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第一章 奴隷たちの島々
第27話 格子ごしのふたり
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ヨハネを含めた奉公人たちは衣食住を保証されているだけで、給料はまったく貰えなかった。
そのため奉公人たちはたいてい何かの副業をしていた。フォルモサやペナン島から輸入された煙草やビンロウの密売や売春宿のポン引きなどだ。港の沖仲士と仲良くなって輸入の商品を少しだけ横流ししてもらうか、売春宿のやり手婆と懇意になり、客を連れてくる代わりに何割か手数料を稼ぐのだ。
その代金は、この国の軍閥や氏族が造ったビタ銭かティエラ・フィルメからもたらされた良銭で払われた。この街の大部分を占める下層社会の人々はたいていビタ銭を使っていた。中流以上の人々はエスクード金貨やピラドル銀貨を使っていたが、ヨハネのような奉公人はその貨幣自体見た事も触った事もなかった。ヨハネはとにかくティーに逢うために奉公人小屋で夜が更けるのを待った。
しばらくしてヨハネは、奉公人部屋で目を覚ました。
寝過ごしたか、と寝台から跳ね起き蔀戸を開け、窓から外を見た。空にはまだ半月が青く光っていた。他の奉公人たちはみないびきを掻いて寝むっていた。ヨハネは冷や汗を流しながら、そっと部屋を抜け出した。
裏路地は、前回ティーに逢いに行った時よりずっと暗く歩きにくかった。
彼が胸を高鳴らせながら、前と同じ生垣の前に立った。するとカラタチの木々はその生命力を発揮して、ヨハネの秘密の通路を塞いでしまっていた。彼はまた傷だらけになりながら道を切り開かねばならなかった。
だがそんな事を苦難と感じないほど、彼の胸の奥には小さくて強い炎が燃えていた。
棘と刃に身を切られながら、彼は見覚えのある鉄格子の枠までたどり着き、顔を鉄格子の間に突っ込んで裏庭の様子をうかがった。半月の光が照らす裏庭は前に来た時よりもずっと暗かった。井戸の石垣が左手にぼんやりと見えたが、人影はなかった。ヨハネは落胆して尻もちをついた。額に刺さったカラタチの棘を抜き、柊モクセイの葉に切られた手の甲の血を舐めて、もう一度、鉄格子に顔を突っ込んだ。しばらく待っていればティーが出てくるかもしれない、そう思い、その姿勢のまま待ち続けた。
どのくらい待っただろうか、ヨハネは昼間の労働の疲れから眠りに落ちてしまいそうだったが、それに耐えて待ち続けた。
戸の軋む音がして人影が中庭に出てきた。ヨハネは座り直し、鉄格子を掴んでその人影を凝視した。
それは中庭の奥にある井戸端まで歩くと、井戸桶に溜まった水で手を洗っている様子だった。半月の明るさでは、それがティーかどうか彼には見分けがつかなかった。その人影は周りを見渡すと、戸口へ帰ろうとした。
ヨハネは、その後ろ姿と髪の揺れ方を遠くから見て、あれはティーだと直感した。
だが彼女はもう小屋の中に入ろうとしていた。ヨハネは大いに焦って鉄格子を小石で叩いて音を出そうとしたが、手元の土を手探りしても石は見つからない、とっさにヨハネは右手の中指の爪で思い切り鉄格子を弾いた。
鈍い音がして、ヨハネの中指に激痛が走った。彼は中指を左手で握りしめて痛みのあまり顔を土にめり込ませて痛みに耐えた。声を出さないように耐えた。その音を聞いた人影はゆっくりと土を踏んでヨハネの元へ歩いてきた。
「あなた、何やってるの?」
ティーの柔らかな声だった。
「やあ。久しぶり。やっと会いに来たんだ」
「なにしてるのよ。痛いの?」
「指で鉄格子を弾いたんだよ」
「さっきの指の音だったの?」
「そうだよ。叩くものが見つからなかったんだ」
「指見せなさいよ」
ティーはヨハネの右手を鉄格子ごしに手に取って指を月明かりの下で調べた。
「血が出てる。手もボロボロじゃない」
「毎日、解体仕事をしてるんだ。ケガもするさ」
「ふーん」
ティーはヨハネの右手を表にしたり裏にしたり、顔を近づけて見ていた。そしてティーは両手でヨハネの右手を柔らかく包み込んだ。ヨハネは痛みを忘れた。
「ティーの手は大丈夫?」
「少しあか切れができてるくらい」
「どんな仕事をさせられてるの」
「洗濯と飯炊きよ。自分たちの分だけのね。まだ水が冷たいから手が痛くって」
「ご飯はどう」
「いつも通りよ。それから毎日体を洗わされるわ」
「またパンを持って来たよ。今度はおがくず無しのだよ。」
「ほんと! そんなの久しぶり!」
ヨハネは懐からつぶれて変形した黒パンを取り出してティーに差し出した。彼女はそれを受け取ると、鼻先に持って来ると、少しだけ音を立てて匂った。
「あせくさい……」
「しょうがないだろ。こっそり懐にねじ込んで持って来たんだから」
「まあ、いいわ。それより何日待たせるのよ。月が半分になっちゃったじゃない」
「毎日、力仕事でクタクタだったんだよ。今日も土団子になるほど大変だったんだ」
「土団子!」
そう言うとティーは口に両手を当ててクスクス笑った。ティーの笑い声は二人の間の空気を心地よく震わせ、ヨハネの顔に当たった。
「わたし、毎晩何度も裏庭に出て生垣をうかがったのよ。あなたが来てないかって」
「ごめんよ。今日やっと来られたんだ」
「夜に何度も井戸に行くから他の女奴隷たちに怪しまれちゃってるのよ」
「ごめんよ。僕だって毎日でも来てティーに逢いたかったんだ」
「わたしもあなたに逢いたかった」
ヨハネとティーは膝立ちになり、鉄格子を挟んでお互いの両の掌を合わせた。そしてお互いの指をお互いの指の間に入れて、見つめ合った。
「あなた、青い目をしているのね。羨ましい」
「ティーの茶色い眼もきれいだよ」
「ほんと? 嬉しい」
「もっと、こっちに来なよ」
ヨハネはティーの手を引っ張るとお互いの顔はいっそう近づいた。しかしその間には厳然として鉄格子の冷たい金属が二人を別っていた。
「もうちょっとこっちへ来られる?」
「うん」
「おでこに鉄格子がつくまで」
ヨハネとティーは両手を絡めたまま、同じ鉄格子の横棒に額をつけると、目を見つめ合ったまま、口を少し前に出して、くちびるを合わせ、すぐ離した。
ヨハネには初めての不思議な感触だった。
二人は見つめ合ったまま、もう一度くちびるを合わせた。
今度はさっきよりも少しだけ長かった。そして三度目、ヨハネが唇を少し開いた。
それを見たティーも唇を少し開いて舌を少しだけ伸ばした。二人は目を閉じて、くちびるを重ねると、互いのくちびると舌を吸い合った。長い長い時間それを続けた。ティーの唾液にアロースの粥と塩の味が混じっているのにヨハネは気付いた。
「……ん、もうお終い。息ができないじゃない」
「ごめん。苦しかった?」
「もう、汗臭いんだから」
「ごめん」
二人は鉄格子を挟んで地面に座り込んだ。ヨハネは胡坐をかき、ティーは膝を抱えてそこにあごを乗せた。
「ティー、一緒に逃げよう」
「えっ、逃げるって?」
「二人で逃げるんだ。こんな所に閉じ込められていつか売られていくなんてひどすぎる」
「逃げるってどこへ行くのよ」
「どこかさ。二人で暮らしていくくらい何とかなるよ」
「んんん……逃げて、どうするのよ。逃げてどうしてご飯を食べるの」
「何か仕事くらいあるよ」
「んー、逃げたした奴隷や奉公人はどうなるか知ってるでしょ」
「つかまりゃしないさ」
「あなた、この街をよく知ってるでしょ。仕事にあぶれた宿無したちが道の裏でたくさん死んでいくのを、見たことあるでしょ」
そう言われて、ヨハネは思い出した。全身から悪臭を放ちながら裏通りに横たわっている宿無しや、街はずれで敷物をもってうろついている老婆たちを。そして、その人たちが一週間後には、ぼろきれのような死体になって路傍に転がっている姿も。
「もしこの鉄格子に破れ目があったら、女奴隷たちはみんな逃げだすと思う?」
「そりゃ、逃げるに決まってるよ」
「わたしはそうは思わないわ」
「なぜ?」
ヨハネは心底驚いて大きく目を剥いた。
「君たちは家畜のように売られて裸で人前に立たされて、さんざんひどい目にあわされているじゃないか。逃げたいに決まってるよ」
「んー、半分くらいは逃げるかもしれない。でもここに残るという奴隷もいると思う」
「だからなぜ?」
「ここにいれば、食べ物と着るものと雨露をしのげる屋根はあるもの。外に逃げ出せばそれすらなくなるかもしれないのよ。あなだだって奉公人の仕事中に逃げ出せたかもしれなかったでしょ? なら今までなぜ逃げなかったの?」
「……」
「もちろん逃げてそれなりの暮らしができる奴隷もいるかもしれない。でも食べ物すら手に入れられない奴隷もいるわよ、きっと」
「そんな、そんなこと、考えても見なかったけど」
ヨハネはティーの言葉を聞いて、額に汗を光らせながら自分の前髪の毛をゆっくり引っ張った。
「わたしはあなたと同じ北の砂の村から売られてきたの。それは惨めな暮らしをしてたわ。ボロボロの家に住んで、いつもお腹を空かせていて、食べ物は稗のお粥だけ。たまに川でとれた痩せた魚がごちそうだったもの。ここならお腹いっぱいのお粥に芋が食べられる日もあるし、毎日きれいな水で体を洗える。今着ている服だって、粗末だけど清潔で、村にいたころに着てたものよりましだもの」
「……そうなのかな?」
「もちろん、あなたと二人でどこかに行けたら幸せだと思うけど、どこかで二人で暮らせたら幸せだと思うけど……」
そう言うとティーは顔を真っ赤にしてぽろぽろと涙をこぼし始めた。ヨハネは驚いて鉄格子越しに手を伸ばしてティーの涙を傷だらけの手で拭った。
「ごめん。ごめんよ。困らせるつもりはなかったんだ」
「うん、別にあなたが悪いわけじゃないのよ」
ティーはしばらくしゃくり上げていたが、涙と気が落ち着くと、自分の両頬に両手を当てた。
「あなたに合えて本当に良かった。もう戻るわ」
「待って。もう一度、こっちに来て」
ヨハネは手を伸ばしてティーの手を取ると鉄格子のそばまで引き寄せた。そして二人はもう一度、長い長いくちづけをした。それは二人にとって、何時間も続いたようでもあったし、ほんの一瞬だったような気もした。
二人はくちびるを離した。
「さよなら」
ティーはそう言い残して、足音も立てずにヨハネの視界の先へと消えた。
呆然自失のヨハネを青い半月が照らしていた。たくさんのカラタチの花が散り始めていた。
そのため奉公人たちはたいてい何かの副業をしていた。フォルモサやペナン島から輸入された煙草やビンロウの密売や売春宿のポン引きなどだ。港の沖仲士と仲良くなって輸入の商品を少しだけ横流ししてもらうか、売春宿のやり手婆と懇意になり、客を連れてくる代わりに何割か手数料を稼ぐのだ。
その代金は、この国の軍閥や氏族が造ったビタ銭かティエラ・フィルメからもたらされた良銭で払われた。この街の大部分を占める下層社会の人々はたいていビタ銭を使っていた。中流以上の人々はエスクード金貨やピラドル銀貨を使っていたが、ヨハネのような奉公人はその貨幣自体見た事も触った事もなかった。ヨハネはとにかくティーに逢うために奉公人小屋で夜が更けるのを待った。
しばらくしてヨハネは、奉公人部屋で目を覚ました。
寝過ごしたか、と寝台から跳ね起き蔀戸を開け、窓から外を見た。空にはまだ半月が青く光っていた。他の奉公人たちはみないびきを掻いて寝むっていた。ヨハネは冷や汗を流しながら、そっと部屋を抜け出した。
裏路地は、前回ティーに逢いに行った時よりずっと暗く歩きにくかった。
彼が胸を高鳴らせながら、前と同じ生垣の前に立った。するとカラタチの木々はその生命力を発揮して、ヨハネの秘密の通路を塞いでしまっていた。彼はまた傷だらけになりながら道を切り開かねばならなかった。
だがそんな事を苦難と感じないほど、彼の胸の奥には小さくて強い炎が燃えていた。
棘と刃に身を切られながら、彼は見覚えのある鉄格子の枠までたどり着き、顔を鉄格子の間に突っ込んで裏庭の様子をうかがった。半月の光が照らす裏庭は前に来た時よりもずっと暗かった。井戸の石垣が左手にぼんやりと見えたが、人影はなかった。ヨハネは落胆して尻もちをついた。額に刺さったカラタチの棘を抜き、柊モクセイの葉に切られた手の甲の血を舐めて、もう一度、鉄格子に顔を突っ込んだ。しばらく待っていればティーが出てくるかもしれない、そう思い、その姿勢のまま待ち続けた。
どのくらい待っただろうか、ヨハネは昼間の労働の疲れから眠りに落ちてしまいそうだったが、それに耐えて待ち続けた。
戸の軋む音がして人影が中庭に出てきた。ヨハネは座り直し、鉄格子を掴んでその人影を凝視した。
それは中庭の奥にある井戸端まで歩くと、井戸桶に溜まった水で手を洗っている様子だった。半月の明るさでは、それがティーかどうか彼には見分けがつかなかった。その人影は周りを見渡すと、戸口へ帰ろうとした。
ヨハネは、その後ろ姿と髪の揺れ方を遠くから見て、あれはティーだと直感した。
だが彼女はもう小屋の中に入ろうとしていた。ヨハネは大いに焦って鉄格子を小石で叩いて音を出そうとしたが、手元の土を手探りしても石は見つからない、とっさにヨハネは右手の中指の爪で思い切り鉄格子を弾いた。
鈍い音がして、ヨハネの中指に激痛が走った。彼は中指を左手で握りしめて痛みのあまり顔を土にめり込ませて痛みに耐えた。声を出さないように耐えた。その音を聞いた人影はゆっくりと土を踏んでヨハネの元へ歩いてきた。
「あなた、何やってるの?」
ティーの柔らかな声だった。
「やあ。久しぶり。やっと会いに来たんだ」
「なにしてるのよ。痛いの?」
「指で鉄格子を弾いたんだよ」
「さっきの指の音だったの?」
「そうだよ。叩くものが見つからなかったんだ」
「指見せなさいよ」
ティーはヨハネの右手を鉄格子ごしに手に取って指を月明かりの下で調べた。
「血が出てる。手もボロボロじゃない」
「毎日、解体仕事をしてるんだ。ケガもするさ」
「ふーん」
ティーはヨハネの右手を表にしたり裏にしたり、顔を近づけて見ていた。そしてティーは両手でヨハネの右手を柔らかく包み込んだ。ヨハネは痛みを忘れた。
「ティーの手は大丈夫?」
「少しあか切れができてるくらい」
「どんな仕事をさせられてるの」
「洗濯と飯炊きよ。自分たちの分だけのね。まだ水が冷たいから手が痛くって」
「ご飯はどう」
「いつも通りよ。それから毎日体を洗わされるわ」
「またパンを持って来たよ。今度はおがくず無しのだよ。」
「ほんと! そんなの久しぶり!」
ヨハネは懐からつぶれて変形した黒パンを取り出してティーに差し出した。彼女はそれを受け取ると、鼻先に持って来ると、少しだけ音を立てて匂った。
「あせくさい……」
「しょうがないだろ。こっそり懐にねじ込んで持って来たんだから」
「まあ、いいわ。それより何日待たせるのよ。月が半分になっちゃったじゃない」
「毎日、力仕事でクタクタだったんだよ。今日も土団子になるほど大変だったんだ」
「土団子!」
そう言うとティーは口に両手を当ててクスクス笑った。ティーの笑い声は二人の間の空気を心地よく震わせ、ヨハネの顔に当たった。
「わたし、毎晩何度も裏庭に出て生垣をうかがったのよ。あなたが来てないかって」
「ごめんよ。今日やっと来られたんだ」
「夜に何度も井戸に行くから他の女奴隷たちに怪しまれちゃってるのよ」
「ごめんよ。僕だって毎日でも来てティーに逢いたかったんだ」
「わたしもあなたに逢いたかった」
ヨハネとティーは膝立ちになり、鉄格子を挟んでお互いの両の掌を合わせた。そしてお互いの指をお互いの指の間に入れて、見つめ合った。
「あなた、青い目をしているのね。羨ましい」
「ティーの茶色い眼もきれいだよ」
「ほんと? 嬉しい」
「もっと、こっちに来なよ」
ヨハネはティーの手を引っ張るとお互いの顔はいっそう近づいた。しかしその間には厳然として鉄格子の冷たい金属が二人を別っていた。
「もうちょっとこっちへ来られる?」
「うん」
「おでこに鉄格子がつくまで」
ヨハネとティーは両手を絡めたまま、同じ鉄格子の横棒に額をつけると、目を見つめ合ったまま、口を少し前に出して、くちびるを合わせ、すぐ離した。
ヨハネには初めての不思議な感触だった。
二人は見つめ合ったまま、もう一度くちびるを合わせた。
今度はさっきよりも少しだけ長かった。そして三度目、ヨハネが唇を少し開いた。
それを見たティーも唇を少し開いて舌を少しだけ伸ばした。二人は目を閉じて、くちびるを重ねると、互いのくちびると舌を吸い合った。長い長い時間それを続けた。ティーの唾液にアロースの粥と塩の味が混じっているのにヨハネは気付いた。
「……ん、もうお終い。息ができないじゃない」
「ごめん。苦しかった?」
「もう、汗臭いんだから」
「ごめん」
二人は鉄格子を挟んで地面に座り込んだ。ヨハネは胡坐をかき、ティーは膝を抱えてそこにあごを乗せた。
「ティー、一緒に逃げよう」
「えっ、逃げるって?」
「二人で逃げるんだ。こんな所に閉じ込められていつか売られていくなんてひどすぎる」
「逃げるってどこへ行くのよ」
「どこかさ。二人で暮らしていくくらい何とかなるよ」
「んんん……逃げて、どうするのよ。逃げてどうしてご飯を食べるの」
「何か仕事くらいあるよ」
「んー、逃げたした奴隷や奉公人はどうなるか知ってるでしょ」
「つかまりゃしないさ」
「あなた、この街をよく知ってるでしょ。仕事にあぶれた宿無したちが道の裏でたくさん死んでいくのを、見たことあるでしょ」
そう言われて、ヨハネは思い出した。全身から悪臭を放ちながら裏通りに横たわっている宿無しや、街はずれで敷物をもってうろついている老婆たちを。そして、その人たちが一週間後には、ぼろきれのような死体になって路傍に転がっている姿も。
「もしこの鉄格子に破れ目があったら、女奴隷たちはみんな逃げだすと思う?」
「そりゃ、逃げるに決まってるよ」
「わたしはそうは思わないわ」
「なぜ?」
ヨハネは心底驚いて大きく目を剥いた。
「君たちは家畜のように売られて裸で人前に立たされて、さんざんひどい目にあわされているじゃないか。逃げたいに決まってるよ」
「んー、半分くらいは逃げるかもしれない。でもここに残るという奴隷もいると思う」
「だからなぜ?」
「ここにいれば、食べ物と着るものと雨露をしのげる屋根はあるもの。外に逃げ出せばそれすらなくなるかもしれないのよ。あなだだって奉公人の仕事中に逃げ出せたかもしれなかったでしょ? なら今までなぜ逃げなかったの?」
「……」
「もちろん逃げてそれなりの暮らしができる奴隷もいるかもしれない。でも食べ物すら手に入れられない奴隷もいるわよ、きっと」
「そんな、そんなこと、考えても見なかったけど」
ヨハネはティーの言葉を聞いて、額に汗を光らせながら自分の前髪の毛をゆっくり引っ張った。
「わたしはあなたと同じ北の砂の村から売られてきたの。それは惨めな暮らしをしてたわ。ボロボロの家に住んで、いつもお腹を空かせていて、食べ物は稗のお粥だけ。たまに川でとれた痩せた魚がごちそうだったもの。ここならお腹いっぱいのお粥に芋が食べられる日もあるし、毎日きれいな水で体を洗える。今着ている服だって、粗末だけど清潔で、村にいたころに着てたものよりましだもの」
「……そうなのかな?」
「もちろん、あなたと二人でどこかに行けたら幸せだと思うけど、どこかで二人で暮らせたら幸せだと思うけど……」
そう言うとティーは顔を真っ赤にしてぽろぽろと涙をこぼし始めた。ヨハネは驚いて鉄格子越しに手を伸ばしてティーの涙を傷だらけの手で拭った。
「ごめん。ごめんよ。困らせるつもりはなかったんだ」
「うん、別にあなたが悪いわけじゃないのよ」
ティーはしばらくしゃくり上げていたが、涙と気が落ち着くと、自分の両頬に両手を当てた。
「あなたに合えて本当に良かった。もう戻るわ」
「待って。もう一度、こっちに来て」
ヨハネは手を伸ばしてティーの手を取ると鉄格子のそばまで引き寄せた。そして二人はもう一度、長い長いくちづけをした。それは二人にとって、何時間も続いたようでもあったし、ほんの一瞬だったような気もした。
二人はくちびるを離した。
「さよなら」
ティーはそう言い残して、足音も立てずにヨハネの視界の先へと消えた。
呆然自失のヨハネを青い半月が照らしていた。たくさんのカラタチの花が散り始めていた。
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