名も知らぬ人

原口源太郎

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「おい! 来い!」
 車の脇に立つ男が叫んだ。男はスマホを手にしている。
「今、救急車を頼んだ。そこは他の人に任せておけ!」
 晴菜は自分の車へと駆け戻る。
「乗れ! 逃げた奴を追いかける」
 そう言うと男は運転席に乗り込む。
「運転、できるの?」
 晴菜は助手席に飛び込みながら尋ねる。
 車は急発進し、すごい勢いで加速していく。
「きゃあ」
「シートベルトを締めろ!」
 男がいつになく厳しい声を発し、晴菜は慌ててシートベルトを締めた。
 ポルシェは猛烈な勢いで走っていく。黒い車は見えない。
「そんなに飛ばして大丈夫?」
「それより警察に電話。俺たちの今の状況を伝えてくれ」
「はい」
 道は山の中に入っていき、黒い車が小さく見えてくる。
 晴菜は車のスピードに、半ば恐怖に顔を歪めながらスマホで話をしている。
 前方を走る車は追ってくる存在に気が付き、加速する。
 道はカーブの連続になる。
 タイヤを軋ませ、スキール音を響かせて逃げる黒い車。
 男は落ち着いた表情でハンドルを操作して、たちまち前方の車に迫る。
 晴菜は顔をこわばらせ、スマホ片手にもう一方の手でシートをぎゅっと握りしめる。
 黒い車はタイヤをロックさせて白い煙を上げたり、タイヤを滑らせてスピンしそうになったり、ガードレールを擦ったりしながら逃げていく。
 男が運転するポルシェはそれほどスピードを出しているようには見えないくらいに滑らかにカーブを駆け抜けていく。
 そして前方の車に触れそうなくらいにまで接近する。
 晴菜は車内で四肢を伸ばして踏ん張っている。ブレーキをガンと踏まれるたびにフロントガラスに頭をぶつけそうなほど前につんのめり、加速するたびにシートに押し付けられ、カーブのたびに首の骨が折れそうなほど左右に振られた。
「何でこんな運転するの。私まだ死にたくない」
 晴菜は必死の形相で言う。
「あのバカ野郎は絶対に捕まえる」
 そう言う男は落ち着いているが、表情とは裏腹に手足を激しく動かして車を操っている。
 晴菜はそんな男を見て少し安心する。
 ポルシェは前の車にくっ付いているのではないかと思えるほど接近したまま走り続ける。

 男がまたガツンとブレーキを踏み、晴菜は前方へ吹っ飛ばされそうになるが、シートベルトに引っ張られる。
「うえ! 本当に殺すつもり!?」
 ポルシェはタイヤが歪むほどの激しいブレーキをかけて停まる。
 前の車はオーバースピードで左カーブに突っ込み、アンダーステアとなって対向車線に飛び出し、全輪をロックさせたままその向こうのガードレールにぶつかった。
 フロントを大破させ、スピンしながらまたこちらの車線に戻ってきて黒い車は止まる。
「どうしよう」
 晴菜は青くなって大破した車を見つめる。
「警察を呼んでくれ。俺が合図したら救急車も呼んでくれ。乗っている奴は大した怪我もしてないと思うけど」
 男は車から降りると大破した車へと歩いていった。
 晴菜は必死になってスマホの画面を操作するが、手が震えて上手く操れない。

 河原家の居間では、義広がいつものようにソファに座り、ブランデーを飲んでいる。
 グラスを上げて光にかざし、ゆっくりと揺らして中の琥珀色の液体を眺めた。
 そこに美紀が顔を出す。
「何か食べます?」
「いい。それより晴菜はどうした。まだ帰ってこないのか」
「今日はデートですよ」
「何! デート?」
 義広がグラスを叩きつけるようにテーブルに置く。
「そんなに怒らないでくださいよ。晴菜だって、もう立派な大人なのですから」
「し、しかし、訳も分からん男とチャラチャラと遊び回っていては困る」
「そんな言い方はおかしいのじゃないですか。お見合いの話、どうしても受けなければならないのですか?」
「どうしても受けなきゃならん」
「それなら、行かせればいいでしょ。ただし、それから先のことはあなたが責任を持って、必ずお断りするという約束をした上で。それなら、晴菜もきっとわかってくれると思います」
「そうか、そんな手があったか」
 義広はパッと顔を輝かせる。
「それから先のことは必ずお断りしてください」
「うむ、もちろんわかっている。晴菜はまだ帰ってこないのか」

 星々が空一面に散らばっている。海からは強い風が吹いていた。
 遠くから明かりが近づいてくる。
 白いポルシェが公園の駐車場に入ってきて停まった。
 運転席から男が降りる。
 助手席の晴菜も車から降り、男の近くに行った。
「今日はごめんなさい」
「何でお前が謝るんだよ。じゃあな」
 男はヘルメット被り、バイクにまたがった。
 エンジンをかけ、素っ気なく行ってしまう。
 晴菜は遠く消えていくバイクのテールランプを見送った。
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