ガレオン船と茶色い奴隷

芝原岳彦

文字の大きさ
上 下
21 / 106
第一章 奴隷たちの島々

第18話 血まみれの恋

しおりを挟む
 ヨハネは鉄格子から顔を突き出しながら声を殺して叫んだ。

「こっち。こっちだよ。生垣の一番下。その小さなひいらぎモクセイの横」

 娘は両手で自分の肩を抱きしめながら、ゆっくりとヨハネに向かって歩いてきた。裸足の足が敷き砂を踏んで、サク、サクと音を立てた。娘は茂みの隙間に傷だらけのヨハネの顔を見つけて叫んだ。

「あなた!」



 そして声を押し殺した小さな声でつぶやいた。

「あなた、いったいそんな所で何やってるの。血がいっぱい出てるじゃない」



 彼女は鉄格子の前まで来てしゃがみ込むと、右腕に巻き付けてあった手ぬぐいをほどいて、ヨハネの顔に付いた傷口を拭いた。井戸水で湿らせてあったその手ぬぐいは、ほてった傷口を心地よく冷やした。しゃがみ込んだ娘の顔は、ちょうどヨハネが顔を突っ込んでいる鉄格子の少し上にあった。

 娘はクスクス笑って言った。



「まるで芋虫みたい」

「ひどいなあ。必死で通り抜けたんだよ」

「どうやってこの壁を通り抜けたの」

「これは壁じゃないよ。生垣だよ。隙間はたくさんあるよ」

「でもこの木は棘だらけでしょ」

「そうだよ。だから全身傷だらけの血まみれになったんだ」

「なに考えてるのよ」

「もう一度、君に会いたかったんだよ」



 そう言われると娘は目を大きく見開いて、ゆっくりと閉じると、まるでまつ毛が重くなったようにゆっくりと目を半分だけ開いた。



「僕はヨハネ。この商会の奉公人だ。君の名前は?」

「昼間も言ったでしょう。奴隷に名前なんかないわ。あるのは奴隷番号だけ。」

「じゃあ、なんて呼ばれてるの」

「奴隷番号T」

「じゃあ、ティーって呼んでいいかい? いい響きだと思わない? ティーってさ」



 娘はしばらく瞳を左右に動かして、迷っていたが、やがてクスクスと笑い出した。



「いいかもしれないわね。ティー。番号よりずっといいわ。ここでの私の名前はティー」

「ここでのあつかいはどう。食事や寝床はどうなってるの」

「食事はアロースのお粥よ。夜は寝わらで寝るの」

「えっ、男奉公人より良い食べ物じゃないか」

「そうなの? 奴隷は大事な商品だから、良いものを食べさせて、清潔にさせられるのよ。その方が高く売れるから」



 ヨハネはそれを聞いてティーから視線を逸そらした。ティーもいつかどこかに売られていく、一時的に商品が倉庫に納められている、今はその束の間だった。



「ねえ。あなたも今日の野次馬の中にいたの? 馬車に乗る時の」

「いいや。僕は遠くにいてあそこにはいなかったよ」

「やめさせようとは思わなかったの」

「無理だよ。僕は一番の下っ端で、今日も顔の骨が砕けるほど殴られたんだよ」

「ふうん。勇気がないのね」

「無茶だよ。他の奉公人たちはたくさんいるんだよ」

「……まあいいわ。許してあげる。この手ぬぐい貸してくれて、嬉しかった。人に優しくされたの、久しぶりだったから」



 そう言うとティーは鉄格子に、体をかがめてヨハネの首に手ぬぐいを巻いた。その時、ティーの服の胸元が少し下がって胸の膨らみが少しだけ、ヨハネの目に入った。ティーの黒い髪の毛が、ヨハネの鼻先をかすめ、甘い臭いが鼻孔に満ちた。



「もう、戻らなくっちゃ。ほかの女奴隷たちが感づくわ」

「もう少し大丈夫だよ」

「だめよ。みんな勘が鋭いんだから」

「そうだ。これあげるよ。今日もらったんだ。市参事会しさんじかいの黒パン」



 ヨハネはふところから、掃除人足の代わりにもらったおがくず入りのパンを取り出してティーに手渡した。



「ありがとう。実はとってもお腹がすいてたの。でもあなたはいいの?」

「僕は大丈夫。食べなよ。おがくずの少ないパンだよ」

「うん。ありがとう。じゃあ、私は帰るわ。見つかると大変だから」



ティーは立ち上がった。

「待って。また会いに来る。また会えるよね」

「うん。わたし夜はできるだけ裏庭に出るようにするから」



 そう言い残すと、ティーは奴隷小屋の裏口へ小走りで駆け去った。

 髪が揺れ、白い貫頭衣の裾が上下に揺れるのを見て、ヨハネの胸は熱くなった。
 この後、またカラタチの棘と柊ひいらぎモクセイの刃がヨハネの帰り道を待っていたが、そんな事は気にならないほど彼の心も体も熱くなっていた。ヨハネは長くて細いため息をつくと、体をねじって棘と刃の道を這いつくばって帰った。



 ヨハネの通った後には、満月の青い光を受けたカラタチの白い花が力強く咲いていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

大日本帝国、アラスカを購入して無双する

雨宮 徹
歴史・時代
1853年、ロシア帝国はクリミア戦争で敗戦し、財政難に悩んでいた。友好国アメリカにアラスカ購入を打診するも、失敗に終わる。1867年、すでに大日本帝国へと生まれ変わっていた日本がアラスカを購入すると金鉱や油田が発見されて……。 大日本帝国VS全世界、ここに開幕! ※架空の日本史・世界史です。 ※分かりやすくするように、領土や登場人物など世界情勢を大きく変えています。 ※ツッコミどころ満載ですが、ご勘弁を。

旧式戦艦はつせ

古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。

猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~

橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。 記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。 これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語 ※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

織田信長IF… 天下統一再び!!

華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。 この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。 主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。 ※この物語はフィクションです。

大日本帝国領ハワイから始まる太平洋戦争〜真珠湾攻撃?そんなの知りません!〜

雨宮 徹
歴史・時代
1898年アメリカはスペインと戦争に敗れる。本来、アメリカが支配下に置くはずだったハワイを、大日本帝国は手中に収めることに成功する。 そして、時は1941年。太平洋戦争が始まると、大日本帝国はハワイを起点に太平洋全域への攻撃を開始する。 これは、史実とは異なる太平洋戦争の物語。 主要登場人物……山本五十六、南雲忠一、井上成美 ※歴史考証は皆無です。中には現実性のない作戦もあります。ぶっ飛んだ物語をお楽しみください。 ※根本から史実と異なるため、艦隊の動き、編成などは史実と大きく異なります。 ※歴史初心者にも分かりやすいように、言葉などを現代風にしています。

甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】  戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。  永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。  信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。  この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。 *ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。

帝国夜襲艦隊

ypaaaaaaa
歴史・時代
1921年。すべての始まりはこの会議だった。伏見宮博恭王軍事参議官が将来の日本海軍は夜襲を基本戦術とすべきであるという結論を出したのだ。ここを起点に日本海軍は徐々に変革していく…。 今回もいつものようにこんなことがあれば良いなぁと思いながら書いています。皆さまに楽しくお読みいただければ幸いです!

処理中です...