ガレオン船と茶色い奴隷

芝原岳彦

文字の大きさ
上 下
18 / 106
第一章 奴隷たちの島々

第15話 鍋の横の婆さん

しおりを挟む
 奉公人用の井戸の横で、ヨハネはやっと洗い物を終えた。冷たい水は彼の手を刃物のように切り、指先はひび割れ始めていた。痛む指を口で吸いながら、大鍋と椀と匙を大きな籠に入れて、台所まで運んだ。そこでは大鍋の火の番をしている老婆が椅子に座ったまま、ヨハネを待っていた。



「終わったかい」と老婆は尋ねた。

「ああ、終わったよ」とヨハネは答えた。



 この老婆がいつからこの商会の台所にいるのか誰も知らなかった。最古参の奉公人も初めてここへ来た時にはもうこの老婆は鍋の横に座って火の番をしていたのだ。薄茶色の分厚い外套で体を隠し、縞模様の布を頭に巻き付けていた。



 名前は誰も知らない。

 ただ、鍋の婆さん、と呼んでいた。

 老婆は虚空を見ながら言った。



「春先の水はまだ冷たかろう。手にあかぎれもできるだろう。あれは本当につらい。冬場なんか指先から赤い血がしたたり落ちたもんだ。本当につらい。お前さんもあかぎれができたなら、裏の川のな、葦の根っこのな、黄色い土をな、傷口にすり込みなさい。それでしばらく痛みが引くでな」



「ばあちゃん、そんなことしてたのかい。それじゃあ、余計に傷が悪くなるよ」



 ヨハネがそう言いながら老婆の片手を手に取って、手のひらを上にしてみた。

 老婆の手のひらは乾ききった枯れ葉のよう赤黒く縮んでいた。その五本の指は、細く深い皺が縦横に刻まれていた。ヨハネは自分の手と老婆の手を比べて、その手を自分の両手で包むと、尋ねた。



「ばあちゃんはいつからこの台所にいるんだい。いまいくつなんだい」



「わたしがな、わらべっこのときな、義理のおかかさんのいいつけでな、浜で貝をとっていたらな、大きな船がな、赤茶色の船がな、白い帆つけてな、数えきれないくらい、みなとにはいってきてな、白い肌の男やら、黒い肌の女やら、たくさん降りてきてな、そのかわりに、たくさんの人がな、その船に乗せられてどこかに行ってしまったんだわ。わたしのな、義理のおかかさんもな、おとおさんもな、おじさんもな、その船に乗せられて二度と帰ってこなんだわ」

 老婆はしゃべり続けた。



「そのあとな、おおきなが、なんどもなんど……」

 老婆は浅い息を早く小刻みにし始めた。



 ヨハネは驚いて言った。

「ばあちゃん。もう寝なよ。いつもはどこで寝てるの」



 老婆は台所の隅にあるボロ布の山を指さした。ヨハネは老婆の肩を抱いてそこまで連れていくと、そこに寝かせ、体の上からぼろ布を掛けた。老婆は息荒く震えていたが、しばらくして寝息を立てて眠り始めた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

織田信長IF… 天下統一再び!!

華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。 この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。 主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。 ※この物語はフィクションです。

旧式戦艦はつせ

古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

大東亜戦争を有利に

ゆみすけ
歴史・時代
 日本は大東亜戦争に負けた、完敗であった。 そこから架空戦記なるものが増殖する。 しかしおもしろくない、つまらない。 であるから自分なりに無双日本軍を架空戦記に参戦させました。 主観満載のラノベ戦記ですから、ご感弁を

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~

橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。 記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。 これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語 ※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります

本能のままに

揚羽
歴史・時代
1582年本能寺にて織田信長は明智光秀の謀反により亡くなる…はずだった もし信長が生きていたらどうなっていたのだろうか…というifストーリーです!もしよかったら見ていってください! ※更新は不定期になると思います。

大日本帝国領ハワイから始まる太平洋戦争〜真珠湾攻撃?そんなの知りません!〜

雨宮 徹
歴史・時代
1898年アメリカはスペインと戦争に敗れる。本来、アメリカが支配下に置くはずだったハワイを、大日本帝国は手中に収めることに成功する。 そして、時は1941年。太平洋戦争が始まると、大日本帝国はハワイを起点に太平洋全域への攻撃を開始する。 これは、史実とは異なる太平洋戦争の物語。 主要登場人物……山本五十六、南雲忠一、井上成美 ※歴史考証は皆無です。中には現実性のない作戦もあります。ぶっ飛んだ物語をお楽しみください。 ※根本から史実と異なるため、艦隊の動き、編成などは史実と大きく異なります。 ※歴史初心者にも分かりやすいように、言葉などを現代風にしています。

処理中です...