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#9 社長室の光と影
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#9社長室の光と影
五階の廊下は、妙に静かだった。誠一郎の足音が、重く響く。窓から差し込む夏の日差しが、廊下の床に四角い光の帯を作っている。その光と影の境界線を、ゆっくりと踏みしめながら歩を進める。
社長室の前で深く息を吸う。扉の横には「不動」という達筆な書が掛けられていた。その文字が、誠一郎の心臓の鼓動を更に高めているような気がした。カチカチと時を刻む廊下の壁時計が、十二時五十九分を示している。
穏やかに、しかし確実に、ドアをノックする。予想以上に大きな音が廊下に響いた。
「はい」
低い声が返ってくる。ドアを開けると、逆光の中に社長の姿があった。西日が社長の背後から差し込み、まるで後光が差しているかのような錯覚を覚える。意図的なのかもしれない、と誠一郎は思った。相手を威圧するための、細かな演出の一つ。
「今日はどうしたんだ?」
社長の声には、いつもの高圧的なトーンが含まれていた。机の上には整然と書類が並び、その傍らにはまだ湯気の立つコーヒーカップ。日常的な光景なのに、今日は全てが異質に感じられた。
「退職をさせていただきたいです」
言葉を発した瞬間、室温が一気に下がったような感覚に襲われた。
「ダメだ!」
予想はしていたものの、その声の大きさに誠一郎は思わず体が強張る。社長の顔が見る見る紅潮していく。鼻息が荒くなり、机の上の書類が揺れるほどだった。
「どうして辞めたいんだ?いつだ?」
「家庭の事情です。できれば三ヶ月後に…」
結婚はしていないが、両親との時間は確保したいという思いは本当だった。仕事に追われ、たまにしか会えていない。その意味で「家庭の事情」は嘘ではない。
「母の体調が悪いので、身の回りの世話をしたいと考えまして…」
「そうか、次の仕事は決まってるのか?」
「いえ、まだ決まっていません」
「決まったら教えてくれ、嫌がらせをしに行くから」
その言葉に、誠一郎の思考が一瞬停止した。しかし、逆説的にも、その暴言が誠一郎の頭を冷静にさせた。胸ポケットのスマートフォンのボイスレコーダーは、確実にその発言を記録している。
「具体的に、どんな嫌がらせをするんですか?」
その質問に、社長の表情が一瞬凍りついた。言い過ぎたことを悟ったのか、それ以上の言葉は続かなかった。
「分かったから、もう帰れ」
退職届を置き、「よろしくお願いします」と一礼して部屋を出る。廊下に出た時、背中から冷や汗が流れているのを感じた。
夕刻の街を車で走らせながら、誠一郎は社長との会話を反芻していた。背筋から流れた冷や汗は既に乾き、代わりに言いようのない後味の悪さだけが残っていた。「嫌がらせ」という言葉が、まだ耳の中で反響している。
年長の誠一郎との待ち合わせ場所に着くと、いつもの穏やかな笑顔が迎えてくれた。事の顛末を話し終えると、年長の誠一郎は静かに口を開いた。
「お疲れ様。嫌がらせなんてされないよ。そんな暇もないし、合理的に考えても無意味なことだ」
その言葉に、誠一郎の緊張が少しずつ解けていくのを感じた。
「今は不安だと思う。でも安心していい。死にもしないし、殺されもしない。大丈夫だ」
年長の誠一郎は、カフェオレを一口飲んでから、またいつものように例え話を始めた。
「俺たちには職業を選択する自由がある。江戸時代なら、身分は生まれながらに決まっていた。戦争の時代と比べれば、命の危険も少ない。日本に生まれたことを考えれば、他の国に比べて何と平和なことか」
窓の外では、夕暮れの街が、穏やかな光に包まれていた。
「それに比べれば、これくらいなんてことない。この一年間だけは俺を信じて言うことを聞いてくれ。その後は自由にやりたいことをやってほしい。お前の人生だからな」
その言葉に、誠一郎は深く頷いた。今日一日の重圧が、少しずつ溶けていくのを感じていた。
五階の廊下は、妙に静かだった。誠一郎の足音が、重く響く。窓から差し込む夏の日差しが、廊下の床に四角い光の帯を作っている。その光と影の境界線を、ゆっくりと踏みしめながら歩を進める。
社長室の前で深く息を吸う。扉の横には「不動」という達筆な書が掛けられていた。その文字が、誠一郎の心臓の鼓動を更に高めているような気がした。カチカチと時を刻む廊下の壁時計が、十二時五十九分を示している。
穏やかに、しかし確実に、ドアをノックする。予想以上に大きな音が廊下に響いた。
「はい」
低い声が返ってくる。ドアを開けると、逆光の中に社長の姿があった。西日が社長の背後から差し込み、まるで後光が差しているかのような錯覚を覚える。意図的なのかもしれない、と誠一郎は思った。相手を威圧するための、細かな演出の一つ。
「今日はどうしたんだ?」
社長の声には、いつもの高圧的なトーンが含まれていた。机の上には整然と書類が並び、その傍らにはまだ湯気の立つコーヒーカップ。日常的な光景なのに、今日は全てが異質に感じられた。
「退職をさせていただきたいです」
言葉を発した瞬間、室温が一気に下がったような感覚に襲われた。
「ダメだ!」
予想はしていたものの、その声の大きさに誠一郎は思わず体が強張る。社長の顔が見る見る紅潮していく。鼻息が荒くなり、机の上の書類が揺れるほどだった。
「どうして辞めたいんだ?いつだ?」
「家庭の事情です。できれば三ヶ月後に…」
結婚はしていないが、両親との時間は確保したいという思いは本当だった。仕事に追われ、たまにしか会えていない。その意味で「家庭の事情」は嘘ではない。
「母の体調が悪いので、身の回りの世話をしたいと考えまして…」
「そうか、次の仕事は決まってるのか?」
「いえ、まだ決まっていません」
「決まったら教えてくれ、嫌がらせをしに行くから」
その言葉に、誠一郎の思考が一瞬停止した。しかし、逆説的にも、その暴言が誠一郎の頭を冷静にさせた。胸ポケットのスマートフォンのボイスレコーダーは、確実にその発言を記録している。
「具体的に、どんな嫌がらせをするんですか?」
その質問に、社長の表情が一瞬凍りついた。言い過ぎたことを悟ったのか、それ以上の言葉は続かなかった。
「分かったから、もう帰れ」
退職届を置き、「よろしくお願いします」と一礼して部屋を出る。廊下に出た時、背中から冷や汗が流れているのを感じた。
夕刻の街を車で走らせながら、誠一郎は社長との会話を反芻していた。背筋から流れた冷や汗は既に乾き、代わりに言いようのない後味の悪さだけが残っていた。「嫌がらせ」という言葉が、まだ耳の中で反響している。
年長の誠一郎との待ち合わせ場所に着くと、いつもの穏やかな笑顔が迎えてくれた。事の顛末を話し終えると、年長の誠一郎は静かに口を開いた。
「お疲れ様。嫌がらせなんてされないよ。そんな暇もないし、合理的に考えても無意味なことだ」
その言葉に、誠一郎の緊張が少しずつ解けていくのを感じた。
「今は不安だと思う。でも安心していい。死にもしないし、殺されもしない。大丈夫だ」
年長の誠一郎は、カフェオレを一口飲んでから、またいつものように例え話を始めた。
「俺たちには職業を選択する自由がある。江戸時代なら、身分は生まれながらに決まっていた。戦争の時代と比べれば、命の危険も少ない。日本に生まれたことを考えれば、他の国に比べて何と平和なことか」
窓の外では、夕暮れの街が、穏やかな光に包まれていた。
「それに比べれば、これくらいなんてことない。この一年間だけは俺を信じて言うことを聞いてくれ。その後は自由にやりたいことをやってほしい。お前の人生だからな」
その言葉に、誠一郎は深く頷いた。今日一日の重圧が、少しずつ溶けていくのを感じていた。
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