微笑

原口源太郎

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第一章

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 退院した時、雅彦は今まで通りの生活を送れる体に戻っていた。数本の曲がってしまった指で、手は完全な拳骨を作れなかったが、大した問題ではなかった。体に埋め込まれた骨を補強するための金属も、そんな存在を感じさせなかった。長い入院生活で衰えた体力や筋力もすぐに回復すると思った。
 事実、退院してから、職を探してあちこち歩き回っているうちに弱っていた足腰も元に戻った。
 仕事に対しては、これといった望みは無かった。ただ、前へ前へと躍進していく活気を帯びた仕事だと聞くたびに、書類を積み重ねた乱雑なオフィスを見るたびに、雅彦は激しい嫌悪感を覚えた。
 結局、人の良い社長の経営する小さなプレス加工の会社に就職を決めた。
 それから雅彦は新しい驚きと喜びを知った。時間通りの出社と時間通りの退社。規則正しい生活は、毎日にメリハリをつけ、楽だった。仕事は単純作業の繰り返しだったが、慣れてくると作業の繰り返しの中に楽しさが感じられるようになった。家族と過ごす時間は、前の仕事では考えられなかったほど増えた。家に帰るときは仕事のことは忘れ、空っぽの頭に家での楽しみを浮かべることがでるようになった。
 給料は数分の一になったが、それを差し引いても十分満足できる仕事だった。
 雅彦の入社により、その会社の総勢は八人となった。温厚で真面目な社長。ただ一人の女子社員で、事務をしている社長の娘。小型のプレスや研磨機を扱う六人の従業員。五十過ぎから二十歳そこそこまで、皆、大人しく真面目だった。
 雅彦は新しく増やした四台目のプレス機を扱うようになった。鉄板をセットし、プレス機のボタンを押す。打ち抜かれた鉄板を取り出し、別の鉄板をセットする。その繰り返し。一日に何百回も同じ作業を繰り返した。毎日繰り返した。
 雅彦は入社して半年後に幾つかの提案を社長にした。作業工程の改善、環境設備の改善、月に数回の全従業員によるミーティング。そのミーティングは雅彦が気付いたような改善事項などを他の従業員からも出してもらうためのもので、雅彦の提案は全て社長に認められた。
 新しい職について一年後、雅彦はその会社では初めての主任という肩書を貰った。毎日の仕事は変わらずに、プレス機を前にする日々だったが、他の従業員は雅彦の部下という立場になった。誰も不満は無かった。雅彦の温厚な人柄と積極的な行動が皆の尊敬を集めた。
 特に若い、その時二十五歳の石井と二十一歳の青山は雅彦をよく慕うようになった。初めは雅彦に若者特有の新参者に対するギツギツした視線を投げかけていた二人だったが、雅彦の年齢や経験を気にしない性格や、誰にも気さくな態度を取る様子に惹かれた。入社したてでわからないことが幾つもあった頃の雅彦は、隣でプレス機を操る十五も年下の青山に友人にでも尋ねるかのように色々と質問をした。パーマを当てた髪を金色に染めて目つきの悪い青山だったが、性格は大人しく素直だった。雅彦の質問に始めは素っ気なく答えていたが、やがて熱心に詳しく教えてくれるようになった。
 雅彦が主任の肩書を貰った一年後に、それは係長に変わった。仕事や部下は変わらなかった。社長も雅彦の有能を認め、それなりの待遇を与えてやりたかった。
 その半年後に社員がもう一人増え、雅彦のプレス機を扱うようになった。雅彦はラインの流れを手伝うか、社長と一緒に外回りの仕事に出かけるようになった。社長は雅彦を信頼し、雅彦も純粋で正直な社長の人柄を慕い、会社のために熱心に仕事に打ち込んだ。
 隣の家の火事があった日に結婚式を挙げたのは今年二十六になった石井だった。披露宴には社長以下全従業員が出席し、社の人間達だけの二次会を行って石井の幸せを祝った。

 ふと気が付くと、朝食の支度を終えた妙子が雅彦を起こすためにベッドの近くまで来ていた。妙子もよく眠れなかったのだろうか、疲れた顔をしていた。

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