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四月

日常.2

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 旧北校舎は、現在では使われていない、古い校舎だ。
 老朽化問題を解決するために新北校舎が建造され、そちらに丸々機能が移されてからは、扉はすべて封鎖され、ここ最近は誰も近寄らない立ち入り禁止の廃墟と化していた。
 冬には取り壊されて、続々と規模が拡大している部活動ために、新しく部活棟が建つ予定らしい。

 ホームルームが終わると、瑠璃は少し友達と雑談してからブレザーの上着と鞄を抱えて、昇降口へと向かった。
 扉の封鎖のせいで、旧北校舎へと通じる普通の通路はない。
 瑠璃はいったん靴を履いて外へ出ると、小走りで旧北校舎へと向かった。
 私立校ともあって、敷地内はドームもすっぽりと入るほどに広大だ。校門近くに位置する本校舎から、敷地の片隅にある旧北校舎までを急げば、部活に入っているわけでもない、万年平凡生の瑠璃の息はあっという間にあがった。
 少しばかり息を整えてから、誰にも姿を見られないように、校舎裏の鍵の壊れた窓から侵入した。
 剥がれかけの「土足厳禁」という貼り紙を見て見ぬふりをして、静かに窓を閉める。

 三階までの階段を駆け足で上って、突き当たりの空っぽの図書室に入る。さらにその奥に第二閉架図書室はある。
 旧北校舎が生きていたころは、生徒が閲覧できない重要な図書の保管庫として使用されていたが、今ではぽっかりと空の棚ばかりが陳列する、侘しい空き部屋だった。

 軋むおんぼろ扉を開けて中に入ると、奏はいた。

 端が破れて綿がこぼれる、二人掛けの革のソファに寝そべって、勝手に持ち込んだゲーム機でピコピコ遊んでいた。
 その姿はあの教科書を音読していた彼とは似ても似つかないものだった。

 教室ではぴしりと上までボタンが留められていたブレザーは無造作に脱ぎ捨てられ、シャツの裾がベルトからはみ出している。
 幽世から現れ出たような儚く繊細な雰囲気は鳴りを潜め、ゲーム機を睨む顔はしかめ面。愛想なんて微塵も見えない。
 教室で振りまく姿からは打って変わって、怠惰を貪っている奏に、瑠璃は慣れたように呼びかけた。
 奏はゲーム機の画面から視線を離さないまま、拗ねたようにジト目をした。

「瑠璃おせぇよ。僕、待ちくたびれてたんだけど」
 瑠璃も呆れたように言葉を返す。
「……いや? せいぜい十五分だろ。それくらい待てって」
「無理無理。僕もう一試合終わっちゃったって。瑠璃が来ないから負けたって」
「俺のせいじゃないな。それ」

 口調だって、教室の時とはまるで違う。
 角のない、安心感のある口調はどこへやら。とげとげしくて、ちょっとばかしダウナー気味。
 本当に奏なのか、とクラスメイトらが見たら卒倒するだろう光景が容易に脳裏に浮かんで、瑠璃は苦笑した。

「お前、ほんとにギャップの塊だよな」
「なんでだよ。瑠璃はもう僕の素なんて見慣れてるし、今更ギャップになんてならなくね? 唯一、あっちの僕が素じゃないのを知ってて、僕の素を見せてるお前にギャップがあるって言われるの、違和感あるんだけど」
「イメージと違う一面があれば、もうギャップがあるって言うんだってよ。前にクラスの奴らが言ってた。俺は教室での奏も知ってる。けど、素の奏も知ってる。その間にある“差”は確かにギャップだよ」

 瑠璃は抱えていた鞄とブレザーを床へほっぽると、寝そべる奏の身体を奥へ押し込み、無理矢理ソファに浅く座った。
 ゲーム機から、プレイヤーが死んだ爆発音が聞こえて奏が舌打ちする。

「瑠璃のせいで死んだ」
「人のせいにすんな」

 やっぱ教室で見る奏よりも自分にはこっちのが落ち着くな。

 瑠璃は、昼間の奏を思い出して、ほっと胸を撫でおろした。

 みんなの憧れたる月蔵奏は、意図的に自身の性格を偽っている。
 普段は誰からも一目置かれる人当たりの良い優等生を演じているが、実際には口が悪く、肌に薄氷が張っているかのような冷たさを一枚纏っていて、教室で見るより――それでも同年代の男子よりはずっと育ちの良さがでるが――素っ気ない。

 それを知るのは世界でただ一人、瑠璃だけだった。

「誰にも見られてないよな?」
 お決まりのセリフに瑠璃も当然のように返す。
「そんなに警戒しなくても、別に気づかれないと思うけど? 第二閉架図書室なんて、教師にももう忘れられてんだから」
「いーや。気を付けろ。一応、ここは立ち入り禁止。表向き優等生の僕がいたらおかしーんだよ。瑠璃は肝心なところで抜けてたりすんだから」
「そう思うなら学校で、俺を巻き込むなって話なんだけど?」
「それとこれは話が別なんですよねえ」
「じゃ、リスク承知てことで了解しな」

 軽口を叩きあいながら、瑠璃は鞄からゲーム機を取り出して、自分も奏にもたれながら遊びはじめた。
 パン、ちゅどん、バンバン、とゲーム音が空虚な空き部屋に鳴り響く。
 遠く、本校舎の方からちょうど夕方の五時を知らせる鐘の音が幽かに届いた。
 少し離れたテニスコートから、テニス部の部員たちの掛け声が聞こえてくる。
 それを織り交ぜた心地よい沈黙が降りた。

 ふと、瑠璃はちらりと奏を横目で盗み見た。
 窓から差し込む夕日の逆光を浴びながら、傘のように長い睫毛を時折ぱたぱたさせて、伏し目がちにゲームに耽る姿は、ほの暗く退廃的な美しさを放っていて、思わず息を呑んだ。

 やっぱ、怖いくらい顔が良いよなぁ。こいつ。

 その甘いマスクで一体何人を虜にしてきたのだろう、と瑠璃はこれまで奏にアタックしてきた女性らを思い浮かべて憐れむ。
 学年一の美少女。年上の凛とした先輩。はたまた年上に憧れる愛らしい後輩。話を聞いている限りでは、学校外で知り合った高貴な令嬢ら。
 そうそうたる女性らが奏に告白して散っていった。
 きっといつか奏が結婚する奴は、彼と同じくらいできた女性なのだろう、と瑠璃は想像しようとして、すぐに無理だと悟る。
 そこまでの女に対しての知識も、上流家庭へのイメージも瑠璃は持っていなかった。

 瑠璃と奏は教室では必要以上の会話をしない。今日だって、朝に数学の課題ノートを提出する際に一言よろしくと言っただけ。
 さらに、二人とも日常で過ごす友達は違う。
 任されている委員会も、掃除場所も何もかもが違う。徹底的に接点は潰している。

 だから二人の関係を知る者はいない。

 遊ぶのはこの第二閉架図書室だけだった。
 授業が終わって、放課後の時間。夕方から夜になって、日が沈むまでをこの部屋の中で二人で過ごしていた。
 たいていは持ち寄ったゲーム機でひたすら遊んでいる。たまにボードゲームをしたり、本を読んだり、はたまた、ただ寝るだけだったりする。

 友達も親も教師も、誰もが二人の関係には気が付かない。
 文字通り、放課後だけの秘密の関係だと、瑠璃は思う。

 それがここひと月近く続いていた。

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