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第三章

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 その日の夜遅く、源左衛門は与助と『甚八』という店に出かけた。夜更けまで店は開いているというので、客が引けると思われる時間を狙って行ったのであるが、まだ二、三組の客が残っていた。与助と源左衛門は亭主の甚六に簡単なあいさつをしたあと、空いた場所に座り、酒を頼んで客が引けるのを待った。
 『甚八』は板張りの床の上に幾つかの机を並べただけの質素な造りである。酒と料理を出すようになって店の造りを変えたらしい。源左衛門はこのように酒を出す店を訪れるのは初めてであった。
 最後の客が帰ると、調理場から中年のいかつい顔をした男が出てきて源左衛門たちの前に座った。この店の亭主、甚六である。
「お侍さんは剣術の腕は確かかね?」
 甚六は源左衛門を値踏みするように見ながら尋ねた。
「原口源左衛門と申します。米形の剣術道場で師範代を務めていました」
「剣術の師範代? 強いのかね? 最近は口だけのお侍さんが多いからな」
「これこれ、甚六。原口様は尾張の道場のお墨付きも頂いておる。腕は確かだ」
 与助が口を挟んだ。
「わかりました。では明日から来ていただきましょう。店の奥に小部屋があるから、そこでくつろいでいて下さい。賄はこちらで用意します」
 そう言うと甚六は立ち上がった。
「おっと、代金を」
 慌てて与助が懐から巾着を取り出したが、甚六は客たちに背を向けたまま、右手を箒で掃くように振った。いらないという意味なのであろう。
 与助は肩をすくめて立ち上がると、源左衛門と一緒に店を出た。

 翌日から源左衛門は『甚八』へと通い始めた。
 脇差一本を差し、提灯を片手にして出かけた。辺りはまだ明るいが、帰りはほとんどの者が寝静まった夜中になる。月明かりがあれば提灯はいらないし、月が出ていなくても源左衛門は平気であったが、他の者と行き会って相手を驚かせないために提灯に火を入れて帰ることにした。
 『甚八』へ行くと、源左衛門は店の奥にある小部屋に行き、座って目を閉じた。店にも調理場にも必要な時以外、顔を出すなと言われているので、そうするよりなかった。
 源左衛門は神経を集中し、あらゆる物音を聞いた。壁一つ隔てた裏通りを歩く人たち。調理場から聞こえてくるまな板を叩く音。客たちの話声、忙しげに歩き回る店の娘たちの足音。
 やがて少し手の空いた時を見計らって、甚六が夕食に酒の入った器をひとつ添えて持ってきた。
「や、酒など振る舞われては」
 酒の入れ物に気が付いた源左衛門は慌てて言った。
「気にしないで下さい。飲みたくなけりゃ、後でそのまま返してくれりゃいい」
 そう言うと甚六はさっさと行ってしまった。
 源左衛門は長屋で一人寂しく、わびしい食事をしている雪乃のことを思うと心が痛んだ。


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