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第四章
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暖房の無い雅彦の部屋は寒々としていたが、外の空気はより冷たくピンと張り詰め、雅彦の肌を強張らせた。深い夜の中、街灯の明かりに、吐く息は白い霧となって闇に散っていく。雅彦は体を震わせて、コートの襟を合わせた。
家々は死に絶えたように静まり返っている。
美夏を追いかけて走り出そうとした雅彦は、微かに揺れる凍てついた空気の中に血の匂いを感じた。気のせいに違いない。そう思った。
ぽたぽたと天井から滴り落ちる翔太の血。雅彦の全身に降りかかった有希の血。トラックのガラスを赤く染めた妙子の血。そんなものはもう沢山だ。
雅彦は美夏へと神経を集中させた。美夏は一目散に駆けていく。闇に溶け込んだかと思うと、街灯の下に姿を現し、気を付けないと見失いそうになる。
「おーい、美夏ちゃん」
雅彦は叫んだ。遠慮したつもりだったが、それでも声は夜の正気の無い空気をぴしぴしと切り裂いて消えた。
美夏は雅彦の声など耳に入らないようだ。
遠い車の音。二十四時間動き続ける工場の音。色々な音が渦巻き、一つになり、夜の唸り声となって耳に届いてくる。静かな街の中では、雅彦の靴音が大きく響く。厚く黒い雲に覆われた空には星ひとつ無い。
美夏は『あゆみ園』とはまるっきり違う方向に駆けていく。
アルコールがしっかり体に残っている雅彦は目が回って倒れそうになりながら、必死になって走った。
嫌な予感がする。とてつもなく大きな恐怖がこの先に待ち構えている。
どれくらい走っただろうか。肺か心臓かわからないが、とにかく胸がきりきりと痛んだ。
小さな町工場がいくつも並ぶ薄暗い交差点で、雅彦は美夏を見失った。
交差点の真ん中に立ち、きょろきょろと辺りを見回した。じっと耳を澄ましてみる。
どこからか低く響いてくる工場の音だけで、あとは静まり返っている。何の気配もない。何の物音もない。
不意に、ザンと鈍い音がした。
雅彦はハッとして振り向く。
ゴンと音がして、建物の影からボールのようなものが転がり出た。
雅彦はそれを凝視した。暗くてよくわからない。
近づいてみる。
それが何かを知り、驚愕した
中村だった。中村の頭だ。物になったそれは、口と切られた首から血を出している。
転がったボールのようなものが中村の頭とわかった時、首のない中村の体が血を噴水のようにまき散らしながら現れて倒れた。
雅彦は体を強張らせて哀れな中村が現れた建物の暗がりを見つめた。
何かがキラリと光った。血を滴らせた日本刀を持った男が、小さな街灯に照らされた薄明りの中に浮かび上がる。顔がぼんやりと白く輝いている。
中村はアパートから雅彦を尾行してきたに違いない。
男は日本刀を握りしめ、のそのそとした足取りで雅彦の方へと近付いてきた。
雅彦はじりじりと後退りながら半狂乱になって叫ぶ。
「中島! 何で子供たちを殺した!」
唇を震わせて、言葉を男に投げつける。
男はその言葉を聞くと、立ち止まり、手にしていた日本刀を投げ捨てた。
「お前が憎い」
くぐもり、鈍くはっきりしないしわがれた声で男が言った。
「なぜ殺した。なぜ殺した! 僕が何をした!」
雅彦は叫んでいた。
男は両手をゆっくり上げると、白い仮面をなぞり、耳の辺りに持っていった。
鈍い音がして、仮面が外れた。
雅彦は痙攣したように、ぐぐぐっと息を吸い込んだ。
この世のものとは思えなかった。
中島の顔は削り取られていた。頭蓋骨に巨大な瘡蓋をべたべたと張り付けたようだった。腐りかけているのか、それとも爛れているのか。片目は潰れかけ、もう一方の目は飛び出しそうになっている。鼻のあるべき場所には二つの穴が開いているだけで、口も裂け、歯茎が露出している。
「俺を見ろ。こんな顔にしたお前が憎い」
あごをガクガクと上下させて、化け物になった中島がうめくように言った。
「僕が?」
雅彦は震える声を出した。
「俺を殺そうとした」
「馬鹿な。中島が僕を殺そうとした」
「思い出せよ。三年前の夏を。お前のせいで俺はこんな顔になった。九分九厘死んだんだ。ほんの少しの良識が、お前を殺すために俺を生き返らせてくれた」
中島の言葉に、雅彦の頭の中はぐるぐると回り始めた。重力が無くなり、上も下もわからなくなる。激しい頭痛が体の中にまで押し寄せてくる。
「妙子はお前と付き合いながら、本当は俺のことが好きだった。俺と妙子はずっと仲良くやってきた。お前の二人の子は本当は俺の子だ。三年前に俺はそう言った」
雅彦の頭の中で何かが弾けた。バチバチッと音がして、風船を膨らませるように芯から怒りが湧いてきて、体中に充満し体をどんどん膨らませていく。
「あの崖の上で、お前は自殺するふりをして俺を引き付けた」
雅彦の体の中の風船の口が開けられ、シューッと音を立てて怒りが体の中から抜けていった。スーッと頭も体も冷めていく。
雅彦はじっと中島を見た。もう何の恐怖も感じない。体が軽くなって清々しく安らかだ。頭痛は跡形もない。今までの苦しみが嘘のようだ。
全てを思い出した。あの時、中島は確かにそう言った。雅彦はカッとしてどうしても自分を抑えることができなかった。咄嗟に中島を殺してやると思った。
まともにやり合ったのでは、学生時代より一回りも二回りも逞しくなっている中島に勝てそうもなかった。雅彦は走り出し、遥かな海に突き出ている断崖へと向かった。
危険な場所と安全な場所とを区切る柵を乗り越えるのはたやすいことだった。
家々は死に絶えたように静まり返っている。
美夏を追いかけて走り出そうとした雅彦は、微かに揺れる凍てついた空気の中に血の匂いを感じた。気のせいに違いない。そう思った。
ぽたぽたと天井から滴り落ちる翔太の血。雅彦の全身に降りかかった有希の血。トラックのガラスを赤く染めた妙子の血。そんなものはもう沢山だ。
雅彦は美夏へと神経を集中させた。美夏は一目散に駆けていく。闇に溶け込んだかと思うと、街灯の下に姿を現し、気を付けないと見失いそうになる。
「おーい、美夏ちゃん」
雅彦は叫んだ。遠慮したつもりだったが、それでも声は夜の正気の無い空気をぴしぴしと切り裂いて消えた。
美夏は雅彦の声など耳に入らないようだ。
遠い車の音。二十四時間動き続ける工場の音。色々な音が渦巻き、一つになり、夜の唸り声となって耳に届いてくる。静かな街の中では、雅彦の靴音が大きく響く。厚く黒い雲に覆われた空には星ひとつ無い。
美夏は『あゆみ園』とはまるっきり違う方向に駆けていく。
アルコールがしっかり体に残っている雅彦は目が回って倒れそうになりながら、必死になって走った。
嫌な予感がする。とてつもなく大きな恐怖がこの先に待ち構えている。
どれくらい走っただろうか。肺か心臓かわからないが、とにかく胸がきりきりと痛んだ。
小さな町工場がいくつも並ぶ薄暗い交差点で、雅彦は美夏を見失った。
交差点の真ん中に立ち、きょろきょろと辺りを見回した。じっと耳を澄ましてみる。
どこからか低く響いてくる工場の音だけで、あとは静まり返っている。何の気配もない。何の物音もない。
不意に、ザンと鈍い音がした。
雅彦はハッとして振り向く。
ゴンと音がして、建物の影からボールのようなものが転がり出た。
雅彦はそれを凝視した。暗くてよくわからない。
近づいてみる。
それが何かを知り、驚愕した
中村だった。中村の頭だ。物になったそれは、口と切られた首から血を出している。
転がったボールのようなものが中村の頭とわかった時、首のない中村の体が血を噴水のようにまき散らしながら現れて倒れた。
雅彦は体を強張らせて哀れな中村が現れた建物の暗がりを見つめた。
何かがキラリと光った。血を滴らせた日本刀を持った男が、小さな街灯に照らされた薄明りの中に浮かび上がる。顔がぼんやりと白く輝いている。
中村はアパートから雅彦を尾行してきたに違いない。
男は日本刀を握りしめ、のそのそとした足取りで雅彦の方へと近付いてきた。
雅彦はじりじりと後退りながら半狂乱になって叫ぶ。
「中島! 何で子供たちを殺した!」
唇を震わせて、言葉を男に投げつける。
男はその言葉を聞くと、立ち止まり、手にしていた日本刀を投げ捨てた。
「お前が憎い」
くぐもり、鈍くはっきりしないしわがれた声で男が言った。
「なぜ殺した。なぜ殺した! 僕が何をした!」
雅彦は叫んでいた。
男は両手をゆっくり上げると、白い仮面をなぞり、耳の辺りに持っていった。
鈍い音がして、仮面が外れた。
雅彦は痙攣したように、ぐぐぐっと息を吸い込んだ。
この世のものとは思えなかった。
中島の顔は削り取られていた。頭蓋骨に巨大な瘡蓋をべたべたと張り付けたようだった。腐りかけているのか、それとも爛れているのか。片目は潰れかけ、もう一方の目は飛び出しそうになっている。鼻のあるべき場所には二つの穴が開いているだけで、口も裂け、歯茎が露出している。
「俺を見ろ。こんな顔にしたお前が憎い」
あごをガクガクと上下させて、化け物になった中島がうめくように言った。
「僕が?」
雅彦は震える声を出した。
「俺を殺そうとした」
「馬鹿な。中島が僕を殺そうとした」
「思い出せよ。三年前の夏を。お前のせいで俺はこんな顔になった。九分九厘死んだんだ。ほんの少しの良識が、お前を殺すために俺を生き返らせてくれた」
中島の言葉に、雅彦の頭の中はぐるぐると回り始めた。重力が無くなり、上も下もわからなくなる。激しい頭痛が体の中にまで押し寄せてくる。
「妙子はお前と付き合いながら、本当は俺のことが好きだった。俺と妙子はずっと仲良くやってきた。お前の二人の子は本当は俺の子だ。三年前に俺はそう言った」
雅彦の頭の中で何かが弾けた。バチバチッと音がして、風船を膨らませるように芯から怒りが湧いてきて、体中に充満し体をどんどん膨らませていく。
「あの崖の上で、お前は自殺するふりをして俺を引き付けた」
雅彦の体の中の風船の口が開けられ、シューッと音を立てて怒りが体の中から抜けていった。スーッと頭も体も冷めていく。
雅彦はじっと中島を見た。もう何の恐怖も感じない。体が軽くなって清々しく安らかだ。頭痛は跡形もない。今までの苦しみが嘘のようだ。
全てを思い出した。あの時、中島は確かにそう言った。雅彦はカッとしてどうしても自分を抑えることができなかった。咄嗟に中島を殺してやると思った。
まともにやり合ったのでは、学生時代より一回りも二回りも逞しくなっている中島に勝てそうもなかった。雅彦は走り出し、遥かな海に突き出ている断崖へと向かった。
危険な場所と安全な場所とを区切る柵を乗り越えるのはたやすいことだった。
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