ガレオン船と茶色い奴隷

芝原岳彦

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第二章 拡がりゆく世界

第61話 ワクワクの血

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 ヨハネは自分も空腹だという事を思い出して、籠かごの中の黒パンを掴むと2階の自分の部屋へ階段を駆け上がった。

 ペテロと一緒に夕食を取ろうと約束をしていたからだった。ヨハネは2階に上がると自分の部屋の隣にあるペテロの部屋の扉を叩いた。



「誰だ」

 大きな声が返って来た。

「私だよ」

「ああ、入れ入れ」

 嬉しそうな声が響いた。

 ヨハネは扉を開けた。そこはヨハネの部屋と何ら変わりのない造りの部屋だった。



 ただ、部屋に置かれている物はまったく違った。ヨハネの部屋は、ほんと書類に埋もれていたが、ペテロの部屋は海の向こうの品物で溢れていた。



 南瓜かぼちゃの形をした硝子がらすの空き瓶に、鮮やかな色付けがされたティエラ・フィルメの大皿、不思議な形に湾曲した短刀とその鞘、壁には香辛料や薬品の原料になる植物の絵が貼られ、その下にはペテロの自作らしきガレオン船の模型が置かれていた。そして部屋の角には一羽のすずめが入ったかごが置かれていた。



 その部屋の机にペテロは入り口に背を向けて座っていた。ヨハネが横から覗き込むとペテロは小刀と木材を使って船の模型を造っていた。ペテロは椅子から立ち上がると満面の笑みでヨハネを迎えた。



「ヨハネ! 来てくれたか!」

 大きな声で言うと右手をヨハネの左肩に置いた。

「ああ」

 ヨハネもそう答えると右手をペテロの左肩に置いた。2人はそのまま見つめ合っていた。ペテロはヨハネより頭半分背が高かった。



「……」

 2人は噴き出すと破顔一笑、大笑いを始めた。

「ああ、男と見つめ合ってもなあ。ははっ」

「そうだな。気持ち悪いだけだ」

「もう、夕飯は食ったのか」

「いや。これからだ。黒パンを持って来た。おまえは?」

「とっくに食べちまったよ。でも全然足りないからこれを買ってきた」



 ペテロは編籠あみかごを机の下から出してきた。中に入っていたのは、以前ヨハネとペテロが市場で買った食べ物だった。焼いたくず肉をパンで挟んだもので、それが藁紙わらがみに包まれて10個ばかり入っていた。



「それにこんなのもある」

 ペテロは机の下から長くて大きな白い陶器の瓶を取り出した。それには有名な酒蔵の瓶札びんふだが貼ってあった。



「葡萄酒じゃないか! そんな高いものどこから手に入れたんだ」

「毎日、市場に行ってると色々いい目に会えるのさ」

「でも、カップがないぞ」

「ははっ、2人で回してラッパ飲みをすればいいんだよ」

 そう言うとペテロは短刀で瓶のコルクを開けると、顔を天井に向けてゴクリゴクリと葡萄酒を飲んだ。



 飲み下す音がする度に大きな喉仏が上下に動いた。分厚い胸も前にせり出した。その姿を見てヨハネは軽い劣等感を感じた。ペテロの筋骨隆々たる体格はいつもヨハネを圧迫した。



「さあ、お前も飲めよ」

 ペテロは半分ばかり葡萄酒が残った瓶をヨハネに押し付けた。

「ああ」

 ヨハネも負けじと瓶を右手で鷲掴わしづかみにして葡萄酒を呑み込んだ。熱い液体が喉から胃の腑に落ちて、そこから血管が全身に熱を運ぶのを感じた。が、しばらくすると得も言われぬ不快感が胃から喉元へさかのぼり、ヨハネは酒を戻しそうになるのを必死に我慢した。



「これ、混ぜ物がしてあるだろ!」

 ヨハネは眉間みけんに皺しわを寄せながら、今まで自分が飲んでいた瓶を眺めて言った。そこには、酒蔵さかぐら瓶札びんふだが不自然に歪んで貼られていた。

「ははっ、俺たち奉公人が本物の葡萄酒を飲めるわけないだろ。瓶を再利用したのさ。これは『戻しそうになるのを我慢しながら飲む酒』さ」

 ヨハネは寝台に座り、ペテロは椅子に座った。2人は黒パンとクズ肉料理を齧りながら話し始めた。



「ペテロは今、どんな仕事をしているんだ」

「毎日、あちこちの市場に出かけては物の値段を調べてはカピタンに報告しているんだ」

「もう、市参事会しさんじかいや奴隷運搬の仕事はしないのか」

「それは新人の仕事さ。俺はもうさんざんやった。俺は次の段階の仕事をしてるんだ」

「どういうことだよ」

「今度は物を売り買いする準備だ。カピタンは俺にそれを期待してる。じゃなきゃわざわざ俺を東インドまで送らない。ヨハネはどうしてる」

「私は新人に仕事を教えている。市参事会しさんじかいの仕事もしてるし、奴隷運搬の仕事を手伝う事もある。この間は織物工房おりものこうぼうの準備をしたよ」

「まだ市参事会しさんじかいの仕事に出てるのか。あんなの新人に任せろよ」

「そうはいかない。地味だけど経験と知恵のいる仕事だ」

「俺は大きな仕事をするぞ。海の向こうには限りない可能性があるんだ。お前にも見せたかったよ。外洋の果てしない海、東インドの隆盛ぶり、見てないお目には分んないだろうなあ」

「そんなにすごいのか」

「ああ、向こうにいる間は興奮が収まらなかったぜ。とにかく人と商品と船と金が飛び交ってるんだ」

「ペテロは向こうに行きたいのか」

「行きたいさ。あれで血が騒がないようじゃ男じゃないぞ! 向こうに行って一旗上げればこの商会のカピタン以上の大金持ちになれるかもしれない」



「ペテロは東インドに行って伝手つてや資金があるのか」

 ヨハネはペテロが興奮して話すほど、頭が冴え冷静になった。

「ははっ。お前は東インドを知らない。あそこでは立身出世りっしんしゅっせ話が日常茶飯事なんだ。いろんな国から集まった野心も能力もある者たちが新しい世界を作っている。俺はもっと好きにやる。1つの場所に縛られないぞ。出世して金を稼いで……ヨハネ、お前も一緒にやらないか。お前はさとくはないが粘りがある。俺の補佐役にならしてやってもいいぞ」



 ペテロは興奮していた。ヨハネは彼が酔っているのかとも思ったが顔色は変わっていなかった。おそらく酔ってはいないのだろう。しかしヨハネはペテロの上げる怪気炎かいきえんに強い違和感を持たざるを得なかった。ペテロの言う事は現実味があるようには思えなかった。ただここから離れて遠くへ行きたい、と願っているだけではないか、そう思った。



「なんだ。ヨハネは将来の夢がまだないのか。俺はあるぞ、まずここで商売の仕方を覚えてカピタンの代わりができるくらい出世したら、東インドに渡って大きな貿易をするぞ。ははっ!」



 そう言うとペテロは部屋の角にあった籠かごを取り上げ、蔀戸を外側に大きく跳ね上げた。そして籠かごを開けた。中には燕つばめが1羽入っていた。それは2~3回鳴き声を上げると日が沈んだばかりのエル・デルタの街へ飛び去って行った。



「あの鳥はさ、この島から東インドまで飛んでくらしいんだ。それを聞いてから、あの鳥が大好きになってさ。たまに市場で買っては逃がしてやってるんだ」

 トマスは鳥の飛び去った後を追うように街の遠くを見つめていた。

「でも……」

 ヨハネは自分の心の中で急に嗜虐心しぎゃくしん自虐心じぎゃくしんが絡み合うように育つのを感じた。

「でも、なんだよ」

 ペテロは笑顔を紅潮させながら言った。

「私たちが出世するのは無理だよ。商売の仕方も一番大事な所は教えてもらえない」

「なぜだ」

「過去にそういう経験があるからだ」

「そうなのか。ははっ、なぜだろうな」



「……私たちにはワクワクの血が入ってるんだ。奉公人より上には行けない」



 ペテロの顔から血の気が引いた。その様子はほの暗い蝋燭ろうそくの明かりですら分かるほど急激な顔色の変化だった。



「ははっ、何言ってんだ。俺の外見はコーカシコスに近い。髪も金色だし、肌の色も白い。背も高い。市参事会しさんじかいのお偉いさんたちと大して変わらないだろ。ワクワクらしい所なんか一つもないだろ。ははっ」

「ペテロのばあちゃんはワクワクだろ。奉公人や奴隷たちはたいていワクワクの血を引いてる。私とペテロが北の村から連れてこられた奉公人だってのは誰でも知ってるよ」

 ペテロは固い笑顔を作ると狭い部屋の中で、頭を抱えながら歩き回り出した。体の大きなペテロが狭い部屋の中を歩き回ると、風が起こってヨハネの顔に当たった。床が悲鳴を上げるように鳴った。

「ヨハネ、お前は分かってないよ。俺はコーカシコスの血が濃いんだ。だがらワクワクの血が入っていてもコーカシコス扱いなんだ」



『一滴の血』の決まりを知らないのか、とヨハネは言おうとしたが、これ以上ペテロを追い詰めるのはまずいと思って、言葉を呑み込んだ。

「ほら、一言も言い返せないじゃないか。ヨハネ、お前は目が青いだけで、体格も貧相だから俺を妬んでるんだろ。だからそんな事言うんだ。そうだろ!」

 ペテロは顔を真っ青にして尖った声で怒鳴った。

「ペテロ。私の母親もワクワクだ」

 ヨハネは寝台に腰かけたまま、立っているペテロの茶色い目を見つめながら言った。

「出て行け」

 ペテロは静かに言った。



 ヨハネは立ち上がると部屋を出て、静かに扉を閉めた。その直後、背後で破裂音が聞こえた。陶器が割れたときの音だった。ヨハネは隣の自分の部屋に戻ると折り畳みの寝台を降ろして横になった。壁向こうのペテロの部屋から何の気配も物音もしなかった。ただ沈黙が続くだけだった。ペテロは自分にこんな加虐的かぎゃくてきな一面があった事に驚いたが、慣れない酒を飲んだせいか、ひどく眠たかった。彼は意識を失うように眠りに落ちた。



 次の日の早朝、ヨハネは朝早く目を覚ました。隣のペテロの部屋に行くと、扉は少しだけ開いていた。

 彼は不在だった。

 そっと中をうかがうと、床には割れた葡萄酒の瓶が転がっていた。部屋には酒と肉の臭いに交じって、人の心をいらだたせる何か不思議な臭いが蔓延していた。



 ヨハネは商会を出ると、朝市まで出かけた。その喧騒と混雑の中で、愛玩用の鳥を売っている店を見つけると、2羽の燕つばめが入った籠かごを買った。彼はそれを持って市場の横にある丘まで登った。そこからはエル・マール・インテリオールが見下ろせた。

 ヨハネは籠かごを開けて2羽の燕つばめを空に放った。



 1羽は力強く海に向かって飛び去った。もう1羽はヨハネの足元を彷徨さまようように飛んでいたが、しばらくすると羽をばたつかせて飛び上がると、羽を広げて風に乗り、ヨハネの周りを数度回ると、低めに高度を取って滑るように海に向かって飛び去った。
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