13 / 26
第三章
3
しおりを挟む
その日の夜遅く、源左衛門は与助と『甚八』という店に出かけた。夜更けまで店は開いているというので、客が引けると思われる時間を狙って行ったのであるが、まだ二、三組の客が残っていた。与助と源左衛門は亭主の甚六に簡単なあいさつをしたあと、空いた場所に座り、酒を頼んで客が引けるのを待った。
『甚八』は板張りの床の上に幾つかの机を並べただけの質素な造りである。酒と料理を出すようになって店の造りを変えたらしい。源左衛門はこのように酒を出す店を訪れるのは初めてであった。
最後の客が帰ると、調理場から中年のいかつい顔をした男が出てきて源左衛門たちの前に座った。この店の亭主、甚六である。
「お侍さんは剣術の腕は確かかね?」
甚六は源左衛門を値踏みするように見ながら尋ねた。
「原口源左衛門と申します。米形の剣術道場で師範代を務めていました」
「剣術の師範代? 強いのかね? 最近は口だけのお侍さんが多いからな」
「これこれ、甚六。原口様は尾張の道場のお墨付きも頂いておる。腕は確かだ」
与助が口を挟んだ。
「わかりました。では明日から来ていただきましょう。店の奥に小部屋があるから、そこでくつろいでいて下さい。賄はこちらで用意します」
そう言うと甚六は立ち上がった。
「おっと、代金を」
慌てて与助が懐から巾着を取り出したが、甚六は客たちに背を向けたまま、右手を箒で掃くように振った。いらないという意味なのであろう。
与助は肩をすくめて立ち上がると、源左衛門と一緒に店を出た。
翌日から源左衛門は『甚八』へと通い始めた。
脇差一本を差し、提灯を片手にして出かけた。辺りはまだ明るいが、帰りはほとんどの者が寝静まった夜中になる。月明かりがあれば提灯はいらないし、月が出ていなくても源左衛門は平気であったが、他の者と行き会って相手を驚かせないために提灯に火を入れて帰ることにした。
『甚八』へ行くと、源左衛門は店の奥にある小部屋に行き、座って目を閉じた。店にも調理場にも必要な時以外、顔を出すなと言われているので、そうするよりなかった。
源左衛門は神経を集中し、あらゆる物音を聞いた。壁一つ隔てた裏通りを歩く人たち。調理場から聞こえてくるまな板を叩く音。客たちの話声、忙しげに歩き回る店の娘たちの足音。
やがて少し手の空いた時を見計らって、甚六が夕食に酒の入った器をひとつ添えて持ってきた。
「や、酒など振る舞われては」
酒の入れ物に気が付いた源左衛門は慌てて言った。
「気にしないで下さい。飲みたくなけりゃ、後でそのまま返してくれりゃいい」
そう言うと甚六はさっさと行ってしまった。
源左衛門は長屋で一人寂しく、わびしい食事をしている雪乃のことを思うと心が痛んだ。
『甚八』は板張りの床の上に幾つかの机を並べただけの質素な造りである。酒と料理を出すようになって店の造りを変えたらしい。源左衛門はこのように酒を出す店を訪れるのは初めてであった。
最後の客が帰ると、調理場から中年のいかつい顔をした男が出てきて源左衛門たちの前に座った。この店の亭主、甚六である。
「お侍さんは剣術の腕は確かかね?」
甚六は源左衛門を値踏みするように見ながら尋ねた。
「原口源左衛門と申します。米形の剣術道場で師範代を務めていました」
「剣術の師範代? 強いのかね? 最近は口だけのお侍さんが多いからな」
「これこれ、甚六。原口様は尾張の道場のお墨付きも頂いておる。腕は確かだ」
与助が口を挟んだ。
「わかりました。では明日から来ていただきましょう。店の奥に小部屋があるから、そこでくつろいでいて下さい。賄はこちらで用意します」
そう言うと甚六は立ち上がった。
「おっと、代金を」
慌てて与助が懐から巾着を取り出したが、甚六は客たちに背を向けたまま、右手を箒で掃くように振った。いらないという意味なのであろう。
与助は肩をすくめて立ち上がると、源左衛門と一緒に店を出た。
翌日から源左衛門は『甚八』へと通い始めた。
脇差一本を差し、提灯を片手にして出かけた。辺りはまだ明るいが、帰りはほとんどの者が寝静まった夜中になる。月明かりがあれば提灯はいらないし、月が出ていなくても源左衛門は平気であったが、他の者と行き会って相手を驚かせないために提灯に火を入れて帰ることにした。
『甚八』へ行くと、源左衛門は店の奥にある小部屋に行き、座って目を閉じた。店にも調理場にも必要な時以外、顔を出すなと言われているので、そうするよりなかった。
源左衛門は神経を集中し、あらゆる物音を聞いた。壁一つ隔てた裏通りを歩く人たち。調理場から聞こえてくるまな板を叩く音。客たちの話声、忙しげに歩き回る店の娘たちの足音。
やがて少し手の空いた時を見計らって、甚六が夕食に酒の入った器をひとつ添えて持ってきた。
「や、酒など振る舞われては」
酒の入れ物に気が付いた源左衛門は慌てて言った。
「気にしないで下さい。飲みたくなけりゃ、後でそのまま返してくれりゃいい」
そう言うと甚六はさっさと行ってしまった。
源左衛門は長屋で一人寂しく、わびしい食事をしている雪乃のことを思うと心が痛んだ。
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
大江戸ロミオ&ジュリエット
佐倉 蘭
歴史・時代
★第2回ベリーズカフェ恋愛ファンタジー小説大賞 最終選考作品★
公方(将軍)様のお膝元、江戸の町を守るのは犬猿の仲の「北町奉行所」と「南町奉行所」。
関係改善のため北町奉行所の「北町小町」志鶴と南町奉行所の「浮世絵与力」松波 多聞の縁組が御奉行様より命じられる。
だが、志鶴は父から「三年、辛抱せよ」と言われ、出戻れば胸に秘めた身分違いの恋しい人と夫婦になれると思い、意に添わぬ祝言を挙げる決意をしたのだった……
紅花の煙
戸沢一平
歴史・時代
江戸期、紅花の商いで大儲けした、実在の紅花商人の豪快な逸話を元にした物語である。
出羽尾花沢で「島田屋」の看板を掲げて紅花商をしている鈴木七右衛門は、地元で紅花を仕入れて江戸や京で売り利益を得ていた。七右衛門には心を寄せる女がいた。吉原の遊女で、高尾太夫を襲名したたかである。
花を仕入れて江戸に来た七右衛門は、競を行ったが問屋は一人も来なかった。
七右衛門が吉原で遊ぶことを快く思わない問屋達が嫌がらせをして、示し合わせて行かなかったのだ。
事情を知った七右衛門は怒り、持って来た紅花を品川の海岸で燃やすと宣言する。
返歌 ~酒井抱一(さかいほういつ)、その光芒~
四谷軒
歴史・時代
【あらすじ】
江戸後期。姫路藩藩主の叔父、酒井抱一(さかいほういつ)は画に熱中していた。
憧れの尾形光琳(おがたこうりん)の風神雷神図屏風を目指し、それを越える画を描くために。
そこへ訪れた姫路藩重役・河合寸翁(かわいすんおう)は、抱一に、風神雷神図屏風が一橋家にあると告げた。
その屏風は、無感動な一橋家当主、徳川斉礼(とくがわなりのり)により、厄除け、魔除けとしてぞんざいに置かれている――と。
そして寸翁は、ある目論見のために、斉礼を感動させる画を描いて欲しいと抱一に依頼する。
抱一は、名画をぞんざいに扱う無感動な男を、感動させられるのか。
のちに江戸琳派の祖として名をはせる絵師――酒井抱一、その筆が走る!
【表紙画像】
「ぐったりにゃんこのホームページ」様より
斬壺(きりつぼ)
木下望太郎
歴史・時代
秘太刀“斬壺(きりつぼ)”。
その技を以て、老剣客はかつて岩を斬り、壺を斬った――割ることも砕くこともなく、真二つに――。
ただしそれができたのは、若き日のたった二度だけ。
そして今。辛苦の末に流派を継いだ彼が対峙するのは、剣才そのもののような少年。それはまるで、老剣客の積み上げたもの全てを嘲笑うかのような存在。
もし、奴を斬ることができる技があるなら――それは一つ、“斬壺”。
凡人対天才。
今、その戦いが始まり、そして終わる――。
和ませ屋仇討ち始末
志波 連
歴史・時代
山名藩家老家次男の三沢新之助が学問所から戻ると、屋敷が異様な雰囲気に包まれていた。
門の近くにいた新之助をいち早く見つけ出した安藤久秀に手を引かれ、納戸の裏を通り台所から屋内へ入っる。
久秀に手を引かれ庭の見える納戸に入った新之助の目に飛び込んだのは、今まさに切腹しようとしている父長政の姿だった。
父が正座している筵の横には変わり果てた長兄の姿がある。
「目に焼き付けてください」
久秀の声に頷いた新之助だったが、介錯の刀が振り下ろされると同時に気を失ってしまった。
新之助が意識を取り戻したのは、城下から二番目の宿場町にある旅籠だった。
「江戸に向かいます」
同行するのは三沢家剣術指南役だった安藤久秀と、新之助付き侍女咲良のみ。
父と兄の死の真相を探り、その無念を晴らす旅が始まった。
他サイトでも掲載しています
表紙は写真ACより引用しています
R15は保険です
壬生狼の戦姫
天羽ヒフミ
歴史・時代
──曰く、新撰組には「壬生狼の戦姫」と言われるほどの強い女性がいたと言う。
土方歳三には最期まで想いを告げられなかった許嫁がいた。名を君菊。幼馴染であり、歳三の良き理解者であった。だが彼女は喧嘩がとんでもなく強く美しい女性だった。そんな彼女にはある秘密があって──?
激動の時代、誠を貫いた新撰組の歴史と土方歳三の愛と人生、そして君菊の人生を描いたおはなし。
参考・引用文献
土方歳三 新撰組の組織者<増補新版>新撰組結成150年
図説 新撰組 横田淳
新撰組・池田屋事件顛末記 冨成博
紀伊国屋文左衛門の白い玉
家紋武範
歴史・時代
紀州に文吉という少年がいた。彼は拾われっ子で、農家の下男だった。死ぬまで農家のどれいとなる運命の子だ。
そんな文吉は近所にすむ、同じく下女の“みつ”に恋をした。二人は将来を誓い合い、金を得て農地を買って共に暮らすことを約束した。それを糧に生きたのだ。
しかし“みつ”は人買いに買われていった。将来は遊女になるのであろう。文吉はそれを悔しがって見つめることしか出来ない。
金さえあれば──。それが文吉を突き動かす。
下男を辞め、醤油問屋に奉公に出て使いに出される。その帰り、稲荷神社のお社で休憩していると不思議な白い玉に“出会った”。
超貧乏奴隷が日本一の大金持ちになる成り上がりストーリー!!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる