名も知らぬ人

原口源太郎

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 高層ビルの大きな窓の向こうには、立ち並ぶビルの群れが広がっている。
 広いオフィスで、恰幅の良い河原義広が窓の外を眺めながら電話で話をしている。
「え? おたくの御子息と?」
「ハーバードを優秀な成績でご卒業なさったとお伺いしていますが」
「いえいえ、滅相もございません。うちの娘など、とてもとても」
「そうですか。それでは一度、席を設けさせていただいて」
「はい、わかりました。では、よろしくお願い致します」
 電話を置くと、義広は放心したような表情で天井を見上げた。そして一つ大きなため息をつく。

 波が夕日を跳ね返してキラキラと輝いている。
 すぐ近くのテトラポットには波が打ち寄せ、白く弾けていた。
 防波堤の下に古い大型のバイクが止まっている。そのすぐ近くの防波堤の上に一人の男が座り、海を見ていた。
 白い車が走ってきてバイクの近くに止まった。車はピカピカの最新型ポルシェ。
 その車から潮風に長い髪をなびかせて若い女が降りた。
 女は防波堤に上り、無言で男の隣に座る。
 二人は無言のまま、藍色に染まっていく海を眺めた。
「久しぶり」
 海を見たまま、女が沈黙を破って言った。
「おう」
 男も海を見たまま応える。
「ねえ、あなたの名前、教えてよ」
 そう言って女が男の顔を見た。
「名乗るほどのものでもないよ」
 男がぼそっと言う。
「格好つけてる」
 男はそれに応えようとせず、海を見続けている。
 女は膝をギュッと抱え、その上にあごを乗せて海を見る。
「じゃ、私、あなたのことを何て呼べばいいの?」
「ん? おい、とか、てめーとか」
「それでいいの? 私、あなたのことをてめーって呼んでいい?」
 女は初めて笑顔を見せて男を見た。
「いや、よくない。じゃ、ボーイにしよう」
「ボーイ?」
「そう。見かけは大人、心は少年。なんて。別に大した意味はないけど」
「じゃ、ボーイ君、あなたのお勤め先は? 高級な飲み屋さんってとこかな?」
「ハズレ。お堅い所に勤めてるよ」
「私は河原晴菜。晴れに菜の花の菜。私は自分の名前くらい堂々と名乗ります」
「それは個人の自由だ」
「それじゃ、電話番号を教えて」
「電話番号? どうして?」
「だって、私、何週間もここに通って、やっと久しぶりにあなたに会えたんだよ。それくらい教えてくれてもいいでしょ?」
「俺はプライベートな事を大切にするたちでね。君みたいなお金持ちで凄い美人からそう言われるのはうれしいんだけど」
「けち」
 男と晴菜、また無言で海を眺める。
 すでに黒くなりつつある海は、対岸の無数のビルの明かりを水面に浮かべて揺らしている。

「打ったー、これは大きい、入るか、入るか、入ったー、ホームラン!」
 テレビでアナウンサーが絶叫している。
 義広は居間のソファでブランデーを飲みながら野球中継を見ている。
 そこに車の音が聞こえる。
 義広は何度もグラスを口に運び、テレビの画面にも関心をなくして心ここにあらずといった表情になった。
 玄関のドアの開く音と閉まる音が聞こえ、よりそわそわと落ち着かなくなる。
「晴菜、帰ってきたのか?」
 義広はまだ姿を見せない晴菜に向かって呼びかけた。
「はい?」
 晴菜が居間に姿を見せる。
「ちょっとそこに座りなさい」
 義広は目で晴菜に横のソファに座るように示す。
 晴菜は気乗りしない様子でソファに座った。
「YMB産業という会社のことは知っているか?」
「はい。お父様の会社の大きな取引先でしょ?」
「そうだ。大変にお世話になっている。私のところよりも何倍も大きくて立派な会社だ」
「それで?」
「実は、そこの社長さんからお見合いの話があった」
「ええ! お見合い? と言えばもちろん、相手は私?」
「そうだ。社長の息子さんとお見合いをしてほしい」
「嘘でしょ? 私まだそんな気はありません」
「いや、すぐに結婚しろとか、そういうわけではない」
「私、好きな人がいます。だからお見合いなんてできません」
 晴菜はぷいと立ち上がると部屋から出ていってしまう。
「お、おい」
 義広は晴菜の出ていった方向を見つめる。
 テーブルの上にはブランデーの入ったボトルとグラスの他に、大きな封筒が置かれている。義広は封筒を手に取ると、中から書類を取り出した。一番上にはめかし込んだ男の写真がある。
「経歴は立派なんだが」
 義広は写真を見ながら言った。
 撫でつけられた黒い七三分けの髪の毛に、黒縁の大きな眼鏡の男がぎこちなく微笑んでいる。

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