原口源左衛門の帰郷

原口源太郎

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霜夜

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 原口源左衛門は店に入った時からその男の存在に気が付いていた。
 すぐにその男の正体に気付き、その途端に胸に熱いものが込み上げてきた。
 こんな自分のためにわざわざこんな所まで来てくれた。
 やがて源左衛門は座を立つと、男の前に行き腰を下ろした。

 雪乃は厳格な武士の家で育った。父は名家上杉に仕える重臣である。
 しかしながら開けた性格の雪乃は家格の違う原口源左衛門に惚れ、本来ならば逆らうことの許されない父の反対を押し切って結婚をしたほどである。源左衛門との婚約が調うと、これからの生活のためにと下僕たちと共に働き台所仕事を学んだ。
 それらのことからも、雪乃は身分というものにこだわりを持っていないということがうかがい知れた。
 それは源左衛門と共に流れてきた赤吹の地でも変わることはなかった。
 擦り切れ、ほころびたところを丁寧に直した着物をきちんと身に付け、所作は凛とした張りがありながらも優雅さを漂わせていた。貧しい町人たちが暮らす郊外の長屋の住人たちの中にあって、武家育ちの雪乃の存在は異端ともいえるほどのものであった。
 しかし身分にこだわりのない性格や、自身がどんなに貧しくてもそのような様子を感じさせない振る舞いに、長屋の女房達は好感を持っていた。
 やがて雪乃の夫、源左衛門の活躍の話が城下に広がり、長屋の者たちにも知れることとなった。
 雪乃は夫のことを褒められると素直に喜んだが、かといって自らそのことを自慢げに話すことはなかった。源左衛門の剣の腕は故郷の米形では誉れ高いものであったし、侍として理に背く者たちと戦うことは当然のことだと思っていたからである。

 冬は日一日と寒さを増していく。
 源左衛門は故郷へ帰る事を、凍み付いた大地が緩みだす時まで遅らせることにした。これからの季節、雪深い東北へ向かうと、時には命の危険にさらされることもある。源左衛門一人だけならまだいい。しかし雪乃にとっては少々荷の重い旅になる。
 自分たちを待っている故郷の人々のために、一刻も早く帰郷したかったが、その思いを源左衛門はぐっと押し殺した。

 『甚八』は冬を迎え、ほとんど夜の商いをしていなかった。店を開いていたとしても客が来ないからである。
 だから源左衛門は米形に帰るまでの間、甚六に店に来てほしいと言われていたが、ほとんど行くことはなかった。
 やがて新しい年を迎え、一段と寒さが厳しくなる中、甚六が源左衛門の長屋を訪ねてきた。
「どうも。お世話になっておりやす」
 強面の甚六だが、いかにも商売人らしい笑顔を作って源左衛門と雪乃に挨拶をした。
「どうぞ、おあがりください」
「いえ、とんでもない。ここで結構です」
 甚六は小さな土間で手を振って源左衛門の言葉に応えた。そして隣に座る雪乃を見る。
「これはお噂通り美しい御内儀様で」
 甚六はお世辞なしに素直な感想を言った。
「実は以前、最後に店に来ていただいた後で一杯やりましょうとお約束しましたが、覚えておいでになりますか」
「ええ」
「今は夜分に店を開けられねえ状況が続いて、源左衛門様との約束が果たせるかわからねえんで、もうこっちで日時を決めちまいました。今日から五日後を予定しますが、いかがですか? よろしかったら御内儀様もご一緒に」
「私は侍の妻としてそのような場には」
 雪乃がすぐに返答をした。
「まあ無理にとは言いません。源左衛門様には無理にでもお越し頂きたいのですが。源左衛門様に関係ありそうな人には声をかけてくれるよう頼んであります。源左衛門様も親しくしている人や世話になった人がいれば、一緒においでください。もちろん、お代はいただきません」
「それは」
 源左衛門は雪乃を見た。
 雪乃も源左衛門を見て小さく頷く。
 米形に帰ってきちんとしたお勤めにつけば、もう二度とそのように町民と酒を飲む機会などないであろう。
「わかりました。お伺いさせていただきます」
「お待ち申しております」
 甚六は頭を下げてから帰っていった。
「米形にこのようなことが知れたら、大目玉を食らうであろうな」
 源左衛門は雪乃を見て言った。
「そうでしょうね」
「それにしても。・・・・甚六や与助、政に彦次郎、留吉、中川先生、大村様、そして御前様。私は多くの人に助けられた。とても恵まれていたのだと改めて思う。私はとても運のいい男だ」
「運だけではありません」
 そう言った雪乃の顔を、源左衛門はまじまじと見つめた。
「源左衛門様のお人柄ゆえでございます」
 そう言って雪乃は微笑んだ。
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