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54.話し合いをしたい女
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森から帰宅したアルノは、一日休んですぐに契約紙の作成に入った。
一枚完成させたところで、クレンが城の厨房で作られた食事を持ってやってきた。
食卓テーブルに料理を並べ終えると、クレンはお盆を端に寄せて椅子に座った。
アルノが向かいに座り、食事を始めるのを待って、クレンは城に避難していた人たちの帰宅が始まったとアルノに報告した。
「後片付けが結構大変です。教会も備品を取り払って、怪我人を寝かせるための簡易ベッドを並べたので、その撤去や解体が続いています。あ、お茶を入れます」
椅子を立ち、クレンは台所に行ってお湯を沸かし始めた。
「クレン、皆と話すときと同じようにしてちょうだい」
「で、でも、まだ世話人見習いです」
城で働いている皆の中に居る時は、もうすっかり子供に戻って見えるクレンだが、アルノの前では小さな世話人としての顔を崩さない。
まだ聖職者の道を諦めていないのかと、アルノは頭の中にある「考えなければならない事リスト」にクレンの名前を書き加える。
「カーラは普通に話してくれるのに」
「そ、それは、カーラは世話人になりませんから」
クレンは手際よくお茶を入れ、お盆に乗せて運んでくると、アルノの前に丁寧にカップを置いた。
それを手に取り、アルノは感慨深く目の前のクレンを見つめた。
クレンと同じ歳ぐらいの時を思い出す。
その当時、アルノは師匠に竹鞭で殴られ、怒鳴られ続けていた。
師匠のカトリーナの担当僧侶は滅多に来なかったため、師匠の世話はアルノの仕事だった。
毎日食事を作らないといけなかったし、洗濯も掃除もあった。
もちろん、仕事もしていたため、学校には行かせてもらえなかった。
多少反抗的なところはあったと思うが、楽しいことの全てを我慢させられていたのに、なぜ竹鞭で叩かれなければならなかったのか、いまだにわからない。
当然のことながら、クレンとカーラを竹鞭で叩こうと思ったことは一度もないし、二人ともその当時のアルノよりずっと優秀だ。引き取った時にはもう大人と言っても過言ではないほど精神的に成長していたし、教えることもほとんどなかった。
「カーラは?」
「厨房の仕事をしています。料理が好きなようです」
「勉強は?学校は行けているの?」
クレンは少し驚いたような顔をして、目を数度ぱちくりさせた。
「町の学校はまだ再開していません。それに、自習用の教材は全部お城の本棚にぎっしりあるので、もう教わりに行くこともそれほどないのかもしれません。その……」
「上の学校に行くのでしょう?クシールが紹介出来ると言っていたと思うけど」
クレンは困ったように目を伏せた。
ずっと教会に入り、今すぐにお金を稼ぎたいと主張してきたが、今は少し心境が変わったようだと、アルノはその様子を見て考えた。
「カーラと一緒に、進学してちょうだいね。カーラはクレンがいないと困るでしょう?」
ほっとしたようにクレンが頷いて、顔をあげた。
その真っすぐな眼差しに、アルノのはまた昔を思い出した。
アルノは師匠に顔をあげろと言われても、ふてくされた顔をして、怒った顔しか見せなかった。
当然だ。竹鞭で叩いてくる大人に、懐く子供なんているわけがない。
「そろそろ仕事に戻るから」
仕事の邪魔をしてはいけないと立ち上がり、クレンはお盆を腕に抱え、頭を下げた。
「また来ます。あの、ちゃんと食べてくださいね」
「無理に来なくていいのよ。放っておいてくれても、私は死んだりしないから。それより、カーラのためにも一緒に勉強してあげて」
カーラを理由にしなければ、クレンは子供らしい生活をしようとはしない。
困ったような顔をするかと思ったが、クレンは意外にも顔を赤くして、うれしさを堪えきれないような顔をした。
それは、アルノの知らないクレンの顔だった。
クレンは無事にあちら側の世界に行けたのだとアルノはなんとなく思い、引き出しから新しい紙を取り出した。
契約紙の完成する日がわかっていたかのように、二日後、クシールがノーラ山に戻ってきた。
多忙であるにも関わらず、相変わらず雪まみれになってそりまで引っ張ってきたクシールは、部屋に入るなり、引き出しから完成した契約紙を一枚取り出した。
「悪くないですね」
灯りにかざし、クシールは満足そうにうなずき、他の契約紙の質も確かめた。
「これなら一国の王太子に見せても恥ずかしくありません。
ご存じですか?アーダン国は精霊の国とも言われています。ユアンジール王太子にお願いして、アーダン国の精霊書を見せてもらおうと考えています。
実は、精霊言語の起源は誰も知らないのです。姿も見えない精霊の言葉をなぜ知ることが出来たのか、精霊書の文様や言葉は誰が伝えたのか。誰も知らないのです。
アーダン国に何かそうした話が残されていれば、興味深いと思いませんか?」
上機嫌で完成した契約紙を専用のファイルに丁寧にしまいこむクシールを見て、アルノは乾いてきた唇を舌で舐めた。
契約紙を作っている間に、アルノはようやく夫の浮気問題に対峙する覚悟を決め、まずはクシールに話を聞こうと考えていた。
「クシール」
「何ですか?」
振り返ったクシールは、険しい表情でアルノの横を通り過ぎ、窓辺に近づいた。
窓にはびっしり雪が張り付いている。
「吹雪になったようですね」
窓にはいつの間にか霜が張り付き、その上から雪が積もっていた。
外の鎧戸を閉めてこなければ、窓が割れてしまうかもしれない。
「アルノさんは、三日ほど休んでから森に入りますか?」
「三日?まぁ、そうね……。それぐらいは休もうかな」
話し出す意欲を削がれ、アルノは机に突っ伏して、横を向いた。
台所に置かれたランプをぼんやりと見つめ、憂鬱な溜息を吐き出す。
そんなアルノを見下ろし、クシールは眉をしかめた。
クシールが家に来た時、テーブルには手つかずの食事が半分凍り付いた状態で残っていた。
部屋のあまりの寒さに、クシールは慌てて暖炉に薪を入れ、質の悪い契約紙で火をつけたのだ。
それでもアルノはクシールが来たことに気が付かなかった。
優秀な契約師ではあるが、心配なことも多い。
普通、契約師は冬になれば家にこもり、作り貯めた宣誓液を使って契約紙を作り続けるものだが、アルノは季節に関係なく森に出て行く。
真冬にマカの実を取りに行かせるような厳しい師匠に育てられたため、それが普通だと思っているからだ。
アルノのやり方でうまくいっているのであれば、訂正する必要はないだろうと何も言わずにきたが、さすがにこんな日は、大切な契約師を外に出すのは躊躇われる。
通常は一日か二日の休息を終えて、また森に出ていくが、三日は様子を見た方が良いだろうとクシールは考え、壁にかかっていた外套を取りあげた。
「どこに行くの?」
まだ話を始めたばかりなのにと、アルノが咎めるように問いかける。
「外窓を閉めてきます。今日はここに泊まります。ゼインが来ると思うので、軒先に灯りを下げてきます」
「え?ゼインが来るの?」
嫌そうな顔をしたアルノに、クシールが怪訝な眼差しを向ける。
「夫の帰宅がうれしくないのですか?」
浮気さえしていなければね、と言いたくなったが、アルノは何も言わずに済ませた。
と、その時、裏口の扉が鳴った。
「どうぞ」
簡単にアルノが答える。
扉が開き、外の冷たい風が一気に吹き込んできた。
さっき、クシールが付けたばかりの暖炉の炎が瞬く間に小さくなり、扉が閉まると、また大きくなった。
雪まみれの頭から、水を滴らせたクレンが入ってきて、廊下の途中で足を止めた。
「クレン?どうしたの?」
急いで椅子から立ち上がり、アルノは暖炉の傍に干してあったタオルを取ってクレンの傍に駆け付ける。
「大変なんです。ビリーが浮気して、ハンナが離婚するって言い出して!」
クレンの濡れた髪を拭いてやりながら、アルノは心底どうでも良い話だと顔をしかめた。
ところが、クレンはアルノの腕を掴んだ。
「城の内装が始まっていて、僕たちもお城から来た教育係の人から、もてなしの訓練を受けています。もう時間もなくて、こんな時に従業員同士の仲違いなんて困ります」
雇い主のアルノが口を挟めば、とりあえず問題は先送りに出来る。
そう思って、事態がこれ以上悪化する前に、呼びに来たのだ。
賢く判断したクレンに、アルノは感心したが、少し考えこんだ。
「そんな時に浮気ね……」
時期を選ばず、厄介ごとはやってくる。
人の問題にまで首を突っ込んでいる余力はない。
問題を丸投げしてしまおうとクシールに視線を向けかけ、動きを止める。
「ビリーが浮気して離縁ね。参考になりそうね」
二人に聞こえないように呟くと、アルノはすくっと立ち上がり、外套を取り上げ、袖を通し始めた。
「問題解決に行きましょう!」
今や、浮気や離縁は他人事ではない。
普通の解決策とやらを、見てやろうとアルノは意地悪く考えた。
「アルノさん、夜ですから、ニルドを連れて行ってください。今夜はお城に泊まってくださいね」
クシールがランタンを持って来て、裏口から出て行こうとするアルノに押し付けた。
すぐに近くにいたらしいニルドが、吹雪をものともせず走ってきた。
「アルノ?出かけるのか?」
強姦魔とは思えない清々しい笑顔に、アルノは嘆息し、クレンの腕を引き寄せた。
「お城に行くのよ。ハンナが離縁をするらしいの」
「離縁?!まだ新婚じゃなかったか?」
能天気なニルドの口調に、調子を狂わされそうになりながら、アルノは吹雪の中、ニルドに先導してもらい、クレンと腕を組んで歩きだした。
その背中を、クシールがやはり、気づかわし気に見送っていた。
――
城の厨房は、張り詰めた空気に包まれていた。
完全に怒っているハンナと、気まずい表情のビリーが食堂のテーブルを挟み、向かい合わない席に座っている。
カーラがおろおろとビリーの後ろで二人の様子を見ている。
その周りに他の従業員たちが困ったように立っていた。
彼らの視線が一斉に裏口に向けられる。
クレンと一緒に厨房に入ってきたアルノの姿に、さすがにビリーは青い顔をしたが、ハンナはさらに不機嫌な表情になって、視線を夫に戻した。
アルノはまずカーラに声をかけた。
「カーラ、子供がこんなところに居てはだめよ。クレンと席を外しなさい。ここは私が話を聞くから」
椅子に座って大きく足を組んでいたハンナが、じろりとアルノを睨む。
「なんだか、うれしそうじゃない?アルノ」
「まさか、こんな時に揉め事は止めて欲しくて来たのよ。それで、ビリーが浮気したの?」
「していない!」
むきになって叫んだビリーの言葉に、アルノが驚いた。
「え?してないの?」
ハンナが立ち上がる。
「したのよ!客室で裸の女と抱き合っていたの!」
やはりそういう生々しい話になるのかと、アルノはクレンを振り返った。
「クレン、カーラを連れて行って」
「私です!」
突然、厨房に響いた細く高い声に、アルノが振り返る。
その場にいた全員が、咄嗟に声も出せず、目を見開いて固まった。
それはビリーの後ろにいるカーラだった。
小花の散った黄色いドレス姿で、栗毛色の髪を左右で編んでリボンで縛っている。
どう見ても子供で、手足も小枝のように細い。
「わ、私が、裸になってビリーさんに口づけをしました」
浮気を疑われても、相手の名を明かさず頑張っていたビリーは、さらに青ざめ下を向いた。
唖然とする大人達の前を横切り、クレンがカーラに駆け寄った。
「襲われたのか?」
「ち、違う!襲っていない!」
ビリーが真っ青になって立ち上がる。
ハンナがわっと泣き出した。
「こんな子供に手を出すなんて!」
さすがに、アルノも意地悪く見学している場合ではなくなった。
自分が守ると決めて、ここに置いている子供が、そんな目にあってはさすがに他人事ではいられない。
カーラがさらに叫んだ。
「わ、私が……お客様のおもてなしの方法を知りたくて……誘惑の練習をしていました!」
クレンのように路上で体を売っていたわけではないが、カーラもまた、奴隷商に売られ、そうした仕事をさせられていたのだ。
それを思い出し、アルノは頭を抱えた。
「そんなこと、もうしなくて良いように学校に行かせているのに……」
「だって、この宿が失敗したら、クレンが教会に行ってしまうというから、どうしても成功させたくて、体でおもてなしをしたらきっと喜んでもらえるし、私は痩せていて使えないと言われたことがあるから、だから、練習しようと思ったの。新婚でうまくいっている夫婦の夫を誘惑出来たら、私の腕が通用する証明になると思って。だって、ここの仕事が無くなったら、私達、ばらばらになっちゃう」
恐ろしく身勝手な動機だったが、それはカーラが育ってきた環境を考えれば当然な気もした。
毎日男を変え、閨の技術を学ぶような場所に、クレンが行けば自分も行くのだと躊躇いもなく話していたカーラの姿を、共に城で働いてきた全員が覚えていた。
カーラを責める声は上がらず、ただアルノだけが、がっくりと肩を落とした。
「つまり、私が頼りないから、自分でなんとかしなければと思ったわけね」
カーラを不安にさせたというなら自分の責任だとアルノは考えた。
いつもお金の心配をして、借金が減らないとクシールに文句を言っていたから、それを身近で聞いていたクレンとカーラは不安になったのだ。
「クレンもカーラも大丈夫よ。私の夫は聖騎士なのよ。私がいくら失敗しても、夫が助けてくれることになっているから」
ほっとしたハンナや大人達の姿を見て、アルノは釘を刺した。
「クレンとカーラだけね。他の皆は、給料が払えなくなったら町に帰ってもらうから!」
クレンとカーラはうれしそうに抱き合ったが、大人達はがっくりと肩を落とした。
「まぁ、そうか……」
不満の声は小さくあがったが、アルノにすがろうとする声はなかった。
城の管理と運営は、ほぼアルノから委託されているのだ。
彼らが努力をしていることも、アルノは知っていたが、今はもうそれ以上のことは考えたくなかった。
「これで解決ね」
アルノはさっさと踵を返し、扉に向かう。
後ろで見ていたニルドが追いかけてきた。
「アルノ、戻るのか?」
咄嗟に返事が出来ず、アルノは足を止めた。
ゼインがロタ村の家にもう到着しているかもしれない。
となれば、クシールとゼインの二人を相手に、浮気問題について話し合わなければならなくなる。
話し合いになればいいが、今戻れば、また二人の浮気現場を目撃する可能性だってある。
クシールに勝てる点は、結婚しているという事実だけだが、彼らの常識の中で、その結婚がどれだけ重要なものなのか見えてこない以上、その一点だけを武器に戦えるのかもわからない。
性欲でのみ繋がっているような夫婦では、ゼインに拒絶されたらアルノの立場なんて、風に吹かれて飛ばされる枯葉も同様だ。
真っすぐな目をして答えを待つニルドを見上げ、アルノはまた一つ、重いため息をついた。
一枚完成させたところで、クレンが城の厨房で作られた食事を持ってやってきた。
食卓テーブルに料理を並べ終えると、クレンはお盆を端に寄せて椅子に座った。
アルノが向かいに座り、食事を始めるのを待って、クレンは城に避難していた人たちの帰宅が始まったとアルノに報告した。
「後片付けが結構大変です。教会も備品を取り払って、怪我人を寝かせるための簡易ベッドを並べたので、その撤去や解体が続いています。あ、お茶を入れます」
椅子を立ち、クレンは台所に行ってお湯を沸かし始めた。
「クレン、皆と話すときと同じようにしてちょうだい」
「で、でも、まだ世話人見習いです」
城で働いている皆の中に居る時は、もうすっかり子供に戻って見えるクレンだが、アルノの前では小さな世話人としての顔を崩さない。
まだ聖職者の道を諦めていないのかと、アルノは頭の中にある「考えなければならない事リスト」にクレンの名前を書き加える。
「カーラは普通に話してくれるのに」
「そ、それは、カーラは世話人になりませんから」
クレンは手際よくお茶を入れ、お盆に乗せて運んでくると、アルノの前に丁寧にカップを置いた。
それを手に取り、アルノは感慨深く目の前のクレンを見つめた。
クレンと同じ歳ぐらいの時を思い出す。
その当時、アルノは師匠に竹鞭で殴られ、怒鳴られ続けていた。
師匠のカトリーナの担当僧侶は滅多に来なかったため、師匠の世話はアルノの仕事だった。
毎日食事を作らないといけなかったし、洗濯も掃除もあった。
もちろん、仕事もしていたため、学校には行かせてもらえなかった。
多少反抗的なところはあったと思うが、楽しいことの全てを我慢させられていたのに、なぜ竹鞭で叩かれなければならなかったのか、いまだにわからない。
当然のことながら、クレンとカーラを竹鞭で叩こうと思ったことは一度もないし、二人ともその当時のアルノよりずっと優秀だ。引き取った時にはもう大人と言っても過言ではないほど精神的に成長していたし、教えることもほとんどなかった。
「カーラは?」
「厨房の仕事をしています。料理が好きなようです」
「勉強は?学校は行けているの?」
クレンは少し驚いたような顔をして、目を数度ぱちくりさせた。
「町の学校はまだ再開していません。それに、自習用の教材は全部お城の本棚にぎっしりあるので、もう教わりに行くこともそれほどないのかもしれません。その……」
「上の学校に行くのでしょう?クシールが紹介出来ると言っていたと思うけど」
クレンは困ったように目を伏せた。
ずっと教会に入り、今すぐにお金を稼ぎたいと主張してきたが、今は少し心境が変わったようだと、アルノはその様子を見て考えた。
「カーラと一緒に、進学してちょうだいね。カーラはクレンがいないと困るでしょう?」
ほっとしたようにクレンが頷いて、顔をあげた。
その真っすぐな眼差しに、アルノのはまた昔を思い出した。
アルノは師匠に顔をあげろと言われても、ふてくされた顔をして、怒った顔しか見せなかった。
当然だ。竹鞭で叩いてくる大人に、懐く子供なんているわけがない。
「そろそろ仕事に戻るから」
仕事の邪魔をしてはいけないと立ち上がり、クレンはお盆を腕に抱え、頭を下げた。
「また来ます。あの、ちゃんと食べてくださいね」
「無理に来なくていいのよ。放っておいてくれても、私は死んだりしないから。それより、カーラのためにも一緒に勉強してあげて」
カーラを理由にしなければ、クレンは子供らしい生活をしようとはしない。
困ったような顔をするかと思ったが、クレンは意外にも顔を赤くして、うれしさを堪えきれないような顔をした。
それは、アルノの知らないクレンの顔だった。
クレンは無事にあちら側の世界に行けたのだとアルノはなんとなく思い、引き出しから新しい紙を取り出した。
契約紙の完成する日がわかっていたかのように、二日後、クシールがノーラ山に戻ってきた。
多忙であるにも関わらず、相変わらず雪まみれになってそりまで引っ張ってきたクシールは、部屋に入るなり、引き出しから完成した契約紙を一枚取り出した。
「悪くないですね」
灯りにかざし、クシールは満足そうにうなずき、他の契約紙の質も確かめた。
「これなら一国の王太子に見せても恥ずかしくありません。
ご存じですか?アーダン国は精霊の国とも言われています。ユアンジール王太子にお願いして、アーダン国の精霊書を見せてもらおうと考えています。
実は、精霊言語の起源は誰も知らないのです。姿も見えない精霊の言葉をなぜ知ることが出来たのか、精霊書の文様や言葉は誰が伝えたのか。誰も知らないのです。
アーダン国に何かそうした話が残されていれば、興味深いと思いませんか?」
上機嫌で完成した契約紙を専用のファイルに丁寧にしまいこむクシールを見て、アルノは乾いてきた唇を舌で舐めた。
契約紙を作っている間に、アルノはようやく夫の浮気問題に対峙する覚悟を決め、まずはクシールに話を聞こうと考えていた。
「クシール」
「何ですか?」
振り返ったクシールは、険しい表情でアルノの横を通り過ぎ、窓辺に近づいた。
窓にはびっしり雪が張り付いている。
「吹雪になったようですね」
窓にはいつの間にか霜が張り付き、その上から雪が積もっていた。
外の鎧戸を閉めてこなければ、窓が割れてしまうかもしれない。
「アルノさんは、三日ほど休んでから森に入りますか?」
「三日?まぁ、そうね……。それぐらいは休もうかな」
話し出す意欲を削がれ、アルノは机に突っ伏して、横を向いた。
台所に置かれたランプをぼんやりと見つめ、憂鬱な溜息を吐き出す。
そんなアルノを見下ろし、クシールは眉をしかめた。
クシールが家に来た時、テーブルには手つかずの食事が半分凍り付いた状態で残っていた。
部屋のあまりの寒さに、クシールは慌てて暖炉に薪を入れ、質の悪い契約紙で火をつけたのだ。
それでもアルノはクシールが来たことに気が付かなかった。
優秀な契約師ではあるが、心配なことも多い。
普通、契約師は冬になれば家にこもり、作り貯めた宣誓液を使って契約紙を作り続けるものだが、アルノは季節に関係なく森に出て行く。
真冬にマカの実を取りに行かせるような厳しい師匠に育てられたため、それが普通だと思っているからだ。
アルノのやり方でうまくいっているのであれば、訂正する必要はないだろうと何も言わずにきたが、さすがにこんな日は、大切な契約師を外に出すのは躊躇われる。
通常は一日か二日の休息を終えて、また森に出ていくが、三日は様子を見た方が良いだろうとクシールは考え、壁にかかっていた外套を取りあげた。
「どこに行くの?」
まだ話を始めたばかりなのにと、アルノが咎めるように問いかける。
「外窓を閉めてきます。今日はここに泊まります。ゼインが来ると思うので、軒先に灯りを下げてきます」
「え?ゼインが来るの?」
嫌そうな顔をしたアルノに、クシールが怪訝な眼差しを向ける。
「夫の帰宅がうれしくないのですか?」
浮気さえしていなければね、と言いたくなったが、アルノは何も言わずに済ませた。
と、その時、裏口の扉が鳴った。
「どうぞ」
簡単にアルノが答える。
扉が開き、外の冷たい風が一気に吹き込んできた。
さっき、クシールが付けたばかりの暖炉の炎が瞬く間に小さくなり、扉が閉まると、また大きくなった。
雪まみれの頭から、水を滴らせたクレンが入ってきて、廊下の途中で足を止めた。
「クレン?どうしたの?」
急いで椅子から立ち上がり、アルノは暖炉の傍に干してあったタオルを取ってクレンの傍に駆け付ける。
「大変なんです。ビリーが浮気して、ハンナが離婚するって言い出して!」
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「城の内装が始まっていて、僕たちもお城から来た教育係の人から、もてなしの訓練を受けています。もう時間もなくて、こんな時に従業員同士の仲違いなんて困ります」
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そう思って、事態がこれ以上悪化する前に、呼びに来たのだ。
賢く判断したクレンに、アルノは感心したが、少し考えこんだ。
「そんな時に浮気ね……」
時期を選ばず、厄介ごとはやってくる。
人の問題にまで首を突っ込んでいる余力はない。
問題を丸投げしてしまおうとクシールに視線を向けかけ、動きを止める。
「ビリーが浮気して離縁ね。参考になりそうね」
二人に聞こえないように呟くと、アルノはすくっと立ち上がり、外套を取り上げ、袖を通し始めた。
「問題解決に行きましょう!」
今や、浮気や離縁は他人事ではない。
普通の解決策とやらを、見てやろうとアルノは意地悪く考えた。
「アルノさん、夜ですから、ニルドを連れて行ってください。今夜はお城に泊まってくださいね」
クシールがランタンを持って来て、裏口から出て行こうとするアルノに押し付けた。
すぐに近くにいたらしいニルドが、吹雪をものともせず走ってきた。
「アルノ?出かけるのか?」
強姦魔とは思えない清々しい笑顔に、アルノは嘆息し、クレンの腕を引き寄せた。
「お城に行くのよ。ハンナが離縁をするらしいの」
「離縁?!まだ新婚じゃなかったか?」
能天気なニルドの口調に、調子を狂わされそうになりながら、アルノは吹雪の中、ニルドに先導してもらい、クレンと腕を組んで歩きだした。
その背中を、クシールがやはり、気づかわし気に見送っていた。
――
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完全に怒っているハンナと、気まずい表情のビリーが食堂のテーブルを挟み、向かい合わない席に座っている。
カーラがおろおろとビリーの後ろで二人の様子を見ている。
その周りに他の従業員たちが困ったように立っていた。
彼らの視線が一斉に裏口に向けられる。
クレンと一緒に厨房に入ってきたアルノの姿に、さすがにビリーは青い顔をしたが、ハンナはさらに不機嫌な表情になって、視線を夫に戻した。
アルノはまずカーラに声をかけた。
「カーラ、子供がこんなところに居てはだめよ。クレンと席を外しなさい。ここは私が話を聞くから」
椅子に座って大きく足を組んでいたハンナが、じろりとアルノを睨む。
「なんだか、うれしそうじゃない?アルノ」
「まさか、こんな時に揉め事は止めて欲しくて来たのよ。それで、ビリーが浮気したの?」
「していない!」
むきになって叫んだビリーの言葉に、アルノが驚いた。
「え?してないの?」
ハンナが立ち上がる。
「したのよ!客室で裸の女と抱き合っていたの!」
やはりそういう生々しい話になるのかと、アルノはクレンを振り返った。
「クレン、カーラを連れて行って」
「私です!」
突然、厨房に響いた細く高い声に、アルノが振り返る。
その場にいた全員が、咄嗟に声も出せず、目を見開いて固まった。
それはビリーの後ろにいるカーラだった。
小花の散った黄色いドレス姿で、栗毛色の髪を左右で編んでリボンで縛っている。
どう見ても子供で、手足も小枝のように細い。
「わ、私が、裸になってビリーさんに口づけをしました」
浮気を疑われても、相手の名を明かさず頑張っていたビリーは、さらに青ざめ下を向いた。
唖然とする大人達の前を横切り、クレンがカーラに駆け寄った。
「襲われたのか?」
「ち、違う!襲っていない!」
ビリーが真っ青になって立ち上がる。
ハンナがわっと泣き出した。
「こんな子供に手を出すなんて!」
さすがに、アルノも意地悪く見学している場合ではなくなった。
自分が守ると決めて、ここに置いている子供が、そんな目にあってはさすがに他人事ではいられない。
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「わ、私が……お客様のおもてなしの方法を知りたくて……誘惑の練習をしていました!」
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それを思い出し、アルノは頭を抱えた。
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恐ろしく身勝手な動機だったが、それはカーラが育ってきた環境を考えれば当然な気もした。
毎日男を変え、閨の技術を学ぶような場所に、クレンが行けば自分も行くのだと躊躇いもなく話していたカーラの姿を、共に城で働いてきた全員が覚えていた。
カーラを責める声は上がらず、ただアルノだけが、がっくりと肩を落とした。
「つまり、私が頼りないから、自分でなんとかしなければと思ったわけね」
カーラを不安にさせたというなら自分の責任だとアルノは考えた。
いつもお金の心配をして、借金が減らないとクシールに文句を言っていたから、それを身近で聞いていたクレンとカーラは不安になったのだ。
「クレンもカーラも大丈夫よ。私の夫は聖騎士なのよ。私がいくら失敗しても、夫が助けてくれることになっているから」
ほっとしたハンナや大人達の姿を見て、アルノは釘を刺した。
「クレンとカーラだけね。他の皆は、給料が払えなくなったら町に帰ってもらうから!」
クレンとカーラはうれしそうに抱き合ったが、大人達はがっくりと肩を落とした。
「まぁ、そうか……」
不満の声は小さくあがったが、アルノにすがろうとする声はなかった。
城の管理と運営は、ほぼアルノから委託されているのだ。
彼らが努力をしていることも、アルノは知っていたが、今はもうそれ以上のことは考えたくなかった。
「これで解決ね」
アルノはさっさと踵を返し、扉に向かう。
後ろで見ていたニルドが追いかけてきた。
「アルノ、戻るのか?」
咄嗟に返事が出来ず、アルノは足を止めた。
ゼインがロタ村の家にもう到着しているかもしれない。
となれば、クシールとゼインの二人を相手に、浮気問題について話し合わなければならなくなる。
話し合いになればいいが、今戻れば、また二人の浮気現場を目撃する可能性だってある。
クシールに勝てる点は、結婚しているという事実だけだが、彼らの常識の中で、その結婚がどれだけ重要なものなのか見えてこない以上、その一点だけを武器に戦えるのかもわからない。
性欲でのみ繋がっているような夫婦では、ゼインに拒絶されたらアルノの立場なんて、風に吹かれて飛ばされる枯葉も同様だ。
真っすぐな目をして答えを待つニルドを見上げ、アルノはまた一つ、重いため息をついた。
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