僕のかわい子ちゃん

原口源太郎

文字の大きさ
上 下
1 / 1

僕のかわい子ちゃん

しおりを挟む
 母はどちらかというと、陽気な人だった。
 天然だったのか、それとも色々考えていたのかわからないけれど、よく面白い言葉や、かわいい言葉を口にした。
 例えば、私が冬の凍てつく日に外から帰ってくる。
 母が尋ねる。
「外は寒い?」
「凄く寒いよ」
「キャー!!」
 これから出かけなければならない母の返事がこれだ。
 私だったら「ええー」とか「嫌だなあ」と言うのがせいぜい。どう考えても「キャー!!」などという返事は出てこない。
 きっと頭の作りが、私と母とでは全く違うのだろう。
 とにかく、娘の私が見ても、そんな母の言葉や仕草はかわいらしく見えた。
 残念ながら私は、武骨で無口な父に似てお世辞にもおしゃべりとはいえない人間だ。
 そこへいくと、弟はぱっちりした目と丸い幼顔が母そっくりで、いつでもどこでも面白くないこと、どうでもいいこと何でもよくしゃべった。そのしゃべくり度は母以上で、無口な父との間に生まれた子とはとても信じられないほどで、もしかしたら母は一時の過ちを犯してしまったのではないかと勘繰りたくなるくらいだった。
 私は性格だけでなく、見た目も父に似ていて、母親似の弟を見るたびに、お互いに父と母の遺伝子を半分ずつ受け継いでいるとは信じ難く、私の80%は父の遺伝子で、弟の80%が母の遺伝子だと言われても驚かない自信があった。

「私がお父さんを拾ってあげなきゃ、お父さんは一生結婚なんてできなかったのよ」
 時々母が自慢げに言った。
 まあ、確かに父は堅物で、不愛想な人間だから、母が父を好きになり、母が父に交際を申し込み、母が父にポロポーズさせたというのも頷ける。
 でも、娘の私がひいき目なしに見ても、父はとても二枚目だ。母が言い寄らなくても、他の誰かが父を拾い上げたに違いない。

 陽気で無邪気で幼い子供のような母は、私が幼かった時、何度か私に愚痴をこぼしたことがある。
「私たちが付き合いだした頃や、結婚したばかりの頃、お母さんはよくね、お父さんに私のことを愛してる? て訊いたり、私のことを好きって言ってっておねだりしたことがあるの。でも、お父さんはああゆう人だし、照れくさい言葉はもっと言えない人だから、ちゃんと応えてくれたことは一度もないの」
 幼心にも、私は父の気持ちがわかるような気がした。それよりも父にそんなことを要求する母がすごいと思った。
「だからね、お父さんは私のことを本当に好きなのかどうか、未だにさっぱりわからないの。あんた、結婚するなら、はっきり自分の気持ちを口に出せる人を選びなさいよ」
 おいおい、今の私に言うのならわかるけれど、十年以上も前の、子供だった私に言う言葉かい。

 そんな会話を今でも覚えている。
 だけど、もうそんな会話はできない。
 かわいらしい返事を聞くことも、子供のような笑顔を見ることもない。
 昨日、担当医から、長くてあと二、三日だと告げられた。
 今、病室のベッドに横たわる母は眠ったまま。目を開くこともない。もう二度と意識を取り戻すことはないだろうというのが医師の見立てだった。
 父はベッドの横の椅子に座って、母を見たままでいる。時折見舞いに訪れる人には、私か弟が応対した。
 いつも明るかった母は、きっと幸せな人生を送ったのだと思う。
 ただ、ずっと聞きたいと願っていた、父からの愛しているという言葉を聞くことはできなかった。
 それが残念だとか、そんなことを考えることもなく、母は逝ってしまうのだろう。

「…ぬな」
 かすれたようなつぶやきが聞こえた。
「死ぬな」
 わずかに聞き取れるような声を発したのは、それまでずっと黙り込んでいた父だった。
「死ぬな、僕のかわい子ちゃん」
 小さな声だったが、はっきりとそう言うのが聞こえた。
 父は何かをこらえるかのように、両ひざに乗せた手をぎゅっと握りしめた。
 その時、私ははっきりとわかった。
 父はずっと母のことを愛していたんだ。
 ずっとずっと前から。
 その時から、父は決して口には出さなかったけれど、心の中で母のことを、いつもそう呼んでいたんだ。
『僕のかわい子ちゃん』と。

しおりを挟む

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

愛されない女

詩織
恋愛
私から付き合ってと言って付き合いはじめた2人。それをいいことに彼は好き放題。やっぱり愛されてないんだなと…

あの夏のキセキを忘れない

アサギリナオト
恋愛
高校陸上部のエースである柳瀬みのりは、自主練中に河川敷で転んでケガをした。 そんな彼女の前に一人の不良少年が現れる。 みのりは過去に親友を傷つけた不良という人種が大嫌いだった。 しかし、彼を通じて不可思議な現象を体験し、やがて不良少年と心を通わせていくことになるのだった。

夫が寵姫に夢中ですので、私は離宮で気ままに暮らします

希猫 ゆうみ
恋愛
王妃フランチェスカは見切りをつけた。 国王である夫ゴドウィンは踊り子上がりの寵姫マルベルに夢中で、先に男児を産ませて寵姫の子を王太子にするとまで嘯いている。 隣国王女であったフランチェスカの莫大な持参金と、結婚による同盟が国を支えてるというのに、恩知らずも甚だしい。 「勝手にやってください。私は離宮で気ままに暮らしますので」

完結 愛人と名乗る女がいる

音爽(ネソウ)
恋愛
ある日、夫の恋人を名乗る女がやってきて……

恋人の水着は想像以上に刺激的だった

ヘロディア
恋愛
プールにデートに行くことになった主人公と恋人。 恋人の水着が刺激的すぎた主人公は…

彼氏の前でどんどんスカートがめくれていく

ヘロディア
恋愛
初めて彼氏をデートに誘った主人公。衣装もバッチリ、メイクもバッチリとしたところだったが、彼女を屈辱的な出来事が襲うー

両隣から喘ぎ声が聞こえてくるので僕らもヤろうということになった

ヘロディア
恋愛
妻と一緒に寝る主人公だったが、変な声を耳にして、目が覚めてしまう。 その声は、隣の家から薄い壁を伝って聞こえてくる喘ぎ声だった。 欲情が刺激された主人公は…

私をもう愛していないなら。

水垣するめ
恋愛
 その衝撃的な場面を見たのは、何気ない日の夕方だった。  空は赤く染まって、街の建物を照らしていた。  私は実家の伯爵家からの呼び出しを受けて、その帰路についている時だった。  街中を、私の夫であるアイクが歩いていた。  見知った女性と一緒に。  私の友人である、男爵家ジェーン・バーカーと。 「え?」  思わず私は声をあげた。  なぜ二人が一緒に歩いているのだろう。  二人に接点は無いはずだ。  会ったのだって、私がジェーンをお茶会で家に呼んだ時に、一度顔を合わせただけだ。  それが、何故?  ジェーンと歩くアイクは、どこかいつもよりも楽しげな表情を浮かべてながら、ジェーンと言葉を交わしていた。  結婚してから一年経って、次第に見なくなった顔だ。  私の胸の内に不安が湧いてくる。 (駄目よ。簡単に夫を疑うなんて。きっと二人はいつの間にか友人になっただけ──)  その瞬間。  二人は手を繋いで。  キスをした。 「──」  言葉にならない声が漏れた。  胸の中の不安は確かな形となって、目の前に現れた。  ──アイクは浮気していた。

処理中です...