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海の彼岸
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8月13日、僕はある海辺の町を訪れていた。片手には必要最小限の旅行鞄、もう片手には水彩絵の具やバレット、スケッチブックが入った使い古されたバック_独りぼっちの気楽な小旅行だ。側から見れば、絵を描くのが好きな物好きの学生に思われるだろうけど、僕がここへ来たのは、その為だけではなかった。
昼下がりにその町を訪れた僕は、僕以外の客はいない民宿に荷物を預け、その足でそのまま海へと向かった。お盆の時期真っ只中にも関わらず、町に人の気配はほとんどない。海もそんな町の様子を映すかのように静かだった。流れ着いた歪な流木に、時々ペットボトルのゴミ_描くものなんて何もない、そんな風景だった。
一度民宿に戻って、夜。再び海へと赴き、手頃な流木に腰を下ろす。昼に比べてどこか神秘的な横顔を見せる海、茹る暑さに潮の薫る風が心地いい。
それから、どれだけ経っただろう。うつらうつらとしていて、ふと、誰かが立っていることに気づいた。ぼんやりとする頭はそれでも、その予感を感じていた。その人は、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。僕も立ち上がって、彼女の方へ近づく。月明りに照らされた、見慣れた制服に、長い黒髪。予感は確信に変わり、僕の中に複雑な想いが入り混じる。手を伸ばせばすぐ触れられそうだけれど、それでいて遠い存在。彼女が息を吸ってその言葉を発する、その刹那さえ、とても長く感じた。
「久しぶりだね、佐々木くん。本当に来てくれるなんて」
「うん、久しぶり、水瀬さん。もう1年も経ったよ」
こうして、僕らの邂逅は果たされたのだ。
8月14日、太陽が昇り切るまでたっぷり睡眠をとった僕は、日も傾き始めた夕方に海辺へ向かった。彼女はそこで待っていて、笑顔で手を振って僕を招いた。昨日より大きな流木を見つけて、そこに2人で腰掛ける。最初に、僕の近況報告が始まった。彼女のいない1年がどの様なものだったか、彼女がその後どう処理されたか_木の枝で砂に絵を描きながら僕の報告に耳を傾ける彼女は、まるで他人事を聞いている様だった。
「不思議、佐々木くんの話を聞いていると、私がいようがいなかろうがまるで何も変わらない、私という存在が最初からいなかったみたい」
「そうだね。でも、どんな人でも、死んだらいつかは忘れてしまうものでしょ」
「まぁ、そうかも」
「ところで、水瀬さんの方はどうなの?今の水瀬さんは、やっぱり、」
「そう、幽霊。私はもう、死んでいるよ?」
クスリと笑って彼女は続ける。ふっと足元が冷たくなって、細波の音が遠くになるのを感じた。
「あの日言った通り、海の中に身を投げたよ。今でも覚えている、息ができなくて苦しくて_あぁもう戻れないな、って深いところまで沈んだ、意識がなくなっても、沈んでいって……」
「死ぬの、怖くなかった?」
「少しだけ。海の底に沈んでからずっと冥い所にいた気がする」
「死後の世界か、それにしても、まさか幽霊になるなんて」
「‘求めよ、さらば与えられん’じゃない?まぁでも、私、神様なんて信じてなかったし、そもそも向こうに天国も地獄もなかったけど」
そこで会話は一度途切れた。
『私、今から海に死にに行こうと思う』
かつて、そんな言葉と小さなメモ用紙を僕に残して、彼女は姿を消した。何も知らない周囲は彼女の失踪について、家出だ、男と駆け落ちた、などと身勝手な憶測を熱心に飛ばした。その熱も1ヶ月もすればすっかり冷え切ったが。僕に残されたメモには、小さな海辺の町の名前、そして、『またいつか、会えるのなら』という走り書きがあった。なんの根拠もない、小さなメッセージ。けれど、彼女の最期の言葉を間に受けずに『そっか』の一言で済ませてしまったこと、その動機についてどこか後ろめたい気持ちを抱いていた僕は、懺悔と追想の意を込めて、彼岸の4日間をここで過ごそうと思った。
日は水平線の先に沈み、夜の帳が降りていく。突然、彼女は立ち上がって、海の方へ走ったかと思うと、くるっと振り返ってこう叫んだ。
「そうだ、ねぇ、佐々木くん、私を題材に絵に描いてよ」
そんな彼女の背後で、月光が波に返り射す。それが彼女のただの思いつきなのか、彼女なりの想いが込められていたのか、今となっては知る由もないが、でもその時、僕は彼女がとても綺麗だと思った。彼女の願いを叶えると言うより、僕自身がそうしたいと思って、僕はその提案を素直に受け入れたのだ。
8月15日、一際、蝉時雨の大きい日だった。昨日のお願いを叶えるため、僕は早朝から浜辺へと出掛けた_手に馴染んだ画材道具を携えて。
彼女は海を背後に、振り返る姿勢で立っている。海風に長く美しい黒髪が靡いていた。僕はそんな彼女の輪郭を、丁寧に映し取っていく_その存在を、絵の中に閉じ込める様に。
彼女と僕が知り合うきっかけは高校2年生の時、同じクラスになったことだった。当時、名のあるコンクールに入賞したことがきっかけで異端児などと言われていた僕は、クラスで浮いていた。そして、そんな僕と同じように、彼女もまたクラスで孤立していた。彼女の場合は、その容姿の美しさ、そして、虐め。きっかけは、多分些細なこと。気の強い主犯格の子にその仲間たち、そして、傍観するその他大勢_誰もが見て見ぬ振りをし、彼女は刃向かうことをせず、ある意味では均衡が保たれていた。
他人と距離を置いていた僕は、しかし彼女のことは少し興味を持っていた。どこか憂いを帯びていながら腹を括ったような表情のみを浮かべる彼女。それがいじめを加速させていたのだが、その表情の理由を知りたかった。
「……僕は悪い人間だ」
「ん、唐突だね」
ふと呟いた声に、水面を蹴っていた彼女は、動きを止めて僕を見つめる。今の彼女は、あの頃と違って憂いを帯びない、爽やかな笑顔だった。
「水瀬さんのこと、助けなければ止めもしなかっただろ。僕は君に会えたら謝ろうと思ってたんだ」
「へぇ、他人に全く興味ない佐々木くんがそんなこと思うんだ」
「これでも、人並みの罪悪感は持っているよ」
「ごめんごめん、でもね、助けなんて求めていなかったよ。あそこで佐々木くんが私を助けていても、また別の誰かが私の代わりになっていただけ」
「もしそうでも、少なくとも水瀬さんは、目の前に立っている僕に罵詈雑言をたくさん浴びせるべきだよ。君にはその権利がある」
「ふふっ、変なこと言うね。それはただのマゾだよ、佐々木くん。勝手に悪いことはいつでも止められるし、それが正しいことだと思ってない?もしそうなら、それはただの綺麗な妄想だよ。本当の理不尽の前に、そんな根拠のない‘ルール’は存在しないの」
そう話す彼女の顔には、あの頃の憂いが浮かんでいた。パシャパシャと水から上がってきた彼女は続ける。
「私は、別に虐めだけが原因で死んだ訳じゃない。そうだね、せっかく来てくれたし、私としては学校で唯一の友達だと思ってたし……佐々木くんには教えてあげる。
私の家はね、長いこと母子家庭だった。お母さんは朝から晩まで働き詰めで、私に構う余裕なんてなかった。でも、ちょうど3年前くらいに再婚して、妹も生まれたの。生活もゆとりが出てきて、お母さんは妹のことをすごく大切にしてる。そんなお母さんにとって理想的な新しい家族に私はいなかった。私は要らない子だって、言葉にされなくても分かったの」
「家にも学校にも必要とされてないからいなくなろうって?」
「そう。でも、誰かにあの苦しみを理解して欲しかった訳じゃない。お母さんやあの子たちに、私が死ぬところを見せつけて、一生後悔させてやろうとか、そんなことは思ってなかった。ただ本当に、終わりにしたくって。でも、‘家にも学校にも居場所がない、哀れな少女’が死ねば、自然とそう言う意図があった、って思われちゃうでしょ?それは嫌だった。だから、誰にも知られずにこっそりいなくなろうと思ったの」
「それじゃあ、まるで……」
「‘僕みたいだ’って?」
言葉が喉につっかえた。
『どうして佐々木くんはそんな寂しそうに絵を描くの』
ある日の放課後、教室の窓からの風景をスケッチしていた僕に、彼女が投げかけた言葉だ。それまで接点の1つも持っていなかったので、僕は意外に感じながらも答えた。
『寂しそうなんて、初めて言われたよ。うん、そうだな……偶然、描いた絵が高く評価されて、色んな人から天才なんて言われているけど、僕は他人から褒められたり、評価されるために絵を描いてるんじゃない。僕はただ、描きたいように絵を描き続けたいだけだけど、周りの目が、異端児としての僕により洗練された絵を強要してくる。そのプレッシャーが苦しくてね。だから今は、その日過大評価が自然と消えていくまでは、異端児として振る舞ってやろうと、諦めてるんだよ』
『そう。諦めなんだ』
『諦めなら、水瀬さんの方も同じなんじゃないの』
『さあ……私は、覚悟してるだけだよ』
この会話を機に、僕らは時々話をする様になった。決まって他人がいない時、彼女は僕を気遣っていたのかもしれなかった。誰かがいる前では、僕は虐めの傍観者に戻るし、彼女も僕へ話しかけてこない。僕らの関係は、非常に奇妙なものだった。
「あの時も言ったけど、私は芸術の感覚なんて分からない。でも、佐々木くんの絵は結構好きだよ」
「ありがとう。僕の絵が好きなんて、案外誰も言ってくれない言葉だから嬉しいよ」
「それは、私が言ったから、じゃなくて?」
揶揄うように言う彼女に「どうかな」と曖昧に返して、手に持った鉛筆をパレットと筆に持ち変える。どこからか響き始めるひぐらしの声_僕らのさよならはすぐそこまで迫っていた。
8月16日、僕と彼女との、最後の日。完成した絵は自分でも納得のいく出来栄えだった。
「素敵な絵だね。死んでから誰かに絵にしてもらうとは思ってもみなかった」
「僕も、死者の絵なんて書くのはこれが最初で最後だよ、きっと」
そう言って僕の手元を覗き込む彼女は、じきに向こうへ帰るらしい。当然、この絵は持っていけない。薄い色から始まり、深い色を幾重にも重ねて生まれた奥行き_空より遠く、海より深く。死んだ今となって、誰にも気づかせなかった深さを魅せる彼女は、どこか水彩画に似ていた。そして、この絵が完成した今、僕らを待っているのは別れだけだった。
「……佐々木くんは永く生きてよ」
囁く様な小さな声だった。ポロリと心の声が漏れたかのような、そんな響き。
「えっ?」
「私の分まで生きて、幸せになってね」
「……分かった……ねぇ、僕と会ったこと、後悔してる?」
顔にかかる長い黒髪のせいで、その表情は見えない。僕らの上に、厚い雲が覆い被さる。
「……どうだろう、まぁ、少し名残惜しさが生まれたかも」
「……」
この4日間で、僕は誰も知らない彼女の側面を随分と知った気がする。同じクラスだった時は、毎日顔を合わせるのに、どこか距離を置いた会話しかできなかった_学校でこうやって話せていたら、結末は違ったのだろうか。
「でも、今更遅いよ」
「そうだね」
「それに、どうしようもない大きな壁があるから、心の底から素直に話ができた気がするの」
「……」
僕らを覆っていた雲が動いて、再び辺りに日の光がさす。彼女は、どこか悲しい微笑を浮かべていた。僕は今、どんな表情をして彼女の話を聞いているんだろう、なんて声をかけるべきなんだろう。何か適切なことを言うには、僕はあまりに幼すぎた。
「私、こうやってまた佐々木くんに会えてよかったよ、やっぱり。ありがとう、会いにきてくれて」
その時、不意に強い風が吹いて、僕は思わず目を覆った_覆って、すぐにあっ、と気づいて彼女の方を見たけど、もうそこには誰もいなかった。僕は暫く、阿保みたいにそこに突っ立っていた。
…………
その後、僕は荷物をまとめて、行きとは反対方向の電車に乗り込んだ。蜻蛉のような4日間だった、揺れる電車の振動を感じながらそう思って、手元の彼女の絵を眺める_この記憶は、気持は、そんな幻なんかじゃない。結局、彼女は死者として彼岸に返り、僕はまた日常に戻る。お互い何も進まず、変われない。いつも通り、毎日を過ごすだけ_
種を蓄えて俯くひまわりに、静かに忍び寄る入道雲_僕の青春が終わったと、その時不意に思い知った。
昼下がりにその町を訪れた僕は、僕以外の客はいない民宿に荷物を預け、その足でそのまま海へと向かった。お盆の時期真っ只中にも関わらず、町に人の気配はほとんどない。海もそんな町の様子を映すかのように静かだった。流れ着いた歪な流木に、時々ペットボトルのゴミ_描くものなんて何もない、そんな風景だった。
一度民宿に戻って、夜。再び海へと赴き、手頃な流木に腰を下ろす。昼に比べてどこか神秘的な横顔を見せる海、茹る暑さに潮の薫る風が心地いい。
それから、どれだけ経っただろう。うつらうつらとしていて、ふと、誰かが立っていることに気づいた。ぼんやりとする頭はそれでも、その予感を感じていた。その人は、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。僕も立ち上がって、彼女の方へ近づく。月明りに照らされた、見慣れた制服に、長い黒髪。予感は確信に変わり、僕の中に複雑な想いが入り混じる。手を伸ばせばすぐ触れられそうだけれど、それでいて遠い存在。彼女が息を吸ってその言葉を発する、その刹那さえ、とても長く感じた。
「久しぶりだね、佐々木くん。本当に来てくれるなんて」
「うん、久しぶり、水瀬さん。もう1年も経ったよ」
こうして、僕らの邂逅は果たされたのだ。
8月14日、太陽が昇り切るまでたっぷり睡眠をとった僕は、日も傾き始めた夕方に海辺へ向かった。彼女はそこで待っていて、笑顔で手を振って僕を招いた。昨日より大きな流木を見つけて、そこに2人で腰掛ける。最初に、僕の近況報告が始まった。彼女のいない1年がどの様なものだったか、彼女がその後どう処理されたか_木の枝で砂に絵を描きながら僕の報告に耳を傾ける彼女は、まるで他人事を聞いている様だった。
「不思議、佐々木くんの話を聞いていると、私がいようがいなかろうがまるで何も変わらない、私という存在が最初からいなかったみたい」
「そうだね。でも、どんな人でも、死んだらいつかは忘れてしまうものでしょ」
「まぁ、そうかも」
「ところで、水瀬さんの方はどうなの?今の水瀬さんは、やっぱり、」
「そう、幽霊。私はもう、死んでいるよ?」
クスリと笑って彼女は続ける。ふっと足元が冷たくなって、細波の音が遠くになるのを感じた。
「あの日言った通り、海の中に身を投げたよ。今でも覚えている、息ができなくて苦しくて_あぁもう戻れないな、って深いところまで沈んだ、意識がなくなっても、沈んでいって……」
「死ぬの、怖くなかった?」
「少しだけ。海の底に沈んでからずっと冥い所にいた気がする」
「死後の世界か、それにしても、まさか幽霊になるなんて」
「‘求めよ、さらば与えられん’じゃない?まぁでも、私、神様なんて信じてなかったし、そもそも向こうに天国も地獄もなかったけど」
そこで会話は一度途切れた。
『私、今から海に死にに行こうと思う』
かつて、そんな言葉と小さなメモ用紙を僕に残して、彼女は姿を消した。何も知らない周囲は彼女の失踪について、家出だ、男と駆け落ちた、などと身勝手な憶測を熱心に飛ばした。その熱も1ヶ月もすればすっかり冷え切ったが。僕に残されたメモには、小さな海辺の町の名前、そして、『またいつか、会えるのなら』という走り書きがあった。なんの根拠もない、小さなメッセージ。けれど、彼女の最期の言葉を間に受けずに『そっか』の一言で済ませてしまったこと、その動機についてどこか後ろめたい気持ちを抱いていた僕は、懺悔と追想の意を込めて、彼岸の4日間をここで過ごそうと思った。
日は水平線の先に沈み、夜の帳が降りていく。突然、彼女は立ち上がって、海の方へ走ったかと思うと、くるっと振り返ってこう叫んだ。
「そうだ、ねぇ、佐々木くん、私を題材に絵に描いてよ」
そんな彼女の背後で、月光が波に返り射す。それが彼女のただの思いつきなのか、彼女なりの想いが込められていたのか、今となっては知る由もないが、でもその時、僕は彼女がとても綺麗だと思った。彼女の願いを叶えると言うより、僕自身がそうしたいと思って、僕はその提案を素直に受け入れたのだ。
8月15日、一際、蝉時雨の大きい日だった。昨日のお願いを叶えるため、僕は早朝から浜辺へと出掛けた_手に馴染んだ画材道具を携えて。
彼女は海を背後に、振り返る姿勢で立っている。海風に長く美しい黒髪が靡いていた。僕はそんな彼女の輪郭を、丁寧に映し取っていく_その存在を、絵の中に閉じ込める様に。
彼女と僕が知り合うきっかけは高校2年生の時、同じクラスになったことだった。当時、名のあるコンクールに入賞したことがきっかけで異端児などと言われていた僕は、クラスで浮いていた。そして、そんな僕と同じように、彼女もまたクラスで孤立していた。彼女の場合は、その容姿の美しさ、そして、虐め。きっかけは、多分些細なこと。気の強い主犯格の子にその仲間たち、そして、傍観するその他大勢_誰もが見て見ぬ振りをし、彼女は刃向かうことをせず、ある意味では均衡が保たれていた。
他人と距離を置いていた僕は、しかし彼女のことは少し興味を持っていた。どこか憂いを帯びていながら腹を括ったような表情のみを浮かべる彼女。それがいじめを加速させていたのだが、その表情の理由を知りたかった。
「……僕は悪い人間だ」
「ん、唐突だね」
ふと呟いた声に、水面を蹴っていた彼女は、動きを止めて僕を見つめる。今の彼女は、あの頃と違って憂いを帯びない、爽やかな笑顔だった。
「水瀬さんのこと、助けなければ止めもしなかっただろ。僕は君に会えたら謝ろうと思ってたんだ」
「へぇ、他人に全く興味ない佐々木くんがそんなこと思うんだ」
「これでも、人並みの罪悪感は持っているよ」
「ごめんごめん、でもね、助けなんて求めていなかったよ。あそこで佐々木くんが私を助けていても、また別の誰かが私の代わりになっていただけ」
「もしそうでも、少なくとも水瀬さんは、目の前に立っている僕に罵詈雑言をたくさん浴びせるべきだよ。君にはその権利がある」
「ふふっ、変なこと言うね。それはただのマゾだよ、佐々木くん。勝手に悪いことはいつでも止められるし、それが正しいことだと思ってない?もしそうなら、それはただの綺麗な妄想だよ。本当の理不尽の前に、そんな根拠のない‘ルール’は存在しないの」
そう話す彼女の顔には、あの頃の憂いが浮かんでいた。パシャパシャと水から上がってきた彼女は続ける。
「私は、別に虐めだけが原因で死んだ訳じゃない。そうだね、せっかく来てくれたし、私としては学校で唯一の友達だと思ってたし……佐々木くんには教えてあげる。
私の家はね、長いこと母子家庭だった。お母さんは朝から晩まで働き詰めで、私に構う余裕なんてなかった。でも、ちょうど3年前くらいに再婚して、妹も生まれたの。生活もゆとりが出てきて、お母さんは妹のことをすごく大切にしてる。そんなお母さんにとって理想的な新しい家族に私はいなかった。私は要らない子だって、言葉にされなくても分かったの」
「家にも学校にも必要とされてないからいなくなろうって?」
「そう。でも、誰かにあの苦しみを理解して欲しかった訳じゃない。お母さんやあの子たちに、私が死ぬところを見せつけて、一生後悔させてやろうとか、そんなことは思ってなかった。ただ本当に、終わりにしたくって。でも、‘家にも学校にも居場所がない、哀れな少女’が死ねば、自然とそう言う意図があった、って思われちゃうでしょ?それは嫌だった。だから、誰にも知られずにこっそりいなくなろうと思ったの」
「それじゃあ、まるで……」
「‘僕みたいだ’って?」
言葉が喉につっかえた。
『どうして佐々木くんはそんな寂しそうに絵を描くの』
ある日の放課後、教室の窓からの風景をスケッチしていた僕に、彼女が投げかけた言葉だ。それまで接点の1つも持っていなかったので、僕は意外に感じながらも答えた。
『寂しそうなんて、初めて言われたよ。うん、そうだな……偶然、描いた絵が高く評価されて、色んな人から天才なんて言われているけど、僕は他人から褒められたり、評価されるために絵を描いてるんじゃない。僕はただ、描きたいように絵を描き続けたいだけだけど、周りの目が、異端児としての僕により洗練された絵を強要してくる。そのプレッシャーが苦しくてね。だから今は、その日過大評価が自然と消えていくまでは、異端児として振る舞ってやろうと、諦めてるんだよ』
『そう。諦めなんだ』
『諦めなら、水瀬さんの方も同じなんじゃないの』
『さあ……私は、覚悟してるだけだよ』
この会話を機に、僕らは時々話をする様になった。決まって他人がいない時、彼女は僕を気遣っていたのかもしれなかった。誰かがいる前では、僕は虐めの傍観者に戻るし、彼女も僕へ話しかけてこない。僕らの関係は、非常に奇妙なものだった。
「あの時も言ったけど、私は芸術の感覚なんて分からない。でも、佐々木くんの絵は結構好きだよ」
「ありがとう。僕の絵が好きなんて、案外誰も言ってくれない言葉だから嬉しいよ」
「それは、私が言ったから、じゃなくて?」
揶揄うように言う彼女に「どうかな」と曖昧に返して、手に持った鉛筆をパレットと筆に持ち変える。どこからか響き始めるひぐらしの声_僕らのさよならはすぐそこまで迫っていた。
8月16日、僕と彼女との、最後の日。完成した絵は自分でも納得のいく出来栄えだった。
「素敵な絵だね。死んでから誰かに絵にしてもらうとは思ってもみなかった」
「僕も、死者の絵なんて書くのはこれが最初で最後だよ、きっと」
そう言って僕の手元を覗き込む彼女は、じきに向こうへ帰るらしい。当然、この絵は持っていけない。薄い色から始まり、深い色を幾重にも重ねて生まれた奥行き_空より遠く、海より深く。死んだ今となって、誰にも気づかせなかった深さを魅せる彼女は、どこか水彩画に似ていた。そして、この絵が完成した今、僕らを待っているのは別れだけだった。
「……佐々木くんは永く生きてよ」
囁く様な小さな声だった。ポロリと心の声が漏れたかのような、そんな響き。
「えっ?」
「私の分まで生きて、幸せになってね」
「……分かった……ねぇ、僕と会ったこと、後悔してる?」
顔にかかる長い黒髪のせいで、その表情は見えない。僕らの上に、厚い雲が覆い被さる。
「……どうだろう、まぁ、少し名残惜しさが生まれたかも」
「……」
この4日間で、僕は誰も知らない彼女の側面を随分と知った気がする。同じクラスだった時は、毎日顔を合わせるのに、どこか距離を置いた会話しかできなかった_学校でこうやって話せていたら、結末は違ったのだろうか。
「でも、今更遅いよ」
「そうだね」
「それに、どうしようもない大きな壁があるから、心の底から素直に話ができた気がするの」
「……」
僕らを覆っていた雲が動いて、再び辺りに日の光がさす。彼女は、どこか悲しい微笑を浮かべていた。僕は今、どんな表情をして彼女の話を聞いているんだろう、なんて声をかけるべきなんだろう。何か適切なことを言うには、僕はあまりに幼すぎた。
「私、こうやってまた佐々木くんに会えてよかったよ、やっぱり。ありがとう、会いにきてくれて」
その時、不意に強い風が吹いて、僕は思わず目を覆った_覆って、すぐにあっ、と気づいて彼女の方を見たけど、もうそこには誰もいなかった。僕は暫く、阿保みたいにそこに突っ立っていた。
…………
その後、僕は荷物をまとめて、行きとは反対方向の電車に乗り込んだ。蜻蛉のような4日間だった、揺れる電車の振動を感じながらそう思って、手元の彼女の絵を眺める_この記憶は、気持は、そんな幻なんかじゃない。結局、彼女は死者として彼岸に返り、僕はまた日常に戻る。お互い何も進まず、変われない。いつも通り、毎日を過ごすだけ_
種を蓄えて俯くひまわりに、静かに忍び寄る入道雲_僕の青春が終わったと、その時不意に思い知った。
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