微笑

原口源太郎

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第二章

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 この家にはもういられなかった。五年前にやっと建てた家だったが、今ではこの家に未練も何も無い。家族三人で暮らせるだけの小さなアパートでいい。今までの出来事を忘れてしまえるような、全く知らない土地がいい。
 雅彦は不動産屋に行き、幾つかのアパートを紹介してもらった。
 家に帰ると妙子を捜した。今日中にやっておきたいことがもうひとつある。
 妙子は居間で洗濯物を畳んでいた。台所には立てなくなった妙子だが、他の家事は今まで通りこなしている。
 雅彦はたまには外で食事でもしようと妙子を誘った。有希にも声をかけたが、行かないことはわかっていた。熱心な雅彦に、妙子は渋々従うことにした。
 車に乗り込むと、本当のことを言わなければと思った。雅彦は妙子を病院に連れていくつもりだった。いきなり何も言わずに連れていったのでは、妙子も納得しないだろう。
 エンジンをかける前に助手席の妙子に言った。
「食事の前に病院に行きたいんだ」
 その言葉に、妙子は怪訝そうに雅彦の顔を覗きこんだ。
「どこか具合が悪いの?」
「いや、僕じゃなくて、妙子が診てもらうんだ」
 妙子の顔に恐怖が走った。
「何で? 私が? 私は大丈夫よ。どこも悪いところなんて無いわ」
 そう言いながら妙子はドアを開けて外に出た。
 雅彦は妙子を説得するために車を降りて後を追った。
「妙子、妙子。そんなにたいした事じゃない」
 そう言って妙子の肩を掴んだ。
「どうして私が?」
 妙子は振り返ると、腹立たしそうに雅彦を睨んだ。
「この頃、色々あってストレスが溜まっているだろう。それを発散できるようにするんだ」
「ストレスなんて溜まってないわ。私はどこもおかしくない」
 そう言うと突然、庭に転がっている翔太のおもちゃの自動車を掴むと、雅彦に投げつけた。
 雅彦は咄嗟に腕を出して避けた。
 鈍い音がして腕に激しい衝撃が走る。
 苦痛に顔を歪める暇もなかった。顔を上げると、妙子が両手で掴んだランの鉢を投げつけるところだった。
 雅彦は慌てて体を屈めた。
 ヒュッと鉢が髪の毛をかすめる衝撃があった。
 雅彦の背後でガシャンと窓ガラスが割れる大きな音がした。
 妙子はわっと声を出して両手で顔を覆うと、そのまま家の中に走り込んだ。
 雅彦はしばらくそこにボーっと立っていた。妙子のヒステリーがそんなにひどくなっているとは思わなかった。妙子は崩れかけている。精神は砂でできた城のように、強風に煽られてさらさらと崩れ始めている。
 雅彦は憂鬱になって後ろを振り返った。頭の痛みが激しい。
 居間のガラスは派手に割れていた。絨毯の上に土をばら撒いて、哀れな洋ランが横たわっている。雅彦には人が死んでいる姿に見えた。
 ガラスを片付けるために箒を持ってこようとした時、視界にあれが入った。あれはいつもの場所にちょこんとあった。塀の上の少女は、雅彦の顔を見てにやにやと笑っていた。雅彦が睨むと、少女はブスッとした顔になった。
 雅彦は咄嗟に考えた。少女に悟られずに近付かなければならない。
 少女から目を離すと、雅彦は何か別の事に関心があるかのように装って、そそくさと家の裏に回った。そのまま裏口の門を出るとぐるっと家を回って表通りに出る。
 少女はポリバケツの上に爪先立って家の中を覗きこんでいた。雅彦はそろそろと少女の背後に回り込むようにして近付いていく。
 不意に少女が雅彦を見た。びくっとした少女はバケツから飛び降りて走り出す。
 雅彦も間を入れずに走り出した。
 少女は速かった。しかし、まだ小さな子供だ。どたどたと走る少女に雅彦はなんとか追い付き、少女の腕を掴んだ。
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