様々な恋の行方 短編集

原口源太郎

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スマホを忘れた日

スマホを忘れた日

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 バスに乗ると、二つ三つ空いたシートがあった。僕はラッキーと思って窓際の席に腰かけた。
 今日は彼女と二回目のデートだ。初めてのデートは何となく他人行儀のまま終わってしまったけれど、今回はもっと二人の中を縮められそうな気がした。
 流れていく景色を見ている時、ふと思いついたことがあった。
 そういえばスマホはどうしたっけ?
 ズボンのポケットに手を当ててみる。
 それらしい感触はない。
 確か充電して・・・・そのままだ!
 しまった、どうしよう。
 バス停からしばらく来てしまった。こんなところでバスを止めてくれなんて言えない。
 次のバス停で降りて、家まで戻り、待ち合わせの場所に行くか?
 家からバスで二区間。そこから電車に乗って一駅行ったところで彼女と会う約束をしている。
 そう遠い距離じゃない。でもタクシーなら安い料金で行ける距離でもないと思う。普段タクシーに乗らないからわからないけれど、千円や二千円で済むとは思えない。
 僕はタクシー代にかかりそうな出費と、スマホなしでのデートを天秤にかけて考えた。
 答えはすぐに出た。今回はスマホなしで何とかやっていこう。
 そう答えを出した時だった。

 前方でガシャンという大きな音がした。
 それと同時に、僕の体は前方へ投げ出されそうになった。
 慌てて手を出して、目の前のシートに顔をぶつけるのを防いだ。周りの人たちも同じような感じだった。ただ、手足がなくて自分を止められなかったバッグが幾つか、床を転がっていった。
 バスのすぐ前で、小型のトラックと乗用車がぶつかっていた。それを見たバスの運転手が急ブレーキを踏んだため、僕たちは席から投げ出されそうになったのだ。
 バスの運転手が急ブレーキを踏んだことを詫びながら、乗客に怪我がなかったか聞いて回ったが、誰も怪我をしたと言う者はいなかった。
 中央分離帯のある片側二車線の道を、二台の事故車は完全に塞いでいて、すぐに前に進むことは無理なようだった。
 よりによってこんな時に。
 バスの運転手は急ぐ人はバスを降りてもいいと言った。
 どうせ一区間と少しだ。
 僕は駅まで走っていくことにした。
 時間には余裕を持って家を出た。駅まで走っていけば、何とか待ち合わせの時間に間に合うだろうと思った。汗だくの姿で彼女に会うことには抵抗があるけれど、この際仕方がない。

 僕は駅を目指して小走りに走った。
 交際を申し込んだのは僕のほうからだった。
 いい返事をもらえるか、それとも断られるか。
 僕の予想としては、答えは五分五分だった。
 だけど、僕の告白に、彼女はすぐにOKの返事をしてくれた。彼女は僕の想いを知っていたのだ。
 僕たちが付き合いだして、まだ一カ月と経っていない。今回のデートで僕たちはもっと打ち解けて、親密になれるはずだ。こんなところでつまずいてなんかいられない。
 そう考えていた矢先だった。つい自分の考えに夢中になってしまっていた。
 横から飛び出してきた自転車に気が付いて避けようとしたが、遅かった。

 自転車に足をすくわれ、僕は倒れた。
 僕にぶつかった自転車も、反動で横にぱたりと倒れた。
 乗っていたのは、大きなヘルメットをかぶった小さな子供だった。
 僕は立ち上がると、倒れた子供のところに駆け寄った。
「大丈夫?」
 子供は僕を見て顔をゆがめた。
「どこか痛いの?」
 僕はもう一度訊いた。
 子供は泣き出しそうな顔で、顔を左右に振った。
「すみません」
 若い女の人が、子供の飛び出してきた方向から駆けてきた。
「お怪我はありませんか?」
 女の人が僕に問いかけた。
「いえ、大丈夫です」
 そう言ってから、自転車がぶつかった足が痛むのに気が付いた。ズボンを巻くってみると、赤くなっている。
「たいしたことないと思います」
 僕は女の人に言った。
「急に飛び出しちゃダメだって、いつも言っているでしょ」
 自転車の子供の母親なのだろう。女の人は子供に叱るように言った。
 それまで泣くのを我慢していたらしい子供が、声を出して泣き出した。
「お子さんですか?」
「ええ」
「子供さんのほうこそ怪我は大丈夫です?」
 そんなやり取りをしている時に、僕はデートのことを思いだした。のんびりしている場合じゃない。
 僕はもう一度自分の不注意を詫びて、その場を離れた。
 急いで歩きながら振り返ってみると、若い母親は泣きじゃくる子供を優しくなだめているところだった。

 僕は急ぎ足で駅へと歩いた。
 もう遅刻は確定している。それを彼女に伝える術がない。
 彼女の電話番号は聞いているけれど、スマホに数字を入力し終えた途端に忘れた。スマホがなければ何もできない。
 こういう時に限ってスマホを持っていない。いや、スマホを持っていない時に限ってこういうことが起きる。
 どっちでも同じか。
 まあ、少しくらい遅れても、彼女は怒らないだろう。事情を説明すればわかってくれるはずだ。

 駅の改札を抜け、ホームに降りていくと、大勢の人でごった返していた。
 何だ何だ?
「人が線路に飛び込んだらしい」
 そんな声が聞こえてきた。
 マジか。嘘でしょ。こんな時に限って。
 すぐに駅の場内アナウンスが聞こえてきた。
 諸事情により何本分かの列車が遅れているが、すぐに復旧するという内容だった。
 どうやら人身事故とは違うらしい。
 僕は焦った。
 ホームは人で溢れている。もうじき来る列車にこの人たち全員が乗り込めるとは到底思えない。
 僕は無理矢理人々を押しのけ、かき分け前に進んだ。一分一秒でも早く彼女のところに行かなければ。

 やっと列車がホームに入ってきた。
 僕はまだ降りてくる人がいるうちから、その脇をすり抜けるようにして車内に入った。
 すると、後ろから来るわ来るわ、大波のように人々が押し寄せてきた。
 僕はぐいぐいと押されて、列車の奥へと追いやられていった。
 久しぶりの超満員電車だった。押しくら饅頭をしているように、身動きもできない。
「いて!」
 ぐらりと揺れて列車が動き出した時、激しい痛みに思わず声を出した。
 目の前にいる中年のおばさまが、驚いたように僕を振り返ろうとした。
 ぎゅうぎゅう詰めの中で、体を思うように動かせず、頭だけ無理矢理ねじって僕を見たおばさまが、これまた無理矢理頭を下げた。
「ごめんなさい」
 この足の痛みは、おばさまのハイヒールの、特に細いヒールで僕の足を踏みつけたからだ。
「いえ、大丈夫です」
 僕も無理矢理笑顔を作って答えた。

 それからは苦痛でしかなかった。
 ぎゅうぎゅう詰めの満員電車。僕はできるだけ目の前のおばさまに体を密着させないよう、必死に踏ん張った。
 また列車がガクンと揺れた。
「いたた!」
 僕はまた思わず声を出してしまった。
 おばさまが驚いたように無理矢理僕のほうへ振り返り、申し訳なさそうな顔をした。
「ごめんなさい、また・・・・」
「いえいえ」
 ハイヒールで足を踏まれるとすごく痛いのだと、僕は改めて知ることができた。
「本当にごめんなさい。気をつけていたのですけど」
 そう言いながら、おばさまは手に持っていたバッグを無理やり引き上げて中をまさぐり始めた。
「痛かったでしょう、何かお詫びを・・・・」
 おばさまは財布を取り出そうとしているらしい。
「いえ、気にしないでください」
 僕はおばさまから離れようとした。
 そういえば、周りが少し空いたような気がする。
 見ると電車は止まっていて、ホームをぞろぞろと人が歩いている。
 しまった!
 僕は慌ててドアへと向かった。

 すでに電車に乗り込む人が、どんどん入ってきている。
 この駅でも電車を待っていた人が大勢いて、前の駅と同じように大波となって押し寄せてくる。
 僕はその人たちを避け、あるいは押しやりながら列車のドアに向かった。
 やっとの思いでドアのところまで辿り着いた時、無情にも僕の目の前で列車のドアは閉まった。

 折り返しの電車に乗った時、約束の時間から一時間が過ぎていた。
 さすがに泣きたい気持ちだった。
 約束の時間を一時間過ぎても彼女が待っていてくれる確率は・・・・
 多分五分五分。
 だけど今、この時点で一時間経ってしまったから、僕が約束の場所に着いた時に彼女が待っていてくれる可能性はもっとずっと低い。
 彼女とは付き合い始めてから、ずっと順調に付き合いを重ねていけると思っていたのに。
 これくらいのことで僕と彼女との関係が終わってしまうとは思わない。彼女はそんな人じゃない。事情を話せばわかってくれる。
 だけど、しばらくは今までのようなラブラブ感じゃなく、少しぎくしゃくした感じの日々が続くだろう。
 また僕はスマホを忘れたことを呪った。
 列車が駅に停まり、ドアが開くと僕はホームに飛び出す。
 エスカレーターを一気に駆け上がった。

 駅から出てすぐの待ち合わせ場所に、彼女の姿はなかった。
 まだ近くを歩いているかもしれないと思って、あちこちをよく見回した。
 だけどそれらしい姿もなかった。
 彼女も僕と同じように電車でこの場所に来るはずだった。
 僕は急いで駅に戻った。
 駅の中にも彼女の姿を見つけることはできなかった。
 僕は力を落として、待ち合わせの場所に戻った。そして花壇のブロック積みの上に腰を下ろした。
 きっと家にある僕のスマホには、彼女からの着信履歴が山ほどあるのだろうと思った。
 そうだ! 早く家に帰って彼女に連絡をしなければ。
 立ち上がって駅へ走り出そうとした時だった。

 駅から駆けてくる彼女の姿が目に飛び込んできた。
「ごめんなさい」
 僕の目の前まで来ると、彼女は泣き出しそうな表情で僕に頭を下げた。
「急にお母さんの具合が悪くなって」
「え? 大丈夫なの?」
「病院に行ったら、ケロッと良くなって。私、何度も電話したの」
「ごめん、今日に限ってスマホを忘れてきた」
「まさかこんな時間まで待っていてくれるなんて」
 彼女は涙を隠すように俯いた。
「ままま、待って。泣かないで。僕だって今さっきここに来たばかりなんだから」
 僕は慌ててそう言ったけれど、何だかおかしくなってきた。
 僕が彼女のことを思ってあくせくしていた頃、彼女もまた僕のことを思って焦っていたんだ。
 早く僕のことを話して彼女を安心させてやりたいと思った。


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