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今の私にはほんの毛先ほどの幸せもない。
何の希望も、喜びも、楽しみも存在しない。私の地位も、親父と私で築き上げてきた全てにも何の興味もなくなった。何から何までひっくるめて、丸めてどぶ川に放り込んでしまいたい気持ちだ。
次男の死が伝えられたのは四日前の朝。ただ一人残った私の身内だった。
長男の翔太が死んだのは三年前の春のことだった。大学の卒業式の翌日に友達たちと旅行に出かけ、夜の高速道路で事故に巻き込まれた。車外に放り出された翔太は即死した。遺体は私が見ても確認できないほどひどいものだった。
翔太は大学卒業と同時に私の会社に勤めることになっていた。私はいずれこの会社は翔太が継いでくれるから、何年か別の会社に勤めて社会勉強をしてくればいいと考えていた。しかし翔太はそんなことなど考えもしていないようだった。翔太はよく親父は働き過ぎだと言っていたが、そんな私を知っていたからこそ、翔太もこの会社しか見えていなかったのかもしれない。
翔太も次男の弘志もよく私になついてくれた。二人が幼い頃から私は夜も外出しがちであまり接してやれなかったが、二人は素直に育ち、私を信頼してくれて、私にはいつも自慢の種だった。
それは妻も同じだった。妻は私以上に二人を可愛がり、愛していた。翔太を失ってから妻は塞ぎがちになり、やがてノイローゼと診断されるまでになった。そして翔太が死んだ二年後の春に近くのマンションから飛び降りた。
妻の遺体も、私が見て誰かわからないほどだった。妻がノイローゼになり、ビルから飛び降りたのは私の責任だった。翔太が死んでからも、私は長年続いた仕事の習慣は変えられずにいたし、私自身が翔太の死で参っていた。妻が苦しんでいることは薄々感じていたが、そのための多くの時間を引き裂いてやることができなかった。悲しみの縁に放り出されたままの妻も、次男の弘志がいてくれたらまだ健全でいられただろう。
弘志は翔太が死ぬ一年ほど前に家を飛び出していた。それまでは翔太と弘志、妻と私、どこにでもある家庭のように、いや、どこの家庭にも負けないくらいに幸せな家族だった。
弘志が家を飛び出したのは彼が18の時だった。その時の事を私ははっきりと覚えている。翔太よりおっとりしていて素直だった弘志に、突然高校の同級生を身ごもらせてしまったと聞いた時、私は自分の感情を抑えることができなかった。その時の弘志の顔は今でもはっきりと瞼の裏に残っている。弘志のことが話題に出るたびにその顔が私の脳裏に浮かんできた。
あの時の晩、私は弘志に何をしたかよく覚えていない。高ぶった感情で怒鳴りつけたか、手を出してしまったのか。その時の弘志の反抗的な目だけをしっかりと覚えている。そしてその夜に弘志は密やかに家を出ていった。そのまま両親のいない同級生の女の子と姿を消した。
妻はとても悲しがり、弘志を連れ戻すように私に頼んだ。だが私はどうしても弘志を許せなかった。私を裏切り、私に恥をかかせたという思いが強かった。その時の私は従業員を数多く抱えた会社の社長という立場にいて、高慢になっていたのかもしれない。私はおざなりに弘志の行方を捜させたが、本気で捜し出そうとは考えていなかった。
私は弘志のことを忘れようとした。翔太と妻と私とで昔ながらの家庭を取り戻そうとした。それが上手くいきそうになっていた時に訪れたのが翔太の死だった。いつも異国の地で小さなストレスを抱えていた妻は、そのストレスを押さえていた子供たちがいなくなり、自分をコントロールできなくなってしまった。
翔太が死んだ時、妻は弘志を家に呼び戻してくれと願ったが、私はできなかった。弘志の居場所は知っていた。家を飛び出した翌日に探偵社に依頼し捜させた。数日のうちに弘志の居場所は突き止められたが私は弘志を連れ戻すわけでなく、話をしに行くわけでもなく、金を送るわけでもなく、何もしなかった。妻たちにはそのことを告げず、どこかで無事に暮らしているらしいとだけ言った。高校生の分際で子供を身ごもらせ、結婚したいなどということは私にとって言語道断といえる出来事だった。
その後も弘志たちのことは探偵社に定期的に調べさせた。弘志は小さなアパートを借りて暮らし、仕事は料理屋に勤めだしたと報告を受けた。
私から迎えに行くことはできないが、帰ってくるのなら受け入れてやらないでもなかった。特に翔太が死んだ直後は、私も弘志が帰ってきてくれないかと本気で考えたこともあった。だが弘志も翔太と同じようにのんびりとした性格の中にも一途な所があり、あのような形で家を飛び出したからには、余程のことがない限り帰ってこないということはわかっていた。
何の希望も、喜びも、楽しみも存在しない。私の地位も、親父と私で築き上げてきた全てにも何の興味もなくなった。何から何までひっくるめて、丸めてどぶ川に放り込んでしまいたい気持ちだ。
次男の死が伝えられたのは四日前の朝。ただ一人残った私の身内だった。
長男の翔太が死んだのは三年前の春のことだった。大学の卒業式の翌日に友達たちと旅行に出かけ、夜の高速道路で事故に巻き込まれた。車外に放り出された翔太は即死した。遺体は私が見ても確認できないほどひどいものだった。
翔太は大学卒業と同時に私の会社に勤めることになっていた。私はいずれこの会社は翔太が継いでくれるから、何年か別の会社に勤めて社会勉強をしてくればいいと考えていた。しかし翔太はそんなことなど考えもしていないようだった。翔太はよく親父は働き過ぎだと言っていたが、そんな私を知っていたからこそ、翔太もこの会社しか見えていなかったのかもしれない。
翔太も次男の弘志もよく私になついてくれた。二人が幼い頃から私は夜も外出しがちであまり接してやれなかったが、二人は素直に育ち、私を信頼してくれて、私にはいつも自慢の種だった。
それは妻も同じだった。妻は私以上に二人を可愛がり、愛していた。翔太を失ってから妻は塞ぎがちになり、やがてノイローゼと診断されるまでになった。そして翔太が死んだ二年後の春に近くのマンションから飛び降りた。
妻の遺体も、私が見て誰かわからないほどだった。妻がノイローゼになり、ビルから飛び降りたのは私の責任だった。翔太が死んでからも、私は長年続いた仕事の習慣は変えられずにいたし、私自身が翔太の死で参っていた。妻が苦しんでいることは薄々感じていたが、そのための多くの時間を引き裂いてやることができなかった。悲しみの縁に放り出されたままの妻も、次男の弘志がいてくれたらまだ健全でいられただろう。
弘志は翔太が死ぬ一年ほど前に家を飛び出していた。それまでは翔太と弘志、妻と私、どこにでもある家庭のように、いや、どこの家庭にも負けないくらいに幸せな家族だった。
弘志が家を飛び出したのは彼が18の時だった。その時の事を私ははっきりと覚えている。翔太よりおっとりしていて素直だった弘志に、突然高校の同級生を身ごもらせてしまったと聞いた時、私は自分の感情を抑えることができなかった。その時の弘志の顔は今でもはっきりと瞼の裏に残っている。弘志のことが話題に出るたびにその顔が私の脳裏に浮かんできた。
あの時の晩、私は弘志に何をしたかよく覚えていない。高ぶった感情で怒鳴りつけたか、手を出してしまったのか。その時の弘志の反抗的な目だけをしっかりと覚えている。そしてその夜に弘志は密やかに家を出ていった。そのまま両親のいない同級生の女の子と姿を消した。
妻はとても悲しがり、弘志を連れ戻すように私に頼んだ。だが私はどうしても弘志を許せなかった。私を裏切り、私に恥をかかせたという思いが強かった。その時の私は従業員を数多く抱えた会社の社長という立場にいて、高慢になっていたのかもしれない。私はおざなりに弘志の行方を捜させたが、本気で捜し出そうとは考えていなかった。
私は弘志のことを忘れようとした。翔太と妻と私とで昔ながらの家庭を取り戻そうとした。それが上手くいきそうになっていた時に訪れたのが翔太の死だった。いつも異国の地で小さなストレスを抱えていた妻は、そのストレスを押さえていた子供たちがいなくなり、自分をコントロールできなくなってしまった。
翔太が死んだ時、妻は弘志を家に呼び戻してくれと願ったが、私はできなかった。弘志の居場所は知っていた。家を飛び出した翌日に探偵社に依頼し捜させた。数日のうちに弘志の居場所は突き止められたが私は弘志を連れ戻すわけでなく、話をしに行くわけでもなく、金を送るわけでもなく、何もしなかった。妻たちにはそのことを告げず、どこかで無事に暮らしているらしいとだけ言った。高校生の分際で子供を身ごもらせ、結婚したいなどということは私にとって言語道断といえる出来事だった。
その後も弘志たちのことは探偵社に定期的に調べさせた。弘志は小さなアパートを借りて暮らし、仕事は料理屋に勤めだしたと報告を受けた。
私から迎えに行くことはできないが、帰ってくるのなら受け入れてやらないでもなかった。特に翔太が死んだ直後は、私も弘志が帰ってきてくれないかと本気で考えたこともあった。だが弘志も翔太と同じようにのんびりとした性格の中にも一途な所があり、あのような形で家を飛び出したからには、余程のことがない限り帰ってこないということはわかっていた。
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