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57.異国の王太子
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ユアンジール王太子を迎える前日、春めいてきた風を受けながら、アルノは森にぽっかり出来た空き地に転がる倒木に座っていた。
少し離れたところにある切り株は、今にも砕けそうなほど朽ちてきている。
空にのぼっていく白い息を目で追いながら、アルノは森の静けさを堪能していた。
昔は森も嫌いだった。
ニルドを追いかけて村を出ようと考えたこともある。
だけど、そうしなかった。
その選択が間違っていたとしても、もう引き返せない。
気づけば、雪混じりの土の上を歩く足音が近づいていた。
なんとなく、それが重いブーツに包まれた男性の足音だと感じ、アルノは憂鬱な気持ちになった。
刺客だとしたら、殺されてしまうかもしれないが、嫌な感じはしない。
ただひどく面倒な気持ちだった。
緩やかな斜面をゼインが登って来た。
正面にアルノを見つけると、ゼインは数歩距離を開けて足を止めた。
アルノはゼインと目を合わせ、さてどうしようかと考えた。
偽物の笑顔ではないが、ゼインが本心を隠していることは明らかだった。
不機嫌な表情で睨むようにこちらを見ている。
体だけの関係だったら、まだ良かったのにと、アルノは本気で思った。
それ以上の関係になってしまったから、面倒な話をしなければならなくなったし、答えが必要な問いに向き合わなければならなくなった。
一人の世界に引きこもっていた方が楽だとわかってしまった今、自分にゼインが必要なのかどうかもわからない。
「アルノ、明日の交流会のことを話しておきたい」
用件が仕事の話であることに、アルノは少しほっとした。
「何?」
「一応、俺達は結婚しているが、王太子殿下の目的は君だ。俺は任務もあるため席を外すこともある」
「クシールが私の契約紙で防壁を作ったせいでしょう?お城が出来た時みたいに、その契約紙を作った私を見てみたいというだけじゃないの?」
「王太子殿下の本当の用向きはわからないが……。夫婦で並ばなければならない瞬間があるかもしれない」
反射的に、アルノは下を向いた。
それを嫌がっているゼインの顔はさすがに見たくはない。
「わかった……」
もし傍にきたら口づけぐらいはしただろうかと考え、アルノはそれすらも面倒に思っている自分に気が付いた。
距離が縮んだと思っていたゼインとでさえ、うまくいかなくなってしまった。
どうしてこんな風になってしまうのか、どうすれば修復出来るのか、あるいは自分が二人の関係を修復したいと思っているのかすらわからない。
「君は……」
躊躇うようにゼインが言葉を止める。
嫌な予感がして、アルノは逃げたくなった。
だけど、なぜか足が動かない。
「アルノ、君はまだ……憐れまれ、同情されたいのか?可哀そうだったと、子供の時は大変だったと、そう言われて慰められたいと?子供のままでいたいのか?」
胸が締め付けられるように痛んだが、アルノは奥歯を食いしばった。
ゼインにはアルノが意地を張って自分の殻にこもっているように見えるのだ。
自分の悩みや苦しさは、そんなに子供じみたことだと笑われてしまうようなものなのだろうか。
そうじゃないと否定したところで、図星だと思われるだけだとわかっている。
ゼインやクシール、クレンにカーラと比べたら、アルノは確かにまだ幸福なところにいると言えるのかもしれない。
恨みを捨てることが出来ないのだから、子供の自分を手放せないことも事実なのだろう。
だからといって、この生き方を変えることも出来ないのだ。
その恨みだけで生きているわけでもないが、ならば、どうすれば良いのかもわからない。
ただわけのわからない苛立ちばかりが募る。
アルノは顔をあげ、ゼインを正面から睨んだ。
「不思議なのよね……。あなたもクシールも、私に仕事をさせたいだけでしょう?それなのに、今の何が不満なの?私は、前よりたくさん契約紙を作っているのに」
ゼインは夫だけれど、きっとクシールの方がアルノより好きだ。
ニルドはもう子供のころみたいに、アルノを好きじゃない。
愛されたことがないから、愛し方もわからないし、愛が何かもわからないから、本当に愛がほしいのかどうかも、もはやわからない。
竹鞭を振り上げた師匠の姿が心に蘇った。
今思えば、一番憎んでいる師匠が教えてくれた道が一番正しかったのだとさえ思う。
森に居れば、誰とも関わることなく生きていける。
一人であることを惨めに感じる必要もない。
力尽きれば、どこかで朽ちて土になるだけだ。
森で生まれた命は皆、そうやって死んでいく。
珍しいことではないし、憐れまれることでもない。
「君に……惹かれて求婚したことは、嘘じゃない」
その声は、まるで枯葉を揺らす風のように虚しくアルノの耳元を過ぎ去った。
妄想の世界だけで生きていられたら良かったのにと、アルノは思った。
少年時代のニルドと過ごした妄想の世界は、本当に幸せだった。
虚しさはあったが、脳内で作られたニルドはアルノを裏切るようなことはしなかったし、もちろん浮気だってしなかった。いつだってアルノだけを見ていてくれた。
「私が、子供だから欲しいものが手に入らないの?」
「君が……いくら望んでも、子供は無理だ。俺は欲しくない」
お前の子供は欲しくないと言われたようで、アルノは込み上げる涙を堪え、顔を見られまいと下を向いた。
ショックだったが、それがゼインの答えだと理解した。
イライザ姫にあなたの子供はいらないと言われて泣いていたニルドのことを思い出す。
ニルドには愛があったが、イライザ姫にはニルドへの愛がなかった。
ゼインもアルノのことが本当に好きなら、子供が嫌いでも話し合うぐらいは出来るはずだ。
話し合いにもならないということは、ゼインの結婚の動機は愛ではなかったということだ。
それでも、多少の愛は育たなかったのだろうか。
アルノが子供が欲しいと思い始めたような、そんなかすかな想いもなかったのか。
顔をあげると、ゼインはもう背中を向け、斜面を下り始めていた。
「話し合うこともしないのね……」
遠ざかるゼインの足音を聞きながら、アルノはぽつりと呟いた。
ついにアーダン国のユアンジール王太子を迎える日がやってきた。
歓迎会の用意は滞りなく終わり、王城の門の前には、ふもとからの知らせを受け、王や大臣、招かれた貴族らが配置についていた。
道の両脇には王都から来た近衛騎士団がずらりと並び、さらに名だたる騎士団が城を守っている。
普段精霊の森を守っているニルドが所属するラドン騎士団は道の警備のため、この場にはいなかった。
もともと城で働いていたロタ村の住人達もまた、緊張の面持ちで門の後ろの方に控えていた。
彼らはこの日のためにそれなりの教育を受け、準備に携わってきており、客人が宿泊する間、馬の世話や馬車の手入れ、使用人用の食事の準備、城内と庭の点検や清掃などの雑務を行うことになっていた。
さらに、選ばれた者は、貴族らの連れて来た召使たちの下働きとして、働くことになっている。
その中にはクレンとカーラもおり、どこか誇らしげな表情で大人達に混ざって立っていた。
最前列の一番端っこにいたアルノは、後ろを振り返り、大人達に囲まれて真っすぐに立っている二人を見届け、また前を向いた。
隣の騎士が首を少し傾け、後ろを見て、また前を向いたアルノの様子をちらりと窺った。
大袈裟なほど飾り付けられたアルノは、少し動くだけでドレスがゆっさゆっさ揺れ、耳や髪に飾られた装飾品までしゃらんと音を立てる。
この日は、朝から貴族専用の衣装係がアルノのもとに詰めかけた。
さらに偉そうな男が現れ、面会の段取りを教え込んで、エスコート役の騎士を一人置いて行ったのだ。
ゼインは聖騎士としての役目があり、面会時には間に合わないとのことだった。
おかげで、見知らぬ騎士が隣に立っていたが、アルノはその騎士の名前すら知らなかった。
精霊の加護のおかげか、天気は良好で、見上げるほどの木々の合間から澄んだ青空が見えている。
ほどなくして、立派な馬にまたがった騎士達が整備された山道を登って来た。
アルノは一目で、彼らがトレイア国でいうところの聖騎士に近い存在だと気が付いた。
雰囲気だけでいえば、敬虔な僧侶であるクシールに近い。
やがて豪華な馬車が入ってきて、門の前でぴたりと止まった。
異国の騎士が恭しく頭を垂れ、馬車の扉を開けた。
純白のマントがふわりと風になびき、銀糸の刺繍が入った黒光りするブーツに包まれた足が出てきた。
居並ぶ人たちの間から感嘆の声があがった。
「まぁ……人なのでしょうか?」
「な、なんて……まばゆい……」
ひそひそとした声の中、馬車から出てきたユアンジール王太子は王に向かって優雅にお辞儀をした。
「ユアンジール王太子殿下、ようこそお越しくださいました」
王や大臣達に歓迎されながらも、ユアンジールは誰かを探すように視線を巡らせ、つかつかと歩き出した。
その足はアルノの前でぴたりと止まった。
ユアンジール王太子は、驚くほど自然に片膝を付き、アルノの片手を両手で丁寧に持ち上げた。
それから指輪をはめる指に唇を押し当てた。
霞がかって見えるほどの美貌で見上げられ、アルノは呆然としながら、これは夢ではないかと確かめるように、自分の手の甲をつねった。
くすりとユアンジールが笑った。
「ちゃんと痛い」
はっとして視線を下げると、アルノはユアンジールの左手をつねっていた。
「す、すみません!私は痛くないから……夢じゃないかと……」
動転し、とんでもないことをしでかしたアルノは、もう耳まで赤くなってうつむいた。
それから小さな声で問いかける。
「あなた……王子様だったの?」
ユアンジールが片目をつぶって見せた。
それは、いつか雪狼と一緒に洞にいた、謎めいた美貌の男だった。
「あの時の代金を支払いに来た」
すぐに馬車から立派な箱が運ばれてきた。
それは当然のことながら金貨五十枚どころではなかった。
一国の王太子の命の値段としては、安いのか、あるいは十分なのかさえもわからないが、アルノのために運ばれてきたその財宝は、余裕でノーラ山を買い取れるのではないかと思うほどの量だった。
「支払いが遅れたことを許してもらえるだろうか?」
「も、もちろん……」
ごく自然にユアンジールはアルノの手を取り歩き出す。
エスコート役の騎士はついてくる素振りも見せず、アルノはそのまま歓迎会の主役席の隣に座ることになった。
ユアンジールは席を外し、忙しそうに様々な人と話をしていたが、アルノはやることもなく、ダンスが始まる前にその場を逃げ出した。
ところが、そこにユアンジールがやってきた。
「アルノ、君に話がある」
庭に連れ出され、アルノは噴水に面したベンチに腰を下ろした。
しばらくして、ユアンジールが静かに口を開いた。
「君が、精霊に愛されていることは明白だ。君に結婚を申し込みたい」
「え?!」
驚きながら、周囲の人たちに対し怒りが湧く。
「夫がいるの。誰も教えなかった?冗談はやめて」
「専属世話人という制度らしいね。我が国でも精霊師の育成や保護に関しては頭の痛くなる問題が多い。この国は専属世話人という制度を使い、契約師を仕事に繋ぎとめていると聞いた。我が国も参考にしたいと先ほどクシール殿と話したばかりだ」
「いいえ、でも、ちゃんと……」
ゼインとは契約ではなく、ちゃんと結婚したはずだ。そこに契約もお金も発生していない。
「君の……夫役だとゼイン殿が話してくれた」
「ゼインが?」
少しショックを受けて、アルノは黙った。
「精霊の加護は国を越えたぐらいでは消えたりしない。精霊たちに国境はないからね。アルノ、契約の地を離れることになるが、君ならば、アーダン国の精霊たちにも歓迎されるだろう。君の全身には、汚れ無き精霊の力が宿っている」
不安そうなアルノに、ユアンジールは、自分のことやアーダン国について簡単に説明した。
アーダン国には、契約師という仕事は存在せず、ただ精霊師と呼ばれる人たちがいる。
マカの実や契約紙からではなく、精霊の木と呼ばれるものがあり、その葉の雫から精霊の力を体内に取り込むのだ。
精霊王の末裔とされる王族は、全員が精霊師になることが求められる。
しかし精霊に仕える生き方を快く思わない勢力が存在している。
王位を簒奪したのはまさにそうしたやからであり、毒を服用させられたユアンジールは、敵対勢力に捕らえられ、長い間幽閉されていた。
しかしガルバン国と結託し、敵対勢力の大半がトレイア国に侵入した隙に、なんとか脱出し、同じ精霊の力を信じるトレイア国に逃れた。
精霊に導かれるように雪狼に遭遇し、アルノに助けられることになったのだ。
祖国に引き返したユアンジールは、精霊を支持する人々の助けを得て、王国の主導権を取り戻した。
「君に恩を返したくて求婚しているわけではない。君だと私が感じたからだ」
ユアンジールは、改めて跪き、アルノの手の指に口づけをした。
アルノは考えさせてほしいと答えたが、これは両者だけの問題ではなかった。
ガルバン国は退けたが、姿を見ることの出来ない精霊を信仰する国は少しずつ減ってきている。
欲深い人間が増え、精霊師や契約師になれる人材が育たないためだ。
アーダン国が他国とあまり交流しない理由もそこにあった。
新しい文化に魅せられ物欲が増したり、発展した町を知り、贅沢な生活に慣れてしまえば、何もない自然の中での暮らしに耐えられなくなる。
精霊師が減びれば国の力も弱まる。
彼らを欲から遠ざけ、力を保護するために、他国との交流には慎重な姿勢を続けてきた。
しかし今回、ガルバン国を相手にトレイア国とアーダン国は共に戦うことになった。
これをきっかけに、ユアンジールはトレイア国に共に精霊師、契約師を保護していくための協力体制を作れないかと提案にきたのだ。
契約師の減少に悩んでいたトレイア国にとって、精霊の雫は喉から手が出るほど欲しいものであり、その申し出に歓喜した。
アーダン国の精霊の雫を使えば、精霊との契約の証であるマカの実を見つけやすくなる。契約師になるためのハードルを一つ下げることになるのだ。
半永久的にその貴重な資源を得るためにも、両国の結びつきは強固にしておきたい。
国としては、アルノにユアンジールの申し出を受けてもらいたいところだった。
少し離れたところにある切り株は、今にも砕けそうなほど朽ちてきている。
空にのぼっていく白い息を目で追いながら、アルノは森の静けさを堪能していた。
昔は森も嫌いだった。
ニルドを追いかけて村を出ようと考えたこともある。
だけど、そうしなかった。
その選択が間違っていたとしても、もう引き返せない。
気づけば、雪混じりの土の上を歩く足音が近づいていた。
なんとなく、それが重いブーツに包まれた男性の足音だと感じ、アルノは憂鬱な気持ちになった。
刺客だとしたら、殺されてしまうかもしれないが、嫌な感じはしない。
ただひどく面倒な気持ちだった。
緩やかな斜面をゼインが登って来た。
正面にアルノを見つけると、ゼインは数歩距離を開けて足を止めた。
アルノはゼインと目を合わせ、さてどうしようかと考えた。
偽物の笑顔ではないが、ゼインが本心を隠していることは明らかだった。
不機嫌な表情で睨むようにこちらを見ている。
体だけの関係だったら、まだ良かったのにと、アルノは本気で思った。
それ以上の関係になってしまったから、面倒な話をしなければならなくなったし、答えが必要な問いに向き合わなければならなくなった。
一人の世界に引きこもっていた方が楽だとわかってしまった今、自分にゼインが必要なのかどうかもわからない。
「アルノ、明日の交流会のことを話しておきたい」
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「何?」
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「王太子殿下の本当の用向きはわからないが……。夫婦で並ばなければならない瞬間があるかもしれない」
反射的に、アルノは下を向いた。
それを嫌がっているゼインの顔はさすがに見たくはない。
「わかった……」
もし傍にきたら口づけぐらいはしただろうかと考え、アルノはそれすらも面倒に思っている自分に気が付いた。
距離が縮んだと思っていたゼインとでさえ、うまくいかなくなってしまった。
どうしてこんな風になってしまうのか、どうすれば修復出来るのか、あるいは自分が二人の関係を修復したいと思っているのかすらわからない。
「君は……」
躊躇うようにゼインが言葉を止める。
嫌な予感がして、アルノは逃げたくなった。
だけど、なぜか足が動かない。
「アルノ、君はまだ……憐れまれ、同情されたいのか?可哀そうだったと、子供の時は大変だったと、そう言われて慰められたいと?子供のままでいたいのか?」
胸が締め付けられるように痛んだが、アルノは奥歯を食いしばった。
ゼインにはアルノが意地を張って自分の殻にこもっているように見えるのだ。
自分の悩みや苦しさは、そんなに子供じみたことだと笑われてしまうようなものなのだろうか。
そうじゃないと否定したところで、図星だと思われるだけだとわかっている。
ゼインやクシール、クレンにカーラと比べたら、アルノは確かにまだ幸福なところにいると言えるのかもしれない。
恨みを捨てることが出来ないのだから、子供の自分を手放せないことも事実なのだろう。
だからといって、この生き方を変えることも出来ないのだ。
その恨みだけで生きているわけでもないが、ならば、どうすれば良いのかもわからない。
ただわけのわからない苛立ちばかりが募る。
アルノは顔をあげ、ゼインを正面から睨んだ。
「不思議なのよね……。あなたもクシールも、私に仕事をさせたいだけでしょう?それなのに、今の何が不満なの?私は、前よりたくさん契約紙を作っているのに」
ゼインは夫だけれど、きっとクシールの方がアルノより好きだ。
ニルドはもう子供のころみたいに、アルノを好きじゃない。
愛されたことがないから、愛し方もわからないし、愛が何かもわからないから、本当に愛がほしいのかどうかも、もはやわからない。
竹鞭を振り上げた師匠の姿が心に蘇った。
今思えば、一番憎んでいる師匠が教えてくれた道が一番正しかったのだとさえ思う。
森に居れば、誰とも関わることなく生きていける。
一人であることを惨めに感じる必要もない。
力尽きれば、どこかで朽ちて土になるだけだ。
森で生まれた命は皆、そうやって死んでいく。
珍しいことではないし、憐れまれることでもない。
「君に……惹かれて求婚したことは、嘘じゃない」
その声は、まるで枯葉を揺らす風のように虚しくアルノの耳元を過ぎ去った。
妄想の世界だけで生きていられたら良かったのにと、アルノは思った。
少年時代のニルドと過ごした妄想の世界は、本当に幸せだった。
虚しさはあったが、脳内で作られたニルドはアルノを裏切るようなことはしなかったし、もちろん浮気だってしなかった。いつだってアルノだけを見ていてくれた。
「私が、子供だから欲しいものが手に入らないの?」
「君が……いくら望んでも、子供は無理だ。俺は欲しくない」
お前の子供は欲しくないと言われたようで、アルノは込み上げる涙を堪え、顔を見られまいと下を向いた。
ショックだったが、それがゼインの答えだと理解した。
イライザ姫にあなたの子供はいらないと言われて泣いていたニルドのことを思い出す。
ニルドには愛があったが、イライザ姫にはニルドへの愛がなかった。
ゼインもアルノのことが本当に好きなら、子供が嫌いでも話し合うぐらいは出来るはずだ。
話し合いにもならないということは、ゼインの結婚の動機は愛ではなかったということだ。
それでも、多少の愛は育たなかったのだろうか。
アルノが子供が欲しいと思い始めたような、そんなかすかな想いもなかったのか。
顔をあげると、ゼインはもう背中を向け、斜面を下り始めていた。
「話し合うこともしないのね……」
遠ざかるゼインの足音を聞きながら、アルノはぽつりと呟いた。
ついにアーダン国のユアンジール王太子を迎える日がやってきた。
歓迎会の用意は滞りなく終わり、王城の門の前には、ふもとからの知らせを受け、王や大臣、招かれた貴族らが配置についていた。
道の両脇には王都から来た近衛騎士団がずらりと並び、さらに名だたる騎士団が城を守っている。
普段精霊の森を守っているニルドが所属するラドン騎士団は道の警備のため、この場にはいなかった。
もともと城で働いていたロタ村の住人達もまた、緊張の面持ちで門の後ろの方に控えていた。
彼らはこの日のためにそれなりの教育を受け、準備に携わってきており、客人が宿泊する間、馬の世話や馬車の手入れ、使用人用の食事の準備、城内と庭の点検や清掃などの雑務を行うことになっていた。
さらに、選ばれた者は、貴族らの連れて来た召使たちの下働きとして、働くことになっている。
その中にはクレンとカーラもおり、どこか誇らしげな表情で大人達に混ざって立っていた。
最前列の一番端っこにいたアルノは、後ろを振り返り、大人達に囲まれて真っすぐに立っている二人を見届け、また前を向いた。
隣の騎士が首を少し傾け、後ろを見て、また前を向いたアルノの様子をちらりと窺った。
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この日は、朝から貴族専用の衣装係がアルノのもとに詰めかけた。
さらに偉そうな男が現れ、面会の段取りを教え込んで、エスコート役の騎士を一人置いて行ったのだ。
ゼインは聖騎士としての役目があり、面会時には間に合わないとのことだった。
おかげで、見知らぬ騎士が隣に立っていたが、アルノはその騎士の名前すら知らなかった。
精霊の加護のおかげか、天気は良好で、見上げるほどの木々の合間から澄んだ青空が見えている。
ほどなくして、立派な馬にまたがった騎士達が整備された山道を登って来た。
アルノは一目で、彼らがトレイア国でいうところの聖騎士に近い存在だと気が付いた。
雰囲気だけでいえば、敬虔な僧侶であるクシールに近い。
やがて豪華な馬車が入ってきて、門の前でぴたりと止まった。
異国の騎士が恭しく頭を垂れ、馬車の扉を開けた。
純白のマントがふわりと風になびき、銀糸の刺繍が入った黒光りするブーツに包まれた足が出てきた。
居並ぶ人たちの間から感嘆の声があがった。
「まぁ……人なのでしょうか?」
「な、なんて……まばゆい……」
ひそひそとした声の中、馬車から出てきたユアンジール王太子は王に向かって優雅にお辞儀をした。
「ユアンジール王太子殿下、ようこそお越しくださいました」
王や大臣達に歓迎されながらも、ユアンジールは誰かを探すように視線を巡らせ、つかつかと歩き出した。
その足はアルノの前でぴたりと止まった。
ユアンジール王太子は、驚くほど自然に片膝を付き、アルノの片手を両手で丁寧に持ち上げた。
それから指輪をはめる指に唇を押し当てた。
霞がかって見えるほどの美貌で見上げられ、アルノは呆然としながら、これは夢ではないかと確かめるように、自分の手の甲をつねった。
くすりとユアンジールが笑った。
「ちゃんと痛い」
はっとして視線を下げると、アルノはユアンジールの左手をつねっていた。
「す、すみません!私は痛くないから……夢じゃないかと……」
動転し、とんでもないことをしでかしたアルノは、もう耳まで赤くなってうつむいた。
それから小さな声で問いかける。
「あなた……王子様だったの?」
ユアンジールが片目をつぶって見せた。
それは、いつか雪狼と一緒に洞にいた、謎めいた美貌の男だった。
「あの時の代金を支払いに来た」
すぐに馬車から立派な箱が運ばれてきた。
それは当然のことながら金貨五十枚どころではなかった。
一国の王太子の命の値段としては、安いのか、あるいは十分なのかさえもわからないが、アルノのために運ばれてきたその財宝は、余裕でノーラ山を買い取れるのではないかと思うほどの量だった。
「支払いが遅れたことを許してもらえるだろうか?」
「も、もちろん……」
ごく自然にユアンジールはアルノの手を取り歩き出す。
エスコート役の騎士はついてくる素振りも見せず、アルノはそのまま歓迎会の主役席の隣に座ることになった。
ユアンジールは席を外し、忙しそうに様々な人と話をしていたが、アルノはやることもなく、ダンスが始まる前にその場を逃げ出した。
ところが、そこにユアンジールがやってきた。
「アルノ、君に話がある」
庭に連れ出され、アルノは噴水に面したベンチに腰を下ろした。
しばらくして、ユアンジールが静かに口を開いた。
「君が、精霊に愛されていることは明白だ。君に結婚を申し込みたい」
「え?!」
驚きながら、周囲の人たちに対し怒りが湧く。
「夫がいるの。誰も教えなかった?冗談はやめて」
「専属世話人という制度らしいね。我が国でも精霊師の育成や保護に関しては頭の痛くなる問題が多い。この国は専属世話人という制度を使い、契約師を仕事に繋ぎとめていると聞いた。我が国も参考にしたいと先ほどクシール殿と話したばかりだ」
「いいえ、でも、ちゃんと……」
ゼインとは契約ではなく、ちゃんと結婚したはずだ。そこに契約もお金も発生していない。
「君の……夫役だとゼイン殿が話してくれた」
「ゼインが?」
少しショックを受けて、アルノは黙った。
「精霊の加護は国を越えたぐらいでは消えたりしない。精霊たちに国境はないからね。アルノ、契約の地を離れることになるが、君ならば、アーダン国の精霊たちにも歓迎されるだろう。君の全身には、汚れ無き精霊の力が宿っている」
不安そうなアルノに、ユアンジールは、自分のことやアーダン国について簡単に説明した。
アーダン国には、契約師という仕事は存在せず、ただ精霊師と呼ばれる人たちがいる。
マカの実や契約紙からではなく、精霊の木と呼ばれるものがあり、その葉の雫から精霊の力を体内に取り込むのだ。
精霊王の末裔とされる王族は、全員が精霊師になることが求められる。
しかし精霊に仕える生き方を快く思わない勢力が存在している。
王位を簒奪したのはまさにそうしたやからであり、毒を服用させられたユアンジールは、敵対勢力に捕らえられ、長い間幽閉されていた。
しかしガルバン国と結託し、敵対勢力の大半がトレイア国に侵入した隙に、なんとか脱出し、同じ精霊の力を信じるトレイア国に逃れた。
精霊に導かれるように雪狼に遭遇し、アルノに助けられることになったのだ。
祖国に引き返したユアンジールは、精霊を支持する人々の助けを得て、王国の主導権を取り戻した。
「君に恩を返したくて求婚しているわけではない。君だと私が感じたからだ」
ユアンジールは、改めて跪き、アルノの手の指に口づけをした。
アルノは考えさせてほしいと答えたが、これは両者だけの問題ではなかった。
ガルバン国は退けたが、姿を見ることの出来ない精霊を信仰する国は少しずつ減ってきている。
欲深い人間が増え、精霊師や契約師になれる人材が育たないためだ。
アーダン国が他国とあまり交流しない理由もそこにあった。
新しい文化に魅せられ物欲が増したり、発展した町を知り、贅沢な生活に慣れてしまえば、何もない自然の中での暮らしに耐えられなくなる。
精霊師が減びれば国の力も弱まる。
彼らを欲から遠ざけ、力を保護するために、他国との交流には慎重な姿勢を続けてきた。
しかし今回、ガルバン国を相手にトレイア国とアーダン国は共に戦うことになった。
これをきっかけに、ユアンジールはトレイア国に共に精霊師、契約師を保護していくための協力体制を作れないかと提案にきたのだ。
契約師の減少に悩んでいたトレイア国にとって、精霊の雫は喉から手が出るほど欲しいものであり、その申し出に歓喜した。
アーダン国の精霊の雫を使えば、精霊との契約の証であるマカの実を見つけやすくなる。契約師になるためのハードルを一つ下げることになるのだ。
半永久的にその貴重な資源を得るためにも、両国の結びつきは強固にしておきたい。
国としては、アルノにユアンジールの申し出を受けてもらいたいところだった。
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