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65.囚われ人と世話人
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家の前には小さいが庭があり、簡易厩舎が建っている。
村に続く道と庭を繋ぐ境目には、一応垣根があり、アーチ状の細い鉄の門もついていた。
ゼインが来る前は、家と外の境目もわからないほど雑草で覆われていたが、今は敷地内だとわかるほどには整えられている。
そんな庭の垣根と、門から丸見えの村に続く細道の両脇に、上半身裸のラドン騎士団の男達がひしめいていた。
全員筋骨隆々のごつい体つきで、戦闘訓練をしているのか、それとも冬支度のために植木の手入れをしていたのかわからないが、全身から湯気を出さんばかりに汗をかき、剣や棒、あるいは縄などを手にしている。
「ゼイン様?どうされましたか?」
血相を変え、飛び出してきたゼインに気づき、半裸の男達がわらわら寄ってくる。
先頭のニルドに向かって片手を突き出し、ゼインはもう一方の手で口元を押さえた。
聖騎士団は美形ぞろいで、ここまで野性味あふれる男達は多くない。
「上を脱ぐな。見苦しい。それより、アルノを探しに行く」
「アルノですか?洞ですか?」
「あそこは昨日も見た。彼女はいなかったが、もう一度行ってみる必要があるだろう」
ゼインは苛々と森に向かおうとしたが、ぴたりと足を止めた。
くるりとニルドを振り返る。
「他に、こ、心当たりはあるか?」
見たくもない男達の裸を前に、ゼインはアルノの甘く柔らかな体を思い出した。
男を抱きたいと思ったことは一度もない。
クシールとは本当に遊びだったし、昔からの関係であったから、欲求不満の解消に都合が良かっただけだ。
仕える契約師を選べるとしたら、女性が良いし、アルノ以外はやはりもう考えられない。
驕っていたのだとゼインは思った。
アルノが淫らなことが好きだから、自分の技術で骨抜きに出来ていると過信していた。
アルノは戻ってきたが、以前の関係にはもう戻れない。
それはもう認めるしかないだろうとゼインは覚悟を決めた。
ニルドは戦時中でも見たことがないほど追い込まれた様子のゼインに、怯えたように目を泳がせた。
体は大きくても、ゼインより身分は低いし、教会を敵に回してここから追い出されたくはない。
「まぁ、あるにはありますよ。ですけど……」
大きく息を吸い込み、ゼインは潔く直角に頭を下げた。
「頼む。アルノを一緒に探してくれ」
その後頭部を見て、ニルドはさらに怯えたように一歩下がった。
「さ、探しますが……見つけられなくても、怒ったりしないでくださいね……」
ゼインは顔をあげ、ゼインとニルドのやりとりを唖然と見ている他の騎士達にも、一緒に探してほしいと頭を下げた。
岩場の陰で休んでいたアルノは、斜面の下から登ってくる黒い人影に気づき、地面に腹ばいになって目を凝らした。
上半身裸の男達がわらわらとごつごつした斜面を登ってくる。
その野性味あふれる男達の姿に、さすがのアルノも顔をしかめて、後ろを見た。
そこはロタ村を見下ろす斜面から少し登ったところにある岩場で、ニルドとアルノしか知らない秘密の場所だった。
密かな隠れ場所として、師匠や大人達にばれないように、長居することなく慎重に使って来たのだ。
「ニルドったら、ここをばらすなんて、最低!裏切り者っ」
鋭く呟き、アルノは岩場を登っていく。
岩陰に隠れ、なんとか村を見下ろす斜面の方に少しずつ移動する。
「アルノ―!アルノ!」
馬鹿でかいニルドの声が容赦なく迫ってくる。
大声で「裏切り者!」と怒鳴ってやりたいところだったが、まだ見つかりたくはない。
アルノは素早く地を這うように進み、ロタ村を見下ろす斜面のところまでたどり着いた。
木立のすぐ隣を上半身裸の逞しい男達が登っていく。
まだ葉を落としていない茂みの陰を移動し、なんとか男達をやり過ごすと、滑り台のように斜面をお尻を使って下り始める。
無事にロタ村の近くまでたどり着いたが、まだ家に帰る気はなかった。
少し考え、アルノはいつもの洞に向かった。
落ち葉で覆われた空き地を横切り、斜面の下を覗く。
洞の前に人影はない。
ほっとしてそこから滑り降り、洞の中を覗き込む。
ニルドはまず、この洞の中を探したはずだ。
となれば、一度探した場所には戻ってこない可能性が高い。
しばらくここに潜んで、夜になればまた移動すればいいだろうとアルノは考えた。
「あるいは、新しい隠れ家を見つけてもいいかもね」
呟きながら、ひんやりとした洞の中に足を踏み入れる。
階段のように張り出した根に足を置こうとした途端、何かに足をとられ、体が滑り落ちた。
衝撃が来るかと思ったが、思いがけず柔らかな感触がアルノを抱き留めた。
「え?」
眩いばかりの美貌がアルノを見下ろしている。
「ユアンジール様……ど、どうしてここに?」
そこはユアンジールの腕の中だった。
間近に迫る美貌に、すっかり緊張し、声は小さくなり体は固くなる。
「クシール殿に連絡を受け、会いに来た。とはいえ、君の気持を無視するようなことはしない。帰りたくなくなったのか?」
「そ、それは……」
失敗したとアルノは考えた。
森に入ってしまえば、逃げ切れると思っていたが、クシールにユアンジールを呼ばれてしまったのだ。
大神官とはいえ、一人の契約師を連れ戻すために、他国の王まで呼び出すとは、なんて手段を選ばない男だろうとアルノは忌々しく思った。
もしかすると、このままアーダン国に連れ戻されることになるのだろうかとアルノは心配になり、ユアンジールの顔色を窺う。
計画的なことではなく、なんとなく帰りたくなくなってしまっただけだった。
ゼインからは完璧に逃げられると思っていたが、不思議なことに、ニルドはマカの実を見つけられないのに、アルノの居場所は簡単に見つけてしまうのだ。
幼いころからの遊び相手であるため、精霊たちが気をきかせてニルドにアルノの居場所を教えているのかもしれない。
全く余計なお世話だとアルノは精霊たちに対しても内心で悪態をついた。
強姦魔のニルドを助けるなんて、あんまりだと思うが、精霊は慈悲深い存在ではないのだから、嫌がらせということも考えられる。
まだ捕まりたくないアルノは、なんとかこのまま見過ごしてもらおうと、ユアンジールを哀れっぽく見つめる。
「この森を出たくはありません……」
ユアンジールはもったいぶった様子で、わざとらしい同情的な表情を作った。
「そうか、わかった。では、我が国に遊びに来るだけというのはどうだ?」
「え?」
抱き上げていたアルノをそっと苔の上に下ろし、仰向けに寝かせると、ユアンジールはその上に四つん這いになった。
洞の中とはいえ、天井部分に空いた隙間から外の光が差し込んでいるし、洞の入り口に扉があるわけでもない。
加えて日中であるため、その輝く美貌は洞の中でも、くっきりと見えている。
「き、きれいすぎて……」
震えながら、アルノは両手で顔を覆い、指の間からユアンジールの眩い美貌を見上げた。
鑑賞するだけならばそれで十分な距離だったが、ユアンジールはさらに体を低くし、唇が触れ合う寸前まで距離を縮めた。
「ゆ、ユアンジールさま?私は……」
ユアンジールの手が優しくアルノの体を腰から肩、それから頬までなぞった。
それから首筋に移動し、胸元にゆっくり近づいていく。
「あ……待ってください。ユアンジール様、今はまだ!」
言いかけて、アルノはユアンジールを拒むだけの強い理由がないことに気が付いた。
ゼインとはもう結婚しているわけではない。
アーダン国に渡るときに、結婚は契約だったことにされてしまい、戻って来てからも、王太子の求婚に応じて一度は国を出た身であり、やっぱり本当の結婚だったとすれば一国の王太子に嘘をついたことになってしまうため、既婚者に戻ることは出来なかった。
つまり、ゼインとは曖昧な関係のままなのだ。世話人と契約師であるから契約上の夫婦と言えなくもないが、そうなると心の結びつきまでは必要ないだろうし、とはいえ、互いに自由に他の人と寝ても良いと取り決めたわけではない。
アルノはクシールとゼインの関係を許したが、ゼインの方がアルノが誰かと関係することを許しているのかどうかはわからない。
これは浮気になるのだろうかと、アルノが迷っている間に、ユアンジールの手がアルノの豊かな胸に触れた。
優しくその形をなぞり、それからまた腰に下りて行く。
スカートを手繰り寄せ、腿に触れる。
「ゆ、ユアンジール様、駄目です。私はもう……子供がいますし、それに、ええと、待って、お願いです!」
アーダン国の王太子の求めを断るなんて、贅沢な話だと思うが、やはり迷いは消えない。
ゼインは子供の父親だし、やはり母親が父親以外の男とやってしまってはいけない気がする。
もうそんな常識はどうでもいい事だとわかっているのに、どうしても子供時代に見た、村の光景から学んだ常識に囚われてしまう。
「ゆ、ユアンジール様!」
その時、洞の外から大きな人影が滑るように飛び込んできた。
「アルノ!」
一カ月ぶりのゼインの声に、アルノは驚きの顔を向ける。
ユアンジールは素早くアルノから離れ、壁際に避けた。
アルノを抱き上げ自分の後ろに庇うと、ゼインはユアンジールに向かって頭を下げた。
「ユアンジール様、我が国の契約師を探し出して下さり、ありがとうございました」
ユアンジールは優美な微笑を浮かべ、腰を屈めて二人の横をすり抜けた。
「残念だな。また会おう、アルノ」
ユアンジールが洞から出て行くと、ゼインは呆然としているアルノを助け起こし、その体を強く抱きしめた。
「アルノ……ずっと探していた」
アルノは、観念して体の力を抜いた。
クシールの小言や、不機嫌なゼインの顔に数日耐えなければならない憂鬱な事態を覚悟し、仕事をさぼっていたわけではないと言い訳をするように、洞の奥を指さした。
「宣誓液なら……そこに出来ているの」
大きな壺の陰に目立たないように置かれたかごには、布が被せられている。
中には瓶がびっしり入っているが、それでも怒られるのだろうと憂鬱な顔をあげたアルノは、警戒するように眉間に皺を寄せた。
ゼインは不機嫌な顔などしていなかった。まるで花を愛でるかのように優しい眼差しでじっとアルノを見下ろしている。
怒られると思っていたアルノは、さらに警戒し、眉間の皺を深くした。
その皺を、ゼインが指で優しく押して撫でた。
まるで、怒らないでくれと懇願するような仕草に、アルノは思わず噴き出した。
「皺が気に入らない?」
ゼインは首を横に振り、顔を寄せてアルノの頬に唇を押し付けた。
「帰りたくなかったのか?」
素直に答えても、今なら許してくれそうだと考え、アルノはなるべく控えめに頷いた。
思った通り、ゼインは怒らなかった。
ただ驚くほど優しく、アルノを抱きしめただけだった。
「ニルドと……仲良くするべきだな。彼が協力してくれたおかげだ。それから、ユアンジール様にも感謝しなければ……。君を失わずに済んだ」
一体、この残忍な獣にどんな変化が起きたのだろうかと、アルノは疑うようにまた眉間に皺を寄せたが、今度はその皺をなくそうとはせず、ゼインはかごを取り上げ、アルノを連れて外に出た。
ロタ村の家に戻ると、こうなることがわかっていたかのようにクシールが胡散臭い笑みを浮かべて待っていた。
準備の良いことに、窓辺の机には、新しい紙が置かれていた。
一カ月以上逃げ回っていたアルノは、さすがに我儘も言えず、宣誓液の瓶を定位置に置くと、椅子に座ってペンをとった。
その夜、ペンが紙の上を走る音ばかりがしている室内に、控えめなノックの音が割り込んだ。
ゼインが扉を開けると、そこにはやや緊張した面持ちのニルドが立っており、アルノが見つからなかったと言って頭を下げた。
それから顔をあげ、窓辺にアルノの姿を見つけると、瞬時に怒りの表情になった。
「戻っているじゃないですか!教えてくださいよ!」
怒り出したニルドを、ゼインはじっと見た。
森を駆け回ってきたせいか、さらに汗臭くなり、怒りで湯気まで出そうなほど顔は赤らんでいる。
昔、ニルドのようなごつい男に抱かれたことのあるゼインは、おぞましさに体を震わせ、改めてアルノの専属世話人でいられる幸福を噛みしめた。
ニルドの文句を聞き流し、ゼインは指先を突きつけた。
「服を着ろ。見苦しい」
鼻先でぴしゃりと扉を閉める。
気の毒なニルドのぶつぶつ言う声はすぐに聞こえなくなった。
ほっとしたように椅子に戻ってきたゼインと入れ替わりに、クシールが席を立った。
「私は先に休む」
その口元には謎めいた微笑が浮かんでいる。
胡散臭そうにゼインはクシールを見たが、何も言わなかった。
何かを企んでいたとしても、クシールがそれをゼインに教えるはずがない。
アルノはニルドが来たことにも気づかず、ゼインとニルドのやりとりも、まるで耳に入っていない様子で、一心不乱に契約紙を作っている。
「一番厄介な契約師だ」
忠告するように言葉を残し、クシールは外に出て扉を閉めた。
完全な暗闇の先に、クシール専用の小さな建屋がある。
玄関口のランタンを手に取り、歩きだしながらクシールは密かにほくそ笑んだ。
ニルド達に植木の冬囲いを頼んだついでに、寒さに耐える訓練を兼ね半裸になることを勧めたのはクシールだった。
その行為は、見事にゼインの嫌な思い出を引き出すことに成功したのだ。
アルノを逃せば、新たな契約師に仕えなければならなくなる。ゼインはそれこそ必死にアルノを引き止めようとするはずだ。
愛があろうとなかろうと、クシールには関係なかった。
目的は明確だ。
上質な契約紙を作る契約師と、その存在をこちら側に引き止めておける優秀な専属世話人さえいれば良い。
アルノの契約紙は権力の象徴そのものであり、命も救う。
「今度、ニルド達に上等な酒を差し入れてやらなければならないな」
ひっそりとつぶやきながら、クシールは上機嫌で自分の部屋に戻って行った。
村に続く道と庭を繋ぐ境目には、一応垣根があり、アーチ状の細い鉄の門もついていた。
ゼインが来る前は、家と外の境目もわからないほど雑草で覆われていたが、今は敷地内だとわかるほどには整えられている。
そんな庭の垣根と、門から丸見えの村に続く細道の両脇に、上半身裸のラドン騎士団の男達がひしめいていた。
全員筋骨隆々のごつい体つきで、戦闘訓練をしているのか、それとも冬支度のために植木の手入れをしていたのかわからないが、全身から湯気を出さんばかりに汗をかき、剣や棒、あるいは縄などを手にしている。
「ゼイン様?どうされましたか?」
血相を変え、飛び出してきたゼインに気づき、半裸の男達がわらわら寄ってくる。
先頭のニルドに向かって片手を突き出し、ゼインはもう一方の手で口元を押さえた。
聖騎士団は美形ぞろいで、ここまで野性味あふれる男達は多くない。
「上を脱ぐな。見苦しい。それより、アルノを探しに行く」
「アルノですか?洞ですか?」
「あそこは昨日も見た。彼女はいなかったが、もう一度行ってみる必要があるだろう」
ゼインは苛々と森に向かおうとしたが、ぴたりと足を止めた。
くるりとニルドを振り返る。
「他に、こ、心当たりはあるか?」
見たくもない男達の裸を前に、ゼインはアルノの甘く柔らかな体を思い出した。
男を抱きたいと思ったことは一度もない。
クシールとは本当に遊びだったし、昔からの関係であったから、欲求不満の解消に都合が良かっただけだ。
仕える契約師を選べるとしたら、女性が良いし、アルノ以外はやはりもう考えられない。
驕っていたのだとゼインは思った。
アルノが淫らなことが好きだから、自分の技術で骨抜きに出来ていると過信していた。
アルノは戻ってきたが、以前の関係にはもう戻れない。
それはもう認めるしかないだろうとゼインは覚悟を決めた。
ニルドは戦時中でも見たことがないほど追い込まれた様子のゼインに、怯えたように目を泳がせた。
体は大きくても、ゼインより身分は低いし、教会を敵に回してここから追い出されたくはない。
「まぁ、あるにはありますよ。ですけど……」
大きく息を吸い込み、ゼインは潔く直角に頭を下げた。
「頼む。アルノを一緒に探してくれ」
その後頭部を見て、ニルドはさらに怯えたように一歩下がった。
「さ、探しますが……見つけられなくても、怒ったりしないでくださいね……」
ゼインは顔をあげ、ゼインとニルドのやりとりを唖然と見ている他の騎士達にも、一緒に探してほしいと頭を下げた。
岩場の陰で休んでいたアルノは、斜面の下から登ってくる黒い人影に気づき、地面に腹ばいになって目を凝らした。
上半身裸の男達がわらわらとごつごつした斜面を登ってくる。
その野性味あふれる男達の姿に、さすがのアルノも顔をしかめて、後ろを見た。
そこはロタ村を見下ろす斜面から少し登ったところにある岩場で、ニルドとアルノしか知らない秘密の場所だった。
密かな隠れ場所として、師匠や大人達にばれないように、長居することなく慎重に使って来たのだ。
「ニルドったら、ここをばらすなんて、最低!裏切り者っ」
鋭く呟き、アルノは岩場を登っていく。
岩陰に隠れ、なんとか村を見下ろす斜面の方に少しずつ移動する。
「アルノ―!アルノ!」
馬鹿でかいニルドの声が容赦なく迫ってくる。
大声で「裏切り者!」と怒鳴ってやりたいところだったが、まだ見つかりたくはない。
アルノは素早く地を這うように進み、ロタ村を見下ろす斜面のところまでたどり着いた。
木立のすぐ隣を上半身裸の逞しい男達が登っていく。
まだ葉を落としていない茂みの陰を移動し、なんとか男達をやり過ごすと、滑り台のように斜面をお尻を使って下り始める。
無事にロタ村の近くまでたどり着いたが、まだ家に帰る気はなかった。
少し考え、アルノはいつもの洞に向かった。
落ち葉で覆われた空き地を横切り、斜面の下を覗く。
洞の前に人影はない。
ほっとしてそこから滑り降り、洞の中を覗き込む。
ニルドはまず、この洞の中を探したはずだ。
となれば、一度探した場所には戻ってこない可能性が高い。
しばらくここに潜んで、夜になればまた移動すればいいだろうとアルノは考えた。
「あるいは、新しい隠れ家を見つけてもいいかもね」
呟きながら、ひんやりとした洞の中に足を踏み入れる。
階段のように張り出した根に足を置こうとした途端、何かに足をとられ、体が滑り落ちた。
衝撃が来るかと思ったが、思いがけず柔らかな感触がアルノを抱き留めた。
「え?」
眩いばかりの美貌がアルノを見下ろしている。
「ユアンジール様……ど、どうしてここに?」
そこはユアンジールの腕の中だった。
間近に迫る美貌に、すっかり緊張し、声は小さくなり体は固くなる。
「クシール殿に連絡を受け、会いに来た。とはいえ、君の気持を無視するようなことはしない。帰りたくなくなったのか?」
「そ、それは……」
失敗したとアルノは考えた。
森に入ってしまえば、逃げ切れると思っていたが、クシールにユアンジールを呼ばれてしまったのだ。
大神官とはいえ、一人の契約師を連れ戻すために、他国の王まで呼び出すとは、なんて手段を選ばない男だろうとアルノは忌々しく思った。
もしかすると、このままアーダン国に連れ戻されることになるのだろうかとアルノは心配になり、ユアンジールの顔色を窺う。
計画的なことではなく、なんとなく帰りたくなくなってしまっただけだった。
ゼインからは完璧に逃げられると思っていたが、不思議なことに、ニルドはマカの実を見つけられないのに、アルノの居場所は簡単に見つけてしまうのだ。
幼いころからの遊び相手であるため、精霊たちが気をきかせてニルドにアルノの居場所を教えているのかもしれない。
全く余計なお世話だとアルノは精霊たちに対しても内心で悪態をついた。
強姦魔のニルドを助けるなんて、あんまりだと思うが、精霊は慈悲深い存在ではないのだから、嫌がらせということも考えられる。
まだ捕まりたくないアルノは、なんとかこのまま見過ごしてもらおうと、ユアンジールを哀れっぽく見つめる。
「この森を出たくはありません……」
ユアンジールはもったいぶった様子で、わざとらしい同情的な表情を作った。
「そうか、わかった。では、我が国に遊びに来るだけというのはどうだ?」
「え?」
抱き上げていたアルノをそっと苔の上に下ろし、仰向けに寝かせると、ユアンジールはその上に四つん這いになった。
洞の中とはいえ、天井部分に空いた隙間から外の光が差し込んでいるし、洞の入り口に扉があるわけでもない。
加えて日中であるため、その輝く美貌は洞の中でも、くっきりと見えている。
「き、きれいすぎて……」
震えながら、アルノは両手で顔を覆い、指の間からユアンジールの眩い美貌を見上げた。
鑑賞するだけならばそれで十分な距離だったが、ユアンジールはさらに体を低くし、唇が触れ合う寸前まで距離を縮めた。
「ゆ、ユアンジールさま?私は……」
ユアンジールの手が優しくアルノの体を腰から肩、それから頬までなぞった。
それから首筋に移動し、胸元にゆっくり近づいていく。
「あ……待ってください。ユアンジール様、今はまだ!」
言いかけて、アルノはユアンジールを拒むだけの強い理由がないことに気が付いた。
ゼインとはもう結婚しているわけではない。
アーダン国に渡るときに、結婚は契約だったことにされてしまい、戻って来てからも、王太子の求婚に応じて一度は国を出た身であり、やっぱり本当の結婚だったとすれば一国の王太子に嘘をついたことになってしまうため、既婚者に戻ることは出来なかった。
つまり、ゼインとは曖昧な関係のままなのだ。世話人と契約師であるから契約上の夫婦と言えなくもないが、そうなると心の結びつきまでは必要ないだろうし、とはいえ、互いに自由に他の人と寝ても良いと取り決めたわけではない。
アルノはクシールとゼインの関係を許したが、ゼインの方がアルノが誰かと関係することを許しているのかどうかはわからない。
これは浮気になるのだろうかと、アルノが迷っている間に、ユアンジールの手がアルノの豊かな胸に触れた。
優しくその形をなぞり、それからまた腰に下りて行く。
スカートを手繰り寄せ、腿に触れる。
「ゆ、ユアンジール様、駄目です。私はもう……子供がいますし、それに、ええと、待って、お願いです!」
アーダン国の王太子の求めを断るなんて、贅沢な話だと思うが、やはり迷いは消えない。
ゼインは子供の父親だし、やはり母親が父親以外の男とやってしまってはいけない気がする。
もうそんな常識はどうでもいい事だとわかっているのに、どうしても子供時代に見た、村の光景から学んだ常識に囚われてしまう。
「ゆ、ユアンジール様!」
その時、洞の外から大きな人影が滑るように飛び込んできた。
「アルノ!」
一カ月ぶりのゼインの声に、アルノは驚きの顔を向ける。
ユアンジールは素早くアルノから離れ、壁際に避けた。
アルノを抱き上げ自分の後ろに庇うと、ゼインはユアンジールに向かって頭を下げた。
「ユアンジール様、我が国の契約師を探し出して下さり、ありがとうございました」
ユアンジールは優美な微笑を浮かべ、腰を屈めて二人の横をすり抜けた。
「残念だな。また会おう、アルノ」
ユアンジールが洞から出て行くと、ゼインは呆然としているアルノを助け起こし、その体を強く抱きしめた。
「アルノ……ずっと探していた」
アルノは、観念して体の力を抜いた。
クシールの小言や、不機嫌なゼインの顔に数日耐えなければならない憂鬱な事態を覚悟し、仕事をさぼっていたわけではないと言い訳をするように、洞の奥を指さした。
「宣誓液なら……そこに出来ているの」
大きな壺の陰に目立たないように置かれたかごには、布が被せられている。
中には瓶がびっしり入っているが、それでも怒られるのだろうと憂鬱な顔をあげたアルノは、警戒するように眉間に皺を寄せた。
ゼインは不機嫌な顔などしていなかった。まるで花を愛でるかのように優しい眼差しでじっとアルノを見下ろしている。
怒られると思っていたアルノは、さらに警戒し、眉間の皺を深くした。
その皺を、ゼインが指で優しく押して撫でた。
まるで、怒らないでくれと懇願するような仕草に、アルノは思わず噴き出した。
「皺が気に入らない?」
ゼインは首を横に振り、顔を寄せてアルノの頬に唇を押し付けた。
「帰りたくなかったのか?」
素直に答えても、今なら許してくれそうだと考え、アルノはなるべく控えめに頷いた。
思った通り、ゼインは怒らなかった。
ただ驚くほど優しく、アルノを抱きしめただけだった。
「ニルドと……仲良くするべきだな。彼が協力してくれたおかげだ。それから、ユアンジール様にも感謝しなければ……。君を失わずに済んだ」
一体、この残忍な獣にどんな変化が起きたのだろうかと、アルノは疑うようにまた眉間に皺を寄せたが、今度はその皺をなくそうとはせず、ゼインはかごを取り上げ、アルノを連れて外に出た。
ロタ村の家に戻ると、こうなることがわかっていたかのようにクシールが胡散臭い笑みを浮かべて待っていた。
準備の良いことに、窓辺の机には、新しい紙が置かれていた。
一カ月以上逃げ回っていたアルノは、さすがに我儘も言えず、宣誓液の瓶を定位置に置くと、椅子に座ってペンをとった。
その夜、ペンが紙の上を走る音ばかりがしている室内に、控えめなノックの音が割り込んだ。
ゼインが扉を開けると、そこにはやや緊張した面持ちのニルドが立っており、アルノが見つからなかったと言って頭を下げた。
それから顔をあげ、窓辺にアルノの姿を見つけると、瞬時に怒りの表情になった。
「戻っているじゃないですか!教えてくださいよ!」
怒り出したニルドを、ゼインはじっと見た。
森を駆け回ってきたせいか、さらに汗臭くなり、怒りで湯気まで出そうなほど顔は赤らんでいる。
昔、ニルドのようなごつい男に抱かれたことのあるゼインは、おぞましさに体を震わせ、改めてアルノの専属世話人でいられる幸福を噛みしめた。
ニルドの文句を聞き流し、ゼインは指先を突きつけた。
「服を着ろ。見苦しい」
鼻先でぴしゃりと扉を閉める。
気の毒なニルドのぶつぶつ言う声はすぐに聞こえなくなった。
ほっとしたように椅子に戻ってきたゼインと入れ替わりに、クシールが席を立った。
「私は先に休む」
その口元には謎めいた微笑が浮かんでいる。
胡散臭そうにゼインはクシールを見たが、何も言わなかった。
何かを企んでいたとしても、クシールがそれをゼインに教えるはずがない。
アルノはニルドが来たことにも気づかず、ゼインとニルドのやりとりも、まるで耳に入っていない様子で、一心不乱に契約紙を作っている。
「一番厄介な契約師だ」
忠告するように言葉を残し、クシールは外に出て扉を閉めた。
完全な暗闇の先に、クシール専用の小さな建屋がある。
玄関口のランタンを手に取り、歩きだしながらクシールは密かにほくそ笑んだ。
ニルド達に植木の冬囲いを頼んだついでに、寒さに耐える訓練を兼ね半裸になることを勧めたのはクシールだった。
その行為は、見事にゼインの嫌な思い出を引き出すことに成功したのだ。
アルノを逃せば、新たな契約師に仕えなければならなくなる。ゼインはそれこそ必死にアルノを引き止めようとするはずだ。
愛があろうとなかろうと、クシールには関係なかった。
目的は明確だ。
上質な契約紙を作る契約師と、その存在をこちら側に引き止めておける優秀な専属世話人さえいれば良い。
アルノの契約紙は権力の象徴そのものであり、命も救う。
「今度、ニルド達に上等な酒を差し入れてやらなければならないな」
ひっそりとつぶやきながら、クシールは上機嫌で自分の部屋に戻って行った。
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扉絵は写真ACよりチョコラテさまの作品(写真ID24694748)をお借りしています。
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