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第一章 企み
12.男の情と女の企み
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ローゼと急ぎの結婚を終え、ザウリに向かっていたジェイスは、ようやく雪のない内陸に入った。ザウリまであと一日といったところで、ジェイスは宿場町で馬を止め、宿をとった。
「角部屋が空いてますよ。どうぞお兄さん」
若い店主に鍵を渡され、ジェイスは部屋に上がると担いできた荷物を下ろした。
ポケットを探り、ハンカチを取り出す。
四隅に刺繍が施され、その淵にも金色の模様が入っている。
その刺繍を指でこすりながら、ジェイスはローゼのことを考えた。
思い出すのはローゼのどこか寂しそうな微笑みばかりだ。
レアナとの過ちを告白もせず、無理やり繋ぎとめるように結婚してしまった。
さらに、自分の心のやましさから、初夜すら過ごしてやらなかった。
後悔ばかりが胸に残っていた。
ジェイスはハンカチをポケットに戻し部屋を出た。
階段を大きな荷物を抱えた行商人風の男があがってくる。
道を空けようと脇に避けたジェイスは、一階に積み上げられた荷物を目にして振り返った。
「手伝うか?」
ジェイスは国章の入った騎士の外套を身に着けている。
大きな鞄を抱える男は飛びつくようにジェイスに助けを求めた。
「お願いします!」
国の役人であれば安心して頼れる。
ジェイスは男が一つ運ぶ間に三往復し、あっという間に荷物を部屋に運び込んだ。
「魔の森が物騒になって祝い事がいろいろ中止されてしまって、華やかなものがあまり売れないのですよ。女性物の服や贈り物、ちょっとしたお菓子なんかの売れ行きも悪く、東に売りにいくことにしたのですが、ここから雪道になると聞いて馬車を点検に出しました。おかげで荷物を全部下ろす必要に迫られて……」
積み上げた荷物の上に肘を付き、汗を拭きながら行商人の男が話しだす。
「お兄さん、休暇中ですか?ご家族に会いに?あるいは恋人?」
「これから騎士団要塞に戻るところだ」
ジェイスがもう用は済んだだろうと部屋を出ようとすると、行商人の男がその腕を掴んだ。
「これはちょっと値の張る女性用の装飾品です。もし残してきている奥さんや恋人がおられましたら、ちょうどぴったりの物がありますよ?」
男が懐から高価な装飾品が入った包みを取り出した。
助けてくれた人間を相手に商売するとは全く逞しい男だと、ジェイスは苦笑したが、並べられた品物には目を奪われた。
一年一緒に暮らしたローゼに恋人らしい贈り物をしたことがない。
しかも花もドレスもない結婚をして、初夜もしなかった。
ジェイスは黄金の花が描かれた丸いメダルに目を止め、拾い上げた。
メダルには首にかけられるように細い金の鎖がついている。
すかさず男が説明を始める。
「それは幸運の花です。魔の森に咲く花で、幸運の実がなる前に咲く花ではないかと言い伝えられているのです。
というのも、幸運の実とは不思議なもので、探している時には決して見つかりません。
他の魔素材を探している時に、稀に見つかるのですが、花を見た者はいないと言われております。
それを有名な絵師が想像で絵本に描き、この絵柄は有名になりました。
幻の花という言葉の響きも女性に人気の秘密です」
幸運の刺繍を売るローゼにぴったりなものに思え、ジェイスはそれを購入することに決めた。
「お安くしますよ」
行商人は愛想よく、少々高めの値段を提示した。
無一文だったジェイスは騎士になり、それなりに懐も潤っている。
正式にローゼはジェイスの家族になった。
第十五騎士団に依頼すれば手紙も贈り物も届けてもらえるはずだ。
ジェイスは購入したメダルを大切に懐におさめた。
――
フォスター家の執務室に呼び出されたレアナは、震えながらケビンの前に立っていた。
「ジェイスの騎士階級が父上の階級よりも高くなった。臨時の手当てまで入ってきた」
ケビンは第十五騎士団によって届けられた書類をレアナの前に放り投げた。
「こんな物が届いた」
机に投げ出された書類には国章が刻まれている。
その文面に目を走らせると、レアナはがたがたと震え出した。
「こ、これは……この方は?……一体、いつ」
それは、フォスター家の長男ジェイスの結婚証明書だった。
貴族が結婚すれば、その当主のもとに証明書が送られる。
妻の欄には『ローゼ・バーデン』と記載があった。
レアナはその名前を食い入るように見つめ、声に出さず唇を動かしその名前を呼んだ。
「今回の任務を終えたその足で、この女と結婚しにいったらしいな。日付は数日前だ。
そろそろザウリにジェイスが戻ってくる。お前の体では、ジェイスを引き止めることは難しかったようだ。
万が一、あいつが騎士を辞めるなどと言いだしたらこの家は終わりだ。あるいはこの女にそそのかされて当主の座を譲れと言い出すかもしれない。
何か、ジェイスの弱みを握る必要がある。だいたいこの女、何者なのだ。お前は何も知らないのか!あいつの女だったのだろう!」
当たり散らすようにケビンは怒鳴りつけた。
「何も持たない女性だと聞いています……。大切にしたい女性だと」
「はっ!そんな女がいながらお前を夜通し抱いたのだから、その程度のものだろう」
「あれは……薬のせいです。町の占い師から買った媚薬を使って、彼を無理やりあんな状態に……」
外で話を聞いていたドリーンがふらりと部屋に入ってきた。
ケビンの横に立ち、落ち着いた声で話しかける。
「大丈夫よ、ケビン。あなたの地位は揺るがない。弱みはもう握っているじゃない。このローゼという女……もうフォスター家の家族同然よ。うちに呼んで世話をしてやればどうかしら?十分人質になるでしょう?
あるいは、あの夜のことをこの新妻に教えてやってもいいんじゃない?
まさか、レアナとあんなことをした後に、結婚を承諾する女はいないでしょう。きっとジェイスはこの女にレアナと関係をもったことを言わずに結婚したのよ。
十分脅しの材料になるわ。ねぇ、レアナ……ジェイスに聞いてみてよ。この女は、あなたと夜通し交わった事を知っているのかと……」
ドリーンは怯えた様子のレアナを冷やかに眺め、憐れむように言った。
「それにしても、滑稽ね。ジェイスの子供欲しさに、私たちの駒になっているふりまでして媚薬を使って誘惑したのに、まんまと外の女に奪われるとはね。レアナ、あなたはとっくにジェイスの愛を失っていたのよ。
でもあの男は情に流されやすい、夫にそっくりな面もある。
あと一回だけ機会をあげるわ。ジェイスの子供を身ごもるか、あるいは弱みを握りなさい。
もし次で身ごもらなければ、気に入らないけど、あなたに息子の子を産んでもらわなければ」
子供が出来たとしても、この姑に全てを管理され、支配されることになるのだ。
レアナは身震いした。生まれたばかりの子供を人質に、騎士になったジェイスからお金を絞り出そうと考えている、この卑劣な二人とレアナは既に共犯なのだ。
ケビンはドリーンが発言し始めると先ほどの苛立ちが嘘のように静まり、にやにやとして椅子にふんぞり返った。
困った問題は、母親がなんとかしてくれると信じて疑っていない。
ケビンにはもう騎士になり戦場に出るなど無理だった。
守られる立場から離れたことがないケビンには、騎士団の現実は恐ろしいものだった。
ドリーンもいなければ父も、背中を見せてくれる兄もいなかった。
突然外に放り出され、厳しい訓練と怒鳴られる日々が始まり、さらに戦闘が始まれば地に足をつけていないケビンは逃げ出すしかなかった。
父親から引き継いだ貴族の名にすがり、国の保護と援助を受けるため、ジェイスを国に差し出すしかないのだ。
「最後の機会をください」
レアナは床に跪いた。視線はケビンに向ける。
「私は、旦那様を選びました。ここを出て生きていける自信がなかったからです。私はジェイスを裏切り、旦那様と生きることに決めました。
あなたの妻として、そしてこの家のため、どんな卑劣な手を使ってでも、ジェイスの弱みを握り、私達の駒にしてみせます」
道は完全に分かれてしまった。ジェイスは新しい女性を選び、騎士として輝かしい道を歩み始めた。
レアナはこの卑劣な親子と生きていく道を選んだのだ。ならばその道を行くしかない。
ドリーンは少し驚いたような表情をしたが、やがて満足そうな笑みを浮かべた。
夫が先に愛人に息子を生ませた時、ドリーンもまたその道を選んだ。
ジェイスの母親を母屋に入れることは決して許さなかった。
悪臭の漂う農園の厩舎横に小屋を建て、そこに住まわせた。
ジェイスはそこから教育を受けに母屋にやってきて、一日の大半を父親の傍で過ごした。
愛人の立場であるジェイスの母が息子に会えるのは夜の短い間だけ。
可愛い盛りの息子を出来る限り引き離してやったのだ。
夫が通うことは止められなかった。
憎しみは募り、見えない嫌がらせを重ね、ジェイスの母親が死んだときにはうれしくてたまらなかった。
レアナが戻れない道を覚悟したのなら、レアナもどんなことでもやるだろう。
自分の立場を守るためならば。
「ジェイスは情を捨てられない。覚悟があるなら、痛みを受けてもらわなければ」
ドリーンの冷酷な声に、レアナはもう震えなかった。
教えを乞うようにゆっくり頭を下げた。
翌日、ザウリの騎士団拠点に戻ったジェイスは、足取り重く、フォスター家の屋敷に向かった。
本当は寄りたくもないが、家の財政状況などを確認しておかなければならない。
ジェイスを出迎えたものはいなかった。
険しい表情で執務室に足を運んだジェイスは、アルマンの手を借りて、積まれた書類に目を通した。
その時、扉が鳴り、見慣れない侍女が顔を覗かせた。
「あ、あの……薬の場所を聞いてくるように言われて……その、私はここに来たばかりで……」
それは農園から急遽連れてこられたエレだった。
女主人のドリーンに薬の在処は執務室で聞くようにとだけ言われ、初めてこの部屋にやってきたエレは、ジェイスやアルマンの名前すら知らず、不安そうに戸口に立っている。
書類の陰にいたアルマンがすぐに前に出て対応しようとするのをジェイスが止めた。
「怪我人がいるのか?」
エレは小さく頷いた。
ケビンが癇癪を起して使用人に鞭を振るったのかもしれないとジェイスは考えた。
どこにいるのかと問いかけたジェイスは、エレの返答に絶句した。
すぐに薬箱を手にするとエレに案内をさせ走り出す。
部屋は日当たりの悪い北の角部屋だった。
薄暗い室内の中央に、寝台が置かれ、怪我人がうつ伏せになっている。
周囲には血に染まったシーツや包帯が投げ出されたままだった。
「出血が……止まらなくて……」
エレは、怪我をした高貴な女性の世話をするように命じられ、困り果てていた。
「レアナ、どうしてこんな?!」
ジェイスはぐったりと横たわるレアナに駆け寄った。
汗に濡れ、枕に額を押し付けていたレアナは顔を横に向けた。
「ジェイス……私、あなたに謝らないと……。ごめんなさい……。あんなことしたくなかったの。でも、どうしても断れなくて……。今度もまたあなたに媚薬を使えと命じられたのだけど……」
媚薬を使ったのはレアナの本位ではなかったのだとジェイスは悟った。
「断ったのだな?それで鞭を受けるようなことに?」
媚薬を使ってジェイスを誘惑したのはケビンの命令で、レアナには逆らえなかったのだ。
ケビンの横暴ぶりに腹を立て、怒鳴りにいこうとするジェイスをレアナが袖を掴んで止めた。
「それだけじゃないの……。あなたの結婚証明書が届いて……。私がちゃんと誘惑出来ていなかったと怒られたの。夫は不安なのよ。あなたがこの家から離れてしまいそうで。
私はあなたではなく、ケビンを選んだ。だから、これは当然なの。
彼に怒ったりしないで。ジェイス……この間の話していた人でしょう?ご結婚、おめでとう。
その人にこの間の私達のことは言わないようにしてね。私も後悔しているの。命じられたこととはいえ、夫がいるのに他の男性を誘惑しようなんて、どうかしていたわ。だから、どうかお願いよ。誰にも言わないで。
本当にごめんなさい……。こんなことになるなら、ちゃんと断るべきだった」
ジェイスはレアナの傷の具合を確かめた。それほどひどい傷ではないが、高貴な生まれ育ちの女性には耐えがたい痛みだろうと思われた。
「手当をしよう。少ししみるかもしれない」
抱えてきた薬箱を開け、ジェイスは手際よくレアナの傷の手当てを始めた。
「騎士団の治癒師に頼めば早いが……」
「夫に鞭を打たれたなんてとても外には言えません。どうか誰にも言わないで」
レアナの言葉はもっともだった。
「ジェイス……私が死んでも気にしてはだめよ。幸せになってね」
レアナはジェイスが一度は愛し、守ろうと思った女性だ。この間の媚薬の件では、許せない想いも抱いたが、ケビンの妻であり、ドリーンの圧力もあってはか弱い女性の身で抗うことは難しかったのだろうとジェイスは理解した。
鞭を振るうと脅され、レアナに拒否することはできなかったのだ。
「レアナ……君を守れないことを申し訳なく思っている。出来ることは少ないが、何かあれば相談してくれ」
ジェイスはレアナの手をそっと握った。
「角部屋が空いてますよ。どうぞお兄さん」
若い店主に鍵を渡され、ジェイスは部屋に上がると担いできた荷物を下ろした。
ポケットを探り、ハンカチを取り出す。
四隅に刺繍が施され、その淵にも金色の模様が入っている。
その刺繍を指でこすりながら、ジェイスはローゼのことを考えた。
思い出すのはローゼのどこか寂しそうな微笑みばかりだ。
レアナとの過ちを告白もせず、無理やり繋ぎとめるように結婚してしまった。
さらに、自分の心のやましさから、初夜すら過ごしてやらなかった。
後悔ばかりが胸に残っていた。
ジェイスはハンカチをポケットに戻し部屋を出た。
階段を大きな荷物を抱えた行商人風の男があがってくる。
道を空けようと脇に避けたジェイスは、一階に積み上げられた荷物を目にして振り返った。
「手伝うか?」
ジェイスは国章の入った騎士の外套を身に着けている。
大きな鞄を抱える男は飛びつくようにジェイスに助けを求めた。
「お願いします!」
国の役人であれば安心して頼れる。
ジェイスは男が一つ運ぶ間に三往復し、あっという間に荷物を部屋に運び込んだ。
「魔の森が物騒になって祝い事がいろいろ中止されてしまって、華やかなものがあまり売れないのですよ。女性物の服や贈り物、ちょっとしたお菓子なんかの売れ行きも悪く、東に売りにいくことにしたのですが、ここから雪道になると聞いて馬車を点検に出しました。おかげで荷物を全部下ろす必要に迫られて……」
積み上げた荷物の上に肘を付き、汗を拭きながら行商人の男が話しだす。
「お兄さん、休暇中ですか?ご家族に会いに?あるいは恋人?」
「これから騎士団要塞に戻るところだ」
ジェイスがもう用は済んだだろうと部屋を出ようとすると、行商人の男がその腕を掴んだ。
「これはちょっと値の張る女性用の装飾品です。もし残してきている奥さんや恋人がおられましたら、ちょうどぴったりの物がありますよ?」
男が懐から高価な装飾品が入った包みを取り出した。
助けてくれた人間を相手に商売するとは全く逞しい男だと、ジェイスは苦笑したが、並べられた品物には目を奪われた。
一年一緒に暮らしたローゼに恋人らしい贈り物をしたことがない。
しかも花もドレスもない結婚をして、初夜もしなかった。
ジェイスは黄金の花が描かれた丸いメダルに目を止め、拾い上げた。
メダルには首にかけられるように細い金の鎖がついている。
すかさず男が説明を始める。
「それは幸運の花です。魔の森に咲く花で、幸運の実がなる前に咲く花ではないかと言い伝えられているのです。
というのも、幸運の実とは不思議なもので、探している時には決して見つかりません。
他の魔素材を探している時に、稀に見つかるのですが、花を見た者はいないと言われております。
それを有名な絵師が想像で絵本に描き、この絵柄は有名になりました。
幻の花という言葉の響きも女性に人気の秘密です」
幸運の刺繍を売るローゼにぴったりなものに思え、ジェイスはそれを購入することに決めた。
「お安くしますよ」
行商人は愛想よく、少々高めの値段を提示した。
無一文だったジェイスは騎士になり、それなりに懐も潤っている。
正式にローゼはジェイスの家族になった。
第十五騎士団に依頼すれば手紙も贈り物も届けてもらえるはずだ。
ジェイスは購入したメダルを大切に懐におさめた。
――
フォスター家の執務室に呼び出されたレアナは、震えながらケビンの前に立っていた。
「ジェイスの騎士階級が父上の階級よりも高くなった。臨時の手当てまで入ってきた」
ケビンは第十五騎士団によって届けられた書類をレアナの前に放り投げた。
「こんな物が届いた」
机に投げ出された書類には国章が刻まれている。
その文面に目を走らせると、レアナはがたがたと震え出した。
「こ、これは……この方は?……一体、いつ」
それは、フォスター家の長男ジェイスの結婚証明書だった。
貴族が結婚すれば、その当主のもとに証明書が送られる。
妻の欄には『ローゼ・バーデン』と記載があった。
レアナはその名前を食い入るように見つめ、声に出さず唇を動かしその名前を呼んだ。
「今回の任務を終えたその足で、この女と結婚しにいったらしいな。日付は数日前だ。
そろそろザウリにジェイスが戻ってくる。お前の体では、ジェイスを引き止めることは難しかったようだ。
万が一、あいつが騎士を辞めるなどと言いだしたらこの家は終わりだ。あるいはこの女にそそのかされて当主の座を譲れと言い出すかもしれない。
何か、ジェイスの弱みを握る必要がある。だいたいこの女、何者なのだ。お前は何も知らないのか!あいつの女だったのだろう!」
当たり散らすようにケビンは怒鳴りつけた。
「何も持たない女性だと聞いています……。大切にしたい女性だと」
「はっ!そんな女がいながらお前を夜通し抱いたのだから、その程度のものだろう」
「あれは……薬のせいです。町の占い師から買った媚薬を使って、彼を無理やりあんな状態に……」
外で話を聞いていたドリーンがふらりと部屋に入ってきた。
ケビンの横に立ち、落ち着いた声で話しかける。
「大丈夫よ、ケビン。あなたの地位は揺るがない。弱みはもう握っているじゃない。このローゼという女……もうフォスター家の家族同然よ。うちに呼んで世話をしてやればどうかしら?十分人質になるでしょう?
あるいは、あの夜のことをこの新妻に教えてやってもいいんじゃない?
まさか、レアナとあんなことをした後に、結婚を承諾する女はいないでしょう。きっとジェイスはこの女にレアナと関係をもったことを言わずに結婚したのよ。
十分脅しの材料になるわ。ねぇ、レアナ……ジェイスに聞いてみてよ。この女は、あなたと夜通し交わった事を知っているのかと……」
ドリーンは怯えた様子のレアナを冷やかに眺め、憐れむように言った。
「それにしても、滑稽ね。ジェイスの子供欲しさに、私たちの駒になっているふりまでして媚薬を使って誘惑したのに、まんまと外の女に奪われるとはね。レアナ、あなたはとっくにジェイスの愛を失っていたのよ。
でもあの男は情に流されやすい、夫にそっくりな面もある。
あと一回だけ機会をあげるわ。ジェイスの子供を身ごもるか、あるいは弱みを握りなさい。
もし次で身ごもらなければ、気に入らないけど、あなたに息子の子を産んでもらわなければ」
子供が出来たとしても、この姑に全てを管理され、支配されることになるのだ。
レアナは身震いした。生まれたばかりの子供を人質に、騎士になったジェイスからお金を絞り出そうと考えている、この卑劣な二人とレアナは既に共犯なのだ。
ケビンはドリーンが発言し始めると先ほどの苛立ちが嘘のように静まり、にやにやとして椅子にふんぞり返った。
困った問題は、母親がなんとかしてくれると信じて疑っていない。
ケビンにはもう騎士になり戦場に出るなど無理だった。
守られる立場から離れたことがないケビンには、騎士団の現実は恐ろしいものだった。
ドリーンもいなければ父も、背中を見せてくれる兄もいなかった。
突然外に放り出され、厳しい訓練と怒鳴られる日々が始まり、さらに戦闘が始まれば地に足をつけていないケビンは逃げ出すしかなかった。
父親から引き継いだ貴族の名にすがり、国の保護と援助を受けるため、ジェイスを国に差し出すしかないのだ。
「最後の機会をください」
レアナは床に跪いた。視線はケビンに向ける。
「私は、旦那様を選びました。ここを出て生きていける自信がなかったからです。私はジェイスを裏切り、旦那様と生きることに決めました。
あなたの妻として、そしてこの家のため、どんな卑劣な手を使ってでも、ジェイスの弱みを握り、私達の駒にしてみせます」
道は完全に分かれてしまった。ジェイスは新しい女性を選び、騎士として輝かしい道を歩み始めた。
レアナはこの卑劣な親子と生きていく道を選んだのだ。ならばその道を行くしかない。
ドリーンは少し驚いたような表情をしたが、やがて満足そうな笑みを浮かべた。
夫が先に愛人に息子を生ませた時、ドリーンもまたその道を選んだ。
ジェイスの母親を母屋に入れることは決して許さなかった。
悪臭の漂う農園の厩舎横に小屋を建て、そこに住まわせた。
ジェイスはそこから教育を受けに母屋にやってきて、一日の大半を父親の傍で過ごした。
愛人の立場であるジェイスの母が息子に会えるのは夜の短い間だけ。
可愛い盛りの息子を出来る限り引き離してやったのだ。
夫が通うことは止められなかった。
憎しみは募り、見えない嫌がらせを重ね、ジェイスの母親が死んだときにはうれしくてたまらなかった。
レアナが戻れない道を覚悟したのなら、レアナもどんなことでもやるだろう。
自分の立場を守るためならば。
「ジェイスは情を捨てられない。覚悟があるなら、痛みを受けてもらわなければ」
ドリーンの冷酷な声に、レアナはもう震えなかった。
教えを乞うようにゆっくり頭を下げた。
翌日、ザウリの騎士団拠点に戻ったジェイスは、足取り重く、フォスター家の屋敷に向かった。
本当は寄りたくもないが、家の財政状況などを確認しておかなければならない。
ジェイスを出迎えたものはいなかった。
険しい表情で執務室に足を運んだジェイスは、アルマンの手を借りて、積まれた書類に目を通した。
その時、扉が鳴り、見慣れない侍女が顔を覗かせた。
「あ、あの……薬の場所を聞いてくるように言われて……その、私はここに来たばかりで……」
それは農園から急遽連れてこられたエレだった。
女主人のドリーンに薬の在処は執務室で聞くようにとだけ言われ、初めてこの部屋にやってきたエレは、ジェイスやアルマンの名前すら知らず、不安そうに戸口に立っている。
書類の陰にいたアルマンがすぐに前に出て対応しようとするのをジェイスが止めた。
「怪我人がいるのか?」
エレは小さく頷いた。
ケビンが癇癪を起して使用人に鞭を振るったのかもしれないとジェイスは考えた。
どこにいるのかと問いかけたジェイスは、エレの返答に絶句した。
すぐに薬箱を手にするとエレに案内をさせ走り出す。
部屋は日当たりの悪い北の角部屋だった。
薄暗い室内の中央に、寝台が置かれ、怪我人がうつ伏せになっている。
周囲には血に染まったシーツや包帯が投げ出されたままだった。
「出血が……止まらなくて……」
エレは、怪我をした高貴な女性の世話をするように命じられ、困り果てていた。
「レアナ、どうしてこんな?!」
ジェイスはぐったりと横たわるレアナに駆け寄った。
汗に濡れ、枕に額を押し付けていたレアナは顔を横に向けた。
「ジェイス……私、あなたに謝らないと……。ごめんなさい……。あんなことしたくなかったの。でも、どうしても断れなくて……。今度もまたあなたに媚薬を使えと命じられたのだけど……」
媚薬を使ったのはレアナの本位ではなかったのだとジェイスは悟った。
「断ったのだな?それで鞭を受けるようなことに?」
媚薬を使ってジェイスを誘惑したのはケビンの命令で、レアナには逆らえなかったのだ。
ケビンの横暴ぶりに腹を立て、怒鳴りにいこうとするジェイスをレアナが袖を掴んで止めた。
「それだけじゃないの……。あなたの結婚証明書が届いて……。私がちゃんと誘惑出来ていなかったと怒られたの。夫は不安なのよ。あなたがこの家から離れてしまいそうで。
私はあなたではなく、ケビンを選んだ。だから、これは当然なの。
彼に怒ったりしないで。ジェイス……この間の話していた人でしょう?ご結婚、おめでとう。
その人にこの間の私達のことは言わないようにしてね。私も後悔しているの。命じられたこととはいえ、夫がいるのに他の男性を誘惑しようなんて、どうかしていたわ。だから、どうかお願いよ。誰にも言わないで。
本当にごめんなさい……。こんなことになるなら、ちゃんと断るべきだった」
ジェイスはレアナの傷の具合を確かめた。それほどひどい傷ではないが、高貴な生まれ育ちの女性には耐えがたい痛みだろうと思われた。
「手当をしよう。少ししみるかもしれない」
抱えてきた薬箱を開け、ジェイスは手際よくレアナの傷の手当てを始めた。
「騎士団の治癒師に頼めば早いが……」
「夫に鞭を打たれたなんてとても外には言えません。どうか誰にも言わないで」
レアナの言葉はもっともだった。
「ジェイス……私が死んでも気にしてはだめよ。幸せになってね」
レアナはジェイスが一度は愛し、守ろうと思った女性だ。この間の媚薬の件では、許せない想いも抱いたが、ケビンの妻であり、ドリーンの圧力もあってはか弱い女性の身で抗うことは難しかったのだろうとジェイスは理解した。
鞭を振るうと脅され、レアナに拒否することはできなかったのだ。
「レアナ……君を守れないことを申し訳なく思っている。出来ることは少ないが、何かあれば相談してくれ」
ジェイスはレアナの手をそっと握った。
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イラスト:日室千種様(@ChiguHimu)
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