ガレオン船と茶色い奴隷

芝原岳彦

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第三章 流転する運命

第66話 羊水の臭い

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 その日の市場は盛況を通り越して狂乱状態だった。



 人波ひとなみが渦を巻き、いきれが温い風になってヨハネの顔に当たった。いつものように沖仲士おきなかせの見回り組がたくましい上半身を初夏の日にさらして市場を見回っていた。

 その手には長くて太いなしの槍が握られていた。見張り台が造られ、その上には弓を肩に掛けた沖仲士おきなかせの男が矢をつがえて周囲を睥睨へいげいしていた。赤銅色しゃくどういろに日焼けしたその男は丸くて大きな目を大げさに動かしながら、定期的に弓を放つふりをしていたが、その矢の先にはが付いていなかった。ただあの高さから穂なしの矢で打たれた者はケガをするだろうから、強い抑止力になった。

 沖仲士おきなかせの組合は効果的に機能していた。



 それにしても今日の市場は明らかに過熱気味だった。エル・デルタに立つ市は3つの種類があった。

 1つめは小商いを行う商人たちが集まって自発的に起こるもの。

 2つめは市参事会しさんじかいが主催する定期的な市場。

 3つめは街中の大商人たちが集まって不定期に行われる大規模な市場だった。



 どれも主要な商人たちが寄合いをして時間と場所を決め、沖仲士おきなかせの組合に警備を依頼して行われていた。



 しかし今日の市はどれにも当てはまらなかった。これはヨハネが知る限り今までで最大の市だった。人々の流れは不規則で、出店や屋台の配置は秩序立ってはいなかった。主催者に無届けの店が大量に参加したした結果だ。様々な音と臭いが混ざり合い、竜巻のようにヨハネの体を取り巻いた。



 四方八方で人々の怒鳴り声が聞こえた。

「はい、安いよ安いよ安いよ」

「買ってきな買ってきな買ってきな」

「お客さんそんな値引き強欲ですよ」

「おいひったくりだ。そいつだ、そいつ! 捕まえてくれ」

「おかあさん、どこ、どこにいるの」

「おい、俺じゃねえ、その汚い手を離しやがれ!」

「いくらなんでも高すぎだよ」

「ちょっと、痴漢よ! その気持ち悪い男! 見回り組に突き出してやるわ!」

「早く買わないと痛んじまうよ」



 むせ返る臭いもすさまじかった。



 市場全体にくず肉を焼いた臭いが漂っていた。屋台で売っている立ち食い料理の臭いだ。それに加えてニラの臭いも広がっていた。くず肉の腐敗を遅らせるために肉に混ぜられるのだ。そして人々が吐く口の匂い、ニラと肉の臭い以外にも鮮魚せんぎょや貝の臭いが人々の口から立ち昇っていた。



 その他にも雑多な臭いが市場に流れていた。

 牛を解体した際に流れ出た血の臭い、皮を剥ぐ時に立ち昇る生臭くて柔らかい皮膚の臭い。



 ふと、ヨハネは子供の頃、牛のお産を手伝った体験を思い出した。羊水のぬめりと、暖かい血の臭い、湯気立ち昇る仔牛の肌、疲れた母牛の瞳。



 ヨハネはそれらの雑多な音とむせる程の臭いが好きだった。それらは暖かい何かに包まれているような安心感を彼に感じさせた。



 その時、市場の奥から突然リュートの音が響き上がった。

 歌うたいたちの集団が歌と踊りを始めたのだ。

 人々は見物しようと市場の中に設けられた広場に向かって走り出した。
 ヨハネはその人流れの中で棒のように立ち続けた。彼は何度も肩をぶつけられてよろめきながら、人々の顔を眺めた。みな興奮した様子でリュートの音のなる方角へ走り去った。「走るな、走るな」という見回り組の声が響いていた。黒髪、赤毛、黒の入った金色の髪、茶色い肌、浅黒い肌、稀に白い肌、様々な顔かたちがヨハネの両脇を通り過ぎて行った。
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