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六月
熱.1
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奏と瑠璃が図書室で過ごすようになってから、三か月が経とうとしていた。
爽やかだった若葉は、厚みのある青葉へと色濃く変わり、ギラつく太陽の下でも負けずとも劣らずに生い茂って、目が痛いほどに色鮮やかになった。
ざあざあと背中が折り曲がるような、激しい梅雨はもうすぐ明けようとしている。そうすれば川開きや海開き、プール開き。あちこちでトンネルから抜け出したように夏が開かれる。
蝉がそこかしこで鳴きはじめ、コンロで炙られるかのごとく地面から熱気が立ち昇るのが見えつつある。
制服は長袖から半袖への移行期間真っ只中であり、教室の冷房がつくようになった。
廊下には熱中症や水分補給に関する張り紙がちらつき、下敷きでうちわをつくる生徒やタオルを手にしている生徒が増えた。
季節は徐々に真夏へと近づいていた。
第二閉架図書室に現れた瑠璃は、開口一番に鬱陶しそうに言い放った。
「悪い。俺、無理だ。今日は帰る。てか、もうしばらくここ来ねぇわ」
それに奏は気分を害したように顔をしかめた。
「なんで?」
「なんでもなにも。お前、この部屋にいたらそのうち熱中症で死ぬぞ。暑すぎ」
窓辺で生ぬるい風に当たっていた奏の艶やかな頬は赤く火照っていて、たらりと雫が一筋、首筋へと流れていった。
瑠璃の線の細いさらさらしているはずの前髪も、今は束になって額に張り付いている。
それをうざったそうにかき上げながら、瑠璃は図書室を見渡した。
ドアの側の壁に備え付けられた壊れかけの温度計は、三十二度を記録していた。部屋の奥を見れば、蜃気楼のように空気が揺れて見える。
今日日、夏の気配はぐっと濃くなった。
影響は二人の秘密基地たる第二閉架図書室にも当然及んでいた。
いつも寝転んでいる革ソファの暖かな赤茶の色味が、ぐつぐつと煮だったマグマのように見えて、瑠璃は顔をしかめる。
立ち入りが禁止され、捨て去られた旧校舎に冷房が入るはずもなく、本と埃の残り香が悪い方向に作用して、潰れかけのサウナみたいになってしまった。
高熱でぶっ倒れる寸前の顔をしている奏を見かねて、瑠璃は手招きする。冷却スプレーをリュックから取り出した。
「とりあえず後ろ向け。どーせお前こういうの持ってないだろ」
「なにそれ」
「冷却スプレー。俺の通学路って家から駅までちょっと歩くからさ、ドラッグストアで買ったんだよ」
奏と瑠璃の身長はそう変わらない。
背を向けた奏の襟に指をひっかけて、スプレーのノズルを突っ込んでプッシュする。
奏の肩がびくりと跳ねた。
インナーの向こうにちらりと見えた肌に思わず、「お前、あせもとか水疱瘡とかなんも知らなそうだな」と感心した。
「……っ、つめた、なにこれ、氷?」
「みたいな空気? 便利だろ」
瑠璃はにいっと得意げに笑った。わずかに熱を帯びている奏のポニーテールを持ちあげて、少し距離を遠くしてからうなじにも軽くかけてやる。
先ほどまで暑さなんて気にならないみたいな表情をしていたのに、奏は心地よさそうに息を吐いて、天井を仰いだ。
やっぱり堪えがたかったんだろうと瑠璃は呆れた。
「帰るぞ。夏が終わるまではここに来ない方がいいだろ。明日か明後日かくらいにでっかいビニール買ってきて、埃かぶんないようにソファにかけとこうぜ」
そしてまた、秋になって気温が下がったころに集まればいい。そのころには、またソファの色だって心地よく感じるようになっているはずだ。
「お前も汗びっしょりなんだから、早く家帰って涼んだほうがいいよ」
瑠璃は奏がソファに無造作に投げ置いていた鞄を持って差し出すが、奏はそれを取ろうとはしなかった。
「……」
奏はまるで駄々をこねる子どものように、立ち尽くしていた。
瑠璃はきょとんとしながら、もう一度鞄を突き出したが、奏は気まずそうに視線を落とした。
「奏?」
「……いや、なんでも。スプレーありがと。瑠璃は帰れば? 僕はもう少しここにいるよ」
「はぁ?」
予想だにしない返答に、瑠璃は眉を顰めた。
奏は瑠璃から鞄を受け止るとソファへ放り投げ、また風に当たりにいこうと、ふらふらと窓辺へ向かう。
「まあ、暑いのは本当だし。巻き込んで瑠璃に倒れられても癪だし、明日からは来ても来なくてもいいよ。僕も、しばらくはお前とは連絡とらないようにするし」
「正気かよ。熱中症で死ぬぞ」
「大丈夫でしょ。高校生男子の体力なめんなって」
はぁ? 全然大丈夫そうに見えないんだけど。
瑠璃は苛立たしげに目を細めて、顎を滴る汗を手の甲で拭った。
茹だったタコのような顔をして、いかにも倒れそうですみたいなぼんやり具合で、何が大丈夫なのか。
奏こそ、昨今の異常気象並みの猛暑を舐めているだろう。
「お前、そこまで馬鹿だったっけ? ていうか、こんなとこにいたら、危ないって馬鹿でもわかる」
「……うるせえよ」
奏は力なく笑った。
その表情が、いつか体育館裏で見た、感情が迷子になってしまっているあの表情と似ていた。気づいてしまったからには、それ以上何も言えなくなって、瑠璃は開きかけた口を閉じた。
どうして、そこまでして奏は、第二閉架図書室に固執するのか。
瑠璃は疑問に思ってから、すぐに、いや、と頭を振った。
奏が固執しているのは、第二閉架図書室ではない。あくまでも、瑠璃と交わされる「秘密」だ。そうでなければわざわざ瑠璃とキスをする必要はないのだから。
瑠璃は仕方ない、と独りごちる。
自分から誘うなんて、らしくないけど、倒れられて寝覚めが悪いのは瑠璃も同じだった。
脳みそまでショートさせる熱のせいか、瑠璃が今まで頑なに守ってきた誰に対しても平等の線引きが蜃気楼のように揺らいだ。
瑠璃の判断を鈍らせ、惑わせ、壊れさせる。
瑠璃は奏の鞄を再び拾った。それから、意を決したように唇をを引き結んで、奏の腕を強く掴んで引っ張った。
「別にここじゃなくたって、放課後は過ごせるだろ」
「え?」
爽やかだった若葉は、厚みのある青葉へと色濃く変わり、ギラつく太陽の下でも負けずとも劣らずに生い茂って、目が痛いほどに色鮮やかになった。
ざあざあと背中が折り曲がるような、激しい梅雨はもうすぐ明けようとしている。そうすれば川開きや海開き、プール開き。あちこちでトンネルから抜け出したように夏が開かれる。
蝉がそこかしこで鳴きはじめ、コンロで炙られるかのごとく地面から熱気が立ち昇るのが見えつつある。
制服は長袖から半袖への移行期間真っ只中であり、教室の冷房がつくようになった。
廊下には熱中症や水分補給に関する張り紙がちらつき、下敷きでうちわをつくる生徒やタオルを手にしている生徒が増えた。
季節は徐々に真夏へと近づいていた。
第二閉架図書室に現れた瑠璃は、開口一番に鬱陶しそうに言い放った。
「悪い。俺、無理だ。今日は帰る。てか、もうしばらくここ来ねぇわ」
それに奏は気分を害したように顔をしかめた。
「なんで?」
「なんでもなにも。お前、この部屋にいたらそのうち熱中症で死ぬぞ。暑すぎ」
窓辺で生ぬるい風に当たっていた奏の艶やかな頬は赤く火照っていて、たらりと雫が一筋、首筋へと流れていった。
瑠璃の線の細いさらさらしているはずの前髪も、今は束になって額に張り付いている。
それをうざったそうにかき上げながら、瑠璃は図書室を見渡した。
ドアの側の壁に備え付けられた壊れかけの温度計は、三十二度を記録していた。部屋の奥を見れば、蜃気楼のように空気が揺れて見える。
今日日、夏の気配はぐっと濃くなった。
影響は二人の秘密基地たる第二閉架図書室にも当然及んでいた。
いつも寝転んでいる革ソファの暖かな赤茶の色味が、ぐつぐつと煮だったマグマのように見えて、瑠璃は顔をしかめる。
立ち入りが禁止され、捨て去られた旧校舎に冷房が入るはずもなく、本と埃の残り香が悪い方向に作用して、潰れかけのサウナみたいになってしまった。
高熱でぶっ倒れる寸前の顔をしている奏を見かねて、瑠璃は手招きする。冷却スプレーをリュックから取り出した。
「とりあえず後ろ向け。どーせお前こういうの持ってないだろ」
「なにそれ」
「冷却スプレー。俺の通学路って家から駅までちょっと歩くからさ、ドラッグストアで買ったんだよ」
奏と瑠璃の身長はそう変わらない。
背を向けた奏の襟に指をひっかけて、スプレーのノズルを突っ込んでプッシュする。
奏の肩がびくりと跳ねた。
インナーの向こうにちらりと見えた肌に思わず、「お前、あせもとか水疱瘡とかなんも知らなそうだな」と感心した。
「……っ、つめた、なにこれ、氷?」
「みたいな空気? 便利だろ」
瑠璃はにいっと得意げに笑った。わずかに熱を帯びている奏のポニーテールを持ちあげて、少し距離を遠くしてからうなじにも軽くかけてやる。
先ほどまで暑さなんて気にならないみたいな表情をしていたのに、奏は心地よさそうに息を吐いて、天井を仰いだ。
やっぱり堪えがたかったんだろうと瑠璃は呆れた。
「帰るぞ。夏が終わるまではここに来ない方がいいだろ。明日か明後日かくらいにでっかいビニール買ってきて、埃かぶんないようにソファにかけとこうぜ」
そしてまた、秋になって気温が下がったころに集まればいい。そのころには、またソファの色だって心地よく感じるようになっているはずだ。
「お前も汗びっしょりなんだから、早く家帰って涼んだほうがいいよ」
瑠璃は奏がソファに無造作に投げ置いていた鞄を持って差し出すが、奏はそれを取ろうとはしなかった。
「……」
奏はまるで駄々をこねる子どものように、立ち尽くしていた。
瑠璃はきょとんとしながら、もう一度鞄を突き出したが、奏は気まずそうに視線を落とした。
「奏?」
「……いや、なんでも。スプレーありがと。瑠璃は帰れば? 僕はもう少しここにいるよ」
「はぁ?」
予想だにしない返答に、瑠璃は眉を顰めた。
奏は瑠璃から鞄を受け止るとソファへ放り投げ、また風に当たりにいこうと、ふらふらと窓辺へ向かう。
「まあ、暑いのは本当だし。巻き込んで瑠璃に倒れられても癪だし、明日からは来ても来なくてもいいよ。僕も、しばらくはお前とは連絡とらないようにするし」
「正気かよ。熱中症で死ぬぞ」
「大丈夫でしょ。高校生男子の体力なめんなって」
はぁ? 全然大丈夫そうに見えないんだけど。
瑠璃は苛立たしげに目を細めて、顎を滴る汗を手の甲で拭った。
茹だったタコのような顔をして、いかにも倒れそうですみたいなぼんやり具合で、何が大丈夫なのか。
奏こそ、昨今の異常気象並みの猛暑を舐めているだろう。
「お前、そこまで馬鹿だったっけ? ていうか、こんなとこにいたら、危ないって馬鹿でもわかる」
「……うるせえよ」
奏は力なく笑った。
その表情が、いつか体育館裏で見た、感情が迷子になってしまっているあの表情と似ていた。気づいてしまったからには、それ以上何も言えなくなって、瑠璃は開きかけた口を閉じた。
どうして、そこまでして奏は、第二閉架図書室に固執するのか。
瑠璃は疑問に思ってから、すぐに、いや、と頭を振った。
奏が固執しているのは、第二閉架図書室ではない。あくまでも、瑠璃と交わされる「秘密」だ。そうでなければわざわざ瑠璃とキスをする必要はないのだから。
瑠璃は仕方ない、と独りごちる。
自分から誘うなんて、らしくないけど、倒れられて寝覚めが悪いのは瑠璃も同じだった。
脳みそまでショートさせる熱のせいか、瑠璃が今まで頑なに守ってきた誰に対しても平等の線引きが蜃気楼のように揺らいだ。
瑠璃の判断を鈍らせ、惑わせ、壊れさせる。
瑠璃は奏の鞄を再び拾った。それから、意を決したように唇をを引き結んで、奏の腕を強く掴んで引っ張った。
「別にここじゃなくたって、放課後は過ごせるだろ」
「え?」
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