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第三章 流転する運命
第92話 尋問と手形
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ヨハネは目が覚めた。
彼はかび臭い石の床に顔を押し付けられていた。
起き上がろうと顔を上げるとそのまま全身に激痛が走って、顔面を床にぶつけた。彼は両腕を逆手に荒縄で縛られていた。膝と足首も縛られていた。彼は身ぐるみを剥がれて。うつ伏せで寝かされていた。彼はかろうじて顔だけを上げた。前髪越しに見る前方には、椅子にカピタンのトマスが足を組んで座っていた。彼は義手を付け、その先には鋭い短剣が光っていた。そして彼の左右には屈強な男たちが六人、腕組みをしてヨハネを見下していた。奉公人ではなかった。おそらくカピタン個人の護衛だろう、ヨハネはそう思った。
「ああ、気が付いたか」
そう言うとカピタンは足を組み替え、続けた。
「大変な事をしてくれたな。馬車と馬と奴隷の窃盗、関所破り、兵士への暴行と傷害。どれも一つだけでも重罪だ。そして奉公人契約中の脱走。これは債務不履行の結果、お前が物ものになったという事だ。つまりは奴隷だな。せっかく5年間も勤め続けて、もうすぐ年季明けだったのに、愚かな行いをしたものだ。動機はあの女奴隷かね。お前は3年前にもワクワクの娘に懸想をして騒ぎを起こした。だが今度の事件はずっと悪質だな」
「……」
ヨハネは黙った。
「今回は私の大損だな。馬車が1台壊れ、馬は大ケガして廃馬にするしかない。そして奴隷を1人失った。数百万ジェンの損害だ。いや、あの女奴隷なら、一千万ジェンくらいで売れたかもしれない。もっとも奴隷の死亡・逃亡・病気などにはしっかり保険が掛かっている。私には大した損はない。保険なしで奴隷商をやる愚か者はいないからな」
「あの2人に保険が掛かってたのか……」
ヨハネは呻うめくように言った。
「当たり前だ。奴隷の死亡はよくある事故だし、女奴隷に惚れた男奉公人が逃がしてしまう事件もたまに起きる。事前に予測済みだ。過去にそんな例はいくらでもあった。だが今回は2つの点で事情が違う。一つはお前が奉公人頭だという事だ。通常、そこまで出世した者がその地位を捨てて、奴隷を逃がすなんてあり得ない。頭には一部の奉公人しかなれないし、そこに至るまでは大変な苦労があるからだ。損得勘定として割に合わない。損しかない。二つ目はお前が逃がそうとした奴隷が2人だという事だ。駆け落ちなら1人だけだろう。だが、お前はあの女奴隷の小屋に2人の奴隷が入っていると知っていたはずだ。初めから2人を逃がそうとしていたのではないかね? そんな奇妙な例は聞いた事がない。なぜだ? もし売買目的ならすぐに足が付く。奴隷売買ができる人間は限られていし、商品の管理には特別の設備と人手がいる。そんな事情は5年間、この商会で働いていたお前がよく知っているはずだ。なぜ2人を同時に逃がそうとした?」
ヨハネはうつ伏せのまま、顔だけを上げてトマスを睨にらんだ。そして声を震わせながら話した。
「……あの2人は、希望を持って新しい仕事をしていた。人を物として右から左に動かすような作業ではなく、自分で何かを造り上げる仕事をしていた。気高く誇り高い心で働いていた……。その2人が、奴隷にされた。遠くに売られ地獄のような日々が待っていたはずだ。何とかしたいと思った。私の損得で言えば関わらない方がいい。だが、あの2人を助けられなければ、私は一生後悔しただろう。だから2人を逃がそうと思った。奴隷小屋に入った時、マリアはもう売られていた。メグだけを逃がした。それだけだ」
トマスはまた足を組み替えて言った。
「それが動機か? ますます分らないな。お前の動機は、金銭でも色恋でもないのか。まあいい。私がお前の心を理解する必要もないし、私に金銭的な損はない。馬車と馬を失ったのは些細な事だ。奴隷売買で上がる利益に比べればあんなものは帳簿上の誤差のようなものだ。しかし残念だね。お前には将来この商会の中枢で働いてもらおうと思っていたのだが」
トマスは、左手の義手に付いた短剣で椅子のひじ掛けを削りながら言った。
「しかし、お前は不思議なやつだな。私のように損得で物事を考える人間にとってお前は未知の存在だ。何の得もない事を大きな危険を顧みずにやるとはね。お前に興味が湧いてきたよ。これは合理性から離れた人間に対する興味だ」
トマスは椅子から立ち上がり、ヨハネの側にしゃがみ込んで尋ねた。
「どうだ? お前はまだあのマリアと言う名の女奴隷を救いたいか?」
「……もちろんだ」
ヨハネは答えた。
「おい! 彫師を呼べ。そして商会の烙印だ。すぐ使えるようにして持ってこい」
護衛の1人が部屋から出て行った。
「よく聞け、ヨハネ。今からお前に為替手形をやる。マリアと言う名の女奴隷と引き換えの為替手形だ。支払人は東ミゲル会社。『会社』と名乗っているが、軍隊を持ち地元民から税金も徴収している強力な軍閥だ。そこに我が商会は売掛金を持っている。その売掛金をお前に振り出す手形で帳消しにする」
ヨハネは驚いた。
「なぜ、あなたも少しの得にならない事をするのですか」
トマスは歪んだ笑顔で言った。
「さっき、お前に興味がわいた、と言っただろう。お前が今回行った事はお前にとって何の得にもならない。お前はおそらく何か特別な動機があるのだろう。私にとっては理解しがたい。それがいったい何なのか、見届けたいのだ。売掛金は損をするが、1年に数えきれない奴隷を売り買いする私にとっては些末な金額だ。それに……」
「それに?」
ヨハネは訊いた。
「それに、私のような合理的な人間は敢えてこんな酔狂を何故かやってみたくなるんだ。人間が利害以外の動機でどう動くのかをね。手形を振り出したら解放してやる。どこへでも行くがいい。逃げたっていいぞ。お前を売って損失の穴埋めも考えたが、反抗癖が強くてケガをしている奴隷など大した額では売れない。私のすさびに使ってみるのもいいだろう」
トマスがそこまで話すと先ほどの護衛が、先が赤く焼かれた焼きごてと、鞄を持った彫師を連れて部屋に戻ってきた。
「さあ、手形を受け取れ」
トマスはそう言ってにやりと笑った。
彼はかび臭い石の床に顔を押し付けられていた。
起き上がろうと顔を上げるとそのまま全身に激痛が走って、顔面を床にぶつけた。彼は両腕を逆手に荒縄で縛られていた。膝と足首も縛られていた。彼は身ぐるみを剥がれて。うつ伏せで寝かされていた。彼はかろうじて顔だけを上げた。前髪越しに見る前方には、椅子にカピタンのトマスが足を組んで座っていた。彼は義手を付け、その先には鋭い短剣が光っていた。そして彼の左右には屈強な男たちが六人、腕組みをしてヨハネを見下していた。奉公人ではなかった。おそらくカピタン個人の護衛だろう、ヨハネはそう思った。
「ああ、気が付いたか」
そう言うとカピタンは足を組み替え、続けた。
「大変な事をしてくれたな。馬車と馬と奴隷の窃盗、関所破り、兵士への暴行と傷害。どれも一つだけでも重罪だ。そして奉公人契約中の脱走。これは債務不履行の結果、お前が物ものになったという事だ。つまりは奴隷だな。せっかく5年間も勤め続けて、もうすぐ年季明けだったのに、愚かな行いをしたものだ。動機はあの女奴隷かね。お前は3年前にもワクワクの娘に懸想をして騒ぎを起こした。だが今度の事件はずっと悪質だな」
「……」
ヨハネは黙った。
「今回は私の大損だな。馬車が1台壊れ、馬は大ケガして廃馬にするしかない。そして奴隷を1人失った。数百万ジェンの損害だ。いや、あの女奴隷なら、一千万ジェンくらいで売れたかもしれない。もっとも奴隷の死亡・逃亡・病気などにはしっかり保険が掛かっている。私には大した損はない。保険なしで奴隷商をやる愚か者はいないからな」
「あの2人に保険が掛かってたのか……」
ヨハネは呻うめくように言った。
「当たり前だ。奴隷の死亡はよくある事故だし、女奴隷に惚れた男奉公人が逃がしてしまう事件もたまに起きる。事前に予測済みだ。過去にそんな例はいくらでもあった。だが今回は2つの点で事情が違う。一つはお前が奉公人頭だという事だ。通常、そこまで出世した者がその地位を捨てて、奴隷を逃がすなんてあり得ない。頭には一部の奉公人しかなれないし、そこに至るまでは大変な苦労があるからだ。損得勘定として割に合わない。損しかない。二つ目はお前が逃がそうとした奴隷が2人だという事だ。駆け落ちなら1人だけだろう。だが、お前はあの女奴隷の小屋に2人の奴隷が入っていると知っていたはずだ。初めから2人を逃がそうとしていたのではないかね? そんな奇妙な例は聞いた事がない。なぜだ? もし売買目的ならすぐに足が付く。奴隷売買ができる人間は限られていし、商品の管理には特別の設備と人手がいる。そんな事情は5年間、この商会で働いていたお前がよく知っているはずだ。なぜ2人を同時に逃がそうとした?」
ヨハネはうつ伏せのまま、顔だけを上げてトマスを睨にらんだ。そして声を震わせながら話した。
「……あの2人は、希望を持って新しい仕事をしていた。人を物として右から左に動かすような作業ではなく、自分で何かを造り上げる仕事をしていた。気高く誇り高い心で働いていた……。その2人が、奴隷にされた。遠くに売られ地獄のような日々が待っていたはずだ。何とかしたいと思った。私の損得で言えば関わらない方がいい。だが、あの2人を助けられなければ、私は一生後悔しただろう。だから2人を逃がそうと思った。奴隷小屋に入った時、マリアはもう売られていた。メグだけを逃がした。それだけだ」
トマスはまた足を組み替えて言った。
「それが動機か? ますます分らないな。お前の動機は、金銭でも色恋でもないのか。まあいい。私がお前の心を理解する必要もないし、私に金銭的な損はない。馬車と馬を失ったのは些細な事だ。奴隷売買で上がる利益に比べればあんなものは帳簿上の誤差のようなものだ。しかし残念だね。お前には将来この商会の中枢で働いてもらおうと思っていたのだが」
トマスは、左手の義手に付いた短剣で椅子のひじ掛けを削りながら言った。
「しかし、お前は不思議なやつだな。私のように損得で物事を考える人間にとってお前は未知の存在だ。何の得もない事を大きな危険を顧みずにやるとはね。お前に興味が湧いてきたよ。これは合理性から離れた人間に対する興味だ」
トマスは椅子から立ち上がり、ヨハネの側にしゃがみ込んで尋ねた。
「どうだ? お前はまだあのマリアと言う名の女奴隷を救いたいか?」
「……もちろんだ」
ヨハネは答えた。
「おい! 彫師を呼べ。そして商会の烙印だ。すぐ使えるようにして持ってこい」
護衛の1人が部屋から出て行った。
「よく聞け、ヨハネ。今からお前に為替手形をやる。マリアと言う名の女奴隷と引き換えの為替手形だ。支払人は東ミゲル会社。『会社』と名乗っているが、軍隊を持ち地元民から税金も徴収している強力な軍閥だ。そこに我が商会は売掛金を持っている。その売掛金をお前に振り出す手形で帳消しにする」
ヨハネは驚いた。
「なぜ、あなたも少しの得にならない事をするのですか」
トマスは歪んだ笑顔で言った。
「さっき、お前に興味がわいた、と言っただろう。お前が今回行った事はお前にとって何の得にもならない。お前はおそらく何か特別な動機があるのだろう。私にとっては理解しがたい。それがいったい何なのか、見届けたいのだ。売掛金は損をするが、1年に数えきれない奴隷を売り買いする私にとっては些末な金額だ。それに……」
「それに?」
ヨハネは訊いた。
「それに、私のような合理的な人間は敢えてこんな酔狂を何故かやってみたくなるんだ。人間が利害以外の動機でどう動くのかをね。手形を振り出したら解放してやる。どこへでも行くがいい。逃げたっていいぞ。お前を売って損失の穴埋めも考えたが、反抗癖が強くてケガをしている奴隷など大した額では売れない。私のすさびに使ってみるのもいいだろう」
トマスがそこまで話すと先ほどの護衛が、先が赤く焼かれた焼きごてと、鞄を持った彫師を連れて部屋に戻ってきた。
「さあ、手形を受け取れ」
トマスはそう言ってにやりと笑った。
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