なんでそんな度数高いカルピスハイ飲んでるんだよ!」
生まれてはじめてアルコールを飲んだ春樹はトイレに直行し、晶は事情を村瀬から聞いて激怒していた。東は晶の激昂にも動ずることなく、焼酎五割カルピスを飲んでいる。
「村瀬さん、すいません、ちょっと白湯、持ってきてやってください」
春樹は便器を抱きかかえるようにして、受け付けないアルコールを全部だそうとしていた。晶がせっせと背中をさすってやる。
「春樹、大丈夫か」
「だ、だいじょうぶです……」
春樹は、いったん、吐き出せるものを吐き出すとそう、つぶやいた。それでも顔面が青白い。よっこいしょ、と心配して見に来た村瀬や東が春樹を立たせてやった。
「すいません、ちょっとこいつ、家まで送っていきます」
「ついていこう」
村上もジャケットをとって、立ち上がった。
「村瀬さんと東さんはタクシーつかまえてください。吐くのは収まったみたいだし」
晶はそういいながらも「ゲロ袋もってなよ」と、ビニール袋を春樹にわたす。意味が分からない。おとなって意味が分からない。
「家のほうには今から連絡しておく、会計とかは東、やっておいてくれ」
「わかりました」
村上がてきぱきと指示をだす。
「ありがとうございます、じゃあ」
村上の言葉を背にして、晶は村瀬と東に手伝ってもらって外に出た。
タクシーが閑静な住宅街にある春樹の自宅につくと、春樹の母親が玄関先で待っていた。後部座席で春樹の介抱をしていた晶と村上が、春樹を抱えて降りる。
すらっと背が高く、春樹と顔だちが似ているショートカットの母親がさらりとしたカーデガンを羽織って頭をさげた。
「すみません、佐藤春樹の母です。村上さんと、石井さん? どうせ、この子がぼおっとしていたんでしょう」
「ごめん、かあさん、オレが悪い……」
「ご近所迷惑よ。ちょっとおじいちゃん、春樹を部屋まで連れて行ってください。そうよ、あんたがぼけっとしてたからこうなったんじゃないの?」
母親の声に春樹は「うへえ」とだけ言って、耳をふさぐまねをする。
こういうところは子供っぽいな、と晶は笑みがもれそうになった。
祖父らしき老人が晶たちに頭をさげ、春樹を大きな一軒家に連れて入った。晶と村上も頭をさげる。
「ほんとに、すみませんでした。今後、こういうことがないようにします」
「まあねえ。正直、いくらサークルの新歓してもらうからって、居酒屋にいくのを止めなかった私が悪いわ」
「すいません……」
「ええっと石井くん……よね? あなたも星が浦なんでしょ? なにかあったら、処分を受けるのはあなただし。あと、村上さん? あなた、大人として止めるべきじゃなかったのかしら?」
サバサバと言ってのける春樹の母に、晶は小さくなるばかりだった。
「すいません、そのあたりは俺が気を付けます」
今度は村上が、必死で頭を下げた。
「まあ、はっきり言っちゃったけど、気にしないで。これからも節度ある範囲で、あの子を誘ってあげてください」
言いたいことを言うと、春樹の母親は急に声のトーンを落として、笑った。
「それと、あなた、「晶先輩」よね」
春樹の母が、晶の顔をまじまじと見つめて言った。
「はい、石井晶は僕です」
「春樹が時々、話をしているの。男の子って外の話、しないでしょ。それが珍しく「晶先輩」「晶先輩」って。……その「晶先輩」にはなしがしたいけれど、少しだけいいかしら」
「はい」
「あの子、ちょっといきがってるでしょ。中学の時もそう。サッカーで自分のできがいいって、つけあがってたのよ」
いきなり、ペラペラはなしはじめる春樹の母に、晶はきょとんとする。
「いえ、春樹くんは凄くいい子です、チームでも活躍してくれて」
晶は慌てて春樹のいいところを口にする。……えっと、どこだっけ。プレーはうまい。でも最年少のわりにはふてぶてしく見える。ただ、実力はあるし、みんな認めている。
「あら、そう。フットサルが楽しいのかしら。だといいんだけれど」
「楽しいかは本人じゃないと分かりませんが、うちの大事な戦力です」
そこだけ、晶はきっぱりと言ってのけた。
「……ありがとう。あの子、サッカーをすっぱりやめちゃったでしょ。……私、外科で看護師をやってるんですけど、怪我をして、ああ言う「挫折したけど、オレは傷ついてない」って顔する子、わりと見るんですよ。まだまだ子どもなのにね。……まあ、子どもだから強がるんでしょうけど」
「はあ……」
そこから、母親のマシンガントークが始まった。
「どこでも浮いてたみたいで。それを「自分が凄いから」「みんなはオレのことを恐れてる」なんて、思い込んでるんですよ」
「いえ、春樹君はそんなふうに思ってないみたいです」
晶は慌てて手を振る。むしろ、「俺が凄いから」と春樹が考えていたほうが、彼が今後人と関わる道筋が見える気がした。
「そうかしら。……高校の推薦を取り消されてもけろっとしてて、親がどれだけ慌てたかもわかってないのよね」
苦労したのよ、成績もいまいちで、と母親が困ったように言う。この母親から春樹という人間が生まれたとは信じがたかった。
「そうですか……」
「初対面の人にすみません、ペラペラと。あんな子ですけど、仲良くしてやってくださいね」
母親として、息子を気遣っているのを晶はその毒舌で推察した。
月曜日、春樹は購買で買ったパンを持ってあがっていった。昼休み。屋上は生徒でざわついている。春の風はまだ少し肌寒い。
「春樹、こっち!」
晶が手を振って、春樹を呼んだ。
晶から昼飯を一緒に食べよう、とLINEがあったのだ。
「先輩、こないだはすいませんでした」
「いや、こっちこそ、申し訳なかった。みんなからも、グループLINEでメッセあったでしょ?」
「ありました」
春樹はわざわざ、晶に携帯の画面を見せる。
「大丈夫か」
「ほんとごめん」
「お酒は二十歳になってから」
そんな言葉がぽこぽこと並んでいた。
「そうか、よかった。……、春樹、教室で一緒にご飯食べる友達いないの?」
さらりと、晶が春樹に探りを入れる。
「はい。昼飯食べたら、すぐに寝ちゃいますし」
「そうなんだ」
晶は空を見上げた。薄い雲と青い空が春らしい空気をたたえていた。
「そっか。俺も来てくれて嬉しいよ。あと、紹介するね。俺の友達」
横を見るとカップ麺をすすっている、地味な少年が座っていた。顔は弥生式土器みたいに特に特徴はない。体つきはひょろりとしており、寒いのか、ニットを学ランの下に着込み、ネックウォーマーを着けている。
星が浦高校は山の上にあった。最寄り駅より少しひんやりとしていて、風も強い。
「金沢遊馬。よろしく。晶と同じクラスだよ」
金沢は座っていたところ、わざわざ立ち上がって春樹に手を差し伸べてきた。
「佐藤春樹です」
春樹は、金沢のひんやりとした手を握った。晶よりやや身長の低い金沢は、これと言った特徴のない白い顔で、春樹に笑いかけた。
「で、この佐藤が手伝ってくれるの?」
「そう」
「え?」
金沢の言葉に晶がうなずく。春樹は二人の会話の意図がわからず、すっとんきょうな声をあげた。
「まあ、座れ」
晶が春樹に促す。春樹は金沢と晶と輪になる形で座った。
「金沢は、演劇部所属。今度のゴールデンウィーク、文化祭があるの、知ってるよね」
「はい」
「演劇部も舞台やるんだ。「奇跡の人」。知ってる?」
「いえ、しりません」
「これだから若いもんは」
晶は二年しか違わないのに年寄りのようなしわがれた声を出して、首をぶるぶるとわざとらしく振った。
「金沢くん、説明してあげて」
「1890年頃のアメリカ。熱病によってしゃべれない、聞こえない、見えないと言う障害を負ってしまったヘレン・ケラーと、その家庭教師、サリバン先生の愛と苦闘の物語だよ」
「高校演劇では、スタンダードな演目だし、商業演劇でも、女優同士が迫真の演技でぶつかり合う! って、話題にしやすいんだろうね、何度も上演してる。こないだもやってた」
金沢と晶のペースに、春樹はまったくついていけなかった。
「はあ」
「春樹は帰宅部でしょ、手伝ってよ」
「え? オレがですか、ちょっと意味がわかりません」
「時間がない、人手がない、帰宅部の春樹がそこにいた。それだけ」
「ええ……まじですか……」
うへえ、と春樹は顔をしかめた。晶はそんな春樹の背を、ちゃかすように叩いていった。
「先輩命令だ」
「オレは何を手伝えばいいんですか」
「いろいろ仕事はあるから、心配しないで」
放課後、春樹は晶と金沢に、なかば強制的に演劇部の部室へ連れて行かれることになった。
「おはようございます」
謎の挨拶をして金沢と晶が部室に入ると、きゃあっと黄色い悲鳴があがった。
春樹は珍しくびっくりして、目と口を大きく開けた。
「おはよう! 金沢、石井、その子、どうしたの?」
「おはよう! 一年? 一年の男子?」
「石井の後輩を無理矢理連れてきた」
金沢が冷静に説明した。
「夕方なのに、なんで「おはよう」なんですか」
「よく知らないけど、歌舞伎業界からはじまったみたいね」
きゃあきゃあと言う声で、春樹は頭が痛くなりそうだった。部室には、十数人ほどの女子生徒たちがひしめいている。気がつくと、春樹は演劇部員たちに袖や腕を引っ張られていた。
「この子、知ってる! すっごく目立つ一年だ! 背が高くって、かっこよくって、入学式の時、うわさになってなかった?」
「なってた!」
「え、この子なの? ほんと、イケメンだ!」
「ちょっと、そこ、静かにする。……春樹、説明すると部員は金沢以外、全員女子。俺は手伝いだけしてる」晶はそう言うと、春樹をぐっと前に押し出した。
「佐藤春樹くん、一年D組。手伝いをしてくれます。よろしく」
「佐藤です。よろしくお願いします」
春樹が挨拶をすると、部長らしき女生徒が
「こんなイケメンが入ってくれるんだったら、ヘレンのお兄さん役やってもらうんだったのに!」
と、叫んだが「そんなの、オレ、絶対に無理です!」と、春樹が慌てふためき、晶がげらげらと笑った。
ゴールデンウィークまでは時間がなかったので、その日から春樹は演劇部で、金沢や晶にまじり、大道具や小道具を作ることになった。
金沢や晶はクライマックスに使われるポンプ式の井戸作りに取りかかっていた。
春樹も女の子たちに囲まれて、ボンドを使ってフリルを付けている。
「佐藤くん、もうちょっとクシュクシュって感じにして」
「くしゅくしゅですか」
「そうそう、そんな感じ。うまいじゃん」
そういえば、と春樹は気がつく。
帰宅部だったために、授業が終わればすぐに家路についていたが、放課後は日中と違う活気に溢れていた。グラウンドからは、野球部のかけ声や吹奏楽部のプアーンと言う音が響いてくる。中学時代には、こんな喧噪の中にいたはずだが、すっかりと忘れていた。そんなことどうでも良かったのだ。
小学生時代の春樹は体が小さかった。近所の子供の中でも、「ちび」「ちびはる」と言われていた。早起きし、そんな小さな体を左右に揺さぶって、サッカーの練習に通った。買ってもらったチームの練習着は、ぶかぶかのままだった。それでもボールと戯れるのは楽しかったし、そのまま、サッカーをしていられたらよかった。年齢を経るにつれ、身長もぐんぐんと伸びたが、サッカーがただ、ただ、楽しいことは変わらなかった。そんなこともすっかり忘れていたのだ。
「あの……金沢先輩ってどうして演劇部に入ってるんですか」
演出を担当する金沢は晶のように積極的に距離は詰めてくれないので、最初は戸惑った。しかし、勇気を出して春樹は自ら話を振ってみた。
「もともと俺、オペラ好きなんだ」
「オペラ」
春樹は同年代の口からその言葉を聞くのは、初めてだった。
「そう。母の趣味でね。オペラ好きなんていやしないっていわれるけどね」
「はあ」
「人間の肉体って、楽器になるんだよ。そういうのが面白かったから」
「はあ……えっと、それで晶、石井先輩とは、どうやって知り合ったんですか」
あれ、自分でも珍しく人の話をしている、と春樹はちらっと晶の顔を思い浮かべた。
「あいつも俺も本が好きでさ。もともとは一年の時、図書委員同士で知り合ったんだ」
春樹は晶の一年生の時を想像しようとしたが、うまく思い浮かばない。もともと空想力や想像力は欠如している。
「あいつも舞台とか映画好きでしょ」
「そうなんですか」
初耳だった。晶の意外な一面を見たようでもあるし、彼らしくもあった。
「そう。それに晶は誰とでも仲良くできるからね。俺みたいな変わったのともうまくやれるの。……まあ、それもどうかと思う時もあるけど、いいやつ。佐藤君は本を読む?」
「あんまり」
「平山夢明の「デブを捨てに」いいよ」
「デブを、すてに」
「パンチあるタイトルだろ。図書室にあるから、読んでみてよ」
春樹は、はい、と言いながら、その本を読むことはないだろうと黙っていた。
10/23
ゴールデンウィークに向かって、どんどん日は過ぎていく。
春樹は元来の優れた学習能力で照明を任せてもいいくらいにまで慣れてきた。
ある日、晶は部員が話していることを小耳に挟んだ。
「はるちゃんってすごくいい子だけど、ちょっと言葉が足りないって言うか、誤解されやすいタイプかもね」
「ああ。ちゃんと仕事やってくれてるのに、こないだも自分がやったことでも、私が「はるちゃんがやってくれたの?」って聞くまで「自分がやった」って言わないのよ」
「私、思うんだけど、はるちゃんってあんまり人に興味がないのかも」
晶も春樹から受ける人への関心の薄さをずっと感じていた。一見すると、つっけんどんに見える。もともと無愛想なのもあるだろう。晶やフットサルの面々には、体育会系の上下関係に従っているようなところもある。だから晶に言われて演劇部の手伝いなどをしているのだ。しかし、ただ、周りを見ていないだけなのだろう。
晶はそんな春樹の生き方を好ましく感じていた。どうしても人を観察してしまいたがる自分とは真逆の人間だ。そして孤高で誰とも馴れ合わない。いや、そんなことにも、気も付いていないのだろう。
フットサルの練習に文化祭の用意にで、春樹も晶も忙しかった。それでも藤田にI駅まで送ってもらい、時折、晶は進学塾に寄る前に春樹と軽く話した。ある日のことだった。
「オレ、変ですか」
「え、ええと、どういうことだろ」
春樹は、晶を凝視してくる。
突然の言葉に晶は驚いた。春樹の顔はとても小さく、整っていた。真っ黒な瞳は光を映していない。その分迫力があり、晶はけおされたがそのまま口を開く。
「俺でよかったら、話、聞くけど」
「先輩も見ましたよね。オレ、県選抜に選ばれたんです。ただ、その時のチームの連中から、ガン無視くらって……」
春樹の口調は、まるで他人事のようだった。
「「お前とはやりたくない」って、はっきり言われました。あと、「お前はアンドロイドみたいだ」って。どういう意味なんでしょうね」
「……」
仲間からアンドロイドみたいだと言われて、その意味が分かっていない。晶は少しだけ、そのチームメイトに同情した。しかし、にこっと、いつもの笑顔を春樹に向けた。
「そうだったんだ。でも、県選抜でいいところまでいったよね、確か、最終的には全国ベスト八とかじゃなかった?」
「うまくとりなしてくれるやつがいたんで。でも、正直言うとオレ、そのあと、サッカーとか、どうでもよくなりました」
「そうなんだ……」
「「なんで続けないんだ」「ほかにもサッカーが強い高校あるだろ」「おかしい」って言われたんですけど、オレはどうでもよくなって。だから星が浦に進学決めました。星が浦、楽しそうだったし、その時のオレの成績でも入れる枠あったし」
「確かに、ちょっとおかしいかもしれないけど、それが春樹らしさなのかもね……」
「やっぱり、そうですよね。でも、おかしくてもいいかなって。そんなふうに言われたことも、今の今まで忘れてました」
「普通、忘れる?」
晶は眼鏡のブリッジをくい、と中指であげた。変わっている、とは確かに感じていたが、ここまでとは。
「そうですよね、オレ、そういうところあるみたいなんですよね。……ガン無視くらった時も「じゃあ仕方ないか」って、帰り支度してたとこ、チームメイトのひとりが止めてくれたんです」
「……まあ、それが春樹らしさなのかもね」
「そうなんです。そういう人間らしいんですよ、オレ」
自分のことなのに他人のように語る春樹に、晶も口をつぐむしかなかった。
文化祭が始まると、多忙を極めた。フットサルはさすがに休ませてもらっている。大会が始まるのは六月からだからだ。
雑用、大道具の組み立て、小道具の運搬など、春樹の演劇部での負担も増えてくる。
何度も練習が繰り返されるなか、春樹も夜中までかかって照明の操作を覚えた。
演劇部の出展は、文化祭の二日目だった。
実在のヘレン・ケラーは家庭教師のサリバンによって、言葉を知っていき、そして「水」という概念を獲得する。そこに至るまでにはヘレンの過保護な両親、冷静に物事を見つめ、ヘレンに文字の獲得は無理だとする兄の存在に対して、サリバンはヘレンの知性を信じ、甘やかされてきたヘレンの教育に没頭する。
へレンとサリバン先生を演じる二人は、学生とは思えないくらい本気でぶつかり合った。その熱意は観客にも伝わっていた。
ラストシーンではあちらこちらから、すすり泣きが聞こえてきた。最後のカーテンコールではたくさんの拍手が起こった。
10.27
五月 初旬
軽い打ち上げの後、晶と春樹は坂の上の学校からゆっくりと駅へ向かっていった。
「メシ、くっていこうか」
晶は春樹をファミレスに誘った。春樹はまだ、文化祭の余韻に浸っていた。祭りのあとの感覚は、久しぶりに春樹を満ち足りた気分にさせた。
「春樹って本とか読む?」
金沢と同じことを聞かれた。
「いえ、あんまり」
「あのさ、ちょっと文章かいてみない?」
「どういうことですか?」
「えっと、本を読んで感想書く、「読書ノート」つけてみない? それ、俺と交互にやろう」
「男ふたりで、ですか……LINEじゃ駄目なんですか」
「本、苦手?」
「ほとんど読んだことないです」
コーラを飲みながら、また、本の話か、と少しうんざりした。
「えっとさ、俺、脚本、勉強してるんだ」
「はあ」
春樹は晶の話がつながらなくて、混乱する。
「今ね、シナリオ教室の通信制を受講してるんだ。高校二年の時、夏休みに東京行って、スクーリングしてきたんだ。みんなで同じ題を使って、時間区切って、鉛筆でごりごり書いたり、脚本家や映画監督のはなし聞いたり。そしたら、自分がいいたいことや書きたいこと以外に、別のものが見えてきたんだ」
「すいません、はなしが見えてきません」
春樹は戸惑う。
「ええっとそれほど大げさなものじゃなくても、春樹もやってみるといいなって」
「どうしてですか」
「それは秘密」
春樹にとってサッカーがどうでもよくなったことも、周りに対して自分を理解してもらうことを放棄していることも、どうでもいい。
晶はそう納得している。しかし、自分自身が「書く」ことで、気がついたことがあった。それを春樹にも共有して欲しいと、なかば、押しつけたい気持ちがあった。春樹の中にある感情の萌芽があるなら、光を当てたかった。何より春樹が変化するのを見たかった。
それは晶自身、物書きのはしくれとして春樹の変容を知りたかったからだ。
「うーん……」
「俺自身の体験を、春樹にもなんとなくでいいから、分かって欲しい。書くことで、春樹がどんなふうに変わるのか、見たい。脚本の勉強にもなるだろうし。そこは、ちょっと俺にだまされたと思って」
ぱん、と手を合わせて、晶は春樹に頭をさげた。
「はあ……じゃあ、だまされたと思ってやってみます」
すねたような春樹の言葉に晶はひひひ、と笑った。
「とりあえず、紙でやってみよ。これ、うちの妹、藍がおすすめしてくれたノート」
と言って、大きな猫のおなかに三行だけ罫線が引かれた、大きなメモパッドを出してきた。
「……これにですか」
手渡されたノートを見ながら、春樹は戸惑った。子どもっぽすぎるし、猫がでかい。
「あと、これ、よかったら」
晶は一冊の文庫本と、ブルーレイのジャケットを取り出した。
「「かもめのジョナサン【完成版】」……「スラムドッグ$ミリオネア」ですか」
「俺、どっちも好きなんだ。よかったら、感想教えて。それをまず、書いてきて」
晶は、ストローでジュースを吸い上げた。
「オレ、ほんとに何を書けばいいのか、わからないです」
「それでいいよ。わからないなら、わからないって書いて」
春樹はどうして晶がこんなに自分を構ってくれるのか、解せなかった。
だが「先輩」と言うものと仲良くできるのは春樹にとって関心があったし、晶といる時間は心地よい。
★10・27
五月下旬
フットサルにもなれて、試合が組まれると聞いた頃だった。
晶は藤田になついているように見える。それが自分とはあまり関係はないように思えたが、少し腹のあたりがなぜかざらっとした。
それ以上に、春樹は四苦八苦していた。これまで本なんて、読書感想文のために読むくらいだったし、しかもあらすじを書き連ねて提出するのが、おちだったから。晶が「俺の脚本の勉強になるかも」と言ったけれど、足を引っ張るばかりだろう。
晶から渡された本も、ペラペラとページを繰る程度だった。
「ジョナサンの飛ぶ姿がきれいだと思いました」
それだけしか書けなかった。それでも思い切って文庫を読み始めると、ジョナサン・リヴィングストンというかもめが限界に向かって飛ぶ場面には心が騒いだ。
春樹と晶は昼休みやフットサルの練習の時にノートを交換した。
「本とブルーレイ、押しつけてごめんな」
「いえ……」
「無理しなくていいよ。困ったでしょ」
「最初は、ちょっと。でも、なんか、嬉しかったです」
「……そうなの?」
「先輩や周りの人間と仲良くできたこと、ないですから」
その言葉を晶はあえて無視した。
「そうかそうか。そういうのも、気楽に書いてよ。一日ごとに交換しなくてもいいから」
晶はにこにこしながら、猫のメモパッドを受け取った。晶が笑ってくれることが、春樹には嬉しかった。
春樹は晶と話がしたかった。晶が自分に構ってくれると体がふんわり浮いたような気分がする。晶がほかの人に向かって笑うと、みぞおちがいたい。
春樹は晶との時間をもっと作りたくてブルーレイも見た。
「スラムドッグ$ミリオネア」は、晶の説明によると2008年制作、イギリスのダニー・ボイル監督の作品。インドのストリートチルドレン、ジャマールが様々な苦難を乗り越え、その経験を知識、糧にしてクイズ番組「クイズ$ミリオネア」を勝ち進む。
スピード感あるドラマ展開に「ついていけない」と思いながらも、ジャマールが兄やヒロインのラティカと別れたあたりから、目を離せなくなっていった。
ジャマールと自分とが何故だか重なった。
物語というもの、言葉というものについて、春樹は考えたことがなかった。
映画も見なければ、小説も漫画も読まない、ゲームもしない。春樹は携帯を見ることすら、ほとんどなかった。たまに海外サッカーを見る程度だ。今までは、それでよかったのだ。
衣替えが終わった六月初旬。風が爽やかに吹き、校庭にある木々を揺らしていた。
春樹は昼休み、晶との「読書ノート」に向かっていた。
何を書こうか。
放課後、図書館にいた晶を見つけて、ファンシーなメモパッドを渡そうとしたが、晶がぶ厚めのノートにぶちぶち言いながら書き付けていたので、そのまま帰ったことがある。晶は何に夢中になったのだろう? そして文字を書く、物語を作ると言うことはどういう意味を持ち、楽しさを与えてくれるのだろう?
晶の熱中する姿から、関心がわいてきたのは事実だ。
晶はやや丸みを帯びた字で、見た映画、読んだ本、些細な日常を読みやすく綴っていた。
「どうしたら、こんなふうに書けるんだろ」
春樹はおでこで、シャーペンのヘッドをノックする。
「なにしてんの! 春樹!」
鈴のように高い声が背後からした途端、春樹は強い衝撃を首に受けた。
「ぐえっ」
春樹の幼なじみ、村野えりが春樹をヘッドロックしていた。
「なにすんだ」
ごほごほと春樹は咳き込むと、えりの腕を振りほどく。
紺色の襟のセーラー服を着た、小柄なえりの肌は雪のように白く、しみひとつない。そして、くるりと巻いたまつげに縁取られた瞳が、春樹を覗き込んできた。
「何度声をかけても、反応しない春樹が悪い」
えりはそういうと、春樹の前の席の椅子にすらっと長く、小さな膝を持つ足を折りたたんで座った。
「何してるの?」
「お前には関係ないよ」
「なんなの、その態度」
ムッとしたえりは春樹のおでこに指を丸めて、でこぴんをした。幼いころから同い年の春樹はえりにいつもでこぴんをされ、いじられていた。
「いって」
春樹は思わず、おでこを手で覆う。
「ねえ、いつものバーベキュー、今度の休みにやるけど、来るよね」
えりと春樹の家族を含む近隣の数軒ほどは、古くからの付き合いがあった。ときおり山や海へもキャンプに行き、毎年六月あたりに近くの河原でバーベキューをやるのが、恒例の行事だ。
「今年はちょっと無理」
「なんでよ」
「色々あんだよ」
「色々って何よ」
「フットサルとか、色々だよ」
「教えてくれてもいいじゃない」
食い下がるえりを、春樹はうっとうしく感じた。
「教える理由なんか、ない」
「なによ、その言い方」
えりは口を尖らせて、春樹の頭を軽くたたいた。
「……フットサル、おもしろいの?」
えりは急に声のトーンを落とした。
「まあまあ、かな」
「そう」
「うちの学校にもメンバーいるよ。三年の石井先輩」
「そういえば、演劇部にも出入りしてるんでしょ。演劇部に入ったの?」
「そういうわけじゃない。ただの手伝い。石井先輩に誘われたから」
「石井先輩って……どんな人?」
「うんと……。眼鏡かけてて、……オレよりちょっと身長が低い。三年A組だから、進学クラスだよ」
「ふうん。……石井先輩とは仲いいんだ」
「それほどでもない」
そう言いながら、「石井先輩」と口にする時、あまり表情を変えないとえりが春樹を見ているのを、春樹はさとって、顔色を戻す。
「そうなの」
「そう」
「じゃあね! お肉食べられなくて残念でした!」
えりは大股でどしどし歩いて春樹の教室を出た。
「なによ、石井先輩、石井先輩って」
「読書ノート」の交換はゆっくり続いた。自分から提案しておきながら、晶は「続いているなあ」と驚いていた。春樹が予想していた以上に「書くこと」に執着したのだ。
自分が何を思っているのか、何を求めるのか、そんなことは今までどうでもよかった。
だが、猫の腹の白い三行ほどの罫線が、春樹に「どう感じるか」を、突きつけてきた。
苦しかったが充実していた。十本ダッシュを繰り返して、息が上がった感覚を思い出す。それが心地よかった。
そして「晶」という読み手がいると思えば、背中がそわっとした。
★10/30
晶にノートを渡す、と言う名目で三年生の階に向かった。一年生が三年生のクラスに行くのは、勇気がいる。いくら人の気持ちを考えない春樹であっても、見知らぬ他人、年長者からは圧迫感を抱く。
晶のクラスをちらちらと覗くが、どうやら晶はいない。すると、金沢が春樹に気が付いて、寄ってきてくれた。
「晶に用事?」
「あ、はい、これを渡したくて」
「ああ、「読書ノート」ね。預かっておくよ。「かもめのジョナサン」いいだろ? あのジョナサン・リヴィングストンの魂の物語だと俺は思うよ」
「はあ……」
金沢は、晶から「読書ノート」について聞いているらしい。どこか、二人きりの秘密をばらされた気がして、春樹はごり、としたものを喉に感じた。
「あのさ、あいつ、佐藤君にあれこれ押しつけてない?」
金沢が上目遣いで、ゆっくりと言葉を選びながら話しかける。
「いえ、そんなことはないです。むしろ、オレが迷惑かけていると思います」
「……そうなのかな。まあ、それならいいんだけど」
「……どういう意味でしょうか」
「ううん。ちょっと晶は……えっと、そうだな、お節介過ぎるところがあるからね。あと、人にあれこれコミットし過ぎの観察好き。そういうのがよく働くのは、時と場合によるから」
あれこれ押しつける。お節介。コミット。観察好き。時と場合。春樹には金沢の持って回った言い方からは何がいいたいか、理解できなかった。
「あいつは君のお母さんじゃないからねえ」
「オレには、母はひとりです」
何を言えばいいのかわからず、春樹はそういうしかなかった。
「……はは。佐藤君らしいや。ごめん、今のは忘れてくれ。これ、ちゃんと責任持って渡しとくから」
金沢は白い特徴のない顔で笑った。少し不気味だった。
春樹と晶はフットサルがない時でも、時々帰り道を共にした。単純に家の方向が一緒ということもあったが、「読書ノート」の交換で会うことも多くなった。
「なんでオレに「スラムドッグ$ミリオネア」を貸してくれたんですか」
春樹は思い切って晶に聞いてみた。
「俺、イギリスの舞台、見るの好きでさ。「ナショナル・シアター・ライブ」って言う、イギリスの舞台を収録したのを日本の映画館で上映してくれるプロジェクトがあるの。それで「スラムドッグ$ミリオネア」の、ダニー・ボイル監督が舞台演出した「フランケンシュタイン」を見てさ。それが、すっごくよかったんだよ。それからダニー・ボイルを追いかけるようになったんだ」
「そうなんですね」
熱く語る晶の言葉の内容すべてを春樹は理解できなかった。だが「スラムドッグ$ミリオネア」の監督なら、さぞかし疾走感溢れる舞台を作ったのだろう。
「2012年のロンドンオリンピックの開会式も、ダニー・ボイルが総合演出したんだ。あとでLINEでURL送るから、暇な時、見てよ」
やや高揚し、一気にまくし立てる晶の姿を春樹は初めて見た。
「……晶先輩は、イギリスにいくんですか?」
「え?」
「それだけ好きなら、本場のイギリスの舞台で戦いたいのかなって」
春樹の言葉の強さと、唐突さに晶はきゅっと背筋を伸ばした。
「そこまで考えてなかったけど……そうだな、やっぱりいつかは行きたいなあ。……俺、舞台や表現の仕事、したいんだよね。大学もそっちのほうに進みたい」
「へえ……すごいですね」
晶が優秀なのは、「読書ノート」からも推測された。晶はたった二、三行の文章でも的確な描写をした。春樹にもわかりやすい言葉を選んでくれているのが、伝わってきた。そういえば、と春樹は思い当たった。晶のかばんのなかから、ちらっと見える参考書はとても難しそうだった。
国語の赤点が当たり前の春樹には、晶という世界はまったく違ったものだった。だから、手を伸ばしたくなったのかもしれない。
晶の妹、藍がくれたメモパッドの猫の腹は、大きさこそは変わらなかったが、白い部分は次第に減っていった。
晶についても、次第に知識が増えていった。兄は望、妹は藍、あと、犬のぽんちゃんがいること。晶は母親似だと言うこと。中学時代までは眼鏡をかけていなかったこと。豚骨ラーメンが好きで、固ゆで卵が嫌いなこと。
それらはまるで降り積もっていく雪のようにまっさらで、春樹にとってはきれいなものだった。
六月中旬
フットサルは地域戦のリーグがスタートした。春樹という新戦力はほかのチームにも脅威として映っているようだった。
そのためか、相手チームからのあたりは強い。しかし、そのぶつかり合いが、春樹には面白かった。がつがつしているところがいい。自分の性に合っている。春樹は確かに対人面ではアンドロイドだったが、その体の中には野蛮さを飼っていた。それが、フットサルをしている時は発露され、解放された気になり、とても気持ちがいい 。
それに、晶とパスがうまく通ると信頼しあっている、そんな気分になれた。それは春樹の喜びと興奮につながった。それで勝てるともっと楽しかった。
春樹は毎日、晶のことばかりを考えていた。晶から送ってもらったロンドンオリンピックの開会式の動画も何度も見た。女王陛下が007とスカイダイビングするところでは思わず笑ってしまった。
ただ、試合となると、晶の別の一面が見えることもあった。
その日の試合はやや荒れ気味だった。やたらとコンタクトが多く、ぶつかり合い、削り合ってしまい、双方が熱くなっていた。
相手も春樹が戦力として有望と悟ったせいか、やたらと当たってくる。東の判断で交代枠を使い、晶が春樹の代わりに入った。
「春樹、おつかれ。あとは任せろ」
小声で「仇はとってやるから」と言うと、晶はボールを積極的に取りに行く。それほど身長が高くない晶だが、足技には定評があった。
「あーあ、晶の「悪いクセ」が出たよ」
同じく外から試合を見ていた村瀬が、ぺたっと床に座って、汗を拭く春樹のそばでためいきをついた。
「悪いクセ?」
「そう。あいつ、見た目以上にずるいし、試合ではキレやすいぜ」
晶は相手チームのあたりの強いうちのひとりにぶつかるふりをしたかと思えば、さっとかわしてボールをパスしてしまう。頭に血が上った相手をわざわざ煽っているのがわかった。審判が見ていないところで相手を手でさっと押しのけたり、小馬鹿にするような態度を取ってみたり。しかし、審判が晶のほうをむくと、知らん顔をしてみせる。
ついに晶に苛ついた相手が、どしん、と胸からぶつかった。観客やプレイヤーから、驚きの声や悲鳴、ペナルティを求める声が一斉にあがる。
おっと手を広げて、わざと晶は倒れ込む。すべてが明らかにわざとらしかった。しかし、相手チームがペナルティを取られてしまう。審判の吹くホイッスルの音が、体育館内に響き渡った。
「え?」
春樹は目の前で起こっていることが、信じられなかった。
にやっと笑って立ち上がった晶をチームの面々がやれやれといったていで背を叩いて、しかたないなと言う顔をしていた。
藤田が晶の頭をくしゃっとすると、へへと笑う。ちょっとだけ藤田がお小言を言っているようだ。あんまりやり過ぎるな、と口もとが動いた。
顔色一つ変えず、東がさっとボールをとってペナルティエリアへ向かう。そのまま、東が颯爽とペナルティキックを決めた。
「華奢で童顔でいい人そうじゃん、晶って。でも、それを逆手にとることもできるから、したたかだよな。しかもあいつ、よくバトるんだよ。試合では」
春樹の中で「晶」と言う人間に別の属性が加わった。
ノンフレームの眼鏡をとったはしばみの瞳が光によって色を変えて、きれい。肌の色が薄く、血の色が透けて見えそうで、きれい。ペールグリーンのような輪郭が、きれい。フットサルの時に見せる足の筋肉の動きが、きれい。
だけれど、意地悪でずるいところもある。そこに春樹はぐっと気持ちを持って行かれた。
晶のことをもっと知りたかった。一年生や二年生の時、中学の時はどんな学生だったのだろう。晶の見ている世界を知りたい。
だから、「読書ノート」に書いた。
「晶先輩と、これまでとは違うことをやってみたいです」
晶は、春樹との「読書ノート」の交換を喜びに感じていた。「コミュモン」の晶は、春樹の文章が次第に変わっているのを目で追っていった。春樹は、「変だ」と言われても、それさえどうでもいいと忘れる人間だ。なにも考えていないのだろう。もしかすると春樹にとって、この「読書ノート」は何の役にも立たないかもしれない。
晶は生来、お節介だ。それに人のこころの隙間に、すっと入っていく力を持っている。一部では「コミュ力モンスター」扱いされているほどだ。「コミュモン」と揶揄され、携帯を向けられ「コミュモン、ゲットだぜ!」そんな遊びが晶のまわりで流行っていた。晶のそのコミュニケーション能力の高さは知らない女の子から「私のこと、もてあそんだよね!」「いい気分にさせといて、ひどい」と、いきなり駅で言われるくらいのものだった。
晶にはいつも使う表情筋がある。それを使った笑顔で人に拒絶されたことはない。
誰にでも優しくする。いつもお得意の表情筋を使って、にこにことした笑顔を向ける。お節介を焼く。それが晶という人間を成す要素だった。
晶は自分が関わることで、人が変容していくのを見るのが好きだった。演劇部に関しても自分が脚本を書いたり、部員や友達の金沢も助けたりしたかった。自分が働きかけることで演劇部の面々が楽しそうにしているのが嬉しかった。自分が行動すると人は思わぬ顔をしたり、予想だにしない行動をとったりする。「あなたは、私の気持ちをもてあそんだ!」と、駅で急に知らない女の子から言われたとしても。
びっくりして「お前の彼女?」と金沢に言われたが「……知らない」と言ってしまい、その女の子が号泣するなんてことが幾度かあったのだ。
晶は自分のパーソナルスペースが狭かったり、変に期待を持たせたりするところがある、と経験から学んだ。気をつけなければと思いつつ、どこかでぼんやりとしか自分の力を晶は把握していなかった。
晶は自分が人に関わって波紋のように人を見つめるところもあった。ものを書くとき、この人の言っていることが使えないか、このシチュエーションはうまく反映できないかと見てしまう。ただ、そういった人たちはどこかで愛おしかった。
春樹に関してもそうだ。
出会った当初の春樹は、まさにアンドロイドのようだった。大きな体を張り、鈍感で誰も気にしていなかったし、誰も見ていなかった。
その春樹が、晶に「違ったことをしてみたい」とまで、言ってくれる。晶はそんなふうに、春樹が自分によって変わっていく過程を見られることをかけがえがない瞬間として捉えて、心の引き出しに入れる。
それは自分の心の奥にいる人に対しても、だ。ただ、一番はあの人だ。
晶は早々に、LINEで春樹にメッセージを送った。
「映画、見に行かない?」
すぐに既読がついた。
六月 下旬
一学期、期末テスト期間前の六月末の休みに、晶と春樹は映画館に出かけた。
地下鉄を上がって洋館のたたずまいが並ぶ道を歩くと、局面型のエントランスに立派な円柱が立つホールがある。その地下に、小さな映画館が隠れ家のように存在していた。二人が見たのは、口コミで評判になった映画だった。
「すっごく面白いんだって」
春樹は映画にも翻弄されたが、横に座った晶の声やちょっとした動き、息づかい、反応が気になってしかたがなかった。
映画のあと、二人は遅めの昼ご飯をとった。おしゃれな街やカフェを通り抜け、場末の中華料理屋に入る。
「ここ、案外いけるんだよね」
晶はそう言って、床が油で滑りそうな店へ滑り込んだ。
「面白かった! 春樹はどうだった?」
晶は担々冷麺、春樹は普通の冷麺を頼んだ。
「ちょっと、意味が掴めないとこもありましたけど、おもしろかったです。と言うか、あれはそもそも、どういうジャンルの映画なんですか」
「え? まずそこから? あれはシチュエーションコメディだよね」
ぺらぺらと興奮してはなしだす晶の頬はいつも以上に紅潮していて、その虹彩のきれいな瞳もぱっと見開かれている。
「晶先輩はほんとに、なんでも知ってますね」
春樹は憧れの眼差しで晶を見た。晶は春樹にとって自分の周りにいなかった人間だった。何を言っているのか分からないけれど、晶を突き動かす物語にひかれた。
「うーん、でも映画とか舞台とか、本格的に見ている人や、やろうと思っている人とは見ている数や努力は、足りてないんだよね……」
注文していたものが来たので、二人は食べることに没頭した。
「ここの冷麺、うまいだろ」
「はい」
「貢さんに教えてもらったんだ。会社でもちょっとした名店扱いされてるって」
「貢さん……藤田さんですか」
「うん」
「貢さんって、アメリカに留学してたんだって。一年間。自動車でアメリカ大陸横断したって。すごくない?」
「そうなんですか」
晶の口から藤田の名前が出てくると、春樹は腹の奥にずしんと重たいものがやってくる。消化しきれない不安。気持ち悪さ。そういったものがくる。今まで感じたことのないどす黒いタールのようなもの。
晶は藤田のことを話す時、とても嬉しそうだ。頬が紅潮して幸せそうだ。
幸せってどういうことなのか、よく分からない。でも、フットサルで晶とパスが通るとぞくぞくする。高揚する。ところが藤田の話が晶の口から出ると、そのパスを藤田にとられたような気がするのだ。
だからだろうか、つい、要らないことを言ってしまった。
「あの……受験生なのに、フットサルやってていいんですか」
春樹の問いかけに、晶ははっとした顔をした。
「そうだね……。でもフットサル、気晴らしになるんだ。ほら、俺、外面はいいでしょ。フットサルだと、キレること、できるの」
「キレることが、できる」
「俺、人前で喧嘩したことないし……人との喧嘩の仕方がわからなくて、ググったことあるんだ」
「そういうもんなんですか」
「人に関心はあるけど、ぶつかるのは怖い。ちょっと引いてるとこある。……春樹も喧嘩したことないだろ」
「……そうですね。そこまで深い付き合いってなかったと思います。どうでもよくなってしまって」
「そっか」
晶ははは、と軽く笑ってのけた。それが春樹を救った。自分が人に関心がなく、それが恐らく世間一般にはおかしなことだろう、と気が付いていたからだ。
晶は晶で春樹が戸惑いながらはなすのを、お酢を飲んだような気持ちで見つめていた。
彼は彼で一生懸命に自分のことをはなす。そして、自分がどうやらおかしいと言うことにも気が付いている。
だが晶は春樹が「おかしい」とは思いたくなかった。世間で言う「普通」とはずれているだけなのだ。それを駄目なものとして、春樹自身に思って欲しくなかった。
そして晶は妹に感じるような愛おしさと、どことなくいたいけさを春樹に抱いた。
「あの、すごくバカなこと、聞いちゃってすみませんでした」
「なんで? 俺はそう思ってないよ」
「すみません……」
春樹の言葉は晶を追い詰めもした。晶がフットサルを続けるのにはほかの理由もあったからだ。晶はそれが不純だと感じていた。フットサルというスポーツに対する侮辱。そんな気がして誰にも言えないでいた。それらを春樹に悟られたかとおびえた。
「あー、せっかくの冷麺だったのに、写真撮るの忘れた!」
晶は黙り込む春樹を前に、わざとらしく声をあげた。
「写真、ですか?」
「うん、時々、食べたものとか映して、インスタやツイッターにアップしてるの。春樹、こっち向いて」
「え?」
晶から携帯のカメラを向けられて、春樹は思わず、手で顔を遮ってしまう。
「あー、変なのが撮れた」
晶は携帯を春樹に向けると、春樹の平らな手がひゅっと残影を残す写真を見せた。
「お前、ツイッターとかインスタやらないの」
「やってないです」
「ふーん」
まあ、そうだろうなと、晶は春樹の携帯を取り上げると、さくさくと作業をする。
「はい。これ」
晶は春樹に携帯を返した。
「なんですか?」
水を飲みながら、晶は春樹の顔に自分の顔を寄せた。春樹はびくっとしてしまう。
「勝手に春樹のアカウントつくっちゃった。相互フォローは今のとこ、俺ひとりだけど」
「はあ」
「はい、こっち向いて」
と、晶は春樹の写真をさっと撮ってしまう。
「なにしてるんですか」
慌てる春樹を無視して、晶は携帯をいじっている。
「ほい」
晶は携帯を、春樹のほうに向けた。
そこには驚いた顔をする春樹と、「後輩と冷麺」と言う文字が並んでいた。
その後、ボーリングを軽く楽しんで二人は別れた。
帰宅し、シャワーを浴びて、春樹はテレビを点ける。海外サッカーの放映時間が近づいていた。
独立型二世帯住宅なので祖父母の部屋は一階にあり、二階に両親の部屋、三階に春樹の部屋があった。
クーラーを入れた冷えた部屋で、春樹はソファにすらっとした足を放り出した。自分の携帯のツイッターアプリを開いて、相互フォローしている晶のツイートを見る。
春樹は「後輩」と言う二文字に、胸をどんと突かれた。
晶は中華料理屋から、春樹とボーリング楽しむ写真や、帰宅時に撮ったのだろう、夕焼けなどをアップしていた。晶がわざわざインスタのアプリも入れてくれ、アカウントも作ってくれていた。そちらも確認してみた。
晶のアカウントには今日の映画のことや、中華料理の写真がアップされていた。自分の顔や姿が、「晶」という人間を通して、携帯から見えることが春樹は不可思議な気さえした。
「先輩からオレはこんなふうに見えているのかな……」
前期の期末テストが終わり、夏休みに入る直前。学校全体が浮かれた空気に包まれていた。
春樹は赤点が多く、補習続きだった。
「ギリシア神話では、ゼピュロス神が西風を司るんだ」「西風は春の到来を意味する」そう言って、歴史の先生はボッティチェリの「プリマベーラ」と「ヴィーナスの誕生」の絵はがきを見せてくれた。
歴史はいつも赤点、もしくは赤点ぎりぎりだったが、先生が語るうんちくが春樹は好きだった。
晶は夏期講習がすでにスタートし、塾に通い詰めるようになったため、フットサルに顔を出すことが少なくなった。
とはいえ、気晴らしにと時々顔を出して、体を動かしている。
春樹は最寄りのM駅にあるショッピングセンターの魚屋で、調理のバイトを始めた。適度に涼しく、親の知り合いの店というのもありがたかったし、晶の塾に近いのもバイトとして選んだ理由だった。
七月 下旬
その日は地元駅のショッピングセンターにお盆の屋台が出ると聞いて、春樹と晶は出かけることにした。
塾の帰り、バイトあがりで、二人は適当なTシャツとハーフパンツで、屋台を冷やかしていた。
「あの、はるちゃん?」
おどおどとした声が、背後から聞こえてくる。
まだ少年っぽさを残した三人連れが、立っていた。
「……はるちゃん、俺らだよ。T中のサッカー部の田中と、池田」
「……あと道上……覚えてる?」
「ああ、そうだっけ。うん、久しぶり……えーっと、元気?」
「うん。……はるちゃん、この人、先輩?」
さばさばした言動をとる春樹に対して、目の前の三人は視線をそらしたり、言葉に詰まったりしていた。
「うん。こっちは高校の先輩。先輩も俺もフットサルやってる」
三人は初めまして、と体育会系らしく、声をあげて晶に挨拶する。
そのうちの一人が、やや、言いにくそうに口を開いた。
「今は、サッカーやってないの?」
三人が持っているかき氷がほぼ水になっているのを晶は見て、さっとはなしに割って入った。
「春樹はうちのチームで頑張ってくれてる。チームの貴重な戦力だよ」
「あ、はい。……そうなんですか」
どこかで、晶の中で意地悪い感情が働いたのは事実だった。春樹の肩を持ってやりたい。ただ、それを表に出すことはしなかった。
春樹はばさばさと長いまつげをはためかせて、晶と三人のやりとりを見ているだけだった。
もう日は暮れつつあるのに、昼の熱が残って蒸している。
「春樹、かき氷、五人分買ってきて。味はお任せするから。お金はここから出して」
「はい」
晶は春樹に財布を渡すと、春樹はかき氷の屋台へてくてく歩いて行く。それを三人はびっくりして、見つめていた。居づらそうに、春樹の元チームメイトは、肩をくっつけあっている。
「あのさ、急に変なこと聞くけど、春樹って取っつきにくかった? めんどくさかった?」
「あの、それは……」
「逆にはるちゃん、俺らのこと……言ってましたか? あの、嫌な思いしたとか…」
晶は三人の言葉に耳を傾けていた。
「いや、そういう話は全然聞いてないよ」
晶はやんわりと、三人に微笑みかけた。晶はいつもの表情筋を使い、にこっと笑ってみせる。
晶の笑みにホッとしたのだろう、そのうちの一人が、視線を背けがちだった顔を晶のほうへ向けた。
「俺ら、はるちゃんとはあんまりうまくいってなくって……。はるちゃんはすごくて、俺らには手が届かないエースだったんですけど、正直、とっつきにくいっていうか……俺たちが怖くって……なんていうかうまくいえないんですけど……はるちゃん、よくわかんないし」
「そうなんだ。ロボットみたい?」
晶がそういうと三人はびっくりした顔をして黙りこむ。
「部活の連中で遊びに行く時も、「どうせ来ないだろう」って、結局、誘わなくって」
「はるちゃんに悪いことしたなって、今は思ってます」
「ありがと。春樹の話してくれたの、嬉しかったよ」
「そういってくれる先輩が、今のはるちゃんにはいるんですね」
三人はほっとした顔をする。
「春樹が君たちに意地悪された、なんて思ってたら、かき氷なんて買ってこないよ」
晶は三人に笑って見せた。
それでも、春樹がまるでこの三人を覚えていないかのように振る舞った、いや、恐らく本当に忘れていたのだと、思い至る。確かに、ハブられたことは知っていた。でもどうでもよかったのだ、春樹にとってそんなことは。むしろかわいそうなのは、目の前の彼らのほうだった。
「あんまり気にしなくていいからね、あ、きたきた」
春樹は言われたとおり、かき氷をメロン、コーラ、ブルーアイスなどバリエーションをつけて買ってきた。
「春樹、三人にあげて。じゃあね!」
晶は三人にありがと、と手を振った。春樹は、それぞれにどの味がいいかたずね、渡していた。じゃあ、と春樹は三人に手を振る。残された三人は、いつまでも晶と春樹のほうを見つめていた。
「なに、話してたんですか?」
「うーん? 雑談」
しゃくしゃくといちご味のかき氷をかき混ぜると、晶は適当にごまかした。
「そうっすか」
何か言いたげにしている春樹にあえて気が付かないふりをして、晶は春樹とかき氷の交換をする。
「味、かわらねえな」
「どれも一緒だって聞いたことあります」
「えっマジ? それより、たこ焼きくわねえ?」
「そうっすね」
夏祭りが終わってしばらくの夕方、バックヤードでお茶を飲んでいた時、携帯を見ると晶から「今日ひま?」とメッセが入っている。「ひまです」と打ち返す。しばらく経って「これからオールで遊ばない?」と笑顔のスタンプとともにメッセージが返ってくる。「大丈夫です」と、笑顔のスタンプをはやる手で送った。
バイト後、春樹はいったん家に帰り、シャワーを浴びて汗を流した。
クローゼットの扉を全開にして、どの服がいいか選んだが、もともとそれほど洋服を持っていない。晶にださいと思われたくなかった。釣り合いのとれる服を選びたかった。こんな気持ちになったことがない。
なんとか、黒のサマーカーディガンとブルーのシャツ、それにワイドパンツにサンダルをあわせた。
そしてM駅そばのショッピングセンター広場のいつもの場所で、晶を待った。待ち合わせの時間は午後八時。
「ごめんな! 待たせた」
携帯をいじっているうちに、たたたっと足音がした。顔をあげると、息を切らせた晶が走ってくる。春樹の心がざわっと波立つ。
晶は塾から飛び出してきたのだろう、ぜえぜえと言いながら春樹の前に立った。
シンプルなビッグパーカーにクロップドパンツ、ローテクスニーカーにリュックを肩にかけていた。髪を切ったのか、茶褐色の髪が、耳にかかる程度になっている。そのせいか、晶はいつも以上に幼く見えた。
「大丈夫です、オレも家に帰ってたんで」
「うちの人、何にもいわない?」
「晶先輩が一緒だって言ったら、OK出してくれました」
「うわー、責任重大だな! あ、ご飯もう食べた?」
「家でちょっとだけ」
二人は駅のほうへ歩き出す。住宅街にあるM駅構内からは帰宅の途につくサラリーマンやOLが駅から溢れ出してくる。その波に逆行するように二人は都市部に向かうホームに並ぶと、ぴりりりり、と警笛音と無機質なアナウンスが流れ、電車の到来を告げた。
晶と春樹は繁華街に出て、ファーストフードで軽く腹を満たすと、場所を移動して、カラオケボックスに入った。二十三時以降は利用ができないため、晶がどんどんと曲を入れていく。
古い洋楽や、最近のヒット曲を無難に歌いこなす晶に対して、春樹は持たされたタンバリンを適当に振っていた。
「春樹、なんか歌え」
晶にそう言われ、父親がいつも歌っている国民的アイドルの昔の歌を歌った。
晶がうまいうまい、とおおげさなくらいに手を叩いてくれた。
二十三時前にカラオケボックスを出て、国道沿いに歩くことにした。
「このまま歩いて行けば、S海岸に出るはず」
晶は、地元で有名なS海岸の名を口にして、てくてく歩き出した。次第に夜も更けていく。途中、時間があったので、海沿いの波止場にも寄った。ざぶ、ざぶ、と海の音と、ほんのり鼻を突く、淀んだ潮の匂いがした。
春樹はこんな時間に外に出ていることがなかったので、不安と高揚感で目が冴えた。
新しく作られた白いモニュメントを晶は撮影し、その間、春樹は芝生をぶらぶらした。
道すがら、晶と春樹は特にこれといった意味のないことを話した。
ただ、春樹は自分が「どうでもいいはなし」ができることに驚いていたし、その相手が晶であるのは必然だと思われた。
深夜三時過ぎ。自家用車の数は少なくなり、大型のトラックなどが勢いをつけて走って行く。海側にある工場地帯を左手に見ながら、ひたすら歩いた。早起きする人や、新聞をはこぶ人、早朝出勤のサラリーマンの気配が戻ってきた。
晶と春樹は、そのまま開けた海岸へ到達した。白い砂浜に、ゆったりとした海が黒々と広がっていた。
朝日が昇ってくるのは、思っていた以上に速かった。ゆっくりと空が赤みがかかっていくのを、晶と春樹は、黙って空を見ていた。
「去年の今頃、こんなふうに春樹って他人と朝日を眺めるなんて、思いもしなかったなあ」
「そうですね……」
「俺さ、小学生の時、ちょっとうざがられてたの」
「え? 晶先輩が? なんでですか」
「お調子者だろ、俺。誰とでも仲良くしたがって……どっかで勘違いしたんだよね。「友達百人できるかな」を真に受けちゃって、友達がたくさんいるのがいいことだと思ってた。だから「八方美人」とか言われちゃって。まあ、今もそういうところあるけど。……春樹はそういうの、ある?」
あえて、晶は春樹に爆弾を落とすくらいいの気持ちで、質問を降ってきているようだった。
「そうですね……。ほんと、今はどうだっていいんですけど」
「うん」
「オレ、中学時代は「エース」だったんです。でも県の選抜いったら、ガン無視だし、結局、中学のチームでも、浮いてたみたいです。ミーティングしてる間もボール蹴りたかったし、みんなでご飯食べて帰ろうって時も、それより帰って走りたかったし。……家にメシ、あるじゃないですか。もったいないし。それと合宿でも、打ち上げで花火とかやるくらいなら、寝ていたかったです」
「……うん」
晶はしみじみとああ、春樹は本当にアンドロイドなのだな、と聞いていた。
「だから、部活の連中も一緒に遊ぶ時、オレを誘わなかったみたいです。部活の連中からも佐藤はロボットだ、アンドロイドだって言われてたみたいなんですが、それも「どうだってよかった」んです」
「……うん」
「「こわい」「付き合えない」「佐藤はおれらと違う」って言われる。中学一年の時、三年の先輩に「ばかにすんな」って言われました。オレは先輩をばかになんかしてなかったんですけど……」
「そうかあ」
晶はただ、相づちを打つだけだった。春樹はその相づちに引きずられるように、どんどんはなしを続けた。
「気がついたら、サッカーもどうでもいいなって。部活に入らなかったのも、そのせいかもしれません」
「春樹は……言葉が悪いかもしれないけど、「どうでもいいやつ」が視界に入ってないんだろうな」
「そうなんですかね」
「聞いてるだけだと、周りのほうがまともな気がする。だけど、お前が間違ってるとも思えないし、俺はお前みたいな生き方、羨ましいし、かっこいいなあって」
きっと春樹の中には、才能がふんだんに溢れているのだろう。本人も気が付いていないが、その才能が強固な基盤となって、ぶれることがないのだ。
晶はそう、春樹を見ていた。自分とはまったく違う生き方をしている。それは好ましかった。
ぺたり、と海岸沿いに作られた白い階段に晶は腰を降ろした。春樹も晶のそばに腰を降ろす。
「オレにも、よくわかりません。今まで考えたことがないです。……あとから、色々いわれて「ああそうなのかな」とは一瞬だけ、思うんですけど、どうでもいいから忘れてしまう。……でも、文化祭は特別でした」
「特別? 楽しかったの?」
「そうですね、楽しかったんです。多分」
晶は春樹を理解し始めた。春樹は、彼なりの言葉は持っているがそれを行使することに執着がなく、人とつながることにも関心がない。だが、これから感情と感覚がうまく絡みついたら、彼はもっと違った世界を見るかもしれない。そんな彼を見てみたかった。それは単に好奇心の範疇を出ていないが、言葉を選びながら晶は口を開いた。
「春樹はどうでもいいやつには、どう思われててもいいんだろ。それでいいんだよ。でも、好きだな、理解したいな、理解して欲しいなと思える人間がこれから先、現れたとするよね。その相手には「自分が思っている自分」として見て欲しいって時がきて、自分の口から、ちょっとでも気持ちを伝えられたら嬉しくない?」
「たぶん、嬉しい、のかな……」
春樹が脳裏に何かを思い浮かべていそうだったが、口には出さなかった。
「もちろん、言葉で全部、伝えられるわけじゃないけどさ。何か言えたほうが、いいと俺は思うんだ」
晶は朝焼けの光のなかで、笑った。
海岸のすぐそばにある駅で朝日を見ながら、二人は始発を待つ。
二人は電車に乗るとすぐ、うとうとし始める。
晶が、春樹の肩にもたれかかってくる。自分より小さな丸く形の良い頭は、思った以上に重みがあった。春樹は手足に重い石が乗っかったような気がして、動けなくなった。
そっと、晶を盗み見る。潮の香りと、シャンプーのにおいがした。なんていうシャンプーなんだろう。知りたくなった。
ふんわりと頬を触ってみる。晶は起きない。ひんやりとした肌はしっとりとしていて、心地がよかった。
もっと触れたい。自分の中にある欲に春樹は戸惑ったが、思い切って晶の髪を撫でてみた。ふわっとした茶褐色の髪は、手のひらになじんだ。くしゅっと柔らかく掴んでみる。
ふとリュックから晶の携帯が目に付く。ライトがまだ点いていたため、画面もくっきり見えた。
「あれ?」
ツイッターの画面が開かれているようだったが、春樹が知っている晶のホーム画面とは違っていた。女性と男性が映っているらしきアイコンとアカウント名が、春樹の脳裏に焼き付いた。
「先輩の書いているもの、読んでみたいです」
春樹はバイト終わり、晶と過ごすケンタッキーで思い切って言葉にした。
「え?」
「あの、先輩、脚本? 小説ですか……? 書いてるんですよね。コンクールで評価高かったって演劇部の人が言ってるのを聞きました」
「あーああ。そうなんだ。嬉しいけど、なんか、恥ずかしいな」
へへっと晶は笑う。
「読んでもわかんないかもしれないんですけど……」
「いや、春樹がそういってくれるだけで嬉しいよ。えっと去年のでいい? 今年、あんまり書けてなくてさ。よかったら、去年の演劇コンクールの舞台映像あるから、一緒に見て貰えるとありがたいな」
恥ずかしいといいながらも一気に口調が早くなり、紅潮した顔を見せる晶に春樹は晶の違う世界を垣間見た。
晶は早速、脚本とDVDを持ってきてくれた。
「脚本は読み方わかんなくて当然だから、DVD見ながら読んでよ」
「はい」
「感想聞かせてくれよ」
「オレがわかることでよかったら」
「それで十分だよ」
晶が少し日焼けした顔をほころばせた。
帰宅して早々にDVDを見始める。確かに最初はよく分からなかった。しかし次第に晶たちの作った世界にのみこまれていく。
死ねない体になってしまった娘が、好きな男の子ども、孫、その先の子どもたちまでも見つめていき、時に助け、時に恋に落ちるというはなし。らしい。太平洋戦争から、高度成長期、昭和の時代、と時が流れていく。ぼんやりと眺めつつも、すべて女子高校生が演じているにもかかわらず、強い愛のものがたりであることは春樹でもわかった。
明るくて面倒見のよい晶が、日焼けして微笑みかけてきてくる晶が、こんなに一途な愛のはなしをかく、その裏腹さに驚いた。主人公の娘は時に死ねないと、愛するものの死に慟哭する。その一方で、愛する男の子の子どもたちを守っていこうとするのだ。彼の頭のなかにこんな空間と生きている人間たちがいるのか? 春樹はそのことに怯んだ。ずっと自分はアンドロイドのままでいいのに、とんでもない人、とんでもないものにふれたのかもしれない。
晶の台本と大原の演出によってこの作品は近畿大会の二位を受賞したらしい。ストーリーはまとまりがないがダイナミックでよい、今後に期待できるという審査員らしき講評も入っている。時に笑いを、時に涙を、そして演者たちが感情を剥き出しにし、ぶつかりあっているのを見て、自分がやってきたサッカーやフットサルと何が違うのか分からなくなった。調べてみると高校演劇は各地方の予選を勝ち抜き、全国大会に進む、激しい世界でもあった。なにより肉体を駆使し、表現する。春樹は自分よりこの人たちはおかしいと感じた。脚本を覚え、感情を理解し、他者になり、表現する。自分の知らない人たちと世界だった。他者であり、晶でもあった。
春樹はいてもたってもいられず、晶に電話をしてしまう。
「え、はるき?」
晶がすっとんきょうな声で電話に出る。
「あ、あの、すいません、えっとはい、佐藤です」
「どうしたの?」
晶の声にはっと我に返った。
「あ、あの、DVD見ました、それで、あの、えっといいたいことがあったんですが」
「うん」
「あの、えっとすごかったです」
「ええ、そうなの?」
「どうすごいかはうまく言えないですけど、怖かった」
「えっ? ホラー? ってこと?」
「いえ、違って、オレのやってたこととなにが違うのか、演劇やる人すげえって、あと、サチ。サチが、凄くて」
春樹は劇の主人公の少女の名を告げた。
「ああ、あの人ね。去年の三年生で、存在感とカリスマ性ある人でさ、今、芸大いってて」
「それもなんですが、どうして、晶先輩はあんなはなしがかけるんですか。すごいです、すごい」
語彙力がないってことを春樹は悔いた。もっとなめらかに自分の興奮を伝えたいのに。
「もしかして、褒めてくれてるの?」
「そうです、あれ、みんなに見て欲しいです」
電話の先でくすっと声がもれる。
「それ、最高の褒め言葉」
八月 初旬
春樹の高校一年の夏休みは、めまぐるしく過ぎていった。
魚屋でひたすら魚をカットし、ラッピングする。フットサルがある時は、シューズやウェアの入ったリュックを背負って出かけていく。
塾がショッピングセンターに隣接している晶とは、昼ご飯を一緒にすることが多くなっていった。ショッピングセンターのフードコートや、カフェで二人は過ごした。ノートのやりとりはまだ続いていた。
「ほんとにお前、成績やばいんだな」
登校日に、赤点の補習の結果を貰った春樹は、それを晶に見せた。
その結果をさすがの晶も、眉を寄せて見つめていた。
「俺もそんなに時間ないけど、ちょっと勉強しよ」
「え、いいんですか」
「そのかわり、モスのチキンバーガー奢れよな」
「はい」
晶は教えかたもうまく、春樹は頭の中が改造されていくような感覚を抱いた。その一方で、晶の指先などをぼおっと見つめてしまい、「聞いてる? 佐藤くん?」と、晶に怖い笑顔を向けられる。「すいません」といいながらも、わきたつ感情が抑えられない、そんな時だった。
「あれ、晶と佐藤?」
不意に声をかけられた。
「あ、貢さん」
そこにいたのは、藤田だった。
「ああ、そっか。この辺、お前らの地元だもんな」
「俺の地元はもうちょっと先です。知ってるでしょ。相変わらず、変なTシャツ着てますね」
ぱっと晶の顔が輝く。
「いいだろ」
黒い生地に、猫がお寿司を抱えて歩いているTシャツを藤田は着て、ゆるめのジーンズを履いていた。それでも随分とおしゃれに見えてしまう。
「ここ、いいか」
モスバーガーのセットのトレイを持って、藤田は晶の横の席に座った。
「いいですよ」
二人のやりとりに、春樹は少しむっとする。どうしてオレには許可を取らない。
「今日はどうしたんですか」
「ちょっとね、用事があったの。親戚の集まり」
「親戚の集まりに、そのシャツですか」
「おれ、親族のなかでは末っ子ポジションだから、いいの。……二人は、勉強してるんだ。学校の課題かなにか?」
「はい、オレの成績が悪いので、先輩に見てもらっています」
春樹はわざと、声を張り上げてみた。思ったより大きな声が出てしまって、晶に少し厳しく「こら」と言われ、藤田には吹き出され、いっそういやな気分になる。
春樹は、藤田といる時の晶が嫌いだった。生き生きと、晴れ渡った空のような顔をする。
二人の物理的な距離の近さは、シャワールーム以来、感じるようになってきた。藤田はどこかでセーブしているようだったが、晶のほうが自然と藤田に寄っていくのだ。本人は距離を取っているつもりだろうが、藤田も晶が近づくと、やたらとスキンシップする。
そのせいか、チームメイト、特に石田あたりから「いちゃいちゃすんな」と言われていた。
今だって、春樹のほうに座ってもいいのに、当然のように藤田は晶の横に座って、晶は嬉しそうに肩を寄せて、参考書をわざわざ見せている。
晶は比較的、肌の色合いが変わりやすい体質なのだろう。藤田と目があうと、顔色がさっと朱色に変わるのもいらついた。
「先輩、ここわかりません」
「どれ」
「へー、今の高校生ってこんなこと、勉強するの」
「貢さんも、そんなに歳、変わらないでしょ」
「え、おれ、今度の十二月でもう二十八だよ」
「見えないですよね」
藤田が自分と晶の間に入ってくるのもいらいらした。
ほうっておいてくれないかな。
「すいません、コーヒーおかわりしてきます」
そういって、春樹は席を立つ。
彼らを二人きりにするのはいやだったが、二人を見ているのもいやだった。
晶が藤田の前でしか見せない顔を見たくなかった。その瞬間に晶は自分の先輩ではなくなるからだ。
春樹は年長者に「先輩たちは、おかわりどうですか」と聞くのをまた忘れた、と春樹ははっとする。でも今は二人を見たくないから、どうでもいいことにした。
春樹がはじめて覚えた強い感情は「マジデダイキライ」だった。
フットサルのゲームの時だった。相手チームにはガタイがよく、あからさまに体格のおとる東や晶にぶつかってくるやからがいた。しかし、東は冷静にかわした。ただ、晶とは相性が悪すぎた。
晶は煽るのが好きなのだ。それがいつもは「けんかできない」彼なりのフットサルでの発散方法だったのだろう。
春樹は晶が相手をこばかにして、ペナルティぎりぎりまで、やりあっているのを不安になりながら、見つめていた。
パスが石田から東に通った時だった。晶の顎に相手のひじがはいろうとした。
「あぶない!」
春樹は思わず相手と晶の間に入った。晶を守りたかったのだ。
「いてえ!」
あれ? と冷静になってみると相手が逆に顎を押さえてコートに転がっている。
「ちょ、ちょっと春樹、大丈夫?」
晶が慌てて、春樹の頭に手をやる。じわっと熱い感覚がしてくる。そして頭を抑えるとぬるっとしたものが手についた。たらあっと血が流れおちていく。
「春樹! 血がでてる!」
「あ、ああ、そうですね」
「そうですねじゃなくて」
「たいしたことないっす」
客席もコート内もざわめき、審判が試合の中断を指示してくる。
ぼおっと立っていた春樹は藤田に手を掴まれた。
「とりあえず医者いこう、あとのことは俺らに任せて。東さん、春樹を医者に連れてってやってください」
「わかった」
「春樹、ごめん、俺のせいで」
「いえ、そんなことないです、っていうか、俺の頭が相手の顎に当たったんですね」
たらっと落ちてくる血をタオルで抑えながら、春樹は冷静に振り返ってみた。頭はがんがんいたいが、ぬるりと落ちる血には興味がなかった。子どものころからこの程度の怪我は繰り返している。
「とりあえず医者だ」
タオルを押さえつつ、春樹はざわざわしているコートから東に腕をひかれてコートをあとにした。
問題になったのは、相手チームの負傷した人間が謝罪と治療費を求めてきたことだった。
こういったぶつかり合いは当然あることで、問題になることは殆どなかった。ただ、今回は相手がしつこかった。
そこまで、春樹は試合から数日後のチームミーティングで聞かされた。
「治療費などは支払う必要はないし、なんなら、弁護士を通してくれと伝えた。相手チームの管理者もそれは理解しているんだが、怪我をしたやつが晶と春樹に謝罪しろといっている。そんな必要ないけどな」
村上はそこまではなす。
「すいません、俺がうかつなことをしたから」
晶は春樹の頭の包帯を見つつ、頭をさげた。
「しかたねえし、あれはお前のせいじゃねえ。煽るのも煽られるのもありなのに、手を出した相手が悪い」
いつもフラフラしている石田がいつもの調子でへらっと笑ってみせた。
「そうですね。ただ、こちらとしても顔を見て、はなしをしたほうがいいです。俺に任せて貰えますか」
少し考えこんでいた藤田が手をあげて、春樹に視線をやる。
「春樹、診断書とれるよな」
春樹の頭が顎に当たった相手チームの人間とファミレスで藤田は待ち合わせして、春樹と晶を連れていった。
「このたびは申し訳ありませんでした」
と藤田は相手に爽やかすぎるほどの微笑みを浮かべ、自分の名刺を渡す。そこから藤田は、「念のためにボイスレコーダーで録音させていただきますね」と手際よく、レコーダーをテーブルの上に載せた。
今回のことはフットサル協会の上部に判断を仰いでもよいこと、そのための準備はできていること、春樹の診断書を出し、また状況からも故意ではなかったこと、それらを立て板に水のように、かつ、分かりやすいように藤田は話していった。
春樹はいつものふわふわして、優しくて気を遣うだけではない藤田の「大人」としての存在感に圧倒されていた。ニコニコ笑ったかと思うとやんわりと相手を追い詰める言葉を使う。
「謝罪に関しての要求ですが、治療費がかかっているのはこの佐藤のほうも同様です」
藤田はニコニコと笑いながら、しかし目は決して笑っていない。
「それに謝罪でしたら、先ほどさせていただきました。こちらからは特に要求はいたしません。これでお話はクローズとさせていただきます。まことに申し訳ございませんでした」
最後、再度の謝罪はくどいほどで、それが藤田がどれだけ社会人としてこういう場面を経験してきたか、春樹は圧倒されるしかなかった。
「貢さん、すいませんでした」
結果的にうまく物事が収まり、藤田は晶と春樹を車に乗せると、晶が少し震える声で藤田に謝罪する。
「気にするな。大人が子どもをかばうのは当たり前だろ」
「でも」
「人生の先輩に任せなさいって。それに、俺もあいつ、前からむかついてたからね。今日も服、きめてきたんだよね~」
ははっと藤田が笑うとスーツのボタンを外すと下にシャツを着ていた。かわいい猫が「ふぁっきゅーにゃん」と中指を立ててるTシャツだった。
「ふははっ」
それまで表情が硬かった晶が吹き出す。
「こっちが勝負服」
藤田の言葉に晶が一瞬びっくりして、ぷっと吹き出す。
そんなふたりを見ながら、春樹はいいようのない感情が腹のなかで渦巻いていることに気が付いた。
頭から突っ込むしかできなかった自分。みんなに面倒を見てもらった自分。
藤田はそんなところにはいない。ずっと大人でたくさんのことを経験してきて、面倒なやつも笑顔であしらってしまう。
そして晶の顔は花が咲いているかのように、藤田に向けられている。
「マジデキライ」
はっと春樹は我に返る。何度もその言葉がまるで呪文のように形どられていく。
藤田のことがマジで嫌い。
その日、一日、春樹の頭のなかで呪文は「マジキライマジキライ」とサウンドしてうるさくて仕方なかった。
生まれてはじめて、人を酷く憎むということを春樹は覚えたのだ。それが最初に感じた強い感情だったことに春樹は戸惑っているが、その感情に身を浸すのは悪くなかった。それでも花が咲くように藤田に笑いかけていた晶に、いいようもない腹のそこから感じる不穏な感情が止められずにいた。
八月 中旬
太陽の光は肌にいたいほど照りつけてきた。湿気も多く、汗がとまらない。くっきりと影は陰影をつけ、日差しの強さを目にも肌にも刻みつけてくる。
フットサルで成人組は大抵、練習後やゲームの後に飲みに行く。春樹は以前のことがあったため、あまり参加はしなかったが、その日は練習に来ていた晶が参加すると言うので、ついて行った。
「でさあ、女のほうが「こういうの、はじめて……」「えいとくん、すごおい」とか言うわけよ」
石田が女性に絡んだはなしを大声でしている。家庭持ちの石田だったが、複数の女性と割り切った関係を持っていて、それを自慢にしていた。
春樹などには想像も及ばないが、石田の芸能人のように華やかで整った顔立ち、すらっとして筋肉が適度に乗った体を求めて、女性のほうから声をかけてくると言う。
どうやって出会うのか、どのようなプレイをするのか、と赤裸々かつ、おおげさに語る石田を、春樹は「虫みたいだ」と思った。人間じゃない。虫。
そうやって女遊びをする石田も、石田の体を求めてくる女性たちも、どんなふうに虫のようにごそごそ、群がってくるんだろう。……虫がうごめく様を脳裏に描いて、それを振り払うように、横に座っている晶へちらっと視線を送った。
黙ってソフトドリンクを飲んでいる晶は誰とも喋らず、仏頂面だった。ノンフレームの眼鏡の奥にある目は、ややすわっている。
晶はソフトドリンクをおくと、こめかみに指をおいて、ほおづえをついた。珍しく、ちっと舌打ちをする。
晶がいらついているのは、確実だった。こんな晶を春樹は見たことがなかった。しかし、春樹はほっとした。晶は石田にいい感情を抱いていない。晶はまっとうな人間なのだろう。少なくとも「虫」じゃない。
酔いが回ってきたせいか、石田のはなしがさらにげすな方向へ向かおうとしていた時、晶が立ち上がる。
そんな晶の肩を藤田が掴んでむりやり座らせた。がたん、と椅子が鳴る。キッと晶は藤田を見つめたが、藤田はゆるく顔を横に振った。
「ねえ、石田さん、そういうのどうかな」
そのかわり、藤田は涙堂をぷっくりと作りながら、よく通る涼やかな声を発した。
「あ?」
「石田さんがよくモテるのは、おれもわかってる。イケメンだもんね。女の人がほうっておかないや。……でも、家族のことを考えた行動をしたほうがいいよ」
藤田はまなじりをさげ、口角をあげた。はりついたような笑みだ、と春樹はその笑顔を見た。とてもきれいで、隙がない笑顔。
藤田の整った顔にはりついた笑みが、春樹には不気味に見えた。そしてこれが「大人」なのか、と春樹は藤田の横顔を見た。
「ちえっ。藤田だってモテるくせによ」
一瞬、場の空気が不穏になったが、石田は軽口を叩いて、すねたようにやれやれと藤田に笑って見せる。端っこのほうで、誰かが「さすが、藤田だな」「石田のこと、丸め込んじゃったよ」と、こそこそ喋っているのが春樹の耳にも届いた。
「おれはモテないですよぉ」
また、張り付くような笑顔を藤田が見せたのを見て、村上がわざと藤田にはなしを振った。
「そういや「あすみさん」とは、どうなってるんだ」
「ぼちぼちですよ」
「そんなことないでしょ」
「あすみさん」って誰だ。
「もう婚約したんでしょ」
「まあ、その」
藤田が言いにくそうにして晶にちらっと視線を送ったのを、春樹は見逃さなかった。
隣にいた晶がそっと席を立つ。
「晶先輩、どこ行くんですか」
「ちょっとトイレ」
早口でそれだけ言うと、さっと晶はいなくなった。
「晶は貢のおっかけだからなあ……」
「二人って「そんな仲」だっけ?」
「晶が一方的に貢になついてるんでしょ」
「だから、あそこはカップルだって」
「石田さん、もうやめなさい」
「東っち、こええ」
そんな言葉が、春樹の耳に入ってくる。
春樹は心にぼんやりとした重たい雲がかかるのを感じた。その雲をかき消したい、そう思って晶の姿を探すが、見当たらない。
思い切って席を立ち、晶の様子を春樹は見に行く。すると、長い廊下の隅っこの壁側に立っている晶がいた。
「晶先輩、大丈夫ですか……」
「うん、ちょっとコンタクトがずれただけ」
真っ赤になった目を両手でこすりながら、晶は顔を伏せた。
「コンタクト、してましたっけ」
「してたよ」
突きはなすように晶は早口でそれだけ言うと、席に戻っていく。
確かに晶は運動する時はコンタクトをする。しかし、さきほどまでノンフレームの眼鏡をかけていた。
春樹は晶に声をかけてやりたかった。晶の背中がひどく小さく見えて、「かわいそう」に感じたからだ。ぎゅっと背中を抱きしめてやりたい。そんな自分の思いに春樹はぎょっとする。晶はいい先輩だ。なのに、自分は晶の薄い肩、真っ赤な目、すっとのびた襟足を見て身震いしたのだ。
帰宅した春樹はベッドの上にごろんと寝転がり、さきほどの晶や藤田の振る舞いを思い出していた。うっすら察していることを、春樹は納得したくなかった。ベッドに、ぴんと張り付いたブルーのシーツはひんやりとしている。
風呂に入っている時も、テレビを見ている時も、こうやっている時も、晶のことを考えている自分に春樹は気がついていた。その一方で、藤田への「マジキライ」の呪文が吹き出してくる。
「読書ノート」として使っているメモパッドは、二冊目に入った。今度は小さな猫がころころ転がっている表紙だ。
机に座ってそのファンシーな表紙をめくり、何かを書こうしたが、何も浮かんでこない。ただ、晶が藤田をどう思っているのか、問い詰めたくなる。
ノートを放り出して、またベッドに転がった。
ぱらぱらと晶に借りている「かもめのジョナサン」を読む。
かもめのジョナサンが限界まで速度を自分と競い、長老たちにかもめたちのルールを 破ったと追放され、いつしか教祖になり、しかしたったひとりのジョナサン・リヴィングストンという存在になるまでのはなしだ。
カモメの写真がとても綺麗だ。文庫本だけれど、上品な絵本にも思える。
晶と夜通し歩いた日のことを思い出す。あんなふうにはなしができる人は、いなかった。
……晶は、自分を見ていてくれる。はずだ。
演劇部に連れて行ってくれた、カラオケで歌を歌った、二人きりで夜を通して歩いた、一緒に朝日が昇る海を見た。
晶は。晶は自分をどう思っているのかな。
あの人はどんな体つきをしていて、どんな顔をしていて、どんな指先をしていたかな。あの人がきれい、と感じたのは最初はいつだっけ?
こんなふうに人を思ったことなんて、なかった。それと同時にまた「マジキライ」が出てくる。晶とこの呪文が結びついているみたいだ。
晶は華奢な雰囲気はあっても、172センチはある先輩で、男性だ。男性を性的に意識したことなどない。もともと春樹は性愛への興味が薄かった。それなりに生理的な現象で自慰はするが、愛情を誰かに抱いたことはない。
晶の顔が脳裏にちらつく。まず、最初に「恥ずかしい」と言う言葉が浮かんだ。晶に失礼だ。知られたくない。そして、こんな自分も知らなかった。人を思うこと、誰かの姿を心に浮かべて、こんなに胸が高鳴るなんて、今まで知りもしなかった。
深くてあたたかな海の底から、水面へと上がっていく。きらきらと輝く水面へ、顔を出す。凄く気持ちがいい。
その瞬間、春樹は目が覚めた。
クーラーを「強」に設定してしまったせいか、部屋が冷蔵庫のように冷え切っている。
「あ……」
春樹は下半身に違和感を抱く。
「まじか……」
汚した下着は、両親がいないタイミングを見計らって風呂場で洗った。誰もいないとわかっているのに、誰かに見られるのでは、と冷や汗をかく。
「なんなんだよ、オレ」
晶の姿が脳裏によぎる。きっと晶はこんなふうに、自分を見てはくれないだろう。
もっと自分を見て欲しい、自分を意識して欲しい。でも、そんな自分がひどく愚かで、浅ましいと春樹は自分をどこかで自分を鳥瞰している。それでも、晶を思うと味わったことのないような多幸感が、ざぶざぶと満ちてくる。
あの人、指の形が整っていたな、色はオレより白いな、少しそばかすがあるな、左顎にほくろがあったな、肩幅はそれほどなくて華奢な感じだったな、と晶を思い出していた。
「おい、佐藤!」
誰かが自分の名前を呼んだ。そう思った時には遅かった。ぼんやりして、春樹は自分がどこにいるのか、わかっていなかった。
冷えた魚屋の奥で白長靴を履いていた。ああ、バイトしてたんだ。
「あれ……」
なんとなく、手がぬるっとする。ふと視線を向けると、左手からだらだらと血が流れていた。前にもこんなことがあったな。ああ、ちょっと前の頭の怪我だ。
「さっさとこっちきて傷口洗え!」
店長がどぼどぼとホースから水を出して、春樹を大声で呼んだ。
「それほど痛くないです」
「そういう問題じゃない!」
流れた血の量の割に傷口はそう深くなく、大型のバンドエイドが春樹の指にぺったり張り付いている。この間のフットサルといい、流血が続いてるな、と春樹はぼんやり思う。
「スタバにいます」
春樹は晶にそれだけメッセージを送ると、途中で読むのを止めていた「カモメのジョナサン【完全版】」を、右手でペラペラめくった。
かもめのジョナサン・リヴィングストンについて、その思想や生き方すべてを
春樹は理解し咀嚼することはできなかった。れでもジョナサンが時速342キロで飛ぶ姿を思い浮かべ、自分もかもめになったようにジョナサンをはらはらと見守った。
春樹はこんな本を読んだことがなかった。本から得られるものが、こんなに胸をはやらせるとは知らなかった。
最後のページをめくる。
「ジョンとでも呼んでくれ、そう、ジョナサンだ、よろしく」
ジョナサンが告げた時、春樹の瞳から一気に涙がこぼれた。これは「神さま」のはなしだ。春樹はそう直感した。空を飛ぶ、かもめの神さま。
「……だいじょうぶ?」
気がつくと、そばに晶が心配そうに立っていた。春樹は周りの客が怪訝そうな顔をして、こちらをちらちら見ていることに気がついた。180センチもある男が、涙を流している様は、スタバでは浮いていて異様だったろう。
「すいません、だいじょうぶです……」
そう言って、鼻をすすり上げながら、春樹は晶を見た。
「どうかした?」
「……「そう、ジョナサンだ。よろしく」っていうところ……」
ぼたぼたぼたっと涙がその瞬間、またしても春樹の瞳からこぼれた。
それを見た晶は、春樹が本のどこで泣いているのか、勘づいた。そして晶自身もじわっと涙ぐむ。
「あー……そうかあ……あそこ、凄く「くる」よね……俺も泣いた……」
しんみりとして、涙を流す男子高校生二人に、周りの客は明らかに「ひいて」いた。
ああ、オレにとってのジョナサンは晶先輩だ。
春樹は瞳を潤ませて目の前に座る晶を見て、確信した。
「……そういえば、左手のバンドエイド、めちゃくちゃ大きいけど、切っちゃったの?」
晶が潤んだ目を指で拭いながら、春樹の怪我に気がつく。
「ちょっと、考えごとしてて……」
「……こないだも頭から血出したよね……大丈夫? 気をつけろよ」
誰のせいだと思ってるんだよ。オレの神さまのせいだよ。
何度も何度も理由も分からなくても、春樹は晶の書いた脚本の舞台を見た。うっすら、春樹でもこれは、晶の書いた強い物語だと分かった。
「ああ、あれね」
DVDと脚本をその日、返しながら、春樹がどういう理由で書いたのかを聞いた時、晶はさらっと言ってのけた。
「うちの曾祖母が主人公のサチみたいに苦労したの。俺、なんかの時に聞いたけど、曾祖母は学校もいけなくて、生まれた日も分からなかったんだよね。そういうとき、山の上で死体を焼く人がいたんだって。そんな人のほうが、小学校しかいけない、家族の弁当を作って家族の面倒を見ている自分よりお金もらってるって。……俺はひいばあちゃんの言ってることが分かんなかったけど、色々調べて。曾祖母は昭和初期の呉の出身なんだけど、その当時は船の工場が呉にあって、父親はそこに働きにでた。当時は冷蔵庫もコンビニもないから、弁当をつくらないといけない。ひいばあちゃんがどういう気持ちで、死体を焼く人を羨んだのか、なんだかつらくてさあ。……じゃあ、ひいばあちゃんのことを守ってくれる人間がいてもよかったなあって。最初は男の子を死ねない設定にしてたけど、女の子のほうが演じる先輩に合ってるって思ったから。イメージとしては吸血鬼なんだけどね、死ねないって言うのは」
スムーズにそんな言葉が出てくる晶に春樹はびっくりした。春樹なら、曾祖母がかわいそうだったとしか感じなかった、いや、かわいそうとすら感じなかった。そういう時代だろうと思っていた。なのに晶はそれをすくい上げ、物語にしたのだ。曾祖母はもう亡くなっているという。だが、晶の物語のなかで、何度も繰り返し、上演されるたびにきっと曾祖母は生きているのだ。
ぞっとした。
物語はこわい。
人を惹き付ける。
春樹はしかし怖いものに手を伸ばしてみたかった。
しばらくしてフットサルの練習に春樹は晶と参加した。フットサルの練習は週一、二回だ。ゲームは月一回。参加できるものが参加できるタイミングで行う。しかし、どことなく藤田と晶とはギクシャクしているように春樹には感じられた。
相変わらず石田は女性との駆け引きのはなしばかりをするし、それに対して東が軽蔑の眼差しを向けて「ゲス」「クズ」と突っ込んでいる。
お盆のせいか、人の集まりが悪い。晶は藤田の後ろ姿を盗み見た。
いつもどおり、帰り道は藤田の車でI駅まで送ってもらう。藤田と晶のはなしは妙にすれ違い、かみ合わないでいた。
「お疲れさまでした」
「気をつけて帰れよ」
いつもの挨拶をしてクーラーが効いた車内から、むっと熱気漂う駅前の道へ降り立った。湿気が肌にまとわりついて、べたべたする。
地下鉄I駅への階段を降りようとした時だった。着信音がした。晶の携帯だった。そばにいた春樹がぎょっとする素早さで晶は携帯を取り出し、画面を見つめた。
「ごめん、春樹、先、帰ってて」
晶はそれだけ言うと、身を翻して走りだす。
春樹が何か言ったようだが、聞こえなかった。
晶は全速力で携帯の発信者のもとへ、赴いた。
公園の前に藤田が車を停めて、もたれながら立っている。ノーネクタイ、ネイビーのダブルラインが入ったビジネスカジュアルシャツに、同じくネイビーのセンタープレスが入ったスラックスが、よく似合っていた。
「貢さん……」
晶はぜえぜえと息をついだ。
「あのさ、ちょっとこないだのこととか、はなしたいんだけど……」
晶より十センチは高い藤田が困ったような顔をして、晶と目を合わせないままだ。
「こないだって、俺が貢さんの家にいって、セックスしようとして失敗したってことですか」
晶はいらだっていた。藤田が自分に対して壁を作っているのを感じとった。
「あの時は、ちゃんとできなかった。……俺が子供だからって、貢さんは遠慮した。俺は最後までできるっていったのに……俺はあんたを好きだってはっきり言ったのに、ごまかした。……ずるい」
「晶、そういうことじゃない……。やっぱり、こんなのよくない、おれはそう思って」
「こんなのってなんですか、男同士だからですか、俺が学生だからですか、「あすみさん」に申し訳ないからですか!」
と、一気に言うと、晶は持っていたかばんを地面に投げつけた。挙げ句、晶は左足で地面を蹴る。
「どうして、ちゃんと俺をみてくれないんですか」
悲鳴みたいに甲高い声が暗い公園に響き渡った。
「俺を見てください!」
藤田には伝わっているはずだ。自分がどれほど藤田に恋い焦がれているか。自分がどれほど藤田に振り向いて欲しいか。
「すまない……おれはお前のこと、大事にできないって」
藤田は絞り出すような声を出した。情けない。晶はそんなふうに、藤田を冷静に見つめる自分がいることに気がついた。
藤田は困惑したようすで晶の肩をなだめ抱こうとするが、晶はそれを振り払った。
「大事になんてされなくてもいい。そんなこと、知ってる。……俺は、「あすみさん」がいてもいいんです……! どうせ、俺は「あすみさん」にはかなわない、わかってる、こんなことをしたらいけないですよね。それもわかってますよ……でも、貢さんだって、俺を拒絶しなかったじゃないですか。俺のこと、嫌いじゃないですよね? 俺に期待させてましたよね?」
「だから……」
「俺は、先のことなんてどうでもいい、だからこそ、こないだみたいにうやむやにしないでください」
誰かに聞かれているかもしれない。男同士の痴話げんかなんてみっともない。それでも晶はどうでもよかった。言いたいことはちゃんと言わないと、伝わらないんだ。
「貢さんは、いつだって、曖昧にして、丸め込もうとする。飲み会の石田さんの時も一緒だ」
「あれは、しかたないじゃないか、それに今はそのはなしはしていない、おれは、お前を傷つけたくない」
「そんなこと、どうだっていい! 違うんだ、俺は覚悟だって決めてる、それをなかったことにされるのが、一番くやしい……大人ぶって、曖昧にしないでください!」
そう言って、晶はぶつかるようにして藤田に抱きついた。大人の男の匂いがして、頭の中がしびれた。そして、かみつくようなキスをした。これで終わるなら、終わってしまえばいいんだ。
藤田の長い腕が、うすっぺらな晶の体に巻き付いた。ぎりぎり、と音でもしそうだった。
晶と藤田は体を離すと、じっと顔を見合わせた。熱を帯びた視線が絡み合って、唇が重なった。唾液が落ちていくような音がしそうだった。
藤田が何も言わずに晶の荷物を拾い上げて肩にかけ、二人で車に乗り込んだ。
その車が走り去るのを、背の高い人影が呆然と立ち尽くして見ていた。
春樹だった。
ぼんやりと電車に乗っていたら、春樹はM駅で降りるのを忘れ、終点のS駅まで行ってしまった。
あんな晶を見たことがなかった。喧嘩なんてできないって言ってたのに。……いや、あんなふうになるのは、藤田だけなんだろう。ああ、マジデキライ。
ふと思い出して、S海岸からの帰りに見た晶の携帯画面を思い出す。
記憶を引きずり出して、アカウントを携帯画面に打ち込んだ。どきどきしながら、そのツイートの数々を見る。晶が「ほくろの位置がおなじ」と笑って言っていた女優と、藤田がよく似ていると言われている俳優のツーショットが、サムネイルだった。
鍵はかけられていなかったが、英語のツイートが羅列してあった。フォロー数はゼロ、フォロワーは数人いるようだった。
「He will not choose me」
「He loved her more than me」
そんなつぶやきが散逸してある。一見すると、片思いに揺れる若い女性のツイートのように見えた。
つぶやきをどんどんと、春樹は遡った。いくらSNSに疎い春樹であっても、それが晶の裏アカウントだと判断できた。
オールに誘ってくれたのも、藤田に「あすみさん」との用事が入って約束を破られたから。
フットサルを続けているのも、藤田のそばにすこしでも長くいたかったから。
飲み会でこっそりトイレに行ったのも、泣いていたから。
機械翻訳を使って、春樹は長いまつげで縁取られた真っ黒い瞳をまたたかせながら、読み進める。
ショックじゃないと言えば、うそだ。
それでもわからないよう加工された写真の中に、春樹は自分の姿をみとめた。
その写真には「He raises me Up」とだけ、書かれてあった。
春樹は、みぞおちを蹴られたような気がした。
晶は春樹に励まされていた。春樹は晶という人間を通して、自分の存在価値を与えられたような気がした。
自分の気持ちはうそじゃない。
晶が好きだ。
汗がだらだらと落ちる。クーラーを効かせてあるのに、それすらも追いつかない。
「は、あ……」
抱きしめられて、死にそうになる。こんな思いをもう、この先、二度とできないだろう。
「だいじょうぶ?」
「へいき」
これは浮気なんだろうか。そうだろうな、それだけゲスな人間なんだ。俺は。
「好きです、ずっと好きでした」
それだけ言うと、彼の性器を含んで吸い上げる。
「あ、ダメ……それは駄目だから」
「どうして」
「傷つけるのが、怖い……」
彼は確実に怯えていた。逆に、自分が彼を犯しているみたいだ。
「嘘つき。責任を取りたくないだけでしょ。俺がいいって言ってるんです。……もう、二度とないんです。やったあとは、捨ててしまえばいいんですよ。それで幸せになってください」
「そういうこと、言うな、捨てるとか、自分を大事に……」
ああ説教くさい。そういうところも好きだけど、この場で言うことじゃない。自分がいいと言っているのだ。何故、彼は分かってくれない。
「うだうだ、つまらないことを言わないでください。ここまできて、やめるのは卑怯です」
そう言って、上に乗っかる。彼の体はしなやかな筋肉が乗っていて、自分よりもずっと大人びていた。成熟した大人の男。汗ばんだ、肌を持つ男。熱帯を思わせるような、しっとりとした色気を持つ男。
その胸に手を当ててみた。どく、どく、と心臓が脈打っている。
彼は、確かに、この場に存在している。それが凄まじい歓喜として、興奮につながった。
そして、彼のベッドで抱き合っている。恐らく、彼女を何度も抱いた、この場所で。
抱きついて、自分から、彼の中心を挿入する。
「い、いった……い……」
涙がこぼれかけた。
「だから、もう、やめておこう」
彼は自分の肩に手を置くが、それを払いのける。
「そのほうが、いや、です」
深いところまで、彼を飲み込む。痛いけれど、それがよかった。痛みが、傷が、全部を覚えていればいいと願った。
ゆっくりと体を動かす。そして、彼にも動いて、とねだった。一瞬躊躇した彼だが、自分の唇を割って、舌を入れてきた。その舌を、自分は吸い、嬲り、絡ませる。そして、彼は下から自分を揺さぶってきた。
彼も覚悟を決めてくれたんだ、と嬉しくなった。弾けるような喜びが、全身を巡っていく。
体が律動するたび、髪の毛がゆれる。汗が張り付いていて、うっとうしい。
彼にしがみついて、「好き、好き、」と声をあげている自分がまるで他人のようだった。 喘いで、酷い声を上げている自分を、どこかぼおっと見ている自分がいる。
彼に抱かれたことは一生、忘れない。
いや、もしかしたらいつか、忘れているかもしれない。
そんな時がきたら、自分は本当に幸せになれるのだろう。
八月下旬
春樹は晶への気持ちをはっきり自覚してから、晶の顔を見るのを躊躇してしまった。
そして藤田とのことで何かあったのだろうと考えると、更にどうしたらいいのか、わからなくなった。
バイトでひたすら働くのは気が晴れた。しかし、晶には「補習があって」「田舎に用事があって」と、顔を合わせるのを断ってしまっている。
あの夜、晶と藤田の間に何があったかなんて、知りたくなかった。
それでも、フットサルではどうしても顔をあわせなければいけない。躊躇する気持ちと、晶に会いたい思いが交差していた。
球技場に入るとむっとした熱気を感じる。鼻の奥が痛かった。
先に晶がiphoneにイヤフォンをしながら、軽くストレッチをしていた。英語構文のリスニングをしているのだろう。
「よう」
春樹をみとめると、晶はイヤフォンをとって手をあげた。
「ウス」
軽く頭をさげると、ボールを蹴り始める。
春樹は息苦しかった。人間って人を好きになると、こんなふうになるんだ。
ぼちぼちメンバーが集まってくる。その中に藤田もいた。
春樹は晶と藤田を交互に見つめた。二人の間には何もないように見えもしたが、特別なものがあるようにも思えた。
藤田が蹴ったボールが晶のもとへ転がった。二人は一瞬だけ視線を合わせて、すっとそらした。胸になにかがどん、とくる。
晶は春樹とは違う世界にいるのだ。もともとそうだったじゃないか。とても遠い人だったのだ。だから惹かれた。
それでも晶が幸福であるなら。晶が好きな人のそばで笑っていられるなら。春樹は晶を祝福したかった。
帰りの車の中でも、藤田と晶の会話はちぐはぐだった。わざとらしいくらいに藤田と晶はどうでもいいことで、盛り上がっては黙る。確実に自分の存在があるせいだな……と春樹らしくもなく、思考を巡らす。
ふいに、晶の腕が春樹に触れる。
「ちょっと、春樹、大丈夫? 熱あるよ」
ぱっと平たく冷たい手のひらを、晶は春樹の額にあてた。
「ちょっと、気持ち悪くなってきました……」
そういえば体の節々がいたい。鼻の奥に熱が溜まったような感覚もする。息苦しさや気持ちの悪さは、晶への思いからではなかった。
なんだよ。ただの風邪か。
晶が春樹の家を訪れるのは二度目だった。祖父母はすでに就寝しており、母も夜勤で出かけ、エンジニアの父親はプロジェクトが大詰めで、今日は帰ってこない。
熱をはかると三十八度を超えていた。
「夏風邪だな……」
「これ、冷えピタと、インスタントアイスノン。車の中にあったから使って」
晶と藤田が、かいがいしく春樹の世話を焼いてくれる。
「すいません……もう、大丈夫なんで」
春樹はベッドから、上半身を起こす。
「いや、大丈夫じゃないでしょ。……貢さん、俺、春樹を見てるんで、帰ってください」
「いいのか?」
「俺、明日も休みですし、昼から塾行けばいいし」
にこっと、晶はいつもの表情筋を使って藤田に笑ってみせる。
「……じゃあ、おれ、帰るな。何かあったらすぐに連絡してくれよ。佐藤、お大事に」
「はい……ありがとうございます……」
熱が上がってきたのか、ぜえぜえと苦しい息のしたから、春樹は藤田に礼を言った。
「どう? 具合」
晶の言葉に、春樹は軽く咳をした。
「すごく、苦しいです……」
晶に甘えたくなって、春樹はそう告げた。
晶は、インスタントアイスノンをタオルでくるんで、春樹の頭のしたにおいてやった。かいがいしく看病をしてくれる晶に、春樹は自分の中の留め具が跳ね上がる音を聞いた。
「……晶先輩、藤田さんとなにかあったんですか?」
「え? なんで」
ノンフレームの眼鏡の奥にある、きれいな虹彩のはしばみの瞳が、怯えを見せた。
「藤田さんと、一緒にいたくないんですか? 強引に藤田さんを追い返しませんでしたか」
「そうでもないけど」
「オレにはそう見えました」
全体を青で統一された春樹の部屋のラグに座り、晶は膝を立て、頭をかしげる。そんな仕草さえ、いいな、と春樹はぼんやり見つめた。
「そういや、そろそろ夏も終わりだよな」
晶は春樹が寝ているベッドに、肘をつく。
「あと十日もしたら学校始まるし……俺さ、夏休みでフットサルやめるんだ」
「え?」
「進みたい東京の大学があるけど、ちょっと偏差値が足りなくて……だから、秋から塾の補講も増やす」
晶が遠くに行ってしまう。藤田とのことで、春樹は晶に距離を感じていた。いっそう遠くへ、手の届かないところへ行ってしまう。胸にしみのような恐れが広がった。
「東京行ったら、藤田さんとはどうするんですか」
自分でも驚くくらい静かな声が出た。
晶が体を起こして、春樹を見た。ノンフレームの眼鏡ごしに、きれいな虹彩のはしばみの瞳が大きく見開かれた。
「なんで……」
「藤田さんと、一緒に、東京いくんですか?」
「そんなわけない」
晶がかぶりを振った。
「俺は……先輩が藤田さんに「あすみさん」がいてもいいって言ったのと同じように、先輩に藤田さんがいてもいいです」
「こないだの公園で、はなし、きいてたの」
春樹はこくんと、首を縦に振る。
晶の顔がくしゃっとゆがむ。春樹から顔が見えないよう、晶は顔を背けた。
「ちがう。貢さんと東京に、いくわけない」
「なにがちがうんですか」
「貢さんは、もうすぐいなくなる。……聞いたんだ。来年の春、海外へ赴任する内示がおりたって。だから、「ちゃんとする」って。貢さんは、「あすみさん」と結婚する」
「じゃあ、どうしてあの日、一緒に行っちゃったんですか」
「思い出、つくってもらった」
春樹はがばっと、ベッドから起き上がった。
晶の肩を掴んで、ぐいっとこちらに向かせる。晶は下を向いていたが、涙をこらえていた。
「そんなの、おかしいです」
「なにが。春樹には関係ないだろ」
「関係なくないです」
「関係ない、お前には関係ないだろ」
「おかしい、そんなのおかしい、藤田さんが好きなら、奪えばいい」
春樹は自分の言っていることが理解できなかった。それでも、どんどん言葉が口をついて出てくる。
「オレは藤田さんと晶さんが、どういう関係だか、知らないです。「あすみさん」も知らない。……でも、なんていうか、藤田さんを諦めないでくださいよ。好きなら追いかけてくださいよ」
藤田への嫉妬、晶への渇望感、なにより、晶には幸せでいて欲しい、そんな気持ちがまるで奔流のようにして、吹き出してくる。自分という防波堤が、決壊してしまう。
掴んだ晶の肩を自分のほうへ引き寄せて、うすっぺらな体を抱きしめた。
「……お前の言ってること、よくわからないよ……」
晶はそれだけ言うと、そのまま春樹の胸に頭を押しつけ、嗚咽を漏らした。
「オレもよくわかってないですけど、そうとしか、言えないんです」
そのまま春樹は、ぐっと晶をベッドに押し倒す。晶は抵抗しなかった。
クーラーと、外を走る車の音だけが聞こえる。
衣擦れの音が、やたらとはっきりと耳に入ってきた。
「俺も、よくわかんないや」
晶が腕を伸ばしてきて、春樹の首を捉えた。そして自分のほうへ寄せる。目と目があった。春樹の真っ黒な瞳は熱で潤み、晶のはしばみの瞳はそんな春樹の瞳をガラスのように映していた。カーテン越しに、電灯の光が晶の瞳に入った。さっと、眼鏡を外したはしばみの瞳が緑色を帯びた。
その瞬間、春樹は晶にキスをした。がち、と歯と歯が一瞬当たるが、晶がすっと横にずらした。幾度か触れるだけのキスをすると、柔らかくて温かい舌が春樹の唇を割ってきた。いきものみたいなそれは、春樹の口腔をぶしつけに蹂躙した。必死になって、晶の舌に春樹は自分の舌を絡めた。
はじめてなのに、まるで手順を知っているみたいだった。春樹は晶のシャツの裾から手を入れて、ほどよく筋肉が付いているけれど、浮いているあばらに自分の筋張った長い指を這わせた。晶も春樹の服を思い切りよく脱がせる。全部脱いでしまうと、春樹はぎゅっと晶の体を抱きしめた。熱があるせいか、晶の体はひんやりとしていて気持ちがいい。晶も春樹を抱きしめ返した。
藤田と比べられたらどうしよう、と一瞬、戸惑ったが、どうでもよくなって、がっついた。あちこち噛んでなめて、必死だった。晶の胸は春樹の大きなてのひらで押すと、ぺこん、と音がしそうだった。
未発達の少年ぽさと、そしてできあがりつつある濃厚な男の色気が春樹の体からは溢れていた。
春樹の肌より晶の肌は白く、また血の色が透けて見えるようだった。
晶の胸をぺろっと舐めてみると、少ししょっぱい。さあっと朱が肌を染め上げる。
「あっ」
晶の声があがった。嬉しかった。晶が自分を感じているのだ。頭がくらくらする。首の根元を噛むと、軽く歯形がついた。ぞくっと背筋に電気が走った。もっともっと、晶が欲しい。
「先輩は、きれい、ですね」
「なに、いってんの? 俺、男だよ」
「それでも、きれいです。……そんな言葉しか、出てこないんです、オレ」
この人はとてもきれいだ。乱れていてもきれいで、びっくりしてしまう。
美しいオレの神さま。
晶が春樹の手をとると、指をからみつかせてきた。
この手で、どんな物語を描こうとしているのだろう。その言葉の一つに春樹はなりたかった。
きれいな虹彩のはしばみの瞳は、今、どんなふうに輝いているんだろう。それが見たくて、まぶたをなめると、晶がきゅっと「いや」と、目を逆につむってしまう。
そのまま強く抱きしめ、体を下へずらしていく。同性の体を触ったことなんてない。それでも欲のままにちゅ、ちゅ、と何度もリップ音を鳴らして、その肌を堪能した。
そして、必死に薄い晶の体を求めた。晶の性器を口に含むと、晶に髪をつかまれる。
「あ、ああ、……!」
「はじめてじゃないから、大丈夫なんでしょ?」
思わず意地悪を言ってしまう。
晶はぱっと目を見開いたが、そのまま、また声をあげた。筋肉がついているけれど、細い足をばたつかせる。征服欲が湧いてきて、力に任せ、晶の足首を掴んで広げた。
足の筋肉はやはり間近で見ると、とても美しく、骨の上に乗っている。そして、その骨はどちらかと言えば、しっかりとしていた。その足を舐めあげると、ひぅと声があがる。
この足で、ボールを蹴って、オレにパスしてくれた。
あの時、春樹は信頼されていると感じた。そんなふうに、誰かから信頼されているとか、しているとか、考えたこともなかった。
いやだな、今のオレはかっこわるい。がっついてて、頭がパンクしそうだ。体が熱のせいか、興奮しているせいか、汗がぽたぽたと落ちる。冷房も意味をなさない。
「そうだよ、はじめてじゃない」
「……」
がん、と言う音がして、頭を殴られた気がした。
「……だからって、見るなよ、はずかしい」
そういう晶の足をぐっと広げて、口を大きく開け、性器を含みながら春樹は言う。
「藤田さんには見せたんですか、平気なんですか」
だんだんとまたマジキライの呪文が頭でまわる。すると獰猛なけものが自分のなかから出てきそうだった。
「平気なわけ、ないだろ……」
春樹はまた晶の性器を含むと、すすりあげた。自分が自慰をする時、どこが気持ちいいか思い出して、必死になる。裏側を舐め上げると、晶のあげる声が悲鳴じみてくる。
「は……ああ、いぃっやだ、……はるき、だめ、いや、う、……はぁ、あぁっ……」
そのまま、吸い上げていくと、
「あ、ああ……あ! や、やあ、いくっ」
晶はそう叫ぶと、達してしまう。口の中に温かくてぬるっとしていて、苦いものが広がった。思い切って、口内にある精液を飲み下してしまう。
「お、お前、なにやってんだよ」
はあはあと息をつきながら、晶は上体を起こして春樹の顔を見た。高揚しているのか、晶は顔から首、そして全身にわたって、肌が赤みを増していた。
「先輩の精液、飲んだだけっす」ぐいっと、春樹は口をわざとぬぐってみせる。挑戦的で野蛮な顔をしている、と自分でもわかっていた。
しかし、春樹の顔を見た晶は、今度はどんと春樹を突き飛ばした。
「わっ」
春樹はベッドに押しつけられ、晶が春樹の足と足の間に体をいれた。晶の唇が春樹の性器を包み込む。晶も頭がおかしくなっていた。晶の中にあるけものが、春樹に引きずられて顔を出した。
春樹はべろりと舐め上げられると、そのまま、温かな口腔に含まれた。
「やめてください、ちょっ」
「いや」
春樹を含みながら、晶はもごもごとそれだけ言うと、痛いくらいに愛撫を繰り返す。晶に吸われて舐め上げられて、春樹は頭が吹っ飛びそうになった。
口淫されるのははじめてだった。ねっとりとした温かさに包まれて、どんどんと追い込まれる。鈴口を割られて、吸われて、ふと晶のほうを見た。自分のものを含んだ晶と、目がばちっとあう。茶褐色の髪が邪魔をして、きれいな虹彩のはしばみの瞳はよく見えなかったが、深い瞳孔が広がっているのを見た瞬間、春樹は果てた。
「あ、ああっ……」
結局、性器をこすりつけあって、お互いを慰め合って、何度か精を吐き出した。
このきれいな人は、あの「読書ノート」の文章のように、すべてがどこかしら優しくて、丸みを帯びている。しかし、本質はその骨のようにしっかりとして、真っ白なのだ。この人を焼いたらきっと白い骨がすらりと残っているのだろう。
何度、「読書ノート」のやりとりをしても、春樹にはわからないことがある。何が、晶を、そのように物語へとかき立てるのか。そうして、藤田へと恋心を駆り立てるのか。
それを理解したかった。だが、晶の体を抱いてもわからないままだった。だから、もっともっとと、欲望が溢れてくる。
晶は春樹が吐き出したものを受け止めて、すくって舐めた。
よだれがしたたり落ちるのも構わず、お互いの唇をなめ、激しく舌を絡ませた。晶は春樹の膝に乗って、抱きついて、何度も春樹の唇を食んだ。そして、春樹のものも自分の体で食んだ。
無言だけれど、相手の激しくなる呼吸がしっかりと聞こえてくる。
春樹の性器は晶を追い詰めて、狂わせた。それは春樹も同じだった。晶の中に自分がいる、晶につつまれている。
「せんぱい、せんぱい」
そう口にするので必死だった。
二人ともだんだん息があがってきて、酸欠みたいになってくる。はあ、はあ、と言う声が部屋中に響いた。
目をあけると、いつもの天井があった。
起き上がると、体のうえにタオルケットがかけられていてびっくりする。あれはうそでも夢でもなかったのだ。
部屋を見渡したがぐちゃぐちゃになっていたシーツは整えられ、脱ぎ捨てた服もたたんであった。
机の上にポカリ、ゼリー、追加の冷えピタがあった。
ぴらっとメモが残っている。見慣れた丸みを帯びた晶の字だ。
「帰ります。お大事に」
とだけ、書かれてあった。
熱は平熱まで落ちていたが、まだ、夢を見ているような心地がした。
そのまま、夏休みは終わった。
晶は春樹と「あんなこと」をしてしまい、頭を抱えたくなった。
貢とセックスをした。それで思い出を作ってもらった。何度も深くつながって、幸せだった。そう思っていたけれど、貢がいなくなる、「あすみさん」と結婚することは、晶の奥深いところを傷つけたままだった。平気な顔をしていたつもりだった。
そしてそのまま、年下の、自分が面倒を見ている気になっている春樹に慰められて、自分からも激しく求めてしまった。
何より、春樹に言葉をぶつけられて、戸惑った。
「おかしい、そんなのおかしい、藤田さんが好きなら、奪えばいい」
「藤田さんを諦めないでくださいよ。好きなら追いかけてくださいよ」
そして、そう言って自分を嬲っている時の春樹はフットサルで見せる、きれいな野性の生き物のようだった。
貢を奪うなんてできない。そんな勇気もない。割り切るために、貢に無理を言って、セックスしてもらったようなものだ。
だからこそ、春樹のことを考えると、申し訳なくなってしまう。
「俺、春樹にひどいことしたよな……」
春樹が避けないでいてくれたら。と考えたが、それは虫がいい気がする。
それにあんなふうに、こっそり帰るべきではなかった。
焦っていたのだ。「コミュモン」も悪手を打つのだ。
九月 初旬
夏休み限定のバイトも終わり、一年と三年ではなかなか顔を合わせることはなくなった。「読書ノート」は、晶のもとにあって、巡ってくる気配もない。
「宙ぶらりんだ」
春樹はぼんやりと、晶のことを考える。
晶が何も言ってくれないと、春樹は動きようがなかった。怖かった。会いに行って拒絶されるのが。今までこんな恐れを抱いたことは、なかった。
恐れから逃げるように、フットサルに打ち込んだ。夏休みが終わるタイミングで、晶がやってきて引退の挨拶をしていった。
「送別会、ほんとにしなくていいのか」
「嬉しいんですけど、後ろ髪を引かれそうで。あと、模試や特別補講で時間がないんです」
村上の言葉に、晶は困ったように笑った。
帰ります、と言って晶はみんなに手をふった。
「春樹、頑張れよ」
晶は茶褐色の髪を揺らして、にこっと微笑みかけてきた。いつも見る、あの笑顔。誰にでも使うための笑顔。
それを向けられて、春樹は黙って見送るしかできなかった。
秋の気配が深まる頃には、春樹はすでにチームの主力になっていた。
「お疲れ」
目の下にくまをつくった東が練習場にやってくる。
「お、何徹目?」
石田の言葉に、東は頭を振りながら言った。
「三徹目です。研究が進まなくて」
「すごいな。学者にでもなるのか」
「そうですね。大学でもどこででも、今の研究ができれば、有り難いです。でも村上さんも忙しいでしょ」
東が練習着に着替えながら、はなしているのを、春樹はぼんやりと聞いていた。
「まあ。商社なんて、体力馬鹿じゃないとやれないねえ」
「そういうものなんですか」
春樹が会話に加わってきたことを、その場のメンバーは若干驚いたような顔をして見つめた。
「佐藤がこういうはなしに食いつくの、はじめてじゃない?」
石田がけらけらと笑ってのけるのを東が年下にもかかわらず、尻に蹴りを入れた。
「そうだな、体力はいるし、いろいろとごちゃごちゃはしているよ。俺らの世界は特にね。金とものを回す仕事は、魑魅魍魎しかいないなあ……それが面白いけどな」
村上がストレッチをしながら、春樹を見上げてくる。
「俺んとこだって、大変だよ。花屋なんてもうかんねえし。婿の立場で自営なんて、やるもんじゃないわ。舅のプレッシャーも激しいしよ」
石田がぶつぶつと言ってのける。
「村上さんも、東さんも、石田さんも、なんでフットサルやるんですか」
「え、なに? これは面接ですかぁ?」
「うるさいですよ、石田さん」
また、東が石田に蹴りを入れるが、石田はきゃきゃと笑ってのけた。なんだかんだと仲がいいのだろう。この二人は。
「そりゃあ、楽しいからでしょ。歳を取ってきて、仕事仲間だけとの飲み会しかない世界とか、つまんないし。それに、部活やってるみたいな気分がすんだよね」
「俺は、フットサルやると研究が捗る気がする」
「俺は、女が寄ってきやすいから」
「石田さんは黙ってて」
「佐藤も楽しいから、やるんだろ」
村上は目尻にしわを入れて、微笑みかけてきた。
楽しい?
確かにそうかもしれない。サッカーも楽しかった。ただ、それはもう色彩を失っている。
今は晶と会う勇気が持てなくて、フットサルをやっていると、晶のことを思い出さずにすんだ。しかし、ゲームをすると晶がいて、パスをくれるような幻影も抱いた。
それに、フットサルは確かに春樹と肌があった。激しくて、熱くて、コンパクトにまとまっているところを、春樹は気に入っていた。ゲームを支配する時、自分の野蛮さが剥き出しになるとぞくぞくする。
晶がいなくなれば、別にやめてもよかった。しかし、フットサルから離れる選択を春樹はしなかった。
そんな時に、高校生で構成されるフットサルチームから春樹に声がかかった。
村上と一緒にスカウトと会った春樹は、良い成績をあげればフットサルでプロになれると知った。
帰り道、春樹は村上の車に乗せて貰った。
運転をしながら、村上は春樹にはなしをしてくる。
「サッカー選手と違って、プロでも年収は五百五十万から六百万程度だぞ」
「……十分です。欲しいものも特にないし。その前に、プロにならないと意味ないですよね」
「お前らしいや。でも、金はあるにこしたことはないぞ。……そういや、サッカーはもうしないの」
「村上さんは、フットサルが楽しいからやっているって、言ってましたよね。今はフットサルが多分、オレは楽しいんです」
「そっか。……まあ、お前の人生だ。好きに生きたらいい。諦めたくないことがあるなら、追いかけるべきだし、どうでもいいなら、それはほうっておけ」
春樹はきょとんとした顔をして、村上を見た。
「俺たちだって社会の枠にだけとらわれて、生きてるわけじゃない。歳を取るのは楽しいぞ。いろんなことがどうでもよくなる。まあ、そこで自分なりに守るものや、育てるものもできてくるけど、俺は今が面白い」
「そうなんですか」
「ああ。俺は十年後のお前に会うのが、楽しみだ」
春樹は少し照れて、どういう顔をしたらいいかわからず、外を流れていく海の景色を見た。
「ありがとう、ございます」
春樹は晶に連絡したかった。だが、どうしてもできなかった。借りていたブルーレイは返すことができず、読書ノートのやりとりも途絶えた。三年と一年が顔をあわせることは滅多にない。昼飯もいつしか、クラスメイトと食べるようになった。
晶がどうして藤田に惹かれたのか、春樹にはわからなかった。そんなことは、春樹にはどうでもよかった。晶は好きにしたらいい。藤田を追っかけていってもいい。藤田と「あすみさん」との結婚式に乱入したっていい。そして藤田と幸せになったらいい。
でも、ずっと自分は晶を思ってしまうだろう。あの夜のこともずっと忘れない。それだけでよかったのだ。
そんな時、春樹の心に入ってきたのが、えりだった。
「春樹、ご飯たべた?」
えりがずかずかと春樹の家にあがるようになってきたのは、晶と過ごした夜からしばらくしてからだった。
「食べてないけど」
春樹はリビングで歴史の赤点をなんとか回避しようと、復習のために教科書に向かっていた。
「おばさん、夜勤でしょ。冷凍室にシチューあるって聞いてる」
それからも、えりは小鳥や小さなうさぎや猫のように、春樹のまわりをちょこまかしてまわった。
「これ、私が作ったの」
えりは、手提げ袋に入れたお弁当箱を出してくる。
きんぴら、からあげ、だしまき卵、ポテトサラダ、おにぎりがぎっしり詰まっていた。
「これ、えりのおばさんがつくったんじゃないの」
「失礼ね! ちゃんと私が作ったわよ!」
春樹は箸をとり、口にはこぶ。えりがそれをじいっとにらんでいた。
「うん、まあまあ……」
「おいしいでしょ!」
でこぴんが飛んでくる。ぴしっと音がして、春樹のおでこが赤くなった。
秋が深まって行くのと比例して、えりと春樹の距離はどんどん近くなった。
春樹の新しいチームでの試合をえりは必ず観戦にきた。栗色の髪を三つ編みにし、ベレー帽にブルゾン、ロングスカート、ブーツをあわせたえりは、ほかの誰よりぴかぴかしていた。
それでも、試合の時には晶の言葉を思い出していた。
「好きだな、理解したいな、理解して欲しいなと思える人間がいたとするよね。そんな相手には、「自分が思っている自分」として見て欲しい。そんな時、言葉が役に立つとするなら、嬉しくない?」
チームメイトも、所詮はどうでもいいやつらだ。だが、勝ったほうが楽しい。
春樹はできるだけ、丁寧に的確に言葉を使うように意識し、行動した。
「サンキュー、春樹!」
「佐藤、ナイスアシスト!」
そんな言葉をかけられることがどんどんと増えていった。
ああ、自分が晶の言葉に動かされている、と春樹は天を仰ぐ。
えりは学校でも試合の終わりでも、春樹と一緒に帰るようになった。
晶と過ごしたショッピングセンターの広場を、えりと通り過ぎた。冬が近づくにつれ、えりは春樹の腕をとり、手を握ってきた。
春樹は晶のことを思い出して、えりの行動には戸惑った。しかし、まっすぐに気持ちを伝えようとえりは笑顔を見せ、寒くなっていく季節に寄り添うようにそばにいてくれた。
帰り道、別れる角ではじめてキスをした。
えりは心を揺さぶってこない。春樹の心を着地させてくれた。
クリスマスイブにはえりが作ったケーキを食べ、はじめてセックスをした。
えりの体はほっそりとしていて、しなやかだった。
時々、えりと晶がだぶることがあった。二人はまったく違ったいきものなのに、似ている気がした。きらきら光る若鮎のようなところが。
しかし、えりは晶よりずっと柔らかく、晶はえりより、ずっとしっかりとした男の骨格を持っていた。
「ずっと春樹が好きだったの。こどものころから、ずっと。ひとりじめしたかったの」
えりはそういって、春樹にしがみついた。
冬至はもうずっと前に過ぎ去ったのに、晶のことを考えると、自分の心の中の夜がぐっと早まり、闇が深くなる気がした。えりのことを大切にしたいと思いながら、春樹は晶を忘れることができなかった。
年があけて卒業式前、村上から連絡があった。
藤田の結婚式の二次会に参加しないか、と言う誘いだった。晶も来ると言う。受験も終わった頃だ。藤田と晶が同じ場所にいるのを見るのは、いやだった。それでも、晶に会いたかった。それに「あすみさん」という人にも、興味がわいた。晶が好きな藤田が選んだ女性はどんな人なのだろうか、と。
二月 下旬
「あすみさん」という人は、まるで絹のような人だった。二次会で藤田のそばにいる彼女を見て、春樹はその肌の白さ、華奢さに驚いた。嬉しそうに微笑む顔が、絹の肌触りを感じさせた。幸せってこういう形、生き物なんだろうな、と春樹は彼女から知った。
二次会はカジュアルレストランで、午後から行われた。春樹はあまり、こういったおしゃれな場所に来たことがない。大人たちに混じって、かしこまっているのは息苦しかった。
様々な出し物が行われている間、春樹は晶と少しだけ離れた場所に座っていた。春樹も晶も、学校の制服を着ていた。それがスーツ姿の大人に囲まれていると、心強くもあった。自分と晶は、つながっている、一緒なのだ、と。
藤田は一切、晶を見なかった。そして、藤田はずっと「あすみさん」を見つめて、笑っていた。
眼鏡をしていない晶の表情は、少し硬かった。時々、晶の喉がぐっと上がり、そして、口角が下がるのを春樹は見ていた。
それでも晶は時々見せる、人が心を許してしまう、あの笑みを浮かべていた。しかし、あの笑みは威嚇でもあるのだな、と春樹は彼を見ながら悟った。近づくな、テリトリーに踏み込むな、関わるな。
二次会が終わった瞬間に、晶は会場から素早くコートを着て立ち去った。それを反射的に春樹は追う。日はとっぷりと暮れている。
建物を出たあと、晶はローファーなのに凄い速さで駆けていく。それよりずっと速く春樹は走り、晶の腕を取った。ばしっと音がした。
「待ってください、先輩」
「いたい、離せ」
うつむいたままの晶の顔からぽたぽたと涙が落ちて、アスファルトの地面にしみをつくった。
「離したくないです」
ぐっと腕を握るとコートを通して、晶の腕の細さが伝わってくる。
「じゃあ、いいよ、そのままにしてなよ」
「はい」
「……俺、頑張っただろ」
「……はい」
「わかってた、わかってたんだ。納得してたけど、来るんじゃなかった」
「……はい」
「……あんなに残酷な人、好きになるんじゃなかった」
「そうっすね」
「そこは、お前……それは、ないよ、もっと言い方、あるだろ」
また、晶は崩れ落ちるようにして、泣き始めた。そのまま、春樹は晶を抱きしめた。
「オレ、アンドロイドなんで、よくわかりません」
自分でも冷静過ぎるとびっくりしたが、男性同士で使えるラブホテルを検索し、一番近いところへ晶の肩を抱いたまま連れ込んだ。
あとで考えると、あの時の自分は随分と切羽詰まっていたのだ。晶を助けたかったし、彼をまた、手に入れるチャンスだった。
晶は緊張がとけたのか、芯が抜けたようになって、泣きながら春樹に寄りかかっている。
「めちゃくちゃにしますから」
そう宣言すべきだ。それを実行することで、多分、晶は救われる。春樹はそう野性の勘を働かせた。だが、その割には晶の制服のボタンをいちいち丁寧に外し、ズボンを脱がせた。
タイル張りがきれいなバスルームの楕円形のバスタブに温かい湯を張り、丁寧に洗ってやった。
冷えた晶の体がすこしずつ、温かくなっていく。
泣くのをやめたかと思うと、また嗚咽を漏らす晶は、春樹の知っている「先輩」ではなくて、ただの小さな子どものようだった。
「めちゃくちゃにするんじゃないのかよ」
「これからしますけど」
そう言って、晶を風呂の中で後ろから抱きしめて、そのまま、引き上げてベッドに寝転がした。ぎゅっと晶が抱きついてくる。
「いっそ殺してくれよ」
「そうですか」
晶の体を言葉どおりにしてやろうと、うつ伏せにする。
「いたっ」
「殺されたいんでしょ」
自分がいらいらしていることに春樹は気が付いた。晶が耐えているのがいやだった。
「だから、藤田さんを奪えばよかったのに」
藤田の名前でまた涙を流す晶がうっとうしかったし、自分とセックスすることで救われて欲しかった。
何度も背中から、首を噛んで、悲鳴があがるほど、痕をつけた。
ばたつく足も体重をかけて、動けなくする。
「あ、ああ、いやッ」
「ここまで付いてきて、今更そういうこと言うんですか」
そう深くて暗い海のような声で言うと、耳朶を舐め上げ、舌を入れて、嬲り上げる。後ろに組んだ手を動かせないようにして、力を誇示してやった。こんなところで、こんなベッドの上で、自分が年齢も、経験も行く先も多分、ずっと追いつけない先輩にやっと逆転できている。
そう思うと、自分の中心がぐっと持ち上がるのを感じた。
「どうせ、浮気だったんでしょ、どうでもいい人になるんでしょ。お互い」
「ならない、そんなの、ならない!」
晶が激昂して春樹の下から抜けだそうとするのを、力を込めて押さえ込む。
「うそだ、先輩は藤田さんを奪えなかった。だから、浮気だ、遊びだ」
理論が破綻しているのは、わかっている。だが、晶が感情を剥き出しにするのが嬉しかった。
「喧嘩、しましょうよ。今、キレてもいいですよ。でも、オレには勝てないです」
「あ、ああっ」
舌で、首から、背中から何度も舐めて、キスをして、噛んだ。
「これ、弱いんだ」
「うるさぃ」
顔が見たかった。だから今度は上を向かせて、首をきつく噛み、眉に、頬に、ほくろにキスをして、最後に唇にキスをした。
「いたぁっ」
強く噛んで吸い上げると、悲鳴があがった。
「うそでしょ、痛くないでしょ。死にたいんでしょ?」
二度目の晶の体は、前よりもじっくりと味わえた。
素肌で抱き合うのは心地がよい。骨が折れるくらいに抱きしめたら、ほんとに死んじゃうのかな。きっと一緒に死ねたらいいんだろうな。
「なんで、おまえ、そんななの」
「そんなって?」
「なんで、こんなこと、できるの。ほてるとか、なんでつかおうとか、おもいつくの」
「……わからない、です」
本当にわからない。多分、きっと理由をつけようとしたら、いっぱいあるんだろう。
たとえば、この人が藤田のことをこの瞬間だけでも、忘れたらいい。自分にちょっとでも溺れてくれたらいい。すぐにセックスしたい。
でも、そんなことすらどうでもよくて、多分、自分の中にある野蛮さ、けものがこんなことをさせている。全部、愉悦のせいで、それを求める自分がいて、この人を所有したい。それができたら、きっと楽しいんだろう。
「なんか、よく、わからないけど、せんぱいと、こう、したいだけです」
晶の中心を握ると、そのまま上下させる。「あ、ああ、やめて、や、ああ、う……あ、熱い」
晶の後ろを、ホテルにあったローションでほぐすと、これもホテルに備え付けのゴムを着けて一気に挿入する。
「やあっ」
「黙って」
春樹は、自分の血管が全部破裂していくような感覚に陥る。晶の腕を取ると、また、噛み跡を付けた。
そして、何度も晶の中を蹂躙する。もうだめ、もういや、やめて、と言いながら、晶は涙を流し続けた。
「あ、あ、やだ、い、いく、だめ」
「もういくんですか」
「いやだって、いや、だめ、いく、」
何度も晶の体を本当は貪りたい、ずっとこうしていたい。
「いって。オレももうだめ」
好きだ、この人が好きだ。
あれ、でも、この人はオレの神さまじゃなかったのか? なのに手荒く扱ってしまっている、失敗した、オレは頭が悪い。いつも失敗している。年上って苦手だ。でもこの人は好きなんだ。だから、こうするしかない。
がつがつとグラインドをして、泣いている晶に抱きつかれて、ああ、ほんとにこのまま一緒に死ねたらいいな。そう、春樹は願った。死ぬなんて、今まで考えたこともなかったのに。
えりのことを一切、思い出さずにいたことにも、春樹は驚かなかった。
晶の中は熱くて、柔らかくて、酷く締め付けてくる。
ぎゅっと抱きしめ合って、晶はああっと泣きながら、いった。それと同時に、春樹も熱を放つ。
明け方にホテルを出て、二人はなんとなく距離を取ったまま歩く。きりきりとした冬の空気は肌寒くて、本当は前を歩く晶の手を握りたかった。でも、できなかった。
もう、晶は泣いていなかった。そのかわり酷くかさついた、乾いたような表情をしていた。
地下鉄の始発を、がらんとして底冷えする駅で待っている間、晶が缶コーヒーを渡してきた。いつも一緒に飲んでいたブランドのホットだった。
こういうところが、晶たる所以なのだ。
春樹の胸は、ぎゅっと痛んだ。
「ありがとうございます……」
あんなにめちゃくちゃにしたのに、今更、何をかしこまっているのだろう。缶コーヒーを渡すと、晶は黙ってうつむいた。
二人はそのまま何も言わず、始発に乗り、少し離れて座る。電車はゆっくりと走っていく。かたたん、かたたん、と揺れて、二人を運ぶ。春樹はじわっと焦っていた。
そして、とうとう何も言葉を交わさないまま、春樹が降りるM駅に着いてしまう。
晶を慰め、自分の心を明かすような言葉を伝えたかった。しかし、春樹は何も思い浮かばず、ホームへ降り立った。
こんな時、言葉がなにも出てこない。春樹は口をはくはくと動かしたが、気の利いた台詞など出てくるわけはなかった。アンドロイドなのだから。
終点まで行く晶を、春樹は白い息を吐きながら、見送った。電車がゆっくりと動き出す。春樹は誰もいないホームで、電車を追って、思わず走り出していた。
「せんぱい、せんぱい……」
冷たい風が、頬を切るようだった。そのまま全身を切ってしまってくれたら、いいのに。そしたら、先輩は振り向いてくれるんじゃないか?
こんなふうに、痛みと憐憫を欲しがる自分に春樹は驚いていた。
しかし、電車が見えなくなるまで、晶はずっとうつむいたままだった。
三月
晶たち三年生の卒業式が、やってきた。
春樹は体育館に入場してくる三年生の中に、晶の姿を認めた。一瞬だけ、視線がかち合ったが、すぐにどちらともなく、外してしまった。
卒業式のあと、思い切って、演劇部にいるかと寄ってみたが、晶は不在だった。
金沢はいつもの白い表情のない顔で、春樹にはなしかけてきた。
「いろいろあると思うけど、そうそう縁は切れないから」
「それはどういう意味ですか」
「そのうち、天啓がおりてくるさ」
いやに思わせぶりにそう告げると、金沢は春樹に「また会おう」と握手を求めてきた。
そのまま、帰宅の途についた春樹に、LINEが入ってきた。晶からだった。
大学に受かったこと、引っ越し先の住所、そして「お前は俺の大事な後輩だから」の一文だけが記されていた。
ああ。このまんま遠くなって、終わるんだ。
さみしい。
その言葉が、春樹の心をよぎる。もうすぐ、晶は、ここから去って行くだろう。そのことが、春樹の心に動揺を生んだ。ちくちくっとした感覚を、春樹は生まれて初めて抱いた。
ありがとうございました、先輩も元気で、お借りしているブルーレイはどうすれば……そんな文面を思いついたが、送った途端、すべてが終わってしまう気がして、怖くなった。
そしてそのまま、携帯をポケットにしまう。
これでいい。この土地でフットサルをやりながら、えりと一緒に日々を過ごそう。
四月 初旬
「ごめん、春樹。やっぱりあんたとは、もとの「幼なじみ」に戻りたい」
二年生に上がって、クラス替えが行われた始業式。春樹はえりに呼び出され、いきなり別れを告げられた。
春風はそよそよと吹き、桜のはなびらを散らしている。
突然のことで、さすがの春樹も動揺した。
「オレ、えりに嫌われるようなことしたかな……。頭が回らないところあるし、無遠慮なとこもあるから、えりが嫌がるようなことしてたのかも。……そうだったら、ごめん」
「違うの、春樹は悪くない」
えりの栗色の髪が、春風にそよいだ。ピンクのカーデガンを羽織ったえりの顔は西風に吹かれて、はっきり見えない。歴史の先生が見せてくれた「ヴィーナスの誕生」に描かれたヴィーナスと、えりがだぶった。
「春樹は、ほかの人が好きなんだよね。……私じゃないの、わかってる。私、ずっと春樹を見てたから……その人と春樹の間に距離ができたの、気がついたの。だからそこに入り込んだの。きっと、春樹のいつか一番になれるって思った。クリスマスイブも、お正月も、バレンタインも楽しかった。でも、いつも春樹は、うわのそらなの」
「そんなことない、オレはえりのこと、好きだ。ちゃんと見てる」
「ちがうよ」
えりはちょっとだけ、泣いているようだった。
「春樹はいつだって、どこにいたって、私じゃなくて、その人のことばっかり考えてる。きっと今もそうだよ……」
「……」
そうなのだろうか。春樹はえりの言葉に何も言えなくなった。オレが? 誰を? あの人のことを?
「ごめん。でも、ほんとうは春樹と一緒にいたいよ」
えりの泣く声が聞こえてくる。
「でも、ずっと「石井先輩」のことを思い続ける春樹のそばにいるのは、私が苦しいの……この半年だけでも、春樹に見てもらえないの、つらかった、苦しかった、ずっと「石井先輩」が春樹のそばにいるんだもん……」
えりはそれだけ言うと、鼻をすすり上げた。
春樹はなにも言えなかった。ひどく寒かった。自分がまだ、晶を引きずっていることをえりに言われて気が付いた。
ああ、ほんとうに、頭が悪い。アンドロイドと言われても仕方ない。いや、アンドロイドのほうが、ずっとできがいい。
「春樹はその人のこと、忘れてない。私がどんなにそばにいても、その人にはかなわない。……「石井先輩」って人のこと……たぶん、絶対に忘れられないし、忘れないんだ」
春樹は心臓を槍かなにかで、突き刺されたようだった。
「ずっと、春樹のこと、好きだった。だから、春樹の「はじめての女の子」になれて嬉しかった」
「そんなの……オレだって、えりが好きだよ」
「それは「幼なじみ」として、でしょ」
えりは春樹にでこぴんをした。それは触れるだけの、とても優しいものだった。春樹がおでこに手をあてると、えりは涙で赤くなった目でにっこり笑った。
「その人、追いかけてよ。春樹が本当に好きな人を、追いかけてよ」
それだけ言って、春樹の前から立ち去った。栗色の髪が揺れていた。
西からの風が吹いている。
春樹はぼんやりと空を見上げた。何が起こっているのか、まだ把握できなかった。
それでも、えりが言った言葉「好きな人を追いかけてよ」を、何度も反芻した。それは自分が晶に言った言葉と同じだった。
いつもじゃれあっていた、えりがいつの間にか、あんなに大人になっていたなんて、春樹は思いも寄らなかった。えりに大切にされている自分がいるということにも、びっくりしていた。
えりは春樹を宝ものみたいに、扱ってくれたのだ。胸がぐっと詰まった。
春樹はぐすっと鼻をすすり、まぶたをおさえた。
藤田が最後にフットサルの練習場にやってきたのは、四月も末だった。
「えっ赴任先にいってなかったの?」
石田が藤田の姿を認めてびっくりする。
「ええ、色々手続きが必要になって、一旦帰国したんです。明後日の夜の便で立ちます。そしたら五年は帰ってこられないので、最後にみんなの顔を見たくて」
へへと豊かな髪をかきながらいう、藤田の顔には二次会の時の冷たさはなかった。
「佐藤、今日、一緒に帰ろう。送っていってやる」
「……はい」
何でオレなんだ? 晶がいないこの練習場に藤田になんの用があるというんだ。
シャワーを浴びて、車に乗り込む。しばらく二人は無口だったが、春樹が言葉を発した。
「……俺、藤田さんとはなしがしたかったです」
「おれもそのつもりで来た」
「……なんで、東京に晶先輩と一緒にいかないんですか」
「佐藤はとんちんかんなこと言うな」
春樹はぼんやりと藤田という人間の輪郭をあらためて探った。でもよくわからなかった。ただ、凄く遠くにいて、自分みたいに子供には分からないことを藤田はたくさん知っている。そこに多分、晶は惹かれたのだろう。
晶が好きな男というのをしっかり目に焼き付けておこうとする。
「……二次会終わったあと、お前らふたりですっとんで出てったろ」
「見てたんですか。あんだけ晶先輩、ガン無視してたくせに」
「最後、ちゃんと見たよ」
「どっちかをちゃんと選んだらよかったんです。……もともと、あんたは奥さん、あすみさんだけを見てりゃよかったのに。……なんてか、オレはよくわかんねえけど」
「お前無口なのに口開くと毒いね」
山と海の狭い街を車は高速を通り、トンネルに入る。春樹はマジキライの呪文がまた頭でまわるだけで言葉がでない。いらいらする。
「どうとでもいえよ。……どうせオレはこどもだ。でも晶先輩を期待させた藤田さんが悪い」
人を誹謗する言葉がこんなに自分の口から出るとは思いも寄らなかった。いや、語彙力がないから暴力的な言葉遣いしかできないのだ。
「オレは、晶先輩が藤田さんと東京に行くんだって勝手に思ってた。……そうやって幸せになるのが恋愛ってもんじゃないんですか」
「そうだな」
「男同士とかよくわかんねえ。でも好きならそれでいいんじゃないんですか。オレはガキだから分かんないです。……でも、あんまりだよ」
ただ、春樹はわかっていた。オレはそんなあんまりな先輩につけ込んだ。先輩は始発の電車でオレをちらりともみなかった。
「お前に罵られると罰してもらっているなって」
「オレは藤田さんを罰してるつもりなんてない。オレは、あんたにそんなに関心ない」
自分がなにを言っているかも分からない。
「そっか」
嘘だ。晶の藤田を見る目線がいやだった。熱のこもった眼差しが大嫌いだった。大嫌い。大嫌いってあいう胸がかきむしられる不気味さで、気持ち悪さなんだ。今更、春樹は理解した。アンドロイドなのに。「晶先輩はほんとに馬鹿です。……オレが言うことじゃないですけど、二度と晶先輩の前に現れないでください」
「うん。そのつもり」
淡々とした藤田の口調に春樹はいらいらとする自分がいて、そしてじんわりと目尻が熱くなるのを感じた。
「あ、あんたが、あきらせんぱいをしあわせにしてくれたらよかった、くやしい。くやしい」
「……佐藤がそういうふうにいうの、おれはなんだか凄いところに立ち会ってるのかもな」
藤田の言葉が憎たらしかった。
「……そもそも晶はおれをほんとに好きだったのか」
「え?」
「確かにおれにはあすみがいたよ。でも本気で晶に引っ張られた。めちゃくちゃにしてやりたかったし、あいつの体のほうがおれを引っ張ったんだ」
「意味わかんねえ」
「もし、俺があすみじゃなくて晶を選んで東京にいったとする。そこで捨てられるのは、俺のほうだよ」
春樹は藤田の言葉に呆然とした。
「あきらせんぱい、そんな人じゃねえよ」
「……そうかな。おれはあいつのこと、怖かった。怖かったから触れたかったし、正直やりたかったし、あいつのこと、おれのほうがわすれられないんだ。あいつのペースに巻き込まれたのはおれだよ。本当は晶はおれのこと、一生、好きではいない。もの凄い嵐が待ってる気がした。晶は本質的には荒々しい、けものみたいなところがある。だからおれは安心できるあすみを選んだ」
「いみ、わかんねえ……」
「でも、もう、俺はお前にも晶にも会うことないよ。安心しろよ」
あっさりと言い放つ藤田は自分より大人で、ずるくて、凄く遠かった。
春先の浜風は湿気ており、潮の香りさえさせている。この匂いが春樹は嫌いではなかった。
晶と出会った時も、こんな風が吹いていた。
チームで、春樹はどんどんと頭角を現していた。試合では、いつもスターティングメンバーに入っていたし、チームの中心的存在として見られることが多くなった。
春樹はいつでも、潮の香りと湿気た浜風を纏っているような気がした。それは晶のことを考え続けていることと、変わらなかった。そして、その風はまるで、晶の肌のようだった。
二年生になったころから、演劇部の手伝いを再開した。
「はるちゃん、忙しそうだけど大丈夫なの」
新しい部長が、遠慮がちに聞いてくる。
「大丈夫です、やらせてください」
「よかった。金沢先輩も石井先輩も卒業しちゃって、男の子いなくなったから、助かる」
今年は「ロミオとジュリエット」を文化祭で上演する予定だ。
「はるちゃんがロミオやってくれると、嬉しいんだけど」
「それだけは勘弁してください」
二人は一瞬黙って、それから笑い合った。
五月 初旬
晶から「読書ノート」は返ってこないままだったが、春樹は一日の終わりに日記をつけるようになった。日記帳は、自分で選んだ青地に星座が銀色でプリントされた、やや値の張るものだった。
三年日記と言うもので、一日に書くスペースは、それほどない。言葉を紡ぐのがうまくない春樹には、それくらいが丁度よかった。
フットサルの練習内容、メンバーの様子、自分が飲んだもの、食べたもの、学校でのできごと……そんな程度でしかなかったが、晶と「読書ノート」をはじめたころに比べれば、格段に書けるようになっていた。
日記帳に向かうと、晶の顔が何度も浮かんだ。茶褐色の髪、左顎のほくろ、きれいな虹彩のはしばみの瞳、色素の薄い肌、そばかす……。
あの「読書ノート」が返ってこないように、晶の存在も帰ってこない気がした。
結局、会えないで、借りたままになっていた本とブルーレイを取り出してみた。晶と会うことがなくなり、えりと付き合っている間、しまい込んでいたのだ。
「スラムドッグ$ミリオネア」を再生しながら、春樹は晶のツイッターやインスタグラムを開こうとして、やめた。
そんなことをしても、なんの意味もない。
今の晶を盗み見るようなことは、したくない。
自分がどうしたいか、自分はどうなりたいのか。
藤田の言葉を思い出した。晶が藤田を捨てる? 嵐? その意味も掴めずに自分は一方的に晶が藤田を乞うていて、求めていたのだと、被害者なのだと、それを二次会の終わりに掠め取って陵辱したと思っていた。でもなにか違う。違和感が溢れでる。
えりはとても強くて、愛情に溢れていた。えりに自分は愛されて、大切にされた。自分はそのえりにさえ、追いついていない。
「その人、追いかけてよ。春樹が本当に好きな人を追いかけてよ」
ピンクの桜の花びらのなかで、えりが言った言葉がサラウンドして聞こえる。
「好きなら追いかけてくださいよ」
自分が晶にいった言葉だ。
「どうでもいいやつには、どう思われててもいい。でも、好きだな、理解したいな、理解して欲しいなと思える人間がいたとするよね。そんな相手には、「自分が思っている自分」として見て欲しい。そんな時、言葉が役に立つとするなら、嬉しくない?」
晶の言葉が頭の中で響いた。
晶はほかの人と違う。
晶は特別だ。
あの人は特別だ。
オレの神さまだ。
逃げたまんまだった。晶に拒絶されるのが怖くて、しっぽを巻いて逃げ出したのだ。あの地下鉄の朝、追いかけたのに、結局、えりに逃げた。傷つきたくないとさえ気が付いていなかった。
なにより「好きです」って、真正面から、ちゃんと言ってない。
晶、えり、藤田、かつてのチームメイト。みんなのほうがずっと確かに人間だ。
ジャマールは、「クイズ$ミリオネア」で優勝し、人が行き交う駅でラティカを待っている。黄色いスカーフをたなびかせ、ラティカがジャマールのもとにやってくる。「僕らの運命だ」ジャマールが告げた。
春樹はがたんと立ち上がり、リュックと財布、携帯とバッテリーだけを掴んで、部屋を飛び出す。どたどたと階段を駆けおりると、夕飯の用意をする母と珍しく家にいてソファでくつろぐ父がいた。
「春樹、どこかいくの」
「ちょっと出かけてくる」
「ごはんは?」
「また連絡するから!」
玄関であわててスニーカーをつっかけると、春樹はバン! と、ドアを開け、駆けだしていった。
駅まで走って電車に飛び乗り、S駅近くの夜行バス乗り場に到着した。バスを待つ人が、ざわざわと待ち合い室にひしめき合っている。次々に各地方へ旅立つバスが発車し、めまぐるしく人の群れが流れていく。
東京行きのバスには、まだ空席があった。慌ててチケットを受け取って、夜行バスに乗る。少し固くて春樹には狭い椅子に、体を預けた。窓側の席から、家路を急ぐ人たちの姿が見えた。
ふと、チケットに目をやると「東京行き かもめ号」と、書いてあった。
くすっと、笑いが漏れた。きっと、全部がつながっている。そして自分はまだ自分の運命の輪すら回していないのだ。知らないことが、きっとある。
なにより晶に会いたかった。
バスがエンジンをかけ、流れるように発車する。カーテンの隙間から、春樹は外を見た。高速に乗ると、オレンジ色の光が過ぎては去って行く。遠くへ、晶のいる街へとバスは春樹を乗せて走る。
何度か休憩を経て、バスは東京へ到着した。春樹はうとうととしか、できなかった。緊張して眠れなかったのだ。
早朝にバスを降ろされて、キョロキョロと見回す。東京ははじめてだった。降車場所には、たくさんの高いビルが建ち並んでいた。春樹の生まれ育ったところとは、まったく違っている。
晶が送ってくれた住所と、降車したところは随分と離れているようだった。
携帯でマップ検索をし、晶のマンションの最寄り駅を探す。
春の朝は薄ら寒いが、心地よかった。
「バッテリー持ってきといてよかった……」
始発の電車を待ちながら、春樹は携帯を見つめる。思い立って東京まで来てしまった。そもそも、晶が家にいるかどうかもわからない。それでも会いたかった。ちゃんと晶に、自分の気持ちを告げたかった。
途中、電車を間違えたり、乗るべき電車とは違う電車に乗って引き返したりしながら、なんとか春樹は晶の送ってくれた住所の最寄り駅にたどり着いた。
春樹は駅近くのコンビニに入り、マンションの場所をたずね、早足でマンションまで歩みを進めた。
胸が高鳴り、自然と歩みも速くなる。
「あった……!」
晶から送られた住所のマンションに到着する。新築と思われるマンションに、オートロックの扉。
思い切って晶に電話をする。
しかし、着信音が鳴るだけ。「おかけなおしください」と、アナウンスがむなしく響く。
春樹はマンションの呼び出しボタンの前で、躊躇しながら立っていた。どきどきしながら、晶の部屋番号「303」号室を押す。ピンポーンと音がするが、返事はない。
時計を見ると、午前六時三十分だった。もう、出かけているのかもしれない。大学まで追いかけようかと思ったが、どのキャンパスにいるのかも知らなかった。
途方に暮れた春樹は、マンションの前にあるエントランス横の花壇に腰をかけた。ふっと気が緩む。手足が温かくなって、眠気が襲ってきた。
自宅マンション前に、見覚えがある人影がいる。
晶は、ノンフレームの眼鏡のブリッジをくい、と中指であげた。
すたすたと近づくと、そこにはいるはずのない春樹がリュックを抱えて、大きな体をくたりと折り、壁にもたれて寝息を立てていた。
「はるき……?」
間違いない、春樹だった。
晶はそっと、春樹の肩に手を置いた。
「ねえ、春樹、起きて。風邪引いちゃうよ」
晶に揺さぶられて、春樹は目を覚ます。
「あきらせんぱい!」
春樹は目をこすって、しばらくぼんやりしていたが、ロング丈のチェスターコート、白のシャツに革靴、キャンパストートバッグの晶の姿をみとめて、がばっと立ち上がった。
「どうして、ここにいるの?」
晶はきれいな虹彩のはしばみの瞳を見開いて、春樹を見つめた。
ああ、ほんものだ、春樹はそう思った瞬間、晶に抱きついた。
「ごめん、携帯の電源オフにしてた」
晶は春樹を自宅マンションに招き入れてくれた。白い洋室九畳ほどの縦長の部屋は、きれいに整頓されている。まだ、段ボールが積み重なってはいた。
家電や家具は白、ベッドやカーテンはパステルグリーンで統一されている。本棚には大学で使う教科書や洋書、文庫本やDVDが整然と並んでいた。
「昨日から大学の劇団の仕込みがあって、ついさっき、終わったとこなんだ」
「劇団に入ったんですか?」
「うん。割と有名なとこで、集まってる連中も面白いやつばっかりだよ。今は演出助手の下っ端やらせてもらいながら、脚本書いてる」
晶はそういいながら、インスタントでいい? とコーヒーを淹れてくれる。
「……東京くるなら、連絡くれればよかったのに」
晶は春樹がここまできた理由を薄々悟っていたが、それを口に出すのは傲慢な気がして、少し強めに「東京」と言う言葉を使った。
「いえ、急に思いたったので……」
窮屈げな春樹を見て、晶はやわらかな微笑みを浮かべた。いつもの表情筋は使っていない。
「ちょっと背ぇ、のびたね」
「そうですか……自分じゃ気がつかなくて。先輩も、髪の毛、のびましたね」
「受験から卒業式、引っ越し、入学式ってどたばたしちゃって。……それにしても、ちゃんとここまでよくこられたね。俺、まだ迷うよ。平地、怖いわ」
マグカップを、晶は春樹に渡した。
「ありがとうございます。……携帯のマップで、検索しました。でも、かなり迷ってあちこち行っちゃいました」
漆黒の液体は湯気をたて、白いマグカップとコントラストをなしていた。
「……春樹は、こっちに何か用事があったの?」
晶はわざとそんなそっけない言葉を春樹に振った。自分から春樹の意図することを口に出すのは、怖かったが、春樹にその負担を分け渡した。ここまできたのだから、きっと、春樹は応えてくれる。そんな甘えもあった。
晶の言葉に、春樹はちょっとだけコーヒーをすすってから顔をあげた。そしてしっかりと、晶の瞳を見つめた。朝の光がきれいな虹彩のはしばみの瞳に反射して、輝いていた。
「どうしても、先輩に会いたかったんです」
春樹は、自分の声が震えているのを感じた。
晶は春樹の顔つきをまじまじと見ながら、随分と大人びたな、と、どこかカメラ越しに見ているような気がした。
「ちゃんと、先輩とはなしがしたかった。先輩が、いなくなって……オレが悪いんですけど、先輩を避けてしまって、会えなくて、すごく寂しかった。分からないこともあった。それに、ちゃんと真正面から、言いたかった」
「なにを」
晶が真剣に春樹を見つめてくる。
「先輩のこと、好きです」
ぱっと、晶の瞳孔が大きくなった。
「……」
「ずっと好きでした……。晶先輩は、オレにとってのジョナサンです。神さまです」
「そんないいもんじゃないよ、春樹」
晶はすっと、視線をそらした。
「俺は、お前が思っているようないい人間じゃない。……石田さんみたいに、男でも女でもいいから遊んでみたかったし……人も自分も傷つけてみたいって気持ちもあった。そういうことに、興味があった。だから好き勝手やれる石田さんが正直羨ましかったし、妬ましかった。……そんなことする勇気もないくせにね」
「……」
「俺さ、お前のことちょっとかわいそうって思ってた。ひとりなんだなって。ロボットやアンドロイドみたいで、コミュニケーションへたで。でも結局は俺のほうがお前よりずっとひとりぼっちなんだ」
「……はい? 意味わかんないです。たくさん、友達いるじゃないすか」
「人の付き合いの濃淡なんて、当人にだってわかんないよ。俺は誰かに関心を持ってかき回して、いい気になってるだけ。そしてそれを書けたらいいんだ。傲慢なんだよ」
晶の扱う言葉が格段に難しくて、春樹は戸惑った。
「でも、俺みたいなのでもいっぱい傷つくんだ。っていうか、俺、よわいの。自分でよくわかった。……二次会のあと、お前と一緒にいられて、ああいうことして、ほんとは凄く助かったんだ。……俺。ああいうセックス、好きな人間なんだって。ぐちゃぐちゃになれて、俺のばかばかしい生き方が壊れて」
「あれは、オレが悪いです」
「そんなこと、ない。いやだったら、付いていかない」
「そうですか。オレはずっと、後悔してました。もっと優しくできたら、もっと先輩のことを考えていればって」
「そんなの、無理だよ。俺が駄目だったんだから。あの時、ほんとに駄目だった。……よく、大学も受かったなって思ってる」
「……」
「貢さんのことだって、ほんとは「あすみさん」って人がいなかったら、あんなに好きになっていなかったかもしれない。どっかで、ひりひりした遊びがしたかったのかもしれない。……そういう人間だよ、俺は。お前がいうように、「浮気」だったのかもしれない」
なにか言葉を、と思うが、春樹にはそういった言葉の倉庫がない。だから黙っていると、晶はさらに口を開いた。
「そういう自分だったら、もっとものが書けるって思った。ばかだろ。ミイラ取りがミイラみたいなもんだよ」
自嘲するように笑う。
「藤田さんは、晶先輩にいずれ自分が捨てられるって言ってました」
「そういうところ、たしかにあるかもね」
「それがほんとの気持ちですか?」
春樹の瞳が晶の瞳を射貫いた。
「春樹は、どういうことを俺に、聞いてるの」
「藤田さんとのこと、本当の気持ちを教えてください」
ふうっと、晶はため息をついた。そして、冷えた風のような涼しい声で、つぶやいた。
「……そうだよ、本当は貢さんに好きになって欲しかった。貢さんに振り向いて欲しかったし、貢さんの全部が欲しいって……ずっと欲しい、欲しいって、そればっかりだった。でもそういう自分にも酔ってて、痛い目にあってる自分ならもっとなにかが手に入るって思った。欲張った。貢さんのいうことは当たってて、はずれてる」
「はい」
「だから、春樹に「神さま」なんて、言われる資格、俺にはない」
「それは、今は……どうでもいいです」
「え?」
「オレが晶先輩、……晶さんを好きなんです。晶さんと、ああいうことして、メモだけ残されて、すごく惨めな気がして……。二回目も、ちゃんと言える言葉がなかった。……ああ、拒絶されるのかな、あの時のことは「なしにしよう」ってことかな、って。全部。全部、「なし」ってことかなって。すげえ、臆病でした。ほんとにすみませんでした……でも、オレは晶さんが好きなんです。だからどうでもいいです、晶さんがどんな人でも」
「でも、お前、彼女いるじゃん」
春樹は驚いた。
「知ってたんですか……」
「そりゃ、学校からの帰り道に、栗色の長い髪のかわいい子と、手を恋人つなぎして歩いてるの、見たから。知ってる。卒業式の日にLINE送ったけど、返信ないし。いろいろ、「終わったな」「ちゃんと言えないままだな」って思ってた。これでも、かなり落ち込んだし……」
「ふられました」
「ええ?」
「「春樹は自分なんて見てない、ずっとうわのそらだった。ずっとほかの人のことを考えている、それは石井先輩だ。幼なじみに戻ろう」って、はっきり言われました」
「はあ……」
晶は呆然とした。
「すごいな、あの女の子。そこまで春樹のこと見てて、春樹が好きだったんだ……でも、きっと彼女は、本当は……ずっと春樹と一緒にいたいんじゃないかな……今でも」
「えっ」
春樹はそんなことを思いもしなかった。
「あの女の子、本当に春樹のことを大事だったから、「幼なじみ」に戻ろうって言ってくれたんだよ……」
「……まったく、気がつきませんでした……。 やっぱりオレはアンドロイドなんです」と整った顔をそのままにつぶやいた。
「……俺もさ、金沢に言われたんだ。「お前は蜘蛛の糸をたらして、罪人たち、カンダタをうまく操って遊んでいる、お釈迦様か」「罪人やカンダタは、ちゃんとした意思を持った人間だよ。お前はお釈迦様じゃない」って。「お前はなにもわかっていない」「自分の欲望で周りを振り回すな」って。「なにがコミュモンや」って。……誰のことも、ちゃんと見てなかったんだな、俺。小学生の頃から変わってない。自分勝手だった。ただ、人の世話を焼いて、うまく立ち回ってるつもりの自分が好きだっただけ。芥川の「蜘蛛の糸」っていうはなしのお釈迦様と一緒。気まぐれな神さまのつもりだった。仏様のつもりで、みんなを手の平でみつめて、自分は糸を垂らして、そんで右往左往する人たちを記憶して、物語にしてた」
「金沢先輩がそんなこと、言ってたんですか」
春樹は金沢の言葉を思い出した。
「そのうち、天啓がおりてくるさ」
「全部見通してたのは、金沢かもな。……あのさ、春樹。俺、まだ貢さんのこと引きずってるよ。それにひどい人間だよ」
「……それだけ好きだったんじゃないですか」
「そうかな。自分が勝手にできるって思ってたところで、二次会呼ばれて、幸せなところを見せつけられて、俺は逆にあれで貢さんに引きずられているんだから」
晶はそう言って、マグカップをテーブルの上に置いた。
春樹はもしかしたら、藤田はそうするために二次会に晶を呼び、一切無視したのかもしれないと思い至る。そうしたら、この二人の間にはどんな感情があったのだろうか。さわやかで大人で立派な藤田も、所詮は弱くて、晶の深いところに自分を残したかったのだろうか。人は不思議だ。人は難しくてこわい。
「晶さんがそうだったとしても、どんなにひどい人間でもいいんです。晶さんが、おかしくっても、自分勝手でも、ひとりでも、オレは晶さんが好きです……今は、そばにいられないですけど、でも、ずっと好きです、これから先も」
春樹は、つきものが落ちたような顔をしていた。それを見て、晶は言葉を続けた。
「俺ね、脚本学校でたくさんガリガリかいてるうちに、自由だって思った。俺は世界を作ってるって。貢さんともお前とも色んな人といろんなことがあればあるほど、もっと書けるんだって。傲慢だろ。それを金沢に言われた。……でも、もし、お前が死んだり、貢さんがあすみさんと俺のせいで別れたりしたらそれも書いちゃうかもしれない。……でも、そういうのって、才能じゃないし、本当の書く力じゃないって、なんか、こう、分かってきた」
「そういう晶さんが好きです」
晶はしばらく春樹の顔を見つめると、そのまま唇を寄せてきた。春樹もそっと近づく。目はあけたまま、軽く唇同士が触れた。
まばたきをしながら、キスを繰り返した。相手が自分の瞳を覗き込んでいることが、不思議だった。甘いような、しょっぱいようなキスだった。
二人は少しだけ、泣いていた。
春樹は、そっと目を閉じた。唇の感覚に集中したかった。柔らかな晶のそれが、ちゅ、ちゅ、と音を立てて、春樹の唇を食むと、舌で春樹のまつげを、すっと舐めた。
その間にも、春樹は本当のところ、晶は春樹のことを東京までやってきて、重たい奴って思っているんじゃないか。こうやって抱き合ってくれているのも、おなさけなんじゃないか、と不安になっていく。
だが、今、目の前に晶という魂と肉体があるのに、それがいつわりなんて、おなさけなんてあり得ないと、頭の中で全部なぎはらって、晶の体を抱いた。白いシャツの手触りの向こうに、膝立ちした晶の体がある。シャツ越しに、晶の体にキスをした。晶の体は前より、薄くなったようだった。
「……なあ、一緒にシャワー、浴びとこ?」
晶が顔を伏せながら、そうつぶやいた。せまい洗面所で服を脱ぎ、二人は無言でシャワーを浴びて、お互いの体を洗った。灯りのあるところで見る晶の体は、やはり痩せていて、鎖骨がくっきり浮いている。熱い湯が当たると、白い肌はほんのり赤く色を変えた。
春樹は晶の頭の位置で、自分の背が伸びたこと、そして離れていた時間を思い知った。
シャワーが終わると、体を拭くのもそこそこに、春樹と晶はベッドにもつれ込んだ。気がつくと、二人とも激しく興奮していた。
唇を重ね、唾液が溢れるのも構わず、ねぶり合った。春樹はすぐにでも晶が欲しかった。晶の耳、首、胸から腹へ手を滑らせ、骨張った体を確認した。
忘れないようにと晶の姿形、肉体を目に焼き付けた。この人の体に、「読書ノート」へ書き付けるように、自分の心を記したかった。読み手の晶に、自分を開示したかった。そして、この人にとっての物語、この人が藤田を見つけたように、この人をときめかせたかった。
きっとどうでもいいことや、どうでもいい人は忘れるけれど、この人の体と顔と、すべては忘れない。
ただ、この人に書き付けたことは、いつか消えてしまうかもしれない。
それが怖かった。だが、晶とパスしあったように、彼と自分の間には架け橋がもうできている。そう信じよう、信頼しよう。晶とパスしたように、体を通じ合わせることができる。
それが生きる証になる。
晶の茶褐色の髪の毛を撫でて、キスをすると、晶もキスを返してきた。晶の左顎のほくろにもキスをした。そばかすのある頬にも何度も、キスを落とした。春樹は何度も晶の耳を舐め、首筋を吸った。しっかりと痕をつけておきたかった。いずれは消えるものであっても、少しでも長く、晶に自分の存在をその噛みあとから、思い出して欲しかった。
余裕なんて、まったくなかった。晶と離れて過ごすなんて、本当はいやだ。自分だけのものになってくれたら、とずっと願っていた。だから、こんなふうに晶を抱けるのは夢のようで、いずれ夢のようになくなるのか、と怖くもなった。
晶も春樹の肌を吸い、痕をつけてきた。晶が痕をつけるたび、きゅうっと痛みが走る。それが心地よかった。
「すいません……余裕、ないです」
「俺も、あんま、よゆうない」
春樹は晶も自分を欲しがってくれているのが、嬉しかった。
晶の性器を握りこむと、ゆるく立ち上がっている。それを柔らかく緩急をつけてこすりあげながら、晶の奥に触れた。びく、と晶の体が跳ねる。もう、藤田には明け渡した場所なのに、と春樹は腹の奥底から薄暗いものがやってくるのを感じた。少しだけ乱暴に、晶の口に指を入れる。
「あ、ぐ」
舌を指先でつまんで指を唾液で濡らして、唾液まみれになった指を引き抜いて、晶の奥にぐっと入れ込んだ。
「うん、いぃッ、あ、ああ」
晶の声があがる。はっと冷静になり、そのままゆっくり指を押し入れた。男のそこがどう感じるか、よく知らない。だからゆっくりと進める。ある場所で、晶が「ああっそこ、だめ、」と、声を上げた。
何度もその場所をなぶると、びくびくと晶は震えて春樹にしがみつく。長くなった髪がばさっと揺れて、春樹の筋肉が乗った腕を掴む晶の指先が白くなった。
「きもち、いいですか」
春樹の深くて暗い海のような声が、晶の耳もとで響いた。
「あ、うん、……いい、……あ、ああ、もうダメ、だから」
許して、と晶にささやかれた時、春樹はぞわりと鳥肌が立った。そして晶の性器を強くこすり上げると、晶の体が大きく反りあがる。
「あ、いい、……あぁっひぁっ……もう、わかんないっいく、いくっ」
晶は白い肌を真っ赤にして精を吐き出し、ぶるぶると震えた。
春樹は、はあはあと息をつぐ晶の腰を抱えた。一つになりたい、晶の全部が欲しい。
「乱暴にしたら、ごめんなさい」
それだけ言うと、自分のものを晶の中にゆっくりと挿入した。
ぎゅっと晶の眉がひそめられるのを見て、つい、反射的にその眉間を親指で、そっと押しあげた。
「なに、してんだよ……」
晶は春樹の行動に涙をこぼしながら、きれいな虹彩のはしばみの瞳をそっと開け、苦しい息のしたから呆れたように笑って見せた。
ああ、やっぱりこの人が欲しい。神さまみたいなこの人が欲しい。どんな無体な神さまでも仏様でもこの晶という自分の神さまが欲しかった。
体がつながっても、すべてが手に入るわけではないだろう。でも、ちょっとだけでも、晶という人間のかけらが手に入る。
ゆっくりと負担がないように、と春樹は体を進めた。
「う……ああ、ああ、ん、ああっ」
ゆっくりと体を動かすと、晶が顔を手で覆うが、春樹はその腕をとって、自分の首にかけた。
「ちゃんと顔、見せて、ください」
「あ、うん、はるき、」
潤んだはしばみの瞳が揺れている。
「ああ、いい、だめになる、だめになる……あぁ……いや、あ、う、はぁっ」
ぐっと抱きしめると、春樹は晶にささやいた。
「……駄目になってください……。すごく好きです、ずっと好きです、オレのことだけ、見てください」
「うん、うん、はるきのことだけ、見てる」
晶の中が締まって、春樹はどんどんと追い詰められる。
「はるき、はるき、いっしょにいこ?」
晶がねだるように言う。
晶の性器をしごきながら、春樹は体を揺らした。頭も全身もくらくらして、晶ががくがく、震えるのが伝わってくる。
「……っ、もう……いくっ」
それを合図のようにして、春樹はグラインドを大きくする。春樹ももう限界だった。
晶は大きく息を吐くと、春樹の手のひらに精液を吐き出す。
晶は自分がこうやって普通に春樹に抱かれていることに驚いていた。もう二度と会わないかもしれなかった春樹がそばにいる。春樹は東京まで来てくれた。その喜びを感じざるを得なかった。全身の奥底から、吹き出すような多幸感と心地よさを春樹に与えてもらっているのだ。そう感じると、生きている自分の輪郭が見えてくる気がした。
「あきらさん、すき、すき、きもちいい?」
「いい、きもちいい」
春樹も晶も、絶頂に向かっていくだけだった。二人とも強く抱き合って、手を握り合った。その瞬間、せき止めていたものが全部壊れて、溢れ出していった。
朝から何度か肌を重ねて、疲れ切ってうたたねから目覚めると、夕方になっていた。カーテンから差し込む光は、橙色をしている。
春樹は自分の腕の中で、背中を見せて眠っている晶に気がつく。すうすうと寝息が聞こえ、腕まくらをしている春樹の指先にその吐息がかかった。晶の首はすっと長い。髪の襟足がうなじを隠していた。髪をそっとかき分けてキスをする。鍛えていても痩せたせいか、丸めた背中には骨が浮いていた。
そっと晶の肩に触れると尖ったところがあり、全体的にひらべったい。今はこの骨張った肩が、愛おしかった。そして少しだけ、悲しくなった。
晶の言葉が気にならない、と言えばうそになる。だが、もうそれはそれでよかった。自分はアンドロイドで、この人はたちの悪い神さまなのだ。
自分は晶が好きで、自分も晶もこうやって、この世に存在している。
中学の時、「はるちゃんはおれらとは違うから」そう言われて、ああそうか、としか思わなかった。どこに行っても、何をしても、「佐藤はおれらとは違うから」「はるちゃんはこわい」と、言われた。気がついたら、ひとりぼっちだった。しかし、だからどうしたんだ? とさえも、考えなかった。それならそれでよかった。欠けているのかなと、不安になることもなかった。
それでも今は、晶と言う人間を見つけた。この人はじつのところ、ひとりでよいという。ものが書ければ幸せだという。
えりと言うむすめにも愛された。晶の本質にも触れた。そのためにここまでやってきた。それでいい。
春樹は多幸感とともに、寂寥感を味わっていた。
いずれ、K市に帰らなければいけない。桜はすっかり散って、葉桜に変わっていた。
晶も春樹も授業があったので、三日間だけ一緒にいた。晶は大学のキャンパスを春樹に案内してやった。
晶は東京にまだ不慣れだったが、それでも春樹をあちこち連れて行ってくれた。春樹は東京スカイツリーより、東京タワーを見たがった。
「子どものころから、行ってみたかったんです」
晶はそんな春樹のために、トップデッキのツアーを予約した。あまりの高さにやや高所恐怖症気味の晶は吐き気がしたが、春樹は目を輝かせて東京の街を見渡した。
この街には山がない。海もない。おかしな街だと思った。とにかく広くて、たくさんの情報とものと人が溢れている。面白いが、どれも春樹の心の奥底には響かなかった。
不安になる。晶はこの街で、変わっていくかもしれない。
それでも。晶が変わっても、春樹はずっと晶を好きでいるだろう。それだけは確信できた。
夜はコンビニ弁当を買い、晶とNetflixを見た。
「最近、韓国の映画が面白いんだよね」
晶はそういうと、特急列車にゾンビが大量発生する映画を再生した。
「……すげえ、こわいです。ゾンビ、量が多すぎるし、空から降ってくるのは反則……」
あまりの展開の速さとグロテスクさに、春樹はクッションを握りしめていた。
「え、春樹にも怖いもの、あったの」
そういうと晶は笑って、春樹の顎にキスをした。
晶の伸びきった髪を、春樹はカミソリで切ってやった。
明日はもう、帰る日だ。じりじりとした焦燥感が二人の中にもわいてくるが、あえて、髪を切ったり、配信動画を見たりしていた。
「晶さんの髪の毛切るの、すごく緊張します。カミソリでいいんですか」
「大丈夫、大丈夫。ちょっとつまんで、そぎ落としていったらいいから」
春樹がひやひやしながら、ざくざくと切りおとした茶褐色の髪は、バスルームの床に、ばらばらと散らばった。
「予想より、ひどくない」
と、シャワーで髪を洗って整えた晶は、春樹に向かって笑った。
暇があれば晶のベッドでくっついて、何度も抱き合った。もう、あと一回。そんなタイミングだった。
「晶さん、ずっと好きです」
そう言って、春樹は強く晶を抱いた。晶を手の中に入れている時が、一番安心できた。
「今だけは、オレを好きでいてください」
「今だけってことはないよ」
ずっと好きでいる、と、晶は春樹の体に抱きつく。
晶は思う。
どうして春樹は、こんなに自分を好きだと言ってくれるのだろうか。
こんなにきれいで若さを持て余して、したたり落ちるような色気を持っている春樹が、自分をいつまでも好きだという。
いつか、間違えたと言うのではないだろうか。傲慢で世界を作り出したい自分の浅ましさを晶は、貢や金沢、そして春樹自身におしえられたと感じている。
だからいつか春樹は、あの栗色の髪の女の子のように、慎ましやかで、美しい、自分とは違う人間を選ぶのではないか。
二人の気持ちはちょっとずれたところで、シンクロしている。
しかし、晶はここまで追いかけてきた春樹を愛したかった。
それでも、と、晶は春樹に自分からキスをする。舌を絡ませると、ぺちゃぺちゃと音がして、春樹の唾液と自分の唾液が混じることで、興奮した。
「あきらさん、すきです」
そう言って、春樹は晶の胸を嬲った。
「うん、俺も、好き」
晶が瞳を伏せたまま、つぶやく。そして、好き、と口にすれば、春樹のことをもっと愛していけると確信した。
春樹はその瞬間に、全身に電流が走るような感覚を抱く。
嘘かもしれない。気休めで言ってくれているのかもしれない。それでも、「好き」の、たった二文字の言葉が自分を「生きている」と思わせるなんて、知らなかった。
晶の胸の突起を春樹は吸う。びりびりとした歓喜が、晶の全身を駆け巡って、思わず声が出る。
「はあっ」
晶も春樹の中心を握って、そっと優しく撫であげた。
「あ、あきらさ……」
「させて」
そのまま、体をずらして、春樹のものを口に含む。自分が吸い上げるたびに、口の中で、それが大きく膨らんでいくと、満足していく自分がいた。
「俺のも、して」
そういうと、体の位置をずらして、春樹の顔の上に、自分がくるようにする。
「はい」
そう言うと、春樹は晶のものを含んだ。
春樹は、晶がどうすれば気持ちよくなってくれるのか、そればかりを考えていた。
そして、たくさん気持ちよくなってもらいたかった。少しでも未練を持ってほしい。
「あ、すごい、いい、」
口からよだれを垂らして、思わず、晶は言葉にしてしまう。
「すいません、やっぱり、顔が見たい」
「うん……」
春樹は今度は晶を下にして、その小さな顔を大きな両の手のひらで、挟み込んだ。
「オレを見てください」
「うん。見てる」
晶も、春樹の端整な顔を、両の手で包み込んだ。
そしてお互いにキスをする。そのまま、春樹は晶の中へと自分を進めた。
「あきらさん、オレの、感じる?」
「うん、感じる。春樹の体、凄く、好き」
体中が全部、ほてってくる。肉体をつなげると、興奮がやってくる。
晶が自ら、腰を動かしてきた。
「あ、あきら、さん」
「俺がしたいから、いいの」
そうやって、晶は自分の奥へと春樹を導く。
この人はオレの神さまだ。とんでもない神さまだ。でも、ようやく、この美しい神さまを、ちゃんと慈しむことができた気がする。
晶の中に自分がいる。
そっと体を離して、晶の下腹部に触れてみた。
「晶さんの、ここに、オレいます」
「……そうだね、でも」
そういうの、照れるから、と晶はぜえぜえと息をつきながら、柔らかく笑った。
「すごい、奥まで届いてる、春樹がいる」
「オレと晶さん、離れないですよね」
「うん」
はあ、はあ、とはしばみの瞳を潤ませて、晶は春樹の真っ黒な瞳を見つめて、言った。
「ねえ、一緒にいこう?」と、春樹の肌と自分の肌を合わせ、また、深いところへと春樹を誘った。
「いっしょに、」
春樹はそう言うと、晶の足を持ち上げて、自分の体をさらに奥へと進めた。
春樹が帰る日がやってきた。
晶がてきぱきと、春樹の新幹線のチケットを買ってくれる。
「オレが出します」
「先輩に甘えとけ。そのかわり、金はちゃんと、貯めとけよ」
晶はそう言うと、新幹線で食べる弁当やお土産も、春樹に持たせた。
プラットホームには晶も見送りで入った。
平日の昼間は、ビジネスマンや海外からの旅行客が目立つ。
春樹の乗る新幹線が、ホームにやってきた。
春樹は思いきって、晶の指を取った。晶は一瞬、躊躇したようだったが、ぐっと春樹の手を握り返してくる。
「気をつけてな」
「晶さんも、大学、頑張ってください」
それだけ言うと、二人はなにも言えなくなってしまった。もっとはなすべきことがあったはずなのに、伝えなければいけない大事なことがあったのに、何か言うと涙がこぼれてしまう。
晶も春樹も、目を潤ませて見つめ合った。何度もまばたきをして、涙をこらえた。
発車のアナウンスが聞こえ、ゆっくりとドアが閉まる。
デッキに立って、窓から春樹はホームの晶を見つめた。
晶の口がぱくぱくと「電話して」「いつでも連絡くれ」と言っていた。
春樹は何度もうなずいた。
ぷあん、と音がして、新幹線がスピードをゆるく上げていく。
晶が追いかけてくるのが見える。ああ、あの時とは逆なんだ。あの冬の日とは逆なんだ。
もう、晶の姿は見えなくなった。しばらく春樹はデッキで立ち尽くし、流れていく東京の景色を見ていた。
次に会えるのは、いつだろう? 晶は東京で、変わっていくのだろうか?
春樹は自分が涙を流していることに、気がついた。
気がついたことは、それだけではない。自分だけを、見て欲しかった。できるなら、春樹は晶の物語になりたかった。晶がずっと自分を書いてくれたらとさえ思う。
はた、と春樹はずっと抱えてきた違和感の理由を知った。晶にとって、藤田のこともどこかで「書く」ことに繋がっている。ずっと藤田にマジキライの呪文を頭で踊らせていたが、そうではなかったと思い知ったのだ。
春樹は晶という神さまに出会ってしまったけれど、晶はきっと書くことの神さまに出会っている。それが何かしら人の形をしていればよかったのに。晶にとっては書くことが一番なのだ。
春樹はぽたぽたと流れる涙を手の甲で、ひたすらぬぐった。
本当に自分はしあわせなんだろうか。晶と出会ったことで、こんなつらさを知ってしまった。晶を知ったことで、弱くなった。
人を強く愛すると、その分、手酷い別れがやってくる。それにものを書きたい人にこちらを向かせるのはほぼ無理だろう。
何よりすでに晶と自分とは、こうやって数百キロの距離に分かたれている。
こんな苦しみを知りたくなかった。アンドロイドのままでよかった。
それでも晶と言う人間を思うと、自分の輪郭がはっきりする。晶から与えられる痛くて甘くて、言葉にできない、この感覚。それを抱きしめていたかった。
春樹という若い魂を乗せて、新幹線は西へと走る。
五月 中旬
高校二度目の文化祭を、春樹はまた演劇部の面々と過ごした。女性ばかりの「ロミオとジュリエット」は、マキューシオ役の部員が男装の麗人として、人気を博した。
舞台を見に来た金沢にも会った。金沢は、京都にある芸大へ進学していた。
「随分、さっぱりした顔をしているね」
「そうですか?」
「晶も誰にどう、気持ちを注げばいいのか、わかってきたんだろうな」
ゴールデンウィークだと言うのに、金沢はぴっちりとノーカラーのシャツとジャケットを着ている。
「……金沢先輩には、晶さんがどう見えていたんですか」
おずおずと、春樹は白い顔の金沢にたずねた。
「あいつは、愛や善意と言う傲慢さの使い方を知らなかったんだろうね。まあ、若いから仕方がない」
同い年なのにな、と春樹は金沢の冷えた声を聞いていた。
「あのままだと、あいつはお節介をやいた「誰か」に刺されていたかもね」
「……物騒なことをいいますね」
「人付き合いを自分のエゴのために使っているのに、「ボランティア」と間違えると、相手に迷惑だし、失礼だよ」
「……でも晶さんがそういう人じゃなかったら、会ってなかったら、オレは何も手にしていなかったです」
「それはまさに、タイミングの良さだね」
「それだけでしょうか」
「それだけって。あのさ、タイミングって、大事なんだ。恋愛がうまくいくかどうかは、ほとんど、タイミング如何だよ」
「金沢先輩の口から、そんな言葉を聞くとは思いませんでした」
「失礼だな。恋物語はすべて、タイミング次第。「ロミオとジュリエット」も、そうじゃないか。タイミングが合わずに二人とも死んだ」
金沢は辛辣な言葉を吐きながらも、晶を友達として愛おしんでいるのが春樹には分かった。
そして、自分と晶とは恋人なんだ、と春樹は改めて、握り込むように確認した。
図書室で借りた「デブを捨てに」はちょっとずつ、読み進めた。
晶とはLINEで毎日のようにはなしをした。
「読書ノート」は晶が持っているままだが、そのかわり、手紙のやりとりで本について映画について、そして普段の生活について、書き連ねた。
手書きの文字を綴るのは、心地がよかった。晶という読み手がいるから。そして、晶の手紙の丸みを帯びた文字が彼の肉体と瞳、すべてを思い起こさせた。
晶のインスタグラムは、大学での充実ぶりとともに、ラーメンの食べ歩きで埋め尽くされた。
晶のツイッターの裏アカウントは、いつの間にか削除されていた。
村上や石田、東がたまに春樹の試合を見に来てくれた。
えりは春樹が東京に行っている間に髪の毛をばっさり切っていた。えりと春樹はもう手をつなぐことはないが、時折、帰り道を共にする。
春樹は大学進学に向けて、晶の通っていた塾に入った。赤点続きだった歴史が次第に楽しく感じられ、先生もそんな春樹にギリシア悲劇や神話、歴史について読みやすい本を貸してくれた。
六月 中旬
初夏の日差しが感じられる頃、春樹ははじめてゲームキャプテンを任された。
春樹は晶に関すること以外、自分が何も変わっていない、と分かっている。アンドロイドのままだ。
ただ、勝たないと楽しくない。そのためならチームメイトと意思を通じ合わせたほうがいいと学んだだけだ。
アンドロイドも学習する。
相手チームは強豪だったが、春樹のチームはからくも勝利した。春樹は体以上に脳の疲労を感じたが、子供のころの純粋な喜びが、そこにはあった。
楽しい。
汗だくで体育館から出ると、そこに、いつも見たいと願っている顔があった。
茶褐色の髪、ノンフレームの眼鏡、色素の薄い肌、そばかす、そしてきれいな虹彩のはしばみの瞳。
「へへ、来ちゃった」
テーラードジャケットに、デニムパンツ、リュックを背負った晶が笑って立っていた。
春樹は目を見開いて、あんぐりと口を開けてしまった。
晶は破顔一笑、春樹に向かって大きく手を広げた。
人目もはばからず、シャツやシューズを放り出して、春樹は駆け出す。
うねるような潮風が吹いていた。そして、日差しはきらめいて、二人を照らしている。
「僕らの運命だ」
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