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第一章

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「私は城下を出る」
 源左衛門は言葉を切って雪乃を見た。
 雪乃は身動きもせず、黙って畳を見つめたままでいる。
「どこか仕官の道を探すが、しばらくは浪人のままでいなければならないであろう。雪乃は長尾に帰りなさい」
「嫌です」
 やっと口を開いた雪乃が顔を上げて源左衛門を見た。そしてまた顔を伏せる。
「雪乃」
「私は源左衛門さまの妻です。どこまでもご一緒いたします」
「雪乃。お前は私と結婚しなければ、もっと幸せになれていたはずだ。今からでも遅くはない。長尾に戻り、もう一度やり直すのだ。これから離縁状を書く」
 そう言うと源左衛門は再び机に向かった。

 雪乃は米形藩上杉家家老、長尾泰光の娘である。
 幼い頃から器量良しと評判であった。そしてその評判を変えることなく雪乃は美しく成長していった。
 やがて雪乃に縁談が持ち込まれるようになると、雪乃は初めて男の人というものを意識しだし、興味を抱くようになった。
 家来の者たちが通う剣術の道場に興味本位でついていったのも、そんな理由からであった。
 大勢の男達が道場で剣を振う様を始めて見た雪乃は恐怖を感じたが、その中で一人の男に目を止め、気になり、やがて頭から離れられなくなった。
 もう一度会いたい。そんな思いが募り、数日後に再び道場に行った。もちろん遠くからその姿を見ているだけであった。
 その男が、当時すでに山本道場で師範代の一番手として指導を行い、また自らもその道場の流派である影風流の奥義を極めるために日々修行を重ねる原口源左衛門であった。
 雪乃の心は源左衛門でいっぱいになり、遂に、この人と結婚する運命にあると信じるようになった。

 唐突に雪乃から結婚したい、相手はもう決めてあると聞かされて、父親の泰光は腰が抜けるばかりに驚いた。
 年の離れた二人の兄の下に生まれた待望の女の子で、泰光はそれこそ目に入れても痛くないほどの、いや、本当に自分の目の奥に入れて仕舞いこんでおきたいと思うほどの可愛がりようで育ててきた。
 それほどだったから、雪乃の結婚相手はそれ相応の男を自分で選ぶつもりでいた。それが将来にわたって雪乃の幸せになると信じていたからである。家柄、人格、容姿ともに優れた三人の男を選び、雪乃にとって誰が一番適しているか、まさに吟味を重ねているところであった。
 雪乃の見初めた相手が馬廻り役の次男と聞き、泰光は即座に忘れろと言った。
 そんな男と一緒になったところで雪乃は幸せになれるはずがない。若い雪乃は初めての恋にのぼせて熱くなっているだけであり、後で後悔することは火を見るよりも明らかである。
 ところが、雪乃は親の説得に耳を貸さなかった。元々気の強い性格の上に、幼い頃から甘やかされて育ってきたので、一旦言い出したらどんなに説得しても自分の意思は曲げない子であった。
 泰光はそんな雪乃の性格は十分に理解していたが、こればかりは許すわけにはいかなかった。雪乃の問題だけでなく、長尾家の面目のこともある。代々、藩主に仕えてきた重臣である長尾家の娘を、五十石程度の馬廻り役の、それも部屋住である次男の元になどやれるわけがない。それこそ家老としての立場からも、家臣たちの笑いもののタネになる事は目に見えている。
 雪乃も曲げなかった。
 もし原口との仲が許されないのなら、一生嫁になど行かないと言い、さらには、お堀に飛び込んで父が死ぬまで一生枕元で呪ってやるとまで言い出した。
 雪乃なら本当にやりかねないと知っているので、遂に泰光は折れた。
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