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十月

ここではないどこか別の居場所.4

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 夜。

「少し……いや、だいぶ疲れたな」

 風呂を済ませた瑠璃は、ベッドに身体を大の字に投げ出して、脱力する。
 宿泊場所は私立らしく貸し切りのホテルで、一人一人に個室が与えられていた。生徒たちからはグループ部屋の方が修学旅行感があって良いという意見もあったようだが、瑠璃のようなパーソナルスペースが広い人間にはありがたい。

 正直、もう指一本を動かすのも辛い。呼吸をするだけであちこちの筋肉が痛むし、そろそろ身体の中から金属音がしてもおかしくない。
 足も鉛のように重たくて、踵の皮膚が硬い。まだ土やアスファルトを踏みしめる感覚が抜けない。

 ちらりと、サイドテーブルのうえに置かれたペットボトルを見る。
 奏と交換した緑茶。途中で捨てると思っていたのに、結局全部を飲み切れずにここまで残ってしまった。

「さすがに明日のお茶は買っとかなきゃな」

 このままうたた寝してしまいたくなるが、使い物にならない身体にむち打ち、しばらくしてから身体を起こして自販機へ向かった。
 エレベーターに乗りながらスマホの画面を見れば、すでに二十一時を過ぎていた。
 教師たちが点呼を取りにくるのは何時だっただろうかと、栞に載っていたスケジュールを思い出す。

「まだ時間はありそうか……?」

 エレベーターを降りて、歩きながらあくびが出た。
 眠たい。
 瞼は今にもくっつきそうだし、頭はぼんやりと霞みがかっている。今すぐ寝ていいと言われたらこの場で丸まって明日の朝まで起きなさそうだ。
 ふらふらした足取りでたどり着いた自販機コーナーには誰もいなかった。
 ラッキーだ、とほっと息をつく。クラスメイトと会ってもこの状態ではあまりにも居たたまれない。
 煌々と光る商品棚の青白いライトに、眩しそうに目をしぱしぱと瞬かせながら、ボタンを押した。ペットボトルを取り出す。

 目を擦りながら振り向いた瑠璃の眠気が、吹っ飛んだ。
 ぽかんと阿呆そうな顔で、その場に立ち尽くす。
 瑠璃の視線の先には、驚いた顔をした奏がいた。

「……お前、なんでここに」
 奏は口をぱくぱくした後、予期していなかった幸運に遭遇したみたいに破顔した。
「偶然。もし、瑠璃がいたらいいな、とは思ってたけど。まさか本当にいるとは思ってなかった」
「本当か? 後をつけてきたとかだったら訴えるぞ」
「んなわけないだろ。そんな暇じゃない。多分、お前と一緒。今日で飲み切れなかった烏龍茶の代わりに明日のお茶を買いに来たんだよ」
「あ……」

 奏はひらひらとICカードを見せびらかすように振った。

「……まじか」
「まじ。大真面目」

 得意げにする奏とは対照的に、瑠璃は味のしないガムを噛んでいるような複雑な想いを抱いて奏を見つめた。
 どんな顔をすればいいかわからない。
 今日がいろいろと観光して充実し過ぎていたからか、もうずっと奏と会っていなかったような感覚なのだ。これまで奏とどう接していたのかを探るように、少しの間、瑠璃の身体は戸惑っていた。

 その時、廊下の向こうから見知らぬ生徒の声が聞こえてきた。
 思わず、瑠璃は奏の手を取って、声の方向とは反対側の廊下へと走った。パッと目に飛び込んできた非常出入口へと滑り込む。

「さむ……ッ」

 非常出入口の外には、ホテルの外階段の踊り場へ続いていた。
 身体が外の空気に触れた途端、突き刺すような冷たさが肌を撫でた。

「おわ……ここ、高いな」
 奏が柵に身を乗り出して下を覗き込む。ホテルは見晴らしのよい高台にあって、眼下に広がるのは、静かな京都の夜景だった。
 柔らかな光の粒がいくつも集まって光の海と化していた。水光の瞬きが穏やかな波のようで、ずっと見ていられるような美しい景色だった。
 幻想的で、まるで遠い対岸の地に極楽が広がっているみたいだった。

「瑠璃」
「ん?」
 奏は羽織っていた厚手のガウンを広げて、瑠璃に寄り添って中に招き入れた。
 ふわりと奏のぬくい体温に包まれる。
「お前、用意いいな」
 肌触りの良い生地に、瑠璃は心地よさそうに目を細めた。
「僕、寒いの好きじゃないんだよね。今の季節だと、昼と夜の寒暖差が激しいだろ。だから持ってきてた」
「うちだとそんな素振りなかっただろ」
「言わないうちにお前がさっさと暖房つけてくれるから」

 肩が触れ合う。冷たかった肌が奏の体温を分けてもらって仄かに熱を持つ。それは血管を通って瑠璃の身体の震えを宥める。瑠璃は柵に頬杖をついて、ありがたく奏にくっつく。

 沈黙が降りた。
 赤、青、黄と移り変わる京都タワーのライトアップをぼんやりと見つめながら、瑠璃は自問自答する。
 どうして奏を連れてきてしまったのだろうか。
 人が来たならば、また学校でそうしていたように他人のフリをしてすれ違うだけで良かったのに。今まで、そうしてきたのに。

 もう少しだけ奏の温もりを感じていたかった。
 今日一日、外を動き回って、他人とずっと一緒にいて、喋って、瑠璃は疲れ果てていた。頭が心臓になってしまったみたいに神経が昂っていて、緊張が解けなかった。
 奏の顔を見て、ようやく生きた心地がした。
 きつく締め付けていた縄がほどけて、血と体温が水を得たように身体を巡る感覚は離しがたくて、思わず連れてきてしまった。

「京都、どうだった。結構回った?」
 と奏が尋ねた。
「まぁ、それなりに。途中で電車乗り間違えてさ。大変だった。そっちは?」
「すげー歩いた。めちゃくちゃ階段あったんだけど、かなり急で。上に行けばいくほど重量感じて背中が引っ張られんの。やばかった」
「ああ。俺らもそれっぽいのあったわ」
「つうか人多すぎ問題」
「それは、本当にそう。小学生で来たときはもっと動きやすかったんだけどなぁ」

 ふと、奏は遠くを見て呟いた。

「京都かぁ……随分と遠くに来たよな。あの電車でも、追いつかない場所だ」
「あ? まぁ、新幹線で来たからな」

 まるで初めて空を見て、その太陽の輝きに眩しそうにするように奏は目を細めた。

「夜景ってさぁ。誰と見るかって大事なんだな」
 瑠璃は怪訝そうに首を傾げた。
「はぁ?」
「別に夜景なんて見るの初めてじゃないし、都会の方がずっとキラキラしてはいたけどさ。今、瑠璃と見てるこれが一番綺麗に見える」
「……単に好みの問題じゃねえの」
「いーや。これは絶対そうだろ」

 ふ、と儚げに笑った奏の横顔に、瑠璃は氷が溶けていくように温かな灯がぽうと胸に灯った気がした。
 そういえば、清水寺から京都の景色を目にしたとき、瑠璃は奏はどういう顔をするのだろうと気になった。

「お前は、そういう顔をするんだな」

 流れ星を見たときのように、目の前の素敵な光景にハッとする感覚。
 星が瞬いて、月の輪郭が美しい線になって、朝露を縁取るように、感情を象る。
 できるなら、奏に幸福が訪れてほしいと思う。
 例えば、帰り道に美味しいアイスクリームのワゴンを見つけてしまったり、授業で居眠りしてしまっても無問題であったり、ちょっとした良いことがたくさん降り注いでほしいと願わずにはいられない。

 この感情の芽吹きは、いったい、なに?

「戻るか。もうすぐ点呼だろ」
 瑠璃は目を伏せて頷いた。
「そうだな」

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